人間的観点からの家政学・家庭科の分析 : 高等教 育における家庭科教育
著者 藤本 やす, 宮崎 照子, 白鳥 つや子
雑誌名 東京家政大学生活科学研究所研究報告
巻 5
ページ 47‑97
発行年 1982‑03
出版者 東京家政大学
URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009742/
人間的観点からの家政学・家庭科の分析 一高等教育における家庭教育一 藤本 やす*宮崎 照子*白鳥つや子*
An Analysis of Domestic Science and Homemaking Viewed from Humanity.
一AStudy of Homemaking Course by the High Grade Education−
Yasu FuJIMoTo. Teruko MlyAzAKI. Tsuyako SHIRoToRI.
目 次
緒言………・………・…・………・・…・48
1 戦前の高等教育における家庭科教育…・………・………・……・…・・48
A 高等教育創設とその性格………・………・・…・………・…48
B 教員養成機関………・・………・………・・……・49
1 師範学校・女子師範学校……・………・…・……・・…………・………49
2 高等師範学校・女子高等師範学校・………・…・………50
3 臨時教員養成所…・………・……・・…………・・…・………・・51
C 専門学校の設立とその性格………・・…・………・…・……51
D 戦時下の高等教育……・………・…・…………・…・・53
・ 青年師範学校………・…・………・………・…・…・53
皿 戦後の高等教育における家庭教育…………・……・・………・………・…・55
A 漸定期の高等教育……・…………・・…………・……・…・……・………・・55
B 新制大学の設置とその発展…………・……・………・……・…・・………56
1 新制大学の設置と家庭科・家政学の確立への道…………・……・・56
(1)新制大学の設置………・・…・・………・・……・…………・・56
(2)家政学部の設置…・…………・…・…・………・……・・………・…・59
(3)東京家政大学の認可…・…・…………・………・………・・………60
(4) 日本家政学会の設立……・…………・・……・…・………・…・……・…・62
2 大学制度の整備…・………・・………・………・………・…・……・・62
C 大学院の設置とその発展……・…………・………・………・・…・………64
1 大学院の設置と家政学…・………・・………・・……・……64
2 大学院の発展…・………・…・・………・・………・…・・…65
D 短期大学制度の確立とその発展………・…・・………・・…・65
1 短期大学の発足………・…・……・………・………・・65
2 短期大学の発展………・・……・……・………・・67
E 大学別科・高等専門学校等の制度と発展・………・・…………69
1 大学別科の制度と発展………・…・…・………・……・……・……69
2 高等専門学校の創設………・…・…・・………・・………69
結 語・………・…・……・………・・………・…・………・……70
参考資料………・…・……・…………・…・…・…………・…・…・………70
引用文献・参考文献…・………・……・…………・・…・…………・…・・……97
*東京家政大学生活科学研究所員
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緒 言
家庭科・家政学と呼ぼれている学問は,もと もと女子教育の一環として,家庭における主婦 の家事実務の習熟をE的として出発し,学校教 育の教科目として認められてきたものである。
人間の生活の場としての家庭,社会の一単位と しての家庭を対象とし,広い分野の問題を総合 しているために雑学として扱われたこともあっ た。また,教育としての家政指導を目的とする
「家庭科」と,研究としての家政の科学である
「家政学」と名称の使い方が混乱していること も事実であるが,これはその本質が理論的に明 瞭にされてい塗いために,研究の対象や方法が.
確立されていないからである。しかし,戦後に なって,新制大学の発足と共に,家政学部が誕 生し,家政学を独自の体系をもつ固有の学問と して成り立たせようと種々の問題提起がなされ,
これに対応し努力を重ねて今日に至っている 。 生活科学研究所では,「家政学の中心に人間 そのものが,実在しうる家政学のあり方につい て,新しい方向を模索するとともに,そのよう な家政学を実証的に構築する。」ことを目的と して,これにとりくみ,研究所研究報告第1集
〜第4集にかけて,初等教育,中等教育と,人 間の成長してゆく過程にそって問題の追求をし てきた。今回は,更に高等教育における女子教 育に対する指向性と実際とを戦前と戦後にわけ て考察する。
1 戦前の高等数育における家庭科教育
A 高等教育創設とその性格
近代における高等教育機関として,学制発布 以前は明治新政が旧幕府直轄の昌平坂学問所,
開成所,医学所を復興し,和漢両学を中心とし て,これに仏・英学科を設け, 西洋近代実学を 外国人教師が教授するように配慮し,ヨーロッ パの大学を範として,その創建を企画したが,
和漢両学派と洋学派の対立により,その成果は
見られなかった。しかし東京ではすでに開成所,
医学所の後身である南校(大学南校)東校(大 学東校)が文部省直轄の高等教育機関として存 在していた。これにより政府は将来高度の教育 機関設立企画による実現への整備の緒について いた事が知られる。
この時期は西洋文化の流入もあって,明治政 府直轄の長崎医学校,舎密局,その他慶応義塾 三渓学舎,攻玉舎などの洋学私塾や東京洋語学 校,名古屋洋学校などがあり,中には南校や東 校とならぶほどの教育が行なわれているものも あった。丁度その頃学制が発布された。明治5 年8月3日文部省布達13号学制の第38章で大学 について「大学ハ高尚ノ諸学ヲ教ル専門科ノ学 校ナリ」1)とあり,その学科として理学,化学,
