論 文
人間と動物の狭間の存在
――
The Tale of Mrs. Tiggy-Winkle
におけるティギー・ウィンクルとルーシー――若谷 苑子
はじめに
The Tale of Mrs. Tiggy-Winkle
(以下、本作品)は、ビアトリクス・ポター(BeatrixPotter, 1866-1943)による、
「ピーターラビットの絵本」(以下、「ピーターラビット」)のうちの一冊で、1905年に出版された。なくしたハンカチとエプロンの行方を動 物たちに尋ね歩く人間の少女ルーシー(Lucie)は、山のなかで、もの言う動物で ある洗濯女のティギー・ウィンクル(
Mrs. Tiggy-winkle
、以下、ティギー)に出会い、交流する。ルーシーはティギーと友好的な関係を構築し探し物を発見するが、物語 の最後、ルーシーがティギーにさよならと礼を言おうと振り向いた先にいたのは、
山のなかへ走っていく小さなハリネズミであり、それがティギーの正体であること が発覚し、本作品は終わりを迎える。本作品をもの言う動物と人間の子ども、そし てその二者の関係に注目して読んでみると、次の疑問が浮上する。なぜルーシーは 動物たちに躊躇なく話しかけ、ティギーはルーシーを受け入れたのか。なぜ彼女た ちは最終的に別れるのか。寺本明子は、「ポターの不思議な世界の魅力は,動物が 人間の様に振る舞いながら,動物としての習性に従う部分もあり,また,その両方,
つまり「動物性」と「人間性」を瞬時に行ったり来たりするところ」(166)だと述 べている。本作品におけるティギーとルーシーの関係を考察するうえでも、この「動 物性」と「人間性」が関係していると考えられる。
本論文では、本作品をもの言う動物と人間の子どもの交流を描いたイギリス児童 文学作品の一つとして捉え、本作品のもの言う動物と人間の子どもの関係について の分析を試みる。本論文の目的は、本作品においてティギーとルーシーが「動物性」
と「人間性」の双方を有する存在であることを確認し、この二者の関係を、両者が 人間と動物の狭間の存在同士であることに着目して明らかにすることである。それ によって、本作品のもの言う動物と人間の子どもの交流を描いたイギリス児童文学 作品としての一面を提示できるだろう。また、本作品は絵本だが、見開きのうち一 方がイラスト、他方がテクストとなっており、テクストの分量も少なくない。その ため、本論文では、絵本としての特性ではなく、もの言う動物と人間の子どもの交
流を描いたイギリス児童文学作品におけるもの言う動物と子どもの関係という観点 から本作品の読み解きを行うことを予めここに記しておく。
本論文では、「人間性」と「動物性」という言葉を、先述の寺本の言説を参考に、
さらに以下の限定した意味で用いる。「人間性」(humanity)は、「動物」と「人間」
を分け隔てたときの「人間」であることを示す性質、人間に特有とされる要素や性 質を示す語とする。一方、「動物性」(animality)は、「人間」以外の「動物」であ ることを示す性質、動物本来の身体的特徴や習性に基づく性質を示す語として用い る。
まず、本研究の位置づけを示すため、ティギーとルーシーの評価と二者の関係に ついての先行研究を概観したい。
ティギーへの評価は、どの先行研究においても高い。ルース・
K.マクドナルドは、
“Mrs. Tiggy-Winkle is Potter’s unique re-creation of the stodginess of a hedgehog into a fastidious washerwoman.”(MacDonald 88)と述べ、ルーシーのイラストは失敗
だが、ティギーの描写は本作品の成功の一つであると主張する(89-90)。本作品の ポターの絵本における特徴を指摘するジョージ・ウォレスは、“the lifeless Lucie,who is eminently forgettable”(Wallace 6) と 述 べ た 直 後、“The story succeeds because of the hedgehog. Mrs. Tiggy-winkle is the star of the show.”(6)と述べて
いる。以上の二人は、ティギーを高く評価すると同時に、ルーシーを低く評価して いる。彼らのルーシーについての言及は、容姿やイラストにおける特徴に留まって いる。ウォレスは、 “The crux of the story is the interplay between Lucie and Mrs.Tiggy-winkle, and it might simply be summarized by the question: You haven’t got my hankies by any chance, have you?
”(Wallace 5)と述べているが、この二者の関 係についてはほとんど触れていない。M.ダフネ・クッツァーは、本作品の特徴の一つとして、“Mrs. Tiggy-Winkle has an unusually large human presence in the person of Lucie”(Kutzer 77)と指摘する。
クッツァーはルーシーが子ども、特に農家の少女であることに注目し、キャロル・
スコットの論を引用し、ルーシーのなくしたエプロンとハンカチを “the
civility of
human life”(Kutzer 80)と指摘する。しかし、クッツァーはルーシーについて考
察しているが、彼女とティギーの関係についてはほとんど触れていない。
このように、先行研究では、ティギーが中心に据えられ、評価されており、ルー シーは失敗として評価され、そうでない場合も、ティギーとルーシーの関係はほと んど考察されていない。本論文では、ティギーとルーシーが「人間性」と「動物性」
を備えていることを確認し、この二者の関係を明らかにする。それによって、本作 品の、もの言う動物と子どもの交流を描いたイギリス児童文学作品としての一側面
を見出したい。
第 1 章 ティギー・ウィンクル――洗濯女のハリネズミ
ティギーは、テクストでは、作品の最後にハリネズミであることが明かされるま で、名前、あるいは “person”(Potter 20)や “washer-woman”(Potter 54)という ように人間として示されるが、イラストを見れば、彼女は衣服を着たハリネズミで ある。彼女は、人間のルーシーと言葉を用いてコミュニケーションを取ることので きるもの言う動物であり、職業を持って生活している動物でもある。彼女の「動物 性」と「人間性」について分析を行う前に、まず、このキャラクターの成立背景に 簡単に触れておきたい。なぜなら、キャラクターの成立背景に、ティギーが「動物 性」と「人間性」を併せ持つ要因の一部が見られるからだ。
ティギーのモデルは、実際にポターが飼っていたハリネズミのティギー・ウィン クルと、ポターの知り合いの洗濯女であるキティ・マクドナルドという女性である1。 ポターが動物たちに性格を見出していたことは猪熊葉子によって指摘されている が2、ティギーは、キャラクター成立の時点で、動物の側面と人間の側面の双方を持っ ていた。このような背景のあるティギーは、本作品においてどのように描写されて いるのか。まずは彼女の描写について、テクストとイラストの二点から詳細に確認 したい。
第
1
節 テクストとイラストにおける描写ティギーは初登場時、テクストにおいて、以下のように描写される。
[. . .] and at the table, with an iron in her hand, stood a very stout short person staring anxiously at Lucie.
