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雑誌名 東京学芸大学紀要. 芸術・スポーツ科学系

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著者 神戸, 周

雑誌名 東京学芸大学紀要. 芸術・スポーツ科学系

巻 57

ページ 147‑156

発行年 2005‑10

その他の言語のタイ トル

Lundu : Uma Danca Nacional do Brasil

URL http://hdl.handle.net/2309/817

(2)

1.はじめに

表題の中の「国民的なダンス」とは,

the national

dance

という英語の訳語である。この言葉はイギリ

ス人Thomas Lindleyが著した『ブラジル旅行記』の一 節に見出される。1805年にこの書物がロンドンで出版 されるのに先立ち,今日のバイーア州サルヴァドール を訪れたLindleyは,その地の中流階級とおぼしき家 庭で催された宴会に出席する機会を得た。そしてそこ で彼が「心をそそる黒人のダンス〔the enticing negro

dance〕

」と呼んだ娯楽を目撃し,そのダンスに「国民

的 な 」 と い う 形 容 詞 を 付 与 し た の で あ る ( こ の

Lindleyの記述には興味深い内容が含まれているので

後ほど詳細に引用したいと思う)。Lindleyは自らが目 撃したダンスに特定の名称を与えてはいないのだが,

John Charles Chasteen

1)など複数の研究者が指摘する と こ ろ に よ れ ば , こ の ダ ン ス は

L u n d u

で あ っ た 。

Lindleyの記述を引用した後,

『国民的なリズム,アフ

リカ的なルーツ:ラテンアメリカにおけるポピュラー ダンスの底流史』と題された著書の中でChasteenは次 のように続ける,「ブラジルの独立にはまだ間のある 1 8 0 5 年 の 時 点 で , 何 ら の 説 明 も な く 何 気 な し に

Lindleyは『国民的なダンス』という言葉を用いた。

民衆の踊るダンスには弁別できるだけの国民性が現れ ているという考えがすでに広く行き渡っていたのであ る。」2)このChasteenの指摘は非常に興味深い。いま だポルトガルの植民地としての地位に甘んじていた19

世紀初頭のブラジルで踊られた民衆的なダンスに,こ のイギリスからの訪問者は,ヨーロッパでもアフリカ でもない紛れのないブラジルの「国民的な」特徴を見 て取ったのである(Lindleyをしてこのようなものの 見方を可能にしたのは,ナポレオン戦争を契機として ヨーロッパに台頭しつつあった国家主義思想の影響で あろうか)。いずれにせよ,この「国民的な」という 形容詞には,ヨーロッパ出身の上流階級からアフリカ を出自とする最下層の奴隷たちまで,当時のブラジル を構成していた社会階層を縦貫する何らかの共通性が 明確に意識されている。

そこで本稿においては,Lindleyによって「国民的 なダンス」と形容され,Chasteenら研究者によってそ の名称を特定されたLunduと呼ばれるダンスについて,

それを実際に目撃した者たち(そのほとんどはダンス にはそれほど見識のないヨーロッパからの訪問者であ った)が残した記録,およびそれら一次資料に基づい て行われた数々の先行研究結果を踏まえ,そのダンス の成立過程をたどってみたいと考える。なおここでは,

アフリカからもたらされたBatuque,およびイベリア 半島に由来するFandangoがLunduを成立させた重要な 二つの要素であるとの視点に立ち,まずこの二つのダ ンスの検討から始めることとする。

2.アフリカからもたらされたBatuque

Claus Schreiner は,その著書『ブラジル音楽:ブラ

ジル人民とポピュラー音楽の歴史』の中で,「ブラジ 東京学芸大学紀要芸術・スポーツ科学系 57 pp.147〜156,2005

ブラジルで「国民的なダンス」と呼ばれたLunduについての一考察

―BatuqueおよびFandangoとの関連性に見るその成立過程―

神 戸  周 健康・スポーツ科学

(2005年6月30日受理)

*  東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町4-1-1)

(3)

ルにおいてLunduはBatuqueと呼ばれるダンスの構成要 素としてまず姿を現わした」3)と述べている。また

『モヂーニャとルンドゥー:ブラジル・ポピュラー音 楽のふたつの源流』という小冊子の著者であるBruno

Kieferは,

「Lunduが黒人たちのBatuqueに直接由来する という見解は,今日大方の同意を得ている」4)と記 している。これら二つの引用からも,このBatuqueと 呼ばれるダンスとの関連性においてLunduを検討する ことの有効性が十分確認されるように思われる。

Luís da Câmara Cascudoの手になる『ブラジル民俗研

究事典』の中の

Batuque

という項目の冒頭には,

「アフリカにおける黒人たちのあらゆるダンスに対し てポルトガル人が与えた総称」5)と記されている。

またSchreinerは「ブラジルにおいてBatuqueという言 葉は,おびただしい数のアフリカのダンスの総称とし て用いられている」6)と述べ,さらに続けて,José

Ramos Tinhorãoの「〔ヨーロッパからブラジルへの〕

入植者たちは黒人たちが引き起こすお祭り騒ぎすべて をBatuqueと呼んだ」7)という文章を引用している。

さらにMyriam Evelyse Marianiは,『ブラジルのダンス におけるアフリカの影響』と題された論文の中で,

「ブラジルにおいてBatuqueという言葉は,打楽器のリ ズムとそれに合わせて踊られるダンスの総称として用 いられている」8)と述べている。これらの先行研究 から必然的に導き出される結論は,Batuqueという名 称はある特定のダンスを指して用いられたわけではな く,アフリカ人やその子孫たちが行ったお祭り騒ぎ,