法学,医学,数理学を提示している。後に理学,
文学,法学,医学と訂正され,また卒業生に学 士の称号を与えることも定められた。明治6年
4月には学制の条文を追加し,大学のほか,外 国人教師によって教授する高尚な学校をすべて 専門学校と称するとしている。この専門学校は 師範学校と同系統に属するものと考えられるよ うに,その学術を得たものは日本語を以って,
わが国の人々に教授するのを目的としていると 記されており,教員養成機関の根幹をなしてい たものと考えられる。明治12年太政官布告によ る教育令において「学校ハ小学校,中学校,大 学校,師範学校,専門学校,其ノ他各種ノ学校 トス,大学校ハ法学,理学,医学,文学等ノ専 門諸科ヲ授クル所トス 師範学校ハ教員ヲ養成 スル所トス 専門学校ハ専門一科ノ学術ヲ授ク ル所トス」2)とあり,大学校,師範学校,専門 学校それぞれの教育目的・性格を明確にしたと
いえる。
明治政府がキリスト教禁制を解く(明治6年 2月24日)とともに,今までにキリスト教主義 rの学校はなかったが,外国語を外国人宣教師よ り学び洋学を修めた者の中からキリスト教主義 の学校を開くものが出て専門学校の設立を見る に至った。古い歴史をもっている仏教界におい
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ても各宗派の教育機関も整備され創立されてい った。また神道においても同様であったが,西 欧思想の移入はキリスト教主義の学校が最も大 tきな力を持っていた。専門学校の本体をなして いたのは医学専門学校であった。明治17年には 公立30校,私立2校を数え,生徒数は4188人で
あった。
明治12年以後,自由民権思想が盛んであった 時は,これを背景に法律,政治学校が設立され ていった。明治18年には私立の法律学校は全国 に9校,生徒数は1575人を数えた。これらの私 立の専門学校の大部分はその時代の要求に応え て,一つの学科を教授する専門学校であり,厳 正の意味での高等教育機関の体制を備えていた とはいえない。東京大学成立の明治10年には官 公立大学および専門学校の校数は19校,生徒数 3238人に対して,私立専門学校は校数34校,生 徒数1894人となり,明治18年には官公立の校数 57校,生徒数7209人,私立の学校45校,生徒数 4321人となっており,高等教育段階においてそ
の教育上の力が大きくなっていたのである。こ の期を待っていた政府は,ここで明治5年の学 制発布以来の方針であった学校の制度化を行な った。すなわち明治19年3月に小学校令,中学 校令,帝国大学令および師範学校令を公布し,
学校体系の基本となる諸学校の制度の確立を見 た。さらに明治27年に高等学校令,明治36年に 専門学校令を公布し,専門学校の制度の確立を 見ることができた。明治時代後期には,小学校 から中等学校へ,中学校から高等学校または専 門学校へ,高等学校から帝国大学へと,その接 続関係も明確となった。これは義務教育の上に 接続する中等教育段階において男子には高等普 通教育を授ける中学校があり,中学校卒業者の 進学する高等教育機関に高等学校および専門学 校が設られ,さらに高等学校の上に帝国大学が あった。しかし女子の高等普通教育機関として の高等女学校,実業教育を授ける実業補習学校 も義務教育終了者の進学する国民大衆の学校と して位置づけられ,その上への進学は,はぽま
れていた。明治32年2月7日中学校令改正の公 布により,中学校は男子に須要なる高等普通教 育を為すを以て目的とす,とあり,また2月8
日高等女学校令の公布により,高等女学校は女 子に須要なる高等普通教育を為すを以て目的と す,とあり,高等女学校は制度的に男子の中学 校と区別され,別個の中等教育機関として成立 し,教授内容・程度共に女子のみの特有の性格 を整え,その後50余年間基本的にはその性格の まま第二次大戦後の教育改革まで固定されたま まであった。
B 教員養成機関
1 師範学校・女子師範学校
明治36年3月27日勅令第61号専門学校令(資 料1)が公布され,この専門学校令にもとずい て女子専門学校が設置されることとなった。女 子教育は封建社会においては家庭教育に依存さ れてきたが,専門学校令の公布によって女子の 高等教育の指向性を見ることとなった。この期 に至るまでの間,女子の高等教育に関しては空 白の時期であった。しかし女子の介入し得る教 育機関として,別系統ではあるが師範学校・高 等師範学校があったことを見逃すことはできな
い。
明治5年学制の実施に対応すべく,これに先 立って明治5年6月24日「学制実施細目ノ件伺
二対スル太政官指令」 (資料2)が布達され,
小学校教師の養成が急拠行なわれることとなっ た。小学校教師の養成には外国人教師を用い,
外国人教師による新しい教授法を外国語教授法 の直訳的輸入と伝達講習の方式によった形式で 勉学が行なわれた。この布達にもとずいて行な われた小学校教員養成は明治6年7月初めて第
1回の卒業生を出した。これは前年に54名入学 したうち卒業したものは10名であった。この少 人数では小学校教師の大量需要に応じられず,
短期講習によって応急措置がとられた。明治6 年,7年に官立師範学校を設け,7年3月には 東京に女子師範学校を開くこととなった。明治
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10年には公立師範学校は91校,11年には100校 となり,修業年数も2年制となった。公立女子 師範学校は明治8年石川県に設けられたのを初 めとして,11年までに岡山,富山,愛媛,山梨,
高知,島根,青森の諸県に開設され,家事・裁 縫の教科が加えられた。しかし政府の財政上か らか,明治18年10月に女子師範学校は師範学校 に合併されることになり,女子教員の養成は師 範学校において行なうことと文部省から府県に 達せられた。女子師範学校合併後の師範学校総 数は57校であった。明治19年に公布された師範 学校令による師範学校は,高等,尋常の二種に 分け,高等師範学校は文部大臣の管理に属し,