Her print gown was tucked up, and she was wearing a large apron over her striped petticoat. Her little black nose went sniffle, sniffle, snuffle, and her eyes went twinkle, twinkle; and underneath her cap — where Lucie had yellow curls
— that little person had PRICKLES !(Potter 20、下線は引用者)
ここでは、ティギーの容姿が叙述されているが、ティギーはこの言説において、
“person”と指示される。ティギーの衣服も人間のものと同じで、彼女は人間のよ
うに思われる。しかし、彼女の帽子からは針がとび出ており、黒い瞳が瞬いている。
人間とはかけ離れたような描写が続くが、先の引用では、最後に再び “person” と 示される。そのような彼女は、人間としては異形の存在といえよう。
しかし、先述した引用の隣の頁に描かれるイラストによって、この異形さは解消 される。イラストは、彼女の後姿を捉えたものだが、ふっくらと丸まった後ろ姿の 彼女が身に纏うエプロンや帽子からは、針がとび出ている(Potter
21)。正面から
彼女を捉えたイラスト(Potter
22)で描出されるのは、衣服を着たハリネズミだ。身体のあちこちからとび出す針、丸まった体躯、黒い鼻先、毛だらけの顔や黒い瞳 がそれを物語っている。明らかに彼女は人間ではなく、動物なのだ。イラストにお いて、彼女は、人間として描かれることはなく、常に衣服を着たハリネズミとして 描かれる。テクストから想像されうる異形は、その隣の頁のイラストによって、衣 服を着たハリネズミという一動物として読者の目の前に出現する。テクストでは「人 間」、イラストでは「動物」として描写されるというこのズレは、ティギーが人間 でありながらも動物であるということを示しているといえる。
ティギーは、鍋やアイロンなど、人間の道具3を使用して生活を営んでいる。し かし、これらの道具は小さく、住居もルーシーの頭すれすれの高さであることが作 中では示される(Potter
19)。人間の家のようではあるが、その大きさは人間とし
ては異様だ。そのような部屋で、ティギーは洗濯女としてアイロンなどを用いて仕 事をし、家を出るときには、火の始末をして、ドアに鍵をかける。本来は動物であ る彼女の行動には、一つもその動物らしさは見られない。しかし、その行動や道具、衣服は人間らしく描かれているが、イラストにおける容姿、服の下からとび出す針、
道具や住居の小ささからは、ハリネズミという動物的な要素が見られる。ティギー は、テクストやイラストにおける描写からだけでなく、周囲に置かれる道具などか らも人間的要素と動物的要素が絡み合っているキャラクターといえよう。それでは、
彼女の発言の内容はどのようなものだろうか。
第
2
節 ティギー・ウィンクルの発言の内容ティギーの発話は、ルーシーに理解されている。二者間で使用されている言語が 動物語であるか、人間の言語であるかは明示されていないが、二者は言葉によって コミュニケーションを取れる関係にある。この二者の関係は後に考察するが、ここ では、ティギーの発する言葉について見ていきたい。ティギーの発する言葉は、歌 と自己紹介、ルーシーの質問への応答に分けられる。
ティギーの歌は、以下のように、洗濯に関する内容であり、彼女の職業が表れている。
“Lily-white and clean, oh!
With little frills between, oh!
Smooth and hot — red rusty spot
Never here be seen, oh!” (Potter 16)
しかし、この歌からは、動物的要素、例えば、彼女がハリネズミであることを示す ようなものは見られず、彼女が洗濯をしていることしかわからない。彼女は自己紹 介においても、“I’m an excellent clear-starcher!”(Potter 23)というように、洗濯屋 であることは示すが、動物であることは示さない。ティギーがわざわざ言う必要が ないと思っているのか、彼女自身が自分を動物だと考えていないのかはわからない。
しかし、どちらにせよ、彼女のなかで、ハリネズミである自分と洗濯女である自分 との比重は明らかに洗濯女に傾いているといえよう。地の文でティギーが人間と指 示されていることはすでに指摘したが、この二つの発話においても彼女の人間らし さや洗濯女らしさが強調されているといえよう。
しかし、動物らしさを見出すことのできる発話もある。ルーシーへの応答では、
動物たちの衣服事情を覗くことができる。例えば、ルーシーが黄色い手袋かと思っ たものは、雌鶏のサリー・ヘニー・ペニー(Sally Henny-penny、以下、サリー ) のストッキングであり(Potter
32)、白いおかしなものは、白い足先を持つネコの
タビー(Tabby Kitten)のミトンであり(Potter 36)、柔らかくふわふわしたものは、子羊の羊毛のコートである(Potter 40)。
このように、ティギーの発言によって、動物たちがその体毛や柄だと思われてい たものを衣服として着用しているという事実が判明する。動物であるティギーは衣 服の使用方法を正しく理解しているが、対照的に、人間のルーシーには、手袋、お かしな白いもの、柔らかくふわふわしたものというように、それらは別の物として 映し出される。人間のルーシーの知らない動物の事実が、ティギーとルーシーの会 話から明らかになる。
ティギーの発言は、人間あるいは人間の洗濯女であることを示すものと、動物で あるがゆえに示されるものがある。ティギーは洗濯女で、テクストにおいて人間と 示され、人間的な要素が強調されているが、動物(ハリネズミ)らしさを全て失っ ているわけではない。ティギーは、人間であると同時に、動物なのである。
第
3
節 不気味さの表出と消失人間的要素と動物的要素を併せ持つティギーだが、ハンフリー・カーペンターは、
彼女「にだけは、不気味なものがかすかにただよっている」(297)と述べ、彼女の 初登場時の描写を引用している。彼はその理由を詳述しないが、おそらく「人間性」
を示す衣服が、ティギーの「動物性」を覆い隠しきれておらず、表出していること が原因の一つであろう。
このような不気味さは、カーペンターの指摘する場面以外にも漂っている。本作 品に登場する動物たちは、ティギーによって暴露されるが、人間にはわからない形 で衣服を身に纏っており、それもまた、不気味さを演出する。皮膚や毛の一部だと 考えられていたものが実は衣服であり、取り外し可能なのだ。例えば、サリーの黄 色のストッキングを手にしているティギーは、彼女が動物の脚を持っているように も見える(図
1)。動物たちは、衣服を身に纏っていることが判明したために、不
気味なものへと変化する。ティギーは、衣服の着用によって覆い隠されるはずの「動物性」が、イラストや テクストにおける衣服をすり抜けた針や衣服に覆われていない顔の描写によって表 出した結果、人間にとって異形の他者となる。垣間見えるその「動物性」は、着衣 という「人間性」とのズレによって「不気味さ」を演出する。しかし、ティギーの 不気味さについて、ルーシーはほとんど沈黙している。それは、次章で考察するルー シーの特性が関係しているのではないだろうか。少なくとも、作中には彼女を明ら かに「不気味」だと考える存在はいないといえよう。
ティギーの不気味さは、彼女の表情にも及んでいる。テクストでは示されないが、
イラストではハリネズミは微笑んでいるかのように描かれる(Potter
22)。表情を
持つ動物について、矢野智司は、絵本に登場する擬人化された動物の特徴の一つだ という(53)。さらに矢野は、「二本足で立って歩くことは、人間と他の動物とを区 別する際だった指標」(64)と述べている。ティギーが二足歩行で、なおかつその 前足が腕となり、布などを手にしている姿もまた、擬人化的な表現といえ、彼女を 不気味に感じさせるのかもしれない。しかし、ティギーの「人間性」は、物語の最後に消失する。“She was running
running running up the hill — and where was her white frilled cap? and her shawl?