そしてそこで踊られたダンスを包括的に意味する言葉 であったということである。アフリカ人のダンスや音 楽に精通していたわけでもなく,また奴隷の身分にあ った彼らの習慣を見下していたであろうヨーロッパ人 たちの目に,総じて細かな区別がつかなかったとして も別段驚くにはあたらない。

Peter Fryer

9)は,『抵抗のリズム:ブラジルにおけ る ア フ リ カ の 音 楽 的 遺 産 』 と い う 著 書 の 中 で ,

Batuqueという言葉の使われ方がブラジルにおいてか

なり錯綜しているという問題点を指摘しているが,こ の言葉を記録に残した者たちがほとんどヨーロッパ人 であったことを考慮すれば,そのような用語上の混乱 もまた当然の成り行きではなかったろうか。しかしな がらここで注目すべきは,FryerがBatuqueを「コンゴ=

アンゴラ文化圏から〔ブラジルへと〕もたらされた世 俗的なダンス」10)の名称でもあったと指摘している ことである。Mariani 11)も,Batuqueの起源は恐らくア ンゴラやコンゴで始まったダンスであり,それがブラ ジルへともたらされたのだと述べている。Fryerによ

れば,「17世紀全般を通じて〔中略〕ブラジルへ流入 したアンゴラ出身者の数は,他のいかなる地域の出身 者たちをも上回った」12)のであり,そうであるとす れば,この時期に大挙してブラジルに上陸したアンゴ ラ出身者とその子孫たちが,後にBatuqueと呼ばれる ことになるダンスの直接的な推進者であったと考える ことも可能であろう。

Batuqueと呼ばれるダンスについても,当時の目撃

者たちはいくつもの記述を残している。しかしながら 本稿の目的に照らせばあえて引用するだけの意味はな いと思われるので,ここではBatuqueの実演形態に関 す る 研 究 者 た ち の ま と め を 引 用 す る に と ど め る 。

Schreinerはその概略について以下のように説明してい

る。

男女の踊り手たちに歌い手〔リードシンガー〕と楽 器の演奏者たちが加わり,踊り手たちは円陣あるい は隊列を形成する。集団的な身体動作やステップに 加え,Batuqueの大きな特徴が踊り手がたった一人 で行うソロダンスである。ソロダンスの踊り手は,

その他の踊り手たちの合唱やリズミカルな手拍子に よって後押しされる。歌い手は即興的に歌詞を作り,

合唱が折り返し句を繰り返す。ソロダンスの踊り手 が円陣から退場する方法はさまざまである。もっと も一般的な方法は,ソロダンスの踊り手が円陣を形 成している者のうち一人の腹部あるいは腰部に触れ るというものである。その行為を経てソロダンスの 踊り手は入れ替わる。加速するリズムに合わせた曲 芸的な跳躍動作や捻転動作は,ソロダンスの踊り手 が交代する前触れである。13)

このSchreinerの記述から,Batuqueの様式上の特徴は 次のようにまとめられよう。

・踊り手たちが円陣(もしくは隊列)を形成するこ と。

・歌い手および楽器の演奏者たちが参加すること。

・歌い手と踊り手たちの間で応答形式の歌唱が行われ ること。併せて踊り手たちは手拍子を打つこと。

・円陣の内部ではソロダンスが踊られること。

・ソロダンスの踊り手の交代は,体幹部の直接的な接 触を介して行われること。

この内容は,

Mariani

14)が挙げた以下に記すような

Batuqueの特徴ともおおむね符号するものである。

(4)

・手拍子を伴うこと。

・打楽器の使用と非常にリズミカルな音楽。

・即興演技。

・男女が構成する大きな円陣。

・ソロの踊り手が円陣の中で非常に敏捷かつリズミカ ルに動作を演じること。

umbigadaが通例演じられること。

これらふたつの引用から,Batuqueのかなり明瞭な実 演形態をわれわれは思い浮かべることができるのだ が,17世紀以来コンゴ=アンゴラ地域から奴隷の流入 を通じてブラジルへともたらされたBatuqueのそもそ もの形態を,果たしてそれがどの程度忠実に再現して いるものであるのか,残念ながらわれわれにそれを確 認するための方策はない。筆者のこの懸念は,「18世 紀の後半になり,ブラジルにおいて白人や混血人が黒 人たちのBatuqueに足しげく通い始めたときには,ヨ ーロッパ人入植者の影響によってアフリカにおける文 化変容はすでに進行しつつあった」15)とするTinhorão の指摘とも通底するものであるかもしれない(ポルト ガル,アフリカそしてブラジルをめぐる文化的交流の 緊密性については後にまた言及する)。Mariani 16) さらに,Batuqueが踊られる際の隊形として互いに向 かい合う二列が形成されることがあること,そしてそ の場合には男女は別々の列に別れて男女間でumbigada が頻繁に行われることに言及している。Marianiがこ のように言及した根拠は定かでないが,男女が別々の 列に別れ男女間でumbigadaが行われるという形態が,

マルティニーク島で黒人奴隷たちが踊ったCalendaと 呼ばれるダンス(次項で引用する)に類似していると いうことだけをここでは指摘しておく。

Lunduとの関連性を考慮し,ここでわれわれが押さ

えておかねばならないBatuqueのもっとも重要な特徴 は,Schreinerが指摘したソロダンスの踊り手の交代に 際して行われる体幹部の直接的な接触であり,それは すなわちMarianiが

umbigada

という言葉で言い表 した動作である。Cascudoによれば,umbigadaとは

「ソロダンスの踊り手が円陣を形成している踊り手た ちの中から後任者を選び,その踊り手を招き入れるた めに自分のへそ〔ポルトガル語でumbigoという〕を相 手のへそにぶつけること」17)であり,「バントゥー族