東京に官立1校を設置することとし,尋常師範 表1 尋常師範学校学科授業時間配当表
第一 学年 第二
学年 第三
学年 第 四 学 年 倫 理1・t・[・[・1
教 育
・181・i28
国 語31・1
漢 文
21・1・1
英 語51・1・131
数 学1413131
簿 記 2
地理歴剰3[3131
博 物[212i2i31
物理化学1・i212131 麟手工1・12i・161
家 事151・i・1・1
習字図画i41・1・[2【
音 楽
体 操
2
男6 女3
2
6 3
男1 女2
6 3
2 6 6 3
合 計134134134i・4128
学校は府県に各一か所を設置し,修業年限は4 か年,学科は倫理,教育,国語,漢文,英語,
数学,簿記,地理,歴史,博物,物理化学,農 業,手工,家事,習字,図画,音楽,体操とし・
農業・手工及兵式体操は男生徒に,家事は女生 徒に課している。師範学校の学科・授業時間配
当は表1の通りである。
2 高等師範学校・女子高等師範学校
高等師範学校は男子師範学科及女子師範学科 に分け,男子師範学科を理化学科,博物学科,
文学科に分けられ,修業年限は3か年でそれぞ れ独自の授業科目による教授がなされた。女子 師範学科は倫理,教育,国語,漢文,英語,数 学,簿記,地理,歴史,博物,物理,化学,家 事,習字,図画,音楽,体操とし,修業年限は 4か年である。女子師範学科の学科・授業時間 配当は表2の通りである。
表一2 女子師範学科授業ノ時間配当 1第一年1第二年1第三年i期年
倫 理1・1・1・12
教 司・1・141・4 国語激15131・i
英 語
61・131
欝簿記i3131・i 3 地理歴史}・131312
博 物1
31312
物理化学1
3131・
家
事13131・1・
習字図画1・13131
音 楽1・1・1・1・
体
劇313131・
明治23年3月25日高等師範学校女子部を分離 し,女子高等師範学校が創設された。27年10月 2日に女子高等師範学校規程が制定された。明 治30年10月9日に公布された師範教育によれば 高等師範学校は師範学校尋常中学校及高等女学
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校の教員を養成し,女子高等師範学校は師範学 校女子部及高等女学校の教員の養成をする所で あり,師範学校は小学校の教員の養成をする所
としている。高等師範学校及女子高等師範学校 は東京に各1校を設置し,師範学校は北海道及 各府県に各1校もしくは数校を設置するように 指示している。女子高等師範学校は明治30年10 月文科,理科を置くとともに専修科,撰科生の 制度を置き,32年2月には文科,理科のほかに 技芸科を置くこととなった。師範教育令が公布 されてから師範学校は急速に拡張され,女子の 生徒数が増加し,これによって独立の女子師範 学校が設置されるようになった。師範学校数・
卒業者数の推移によるその拡充状況を表3によ って知ることができる。
表一3 師範学校の学校数・卒業者数の推移 年 次
明治29
30
31
32 33 34 35 3637 38 39 40 41 42 43 44 45 大正2
師 範学校数
777924714679580366444455566666778888
ち範う師数の子校左女学 00003471114161719232527303233卒 業 者 数
男
女
960503821354509243712004567916854525815017269008024911
3◎4臥⑤乞乞◎易33島4広広3句5826933017228255375909427088889289112263424881012250122
勾勾再勾Z勾勾勾勾勾勾乞2︐竃なお師範教育令によって私費生が認められる ようになった。また師範学校,中学校,高等女 学校の拡充に伴い中等学校教員の養成と検定の 方策が整備拡充されていった。明治35年3月に 広島高等師範学校,41年3月に奈良女子高等師
範学校が新設された。明治42年3月女子高等師 範学校規程を改正し,東京女子高等師範学校に は文科,理科,技芸科を置き,奈良女子高等師 範学校は予科4か月,本科3年8か月の制度で,
本科に国語漢文部,地理歴史部,数物化学部,
博物家事部を置いた。44年11月東京女子高等師 範学校は文科,理科,技芸科の各科をさらに第 一部,第二部として6種類の専攻を認め,大正 3年3月ふたたび両女子高等師範学校の学科を 文科,理科,家事科の3学科に整備され,修身,
教育,外国語,家事,音楽のほかは学科によっ て独自の科目を置くことになった。
3 臨時教員養成所
昭和35年3月28日臨時教員養成所官制が公布 され,帝国大学直轄学校において,師範学校,
中学校及高等女学校の教員を養成するに当って 臨時教員養成所規程を定め,第一から第五まで
5か所設立された。明治39年4月2日東京女子 高等師範学校に第六臨時教員養成所が設置され,
英語科が置かれた。明治42年には英語科が廃止 され家事科が置かれた。なお大正10年に家事理 科が置かれた。大正3年にはこの第六臨時教員 養成所1校のみが存置し他は廃止されてきた。
しかし再び臨時教員養成所設置の機運がたかま り,大正11年4月に臨時教員養成所規程が改正 され,新しく第一から第四まで臨時教員養成所 か設置された。既設の第六臨時教員養成所には 家事理科,家事体操科のほかに新しく国語漢文 科,理科が置かれた。その後第十六臨時教員養 成所まで設置されたが,昭和8年には第六臨時 教員養成所のみとなっていたが昭和14年にこれ も廃止された。臨時教員養成所は社会の要望に よって必要に応じ,臨時的に設置または廃校に された中等学校教員養成機関であった。臨時教 員養成所の家事科の生徒は指定学校への委託が 明治45年に認められ,委託生を出していた。・
