檀 信徒
と
共
に
阿
字
の
法
を
観
る
〜吉祥
院阿字観
道場
の実 際〜
片 野
真 省
プロ ロー
グ〜
教 化 宗 団 が その存 在 意 義 を見 失 う と き〜
お よそ、 ど んな状 況であ れ、 特に宗 教 集 団には、 本 来 的な姿を求め るベ ク トルと、
現 状 を受け 入 れ、
生 き な が ら え る た め に 曖昧 模糊 に し ようとするベ ク トル の双方が、
互い の方向性や勢い を牽制しつ つ、
宗団 を維持 するための バ ランス を保っ て存続し てい る。
原理主義的 な動き と現状 追 認 的 な流れは、
宗 教の みな らず、
こ の世の中に はどこを切 り取っ て も、 そ うし た せ めぎあい の中で、
両極へ の振幅を繰 り返 し な が ら 歴史を刻んで ゆく。
宗 団の維 持がま まな らず、
歴 史のうね りの中で姿 を 失っ た集 団 は、
このバ ラン スを極 端に欠 いた り、 歴 史の うね りに抗 し切る酎力 を 欠いてい たか らに他 な ら ない。 耐 力 を体 力と置き換え ても差 し支え ないが、
そうし た体力と な る何ら かの備蓄 を 怠っ た結 末が、
悲 しい結末を呼び起こすこと と なる。 さて、
そ れでは既 成 教 団にとっ ての体 力 と は何 だろうか ? これ は 醫 う ま で もなく弘 法 大 師 空 海が遺し た言 葉 「法は 人によっ て弘ま る」とい う こ と に 尽き る だ ろう。 それでは、
その邸
人”
は どのよう な 入か ? これも言 う まで もな く興教 大 師 覚 鑁の 「もしバ ンが虚 言と言 う なら、 之 を修 して自 ら知れ」 ニ た く とい うこ と である。 いろいろ と御 託 を並べ てみても無意味。 自分で考え、
自 分で修し、
自分 で実践する 人材 を育て るこ と。
その ことに終 始し、
こ の こ と に最優 先で取 り組 ま なけれ ば、 既 成 教 団の体 力は お ぼつかない。
狭い視点や 思い つ きや対 処 療 法に終 始 するだ けで は、
体 力は蓄 えら れない。
その場その まつ
りごと 場のた か だ か 4年の 政 で、
指導者が 己の立 場 を忘れ て都の 享 楽に浸る だけ な ら、
その宗 団 は歴 史の うね りの中に自 らの姿 を埋 没 させ ること になる。 (191)少しだ け時間 を後 戻 りさ せ て
、
既成 教 団のこれ までの動 向 を見 渡し て み る と、
戦後の動 乱 期 を乗 り越 えて、
大 衆が貧 困 か ら遣い上 が り、
全 う な暮 ら し を手に入れ だ した頃、
人々は豊かな生 活を手に 入 れ るこ と と引 き換え に、
自 分自身の人 間性とい うか、
存在意義に確か な手ご たえ を感じ ら れ なくなっ た。
心の支え となる より所 を見 失い、
何かを希 求 し始め る。 そんな時に、
そ う し た 大衆の心の支 え と して、
.
多くの新 興 宗 教 が 台 頭 した。 こ の新 興 宗 教の多 く は、
既成 教 団が経 済 的 基 盤 と していた寺檀関 係に風 穴を開 け、
それぞれ が独 自の方 法、
戦 略で大 衆の信 仰 心 を掘 り起こ し、 目覚めさせ、 教 線の拡張に成 功 した。 都 市 部 を中 心とした各家の仏 壇に、 新 興宗教の位牌や お札が次々 と 祀 られ、 既 成 教 団の檀家の仏壇は、
さな が ら、
新興宗教の波に侵さ れたかの ようであっ た。
そんな状況に慌てた既 成 教 団 は、
そ れ ぞ れの実 態 に応 じた、 い わ ゆ る 教 化 運動をス ター
トさせ、 新 興 宗 教 か ら檀 家 を奪 還ナ
る動 きに転 じようとした。 しか し、 こ の 目論 見が思 惑 通 りに 進 む こ と は難し かっ た。 そのた め、
真言宗 智山 派は、
平 成9 年度より教化推進の軸 足 を大 き く動 か し たのであ る。
そ れ ま で の スロー
ガ ン化さ れ た 「つ く しあい」理 念にも とつく教 化 活 動に終 止 符 を打ち、
教化目標 と教 化 年 次テー
マ を核 と した推 進 施 策 に リニ ュー
ア ルした。 こ の教 化 推進策の特徴 は、
大 き く2点 あ る。
ひ とつ は、
これ までの つ くし あい は、
どち らかと言 う と、
寺 院 が檀 信 徒にどの よう に関わる か? とい う視 点を主体に、
教化活動に取り組 むこと を推 進 させて きた。 しかし、 平成9
年 度か らの教 化 推 進 策は、
檀 信 徒が信 仰を深め る た めの活動に、
具体的 に ど う 取 り組む か、
そ うし た櫨信徒の信仰心の育成に寺 院住 職・
教 師 が どの よ うに 関わ り、
共に宗 教 的 感 動 を得 る か ?を課 題とした。 も うひ とつは、
住職教師 も檀 信 徒 もそれぞれ が、 輿味を抱いたり、
得意である活 動 を 選 択 して実 践で きる、
ま た、
宗団は そ う し た選 択に応 えら れ るシ ステムを、
宗 派・
教 区双方 で連 関 し合いなが ら構 築 するこ とを 目指し たのである。
経 済 的な事情か ら檀 信 徒 教 化の余裕が ない、
ま た、
住 職の得 手 不得手か ら取り組み にくい教 化 活 動などは、
教 区に おける教 化推 進 会議や宗 派主催の檀 信 徒 研修会が対応 する (192)檀信徒と共に阿字の法を観 る (片 野 ) とい うセ
ー
フ テ ィー
ネッ トも備え ら れ た。 ま た、
つ くし あい では 「家の宗教か ら個の宗教へ 」とい う高い 理 想が謳 わ れ た。 しか し、
そ れ か ら 四半 世紀以 上を経て、
い まの 日本の既 成 教 団にお け る寺 院 を取 り巻 く現 状 をfi
の当 た りにする と、 特に都 市 部における家の宗 教 は、 少 しずつ、
崩壊へ の道 筋を辿っ てい る と言 えない だろ うか ? 近い 将 来 に は、
都市周辺の地方に ま で、
そうし た宗教事情が侵攻し て ゆくことは容 易 に推測 で きる。
こ れまで の寺院が、
檀信徒の希求に応 えられ ない姿 勢 を 目の 当た り に し て、
檀信 徒は寺院に多 くを望 まな くなっ た。 分 業 化され無 痛 化 さ れた社 会の枠 組みの中で、
かつ て、
オウ ム真 理 教の上祐 裕 史が 語っ た ように、
た たず 世 間の多くは 「儀 礼を行 うだけの単 なる風 景 」と して、 寺院の伽 藍は佇ん で いる と受け止められ てい るのである。 だ か ら、
つ くし あい を引き継いだ教 化 推進 は、
寺 檀 関 係に お け る家の宗教 と個の宗 教 をどの ように再構 築 する か が大 きな課 題 となる。
これ は、
単に智 山派の教 化 推 進 だ けの問 題では な く、
真 言宗 智 山派にとっ て、 そ して、 宗 団 を支える寺院と、 そ れを維持する住職・
教 師の 死活問 題にもつ な が り、
その 存 亡 をかけ た課題と も言 えるだろう。
確か に宗団 にとって、
その根 幹 を成す の は、 教 相であ り、 その両 輪 を なす事 相であ る。 しか し、 同 じ よ うに宗 団 を 構 成 する寺 院・
教 会とそ れ を支 える擅 信 徒、 その寺 檀 関係と信 仰のあ り方は、
追い 詰め ら れ ている 状 況 に あ る。 そ れ をこの ま ま放置 し、
先 送 り に し て お く こと は、
宗 団の瓦 解 と 自殺 行 為 をみすみす見 過 すこ とにな る。
宗 団 を預 かる 責任 ある立場にいる指 導 者 は、 こ の現 況にしっ か りと眼 を 開い て見つめな く て はな ら ない し、
陳腐で浅は か な 独善に よっ て、
宗団の将 来 と多 くの檀 信 徒 と寺院・
教会の未 来を潰しては な ら ない。1.
