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 近世地方寺院の成立事情について-浄土・法華・臨済宗の場合を中心として-

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近世地方寺院の成立事情について −浄土・法華・臨済宗の場合を中心として− 藍住町 三好昭一郎 はじめに 1.研究史の概略と本研究の課題 2.撫養塩田諸村の浄土宗寺院 3.林崎浦の法華宗寺院 4.藍作農村における臨済宗の展開 5.地方寺院と民衆の動向 6.まとめと今後の課題 註 後記 はじめに 地域史として仏教や各地の小寺院=地方寺院の歴史的動向を調べていると、さまざまな疑問が生じ、 何か迷路に踏み入った気分にさせられることがある。迷路からどう脱出するか、そんなとき例えば私は、 何とかして自分の現在位置を地図の上で確かめておいて、どの道を辿っていったら目的地に到達できる だろうかと地図に相談する。その地図というのは日本史の通史のことでもある。私のめざしている当面 の仕事は地域史の解明である。ところが頼るべき地図が余りにも粗雑であったり、現状に沿わない場合 にはどうしようもない。そんなときは現況を図上に書き入れたり、色分けして訂正し利用できるように 直すのは地域史研究者の大切な仕事と似ているように思うことがある。 鳴門市の旧塩田地帯で大きい寺院をみると浄土宗であったり、それほど広くない林崎に 法華宗の寺院が2つもある。かと思うと藍作地帯として栄えた純農村に権力と結んで隆盛を誇ったとい う臨済宗の寺院が、あちこちにみられ、これら臨済宗寺院はとても大檀越からの保護を受けて栄えてい たとはみられない。どうしてだろうと思うような現象は、仏教や寺院のことに限らず至るところに存在 が認められる。それらの疑問を私たちが調べなくても、新しい地図を買えばドライバーには事足りるだ ろう。しかし、小路に迷い込んだ私たちに、そんなロードマップは役立たない。そんな人たちのことも 考えて、疑問は一つずつ解明し、その成果を記入して地図を完成に近づけていく。地味で目立つ仕事で はないが、そんな地図づくりに似た日常的な営みが、地域史研究に課せられた大切な仕事であろう、問 題はどう楽しんで続けられるかではなかろうか。健康には十分に気を配りながら、徳島県下のお寺参り を楽しんでいきたいと思っている。 そんなお寺参りのご利益というか、その過程で接することができた古文書や各地の寺院のもつ建築や

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彫刻・絵画や仏具から伝承の類まで、ありとあらゆるものに出会ってみたいと心がけてきたが、これか らも続けていきたいものである。下手の鉄砲も数撃てば当たるという古諺があるが、それを私の主義と している。そんなことをやっているので、寺院を語る材料は山積みされている一方で、さてそれらを使 って語ったり書いたりしようとすると、必要な材料を探し出すのに困難している。それが現状もっとも 苦痛としていることである。 そんな事情もあって、この際に少し整理に取り組んでみようというのが、このたびの研究を思い立っ た最大の理由である。できることなら、本研究を契機として整理の枠を次第に拡大してみたいものであ る。しかし、そのためには、この研究を早期に仕上げなくてはならないが、それに失敗すればその後の 計画はすべて絵に書いた餅になってしまいかねない事を恐れるものである。 私は1956年ごろから郷土の阿波における仏教史を研究したいと思うようになって、資料調査にと りかかり拙速でまとめた『阿波国仏教史』(1)を刊行しているが、そのときから考えていたのは、仏教 信仰史を盛り込んだ、生きた阿波の仏教史をまとめたいということであった。それは寺院や教団の歴史 や仏教の教理史などよりも、困難な仕事であってなかなか着手することができないテーマである。いま もその状況は変わらないが、そんな分に過ぎた研究を私一人で仕上げようなどと考えること自体が間違 っていることに気づいたこともあって、不完全なものであっても、これを私なりにまとめておけば、や がて私の研究を批判した上に、優れた研究成果を追加され、やがて完成に近付けてくれることもあるだ ろうと考え、その取り組みを早めようと決意したのである。そんなことから「地域」、そこに暮らす人た ちの信仰と「寺院」、その関係を歴史的に少しでも明らかにすることを本研究はめざしたいと思っている。 さて、私個人も信仰をもっていて信心ということでは決して人伍に引けを取るものではないと自負し ている。しかし、私は仏教を信仰することによって不安や苦痛がすべて解消できるかと自問するとき、 まだまだそれに自信も持てないし、そんなとき宗教や信仰のことを忘れて四苦八苦することも多い。未 だ信仰というか、心が鍛えられていないことを思い知らされたりすることが多い。そんな私自身の心を 鍛えるためにも仏教の歴史から多くのものを学び取らなくてはならないと痛感している。 そのようなことを考えていると、この研究にはもう一つの動機があることを明らかにしておかなくて はならないのだろうが、その意味からすれば、それぞれの時代において、それぞれの人たちが、信仰を どのように深めるかと考えて取り組んだ実践的な側面を照射してみることが、大変重要な仕事であると 感じるのであるが、それでは一体どこをどう照射すれば見たいものが見えるのか、そこに見えたものが 果たして私の心を逆照射してくれるのか、そのことに関しては現状の私には一切何も判らない。 取り敢えずそんなことを考えるというのは、本研究の「おまけ」のようにも思うが、ただ寺院と結び ついて檀信徒の信仰が、どのような形をとって、それぞれの地域や寺院の歴史の中に根付いていたかと いうことを、できることなら少しでも明らかにしたい。これは、決して本研究の主題を外れる問題では ないはずである。大変困難な作業を伴う面倒な仕事ではあるが、今後のことも視野に入れて取り組もう としている。なお臨済宗寺院の場合については、浄土・法華宗寺院と地理的に接近していることもあっ て、今日の板野郡の寺院も必要に応じて引き合いに出そうと考えている。

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1.研究史の概略と本研究の課題 日本史上で中世から近世への移行期は、政治の動向が仏教にも大きい影響を与えたが、それは寺院の 盛衰をも齎すこととなった。そのことはまた新しい宗派が広く教線を伸長させる絶好の機会であったと も考えてよいであろう。阿波の場合を考えてみても、興味深いのは、浄土・法華・禅などの各宗は、戦 国乱世でもその末期に衰微した天台・真言などの密教系寺院を再興したり、寺院が存在しなくなった地 域に寺院を創建することはもとより、これら宗派が活発な布教を展開したり、檀信徒と多彩な仏事との 関わりを通じて、町や村落の信仰的要請に応えてきたことは、多くの史料伝承などによって知らされる ことである。 本研究は以上のように近世初期の徳島藩における各宗寺院を幕藩制的に再編成する過程をできる限り 明らかにすることと、新たな体制に基づいて活動するようになった地方寺院が、檀家を中心とする信徒 との関係をどう構築していったか、また地域の民衆にとって地方寺院はどのような形で存在する意義を もっていたかなど、特色をもった地域ごとに考察することを予定している。これらに関する先行研究の うちもっとも多くの示唆を受けたのは『浄土宗史』(2)である。その要旨を紹介してみよう。 そこから注目させられたのは、「天正・慶長∼寛永(1573∼1643)の間に中興年次が集中している。 このように開創伝承をもつ寺院の場合にも、また中興伝承をもつ寺院の場合にも、開創乃至中興の時期 に同じ傾向が認められるのであって、確かに戦国時代から近世にかけての頃が、無名群小の寺院を基礎 単位とする現在の教団と直接につながっている近世浄土宗教団の生成期であった。このような傾向はひ とり浄土宗のみでなく、真宗・禅宗等の他宗においても同様であった」と述べられている一文である。 さて、中世寺院の場合は、大檀越の保護と支援を寺院経営の基礎とし、安んじて大檀越の現来二世を 祈願したり、教学や修業に専念できるという存在形態を有していた。そのため葬礼や墓地管理をはじめ、 日常的な医療行為などを介して衆庶の願いに応えて活躍していたのは、聖や修験者とか浄土・禅宗など の底辺の僧たちであって、その日常的な営みは町や村落の小庵や仏堂があれば十分であった。それが近 世になるとこれらの寺院の住持となり得なかった宗教者を整理し、学問や修行を積んだものだけに住持 の資格を認めようとしたのが幕府法度の狙うところで、葬礼や法会の執行一切を住持や住持の資格を持 つ僧侶のみに執行させる制度に改めている。それは本山の支配を受けない下級宗教者による布教活動に 恐れを抱いていたための当然の政策であって、例えば徳島城下において天和2年(1682)に「ひち里念 仏夜念仏御法度之事」(3)を出して厳しく聖念仏の布教活動を禁じていることでも知ることができる。 近世の仏教を葬式仏教といって批判の対象とされているが、幕府の諸法度は必然的に寺院と僧侶を葬式 仏教の執行者に仕上げていったことは明らかである。 ここではとくに戦国期に退転した旧仏教系寺院の再興に浄土・禅宗の僧侶が深く関わったことが強調 されるが、地方によれば法華宗も視野に入れる必要もあるだろう。それが教団をどう支えるかというこ とも興味深いテーマである。 同書はまた、近世初頭は戦国期の大名や国人の多くが衰退するが、そうした社会変化が寺院にも反映 することは避け難く、戦乱は既存寺院に影響し在地領主層の菩提寺をも衰微させ、檀越を失って経営基