C 専門学校の設立とその性格
専門学校について従来統一的方策はなく独立 の規定も設けられておらず,各種の専門学校が
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必要に応じてその設置が認可されていた。明治 36年3月専門学校令(資料1)がはじめて公布
された。これによると専門学校は高等の学術技 芸を教授する学校であると規定している。明治 20年代から30年代にかけて中等学校の増設,生 徒数の増加により中等教育機関の拡充はめざま
しく,高等教育の整備をうながされる情況とな った。ここに高等教育機関として,大学の他に 専門学校の存在を認め,これを正しく学校体系
・の中に位置づけ,高等教育機関としての果たす べき役割を明らかにした。中等教育から高等普 通教育を授けることなく何んらかの専門の学芸 を修めるのに入学をする学校が専門学校である。
この時期には大学は帝国大学令で認られたもの だけであった。専門学校令では専門学校を官立 のほかに公立・私立の学校を認めた。その入学 資格は中学校または4年以上の高等女学校卒業 者を原則とし,修業年限は3年以上と定めてい る。音楽,美術に関する専門学校は別に入学規 程が定められた。専門学校には予科,研究科,
別科を設置することが出来た。また専門学校入 学者検定規程を定め,男子は満17年以上,女子 は満16年以上の者に受験の資格が与えられた。
これは独学者の専門学校入学への機会が与えら れる制度であった。また我国産業界の近代的産 業は日清戦争を期としてその形態をととのえて 行った社会情勢に伴って産業教員制度へとおよ び,明治32年2月7日実業学校令が公布され,
35年4月1日には実業学校教員養成規程が新た に制定された。これが専門学校令の制定ととも に実業学校令が改正され, 「実業学校ニシテ高 等ノ教育ヲ為スモノヲ実業専門学校トス,実業 専門学校二関シテハ専門学校令ノ定ムル所二依 ル」3)という規程が加わって,実業専門学校は 事実上専門学校令の規程によるものとなった。
これは工業,農業商業などに関するものを対 象にしており男子向きの専門学校といえる。
専門学校令公布により,官立では医学5校,
外国語,音楽,美術は各1校の専門学校の設立 を見た。公立・私立の専門教育機関のうち専門
学校に認められた専門分野は,医薬学5校,法 律学11校,文学10校,宗教100校に達した。当時 大学は帝国大学以外には存在していなかったの で専門学校と大学とは制度上はっきりと区別さ れていた。しかし専門学校令にもとずいた私立 の学校で大学の名称をつけているものが数多く 見られた。これは明治36年に文部省が1年半程 度の予科をもつ専門学校に対して「大学」とい
う名称をつけることを正式に認めていたからで
ある。
専門学校令が実施されて以後,明治40年代か ら大正初年にかけて,これにもとずいた専門学 校が多数設置された。特に目につくものとして
日本女子大学校,津田英学塾,東京女子医学専 門学校などの女子専門学校が設立されたことで ある。学制百年史によれば明治36年には専門学 校39校,実業専門学校8校,計47校であったが 明治43年には専門学校62校,実業専門学校17校,
計79校となり,在籍者総数約33000人(うち女 子1000人)に達していた。大正5年には専門学 校は官立8校,公立5校,私立54校あわせて67 校,他に実業専門学校は官立18校,公立2校,
私立3校あわせて23校で総合計i数は90校に達し ており,生徒数は42000人 (うち女子1600人)
で,専門分科別にみると官立専門学校は外国語 学校,美術学校,音楽学校各1校,医学薬学専 門学校5校,公立・私立専門学校には医学・薬 学関係11校,法学関係10校,文学関係13校,宗 教関係21校,養術1校,体操1校,家政1校,
植民1校 合計59校である。大正8年から15年 までの間に官立専門学校は5校,公立専門学校 は8校,うち6校は府県立女子専門学校である。
私立専門学校は57校設置された。内訳は文学・
宗教31校,薬学11校,医学・歯学系9校,経済 系,芸術系各2校,体育,家政系は各1校であ る。女子専門学校はこの57校中,28校でそのし める割合は高くなっている。これを期として大 正末期から昭和初期にかけて次々と女子専門学 校が認可された。これらの女子専門学校の多く は家事,被服関係が多く,医学,薬学関係,文
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学・国語・芸術等がこれについでいた。
女子の高等教育はその内容が当時の社会的欲 求によった女子向きの高度の技芸と教養を高め
ることであった。明治10年代よりの古い歴史を 持った裁縫系の学校は「裁縫の科学的研究」と これについての「補助学科」を増加することに よって女子専門学校に昇格する途が開かれた。
これによって大正11年に東京女子専門学校が認 可され,その後大正14年に実践女子専門学校,
共立女子専門学校,昭和2年に東京家政専門学 校,昭和3年に和洋女子専門学校等々相次いで 女子の教育機関としての専門学校が設立され,
専門学校へと組織替えをした。大正15年に家事 または裁縫の中等教員免許状を文部省から授与 されることとなった。ちなみに東京女子専門学 校と第六臨時教員養成所について見れば,明治 45年3月に臨時教員養成所の家事科の生徒の指 定学校の委託が認められ,同年11名が東京女子 専門学校(当時は私立東京裁縫女子校)に委託 され,以後大正14年まで継続され,昭和3年の 卒業生を以て終えた4)。当時の女子専門学校は 高等教育ならびに殊に高度の技芸を身につけ,
高等女学校の教員養成の機関でもあった。また 女子専門学校は女子の高等教育機関として唯一 のものであった。しかし女子教育に関しては明 治26年の文部省訓令によれば,女子の教育は将 来家庭教育に関係することが大であるから実用 的教科を教えるべきであるとし,また,明治32 年高等女子学校令における女子教育に対する根 本理念は家族制度にもとずく良妻賢母主義であ