観想 法 (膜想 )へ の希 求・
憧 れ〜
リア リ ティを 求め る 人々〜
イ、
な ぜ、
教化 年 次テー
マに阿字観を取り上 げ た か 〜〜
宗団・
寺 院の視 点〜
そ れ で は、
真 言 宗 智 山派の これからの寺檀 関係とその信 俾のあ り方に つい て、
どのような方向性が導き出 せ るのか ? そ れ は、
家の宗 教 を維 持・
復 興 (193)して
、
さ らに、
個の信 仰 を 育成 すること に尽 きる だろ う。 寺 院 がこれ までの 慣 習にどっ ぷ りと浸っ た ま ま、
檀 信 徒が多 くを望まない 姿 勢に、
おご り続 け る な らば、一
体、 これ か らの本 宗の寺 檀 関係 は如 何 様になるのだろう ? 最 近、 説 明 責 任 と か、 イン フ ォー
ム ド・
コ ンセン トとい う言 葉 を多 く耳に する世 間に対して、
本 来 的 な 出世 間か ら は る か彼 方にある わ れ われの姿は、 うと 世 間にも疎い ま まで、
これ か らも成 り立つの だろうか ? 寺院か らの一
方的 なお 仕 着 せ を従 順に受 け入 れ、
寺 院に何 も期 待 しない檀 信 徒 は、
要 求さ れ る 「布 施・
喜 捨 」に黙々 と応 え る。 何 故、 そ う してい るのか と言 え ば、 ご先 祖 様と自分の死に場 所を、
人質の如く寺 院に取ら れ た 「墓 質」に よ る か らであ る。 そ して、
自分の言葉で説明責任 を果 たさない住職・
教師に よ る寺檀関係 において 「家の宗 教 」 は放 置 さ れてい る のだろう。 そのた めに、
寺院 自 らが 本来 かつ 唯一、
より所とする檀信徒の伝 統 的 な型 が 生み出 した 敬 虔 なる信仰 心は、
い ま、
消 失しよ うとし てい る。 だか ら、
いま、
無宗 教と か散 骨 とい う 話 題に世 間の耳 目は向けら れて いるの かも知れない。 そ れ で は、
寺院に おける檀信徒へ の説 明責任と は何か ? その際た るもの が お仏壇の祀 り方と礼拝の仕方、 仏事の あれ こ れを分かりやす く、
暮ら し の 中 で活か せ る ように説 くことだろう。
そ ん なこと まで懇切 丁寧に やっ てい ら れ ない と云 う なか れ1
核 家 族 化 が 進 み、 家 族 間のコ ミュ ニ ケー
ショ ンが 希 薄に な りかける この時代に、
例えば、
その家の食卓で受け継が れ てきた味が 伝 わ らない味 覚 音 痴が急 増 し、
食育の大 切 さが 学 校 教 育で叫ばれる。 そ れと 同 じ よ う に 「仏 事 育 」 な り 「家の宗 教 育 」 がいか に大 切であ るか を切 実 に 感 じるべ きである。 受 け継 が れて きた仏事に対 す る 畏敬の念、 感 謝の心、
そ れ に連な り、
脈々 と受け継が れ てきた 「家の宗 教 」の維 持。
まず、
この家の宗 教 を正 しく承 継さ せる種を、
橙信徒の家に入 り込んで腰を引かず撒かなけ れ ばな らない し、
お仏 壇の 祀 り方、
礼拝の仕方、
仏事へ の正しい理 解 を植 えつ け、
沁み こませ、 身に付 けさ せ ね ば な ら ない。
しか し、
現 実 的に、
そうし た状 況に対 する認 識は、
檀 信 徒 と同 じ ように、
住 職・
教 師の意 識に おい て も希薄化 し、 檀 信 徒の寺へ 向 けた意 識 も、 足 も遠 (194>檀 信徒 と共に阿 字の法を観る (片野) のいてい ると言 わ ざるを 得 ない。 「今 時の檀 信 徒は
、
坊さ ん が家に訪 れるの まこ と を面 倒 く さがる か ら……
」 など と、
実し や か に自ら に都 合の良い理屈を振 りかざして、
住職 は寺に 引 き こもり、
檀 信 徒に足 を運 ば せて施 しを受けるだ け、
伽藍を立派にする ことのみ に専心 してい る印 象 を周 囲にバ ラま くのであ す た る、
檀信徒の家の宗教は廃れ、
寺 院の塔 堂伽 藍は栄 え、 寺 檀 関 係に信仰心 は 失 せて ゆく。 既 成 教 団に とっ て最 も大 切な はずの儀 礼と仏事は、
猛烈な 速 度 で簡 略 化さ れ る状 況に あ る。
初 七 日の回向や 棚経、
仏 壇の 開眼 な どはその最 た るものだ ろう。 だ か ら、
家の宗教の復 活と維持は、
都 市 部の寺 院 を 中心に、 最 優 先 課 題と なる。 檀信徒の家を訪れる機 会 を伺い、
仏 事 (お仏 壇 )の大 切さ を 檀 信 徒のの
の
コ
コ
家で説 くこ と は、
家の宗 教を復 活さ せ る イ チバ ン の手立てとなる。
檀 信 徒 が お墓参り以外に、
ほ と ん ど寺に足を向け ないことを嘆く(嘆くくらい な ら まだ い いが…
) なら、 こちら か ら檀信徒の家に訪れ て法 を説 け ばい い の である。 来 な けれ ば行 く、
そこで 仏事の こと を説き、
茶 飲み話 を して、
寺の こ とも 縷々説 明 して、
年 中 行事へ の参加 を勧め れ ば、 檀信徒の何 軒か は重い腰 を上 げて、 寺へ 来る ように な るだろう。 世間 とは そうい うもの で は ない だろう か ? そうした環 境 を 整 えな が ら、
今 度は、
個の信 仰を育 成 するス テ ッ プ ァ ップをは かる の である。 そ うし た現状を踏ま えて構築さ れ、
本宗の教化 と して推 進 されたのが、 平 成9 年度からの教化推進策である。
「智 山 勤 行 式 を お 唱 え しようc」 「お 仏 壇 を正しく礼拝し よう。
」 「詠 歌・
写 経・
写仏・
巡 礼・
遍 路・
団 参を し よう。
」 「発 心 式・
阿 字 観・
結 縁 灌 頂に参 加し よう。
」こ の ように具体的 な教 化 活 動が 提 示された。 そ してその中に、 檀 信 徒の信 仰 心を深め る教 化 活 動と し て、
阿 字観が 究 極の教化活 動 に挙げ ら れ たので あ る。
ロ、 現 代人 は何 を求め ている の か ?〜 檀信徒・
社 会一
般か ら の視 点〜
そ れでは、
なぜ、
阿字観 を取 り上 げた のか ? 既成 教団が どこ も 押 し なべ て通 仏教 的 な教 化 活 動 を檀 信徒に押し着せ る中で、
真 言 宗 独 自の活 動として (195)何 が考え ら れ るのか ? そうし た問い掛けに応 える のが、 発 心 式で あ り
、
結 縁 灌 頂であ り、 阿 字 観である。 特に、
阿字観を真 言宗究極の教 化活動と位 置 づけた こ と に は大 きな 理 由 が あ る。 そ れ は、
現 代 社 会 が 抱 え、
浸 食 し続け る 病 根に、