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盤をなくしたり、戦火で伽藍が焼失したことなどを述べ、各地に夥しい廃寺を生じさせたことにも注目 すべきである。こうして衰退した寺院の多くは天台や真言宗寺院で、そこに浄土宗進出の地方における 背景があり、また下級僧侶は葬礼や墓地管理などを足場として浄土・禅宗寺院となり、本山の末寺とし て組織されたことが、宗勢伸長の基盤たり得たと判断している。その史料を得るには地方史料を丁寧に 調査することを必要とするが、私も一層の努力をしたい。

浄土宗の光徳寺(左)と昌住寺の大悲閣(観音堂)

また、法的・制度的な検討も大切であるが、近世に入ると徳川家康が元和元年(1615)以降に寺院統 制に関する法度を諸宗の本山寺院に布達している。対象としては天台・真言・浄土・臨済・曹洞の各宗 となっている。その狙いとしているところは、各教団や寺院を幕藩体制の機構の中に編成することであ ると同時に、寺檀関係を構築するために寺院の住持の資格を厳しくし、そのため各教団には教学や修業 に打ち込む僧侶の養成期間として檀林や修行道場を設けることを義務づけるなどによって、地方寺院の 住持として檀家を指導できる十分な素養を身につけさせることに力を注いでいる。また教団に本末関係 を確立することを厳命し、幕府⇒本山⇒本寺⇒末寺の単一的な支配関係を編成することによって、始め て幕府による寺院統制が貫徹するという仕組みを完成させたのである。地方では、さらに孫末寺もあっ て下級寺院が支配の底辺に置かれた。この段階には一向・時・法華の各宗は対象外に置いている。以上 のように法度布達の目的をまとめてみると教団と寺院の中世的特権を剥奪したうえに、幕藩制的に寺院 を再編成することにあったが、教団内部には本末制度によって本山寺院の絶対優位のヒエラルヒーを構 築させることによって、本山寺院は幕府の直接管轄下に置くことによって、諸国の末端寺院にまで幕府 の寺院支配が貫徹できるとする体制となっていった。 そのように本末制度が構築される過程においては、各本山は地方の本寺を介して支配する末寺を増や

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すことに奔走するのは当然であった。そのために戦国末期に廃絶したような寺院や仏堂・庵室で無住の 所に自派の僧侶を入れて常住させ、やがて末寺に格上げさせるようなケースが顕著にみられるのである。 このような新たに末寺とされていった地方寺院の住僧は、周辺住人を檀家とし、葬礼や加持祈祷などを 執行することを始め、説法や諸行事を通じて講中を組織するなどして寺檀関係を固めると同時に、その 経営基盤を強化するために檀家から土地の寄進を得るなどし、境内を拡張したり伽藍の建立や整備にも 積極的に取り組んだのである。このような寺檀関係が経済的な関係に限りなく傾斜すると、地方寺院は 必然的に葬式仏教化して、檀家に対する収奪機構に転化し兼ねない。それは幕藩領主にとって放置でき ない現象であった。つまり、檀家の領主に対する貢租負担能力を弱める事態にも発展しかねないことか ら、やがて新寺の取立てを禁じたり、寺院に対する観察を強化するなど、寛文5年(1665)の諸宗寺院 法度で寺院整理に着手したことも注視すべきだろう。 さて、今回の研究は無理のない範囲に限定することとし、以上のような寺院をめぐる背景を掌握しな がら、次の諸寺を調査と研究の対象とすることにした。地域的には鳴門市と石井町・鴨島町の範囲とし ている。研究史をまとめる中でも紹介しておいたが、法華・臨済宗寺院の場合には、退転していた旧仏 教の寺院を再興することによって、新たな宗派の寺院として周辺地域の間に根をおろしていった場合が 多く見られる。できればそのような寺院の宗教活動についてだけではなく、檀家の人たちはもとより周 辺の人びとが、このように寺院と結びついた信仰生活が、どのように営まれたかというような、仏教民 俗学的視点からの調査が必要であろうと考えられる。つまり、宗教の生きた姿を明らかにする試みに挑 んでみることが大切なように考えている。 そこで鳴門市の塩田地帯として徳島藩経済に重要な役割を担ってきた村浦に、浄土宗寺院が存在した のはどのような理由に基づいた現象なのか、これら浄土宗寺院が製塩に関わっていた檀家に対して、ど のような宗教活動を展開していったのか、さらに檀徒の人たちが寺院と関係をもつ独得の信仰的行事を 行っていたかなど、文献や史料では知ることが困難と考えられる聞き取り調査が不可欠となり、それを 明らかにしなくては研究は深化させることができない。 徳島県は当時も今日も真言王国といわれ、全寺院の約8割近くが真言宗寺院で占められている。そん な中で浄土宗寺院はきわめて少ない。そのようななかで撫養塩田地帯だけは4か寺がいずれも地方では 珍しい大刹である。そこには製塩に関わる檀家の支えが大きかったことはいうまでもないと思うが、き わめて特異な背景があるものと考えられる。 林崎浦の法華宗寺院の存在形態に関しても興味深いものがある。林崎浦からは徳島城下町の発展に伴 って佐古の町が商家で埋めつくされていったころ、円隆寺の僧が妙法寺を創建している。林崎浦の円隆 寺の寺勢が窺えるとともに、当浦から佐古に移った商人もいたと考えることもできるだろう。それにつ いても調査をしてみる必要を感じさせられる。いずれにしても法華宗は都市宗派と考えられているが、 徳島県では少数派であるにも拘らず、一つの浦の人びとを2か寺で檀家にしていることには注目させら れる。 また、石井町と鴨島町という吉野川中流域の農村地帯に10か寺の臨済宗寺院が興源寺と慈光寺とい う蜂須賀家菩提寺や香火院として隆盛を誇った寺院が、末寺を分化していったことも注目すべき現象で