り,この教育理念は一貫して変わることはなか った。すなわち女子の高度の教育には専門化し た高い教育は必要としないとし,職業との結合 に対する必要性も,当時の社会での理解は乏し
く,必要とは考えられていなかった。
D 戦時下の高等教育
昭和6年の満洲事変は我国の教育上にもその 影響がおよんでくるようになってきていた。昭 和12年日華事変によりさらにその影響は大きく
なり,戦時下教育という考えが強くなっていっ た。昭和16年10月勅令によって,大学・専門学 校および実業専門学校は16年度から在る在学年 限または修業年限を臨時措置として1年短縮す ることができると定め,これにより16年度は3 か月短縮して12月に卒業させ,17年度には6か 月短縮し9月に卒業するような措置をとった。
この16年12月太平洋戦争に入ったのである。こ こに戦時教育体制をとるように要請される情勢 に変化していった。18年には戦時非常措置がと られ,教育上にもきびしい要請として高等教育 の戦時体制に急激な強化を示すようになったb すなわち学徒動員,勤労動員の要求が強くなり,
昭和19年には決戦非常措置がとられ,緊急国民 勤労動員,緊急学徒動員が急速に進展していっ た。昭和20年5月に戦時教育令(資料3)が発 せられ,男子は戦場と工場へ,女子は工場へと 動員されていったために学校としての機能はほ とんど失われ,研究機能も戦時の目的への研究 へと動員された。遂に学校における授業は事実 上停止する方向をとった。
・ 青年師範学校
昭和10年4月戦時色が強まると共に青年訓練 所と実業補習学校を総合して一般の多くの青年 を対象にして青年学校制度が創設され,女子に は家事及裁縫が訓練科目に加えられた。戦時下 にあって社会教育として特殊な性格を持つ青年 学校は昭和14年4月から義務制となった。これ の教員養成機関として青年学校教員養成所が昭 和10年4月に設置された。この青年学校教員養 成所は青年師範学校の成立によって19年4月に 廃止された。昭和19年2月師範教育令中改正に よれぽ青年師範学校は青年学校教員となるべき 者の錬成をすることを目的とすると示され,修 業年限は3年,入学資格は当該学校予科を修了 した者,中学校,高等女学校の卒業者となって おり,男子部,女子部を置き,青年師範学校規 程によれぽ,女子部の学科目は修身,国史,国 勢,国語,教育,体錬,芸能の理数,家政,育 児,保健,被服,実業,実験実習とし,その教
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育の高度化をはかっている。家政について「家 政,育児,保健及被服ハ我ガ国ノ家ノ本義ヲ明 ニシ家庭二於ケル実務二関スル知識技能ヲ習得 セシメ皇国女子タルノ徳操ヲ酒養シ教育者タル ノ資質ヲ錬成スルヲ以テ要旨トス」5)とあり,
また青年師範学校制度実施についての訓令中に
「女子二付テハ家庭生活二関スル学科目ヲ中心 トシテ他ノ学科目ヲ併課シ各学科目ハ理論ト実 際トヲー体トシテ修得セシムルコトニ主眼ヲ置 キテ教授事項ヲ整備シ青年二対シ其生活ノ全体 二互リテ指導ノ実力アル人材ノ養成ヲ期シタリ
…」6)とある。これらからその教育志向を知る。
それは女子と家庭生活との一体化にもとずいて 家庭における生活現象全般にわたっての処理運 営に対する理論と実際とその応用力に長け,こ れに対処し得る女子の教育を期待してその指導 者の養成が行なわれていた。予科における女子 表4 青年師範学校女子部学科目及授業時数 学 科 目 毎 週 授 業 時 数
第・学年1第・判第3学年 修国国
剃 ・1・1
史勢 2国 31・i
語
3131
3教 育1・}・1・
体芸 釧 ・i・1・
能1・1・【・
理
数1・1
家 政i・121・
育 シ日し
2 2
保
健1・1616
服1616[6
教
育
実
習
の教科を見ると国民科,理数科,家政科,体錬 科,芸能科及実業とし,家政科は家政,育児,
保健及被服の科目に分けられている。ここに青 年師範学校女子部,予科,師範教育令による女 子部の当時の学科及授業時間配当を表4,表5,
表6に示す。
表5 予科教科科目及授業時数 教 科 科 目
国 民 科
理 数 科
被
実 剰 ・13i 3
修 練1・1・
家 政 科
体 錬 科
芸 能 科
身語史理修国歴地 学象物
数物生 政児健服
家育保被
操道練体武教音書図工
楽道画作
毎週授業時数 第・学鞭・学年
−⊥FO
4
4 4
4
4
4
4
−⊥﹇D
3
2
4 5
毎週授業総時数136!361361鱗 実験実習1(否欝(否欝(否欝
4
4
4
4
実
業 科1・14
修 練1・1・
総 時 数1・・14・
わが国の女子の高等教育を学制発布より第二 次大戦の終了までを見るとき,第1に挙げられ るその教育形態は教育者養成のための教育を目 的としたものであり,第2に女子の専門的職業 教育を目的とし,第3に女子向技芸と教養を高 める教育を目的としたもの,第4に高度の一般 教育を目的としたもの,とに分けられると考え
られる。明治36年専門学校令の公布されるまで は,高等女学校が女子教育における高度の教育
一54一
表6 師範教育令による女子部学科目及授業 時数
学 科 目 毎週授業時数
第・学鞭2学年
修国国 身1・1・
史勢
3 2
国
語
313
教 育i・13
体 錬1・14
芸 能
・1・
家 政1・1・
育 日しーノ
2 保
健i616
被 服1817
実 業1・1・
修 練1・1・
教
育
実
習
毎週授業繍間釧361361脳
・実験実習1(否欝(否欝
であった。明治初期から女子教育に関心を持ち これに力を入れねばならないとの意向が中等教
,育の発展によってその実現化が行なわれたが,
第4の目的に対し封建的儒教精神による女子は 家庭に,そして良妻賢母であるべき,という根 本的女子教育の理念が底流としてあったことは いなめない。女子高等教育への解放,発展は戦 後の女子教育への一大変換を待たなければなら