〔アフリカの中部や南部に居住しバントゥー語を話す〕

の奴隷たちがブラジルへともたらした」18)ものであ った。Cascudoはさらに,コンゴ=アンゴラ地域におけ るソロダンスの後任者の招き入れに関して次のように 述べている,すなわち,「コンゴ〔中略〕では〔ソロ

ダンスの後任者の〕招き入れはお辞儀,足踏みあるい は素早いあいさつを通じて行われる。アンゴラでは

〔招き入れに関して〕二つの形態がある。一つは招き 入れられる踊り手の正面で足踏みをすることであり,

もう一つはumbigadaである。19)またGerhard Kubikは,

『ブラジル黒人の音楽,遊戯そしてダンスにおけるア ンゴラ的特性:アフリカ文化の海外への拡張に関する 一研究』と題された著作の中で,〔現代のブラジルを 代表するポピュラー音楽およびポピュラーダンスの名 称である〕Sambaという言葉の起源は恐らくアンゴラ にある」20)と述べ,さらにその言葉を,アンゴラの諸 言語に見出され「外部の観察者たちにはしばしば『わ いせつである』と見なされた骨盤運動を意味する」21)

semba

という言葉と結びつけた。Kubikによれば,

このsembaという言葉は「umbigadaという有名な呼称 のもとブラジルで存続しているルアンダ東部奥地のダ ンスの伝統」22)をも意味しているという。Cascudoと

Kubikの指摘から,ソロダンスの踊り手の交代を示唆

するumbigadaの一つの確実な源泉がコンゴ=アンゴラ 地域にあり,腹部と腹部をぶつけ合うというその所作 が , 外 国 人 の 目 に は 「 国 民 的 な ダ ン ス 」 と 映 っ た

Lunduの中に取り込まれたものと考えて間違いはなか

ろう。

3.イベリア半島に由来するFandango

本稿ではこれまでBatuqueと呼ばれるアフリカ起源 のダンスについて検討し,そこで用いられた形態や所 作がLunduと呼ばれる「国民的な」ダンスに転用され た 可 能 性 の 一 端 を 確 認 し た 。 そ れ で は

L u n d uを , Batuqueなどアフリカ起源のダンスが文化変容の結果

としてブラジル化したものであると単純に解釈してし まえるものだろうか。Lunduが社会階層の境界を縦貫 して上流階級にまで受け入れられたという現実を考慮 すれば,われわれは逆の方向性,すなわちアフリカ起 源のダンスの影響を受けた結果としてのヨーロッパ起 源のダンスのブラジル化という流れを想定せざるを得 な い 。 本 稿 の 冒 頭 で 言 及 し た イ ギ リ ス 人

Thomas Lindleyは,自らがサルヴァドールの中流家庭で目撃

した「心をそそる黒人のダンス」が「アフリカのダン スとスペインやポルトガルのFandangoの混合物であ る」23)のを賢明にも見て取った。またLunduとの関連 性という観点からFandangoに言及したSchreinerは,

「Fandangoは急速にブラジルへと流入し,スペインに よるポルトガルの統治時代(1581−1640)には,ブラ ジルに暮らすヨーロッパ人たちの間でもっとも人気の 神戸:ブラジルで「国民的なダンス」と呼ばれたLunduについての一考察

(5)

あるダンスとなっていた」24)と指摘する。以上のこ とから,すでに17世紀以来ブラジルに暮らすヨーロッ パ 人 た ち に は な じ み の 深 か っ た イ ベ リ ア 半 島 の

FandangoがLunduの形成に何らかの役割を果たしたと

仮定しても,何ら差し支えはなかろう。

Fryerは,Francisco Cormonなる人物が編纂した1769

年出版の辞書に掲載されているFandangoについての

「スペイン人がインディオから学んだ非常に活気に満 ちたダンスの一種」25)という記述を引用して,その ダンスが新世界からヨーロッパへともたらされたもの であろうと推測している。さらにFryer 26)は,すでに 16世紀にはFandangoの「腕を頭上に掲げてくねらせ ること」「指をパチンと鳴らすこと」「足を踏み鳴らす こと」といった〔今日のフラメンコにも相通ずるよう な〕動作に,「リズミカルな前進と後退」「けん制動作」

「回転」そして

umbigada

を伴って行われる「踊り 手同士の正面向きの接近動作」と「腰部の運動」が付 け 加 え ら れ て い た と 述 べ , そ の よ う な 変 化 に

Fandangoのアフリカ化を指摘する。Fryerが列挙した

アフリカ化されたFandangoの特徴は,17世紀末のマ ルティニーク島でフランス人神父Jean-Baptiste Labatが 目撃し記録に残した黒人奴隷たちのダンスCalendaを 思い起こさせる。以下にその一節を引用しよう。

踊り手たちは二列になっている。男たちの列と女た ちの列に別れているわけだ。踊り疲れた者や見てい るだけの者はまわりに輪になって,ダンスを見守る。

一番の歌上手が,適当な主題をもとにした歌を即興 で作る。そのリフレーンを観客たちが手拍子を取り ながら唱和する。踊り手たちは,ちょうどカスタネ ットを鳴らしながら踊る場合と同じような格好に腕 を保ち,飛んだり回転したりする。お互いに2,3 ピエ(65-100センチ)まで接近したかと思うと,リ ズムを取りながら離れる。太鼓の音を合図に腿を叩 きながら,またお互いに接近するのだ。お互いとい うのは男の列と女の列の意。彼らの仕草を見ている と,下腹を打ち合わせているように見える。実際は 腿を打ち合わせているのだが。しばらくすると,く るりと身を翻し離れていくが,また同じ動きが非常 に扇情的な動作とともに繰り返されるのだ。太鼓の 合図とともに,何度も反復されることが多い。時々,