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あろう。この地方に興源寺の知行地が集中していたことや、慈光寺の名僧南山祖団が藤井寺など廃寺寸 前に瀕していた旧仏教寺院を復興させていることも注目に値する。臨済将軍などといわれ鎌倉時代以降 に、武士の上層とか皇族などの帰依と保護を得て繁栄を誇ってきた臨済宗寺院が、草深い農村にあって、 どのような宗教活動を展開したか、また檀家も大半が農民であるが、どのように寺院との関係を保ち、 信仰を深めてきたか、その実態を掌握することは、たいへん興味深い調査対象である。 以上のように特殊的とも考えられる、同様の現象として徳島市の丈六寺を根幹として,曹洞宗寺院が阿 波の南方といわれる勝浦・那賀・海部3郡の臨海部に末寺を分化していること、また全県的に寺院数の 少ない法華宗の寺院が徳島城下の寺町とその周辺部に10か寺も集中している。そのような都市寺院の 宗派構成について解明しなくてはならない興味深い課題が山積されている。法華信仰は都市部の商工業 者の間に大きく教線を伸長させていったことで知られるが、戦国期の阿波三好氏と関係の深い泉州堺な どの寺院数は格別多いが、この堺を拠点として畿内の各地で大活躍し、兄長慶の政権を支えた三好義賢 は油屋日珖に深く帰依し、大刹妙国寺(4)を建立し被官の武将たちからは法華信者を多く輩出してい る。それが近世の阿波にどのような影響を与えているか、そうしたことも研究成果が期待されていると ころである。 臨済宗の場合は、近世になると藩主の蜂須賀家が、その菩提寺である興源寺を始め城下には慈光寺・ 瑞巌寺・大安寺など、10余か寺が徳島城下とその周縁部に集中していて、いずれも城下に居住する武 家を檀家として寺院経営は安定していたと考えられる。 それに対して地方寺院は、寺領どころか狭小な境内地も居屋敷として名負いすることを義づけられて いたので、寺院経営にもさまざまな工夫とやりくりが必要であった。伽藍の改築や増築ももちろん容易 でなかったはずで、檀家の負担に頼るより他になかったので、その都度浄財の寄進を求めて寺僧は托鉢 の行脚をつづけることも多かった。それと対称的に、城下の特権寺院ともいえる臨済宗寺院は、その寺 基を早期に固めていたが、明治維新で大檀越の蜂須賀家は東京に移り、家臣の多くも四散して寺領も失 って衰退を余儀なくされた寺院が多い。それに対して本研究で対照とする農村部の臨済宗寺院は、その 最初から農民を檀家として寺院経営が成り立っていた寺院であるため、急速な退転を経験することは避 けられた。しかし、近世の布教活動のことを考えてみると、城下で藩の寺領を受けて、支配僧と深く結 びついていた寺院とは対象的に、その周囲に存在した多くの真言宗寺院とは、ある意味で競合しなくて はならない立場にあった。そのような客観的に厳しい状況のなかにあって、臨済宗の地方寺院が、それ ぞれどのような存在形態をもって寺院経営を維持してきたか、また檀家の農民たちが、どんな信仰形態 をもち、さらに禅宗特有の教義や習俗をどう日常生活に取り入れていったか、それは他宗の檀家と比較 して果たして特徴があるのかどうか、調査すべきことは限りなく多いのである。 2.撫養塩田諸村の浄土宗寺院 撫養塩田の諸村のうちでも、小鳴門海峡に臨む三石村・高島村・黒崎村・大桑村・小桑村の5村には、 阿波でも特異な浄土宗が定着する信仰圏を形成している。そのことは阿波仏教史のうえで注目されなく

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てはならないであろうし、この信仰圏における塩田開発と製塩業の展開を主導したのは、すべて淡路か ら当地に移住した人びとであったことも重視しなくてはならないことだと考えられる。そのため本研究 では、その前提として、これらの人たちの前住地である淡路三原郡の志知川村や松帆村などにおける中 世末以来の塩業や、浄土宗日光寺の状態や移住者の淡路にいた段階における信仰の動向などについて、 その状況を詳細に調査しなくてはならないが、私の都合によりそれは先送りせざるを得ないが、いずれ 着手しなくてはならない課題である。 いずれにしても、この一帯の塩業で繁栄した5村ほど浄土宗寺院が集中している地域は、阿波のどこ にもみることができない。そこでまず、これらの4か寺の寺歴や塩業従事者との関係を、史料によって 整理しよう。

光徳寺本堂

鳴門市撫養町小桑島

まず小桑島の光徳寺は壮麗を極める本堂をはじめ、たいへん地方では稀な浄土宗寺院で、その由緒に ついては「境内本堂の外観音堂一宇あり、正徳年中海中より出現せりとの伝説ある十一面観世音菩薩を安 置す。また鐘楼堂あり、寺内に桑島開基の橋本市右衛門・吉田助太夫・中島喜左衛門諸家を始め溝口由 義等の墳墓あり、而して桑島は元浄土宗の日光寺淡路志知川村光明寺の檀家なりしが、上述の桑島開基 諸氏により当寺建立し檀那寺と称す」(5)るようになったとしている。寺伝によると慶長7年(1602)に 善及により開基され、本尊は阿弥陀如来で知恩院末とされている。当時の開基に関わる3人はすべて塩 田開発の功労者である。

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光徳寺

本尊阿弥陀如来

光徳寺

内陣 須弥壇

橋本市右衛門は「慶長の頃此地に来り干潟中良所を選び現今大桑島山の山根より田畠を築開き、翌年功 漸く成りしかは生地志知川に鎮座せる広幡明神即ち大山咋神・応神天皇・大物主神の3社を歓請して山 をは鍬山と命名し谿を拓きて奉祀す、之れ現時大桑島村字与三左谷なる村社八幡神社なり、越へて三年 塩浜を開拓し初まり、渡海の便々には廻文を遣して郷民を招来す、益田大膳其の開基の功を認め助太夫 と共に政所役を命じ、慶長十二年三月十九日市右衛門に自墾の上浜三反を与ふ、又光徳寺は市右衛門の 慶長六年に再建せしものなり、其浄土宗たる所以は志知川村に檪田村日光寺末光明寺あり、殆んど全村 民を檀那とし市右衛門も亦其一人たるを以ってなり、其子孫加納氏を称す当主真九郎は市右衛門十四代 の裔なり」(6)と記している。 吉田助太夫の場合も同郷の出で、「市右衛門等と偕に移住し、開拓功を奏し益田大膳より市右衛門と倶 に政所役を命せられ、慶長十二年三月十九日上浜二段を与へられる時人称して桑島の両政所という。後 正保元年十二月一村に二政所あるを以って大桑島・小桑島の二村に分ち小桑島村政所役を命ぜられる」 (7)と記されている。 もう1人の中島紀左衛門については、天明7年(1787)3月に大桑島村問屋紀左衛門が郡代と塩方代官 に差し出したものとして、 私先祖紀左衛門儀慶長四年当座庄屋友右衛門先祖市右衛門、小桑島村庄屋吉田善作 先祖助太夫右三人共召連罷越当村地方浜方共開起仕候右両人儀者政所役被仰付私先 祖紀左衛門儀者塩問屋役被仰付候(8) この紀左衛門は寛永13年(1636)10月12日に死亡し、光徳寺に葬られ永譽道順信士を法号として いる。 『板野郡誌』によると、桑島で塩田築立てを成功させた淡路からの移住者は、すべて淡路に居住してい た段階には志知川村の光明寺を信仰の拠り所としていたと記している。この村の光徳寺は慶長7年の建立

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とされているが、そこで調査を必要とするのは、何を措いても光徳寺の創建にあたって、光明寺末として 創建されたかどうかという点である。ところが当寺は知恩院の末寺となっているが、光明寺は西山派の寺 院である。創建当初から知恩院末として開基されたと考えるのは不自然のように思うが、とりあえず寺伝 は慶長7年(1602)に善及が開基したとしているが、善及が鎮西派の僧であるか、また西山派の僧である かを確定することが大切である。もし西山派の僧だとすれば、創建当時の光徳寺は光明寺末であったと考 えてよい。もしもそうだとすれば、その後いくつかの段階に本末紛争が生じたと考えなくてはならないだ ろう。次に述べる高島村の昌住寺も当初は光明寺末となっている。本末関係は複雑である。高島村の昌住 寺も地方には数少ない大刹として注目させられる。