ない。
皿 戦後の高等教育における家庭科教育 高等教育における家庭科は,明治初期より次 第に発達してはいるものの,はなはだ低調であ り,明治期,大正期,昭和前期にわたる80年間 の各時代の進歩の上に顕現されていない。
むしろ,昭和20年以降から現在に至る昭和後 期において新しい家庭科が誕生し,発展してき
たといえる。そして,新しい性格と内容をもつ 家庭科の発達は,経済的には産業革命の発生に より,社会的には,社会民主化の進行により,
次第に形成されていったのである。
即ち,産業は農業中心から商工業主体に移行 し,生活必需品が次々と商品化され,量産化が すすめられていった。また社会民主化にそって 社会政策や社会福祉政策も広く実施されてきて,
家庭内の人間関係も民主化によって,家族制度 が変容し,新しい家庭を創造するための努力が なされてきた。
教育法規の上からは昭和21年2月1日に文部 省令第3号により大学規程の改正がなされその 第5条に「大学予科入学者に女子の中等学校を 卒業したるもの」という項が入り,女子の大学 への進学がみとめられ,昭和22年7月8日には 大学基準協会の決定として,新制大学が発足し,
その一般教養科目の社会科学関係に家政学があ げられ,家庭科教育の位置が示されている。
A 漸定期の高等教育
漸定期に於ける家庭科教育はこの中にあって 社会を見なおし,人間関係を見なおし,勤労の 方向をきめてゆく上に,現状を正しく把握する
ことに努めていた。
家庭科教育の中での古い時代と昭和20年以降 での新しい時代との特質のちがいをみると,
「家庭経営の主宰者」は夫と長男の男性中心 のものが夫婦対等の協調と協力によってすすめ られ, 「家庭経営の様式」は個別的の家庭経営 が社会連帯的な家庭経営にうつり, 「家庭経営 の目標」はこれまでの家系の存続と一家の繁栄 が新しい家庭の建設と家族全員の幸福へとあら ためられ,「家庭生活の目安」は身分相応の暮
しであったのが,科学的,合理的原則に基づく 暮しに変り,したがって「家庭消費の倫理」は 耐乏と節約の原則であったものが,科学的,合 理的消費原理にしたがうようになってくるので
ある。
「家庭科の名称」もその内容に基く,細分化
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にすぎなかったが,逆にその内容を総合した統 合的名称となり,「家庭科の目標」も,各種家 庭的技能の上達をめざすにすぎなかったのが,
総合的家庭経営観念の確立という方向となり,
「家庭科の内容」は家庭関係は除外されていた のに対して家族関係を道徳その他より,包含し てきている。その「家庭科の対象としての家庭」
は,上層と中層の家庭であったものが,全国民 大衆の家庭としてとらえるようになり,「家政 研究に対する取扱い」は家政学と家庭科内容の 分裂的取扱いであったものが総合的に取扱われ
るようになってきた。また「家庭科に対する評 価」がこれまでの過大評価が見直され,正当に 評価されるようになり, 「教育政策と家庭科」
は,国家の教育政策として利用されていた家庭 科が,本来の正しい教育政策と理想の家庭科と の調和と推進のためにあらためられてくること などがあげられる。
これらのことが徐々に形成されたのは終戦後 の混乱の中で示された占領政策の批判と共に,
幾多の障害をのりこえてきた結果であるといえ
る。
昭和20年までに全国各地に多くの女子専門学 校が設置されていたが,大学令による女子大学 は,その設置をみるに至らなかった。そのため 当時大学に学んだ女性は聴講による一部のもの にすぎなかった。家庭科教育が古い歴史をもち ながら全く停滞していた原因はここにもあると いえよう。
B 新制大学の設置とその発展
L 新制大学の設置と家庭科・家政学の確立へ の道
(1) 新制大学の設置
終戦当時,わが国の大学教育は男子のために は帝国大学7校,官立単科大学11校,公立大学 2校,私立大学25校あったが,女子のためには 唯一つの女子大学もなかった7)。
昭和20年10月9日に幣原内閣の文部大臣前田 多門氏は東京都内の女子教育者を文部省に談会 招いて「将来の女子教育のあり方」について懇 を開き,また10月15日に全国教員養成校の校長 および地方視学官を東京女高師講堂に集めて
「教育方針中央講習会」を開いて女子教育の水 準を向上する考えを述べている。
また,昭和20年12月4日には「女子教育刷新 要綱」という文部省案が閣議了解要綱として発 表している。それによると,
1) 女子の大学入学を阻止したこれまでの規定 を改めて,文部大臣の指定する女子専門学校の 卒業者には大学入学の資格を与えることとする。
2) さらに進んで現在ある女子専門学校の中で 適当なものは,女子大学たらしめるようにする。
3) 大学は男女共学制を実施する。
当時文部省が女子の高等教育の刷新について 非常に意気込みをもっていたことがうかがわれ る。さらに文部省は昭和21年1月に女子のため に一般大学を開放するように指示し,前記のよ うに21年2月1日文部省令第3号により,女子 の大学進学がみとめられることとなったのであ
る。
昭和22年(1947)から,従来の大学と専門学 校は,新制大学として改組された。この時,旧 来の女子専門学校も当然新制大学に移行したが,
問題になったのは旧制女子専門学校の裁縫科・
家事科・家政科・家政理学科など,女性の特殊 教科を新制大学の家政学部や家政学科として発 足させることについて,認定するか否かという
ことであった。
これは過去の大学昇格のための経緯に大いに 関係がある。大正7年(1915)に本科の上に専 攻科を設置した東京・広島の高等師範学校が,
大正12年(1923)大学昇格を承認されて,やが て昭和4年(1929)に大学令による文理科大学 に統合昇格した。これが契機になって,女子師 範学校も東京と奈良の両校が同窓会を提携して 昭和2年(1927)に「女子師範大学」の設置を 文部省に要請したのである。