腕を絡ませ,腿を打ち合わせながら,接吻を交わし さえする。以上がこのダンスの概略であるが,いか に廉恥とは対極に位置するものであるかがわかるだ ろう。27)

Labatの「ちょうどカスタネットを鳴らしながら踊

る場合と同じような格好に腕を保ち」という表現には,

明らかにイベリア半島のFandangoの影響が見て取れ る。また「下腹を打ち合わせているように見える」と いう記述には,アンゴラでsembaと呼ばれ,ブラジル ではumbigadaという名称で知られる腹部の打ち合わせ を彷彿とさせるものがある。このLabatの記述だけを もってしても,17世紀末のマルティニーク島で黒人奴 隷たちが踊ったCalendaには,すでにアフリカとヨー ロッパの要素が混在していたと考える根拠となろう。

前項において指摘したところだが,男女が別々の列に 別れて向かい合いumbigadaを繰り返すというダンス形 態は,MarianiがBatuqueの形態として挙げたものでも ある。何千キロも離れたブラジルとカリブ海域の黒人 たちのダンスに明らかに類似する形態や所作が見出さ れるとすれば,その共通の源泉がアフリカのどこかに あったとする仮説もあながち的外れではあるまい。

Labatは,上記引用個所の直後に,

〔このCalendaとい

うダンスは〕アメリカ生まれのスペイン人の好みに大 いにかなったらしく,彼らの間には広く流布しており,

彼らの一番の娯楽の位置を占める」28)と記している。

Labatが指摘した通りに,アメリカ生まれのスペイン

人たちの間でもCalendaが広く受け入れられたとすれ ば,彼らを通じてFryerの指摘する「Fandangoのアフ リ カ 化 」 が 促 進 さ れ た こ と も 十 分 に 納 得 が い く 。

Fryer

29)に よ れ ば , ポ ル ト ガ ル で は 18世 紀 後 半 の

Fandangoに特徴的ないくつかの動作(特に両腕を高

く上げてくねらせることと足の踏み鳴らし)がその当 時流行していたLunduの中に組み入れられたという。

一方,音楽的な見地からSchreiner 30)は,ポルトガル のFandangoのリズムがその地に暮らす黒人奴隷たち の影響を受けてすでに18世紀の中葉には部分的に改変 されていたとの見解を示し,さらにTinhorãoが指摘し たとする「スペインでの習慣的なゆっくりとした8分 の6拍子から,アフリカの影響を受けたポルトガルで の4分の3拍子を経て,生き生きとシンコペーションを 利かせたブラジルでの4分の2拍子への〔Fandangoの〕

リズムの変遷」31)にも言及している。これまでの検 討結果を簡潔に要約すれば,スペインによるポルトガ ルの統治時代以来,Fandangoはブラジルのダンス文 化に組み込まれており,ブラジルにおいてアフリカか らもたらされたダンスと複合的に組み合わせられた結 果,18世紀の後半以降Lunduと呼ばれるダンスにその 特徴のいくつかが明白に見出されるに至ったというこ とであろう。

(6)

4.ブラジルの国民的なダンスLundu

Kiefer

32)によれば,ブラジルにおけるLunduについ

てのもっとも古い言及は,確認されうる限り,D. José

da Cunha Grã Athayde e Melloなる人物がポルトガル政

府に宛てた1780年6月10日付けの手紙である。その手 紙の主は次のように記している,「部族ごとに分けら れ,それぞれ固有の楽器を手にした黒人たちは,まる でアルレッキーノ〔イタリア即興喜劇の道化役者〕の ように身を翻しながらダンスを踊る。一方,その他の 者たちはさまざまな身体動作を用いてダンスを踊るの だが,その動作たるや甚だしくみだらであるとは言わ ないまでも,カスティーリャのFandangoやポルトガ ルのFofa,あるいはかの国〔ブラジルのこと〕の白人 や混血人たちが踊るLudum〔

Lunduの表記は,ここに

記 さ れ た

L u d u m

, ま た

L u m d u m,L a n d u

,L o n d u

Londum,Landumなどさまざまであった〕のようであ

る。33)ここで注目すべきは,この手紙の著者が,黒 人たちの踊るアフリカのダンスと,アフリカおよびイ ベリア半島のダンスの結合から生まれたダンスを明確 に区別していることである。

次いでLunduに関する有益な情報が,ポルトガルの 詩人Tomás Antônio Gonzagaによってもたらされた。

彼は1787年に匿名で『チリ人の手紙(Cartas Chilenas) と題された風刺詩を発行しているのだが,その中の

「11番目の手紙」には,彼がミナス・ジェライスの知 事公邸で夜間に目撃したLunduとおぼしきダンスが描 写されているのである。以下にその一節を引用する。

スカートを持ち上げて少女のふりをし つま先を使って身を翻す,

大好きな大男に,両腕を広げて みだらなembigadaを食らわす。

すると大男は,一方の手を額に,

もう一方をわき腹に置いて,臀部を揺する,

あるいはギターの拍子に合わせて,

何度も指をパチンと鳴らす,

彼女に言う,「おれが返す,おれが返す」 そして突然,破廉恥な売春婦にやり返す。

………34)