and her gown — and her petticoat?”(Potter 54)というようにティギーの衣服の
消滅がテクストにおいて示される。さらに、イラストで衣服を着ていないハリネ ズミが描かれた隣の頁では、“AND how small she had grown — and how brown — and covered with PRICKLES ! / Why! Mrs. Tiggy-winkle was nothing but a HEDGEHOG .”
(
Potter 57
)と示される。衣服の着脱と「人間性」/「動物性」の回復の関係はポターの絵本にはしばしば 見られ、多くは「人間性」としての衣服を脱ぐことで、動物たちは本来の動物たち
の行動に立ち返るという4。イラストにおいても衣服を纏わないハリネズミとして 描き出されるティギーは、テクストにおいてもハリネズミであることが示される。
彼女は「動物性」を回復すると同時に「人間性」を捨て、普通の動物になる。イラ ストとテクストが一致し、衣服という「人間性」を脱ぎ、その下に控えていた「動 物性」とのズレが消失することで、彼女の不気味さは消失するのだ。
なぜ、彼女は「人間性」を失い、「動物性」を回復したのか。これについては、
第
3
章において詳しく考察するが、その前に、もう一人の本作品の重要人物である ルーシーについて考察を試みたい。第 2 章 人間の少女ルーシー
ティギーと同様に、ルーシーにも実在の人物が関係している5。しかし、ポター は人間を描くことが苦手だったがゆえに、マーガレット・レインは、「努力はした ものの、ルーシーは、ほかの点では完璧といえる本の唯一の欠点」(194)とそのイ ラストを評価し、ウォレスやマクドナルドもルーシーを低く評価する。しかし、本 作品において、ルーシーは重要なキャラクターである。というのも、ルーシーは、
彼女が本作品内での唯一の人間かつ子どもであるからだ。人間の子どもの登場は、
「ピーターラビット」においても珍しく、その点は本作品の特徴といえよう。
ルーシーは、ハンカチをよくなくす。彼女はなくしてしまったそれらを探すため に、動物たち、ネコのタビー、雌鶏のサリー、ロビン(
Cock Robin
)にその行方 を尋ねる。テクストには、ルーシーが動物たちに尋ねた旨しか書かれておらず、彼 女がなくしたハンカチの行方を人間に尋ねたという描写は一切ない。テクストだけ ではなく、イラストにおいても、他の人間は見当たらない。ルーシーの周囲には、大人を含む他の人間は配置されていない。彼女が孤児であるという意味ではなく、
物語内に人間がほとんど登場しないのだ。その存在が示唆されるのは、物語の最後 に付されている括弧内(Potter 57)においてのみである。農場の様子から住んでい るのがルーシーだけではないことは推察できるが、ルーシー以外の人間は物語には ほとんど登場せず、ルーシーは動物たちを頼り、物を探す。
なぜルーシーは動物たちに探し物の行方を尋ねるのか。そしてなぜ、彼女はもの 言う着衣の動物であるティギーと交流を深めることができるのか。寺本は、ルーシー は「動物の世界を信じる心を持つ女の子で,不思議な世界の住人となる資格がある のだと解釈できる」(166)と述べている。なぜ、寺本のいうように、ルーシーをそ のように解釈できるのか。このようなルーシーの動物との繋がり、彼女の動物に対
する態度は、彼女の持つ特質、彼女が少女であることと、彼女の物をなくす癖に起 因しているのではないだろうか。
第
1
節 “a little girl”の示す子ども性と「動物性」ルーシーは物語の冒頭で、次のように描写される。“[T]here was a little girl called
Lucie, who lived at a farm called Little-town” (Potter 7) . 正確な年齢は明示されてい
ないが、イラストからも、幼い少女であることが確かめられる。まずは、子どもで あることが西欧文化においてどのように捉えられているかを確認したい。西欧における子どもと自然との繋がりについて、カリン・レスニック = オーバー スタインは、“There can be few ideas in Western culture as intimately connected and
intertwined as ‘nature’ and the ‘child’.”(Lesnik-Oberstein 208)と述べ、多くの児童
書が、自然や環境、動物に結びついていることを指摘する6。高橋尚子は、「文明化 した社会や家族のなかで、子どもたちは社会化されていない野性的な存在として捉 えられることが多い。文明と自然という図式が人間と動物、あるいは大人と子ども との関係性にもあてはまるからだ。このような意味において、子どもと動物は近し い存在である」(96)という。子どもは、動物に近いとされるがゆえに、動物との繋がりが大人との繋がりよ りも強いという一つの要件にもなりうる。これは、イギリス児童文学でもしばし ば見られる特徴だ。ラドヤード・キプリング(
Rudyard Kipling, 1865-1936)の The Jungle Book
(1894)とThe Second Jungle Book (1895)
のモウグリやP
.L
.トラヴァー ス(P. L. Travers, 1899-1996)のMary Poppins
(1934)の赤ん坊がその良い例だ。彼らは子どもの特に幼い時期には動物たちと至近距離で交流し――前者はジャング ルで動物と共に暮らし、後者はムクドリと会話する――、成長すると、意識的ある いは強制的に動物から距離を取ることになる。
ルーシーもまた、子どもである。彼女が大人ではなく動物に話しかけたのは、子 どもと動物の親和性がそれを可能にさせたからではないか。彼女は、子どもである がゆえに、「人間」あるいは「人間の大人」ではなく、「動物」を選択したのだ。さて、
西欧社会において、子どもであることが動物との親和性を示していることがわかっ たが、ここで一度、“a little girl”の“little”の字義的な意味に立ち戻ってみたい。
The Oxford English Dictionary
において、“little”がどのように定義されているか 確認してみよう。定義A.I.