充 分に対 処できる可 能 性を有 して いる からであ る。 その可能性は何ゆえにもた らされるのか? そ れには、
戦 後の大 衆が何 を 求め てき たの か ? そ の流れ を しっ かりと見つめ る 必要 が ある。 高 度 成 長 期 以 降、
われ わ れ は 物 質 文 明 か ら精神文 明へ の大切 さを身に沁み 「もの の時 代 から心の時 代へ 」とい う言 葉 を金 科 玉 条の ように使ってき た,
,
強者か ら弱者 へ の視線が注目 され、
社会的 弱 者へ 目を 向 ける福 祉の時 代が訪 れる。
次に は 「密教ブー
ム」が押 し寄せ て、
超 常 現象・
精神世 界へ の憧 れ が 話 題 とな る。 そ し て、
「自分 探し」「ア イ デンティティ」 等の言 葉が持て はや され、 自己 開re
・
啓 発セ ミ ナー
が各所で行わ れ る。
さ ら に は ヒー
リン グ・
ブー
ム に よっ て、
癒 され ない時 代に様々なセ ラ ピー
が紹 介 される。
ミュー
ジック・
セ ラ ピー
を 始め として、 アー
ト、 ア ロ マな どの療 法に人々は群 がっ た。 最 近では、
心 療 内科とい う言 葉に象徴さ れ る と おり、 心が癒 され ず、 そ れによっ て身 体に変 調 を きたす人も多く 見受け ら れ る とい う。
そして、
現在はバー
チャル・
リア リテ ィー
の時代であろう。
インター
ネッ トやコンピュー
タ・
グ ラフ ィック に より、
リ アルで迫 力 ある映像や情報が一
般に普 及して、
仮想 現 実の世 界を簡 単に体 感で きる時 代となっ た。 それ は逆 に、
その社 会や大 衆 が、
リア リ ティー
を 喪 失し た時 代 と も言える だ ろう。
汚 い、 辛い、 痛い とい う感 覚 か ら逃 避 した仮 想 現 実の世 界で は、 汚 れること も な く、
辛く苦しい こ ともな く、 痛みも感じずに居 られ る。 画 面の中で は自分 を投 影し た主人公が、
何度 でも死 に、
リセ ッ ト さ れ れ ば、
何 度でも生 き 返 ら れ る世 界。 そ う した場 面が当たり前の ように繰 り返 されると、 若 者 はい つ か、
い の ちの尊さ や、 生 と 死の一
大事を 実 感できな くなる。 死へ の恐 怖 も、 生へ の執 着 も、
他人の痛みも、
実 感できない 世界 が当た り前の ように創り出 さ れ、
蔓延する。
そ の一
方で、
そうし た無痛文 明 (痛みを感じない文 明 )へ の反 発と い うか、 危 惧、 不 安 がど ん どん膨 らん でゆく。 (196)檀 信 徒 と共に阿 字の法 を観る (片 野 〉 こ うし た時代 潮流 に は
、
必ずと言っ てい い ほど、
その裏 側で新 興 宗 教 が 勢 力を拡 大する。 キ リ ス ト教の原 理 主義運 動、
統一
心 霊 教 会、
幸福の科 学、
そ して、
日本社会 を 震 懣 させた オウム真理 教等、
その時代の社 会で癒 され ない 人々は、
何 を 求め るのか ? た だ、
そ う した人々 自身 が、
自分で何 を求めて いる か を実 感し てい るのか と言え ば、
必ずしもそうで はないだ ろう。 そうし たニー
ズ に応え る宗 教が、
ある時 期、
即 興 の信 仰 をかた ちつ くるのである。 そ して、 い ま、
仮 想 現 実 (バー
チ ャ ル・
リァリテ ィ〉の世 界で は、
画 面を逓 して何で も体感で きる世 界が、
立体的、 加速度 的に、
その世 界を現実の もの に近づけようとする。一
方で、 仮 想 現 実の世 界が、
現 実のもの と違わ ぬ臨 場 感・
緊 迫 感 を創 り出せ ば創 り出 すほどに、 そ うい っ た仮想 現 実の価 値 観で は もた 満 足 な ら ない 感 性 がムクムク と 頭 を 擡 げ て くる。
し か し、
既 成 教 団の教 化活 動は、一
方 通 行で、
イン パ ク トも な く、
金 太 郎 飴の ように切 り売 りを繰 り返 し、
そ うし た教 化に飽 き飽 きする檀 信 徒が増えて いないだ ろうか。 彼ら は、
自身が達成感や充足感を味わえる、 宗教 的 感 動 を体感できる教 化活動を欲し てい るの だが、
そ うした希 求 (変 化) に寺 院は応 えるどこ ろか、
気づ くだけ の触 覚 す ら錆 びつ い てい るのであ る。 ハ、
何 は なくとも、
観法 と祈り 1〜
個人的 体験と視 点〜 少 し だけ 個 人 的 な経 験 を述べ ることにする。
十 数 年 前に、
智 山・
豊 山・
新 義 真 言 宗の青 年 会が、 合 同で主催 した結 集の特 別 講 演で、 立 川武 蔵 先生 は 「文殊菩薩をこの 目で見たい !」とい う願いを持っ てい る と語っ た。 仏と出 会いたい という想い は、
立 川 先 生のみ な らず仏教 徒な ら誰 もが胸の奥 底に抱 く想いだ ろう。 先生の熱 意に、 自 らの奥底に眠る想いが焚 きつ けら れ た。
そ れ と同じ時 期に、 当 時の智山伝法院・
宮坂宥勝院長との会 話で、
ご自坊 の岡 谷・
照 光寺で檀 信 徒 を対 象に毎 朝、
町 字 観 道 場 を開い て い るというお話 を伺っ た。
檀 信 徒に 阿字観の指導が 可能 だ とい うことに驚 き、
自 身が真 言 僧 であるに もか かわらず、 阿 字 観を修する機 会 もま ま な ら ない こと に気づ き、
楞 然 と さ せ ら れ た。
(197)そ う した機 縁と同 じ頃
、
練 行 を修する機 会を得て、 栃 木 県の山 中にあ る 道 場に て金 剛 界・
胎 蔵 界 念 誦 次 第 を成 満し た。 こ の時、
い くつ かの試みを も と に宗 教 的・
神 秘 的 な体 験 を重 ね ることが 出 来 た。 こ の当 時の体 験 が、
自 身の 内面にある観 法へ の希求 をい っ そ う強いものへ と駆 り立てた。 こ うし た経緯の後、
平 成8 年に奉職 し た 智 山 教 化 センター
で、
本 宗 教 化 推 進の将 来ビジョ ンを企 画・
提 案 する担 当 と なっ た。
その際に、
檀 信 徒 教 化の ちのうちi 最 終 目的 と なる活 動 と して、 阿字 観 を取 り上 げることにも はや何の躊 躇 も なかった。 だから、
平 成9
年 度 か ら実 施 され る 「つ く しあい」 に 変わる教 化 推 進 (教 化目標・
教 化 年 次テー
マ )の 4年 (最 終)次に、
檀信 徒 対象の教 化 活 動 と して阿 字 観 を設 定 したのであ る。 こ の 頃 か ら、
自身で阿 字 観 を修 す る よ う に な り、 瞑 想・