Tinhorãoはこの一節を以下のように極めて明快に解説

してみせる。

Tomás Antônio Gonzagaはその記述に関してとても

正確であるので,そのダンスの白人的な要素と黒人

的な要素が明白になる。音楽のリズムに合わせた文 字通りの滑走動作によって喚起されるつま先を用い ての浮き上がるような印象は,黒人たちの貢献であ ることが明らかである。その動作は,足を床から引 き上げることなく,足の裏をほんのわずか動かすこ とで成し遂げられるのだが,それによって小刻みに 震える踊り手の身体は,まるでスケート靴でもはい ているかのように滑らかに前進するのである。その 動作は,同じく黒人娘のumbigadaによって締めくく られた。面白いことに,アフリカ系ブラジル人の円 形舞踊の伝統の中で厳格に実行されてきたその娘の

umbigadaに対し,その大男(Gonzagaの記述によれ

ば,公邸に仕える白人召使いであった)はさらにも う一回のumbigadaで応えるのである。けれども彼の

umbigadaには,明らかにFandangoの動作が付け加え

られていた。一方の手を額に,そしてもう一方を臀 部に置くのは,スペインのダンスの古典的な構えで ある〔中略〕そして手の指をパチンと鳴らすのは,

カスタネットの模倣以外の何ものでもない。35)

これまでの引用から確認できるのは,少なくとも1780 年代までには,アフリカからもたらされBatuqueと総 称されたダンスと,Fandangoに代表されるイベリア 半島からもたらされたダンスとの混合が進み,結果と して,両方の特徴を兼ね備えた新たなダンスがブラジ ルの地で生まれていたということである。Tinhorãoは その経緯を次のように要約する,「都市や町に住む下 層階級の白人や混血人が『黒人のBatuque』に参加す る度合いが高まるにつれて,アフリカ人およびその子 孫たちの打楽器やダンスそして応答歌謡と,ヨーロッ パ文化のブラジルにおける継承者たちが持ち込んだダ ンス様式やメロディ形式そして新たな楽器(主として ギター)との結合によって誘発された改作物が姿を現 わし始めた。36)黒人たちのダンスをまず最初に取り 入れたのが下層階級の白人や混血人であったとする指 摘は,Fryer 37)によってもなされている。なお,前々 項で引用したTinhorãoの指摘を再確認すれば,ブラジ ルにおいて白人や混血人が黒人たちのBatuqueに足し げく通い始めたのは18世紀後半以降のことであった。

さらにTinhorãoは,「Batuqueというアフリカ人および その子孫たちのリズムやダンスをもとにしてブラジル の白人や混血人たちが生み出した初期の三つのダンス が,年代順に,Fofa,LunduそしてFadoであった」38)

と述べているのだが,残念ながら本稿ではFofaおよび

Fadoについて検討するだけの余裕がない。それにし

ても興味深いのは,「アフリカ人やその子孫たちのリ 神戸:ブラジルで「国民的なダンス」と呼ばれたLunduについての一考察

(7)

ズムやダンスをもとにしてブラジルの白人や混血人た ちが生み出した」というTinhorãoの言い回しである。

そこからは,アフリカ的な要素を借用してLunduを成 立させた主体は白人や混血人たちであったというニュ アンスが伝わってくる。そしてそのことが,Lindley をしてLundu〔彼はその名称を用いてはいないが〕を

「国民的なダンス」と言わしめた伏線になっていると 考えられる。

本稿の冒頭で断片的に言及したThomas Lindleyの記 述は,19世紀に入って間もないサルヴァドールの中流 階級とおぼしき家庭で催された宴会の様子を描写した ものである。そこには,Lindleyの自文化中心主義的 な偏見を割り引いて余りある内容が含まれていると思 われるので,以下に引用する。

彼らは尋常ならざる量のワインを飲む。かなり気分 が高揚してきたころ,ギターあるいはバイオリンの 演奏,そして歌が始まる。けれども歌は間もなく心 をそそる黒人のダンスに取って代わられる。私は当 の娯楽をもっともよく言い表しているとしてこの言 葉を用いているが,そのダンスはアフリカのダンス とスペインやポルトガルのFandangoの混合物であ る。そのダンスは,男女の踊り手がそれぞれ一人ず つ出て,一定の拍子を保った無味乾燥な楽器の演奏 に合わせて踊るというものだ。彼らが脚部を動かす ことはほとんどないが,体幹部では可能な限りのみ だらな動作を行っており,ダンスの最中に慎みのな い奇妙なやり方で互いの身体を接触させる。即興的 なコーラスと手拍子で楽器の演奏を手助けする見物 人たちは,筆舌に尽くしがたいほど熱心にその光景 を楽しむのである。インドの踊り子たちの底抜け騒 ぎでさえ,この気晴らしの極悪ぶりには匹敵し得な かったであろう。メヌエットやカントリーダンスを 知らないわけでも,上流社会でそれらが踊られてい ないわけでもない。だがこれこそが国民的なダンス なのであり,あらゆる階級の人々は,細かい配慮や 慎み深さ,そして(さらに付け加えれば)品位さえ もなげうって,そのダンスがかき立てる興味と歓喜 に身をゆだねることができれば幸せなのである。39)

Lindleyは賢明にも彼が目撃したダンスを「アフリカ

のダンスとスペインやポルトガルのFandangoの混合 物」であると指摘したのだが,「体幹部では可能な限 りのみだらな動作を行っており,ダンスの最中に慎み のない奇妙なやり方で互いの身体を接触させる」とい う記述には,コンゴ=アンゴラ地域のダンスに特徴的