高島の昌住寺 前景

まず史料によって当寺の存在形態を確かめておくことにしたい。当寺文書の「乍恐申上口上書」(9) によると、「阿州板野郡高嶋村昌住寺儀者古へ百姓十人参上所取立申島ニ而御座候、昌住寺え者其時分右 之者共乍会所之外に草むすびに取立置、淡州志知河村光明寺に空養と申平僧高嶋村者共親類にて御座候 をよひ居る高島新在所に御座候故、繁昌に幾久住むと申祝儀を以昌住寺と付申候、其他自他宗之坊主其 方より来住持徒阿州徳島浄智寺弟子授玄と申平僧鎮西流義之坊主にて、昌住寺にて相果候、又讃州疋田 光明寺より厳誉と申西堂住持仕居申候是又鎮西流儀之坊主にて御座候、其間入込道心者・禅門平僧共罷 有て又無住之義も御座候、弐は昌住寺破損仕本僧諸道具共本覚坊と申真言坊主預り至申事も御座候、然 るに万冶弐年栄哲と申坊主惣持事にて学文仕、高嶋へ参候を幸に昌住寺に仕置申処に、栄哲西山光明寺 取次にて万治三年三月九日綸旨頂戴仕、寛文四年之頃西山光明寺末寺帳に付申候、夫より以来京都西山 光明寺之末寺と定り申候、其以前は何寺と本寺と申分ちしも無御座、然るに栄哲寛文六年之春寺罷出申 候に付、京都禅林寺光明寺先代之住持指図にて昌住寺旦那共方へ状添智応入院仕候、即本寺より態々書 状共参直に勤仕候事」と寺歴をまとめ天和3年(1683)4月27日に淡路檪田村日光寺の末寺とする訟訴 に反論している。 これに対し「(略)従日光寺差出所之証拠且又不分明、就中昌住寺歴代之内他流儀之僧両代迄囗囗住持 日光寺囗囗其構指置所元来本末之差別無之段為顕然然者双方之申分其謂無之、且又於両山延宝年中及両度

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日光寺昌住寺本末諍論に付、違変之裁判両山不埒之至也、因茲昌住寺此度新に深草流儀京都円福寺末寺に 申付畢仍為御証日光寺昌住寺被書記之一遍宛下置者也」(10)と坂内記・坂伊予が加判し両寺が承諾して いる。 以上の本来紛争も興味深いが、いまそれに深入りする余裕はない。この史料で重要なことは、地方にお ける寺院の成立と経営、その寺基を固定されるまでの経過から学び取るべきことが多いということである。 三石村の法勝寺は「開山は元淡路国三原郡松帆村日光寺中興開山源空上人、文禄元辰年二月二十八日之 夜聖徳太子自作之丈尺八寸之聖観世音菩薩の立像右太子より夢中に授かりて、霊像世其後慶長十一年源空 上人と弟子閑空と該尊像を背負ひ四国巡拝し、同十六年八月十五日当所へ来り人家なく唯大木之本に壱夜 を明かさんと欲し彳み居りしに、其夜不思議なる哉尊像より我れ此所に留りて衆生を済度すとの霊告あり、 翌朝淡路に帰らんとするに、晴天俄に曇り白波となり渡る事を得す、上人是は帰淡を尊像か忌むならんと 弟子関空と尊像を置き、上人而己帰淡するに何等の故障なく、其后海中に三ッ石出現し光明を放ち、当山 王来り消失せ遂に国主之耳に達し最石山と云う又寺号は淡路日光寺の山号によりて法勝寺と称す」(11) と記しているように、縁起の紹介がされているだけに、寺歴などに関する動向は他の史料で確認するより ない。そこで当寺建立の背景を明らかにするために次の史料(12)を出しておくと、「慶長年中土佐泊浦 之内塩浜築立村成、家数八拾軒余、産業塩浜挊船挊ニ庄屋役被仰付候、只今之佐古右衛門先祖ニ而数代役 義相勤由緒有而先祖より太守様御目見被仰付来り候、先年より佐古右衛門塩問屋仕居申候」とする三石村 の立村や塩業村の経過から考えると、この村も淡路から移住した佐古右衛門とその郎党によって経済基盤 が整えられたことは明らかであろう。こうして塩業村として立村する条件が整う過程で日光寺の末寺とし て当寺が建立されたものと考えることができるし、またそれを主導したのが佐古右衛門であったことも、 ほぼ疑う余地がない。

三ツ石の法勝寺

以上のように光徳寺・昌住寺・法勝寺の3か寺は、ともに淡路から撫養塩田の開発をすすめるために 移住してきた人たちが、淡路にいたころに信仰していたときには、決まったように浄土宗寺院と深く結 びついた信徒で、阿波移住後に塩田の築立てに成功し、製塩によってそれぞれの村に落着くと、申し合 わせたかのように元の檀那寺などから僧侶を招いて浄土宗寺院を建立していったことが文献や史料に記 されている。しかし、昌住寺の史料で分かるように寺院経営も初期のころは檀家も少なかったためか、

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困難を伴ったらしく無住寺となったり、他の浄土宗諸派の僧や禅僧なども入寺して混乱をくり返したら しく、寺基も不安定であったことが考えられる。 もう1か寺、黒崎村に西光寺があって禅林寺末(西山派)で元和2年(1614)10月に僧岌善によって 再興され、丈六阿弥陀如来像を本尊仏とする。「古藤半仙の墳墓、藤井藍田の潜所、さては藤本鉄石の曽 遊を以って名高く光明寺末(略)境内仏堂二つあり近時後山に四国霊場を設く」(13)と記されているが、 その寺檀関係については記すところがない。しかし、光徳・昌住両寺の寺歴から推測すると、光明寺末で あるということは、西山派の浄土宗教線が伸長していた淡路の三原郡志知川村またはその周辺部から黒崎 村に移住して、塩田の開発を勧めた一団が、その檀那寺として創建または再建された寺院と考えて差し支 えないであろう。こうして淡路の調査は緊急の課題の一つである。

黒崎の西光寺本堂

同寺の庫裡

光徳寺は太平洋戦争で敗戦直後のころまで、どこまでもひろまる塩田の真っ只中にあったが、いまで は周囲の環境はすっかり変化し、市街地の寺院となっている。当寺の南は小高い山を背負っていて、そ の山麓は墓地が広がっている。その中には当寺の歴代塔も見られるが、その調査も今後の重要な課題と なるはずである。いま一つ明らかにしなくてはなれないことは、当寺がどうして智恩寺の末寺であるの か、つまり鎮西派になったのはいつごろのことかという疑問を解明しなくてはならない点であろう。そ れに答えるための基本的な史料は目下のところ得られないが、藩によって実施した各年次の寺院調査結 果をまとめた寺院帳などを調べることが必要であろうと思うが、伝承によると近世初期にはこの地に移 住した淡路の人たちは、郷里の光明寺との関係もあって建立以後は光明寺末であったが、光明寺の寺勢 が衰えて当時との関係が自然と希薄になった機会に鎮西派となったというもので、これは高島村の昌住 寺の動向とも関係があるということも考えられ、そのことについても考察の必要がある。 法勝寺は三石村にあって、後に山を負い山麓から少し高まったところに本堂が望まれ、そこまでは墓標 がびっしり群がっている。本堂に並んで観音堂が建っていて、大変落ち着いた雰囲気を感じさせられる寺 院である。当寺と黒崎村の西光寺は、ともに近世初期の創立以来、一貫して光明寺を本寺とする西山派と して寺院経営が行われている。それは小桑島村の光徳寺が鎮西派に改まり、昌住寺が本寺である光明寺と