観 法に対 す る意 識 というか、 観 法 を修 することで 自身 が 体 感 する心 地よ さ、 清 浄さ が、 今 振 り 返る と、 自分の意 識 を少しずつ 変容さ せ た ように 思 わ れ る。
さ ら に、
何かの 折に、
好ん であ ちこちの寺院を訪れ て、
そ の堂 内にしばらく座 して み る。
す ると、
諸 仏が虚 空に遍満する のを感じ、
頬や後 頭 部 がピ リ ピ リするよ う な感 覚 を覚え、
顔 面や胸が温 かみ を帯びて、 身 体 も心 も清 浄 な感 覚に包 まれるの である。 先年ご開帳の蔵王堂で、 また、
山科・
毘沙門堂、 根 来の大伝法堂、 京都の東寺講 堂な ど で は、
特に そうし た身 体 感覚を強 く実 感 する ことが多い。 二、
救い を求 める手に、
寺院は応 え られ ない の か ? い ま、 禅宗 寺院で座禅は、 次第に廃れ てい る と聞 く。 参禅会へ の参加者が 減っ たとい うよりも、
参禅会 自体を開く禅系寺院 が 減少し ているらしい。 な ぜ、
そんな状 況になる のだろ う? これもひとつ の寺 離れ現 象と考 えら れる の だろうか ? その一
方で、
巷の カルチャー ・
スクー
ル等で は、
ヨー
ガ が持 て囃 され、 どこ の スクー
ル で も大 盛 況であ る。 ヨー
ガ (瞑 想 ) に対 す る 世 間 の興 味 は、
この数年で 異様な ほ ど高まっ てい る に も か か わ らず、
で あ る。
恐 ら くは、
ヒー
リング・
ブー
ム の流 れ か ら、
また ダ イエ ッ ト効 果 を 期 待 した も のなのかも知れないが、 こうし た状 況は、
禅とい う瞑 想の ス タ イルが飽 き ら (198)檀信徒と共に阿字の法 を観る (片野 ) れ たとい うこ となのだ ろう か ? しか し
、
も しそ うだ とす れ ば、
軽 はずみと 言 われ よう と も、
い ま こ そ、
真言 宗の観 法の出番である。 ;まh 真 言 宗の教 師 なのに……
こ の状 況に手 を拱いてい い のだろうか ? 真言宗 くわ 智山 派は指 を咥 え た ま ま なの だろうか?真 言宗の瞑想
、
阿息観や月輪観や 阿宇 観は、
い ま、
最 も、
真 言 宗の教 師・
寺 院の強 力 な武 器にな り、
檀信 徒の た め に活か さ れ る はずで あ る。 内観の聖 者、
特に観 法 を重ん じ た覚鑁 上 人 も 「まず、
之 を 修し て自ら知れ」との言 葉を遺 され てい る。 苦 しみ 迷 える人々 が、
い ま、
この世の中に存在し てい る。
そうし た衆生の寄る辺となる た め に も、
自ら が仏の世 界 を覚 知 し、
仏 を実 感 する宗教体験 を多く重ね、
真言宗僧 侶として の 自信を築くことが 何より我々には必 要ではない だろうか ? そし て そ の自信を抱い て、
檀信徒と接 し、 利 他 行 を実 践 する。 阿 字 観 道 場 をい き な り開くことに た め らいがあるな ら、 何 をN
にする前に宗 祖 が伝 え、
中 興の 祖が深め たこ の法 を 自ら 修 し、
その体験を積み 重 ね ること は、
直 ぐに で も 出 来る だろ う。
その 体験 (大日如来 を 観 じ る )に よっ て培わ れ た自信は、
葬儀の 引導の際にも、
回 向にも、
祈 願にも、 さ ま ざ まな活 動 を通 して、
檀 信 徒の普 く一
切に及ぶの である。2.
吉 祥 院にお ける教 化 活 動の実 情〜
平成13 年
当 時〜
イ、
吉祥院の年中行事 さ て、
檀信徒 向け の 阿字観道 場の開 設に あ たっ て、
筆 者の師僧 寺の現 況を 少 し謁 してお く。 吉 祥 院で は、
こ の数 十 年で さま ざ まな教化活動が行な わ れ てきた、
特に年中 行事と し て は、
新 春 祝 祷 会・
新 春 法 話 会・
浬 槃 会 (詠 歌 法 要 )・
春 季 彼 岸 会 (正 御 影 供 )法 要・
花 まつ り (子 ど も会・
詠歌 法 要 〉・
青 葉 ま つ り詠歌法要・
施 餓鬼 (法 詣・
詠 歌 )会・
戦 没者慰霊詠 歌 法 要・
秋季彼岸会 (写 経 会・
奉 納 法 要 )・
除 夜 会 等が行 なわれ ている。 こ うし た年 中 行 事は、
定 例の活 動 とし て、
密 厳流 詠 歌 講 (毎週 月 曜 日 / 入門講 座 :毎週 金曜日〉 が、
昭 和47年か ら30年 以 上続 けて行 な われて、
その活 動 を通 して育 まれ た講 員が、
年中行事 等で詠 歌 法 要 厳修 を通 じて支 えてきた。 (199)口
、
檀 信 徒の意 識 を菩 提寺へ と向け る教化活 動〜
承継式・
発心 式〜
年 中行事以外の教 化活動として、 まず、
何よりも大 きい ものが、
承 継・
発 心 式 (随 時 )の執 行で あ る。
菩提寺が単な る霊園と異なり、
信 仰 を 育み深め る空間 だ とい う意 識 を櫨信徒に植 え付 ける契 機 と して、 とても重 要 な もの で ある。 また、
こう した承 継 式や発 心 式 は、 檀 信 徒が寺 を 訪れ、 本 堂 内で、
ご 本尊 さ まに手 を合わ せて、 祈り、
誓 うとい う行為を体験 す る 大 切な機 会であ り、 現在の寺檀 関係に おいて、
核 となるものと断 言できる。
い ま、
こ の発 心式を菩提 寺の活動にど う位 置付 け、 檀信 徒の信 仰 を深 め る 儀礼と してどう意 識付け、
檀信 徒 が菩 提 寺にど う関 わ り、 行 事 に参 加 す る か を模索 する節 目にあるだろう。
そ うい っ た意 味では、
吉 祥 院 におい て、 承 継 式・
発心 式は単 なる通過 儀 礼に留 ま らない のである。 ハ、
檀信 徒の た めの教 化 活 勳 その他の教 化 活 動 と して は、
掲 示伝 道 (吉 祥 院 門 前 月2回・
真 福 密 寺 門 前 月2 回)、
文 書 伝 道 (寺 だ よ り 「風 信 」年4回 発行、
ニ ュー
ズレ ター
年4回発行、
オ リジ ナル のパン フ レッ ト 「承継式のご案内」「阿字 観へ の誘い」「密厳流 ご詠歌 入 門」発行、
「生 きる 力SHINGON 」 年4回 配 布、
「ご宝 暦 」 配布)な どが あ る。 また、 これ ま で に、
小 冊 子・
風信雲書と して第 1集 「毘 沙 門 さ まの 功 徳 と 私 た ち 」・
第2 集 「仏の こ とば を 読 む」 が刊 行 されている。 こう した年中 行事や教 化活動を通じ て檀信 徒教化をは かっ てきた吉祥 院の 現状にあっ て、
さら な る、
新しい 活動 とし て、
現 代の檀 信 徒の希 求に応え る 阿 字観道 場 を 開 設 するこ とになっ たのであ る。3
.
