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近世薩摩藩における家中士の存在形態について
一入来院家中を事例として一教科・領域教育専攻 社会系コース
森 満 勝 幸
はじめに
本研究では、近世薩摩藩の実状とそこに在郷 する武士、とりわけ家中士に焦点をあてて、近 世薩摩藩における「家中士」とはいかなる存在 であったのかを検討するものである。従来の研 究では、山口氏が小農自立のあり方について、
近世薩摩藩の独自の発展を「薩隅型j と述べ、
秀村氏は日本封建社会における西南辺境地域の あり方を典型的に捉えるべきと述べている。し かし、一方で「外城制jの下に武士が在郷する ことを「半士半農」として捉え、その意味につ いては研究が遅れている現状である。
第一章近世薩摩藩に在郷する武士
第一節では、主に先行研究から、近世薩摩藩 の実状を理解した。近世薩摩藩は、薩摩・大隅・
日向諸県郡と琉球王国を合わせた合計約 72万 石を支配する大名で、あった。人口は文政 9年 (1826)には約607,339人いた。その中の約40%
が武士身分であり、他藩に比べて非常に多い割 合であったため、薩摩藩は「外城制」という制 度をしき、薩摩藩各地に武士が在郷している状 態が存在した。
第二節では、先行研究から、近世薩摩藩の武 士身分と武士団の人数の割合をみて、郷土と家 中士とい予武士の嘗}合が大きいことを確認した。
この郷土と家中士は、外城に在郷し、高が約 4 石と酷似した存在であるが、郷土は藩直轄の藩 士、家中士は私領主の陪臣だから身分が低いと いう表現で分類されており、家中士という武士
指 導 教 員 町 田 哲
の位置付けを考察していく必要がある。
そこで第三節では、薩摩藩からみる家中士の 位置付けについて、『藩法集』をもとに再検討し た。「家中士jと言う存在は「譜代之家来ニあら ざる者」として「軽き鹿児島士jや「外城衆中(郷 土)Jと共通する存在としてくくられていた。近 世初期ではこうした存在が多くいたのである。
近世薩摩藩において、家中士を含めた存在が武 士団の多くを占めながらも、主人との主従関係 が守られていない状態が散見されたため、藩側 は、主従関係を守ることで、「譜代之家来ニあら ざる者」を武士として扱っていた。
第二章入来院家の実状と家中士構成
本章では、薩摩藩入来院家における家中士を 事例として家中士の実状を考察していく。
第一節では、朝河貫一氏の WTheDocuments oflriki入来文書』から近世以前の入来院家につ いて、島津家と姻戚関係を築いていたことを確 認し、さらに『入来村史』と『入来町誌』から、
近世の入来院家は浦之名村と副田村の二村から 成り、約 5
,
127石を有し、人口も延享2年(1745) では3,555人であり、内60%が武士身分である ことを確認した。第二節では、入来院家に在郷していた家中土 の構成について、天保2年 (1832)
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入来院氏家 中知行高帳」を分析した。まず家中士の軒数と 人数を確認したところ、軒数より、人数が多い ことが確認できた。それは、知行高帳の機能と- 270 - して、家長以外の子どもまで登録する登録名簿 のような機能があったからである。
第三節では、「家中士提書Jから、家中士の実 態を分析した。提書には当時の家中士の実態と 本来「あるべき姿」である家中士像を記載して いた。これにより、生活が困窮し武芸のたしな みをしていない実状と、軍役として武芸のたし なみ行う理想の矛盾が当時の家中士にはあった。
また、「仁歳旋書」から家中士が農業を行ってい た様子がうかがえた。
第三章入来院家中から見る社会的諸関係一寺 尾家を事例として一
寺尾家は入来院家の分家であり、近世では入
足軽と百姓の関係を検討した。足軽との関係は 足軽奉行の役職についた家中士が足軽を統括し ていた。足軽は下層の家中士と同様に生活が困 窮し、場合によっては百姓に成り下がることも あった。家中士と百姓の関係としては、百姓が 生活に困窮した際に、奉公先として上層の家中 士に従属する場合がみられた。彼らが、下人と して、上層の家中士が所有している知行地を耕 作することも奉公の内容の一つで、あったと推測
した。
また、幕末の鳥羽・伏見の戦いの際には、上 層の家中士を隊長として、下層の家中士を編成 し出兵する、家中士の組織は軍役に対応するも 来院家の家老職など要職についた家柄である。 のとして生き続いていた。
その寺尾家文書に収められている「組頭寺尾定 おわりに
朋日記Jから家中士の実態を考察した。 本研究成果から家中士の位置付けを見直した。
第一節では、組頭として組内の家中士を統括 一つ目は、薩摩藩において「武士jの位置付けで し、足軽奉行として入来院領内の足軽全体を統 ある。薩摩藩では主人と主従関係を結んだものを 括していた。そこから見える他の家中士や足軽 「武士Jと位置付けた。家中士は、上層はもちろ との関係を分析した。家中士の中でも特に下層 ん、下層も武芸をたしなむこと「あるべき姿jと の家中士の生活が困窮し、身分が百姓に成り下 して位置付けられていた。
がる下層の家中士の実態があった。 二つ目は、薩摩藩に多くの武士が在郷している 第二節では、家中土に与えられた「抱地」と 意味についてである。先行研究では、倒幕の目的
「知行地」について考察した。「抱地jとは、家 のためと述べられていた。しかし、入来院家の場 中士が自費開墾地として先行研究では書かれて 合を具体的にみると、家中士は軍役を担う存在と いた。しかし、実際は薩摩藩が見分を行いなど、 して位置づけられていた。だからこそ知行高帳に 薩摩藩が管轄している土地であった。「知行地」 は、領内に在郷している家中士の嫡子末子や足軽 について、寺尾家の場合は多数の知行地を所有 までも編成していたのである。
しているが、入来院領内に散財していた。先行 三つ目は、「半士半農」の実態についてである。
研究が指摘するような家中士自身が農業を行っ 実際に家中士の中で農業を自らしていたのは、下 ている実態はなく、むしろ下人などに農業を任 層の家中士だと推測した。知行高が少ない彼らに せていた。また「仁歳提書」にみられるような、 とって農業活動は不可欠だ、ったが、それと軍役な 家中士が農業を行っていることが前提となる状 ど武士として「あるべき姿」を維持することは困 況は、下層の家中士であると推測した。 難だったのである。
第三節では、家中士と社会的諸関係として、