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の間に本末紛争を生じた結果、同派の円福時末に寺格を上昇させている動向とは好対照となっていること に注目しておきたいが、その歴史的背景として檀家である塩田の開発に取り組んだ有力者を始め、塩浜で 稼いだ浜子たちの動向についても、小桑島や高嶋村との異質な背景があったとも考えられ、史資料収集は もちろん聞き取り調査なども進められなくてはならないであろう。そのことは、特に三石村と高島村の塩 業経営に関する研究を反映させることの必要を痛感させられる。同時に同じ大毛島にある昌住寺とともに、 観音堂(大悲閣)をもっていることについても調査してみたい。 高島の昌住寺は大刹である。本堂を中心に右に方丈が続き、左に別棟の観音堂があって観音堂の横の奥 まったところに稲荷大明神が祀られている。裏山の石壇を登ったところに高島村の氏神である八幡神社の 社殿があって、昌住寺と深く繋がっていたことを思わせてくれる。そこまでの中腹には山下が一望できる 鐘楼堂があって、ここからは沿岸の広い塩田が眺まれたはずであり、さらに小鳴門海峡を隔てて黒崎村を 望むことができる。その壮麗な伽藍を見るだけでも、高島塩田の経済力が大きいものであったことを推測 することができる。寺に入ってすぐ南に当寺の歴代塔が群をなしているが、この歴代塔には大型のものも あり、また小型の塔もあるが、これらの塔を調査して紀年別に整理すると、この寺の盛衰の歴史を概略知 ることができるだけでなく、寺の経営を左右した高島塩田の栄枯盛衰の歩みと深く関わっていたことまで、 把握することができるように思えた。 このたびの現地における予備的調査の目的は、あくまで伽藍と境内地を調べることによって、以後の調 査に着手するための問題点を整理することに終始したが、浄土宗4か寺に関しては、まず淡路の光明寺と その周辺の近世初頭における経済活動などについて、現地調査と史料収集が当面必要であることを痛感さ せられた。 3.林崎浦の法華宗寺院 近世初頭の林崎浦は益田内膳を城番とする撫養域が置かれ、その城下町が形成されたところである。当 浦は史料(14)によると「天正年中四宮加賀守子孫四宮関之丞林崎より拾四軒屋迄之間開基仕、慶安年 中迄ハ鰯網多ク漁業ニ而渡世仕、加子役相勤居申候処漁場追々塩浜ニ築立立岩村弁才天村北浜村大桑嶋村 斎田村南浜七ヶ村之塩浜と成り拾四軒屋ハ岡崎村と分り産業を失イ候得とも塩浜出来ニ付上郡筋より塩 蒔其外諸物積下り他国より干鰯等積込候船着宜敷宝歴年中ニ郷町同断ニ被仰付、郡御奉行長谷川三平殿御 証文被遣以来弥繁昌仕諸事自由、撫養第一之所ニ而家数弐百余軒、諸商売ニ而渡世仕(中略)四宮三郎左 衛門と致改名候、瀬戸筋拾弐ヶ村浦出来仕ニ付組頭庄屋ニ被仰付此組ヲ瀬戸組といふ」と記されている。 以上のように林崎捕は漁村から塩田に変わり、阿波九城の一つである撫養城が元和一国一城令で破却さ れ、300ほどの城兵が徳島城下町に移動すると、旧城下町は商人の町となり、林崎港の隆盛を背景とし て商業の中核に変貌を遂げていったことが知られる。そのように商人が軒を並べるようになると、商人の 間に盛んに信仰されていた法華宗寺院を支える基盤が整えられていったことは自然の成り行きで、当浦に は法華宗寺院が2か寺で、他宗派寺院が存在しないという特異な信仰圏が形成されていった。これは小鳴 門海峡に臨む塩業地帯の4か村が、浄土宗の信仰圏を形成していることと対比して興味深い現象といえる

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であろう。 さて、摂津の尼崎にある本興寺を本山とする法華宗寺院として、もっとも知られているのは正法寺(藍 住町矢上)である。この寺は寺伝によると寛永9年(1932)に初代藩主至鎮の正室敬台夫人が、この地 に化粧料があったことから禅宗の正岡寺を法華宗に改宗し日行を開基として再興させ、矢上村の村人は すべて改宗させて檀家としたとされる。林崎浦の安立寺と円隆寺は寺伝によると正法寺が改宗再興され るよりかなり創建は早いが、ただ安立寺も禅宗寺院を改宗中興しているところに共通するところはある。 安立寺については「宝徳二年二月当宗開基日隆上人住職義山は帰依し、改築し日全は禅宗を改宗して 法華宗となし、天正十年長宗我部氏兵火に罹り記録寺宝悉く焼失せり」(15)と記され、また「延宝五 年置く本能本興両寺に隷す」(16)という。さらに次の史料(17)により明治5年(1872)の当寺の状 況をみると、「開山日全ヨリ法系拙僧ニ至リ三十九世ニ相成候」と第39世の日昌は記し、僧4人で境内 1反8畝5歩厘、高2石5斗7合5勺、檀家125軒、孫末寺に岡崎村の妙善庵(文化12年開基)の 2尼庵が記録されている。そのように近世後期になって岡崎村と南浜村にそれぞれ安立寺末の庵室が建 立されたということは興味深く、この両村にも安立寺の檀家がかなりいて、墓地が存在していた関係で、 その墓地を管理することを主目的として開基されたのではないかと考えることができるが、調査の必要 性は十分にあるであろう。 円隆寺については「開山日玖といふ京師の人、中頃浪華生玉に居たりしが、慶長の乱を避けてここに 来り元和七年此寺を建立せりと伝ふ」(18)とあり、また同書の一覧表には寛永元年(1624)4月の開 基と記している。『阿波誌』(19)では天文9年(1540)の建立としている。円隆寺について興味深い のは寛文年間(1661∼72)に当寺の僧が、著るしく整備がすすむ徳島城下町の佐古の奥田の浜に臨む 所に妙法寺を置いていることで、『阿波誌』(20)には「妙法寺、佐古第一落に在り平安本能寺摂津尼崎 本興寺に隷す寛文中板野郡林崎円隆寺僧某置く東は奥田汀に接す寛文元年奥田氏築く所」とあるが、奥 田氏は越久田宗法(21)のことで、佐古町の新たな町割に大きく関わっていたことが知られる。こうし て法華宗の教線が新興の町人の間に伸長していることに注目しておきたい。 ところが円隆寺の明治5年の史料(22)によると、第16世住持日勇は「延宝元年癸丑創立開基日玖 ヨリ拙僧迄法系十六代」とあり、林崎浦に創建したのが徳島の妙法寺より後であることが記されている。 『阿波誌』の記述は当然訂正されなくてはならないであろう。明治5年記録では檀家数も230軒で、 中世以来の立安寺の場合より100軒も多く、林崎浦の町場が17世紀後半に急速な発展をみせたこと を背景とした当時の開基と捉えることはできるであろう。ただ当寺の開基年代は諸書によってまちまち で、天文9年、元和7年、寛永元年、延宝元年とされ、天文9年から延宝元年の間には133年の開き がある。諸書によってこれほど異説が分かれているというのも稀なことであるが、そのうち正確な開基 年次はいつなのか、検討の必要はあるにしても困難を伴うことが予想できる。 そこで法華宗の教線が当浦に伸長してきた年次やその背景について考察してみると、まず安立寺が宝 徳2年(1450)に創建されていることが記されている。この前後の阿波における動向をみると、嘉吉元 年(1441)の嘉吉の乱は将軍足利義教の専制に反対する守護大名の抵抗を生むが、もっとも強く反発し た赤松満祐を討つ主力となったのは、阿波守護の細川持常が率いる阿波の将兵であって、この乱後の室

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町政権内で細川氏が権勢を振るうようになる。そうした兵乱を背景として兵員や物資の輸送に撫養港が 播磨出撃の拠点とされたことは十分考えられる。それに伴って当地の国人四宮氏の台頭もあり得たであ ろう。また文安2年(1445)の『兵庫北関入船納帳』(23)にも記載されるように、阿波の藍が畿内に 積み登されると、そこにも撫養港が重要性を増してくる。この地の国人が勢力を強めてきたことを背景 として、そのころ当浦に禅宗寺院が創建されることもあり得たと考えられるが、寺伝にも記しているよ うに、住僧の義山のとき法華宗の日隆に帰依して改宗し、日全と号して寺を中興したのが安立寺だとし ている。撫養城が置かれ城下町が形成されるようになると、藩の内外から商人や職人も城下に移住する ようになるが、そのころから法華宗の人たちも多く移り住むようになったものであろう。この両寺の相 互の関係を明らかにすることは、今後の興味深い課題である。 撫養城の山麓から西に撫養川まで伸びる道路は、この城の大手の通りとして重要な道であったと考え られ、いまでも道路沿いに旧い商家のどっしりとした店が散見できる。とくに庄野家の構えはすぐれて いて、林崎が繁栄を誇っていたころの面目をいまも感じさせて