阿 字 観 道 場 開 設の動 機 イ、
救い を求める手が、
差し出 されている のに……
どこ の寺に おいても、
正年に一
人 く らい は、 瞑 想 とか禅 を求め て訪 ねてく る 人 がい る と 良 く耳に す る。
し か し、
その際 に、
寺の住 職・
教 師のほ と ん ど は、
丁 重にお 断 りす る とい う謡 を 聞 く。
何 と も勿 体 無い ことでは ないか。 瞑 (200)檀 信 徒 と共 に 阿 字の法を観る (片野) 想に対 する世 問の興 味は多数で はない として も確か に存在する。 そし て
、
そ の ように自分か ら寺の門を潜っ て訪れ る とい う意 欲 は、
単な る興 味 本 位で は ない、 そ れ ぞ れの事情なり、
並々な らぬ理 由が あるとい うこ とは想 像に難 く ない。 そうい う人か ら実 際に話 を聞いてみ ると、 実に真 剣 に 自 らの人生を考 え模 索して い る と か、
何ら かの解 決しが たい悩み を 抱 え ている とい う。
ま た、
癒され たい、
い まの 自分の生活ス タイルを変 えたい とい う場 合 もある。
そうし た確か で真剣なニー
ズがある にもか かわ らず、
既 成 教 団の寺 院の現 状は、 こう した救い を求め る手に、
差し伸べ る手立て が無いの であ る。 こ の 点か ら し ても宗団の態勢、
寺院の現状認識の希 薄さが浮 き彫 りとなる。 救い の手 を差 し伸べ る に は どう したらい い のか? そ うし た檀 信 徒の希求に応 え る に は何 をすれ ばい い のか ? それ は何より も檀信徒の立 場・
目線にな りき る こ と が、 先ず、 第一
で あ ろう。 檀信徒が阿字観でも、
その他の教 化 活 動で も、
そうし た活 動に参 加 する場 合に、
檀 信 徒の 目線で、
信 仰心 を しっ か りと 深 め られ る 「信 仰 プログ ラ ム」 を考 える 必要がある。 何 か 瞑 想の よう なものが、 自分の心を落ち着か せ てくれそ うだ。 苛 立っ た り追い立 て ら れ る自分を伸び伸び と させ てくれそ うだ。 癒 して くれ る かも? そうし た漠 然 とし た気 持 ちで瞑 想 を覗いて み ようと訪れ る者もい るだろう。 そう した迷え る 人 たちに、
真 言宗の瞑想と は こうい う ものだ と、
手ほど き し なが ら、 その素晴ら し さ を少しずつ 体感できる プロ グラム を考 える こと は、
何 よ りも必 要 だ と言え るだろ う。
口、
自分が 正 し く修す る こ と が で き る の か? 檀 信 徒のニー
ズ がある、
と はい うもの の指 導する 立場に あ る 教 師 が、
阿字 観の修法を積ま なければ、
檀信徒のための阿字 観 道場 開設 など思い もよ らな い 。 実 際にそ う した 声 が 多い のは 当然の こと と思 う。 事実、
5 年前に智山勧 学 会の奨 励 研 究の際に実 施 し たア ンケー
ト 体 宗 教 師 対 象)で は、
そ うし た 考えがハ ッキ リ存 在 することを 示 している。 阿 字 観 を数 回 伝 授 され た か ら といっ て、
すぐ に檀信徒へ の指 導 ができる と (201)思 える教 師 は実に少 ないだろう。 自分 自身が何 度 も積み重ね て修し て
、
その 上で、
何 らかの 自分 な りの確 信が得ら れ ない と、
阿字観道場を 開こうと はな かなか思えない。
実際 に、
阿字観の伝 授や指 導 者 講 座 を受 講し ても、
その後 に、
自身が阿字観の修法を実践・
継続 する者 は極 めて少 ない とい う調 査 結 果 も明らか になっ てい る。 こ うした現 状に はい くつ かの要 因がある。 ひとつ には、
伝 授な り受 講し た 後に、
自坊に帰っ て阿 字 観 を修してみて、
果た してそ れ が正 しい ものなのか どうなのか ? 多くの教 師は疑 問を抱いた ま まにある。 本 来であ れ ば、
自分 の師僧に自ら の修法を確か め、
修 正できればい い のだが、 現 実 は そ う上 手 く はいか ない。 自らの修する阿字 観・
月輪 観 が 正 しい のか どう なのか を、
問い かけ、
こと細 か く確かめ られる機 会が、 観法に とっ ては 必要不可欠 だろう。
しか し、 現 状で は、 そ う した機 会は無 きに等しい。 こ れ が現在、
阿字 観の浸 透 を 図る 上 で、 何より も障 害となっ ている。
も う ひ とつ に は、
檀 信 徒 を 指導 するための道場 開 設の具 体 的 な 手 引 き (ア ク ショ ン・
プラン、
モデル・
ケー
ス)が提 示 され てい ない こ と が挙 げら れ る。
さ らに 阿 字 観 が どれほ ど素 晴 ら し く、 檀信徒教化に必要不 可欠なもの かとい うことを教 師 に納 得 させ、 モチベー
ショ ンを植えつ けられる戦略なり方法論 が 明 確 に定まっ てい ない。
だ か ら、
教師は、
これまで どおりの教 化 活 動で事 足 りる、 檀 信 徒 教 化 など別にする必 要 もない とい う倦怠 感が蔓延 し て、
教 師 の意 識 を代 えら れない現 状となっ てい る。 寺院 に起居 す る住職・
教師が、
真言宗の精 神世 界を正しく体 感し てい るの か ? 宗教 体 験に根 ざ した 活 動 を 自信 と して、
檀 信徒 と接 しているのか ? こう した 自 問 自答 を 基 点 と して、 教 師の モチベー
ショ ンを喚 起してゆくこ と が求め ら れ る だ ろう。
自ら が修法を積み重ね て、
その際に抱 く疑 問に応 え ら れ る指 導 体 制 を宗 団が整 え られるかどうか ? それ はこれまで の発 想に は見 ら れない、
新しい人材 養 成の視 点である。 それがこの附 字 観の浸 透の成 否 を 握る鍵であ り、
葬式 仏 教とい う批判を もの と も せずに、
自信を持っ て檀 信 徒 に接 する ことが 出 来る住 職・
教 師の人 材 養 成につ ながるのであ る。
(Z〕2)檀 信 徒 と共 に阿字の法 を観る (片野) 少 し
、
筆 者 自 身の ことを省み れ ば、
阿字観伝授を4〜
5回重 ねて、
自分 自 身で何 度 も修してみ た。 し か し、
何よ り不 安なのは、
阿 字 観 作 法 どお りに やっ ては み るもの の、
は じ めの頃に は、
月輪 観 な り阿 字 観の 自身の イメー
ジ が本 来のものなの か、
本 当の もの なのか半 信 半 疑だっ た。 イメー
ジしようと して も上手 くいか ない、
上手 くいっ た と思 っ て も、
次の時に は、
よ り良く な る ように期 待 して も、
上手くで きない。 そんなことが繰り返さ れ る。
この段 階で、
周 囲の誰に聞いて よいか も分か らず、
ま た、
自分のイメー
ジ を上 手 く 言葉に できる自信 も無 く、
誰が阿字観を修し てい て、
適切 に ア ドバ イス して くれ るの かもわ か ら ない。
同じ よ う に途方に暮れる教 師がい る ことも想 像に 難 くない。
実の ところ、
真 剣に修 したい とい う想いが 強い 教 師ほ ど、
そ うし たジレ ンマ に悩 むこ とが 多い の ではない だ ろうか? 実 際に檀 信 徒を指 導し た際にも、 数 年 経っ てか ら、 イメー
ジが上手 くでき ない と悩み、
問い掛け る 参加者も多いの で あ る。
筆 者 自 身は、
練 行 中の宗 教 体 験や神 秘 体 験 が、