な腰部の運動とumbigadaを読み解くことが可能であろ う。Fryer 40)は,数多くのブラジルのダンスが外国人 訪問者の目には性的な意味合いを帯びて映った理由と して,それらのダンスに含まれた「横方向への腰部の 動作」と「悪名高いumbigada」の存在を挙げている。

19世紀初頭のサルヴァドールでは,このLunduとおぼ しきダンスが,すでに下層階級の白人や混血人だけで なく「あらゆる階級の人々」に受け入れられて「国民 的なダンス」としての地位を確立していた様子が,

Lindleyの文章から鮮やかに浮かび上がるのである。

Tomás Antônio Gonzagaの『チリ人の手紙』の一節に

も見られたように,中流階級の人々がLunduを踊る際 には,伴奏楽器としてギターが用いられたようである。

以下に引用するTinhorãoの記述は,19世紀初頭のブラ ジルにおける社会階層とそこで踊られたダンス様式の 関連性を理解する上で非常に興味深い。

19世紀の初頭には,アフリカ人によってもたらされ たダンスの国民化と白人化を通じて,大規模な社会 の多様化の影響が文化的次元にも波及し始めた。こ うして,社会経済構造に占める構成員の身分に従っ て,Batuqueはすでに三つの異なる種類に分裂して いた。いまだ奴隷の境遇に縛られていたアフリカ人 とその子孫たちは,奴隷居住区の広場でアフリカの 歌や打楽器の演奏に合わせてダンスを踊った。「自 由身分の黒人たち」(大部分がブラジル生まれであ り,白人との混血も多かった)は,「自分たちの住 処のひとつの前に」円陣を形作り,歌を強調するた めのギターを打楽器に付け加えた。そして最後に,

中流階級の白人たちは,歌の部分を発展させるため に打楽器の演奏強度を抑えるとともに,umbigadaや

miudinho〔メヌエットをブラジル風に改作したダン

ス〕の「面白さ」を彼らがLunduと呼んだイベリア 半島のFandangoの振りと結び付けながら,自分た ちの邸宅の広間でアフリカ人や自由身分の黒人たち のまねをした。41)

これを読むと,黒人奴隷たちが踊ったとされるダンス にはその様式に明確なBatuqueの特徴が見て取れ,自 由身分の黒人たちが踊ったとされるダンスも,ギター など新たな要素が付け加えられてはいるものの,いま だ濃厚なBatuqueの痕跡を残している。であるとすれ ば,かつてブラジルでLunduと呼ばれた明らかに文化 複合的なダンス様式は,中流階級の白人たちが参加す ることで成立し得た様式であると考えることもできよ う。

(8)

Kiefer

42)は,1820年代に記された文献の調査から,

その当時Lunduがリオデジャネイロやサルヴァドール といった大都市の劇場で演じられていたと指摘する。

Lunduが演じられたのは entremez

と呼ばれるポル

トガルから持ち込まれた「幕間の笑劇」においてであ った。Tinhorãoはentremezについて次のように説明す る,「ポルトガルの手本に従ってブラジルに演劇が導 入されると,悲劇,戯曲,笑劇そして喜劇の上演の幕 間に,音楽やダンスを伴ったentremezと呼ばれる小場 面を挿入するのが習慣だった。43)19世紀初頭,ブラ ジルの中流階級の白人たちにLunduを普及させた重要 な要因の一つがこのentremezであった,とTinhorão 44)

は指摘する(彼が挙げているもう一つの要因は,混血 人たちのBatuqueに白人が直接参加することであっ た)。以下に引用するのは,1816年にサルヴァドール の劇場でLunduが演じられるのを目撃したフランス人

Louis-François de Tollenareの記述である。

概してentremezが取り上げるのはありふれた出来事 である〔中略〕私が目にした中でもっとも面白かっ たのは,物売りの娘に恋をした嫉妬深い居酒屋の老 主人の話である。老主人はいつも恋愛と金銭の間を 揺れ動いている。二人の関係に彼を縛り付けておこ うと,娘はあらゆる手練手管を用いる。もっとも効 果的なのは,彼の前でLunduを踊ることである。こ のダンスは,想像されうる限りもっとも破廉恥なも ので,肉欲的な性愛行為を露骨に描写した以外の何 物でもない。娘は極めて露骨な動作で相手を誘惑す る。老主人も同じようにして彼女に応える。美しい 娘はみだらな情欲に身を任せる。性的快楽の悪魔が 彼女に取り付く。彼女の腰のあたりの激しい震えが,

彼女を燃え立たせる熱情のすさまじさを物語ってい る。彼女の興奮は発作的なものとなり,愛のエクス タシーを迎えるかのように思われる。彼女は相手の 腕の中へと力なく崩れ落ちるのだが,羞恥心と歓喜 とで紅潮した顔をハンカチで覆い隠すふりをする。

彼女が崩れ落ちることが劇場中に沸き起こる拍手喝 采のための合図である。観客たちの目は彼女がかき 立てた欲望に輝いており,彼らの叫びは愛の戦いの 再開を要求する。売春宿においてのみ許されるであ ろうことが,文明化された大都市の住民の面前で三 度まで繰り返される。仕切り席には淑女たちがいる のだが,彼女たちが顔を赤らめることはない。誰も 彼女たちが澄ましているとして非難することはでき ない。45)

Lunduに並々ならぬ嫌悪感を抱いたTollenareの心情は

さて置き,彼の精妙な筆致からわれわれはそのダンス が演じられた1810年代のサルヴァドールの劇場の情景 をかなり明確に思い描くことができる。Lunduを見て 拍手喝采する観客の姿に,その当時劇場に足を運んだ であろう富裕な市民層にとってのそのダンスの人気ぶ りがうかがい知れよう。仕切り席に座る淑女たちさえ もが顔を赤らめることなく平然とLunduを眺めていた という記述は,上流階級にとってもすでにこのダンス が認知されていたということを示していよう。ここで 確認しておくべきは,その当時Lunduはすでに専門家 によって舞台で演じられるショーダンスでもあったと いう事実である。Tinhorãoは,entremezで演じられた