林崎の旧商家

林崎の旧商家、林崎には

他にも商家や酒蔵など

が各所に見られ興味深

い。

いる。この道を挟んで北に安立寺、その南に円隆寺の2つの法華宗寺院が城下の西の出入り口を守護す るような配置となっている。つまり北殿町には安立寺が、また南殿町には円隆寺がある。林崎というと ころは北殿町と南殿町に分れているが、殿町という地名の由来については、撫養城下の武家地として町 割されたのが始まりであると伝えている。この地名伝承が正しいとすれば、撫養城が阿波九城の一つと して、益田内膳が城番となった天正13年から町割に着手し、ここに城番の屋敷や陪臣の居住空間と藩 から常駐を命じられた300の藩士たちが居住する武家町が、道路を挟んで形成されたと考えられ、撫 養川に沿った所に町屋が配置されていたというのが、近世初頭の林崎浦であったであろう。その当時は 北殿町の安立寺が、これらの武家町の檀那寺であったものと考えられる。当寺は前述のように法華宗に 改宗する以前は禅宗寺院であったとされていて、改宗したのは延宝5年(1677)であるので、撫養城が 破却された元和元年から城番益田壱岐守が寛永15年に姫田村に蟄居させられている。撫養城の破却か ら23年後のことで、既に当時には城番の益田氏による撫養の斎田塩田も築立を完了し、この地におけ

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る塩業も軌道に乗り、城下にいた将士も徳島城下への移住を済まして、林崎浦の武家町も町人地として 再開発されていた段階に到達していたと考えてよいであろう。このころまでの林崎浦には安立寺と妙見 社山麓の円隆庵という法華宗の庵室があり、別に禅宗の安立寺は、城番の益田氏を始め殿町一帯に居住 していた藩士たちは、禅宗の安立寺を檀那寺としていたと考えるのは自然な解釈であろう。ところが元 和元年の城割に伴って城下の将士が林崎を引き払ったことから、安立寺は経営が成り立たなくなったと も考えられる。それに対して円隆庵が古くから日玖により建立され、この地の町屋を檀家とする法華宗 の庵室であったが、日隆はこの円隆庵を寛永元年(1624)に、武家が去った南殿町に移転し、円隆寺と して林崎浦に移住して商工業を営むようになった郷町人を檀家とすることによって、急速に寺院経営を 軌道に乗せていったのであろう。

円隆庵旧跡の碑

鳴門市撫養町林崎

安立寺本堂 鳴門市撫養町林崎

妙見山麓の円隆庵跡には正面に「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑があって、その側面には「此ノ宝 塔ハ開山重宣院曰玖上人建立ノ円隆庵遺跡ナリ寛永元年四月林崎南殿町ノ地ヲヱラビ移転堂宇ヲ建立重 宣山円隆寺ト称ス」の由来を刻んでいる。そのように庵室を寺院に格上げさせた日隆こそは、円隆寺の 開山として当地の商工業者から帰依されるようになったと考えられるであろう。そのことを証言してい るように、日隆の墓は円隆寺墓地の奥まったところに歴代住僧の塔が並び立つなかで、大きく目立つ塔 に「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩日隆大上人」と刻まれたものが現存している。 この円隆寺に対して禅宗の安立寺は寺勢を著しく衰えさせていた。新たに林崎に移り住むようになっ た商工業者を檀家に迎え入れようとすれば、改宗することが当然求められたのであろう。改宗するに当 たって師と仰いだのが日隆であった。安立寺の義山は日隆を頼ることによって法華宗に改宗したことは、 そのようにして判然としてきた。前述したように安立寺の改宗年次は延宝5年であると断定することが

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できるが、円隆寺の開基年次とも関連させて考察することによって、撫養城が破却されたのは寛永元年 より遥かに早く、元和元年の一国一城令が蜂須賀至鎮に命じられ、その直後に城の破却が執行されたこ とはほぼ間違いないことといえる。

円隆寺四脚門と本堂

円隆寺墓地の開山上人の塔

林崎浦の法華宗2か寺については、古記録散失のために研究は困難を極めているが、このたびのフィ ールドワークを試みることによって、解明のための糸口だけは捉えることができたと思うが、これから は浦方の史料を丁寧に調査することによって、そこから寺史を構築する以外に方法がないといえよう。 4.藍作農村における臨済宗の展開 阿波の戦国期から近世初期の約50年に及ぶ流動的な段階は、仏教の各宗派の消長にも大きい変容を 齎らせたのは歴史の必然であるといえようが、とくに吉野川流域や南方の海岸線、つまり主要な経済基 盤が形成されていた地域では、長く続いた戦乱によって分割支配をしていた国人城主層の大半が歴史の 表面から姿を消していった。その最終段階と考えることができるのが天正10年(1582)の中富川合戦 で、阿波三好方の諸城主が土佐の長宗我部方に敗北し、大半の城主が討死を遂げたことである。 これら城主はそれぞれ氏寺乃至菩提寺をもち、寺院経営を支えていたために、城主の敗退は寺院の存 在を危機に曝したことは当然で、多くの寺院が廃寺と化したことは、各地で確認できることである。廃 寺化すると寺院を信仰の拠所としていただけでなく、葬礼や法事の際にも支障を来たすため、在地の人々 を困惑させた。そのため早期の寺院再建への願いは切実なものがあった。また寛文5年(1665)に江戸 幕府が制度化した檀家制度や宗門改めも寺院の再考を促がす背景となり、また既に寛永期からの諸宗法

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度によっても、各宗教団は寺院の本末関係を確立し、できる限り多くの地方寺院を末寺に組織する必要 が生じたことも、地方寺院再建に取り組むうえで重要な契機となった。 徳島藩の大寺院で寺院再建に顕著な動きを見せるのは、禅宗では臨済宗の興源寺・慈光寺・瑞巌寺な どであり、曹洞宗の丈六寺という中本寺であるが、この両派が教線を拡大していったのは臨済宗が北方 で、また曹洞宗が南方において活発な動きをみせている。まず本研究では臨済宗の場合に焦点を絞って 検討するが、いずれ曹洞宗の動向をも検討してみたい。これら禅宗の場合は廃寺の再建を主として展開 するが、これは撫養塩田地帯の浄土宗寺院が、淡路などからの移住者のために新たな寺院を建立する場 合とは、かなり異質な展開をみせている。両者の比較検討にも取り組むことにしたい。 さて、本研究の対象を純然たる農村地帯である現石井・鴨島(吉野川市)両町に存在した9か寺の臨 済宗寺院にかかわる文献や史料を整理することから始め、その後にフィールドワークを試みたうえ、再 び史料・文献を用いることによって、各寺院の成立事情を明らかにしながら、近世農村における臨済宗 寺院の存在形態について考察することを当面の課題とし、それに基づいて浄土宗や法華宗の場合との比 較を通じて、各宗寺院の特質をみるとともに、そこには同時に共通する宗教活動と寺院経営のあり方を 見届けてみたいと考えている。 まず、臨済宗10か寺についての史料を紹介しながら検討することから始めるが、これから取り上げ る史料と文献資料は、いずれも甚だしく不完全なものである。そこに共通する欠陥としては、各寺院が 建立または再興される背景や再興を必要とした理由を明確に記されていないことである。そのため本研 究を足場として、さらに細かい検討が必要となってくるだろう。 そこで今回の調査研究で対象とした9か寺について、それぞれアウトラインを把握しておく必要から、 『明治五年九月改・名東県寺院本末帳』を用いることによって、各寺院の動向を掌握するための手がか りを得ようとした。この史料は名東県(徳島県)における寺社行政のうえで必要とする最小限度のデー タを寺院から報告させたものであって、各寺院の縁起や寺歴の詳述はされていないため、これらに関し ては改めて調査しなくてはならない。また伽藍の配置や規模についてもこの史料では一切報告されてい ないし、本尊仏を始め寺宝類についても記載を求めていなかったものと思われ、研究上の利用について は大きい限界がある。しかし、寺僧の略歴や当時の檀家数とか土地関係のことに関しては、貴重なデー タが得られることは大変有効で、現状と比較することもできるので、研究上で重要な手がかりを得るこ とができる点は、本史料の大きい特徴となっている。まず各寺院の史料(25)を紹介する。 瑞泉寺(如意山)は妙心寺末で「開山関山国師法子妙心寺境内萃岳院開祖義由禅師分法創立干支不詳 開基南山叙位任官等無之住職勤年数期限不詳」と記され、境内3反1畝9歩939坪で年貢地として高 2石6斗5升7合8勺2才、檀家80軒とある。 養牛庵(鶴松山)は諏訪村にあって興源寺末で「延宝二年乙寅創建宗本開基勤年数百十三年叙位任官 当無之、但当住無之同国麻植郡上浦村通玄寺岷山兼務」と記し、境内1反300坪で、年貢地として高 6斗3升壱合、檀家60軒と記されている。