阿 字 観の修 法に大い に生 か され た。 姿 勢 を 正 し、
呼 吸 を深 く して、 心 を沈める。 そ して、 対 象となる種 子 曼荼 羅に意 識 を 集 中 して見つ め ること を繰 り返す う ちに、
眼 前に見 える 世 界 は、
かつ て 目 に し たことのない、
神 秘世 界 その もの と なっ た。 月輪 観や阿 字 観を修法 する場 合に も、
そ うし た体 験 を想 念 して トライ し て み る と、
案外、
清浄と し て厳かな空間を体感できる。
つ まり、
出来る か どうか ? ど ん なこと に な る の か ? とい う不安や 疑 心曙 鬼に満ち た状 態で修 法して も、
な か な か上 手くはいか ない の である。
そうした不安を一
掃するため にも、
指 導者の適 切 なア ドバイスを 適 時に得られる機 会がな けれ ば、
阿 字 観の浸 透 は、
停 滞し た ま ま先へ 進 まな くなっ てし まうのである。 ハ、
自分 が……
本 当に、
指導できる の か? 真 言宗智山派と して の阿 字 観 作法を作 成する た め に、
また、
本 宗がは じめ て、
宗 派 規 模で檀 信 徒 教 化 と して阿 字 観 を取 り上 げ る際に、
教 化センター
は 用 意 周 到 な準 備 を行 なっ た。 センター
に おいて、
宗内各関係機関 に参加 を 呼 (203)び か け た 阿 字 観の硬 究会では
、
阿 字観の伝授・
実修を重ね て、
珂字観作法を 練 り上げた。 そ う した智 山 派独 自の向
字観作 法を創作する作 業の中で、
教 師 の殆ど が習 慣 的に修 さない阿 字観でも、
檀 信 徒 対 象と し て教 化できる可 能が 大で あ る と の確悟も持で る ように なっ た。
そ れ と共に、 教 化 年 次テー
マ を企 画・
提 案 した手 前……
自分 自身が身を持っ て阿字 観 を修し て み なけれ ば な ら ない。 しかし、
こ うし た経 験 を繰 り返 す うちに、
自身 が 阿 字 観 を修 する自信 も少 しずつ 膨 らみ、
不 安 は 少 しずつ解 消 されてい った。
阿 字 観 は檀 信 徒 に難 しい ものか ? 決 してその よ う なこと は ない と今 は断 言で きる。 そ れは、 自 らが 修 し、 修 す ること を積 み 重 ねて、 さ らに、
阿 字 観 道場を 開い て檀信 徒 と共に 阿字 観を修し て み れ ば、
こん なこ と を議 論 する余 地 が 無 駄である こと を実 感できる。 真 言密 教の奥 義 だから とか、
き ちんとし た前行な り、
密教に対する備 えのない者には 無理 だ とか、
そ んな理屈はい く らで も積み 上げ られるだろ う。 しか し、
そ う して、
い ろ んな理 屈 を積み上 げ る前に、
しっ か りと必要 なこと を周 到に準 備して、
修して み れ ばい いと思 う。 それ で、 もし何 か 問題があれ ば、
適時に修正し てゆけ ばい い 。 そ の段階まで 進まない と、
対処療法が見 えない ことはい くら でもある。 ネガ テ イ ヴ に考え い たずら ていて は何 も進まない。
何もし ない で手を拱い てい て は、
徒に時は過 ぎ、
その間に衆 生は悩み続 けて、
こ の世界は終っ て しま
うことになる。4.
檀 信 徒が阿字 観 を身に付 ける に は ?〜
檀 信徒 プロ グ ラム構 築〜
イ、
檀 信 徒 が一
歩ずつ、
行 を修 するための類 型 (檀 僧 徒の 目線 か ら) 真 言 宗 智 山派の教 化 推 進 施 策 と して、 教 化 年 次テー
マ を企 画 し、 その 中の 活 動 の ひ とつ と し て、
阿字 観を取 り入 れ た当人として は、
自分自身が修し て みて、 さ らに檀 信 徒 向 けの 阿 字 観 道 場を開かな けれ ば……
とい う変な使 命 感?責任感 もあっ たと思う。
そ ん な わ け で、
師僧 寺である吉祥 院 (埼玉第一
教 区寺籍5番)で、
平 成 13 年10
月か ら阿 字 観 道 場 を 開 くこ と を発 願 し、
住 職の了解を得て、
その準備 に取りか かっ た。
道場 開 設に際 して、
始 めに手掛 けることは、
先 ず、
山 内におい て阿 字 観 と (204}檀 信 徒と共に阿 字の法 を観る (片 野 ) は何か を 理解して貰 うこ と である
。
寺 族の理解を得ら れずに、
檀信 徒 の理 解・
参 加 もあ り得 ない。 そんな わ けで、
阿字 観の 理 解 を得るための資 料 を 作 成 し、
そ れによっ て、
住 職・
寺 庭 婦 人・
寺 族の正 しい理 解 を深 め、
さ らには、
その ノ ウハ ウを檀 信 徒へ の周 知に活 用 しようと考 えた。
ま た、
実 際に参加さ れ る檀 信 徒が、 は じ めて の瞑 想に不安や疑心暗鬼 (自分が本当に 出 来 る の だ ろ うか ?) を少し でも拭える ように、
段階 的な修得プログ ラムの よう な もの を 搆築するこ とが 必要と思い、
そのコ ンセプトを ま とめ て み た。
その概 要は次 の とおりである。 型〜
仏 教に対 する知 識 (理 解 )を積み上げる。 作 法 を身に付 ける〜
自 己観 察 (内観・
自利)〜
教えを理解・
実感して、 修する こ と が本質と知る〜
自己表現 (利他)〜
修 得 した 宗 教 的 感 動 を他に振 り向 け ることを実 践 する〜
自己実 現 (実 践 )〜
阿 字 観・
月輪 観 を習 得か ら修 得に向けて……〜
ロ、
法 話 (講義・
伝 授)と対 話 を 璽視 する道 場へ……
阿字 観 を実 修 する にあたっ て、 先にまと め た類型 をベー
スに参加 する檀信 徒を指導する わけだ が、
その際に、
特に こ だ わりたい点がい くつ かあっ た。 そ れ は、
参加者との コ ミュ ニ ケー
ショ ンを どのように築いて ゆくか。 瞑 想 を 行 な う環 境に適 したコ ミュ ニ ケー
ショ ンをいかに整 える か とい う点である。 まず、
真言宗の瞑想をどの ように 理解し て も らうか、
さ ら に、
瞑 想 とい う心 的作用を行なうにあた っ て、
檀 信 徒の習熟 度を どの よ うにチェ ックす る か と い う2 点が とて も気に なっ た。 この課題をク リアするため にい くつかのアイ ディアをかた ちに した。 そ れ は次のとおりである。 法 話〜
阿 字 観へ の理 解 を得る た めに……
伝授・
開眼〜
参加者が秘密荘厳の世界を感じ るため に……
シュ ミ レー
シ ョ ン〜
正 しい阿 字 観 作 法を身に付け る た め に……
リ ラ グゼー
シ ョ ン〜
リ ラッ クスし た雰 囲 気を整えるた めに……
(205)アンケ
ー
ト〜
月輪 観・
阿 字 観の習 熟 度 を確か め るため に……
阿字 観 を 修 する に は、
宗派で制 作さ れ た 「阿字 観作 法」に則っ て行 な うこ とにする。 参加者 は、
こ の作 法 を身に付けて、
実 修するこ とになる。 まず、
この作 法に対 する理 解 を深 めるた めに法話 (講 義 )が 必 要 と考 え た。 仏 教に おける瞑 想と は何か ? 仏教という教え は ど んな ものか ? 真 言 宗の瞑 想は ど ん な特 徴があるのか ? 月輪 観と は、
阿字観とは、
どうい う もの なのか ? 阿字とは何か ? 大日如 来 とは何か ? 参 加さ れ た檀信 徒の疑問 は際限 が 無い はず。