は、“Opposed to great. Often synonymous with small.”とあり、定義
A.II.10.a.
では、“Not much; only a slight amount or degree of; barely
any.” とされている。ルーシーを示す意味は、明らかに前者の定義であり、彼女の
イラストからもそれを疑う余地はない。しかし、後者の定義を考慮すると、ルーシー は、「十分に“girl”(人間の女の子)ではない存在」といえ、人間の対義語として 動物を配置するならば、彼女は動物に属す側となる可能性も見出される。
ルーシーの特徴の一つである “a
little girl” は、子どもであることだけでなく、
単語の組み合わせからも、彼女の動物との近似性を示し、その意味において、彼女 は人間でありながら「動物性」を備えているといえよう。それでは、彼女のもう一 つの特性、物をなくす癖はどうだろうか。物語において、ルーシーの物をなくす癖 はプロットを動かすが、この癖は、ルーシーにどのような意味をもたらしているの だろうか。
第
2
節 ハンカチをなくす癖――「人間性」の喪失と回復ルーシーは、なくしてしまったハンカチとエプロンを探すために、動物たちに話 しかけ、その行方を尋ねる。これはティギーに出会うきっかけにもなっている。探 し物がティギーの洗濯物から全て見つかるのは、本作品全体の頁数の
6
割ほどの位 置であり、ルーシーの冒険の終わりが見えてくる。ルーシーが物をなくすのは、一時的なことではない。“She [Lucie] was a good
little girl — only she was always losing her pocket-handkerchiefs!”(Potter 7)という
ように、テクストにおいて、物をなくすことは、彼女の日常であることが示され る。衣服の喪失について、スコットは、“Losing clothes is a frequent event, even a theme, in Potter’s work.”
(Scott 196)と指摘し、 The Tale of Tom Kitten
(1907)や ウサギのピーターに加え、ルーシーを挙げている(Scott196)。ルーシーは人間の
少女でありながら、物をなくすという点においては動物たちと同じ性質を有してい るといえよう。物をなくす癖は、本作品において、そしてルーシーの性質においてどのように 機能しているのだろうか。灰島かりは、The Tale of Peter Rabbit(1902)について、
人間化の要素を捨てるためにピーターは「服を脱ぎ捨て、直立を止め、言葉を失 う。ウサギは四つ足になることで」(192)動物本来の「脚力をとりもど」(192)す という。それでは、ルーシーはどうだろうか。ルーシーがなくすのは、ハンカチと エプロンだ。スコットは、“The animal characters are safe in their rebellious casting
off of clothes because, unlike human children, they have their own coats underneath;
Lucie, the human child, loses only nonessential articles in her handkerchiefs and
pinafore.”
(Scott 197
)と指摘する。スコットを引用しつつ、クッツァーは、“She
[Lucie] is still a civilized little farm girl in a dress, jacket, sturdy shoes, and so forth,
but losing the pinafore and the handkerchief suggests that she is losing at least some of the civility of human life, and specifically of adult human life.”
(Kutzer 80)と主張 する。クッツァーが主に注目しているのは「大人」の要素だが、ルーシーのなくし た物は人間の衣服であり、人間的要素といえよう。それらをなくすルーシーは、「人 間性」を常に失う存在ともいえる。しかし、ルーシーは人間である。ルーシーは、人間でありながら、「人間性」の一部を喪失する。衣服の喪失を「動物性」の回復 と結びつけるのであれば、次のことがいえるのではないか。すなわち、ピーターが 物を失うことで多元的であった性質と身体を失い一元的な存在になったのとは対照 的に、ルーシーは物を失うことで、人間とは異なる存在と定義される「動物性」を 獲得し、人間と動物という二重性を持つ存在となったのではないか。
このようなルーシーは、なくした物を探している。彼女はハンカチとエプロンを なくして泣き(“crying — oh, she did cry so!”(Potter 7))、それらを探すために動 物たちに質問を繰り返す。彼女は喪失した物を渇望しており、それが彼女を突き動 かしている。彼女がなくしたハンカチを探す理由は、テクストでは示されない。クッ ツァーはこれについて、“She [Lucie] is, in other words, attached to domesticity and
to femininity.”(Kutzer 78)と述べている。しかし、ルーシーの探し物を「人間性」
と仮定すると、彼女は物をなくすことで人間と動物という二重性を獲得しながらも、
喪失した「人間性」を回復したいと願っているといえる。ルーシーはなくしたハン カチを見つけることで、失われた「人間性」を回復すると同時に「動物性」を喪失 することになるのではないだろうか。
第
3
節 「人間性」と「動物性」を保持する少女による世界の越境「動物性」と「人間性」を併せ持つルーシーは、人間の世界から動物の世界へ越 境することができる存在となる。ルーシーが最初にいる場所はリトルタウンと呼ば れる農場であり、イラストが示唆するように、人間の世界である。しかし、彼女の 周囲には、ほとんど最後まで他の人間は登場しない。テクストにおいてもその存在 が示されない人間は、イラストにおいても示されず、彼女が通る道には、動物たち が描かれている。ルーシーがなくしたハンカチの行方を尋ねるのは、箱の上にいる タビー、納屋の外にいるサリー、そして山との境目にある “stile”(Potter 11)の 近くの枝に止まっているロビンである。この三匹から色よい返事をもらえないルー シーは、山の上に洗濯物らしきものを見つけ、“stile”を越えて山へ歩みを進める。
山にある道を登っていく彼女は、だんだんと山のなかへと入り込み、そのなかを流 れる川を目にする。草木に覆われたそこには、タマゴ入れほどの小さなバケツが
あり、さらに小さな足跡を彼女は発見する(Potter 15)。その足跡を追っていくと、
洞窟を発見し、そこにはティギーが居を構えている。このように、人間の領域から だんだん離れ、“stile”を越え、山に入り、人間のものとは少し違う世界の片鱗を 感じながら、ルーシーはもの言う動物のティギーと出会う。