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養牛庵跡の大師堂

名西郡石井町諏訪

興禅寺(金龍山)は矢野村にあり妙心寺末で、「開山関山国師法子妙心寺境内萃岳院開祖義由禅師分法 元禄年中創立干支月日不詳、開基黙宗叙位任官無之第九世住職勤年数之期限不詳」とし、境内1反3歩、 但年貢地で檀家137軒と記している。 十力寺(亀泉山)は西麻植村にあり興源寺末、「当寺開基周貞禅師第二世之時天正十三年戌申消失住古 創建旧記未詳中興創建元和八年壬戌九年也、寛文二年壬寅二月宗祖妙心開山関山国師法孫当県管轄名東 郡下助任村興源寺中興大雄正智禅師分派当寺中興提峰開基第十世住職勤年数二百十一年叙位任官無御座 候」とし、境内御年貢地で反高6反18歩4厘、高6石7斗1升2合5勺、檀家164軒と記している。 藤井寺(金剛山)は飯尾村にあり妙心寺末「開基弘法大師住古創立之旧記焼失ニ付未詳、中興創立延 宝三年乙卯三月宗祖関山国師之法子妙心寺境内萃岳院開祖義由禅師之分法当寺中興開基南山第八世住職 勤年数百八十九年叙位任官等無御座候」とし、境内2反2畝13歩、年貢地高9斗9升5合、境外名負 地2反4畝23歩で高9斗2合、檀家6軒と記され、四国霊場11番札所である。 円通寺(白萃山)は牛島村にあり興源寺末「天正二年三月創建周山禅師開山ト申当県管轄名東郡下助 任村興源寺建立後依国命興源寺末ニ相成宗祖関山国師法孫興源寺中興大雄正智禅師分法当寺中興開基無 御座候」と記し、境内名負地3反6畝2歩、高2石7斗2升8合8勺8才、境外地3反3畝40歩、高 4石5斗9升3合で、檀家は130軒とある。 玉林寺(慈眼山)は山路村にあり興源寺末「創立文治二年申辰九月前廷尉平康頼照性禅師開基也曹洞 派ニ而法未詳、寛文二年壬寅年正月妙心寺派ニ転宗祖関山国師法孫当県管轄名東郡下助任村興源寺中興 大雄正智禅師分派当寺中興開基宗本第九世住職勤年数二百十一年叙位任官無御座候」として、境内名負 地7畝34歩で高3斗4合、境外名負地1町4反8畝20歩で高4石7斗2升2合6勺とあり檀家は6 4軒と記している。 通玄寺(西岡山)は上浦村にあり妙心寺末で「永正十五年戌寅創建定秀禅師開山月日未詳、第二世宥 範、四世快貞寛文八年戌申宗祖関山国師法孫当県管轄名東郡下助任村興源寺第二世頑叟分派当寺中興開 基玄理第七世住職勤年数二百五年叙位任官無御座候」とし、境内名負地が1反2畝18歩で高10石4 斗7升6合とあり、檀家は217軒と記している。 松寿寺(玉取山)は山路村にあり妙心寺末「創立元禄十五年壬午三月宗祖関山国師之法子妙心寺内萃

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岳院開祖義由禅師之分法当寺開基梁巌第四世住職勤年数百三十九叙位任官等無御座候」と記し、境内名 負地2反7畝、高6斗2升、境外5反6畝31歩、高6石5斗9升8合8勺とあり檀家なしとある。 以上で本研究に欠かすことができないと判断した「明治年本末帳」を、一通りは紹介しておいた。そ こに共通する欠点は開基の年度についても、その背景に関しても不明のままになっているケースが多い ため、これから必要なことは、それらの点をフィールドワークや新たな史料の探索などで調査をすすめ ることである。また寺院経営の上で共通することとして、いずれも境内地が狭小で名負地となっている ことや、檀家の数も決して多いとはいえず、地方寺院の典型的な存在形態を示していると考えられる。 そのようななかで藤井寺は四国霊場の札所寺院として特殊なケースを示していたり、ただ1か寺が現在 廃寺化している松寿寺であるが、当寺が近世において檀家ゼロと記録されていることから、近世におけ る当寺の存在を必要とした理由を明らかにし、その存在形態を検討することは、きわめて興味深い研究 テーマとなるであろう。 明治5年各寺住僧の得度と修行した寺院 寺名 住僧 世代 得度 修行地 僧数 瑞泉寺 養牛庵 興禅寺 十力寺 藤井寺 円通寺 玉林寺 通玄寺 松寿寺 師松 岷山 泰嶽 剛中 陵宗 智謙 曹岳 岷山 嶺雲 9世 − 14世 11世 9世 9世 18世 8世 5世 慈光寺 興源寺 当寺 興源寺 慈光寺 興源寺 興源寺 興源寺 丹波大信寺 備前曹源寺 美濃瑞竜寺 瑞巌寺 美濃大勝寺 信州極楽寺 興源寺 甲州月江寺 美濃瑞竜寺 慈光寺 1 0 2 3 3 2 1 1 2 禅宗でも臨済宗の場合には、阿波では中世を通じて京五山の系列につながる寺院が圧倒的に多く、特 に南北朝以後の守護細川氏は、夢窓疎石や絶海中津を始めとする五山の禅僧との関係が深かったことは よく知られているところで、阿波郡秋月に軍府を置いた細川和氏は、その城下の山麓部に建立した補陀 落寺は後に阿波安国寺とされた名刹で、ここは夢窓疎石によって開山されたことが記録に残っているし、 この寺の付近に和氏の弟で初代守護となった頼春の菩提を弔うため、2代頼之が安国寺の傍に光勝寺を 建てたときには春屋妙葩が開山し、その隣に頼之は宝冠寺を建てて絶海中津を住持としている。そのこ ろ阿波からは大岳周崇や観中中諦、一以などの五山文学で活躍する禅僧も輩出するなど、臨済宗は隆盛 をきわめていて、いま四国霊場十七番の井戸寺は真言宗善通寺派の寺院であるが、中世には妙照寺とい う臨済宗寺院であり、藍住町矢上の法華宗正法寺も臨済宗寺院であったという伝承があるように、臨済