こうし た疑 問 を理 解に進化さ せ るため の話が欠か せない と思っ た。 「阿 字 観 作 法 」の伝 授に際して は、
出来る限 り厳かな 空 間の中で、
こ の作 法が脈々 と受け継が れてき た仏 教のエ ッセ ン ス であ り、
教 え を実 践 する究 極 のもの である こと を参加者に自覚さ せ る こ と に重 きを置いた。 そ して、 こ の 伝 授は、
巡 り会 うこ とが難しい法に、
い ま まさ に巡 り会えた貴重な一
瞬であ るこ と を実 感し てもらう。
ま た、
阿 字 観ご本 尊のパ ネルは智 山派 制 作の もの で あ る が、
この道 場 にて、
檀 信 徒の前で厳 か に 開 眼作 法 を 行い、
ご本 尊 が 単 なるパ ネルで はな く、 聖 な る尊い ものであ ると意 識 させ る よ う意 図 した。 阿字観作法を伝 授し、 その内容 をひ と と お り解 説 する だけで は、 檀 信 徒は 実 修に 入 りにくい。
阿字 観 作 法 を目の前に し て、
作 法に 則っ て実 修 を 進め て み ようと し ても、 あれこれ思い惑っ て途 中で右 往 左 往 するの は当たり前であ る。 特に、
調身や調息は、
初 心者に は自分だ けで正しく行なうことは な かな か 難 しい 。 その ため に、
参 加 者 を前に し て、
指 導者が作 法 すべ てを順々と実 修 して見せること (シュ ミ レー
シ ョ ン)が必 要にな る し、
毎 回、
作 法の ひとつ を取 り上げて、 復 習・
確 認 する機 会 を 設 けて、 参 加 者の誤 解 や 思い込みを極 力 少なくするように努めた。
さ ら に、
参加者が リ ラッ クス して道 場で瞑 想で きる環境・
空間を整 える た め に、
い くつ かの オ プシ ョ ンも 用 意 し た。
簡 単 な ス トレッ チ や ゲー
ム、 トライアル も取 り入 れて、 堅苦 し くない、 和や かな雰 囲気 を創 り出 す 工 夫も凝 すこ と に し た。
そ して、
何 よ りも大 事 なのは、
実 修 後の アンケー
トである。
アンケー
ト と 言 うと誤 解 を生 むか も しれ ないが、
実 修 後の問診 と言 え ば イメー
ジか湧 くだ (206)檀 信 徒 と共に阿字の法を観る (片野 ) ろうか
。
つ ま り、
参加 者が法 話によっ て、
瞑 想に対 する理解を少しずつ 深 め る ようにな り、
つ い に伝授・
実 修へ と進む。
実修の段 階になっ た ら、
こ の問 診チェ ッ ク (実 修ア ンヶ一
ト)を毎回 行 な うの である。
そ の 日 の体調 と精 神 状 態 を 簡単 に尋 ね、 後は、 実 修で何が できて何が で きなかっ たか? どんな 疑 問が あ る か ? 何を感じ た か を出 来る 限 り、
自分の言 葉で ア ンケー
ト用 紙に 記し ても ら う。
この アンケー
トを終 了 後に回収、
作 法の どこが 分から ないか をチェ ッ クして、
次回 にそ れ を確 認、 復 習 す る。 月 輪 観・
阿 字 観の実 修を各 参 加 者 そ れ ぞ れ が、 どの程 度、 習 熟 してい るのか を把 握 する た め で あ る。 ア ンケー
ト (参考 資 料 P223) は、
これを記 入する参 加 者にとっ て も大 切 と言 える。 自 らの実 修で何 を感 じたのか を言 葉にす ると、 改め て、
現在のあ りの ま まの 自分 を知 ることにな る、
自分 が 阿 字 観・
月 輪 観で何 を体 感 したの か を 自覚 することにつ ながる。 また、
体 調と実 修との関 係を知るこ と に よ り、
瞑 想がその時の心 身の状 態と深 く結びつ くこと、 体 調や気分が瞑想に何ら か の影 響を与え る場 合 もある。 阿字観は 回 数 を重ね れ ば習熟度が増して、
しっ か りと した実 修 がで きる もの で もない。 その際の体 調、 集 中 力 など に よっ て も、
実修が う ま く で き る、
で き ないが、
複 雑 に 絡 み 合 うので あ る。
ハ、
具 体 的 な指 導スタ イル と して……
阿字 観 道場は、
教 師が檀 信 徒に指 導 することで、
檀 信 徒も 進化し、
指導者 もそ れ に よっ て、
さま ざ まなこ とを学び、
経験 を積むことになる。
道場がそ こ に集 う人々 を研鑚さ せ成長 させ る と言え るだろう。
しか し、
すべ て が初め て の こと ばか りである。 考 え得るこ と は考え、
想 定で きる 限 りは 想定し て、
準 備を怠ることなく積み重ね る。 その上で、
まず、 想 定 した プログラム を実 行し て、
参加 者の反 応に柔軟に対 応 する というス タ ン スを保つ ことにした。 また、
指導者 自身の研鑚 も怠ら ない よう心掛け、
自 身の体 験や研 鑽 を積み 重 ねること にも時 間 を割い た。 禅、
チベ ッ ト・
ヨー
ガ、
タ オ等の他のジャ ン ルの瞑 想も 体 験 し、
そうし た実 感を、
阿字観 道 場の参 加 者へ の刺 激となる会 話、
指 導につ な げ たいと考 えて、 出 稽古 ?した。 (207)
5
.
阿 字 観 道 場 開 設の準 備 手 鑑 イ、
ネー
ミング 「瞑 想・
満 月の会 」 阿 字 観道場の開 設にあたっ て、
始め に苦 心 した のが、
名 称 を何にするかで あっ た。 阿 字観・
月輪観の言葉をそのま ま用いても、 檀 信 徒は? ??チンプ ンカンプンだろうし、
何が 行 なわ れる のか皆 目見 当 もつか ない、
何の イ メー
ジ も浮 か ば ない こと になる。 禅の ように、
ある程度、
周 知 さ れ た 言 葉であ れ ば、
檀信徒も何 をやってい るのか、
何となく伝わっ て くる。
そこ で色々 と考 えて みたのだ が……
真 言 禅 ? 密 教禅? 密教瞑 想 法? 観 想 法 ? 観 法 ? 観 月? どれ もピンとこない1
檀 信徒
・
社会一
般 に 認知さ れ、
受 け 入 れやすい キー
ワー
ドは何か ?そこ で ヒン トになっ たのが
、
智 山派の指導要 領の ナ レー
ションにある 「いつ も心 に満月 を1
」 とい う言 葉だっ た。 こ の 「満月」 「月が満ちる」とい う言 葉 を キー
ワー
ドにしよう。 しか し、
真言 と か密 教、
観 法 とかの言 葉 を使い たくて も、
説 明 し ないと伝わりに くい。
禅という言 葉 は余 り使いた くない。 そんな こ とから、
伝わ りやすい メッセー
ジ と して 「瞑 想」 「満 月」の言葉 を 用いて 「瞑 想・
満月の会」としたの である。 ロ、
広 報 (情 報 伝 蓬 )現在の真言 宗 寺 院で ほとんど行われてい ない 阿字観
・
月 輪 観の道 場 を開 設 し て、
定期 開 催 する と して も、
F
何故や るの か ? (目的 )」 「何をやるの か ? (内 容 )」 「行 な う と ど うなるの か ? (効 」こ の3
点 を簡 潔 に 伝 える手段 を 考 えるのが、 ま た、一
苦労と な る。 と りあ え ず 考 えつ く媒 体と し て は、
ボス ター ・
パ ン フ レ ッ ト(小 冊 子 )・
文 書伝 道・
掲示 伝 道・
チ ラ シ・
HP (ホー
ム・
ペー
ジ)等だ ろう。
さ ら に、
広 報の機 会と して、
法 話や行事での PR と い うことにな る。 果 た して、 世 間に馴 染みの ない 阿字 観に、
檀 信 徒が興 味を示し、