このルーシーの行動は、ルーシーが「人間性」と「動物性」を持っていることに 起因しているのではないか。“stile”を乗り越えるルーシーは、人間の支配する世 界から、動物たちの住む山へ踏み込み、その奥にあるティギーの家までたどり着く。
この時点では、彼女はどちらの世界にも受け入れられる存在なのだ。しかし、ハン カチとエプロンを見つけ出したことによって、彼女は再び人間の世界へ帰還するこ とになる。それは、彼女が喪失していた「人間性」が回復されてしまったからでは ないだろうか。彼女が少女であることもまた、彼女の「動物性」の一端であるが、
それだけでは動物の世界に留まり続けることはできないのである。
それでは、このように人間でありながら動物的要素を持つルーシーはティギーと どのような関係を構築しているのだろうか。
第 3 章 人間と動物の狭間の存在としてのティギー・ウィンクルとルーシー
ティギーとルーシーの関係を考察するにあたって、本作品に登場し、実際にルー シーと関係する他の動物との関係は重要となってくる。他の動物とは、リトルタウ ンでルーシーにハンカチの行方を尋ねられるタビー、サリー、ロビンの三匹である。
本章では、まず、本作品におけるこの三匹とルーシーの関係について考察し、次に、
ルーシーとティギーの関係を考察することで、ティギーとルーシーの特別性を見出 せるだろう。
第
1
節 ルーシーとタビー、サリー・ヘニー・ペニー、ロビンとの関係物語の冒頭、ルーシーがハンカチの行方を尋ねるタビー、サリー、ロビンは、三 者三様の態度を示す。ルーシーが質問しても、タビーは足を洗い(Potter 8)、サリー は納屋に“I go barefoot, barefoot, barefoot!”(Potter 8)と鳴きながら走っていく。
ロビンは、ルーシーを横目で見て、何も言わずにとんでいく(Potter 11)。
動物たちがルーシーの問いに答えないことについて、幾つかの仮説が立てられる。
一つ目は、これらの動物がもの言わぬ動物であるという仮説である。しかし、これ はサリーが言語を発していることから覆される。しかし、サリーの発言をルーシー
が理解していたのかは最後までわからない。二つ目は、これらの動物とルーシーの 使用している言語が異なるために、ルーシーの発言を理解していないという仮説で ある。ここでも、先述したサリーの発言がこの仮説を妨げる。ルーシーと動物たち の使用する言語が異なるならば、このサリーの発言はルーシーとは異なる言語であ るはずだ。しかし、サリーのものもルーシーのものも同じ直接話法で書かれており、
その判別はできない。同じ言語を話していると感じる読者もいるだろう。それゆえ に、この仮説も確かなものであるとはいえない。三つ目の仮説は、動物たちがいた 場が人間の世界であるために彼女たちはものを言わなかった、あるいは、言えなかっ たというものである。彼女たちは、ルーシーの言葉がわからなかったのではなく、
その場が人間の世界であるがために、動物的態度から脱却できなかったのではない か。しかし、ルーシーだけはその時点で「動物性」を有しており、そのために、サ リーの鳴き声が言葉としてわかったのではないか。
以上三つの仮説を立ててみたが、ここで注目したいのは、このようなルーシーと 動物たちとのやりとりにおける動物たちの行動が、極めて動物らしいものであるこ とだ。ネコが足を洗い、雌鶏が納屋に走っていき、ロビンがとび立つことは日常的 な動物の動作である。ポター作品における衣服の問題を考慮するのであれば、動物 たちの着衣がこの時点ではないことから、「人間性」が弱く、「動物性」が強い状態 であるといえよう。
そのような動物に、なぜ、ルーシーはハンカチの行方を尋ねたのだろうか。ルー シーとこれらの動物たちとの距離は近い。ルーシーが動物たちに話しかけているだ けでなく、この距離の近さは、ルーシーが動物たちと接するときのイラストにおい ても示される。彼女はその体の小ささゆえに、動物たちと近い目線――動物たち を少しだけ見下ろす(Potter 6)、あるいはロビンはルーシーよりも高い位置にいる
(Potter
10)――で動物たちに接している。イラストにおける動物と彼女の位置関
係からは、ほとんど上下関係は見られず、その意味において、彼女たちは対等に近 い立場であるのではないだろうか。また、第2
章で考察したように、ルーシーは子 どもであり、この三匹に出会う前にハンカチとエプロンという「人間性」を喪失し ていた存在だ。その性質が、彼女にハンカチの行方を人間あるいは大人ではなく、動物に尋ねさせたのではないだろうか。
しかし、ルーシーとこれらの動物との関係は一方向的である。ルーシーの問いか けに動物たちが答えないこと、イラストにおいて、ルーシーの視線が動物たちに向 いているのに対し、動物たちがルーシーに視線を合わせないことがそれを示唆して いる。それはなぜなのだろうか。それは、これらの動物たちが「人間性」を保持し ている存在ではない、すなわち、「人間性」と「動物性」を併せ持つ存在ではない
からではないだろうか。ルーシーは「動物性」と「人間性」の双方を持つ存在であ る。それに対して、タビー、サリー、ロビンは、少なくともこの時点では普通の動 物のように描かれている。それは、ルーシーとの体格差や行動からも示唆されるが、
これらの動物は「動物性」のみを有する存在と仮定できる。ルーシーは、「動物性」
を持つという点では彼らの他者ではないが、「人間性」を持っているという点におい ては他者となる。この差異が、彼女らの一方向的な関係の要因であると考えられる。
第
2
節 ティギー・ウィンクルとルーシーの関係種類の違いからいえば、ティギーはハリネズミであり、ルーシーは人間であるた め、他者同士だ。また、年齢の違いからいえば、ティギーは大人で、ルーシーは子 どもであり、大人と子どもを分けるならば、この意味においても他者であるといえ る。しかし、ティギーとルーシーは互いに「動物性」と「人間性」の双方を有して いる。そのような二者は、どのような関係を構築しているのだろうか。
第 1 項 ティギー・ウィンクルとルーシーの間に漂う緊張感
本作品におけるティギーとルーシーは、一見友好的な関係を築いているように思 われる。しかし、ティギーとルーシーの間には、その出会いから交流が進むまで、
少なからず、ある一定の緊張感が漂っている。
それが顕著に表れているのが、ルーシーとティギーの最初の交流の場面である。
ルーシーが戸を叩くと歌が止み、誰かと尋ねる、怯えたような声がする(“A little
frightened voice called out ‘Who’s that?’ ”(Potter 19))。ルーシーが戸を開けると、
心配そうな表情(
“anxiously”
(Potter 20
))でティギーが彼女を見つめている。こ のティギーの反応は、彼女のルーシーに対する緊張を表していると考えられる。そ の理由は示されておらず、ルーシーが見知らぬ存在であるからか、人間であるから かは定かではない(少なくとも最初の反応はルーシーの姿を見る前である)。ルー シーの感情はテクストで描写されないが、胸に手を当てながら部屋に入るルーシー のイラスト(Potter 18)は、緊張が彼女にもあったことを思わせる。しかし、ティギーとルーシーは急速に距離を詰める。きっかけは、“ ‘W