Lunduを通じて中流階級の白人たちにそのダンスが普

及したという見解を示したわけだが,それは裏を返せ ば,彼らの間でLunduに対する認知度が高まっていた からこそ,そのダンスがentremezの演目として興行的 に相応しいと判断されたということでもあったろう。

Chasteen

46)は,1810年代から30年代にかけてLunduの ようにブラジルで生まれたダンスの劇場での上演を助 長した社会政治的な要因として,ブラジルの独立期に 台頭した国家主義的精神を挙げている。ブラジルの政 治的な独立〔1822年〕と土着主義的な国民文化の開花 が時期的に重複するのは決して偶然ではあるまい(興 味深い問題ではあるが,本稿ではこれ以上立ち入らな いことにする)。いずれにせよ,ここに至ってわれわ れはようやく「国民的なダンス」としてのLunduの成 立をしっかりと確認することができるのである。

5.おわりに

これまで本稿においては,アフリカからもたらされ たBatuqueとイベリア半島に由来するFandangoがブラ ジルにおけるLunduの成立に中心的な役割を果たした というかなり単純で固定的な図式に従って論を進めて きた。結果として,この図式の有効性は確認できたと 思われるが,一方で,この図式自体が必然的にはらま ざるを得ない問題点が浮かび上がったように思われ る。本稿を閉じるにあたり,このことについて若干言 及しておきたい。

これは文化の流動性に関わる問題である。本稿では,

BatuqueとFandangoの単一文化性を暗黙の前提として

おり,それらのダンスがはらんでいる重層性(混血性)

の問題にはほとんど触れることなく,それについて若 干の懸念を表明するにとどまった。イベリア半島は8 世紀以来イスラム文化の影響下にあり,大航海時代以 神戸:ブラジルで「国民的なダンス」と呼ばれたLunduについての一考察

(9)

降はアフリカ大陸や中南米との交易を盛んに行った地 域である。それ故,イベリア半島のFandangoには出 自の異なる文化的要素が複合的に混じり合い,結果と してそのバリエーションがいくつも生まれた可能性は 高いと思われる。同様に,Lunduに特徴的な腰部の動 作とumbigadaをもたらしたとされるコンゴ=アンゴラ 地域も,Fryerが指摘したように,17世紀以降ブラジ ルとの交流を活発化させている。悪名高い「中間航路」

で知られる三角貿易という経済上のネットワークが大 西洋を舞台に構築されたとき,ポルトガルとコンゴ=

アンゴラ地域との関係も当然その緊密度を増したはず である。これらの経緯を踏まえると,Batuqueの中核 を担ったとされるコンゴ=アンゴラ地域のダンスにお いても,ブラジルやポルトガルからの影響を排除する ことは到底できないのである(第二項で言及したよう に,文化的相互作用の可能性についてはTinhorãoによ っても示唆されている)。船舶を用いた当時の貿易と は人的交流に他ならず,それはすなわち文化の交流で もあった。三角貿易の頂点を構成するポルトガル,ア フリカそしてブラジルの港町を舞台にして,互いに双 方向的な文化交流が活発に繰り広げられたことであろ う。Fryerは,「新しいダンスや新しい音楽の様式が,

その文化的三角形を回るようにしてせいぜい数週間の うちに伝えられた」47)と述べている。大西洋を舞台 とした経済活動が活発化するのに伴って,ダンスや音 楽を含めた文化の相互交流も加速され,その流動化は 思いのほか進んだと考えるべきであろう。そうだとす れば,三角貿易のシステムが構築されて後の環大西洋 地域の文化研究には,全体を流動的かつ重層的に把握 する柔軟な視点が少なからず必要であるように思われ る。

引用および参考文献

1)Chasteen, John Charles, National Rhythms, African

Roots : The Deep History of Latin American Popular Dance(University of New Mexico Press, 2004) , p.142.

2)Chasteen, ibid., p.142.

3)Schreiner, Claus(translated from German by Mark

Weinstein) , Música Brasileira : A History of Popular Music and the People of Brazil

(New York and London :

Marion Boyars Publishers, 1993) , p.23.

4)Kiefer, Bruno, A Modinha e o Lundu : Duas Raízes da

Música Popular Brasileira(Porto Alegre : Editora Movimento, 1977) , p.31.

5)Cascudo, Luís da Câmara, Dicionário do Folclore

Brasileiro, 9a.ed.(São Paulo : Global Editora, 2000) , p.59.

6)Schreiner, op.cit., p.40.

7)Tinhorão, José

Ramos, Música Popular de Índios, Negros e Mestiços(Petrópolis : Editora Vozes, 1975) , Schreiner, op.cit., p.40. より引用。

8)Mariani, Myriam Evelyse,

African Influences in Brazilian Dance , Asante, Kariamu Welsh(ed.) , African Dance : An Artistic, Historical and Philosophical Inquiry

(Trenton, NJ : African World Press, Inc., 1994)

, p.83.

9)Fryer, Peter, Rhythms of Resistance : African Musical

Heritage in Brazil(Hanover : Wesleyan University Press, 2000) , p.95.

10)Fryer, ibid., p.95.

11)Mariani, op.cit., Asante(ed.)

, op.cit., p.83. より引用。

12)Fryer, op.cit., p.12.