参加 者 が 集 まるだろ うか ? そん な不 安が 頭 を 過 ぎりもし た。
その一
方で、
参 加 者が (208)檀信徒 と共に阿 字の法 を観る (片野〉 多 くな ると指 導が行 き届か ない
……
10 名前 後 がベ ス ト と も考え ていた。
平 成 13年 le月開設 に向け て
、
秋 彼 岸の檀信 徒へ の案内 と一
緒にチラ シを 同封し、
寺だよりにも告 知 し、 門 前に案 内を掲示し、
さ ら に、
本 堂の入 り口 に案 内 を掲 示 す るスペー
スを造 り、
は がきサ イ ズの案内 状 も作 成して、
大広 間 (法 事 控 え室 )に置い て、
法事に訪れ る人たちの 目に も触れ る ように した。
檀信徒へ の通 知 だ けでな く、
その家 族 や 親 族 縁 者にも告知で き る からである。
ハ、
道場荘 厳阿字観 道 場の荘 厳は
、
は じめて の開設なので未 知の準 備・
荘厳作 業 とな る。 法 要や行 事の会 場 設 営よりも、
色々な点に 配慮 しな けれ ば な らない。 例 えば、 場 所の条件と し て は、
畳 のある広 間、
ご 本尊 を立てか け られる壁 面のある部 屋、
部屋 (道場)に 入 る 日差し、
調 光できる部屋、
諸 仏が遍 満 する空 間と な り得 る 環 境 を考 えなければ ならない。 また、
心 地 良い音楽が響きやすい、
香 の香 りが 利 く、
外 部の雑 音が余り入ら ない とい うこと も考慮する。 道場に 用意するものとし て は、
塗 香、
線 香・
蝋 燭・
阿 字 観 作 法 (参加者に 配布)、
雪 洞 (調 光 用)、
座 布 団、
詠 歌 用 椅 子・
机 (足の不 自 由 な人用 )、
阿字 観 パ ネル、
大日如 来 図絵 等 が 必 要 となる。 また、 その 日に話 す内容 (法 話〉の レ ジュ メ と ア ン ケー
ト用 紙 も道場の 入 り口 に、
塗 香 と共に置いてお き、
参 加 者が道場に 入っ てきた時に各 自が受 け取 れるように準 備した。
二 、 開 催 周 期、
プログラ ム、
時 間 配 分につ いて 参 加 者が阿 字 観 を習熟 するのに最 も適 したペー
ス と は、 何を 基準に判断 す れ ば よい のだ ろう。
開催日と開催日の間が空 きす ぎても、
前 回の感 覚 を忘れ てし まうかも知れない し、
間 隔 を短 く して頻 繁に行 な うようにする と、
参加 者 は負担 を感 じて欠 席 が 多 くなるので は とか、 指導する側の準備が不 足 する か も 知 れ ない と 心 配 は尽 き ること が 無い。 結 局、
思 案し た挙句、
参加 者の モチベー
ショ ンな ど を考 え、
さらに、
途 中 か ら抜け る こと も入 ること もできる ように期 聞 を区 切 り、 半 年 }期と設定し (209}た。 また
、
毎週 開催だ と頻 繁 す ぎる の ではとい う配 慮か ら、
隔週 開催で、 尚 且つ 、 各回 完 結とする。
勤め 人 な ど、
平日 は忙しく休 日に時 間が ある人にも 参加できる ように、 月2
回 第1・
3土 曜日 に開くことと して、 半 年1
期 12回 のプログ ラム を組 む よ う に して、
陽 ざ しが 陰 り始め る午後 3時より90
分 間 の実 施とする。 これ は、
普 通に人が集中で きる時 間 (ご詠歌な ら休憩 を挟 ん で 2時 間 ) を考慮して、
1回の内 容 を次の ように構成し て み た。
お勤め (智山勤行式) 法 話 儲義〉作 法の確 認 (その他
、
ス トレ ッチ & リ ラ グゼー
シヨ ン& ゲー
ム等) 阿字観・
月輪観の実 修 ティー
一
タ イ ム (ア ンケーy
記 入・
回収) コ ミュ ニケー
ショ ン (対話) 法 話は半年を 1期と し て12回で iつ の テー
マ に沿っ て話 すことにする。 半年間で各回毎の法話の テー
マ と、
実修プロ グラ ム を具 体 的に組み立てて、
初 回 か ら参 加 者に、
い つ、
何 をする の か ? ど うステップ アップする か ? 何が でき て、 何がで きないか?とい うこと を知っ ても ら う よ う配 慮 した。 ホ、
ご本 尊 阿 字 観・
月輪 観の道場に おいて、
最 も尊 くて聖 なるものは、
ご本 尊である。 道場と し た本堂 且階の大広 間には、
正面に ご本 尊 様 (不 動 明 王 )が 祀ら れて お り、
その お前 立 ちに宗祖 弘法大 師のこ尊像が安置さ れてい る。 普段は、 法 事の控 え室に使 わ れる畳 敷 きの広 間 (40畳 )だが、
瞑 想満月の会の時に は、
真 言宗の精 神 修 養の根 本 道場 となる。 その ご本 尊に参 加 者一
堂、 礼 拝し て か ら満 月の会 を始め る こ ととした。
また、
参加者それぞれが 相対 する阿 字観パ ネル も、 ご本 尊・
大 日如 来の種 字が描 かれ たもの であ り、
単な るパ ネルで はない。
パ ネルが聖 なるものであ り尊い もの である ことを参 加 者に心に刻みつ けて も ら うため に、
魂 を 入れ る 開 眼 作 法 を、
参 加 者一
堂の前で執 り行っ た。
阿字観ご本尊が、
聖 な る尊い も (210)檀 信 徒と共に阿字の法 を観る (片 野 ) の とい う感 触を身に刻んだ参加者は
、
そ の後には、
阿 字 観ご本 尊の取 り扱い にも、 こ と さ ら注意を払うようになっ た。阿字観 を実際 に修 する時に は
、
阿字 観ご本尊を立て掛 け られ る壁 面 が必 要 になる。
ま た、
阿 字観ご本 尊 か ら行 者に向け て、 光が差 し込 まない よ うに 配 慮 する。
寺 院の広 問で、
阿 字 観ご本尊を置くスペー
スには、
構 造 上 限 りが あ るので、
こ う したこと に注 意し て道場を荘厳しな くてはなら ない。
へ、
アンケー
ト (参加 者 との対 話・
コミュニケー
ション) 檀 信 徒 が 阿 字 観 を修 する 上 で最 も懸念さ れる の は、
月 輪 観・
阿 字 観を き ち ん と修す る こ と が で き る の か ?何が上 手 くで きて
、
何が 上手 くでき ない か が はっ き りわ か らない。
指 導 する側 が 把 握 することも勿論である が、
実際に 修してい る本人 が、
何ら かの 目安 とな る 「はか り」がなけれ ば、
やっ ていて も張 り合いがな く、 モ チベー
ショ ンを保つ こと は難しくなっ てくる。 そのた め に参 加 者の ア ンケー
トが 必要と な る。
このアンケー
ト は、
次の ような目的 で行なうこ とにした。 現 在の自分 惨 加者 )の体 調 を把 握 して おく。
何が分か ら ないか を自分でス ッキ リ させ る。
何を 感じ た かを確認 する。
自分の習 熟 度 を少 しでも知 る。 分 か らない ことは反 復 する。こ の ア ンケ
ー
トによっ て、
作 法の 中 で 上手 くできない箇 所 を次 面に確認 す る。 参 加 者の 習 熟 度 を把 握 し、 それに応じた対応 も 少 な か らず講 じ ら れ るこ とになる。6.
阿字観道場開設の実際 (平成13年10月〜
現在。 1期半年、
8期 目。
通算loo回) イ、
山 内の理 解 浸 透〜
瞑 想 と は何 なの か ?〜
吉 祥 院で は定 期 的な教 化 活動 と し て
、
密 厳流ご詠 歌 講 を30
年 以上継続し て いる。
そのた め講 員 さんがご詠 歌のお稽 古 に山 内を訪れ た時の応 対やお 茶 (211)の 接 待 は心 得てい る。 し かし