HO are you?’ said Lucie. ‘Have you seen my pocket-handkins?’ ”(Potter 23)というルーシー
の質問である。これに対し、ティギーは膝を折ってお辞儀をして自己紹介を始め(Potter 23)、イラストではほほ笑んでいるかのように描かれる。ルーシーが言葉を 発したことで、それまでの二者間の緊張感は途端に薄くなるのだ。
本作品において、ルーシーとティギーの間で発せられる言語がどのようなもの か、明確な提示はない。先に引用したサリーの鳴き声について、テス・コスレット は、“
The Tale of Mrs Tiggy-winkle
introduces another way in which animal speech isrepresented, animal sound being translated into human words.”(Cosslett 159)と
指摘する。本作品において言語がどのように位置づけられているかは最後まで判別 できない。しかし、ティギーとルーシーが言語によって会話を成立させていること から、少なくともこの二者間では同じ言語が使用されていると考えられる。動物絵本において、矢野は、「動物が人間のように言葉を話して人間とのコミュ ニケーションが可能になると、一般に動物の他者性はぐっと少なくなる。このとき 動物は人間と同じ言語ゲームに属するものとなる。擬人化がここまで進行すれば、
描かれた動物はほとんど人間と同じといってもよい」(69)と述べる。ルーシーはティ ギーを人間として見つめており、それに対してティギーがルーシーをどのように認 識しているかの明示はない。しかし、ルーシーがティギーと同じ言語を使用したこ とにより二者間の緊張が弱まったことから、ティギーにとっても、ルーシーの他者 性が減少したといえるのではないだろうか。また、二者は、「人間性」と「動物性」
の双方を兼ね備えた存在であり、彼女たちはこの意味においても他者ではない。こ の点もまた、二者が言語による意思疎通が可能である理由の一つではないだろうか。
このように、言語によって緊張が緩和された二者は、ルーシーが質問し、それに対 してティギーが答えるという言葉の応酬によって、交流を深めていく。
しかし、ティギーとルーシー間の緊張が完全に緩和されたわけではない。ルーシー の洗濯物が全て見つかり、ティギーと紅茶を飲んで一息いれるとき、再び緊張の芽 が顔を出す。
They sat before the fire on a bench and looked sideways at one another. Mrs.
Tiggy-winkle’s hand, holding the tea-cup, was very very brown, and very very wrinkly with the soap-suds; and all through her gown and her cap, there were hair-pins sticking wrong end out; so that Lucie didn’t like to sit too near her.
(Potter 44)
一見打ち解けたかのように見えた二人は互いに、横目で相手を観察する。さらに、
ルーシーはティギーの針を考慮し、必要以上に近づこうとしない。ティギーからと び出る針は彼女の最も顕著な、そして本来的な「動物性」であり、人間であるルー シーにとっては、まさに他者の標といえよう。出会ったときから針がとび出ている ことに気づいているが、それをティギーに直接質問しないルーシーの行動は、彼女
がそれまで様々な質問を口にしていることを鑑みると奇妙ともとれるが、ルーシー は服からとび出す針について、物理的にも精神的にも触れようとはしない。しかし、
上記の引用において、ティギーの針は、彼女の初登場時のように彼女の「動物性」
を示す“
PRICKLES
”(Potter 20)ではなく、人間の衣服に回収されうる「ヘアピン」
(“
hair-pins
”)と形容されている。この変化がルーシーのティギーに対する見解の変化だとすれば、この変化はルーシーにとってティギーの他者性が減少しているこ とを示しているのではないだろうか。しかし、この「ヘアピン」は同一引用内で
“sticking wrong end out”と説明されている。その点も含め、この場面におけるティ ギーとルーシーは、互いに自身のことを多く語らず、相手の領域にも踏み込まない という、ある一定の距離を保っている。
そのようなティギーとルーシーだが、山を下るなかで、二者の関係はぐっと近づ いていることがイラストにおいて示される。ティギーからとび出る針を考慮してあ まり近づかないようにしていたはずのルーシーが、ティギーの腕を取り、密着し ているのである(図
2)。なぜ二者が腕を組んだのかについての言及は一切ないが、
先述のティギーの針の形容の変化以降、ルーシーとティギーの関係性が大きく変化 しているといえよう。
しかし、このような関係を結んだ二者には、ティギーが「逃亡する」という形に よって別れが訪れる。なぜ、このような親密な関係を築いた二者がこのような形で 関係を終わらせることになったのだろうか。そのうえ、この別れは、ティギーの一 方的な行為によるものである。なぜ、このようなことが起きたのだろうか。
第
2
項 ティギー・ウィンクルの逃亡山のふもとまで下りてきたルーシーがティギーに礼を言おうと振り返ると、ティ ギーは、山を駆け上っていく(
Potter
54)。カーペンターはその姿を、「恐怖にから れたように逃げていく小さな茶色いハリネズミ」(298)と述べている。なぜそれま で親密な関係を築いていた二者は、このような形で別れるのか。衣服が脱げ、動物 の身体を曝すことでティギーの「人間性」が消滅し、人間のルーシーとの間に、動 物/人間という分別が再建させられたからだろうか。人間とハリネズミの関係に回 帰したために、人間を敵として認識したからだろうか。彼女が去っていく理由は明 示されないが、次の三点が絡み合ったことにより、このような突然の別離が生じた と考えられる。三点とは、ルーシーとティギーが人間の領域に近づいたこと、ティ ギーが洗濯女としての役割を終えたこと、そして、彼女たちが互いに他者になった ことである。二人が別れる場所は、山のふもとの“stile”である(Potter 54)。ふもとにはルー シーの住むリトルタウンがあり、そこは人間の支配する領域といえる。本作品の最 終頁では、ルーシーが彼女の経験を人々に伝えたことが示唆され、彼女以外の人間 がいることもわかる。
Now some people say that little Lucie had been asleep upon the stile