13)Schreiner, op.cit., p.40.

14)Mariani, op.cit., Asante(ed.)

, op.cit., p.87. より引用。

15)Tinhorão, José

Ramos, Os Sons dos Negros no Brasil : Cantos, Danças, Folguedos−Origens(São Paulo : Art Editora, 1988) , p.49.

16)Mariani, op.cit., p.85.

17)Cascudo, op.cit., p.709.

18)Cascudo,

ibid., p.710.

19)Cascudo, ibid., p.710.

20)Kubik, Gerhard, Angolan Traits in Black Music,

Games and Dances of Brazil : A Study of African Cultural Extensions Overseas(Lisboa : Centro de Estudos de Antropologia Cultural, 1979) , p.18.

21)Kubik, ibid., p.18.

22)Kubik, ibid., p.18.

23)Lindley, Thomas, Narrative of a Voyage to

Brazil

(London : J.Johnson, 1805)

, pp.276-77. Fryer, op.cit., p.122. より引用。

24)Schreiner, op.cit., p.48.

25)Cormon, Francisco, O Nuevo Diccionario de las

Lenguajes Española, Francesa y Latina(Antwerp : Los Hermanos de Tournes, 1769) , Fryer, op.cit., p.118. より

引用。

26)Fryer, op.cit., p.118.

27)ジャン=バティスト・ラバ(佐野泰雄訳),仏領ア ンティル諸島滞在記(東京:岩波書店,2003),

p.302.

28)ラバ,同上,pp.302-03.

29)Fryer, op.cit., p.119.

30)Schreiner, op.cit., p.48.

31)Schreiner, ibid., p.48.

(10)

32)Kiefer, op.cit., p.31.

33)Trechos da Carta de José

da Cunha Grã Athayde e Mello, Conde de Pavolide(transcritos por Mozart de Araújo) , Kiefer, op.cit., p.32. より引用。

34)Tinhorão,

Música Popular de Índios, Negros e Mestiços, p.132. Kiefer, op.cit., p.33. より引用。

35)Tinhorão, ibid., p.132. Kiefer, op.cit., p.34. より引用。

36)Tinhorão, Os Sons dos Negros no Brasil, p.46.

37)Fryer, op.cit., p.119.

38)Tinhorão, Os Sons dos Negros no Brasil, p.50.

39)Lindley, op.cit., pp.276-77. Fryer, op.cit., p.122. より 引用。

40)Fryer, op.cit., p.122.

41)Tinhorão, Os Sons dos Negros no Brasil, p.56.

42)Kiefer, op.cit., p.44.

43)Tinhorão,

Música Popular de Índios, Negros e Mestiços, p.139. Kiefer, op.cit., p.44. より引用。

44)Tinhorão, Os Sons dos Negros no Brasil, p.57.

45)Tollenare, Louis-François de, Notas Dominicais,

Cascudo, Luís da Câmara, Antologia do Folclore Brasileiro,2vols.(São Paulo : Global Editora, 2001) , volume1, pp.91-92. より引用。

46)Chasteen, op.cit., p.144.

47)Fryer, op.cit., p.137.

神戸:ブラジルで「国民的なダンス」と呼ばれたLunduについての一考察

(11)

RESUMO

O viajante inglês Thomas Lindley, que viu o Lundu dançado numa casa da classe média em Salvador da Bahia no início do século ⅩⅨ, chamou-o “a dança nacional (do Brasil)” e escreveu com prudência que essa dança era “uma mistura de danças africanas, e fandangos da Espanha e Portugal”.

Segundo algumas pesquisas precedentes, dois componentes principais do Lundu foram o Batuque e o Fandango.

Desde a época colonial, para os brancos europeus que moravam no Brasil, a palavra “batuque” em geral significava danças e festas dos escravos africanos. Diz-se que alguns movimentos característicos do Batuque tiveram origem no Congo e na Angola. O Batuque deu ao Lundu os movimentos de quadris e a umbigada. Estes movimentos de tronco deram impressões lascivas e sensuais para os estrangeiros que visitaram o Brasil.O Fandango foi introduzido da Península Ibérica na época quando Portugal estava sob o domínio da Espanha (1581-1640). Segundo o pesquisador Peter Fryer, até o século ⅩⅥ, o Fandango já tinha recebido alguma influência de danças africanas. O Fandango acrescentou ao Lundu o movimento ondeado de braços levantados por cima da cabeça, o estalo com os dedos e o sapateado.

Diz-se que o primeiro passo para o nascimento do Lundu era a participação nos batuques dos escravos africanos, pelos brancos e mestiços da classe baixa que moravam em vilas e cidades. Nos anos oitenta do século ⅩⅧ apareceram alguns documentos iniciais referidos ao Lundu. A umbigada e o movimento braçal do Fandango incluiram-se no Lundu que um poeta satírico português viu no palácio do governador em Minas Gerais. Como foi mencionado, Thomas Lindley viu o Lundu na casa da classe média em Salvador. Na segunda década do século ⅩⅨ, o Lundu era dançado também nos teatros das cidades grandes, como números de entremezes. O pesquisador erudito José Ramos Tinhorão insistiu que os números de entremezes aceleraram a divulgação do Lundu para os brancos da classe média. Assim, até a independência do Brasil (1822), o Lundu já tinha conquistado o título da

“dança nacional”. Neste sentido, o Lundu é considerado como estilo de dança que se concretizou em conseqüência da participação dos brancos da classe média.

Lundu : Uma Dança Nacional do Brasil

Chikashi KAMBE

Departamento de Saúde e Ciências Esportivas

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