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ところが「女子師範大学」を設置するについて は,「大学令に女子の入学規定がないこと」「男 女の機会均等は時期尚早であること」 「女子に 高等教育を施すことは,家族制度の破壊である と考える者があること」 「女子師範大学は家政 科を中心とすべきであるが,家政科は学問とし ての体系をとり得るや否やは疑問であるとする 説が多いこと」などの理由から「女子師範大 学」案は師範教育調査委員会の了解を得られず に削除されたという過去の事実がある8)。
その後,東京女子師範学校は昭和20年11月に
「女子帝国大学」の形で,女子教育刷新要綱の 出る前に,文学部,理学部,家政学部の3部か
らなる国立女子大学の設置案の実現を文部省に 要望した。この家政学部には育児学科, (第一一 講座育児衛生学,第二講座家庭教育学), 食物 学科(第一講座栄養学,第二講座食品学,第三 講座調理学), 家庭理学科(第一講座家庭物理 学,第二講座家庭化学,第三講座家庭生物学),
家庭経済学科(第一講座家庭一般経済学,第二 講座特殊家政経済学)の4学科10講座でそのほ かに特別講座として,第一講座住居学,第二講 座家庭衛生学,第三講座被服学がおかれている。
この案で著るしく眼につくことは,被服関係の 学科がなくて,僅かに特別講座として被服学
(被服材料学,被服構成学)があるだけであっ た。これは現在から考えると了解しがたいこと であるが当時の裁縫が学問として,校内でも校 外でも認められにくかった情勢のあらわれであ
ったと思う。
生活における被服の重要性はいうまでもない のだが,その研究態度,方法に学問としてのお くれがあったことは認めざるを得ない。卒直に いって家政学の体系的研究に欠けていたところ があったためといえよう。
これを受けた文部省は,翌昭和21年,これを 昭和22年度から設置するという省議を決定した が,この案の中には「家政学部」は含まれてい なかった。これは大学基準設定協議会の委員の なかに家政学を学問として設定することに反対
があったためである。しかもこの国立女子大学 案は大蔵省の予算査定でおち,承認が得られず に実現するに至らなかったのである9)。
家政学が学問,科学として認められないのは,
「衣に関する問題は工学部や医学部で研究し,
食に関するものは農芸化学や栄養学で研究すれ ばよい」という大学基準設定協議会の委員もあ った。また「家政学独自の深い内容をもつどん な研究業績があるか,どんな研究者がいるか」
などといわれたという。また当時一部の識者を 除いては,女子専門学校の家事科,裁縫科は女 子教育に特有な学科であり,ことに調理・裁縫 に関する実技を重んずるものであるから,これ を家政学と称して,一・つの独立した専門の学術 とみなすことは困難であると考えられていたの
である1°)。
昭和21年1月に占領軍は,日本の教育制度の 改革と占領下の教育計画を立案する目的で,米 国政府に教育使節団の派遣を要請し,その結果 ジョー一ジ・D・ストダート(Jorge D.イリノ イ大学総長)をはじめ27名の使節団員を任命し,
昭和21年3月5日一行は来日した。
日本側もこれに対応して南原繁(東京大学総 長)を委員長とし,29名からなる日本教育家委 員会を組織した。そして双方の調査団と委員会 が今後の新教育の方向について調査,討議を行 い3月31日には占領軍総司令部に対して報告書 を提出している。
報告書の内容は「日本人が自らその文化の中 に,健全な教育制度再建に必要な諸条件を樹立 する援助」に関する積極的な提案に主眼がおか れ,次の10項目をのべている広範囲なものであ
った。
(1)日本の教育の目的及び内容,(2)修身・地 理・歴史の取扱いについて,(3)保健衛生教育 及び体育計画,(4)国語の改革,(5)初等及び 中等学校の教育行政,(6)養務教育の9年制
(六三制)(7)教授法と教師養成教育(8)成 人教育 (9)高等程度の学校における自由主義 教育の機会増大(高等教育) ⑩ 高等教育機
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関における教授の経済的及び学問的自由の確立 といった諸項である。
戦後の六三制をはじめとする学制,教育のあ り方が,この報告書に基づいていたわけである。
総司令部は,この趣旨が実現されるように,日 本政府に勧告し,その実施のための委員会の設 置を指令したのである。そこで日本政府は先の
日本教育家委員会を改組し,昭和21年8月10日 新たに教育刷新委員会を設置したのである。
教育刷新委員会は当時の「教育上緊急に解決 を要する諸問題」にとりくみ,(1)青年学校
(2)義務教育年限 (3)教員養成制度,(4)教 員の待遇 (5)教職員の身分保証,(6) 教育内 容 (7)国語改革 (8)教授方法 (9)教育行
政⑩教育財政⑪公民教育⑫体育保
健 ⑬ 科学教育 ⑭ その他の重要事項の それぞれについて,.敗戦後の新制日本の教育改 革の具体案を策定する重責を負うことになった。
昭和21年12月27日に教育基本法,学校教育法 に関する六三制義務教育を含む教育改革案を建 議し,この建議にもとついて昭和22年2月に文 部省は新学制実施の方針を発表し,小・中学校 は昭和22年度,高等学校は昭和23年度,大学は 昭和24年度から実施して六三三四制を発足させ ることにし,同時に義務教育年限を9年間とす ることとなった。つづいて3月31日には,新し い教育理念を盛った「教育基本法」と,新しい 教育制度を規定した「学校教育法」とが公布さ れてここで戦後の新教育体制の方向が定ったの
である。
ここに至り,やっと家政学についての理解も 深まり,新制大学の基礎科目として,一般教養 科目の社会科学関係科目として,法学,政治学,
社会学,経済学とならんで採択された。(資料
4)