― butthen how could she have found three clean pocket-handkins and a pinny, pinned with a silver safety-pin? (Potter 57)
しかし、それらの人々はルーシーの経験を「夢」と切り捨てる人々であり、そこに は人間と動物の間に境界線が引かれているようである。さらに、リトルタウンに住 む動物たちの真相を、ルーシーはティギーから教えてもらえるまで知らないことか ら、リトルタウンは、動物が「人間性」を獲得しうることを認識しない場、洗濯女 のティギーを形作る二重性が許されない領域といえよう。それゆえに、そこに近づ いたティギーは、洗濯女ではいられなくなり、動物たちが「人間性」と「動物性」
の双方を保持することができる山の奥、動物の世界へと帰還したのではないか。
ポターの絵本には、動物と人間は共生しているようで、住み分けがされているも のがある7。このような物語では、動物たちは、安全に暮らせる侵犯されない空間と、
それと隣り合う他者の空間、すなわち、危険に満ち溢れた空間を行き来する。他者 の空間へ赴くとき、動物たちは衣服を着脱したり、二足歩行や四足歩行を使い分け たりする。本作品の場合も、隣接する領域の境界の指標の一つとして、ティギーが 動物に回帰したのではないか。また、彼女の行動は “running running running up”
(Potter
54)と示される。彼女は、彼女にとって危険な領域から逃避する目的で動
物に回帰したともいえる。また、ティギーはこの別れの時点で、洗濯女という役割を終えている。洗濯女で あることは、ティギーの人間的要素の一つでもある。彼女は自己紹介の際、洗濯女 であることを主張する。洗濯女という職業は、彼女を形成する要素の一つでもある のだ。そして、彼女の行動や歌、道具や知識のほとんどが洗濯に関係し、さらに、
彼女がルーシーと共に外出する理由も、洗濯を終えた預かり物を動物たちに返しに 行くというものである。ルーシーとふもとまで歩くという行為は、ティギーの洗濯 女という役割がそれを強いたのである。
しかし、ふもとに着くと、ティギーの手元にはすでに配達する洗濯物はなく、届 ける相手もその先にはいない。彼女の仕事はそこで終了し、洗濯女でいる必要性も ない。彼女の「人間性」の形成に一役買っていた洗濯女の役割も消失すると、彼女
は洗濯物を探しにきたルーシーとも関係がなくなる。それゆえに、彼女は普通の動 物に変化し、丘を駆け上がっていったのではないか。
ティギーが逃亡する直前、ティギーが洗濯女という役割を終え、また、ルーシー が探し物のみを手に持ちその「人間性」を回復している。「動物性」と「人間性」
という、同じ二重性を持つ存在同士であった彼女らは、ティギーの人間的要素の大 部分を担っていた役割が消え、ルーシーが「人間性」を回復したことにより、その 意味において、他者となる。これは、ルーシーが洗濯物を全て手に入れた後、二者 が言葉を一切交わさなくなっており、二者が他者になったことの指標の一つだと考 えられるが、この両者の性質の変化もまた、ティギーの逃亡に影響していると考え られる。
ティギーがいなくなったとき、語り手は、“Mrs. Tiggy-winkle had not waited
either for thanks or for the washing bill!”(Potter 54)と述べる。この礼が感謝の言
葉のことであれば、二者が言語で意思疎通を図れる状態にあることが前提となる。しかし、もしルーシーとティギーの双方が「人間性」と「動物性」を持っているた めに言語での意思疎通ができたとすれば、それはルーシーが探し物を全て回復した 時点で意思疎通が不可能となり、言語によって礼を述べることはできないだろう。
また、洗濯代は、洗濯を生業とするティギーにとっては仕事の対価である。しかし、
この場面において、ティギーの洗濯女としての役割が消失しているとすれば、彼女 がその対価を得る理由もまた消失する。二者が衣服を着たハリネズミを受容しない 人間の世界に近づき、ティギーの「人間性」を保つ要素の一つである洗濯女として の役割が終わり、ルーシーの「人間性」も回復されたことで、ティギーとルーシー は互いに他者になる。それを原因として、ティギーは衣服を脱ぎ、小さな四足歩行 のハリネズミの姿で走り去っていったのではないか。ここにおいて、双方向的な二 者の関係が崩壊し、二者はそれぞれが属する世界へ帰還するのである。
おわりに
本作品におけるティギーとルーシーは、「動物性」と「人間性」を併せ持つ存在 として登場する。ティギーはものを言い、洗濯女という職業を与えられ、人間とし てテクストで指示されるが、イラストでは動物の姿で描写され、テクストにおいて も衣服の下から「動物性」が表出していることが提示される。ルーシーは人間であ りながら、子どもという動物と親和性のある存在であり、さらにハンカチという「人 間性」の一部を喪失する存在として現れる。そのようなルーシーとティギーは、は
じめ緊張感を持って接するが、言語を共有し、互いを他者ではないと認識すること で、作品に登場する他の動物たちとは異なる関係を構築できたといえよう。しかし、
ルーシーの「人間性」が回復し、ティギーの「人間性」が喪失することで互いが他 者となり、さらに、動物と人間の世界の境界に両者が近づくことでこの二者の関係 は変化し、彼女たちは最終的に別れることになったのではないだろうか。
J.R.R.トールキンは、「ビアトリクス・ポターの物語は妖精国の国
くにざかい境近くにあるが、大部分はその外側にあると私は考える」(35)と述べ、「『グロスターのし たてや』は多分、一番妖精の国に近いだろう。『せんたくやのティギーウィンクル おくさん』も、夢の物語であるという暗示がありさえしなければ、近いといえよう」
(39-40)と註を付している。本作品における夢物語の暗示についてはさらなる考察 が必要だが、トールキンのこの言説は、本作品が、彼の示す動物寓話、すなわち、「人 間は何のかかわりももたない物語、動物が主人公であって、人間の男女があらわれ るとしても単なる添えものに過ぎない物語、なかでも、動物の姿が人間のかぶって いる仮面に過ぎないような物語」(トールキン
35)ではないことを逆説的に裏づけ
ているかのようにも思われる。彼の言葉を借りるならば、本作品におけるルーシー は「単なる添えもの」ではなく、ティギーは「動物の姿が人間のかぶっている仮面」ではないといえよう。
着衣のもの言う動物のティギーと、「動物性」と強く結びつき、「人間性」を喪失 した少女のルーシーは、言語を共有し、双方向的な関係の構築を成功させた。本作 品におけるルーシーは、二重性を持つことで動物の世界に入り込み、動物の真相を 知ることができる存在である。その意味において、本作品は、イギリス児童文学に おける、幼い子どもがどのように動物と接しているかの一例を提示しているのでは ないか。本論文では、本作品におけるティギーとルーシーの関係に終始した。今後 の課題として、本作品における動物の衣服と言語、動物と人間の世界の境界と考え られる“stile”、ルーシーの経験への言及の三点について考察を行い、さらに本作 品における動物と人間の関係を明らかにしたい。
註
1.
猪熊は、本作品が「スコットランドのダルガイスに住むキティ・マクドナルド(McDonald, Kitty)という洗せんたくおんな濯女と、長らく飼っていたハリネズミのティギー・
ウィンクルが、ポターの空想のなかで融ゆうごう合してできあがったものである」(97)
と述べる。
2.
猪熊は、『ものいうウサギとヒキガエル――評伝ビアトリクス・ポターとケニス・グレアム』において、次のように述べている。「ポターをおもしろがらせたのは、
こういう観察の結果、動物たちが、それぞれ異なる〈性格〉とみえるものをもっ ているのを知ったことだった」(56-57)。
3.
ティギーの使用する道具は異様に小さく、人間が作ったかどうか定かではない。しかし、形状や用途は人間の道具と同じであるため、ここでは人間の道具と呼 ぶ。
4.
灰島は、「動物を擬人化して描くためには①言葉を話す、②二本足で歩く、③ 服を着る、の三つの条件が満たされる必要がある」(191)と述べ、人間化を示 す要素として衣服の着用を挙げている。ポター作品において、寺本は、「例外 もあるが,洋服を身に着けている,着けていない,脱ぐ,という行為には,作 者の意向におおよその傾向がある様である。例えば,本能に従って活動してい る時には衣服を脱いでいる(或いは,身に着けない)ことが多い」(166)と述 べている。本作品における衣服は、スコットや寺本が指摘するように、人間の 衣服だけでなく、動物の皮などが衣服として見做されていることは留意したい(Scott 193; 寺本
165)。
5.
本作品は、「ニューランズの小村リトルタウンの教会の牧師さんの娘ルーシー・カー(Lucie Carr)のために、献辞の通り作者が作ってあげたお話」(吉田
224)である。
6. “It would not be an exaggeration to state that, on average, at least two-thirds of the books are in some form or another linked with nature and the environment, and – specifically and most importantly – with animals”(Lesnik-Oberstein 208) .
レスニック = オーバースタインは、自身の議論がアングロアメリカの文化を主 としていることを註記している(Lesnik-Oberstein 216)。7.
例えば、髙田賢一は、The Tale of Peter Rabbitについて、「人間にとって快適な 空間は、ウサギにとって死の空間となりうるのである。人里に近い森の一角と 囲われた庭、衣服の着脱は、二つの空間の特性を鮮やかに示すのではないだろ うか」(53)と述べている。使用テクスト
Potter, Beatrix. The Tale of Mrs. Tiggy-Winkle. The original and authorized ed. London:
Frederick Warne, 2002.
参考文献
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髙田賢一「自然へのまなざし――児童文学の黄金時代とその想像力」『英米児童文 学の黄金時代―子どもの本の万華鏡―』桂宥子、髙田賢一、成瀬俊一編著、
MINERVA
英米文学ライブラリー⑬、ミネルヴァ書房、2005年、40-59頁高橋尚子「ペット――生命へのあこがれ」『英米児童文化
55
のキーワード』白井澄 子、笹田裕子編著、世界文化シリーズ〈別巻〉①、ミネルヴァ書房、2013
年、96-99
頁寺本明子「ビアトリクス・ポターの世界」『東京農業大学農学集報』第
55
巻第2
号(2010):163-171頁
トールキン、J. R. R.『妖精物語について――ファンタジーの世界』猪熊葉子訳、評 論社、2003年
灰島かり「こだまする二面性――ビアトリクス・ポターと『ピーターラビット』の 世界」『英米児童文学の黄金時代―子どもの本の万華鏡―』桂宥子、髙田賢 一、成瀬俊一編著、MINERVA英米文学ライブラリー⑬、ミネルヴァ書房、
2005
年、184-201頁矢野智司『動物絵本をめぐる冒険:動物-人間学のレッスン』勁草書房、2002年 吉田新一『ピーターラビットの世界』日本エディタースクール出版部、1994年 レイン、マーガレット『ビアトリクス・ポターの生涯―ピーターラビットを生んだ
魔法の歳月―』猪熊葉子訳、福音館書店、1986年
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図
1 図 2 Sammells. London and New York: Zed Books Ltd, 1998. 208-217.
“Little” a., adv., and sb. Def. A.I. The Oxford English Dictionary. 2nd ed. 1989.
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Wallace, George. “Looking at The Tale of Mrs. Tiggy-Winkle.”
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号(2011):1-10頁図版出典一覧
図
1 Potter, Beatrix. The Tale of Mrs. Tiggy-Winkle. The original and authorized ed.
(London: Frederick Warne, 2002) p.33. © Frederick Warne & Co., 1905, 2002
図2 Potter, Beatrix. The Tale of Mrs. Tiggy-Winkle. The original and authorized ed.
(London: Frederick Warne, 2002) p.53. © Frederick Warne & Co., 1905, 2002
図版