さらに「生活科学」も自然科学関係科目とし て物理学・化学,生物学とならんで採択された。
専門科目としての「家政学」は応用科学の一つ として農学・工学・社会事業学などとならんで 承認された。これは過去80年間の永い歴史をも
つ家庭科・家政科が初めて学問・科学としての 学界の承認を得たことになるわけである。
この陰には女子教育関係の大学基準設定協議 会の委員や女子教育に理解のある人々の無心な 協力とC・1・E(総司令部民間情報教育局)
側のホームズ博士(Dr. Lulu Holmes)の力強 い支持・助言などがあって,ようやく議案の通 過をみることができたといわれている11)。
他に女子の高等教育刷新ということで「女子 大学連盟の結成」も忘れてはならない。
これは東京,関西その他各地の女子専門学校 で女子大学設立の動きが活発となってきて,女 子大学昇格にふさわしい内容と伝統をもつもの が加入し,大学内容の研究を行い,協力して女 子大設置の実現を目的とする連合組織であった。
C・1・Eでは大学の設置基準や大学設置の審 査等に関して全般的な指導,助言にあたってい たが女子大学の創設については特に情熱をもち わが国の女子大学,家政学部の創設史について は大きな役割をしていた。
この連盟の前身は昭和8年に日本女子大,東 京女子大,津田英学塾の3校が協力して,女子 高等教育の発展につくすためにつくられた3校 連合会であるが,ホームズ女史の助言で,聖心 女子学院専門部,東京女子高等師範学校が中心 となり企画し,全国の伝統のある有力な女子専 門学校11校が発起校となって,全国の大学の設 立を熱望する女子専門学校に連盟参加をよびか けた結果19校の加盟校で女子大学連盟として発 足したものであった。
この加盟校の中に現在の有力女子大学の名が ないのは,発起校が連盟の勧誘した学校のリス トになかったためでもあるが,それらが,すべ て家政単色の学校でUniversityは一学部では なく複数学部をもつものと考えたのかもしれな い。又企画校の教職員の中には家政を特別に技 能的にみていたのではないかともとれるのであ る。なお女子医専,女子薬専も連盟校にないの も女子の学校とみるより特別な専門教育の学校 とみたことによるのかもしれない。
大学設置基準の設定については,文部省が,
昭和21年秋にC・1・Eの示唆により,新制大 学の設立に関する基準をつくるために,大学設 置基準設定協議会をつくることとして,東大,
東工大,などの官立大5校,慶応,早稲田など 私立大5校から1名つつ10名の委員を委嘱し,
新制大学の施設,経営に関する事項と教育に関 する事項を審議して,大学認可の基準をつくる
ことを目的としたのである。
その後,委員が,家政,音楽,美術,体育等 にこの方面の大学がなかったので関係専門学校 の教職員から依嘱され増員した。また女子大学 のために専門とは別の分科会が作られた。
この中で家政学部のおかれている立場は,大 学の学問として今までなかった家政学というも
のが他の既成学問のように高度の研究業績があ る筈もなく,研究者も家政学の分野ではいない し,関係分野にはなかったことが,教授の選考 の問題を苦しくしていた。
この大学設置基準設定協議会はさらに発展し て,地方の大学の代表者も加わった全国的な組 織となり,昭和22年に「大学基準協会」となっ たのである。
この協議の間に家政学の分科会がひらかれて いろいろの意見が述べられている。
日本女子大でひらかれた家政分科会では,大 橋広委員は「家政学部には学科はおかず,生活 科学系,生活芸術系,児童学系の3系を設けて,
学生の選択制にしたらどうか」「いままでの家 政学は各論だけである,これから家政学が大学 の学問として他の学問と対等に立つためには家 政学の哲学というべき家政学原論の上に建てら れなけれぽならない」と述べ,林 太郎委員や 児玉 省委員も賛意を表していた12)。
家政学部ということで大学設置基準が練られ ていったのはこの頃からであった。
昭和22年4月より,文科系,理科系,家政系 の三つに分けて基準の内容について話し合われ たが,理科系分科会と合流したり,家政学部基 準はよせ集めで雑然としていると批評されたり,
家政学独自の研究分野はどんな分野であるのか を示す方が重要であると問われたりしたりした,
好意的であるもののそれほど関心はなかった。
しかし22年7月に基準が作成され,8月5日に 大学基準設定協議会中央委員会により原案が可 決承認され,大学家政学部の設置が決定したの である。わが国最初の「家政学部設置基準」(資 料5)となったわけである。
家政学部の目的として「家庭生活並に之に類 する集団生活に関する学芸を教授研究して,生 活文化の向上発展に寄与する能力を展開せしむ ること」に決定されたが,この中の集団生活は どこまで拡げるかが問題で,討議が熱心になさ
れた。
また,日本女子大学の家政学科の先生方が家 政学の定養として「家政学とは自然科学,社会 科学,芸術に関する知識および技術に基いて家 庭生活およびこれに類する集団生活の物的なら びに人的両方面の運営,管理,調整などに関す る総合的研究をする学問」であると結論された ということが日本女子大学園史に出ている。
基準の作成中に従来の家政学から脱却して新 家政学にうつるために学科目の名称をかえたも のもあった。料理が調理に,裁縫が被服工作に なったのもこの時である。
(2) 家政学部の設置
このあと現実に家政学部として設置されるこ とが承認されたのは昭和23年で,日本女子大学 であった。当時C・1・Eは教育の民主化を急い で実現する必要があるという理由で六,三,三,
四制の新学制を22年度に全部実施するように要 求したのであるが,文部省は実施の困難を理由 に反対したが押し切られた形で昭和23年度から 私立の新制大学を発足することになったのであ
った。
この頃は新制大学の教育の具体的構想がまだ はっきりとしていなかった時期で,米国教育使 節団の勧告にある一般教養の重視という線は出 ていたが,大学の当然の使命である学問研究と