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宗の勢力は著しく勝瑞城跡の城下などに多くの寺院をもっていたが、細川・三好両氏の時代が終わると ともに、五山の教線は阿波から消えて妙心寺派にほぼ統一されるようになる。そのようにして本稿で取 り上げる寺院もすべて妙心寺派である。 阿波は確かに寺院の数は多くないが、近世を通じて妙心寺派のすぐれた禅僧を輩出している。それら 禅僧を『正法山妙心寺禅寺宗脈図』(24)から摘記すると、泰雲宗俊(大安寺)、廣山元廈(興源寺)、 頑叟端盧(興源寺)、南山祖団(慈光寺)、歹克伽端如(興源寺)、梁巌志湛(慈光寺)、龍南智徳(瑞巌寺)、 絶冲義悦(慈光寺)、珪峰智脱(瑞巌寺)、要峰景三(慈光寺)、密宗宗脈(瑞巌寺)、薩水玄沢(大安寺)、 越山景伝(慈光寺)、大室元朝(興源寺)、玉澗元寔(興源寺)、陽関東英(慈光寺)、雄州祖英(興源寺) と18人の妙心寺歴住を出し、禅師号を勅謚されているのは本覺湛然禅師(泰雲)、大雄正智(廣山)、 直指玄鑑(南山)、霊猷光鑑(梁巌)、仏性円鑑(一鶚)、済川大航(香南)、大鑑広照(春叢)、大猷妙徽 (陽関)、特賜大悲妙感(玉澗)の9人で、そのうちごう伽や梁巌は妙心寺で大活躍(26)し、春叢と 玉澗は慈光寺や興源寺を天下の大道場として注目された活躍は目立つものがあった。これらの禅僧のす ぐれた業績は、阿波における臨済宗の寺院や僧侶の日常的な活動が大きく支えた結果を反映していると 考えて当然であるが、ここに調査の対象とした地方寺院が、どのような法脈をもって、在地において檀 家はもとより、広く農民の間に布教活動を展間したかについては、今後の調査によって明らかにしなく てはならないが、法脈の一部を辿ることのできる藤井寺の幕末維新期の住僧である良徹無門の場合に関 しては、淑道宗喆(臨江寺)、桑渓祖田(光勝院)、叢州士紹(慈光寺)、荊林誼廓(桂林寺)、慶州全瑞 (観潮院)、月般祖安(興禅寺)などとともに、東海派の独秀乾才(法智普光禅師)を嗣ぐ大樹玄旰(妙 心)下の法統に育ち藤井寺に住持となった良徹無門、また良徹は京岩藤谷を打出している。また龍泉派 の春江紹蓓(法覚真常禅師)下の文華玄郁を嗣いだ玉澗元寔、無伝自門(寿徳院)、雄州祖英(興源寺)、 承応師道(正因寺)、要巌宗元(呑海寺)、中堂正晋(恵勝寺)等とともに台岳玄董(玉林寺)、昌宗祖震 (通玄寺)、大雲陽元(円通寺)も肩を並べ、興源寺の雄州祖英の下で養牛庵の月峰秀徳が育っている。 いずれも各寺に住持となって妙心寺派教団の最前線にいて宗教活動を展開(25)した人々である。その ように本稿で研究対象とした地方寺院には、すぐれた禅僧を住持としているということも無視すること はできず、各寺院が展開した宗教活動の面でも、禅僧の活動として逸話を伝承されているかも知れず、 これらについては聞き取り調査である程度は知ることができるという期待はもてそうに思われる。その 調査結果は後述する。 臨済宗妙心寺派の主要年中行事は、修正会(1月1∼3日)、開山降誕会(2月7日)、涅槃会(2月 15日)、春季彼岸会(春彼岸)、花祭り(4月8日)、善月祈祷大盤若会(5月16日)、山門懺法会(6 月18日)、盂蘭盆会(7月15日前後)、地蔵祭(8月23日)、秋季彼岸会(秋彼岸)、花園法皇忌(1 1月11日)、臘八大接心(12月1∼8日)、成道会(12月8日)、関山国師開山忌(12月12日)、 冬至祝聖(12月22日)、歳末大般若会(12月25日)などがある。しかし、これは大本山の行事で あって、地方の寺院では以上のうち、どれだけ執行されているかについては、各寺院に問い合わせなく ては判らない。それとともに行事に檀家をはじめ世俗の人が参加しているかどうかについても調査の必 要がある。

(21)

神河庚蔵著『阿波国最近文化明料』(26)によると、蜂須賀家の菩提寺である興源寺は板野・麻植・ 名西郡に9か寺の末寺を支配している。 大雄山 興源寺 寺領高五百五十石 住古号福聚寺開基東嶽和尚寛永十一甲戌年十二月四日遷化 坊舎 慶徳院 末寺 九か寺 板野郡牛屋島村 受徳院 同 郡中喜来村 呑海寺 同 郡中島浦 恵勝寺 同 郡大幸村 正因寺 麻植郡西麻植村 十力寺 同 郡山路村 玉林寺 同 郡上浦村 通玄寺 同 郡牛島村 円通寺 名西郡諏訪村 養牛庵 以上は近世において興源寺を本寺としていた末寺が3郡にわたって9か寺あったことを知ることがで きる。これらの郷村部はいずれも興源寺の知行地となっていた村が多く、自寺の給地に存在する旧仏教 の荒廃に瀕していた寺院を中興開基していったものと考えることができる。そのうち十力寺・玉林寺・ 円通寺は寛文2年(1662)に大雄正智禅師を勅謚された興源寺第1世の広山元廈の法弟である提峰や宗 本によって再興、通玄寺が同8年に興源寺第2世頑叟の法流玄理が、また養牛庵も宗本によって再興さ れている。

鴨島町牛島の円通寺

養牛庵入口の石塔

(22)

家政の入部した段階から臨済宗であった寺院は十力・円通の2か寺で、玉林寺は曹洞宗、通玄寺は創建 された後に一時は真言宗に転じていたことがあると考えられ、養牛庵は延宝2年(1674)の創建で本宗 が開基した庵室である。そうすると石井・鴨島町の臨済宗寺院の場合にはいずれも寛文・延宝期に興源 寺の末寺となったものと考えてよいであろう。他の板野郡の4か寺については、受徳院(寿徳院)が天 澤薫公の開基で年代不詳、呑海寺は才寂西堂の文禄2年(1593)開基で「板野郡勝瑞村より移住し文禄 二年五月四日創立南禅寺派に属し観海山長福寺と称し慶安元年子三月十日西堂遷化崇雲住持中長岸村境 より現今の地に引移り琳山大和尚指図にて観海院方広山呑海寺と改稱興源寺末となる時は享保二酉二月 なり」(27)とされている。

鳴門市大麻町牛屋島の受徳院

受徳院の掲額

恵勝寺は「慶長二年子三月創立醫王山安久寺と称し玉峯策公禅師を開山とする后寛文九年十月興源寺 頑叟和尚其荒廃せしを再興し恵勝寺と改称す故を以て中興とせり」(28)と記している。正因寺につい ては「天正十九年閏正月蜂須賀氏巡国の際大幸に来る時冲村(今大幸辺)福家三郎左衛門と云ふ者浪人 なるあり国主就任の際なりしかは其来暦を尋問し其歓心をかはんとて任官を勧む従はす次男をして仕へ しむ而して住所に寺なかりしかは三男出家得度し開祖となり一寺院を建て福蔵寺と称す無格寺也後興源 寺の末寺となるこれ国主の意に出つと云ふ寛文五年妙智山正因寺と称す」(29)と記している。

鳴門市大津町大幸の正因寺

そのように板野郡の4か寺の場合の寺歴は、名西・麻植両郡の5ヵ寺とは若干異質と考えられる。『阿 波国最近文明史料』では海部郡禅興寺が5ヵ寺を分化したように記している。 「蜂須賀時代の阿波国寺院」によると、海部郡角坂村の禅興寺は5ヵ寺の末寺を支配していることが

(23)

記され、そのうち興禅寺(名西郡矢野村)・瑞泉寺(同上浦村)・藤井寺(麻植郡飯尾村)が挙げられて いる。しかし、この3ヵ寺は近世後期に大本山妙心寺の直末寺となっている。また瑞泉寺と藤井寺はと もに慈光寺の南山祖団が中興開基した寺院であって禅興寺の法脈には繋がっていないことからすれば、 『阿波国最近文明史料』(30)における神河庚蔵の誤記か、史料操作の誤りであると断定せざるを得な いであろう。

瑞泉寺

なお瑞泉寺の場合には古記録が『浦庄村史』(31)に紹介されている。その記録によると当地にあっ た真言宗の如意寺が荒廃していたのを、延宝5年(1677)に慈光寺の南山祖団(32)が再興し、寺名 を瑞泉寺と改めて開基し、妙心寺の直末寺(33)となり、藩との関係では国奉行の直当寺院に位置づけ られたものと記されていて、南山に帰依した4代藩主蜂須賀綱通=徳音院殿の位牌(34)を祀っていた ことが記録中にみられる。近世寺院は教団と領主の両方の支配を受けていて、教団支配は本末関係とし て編成するのに対して、領主支配は幕府の寺社奉行支配、藩の直接支配(本寺)、町・郡奉行直当、町・ 村方役人の支配と階層に編成された。なお今回の調査対象とした吉野川中流域の臨済宗寺院8か寺のう ち6か寺が興源寺の法系に繋がっているのに対して、瑞泉寺と藤井寺が慈光寺の法系が反映されている。 当寺開山勅謚直指玄鑑禅師、延宝五年之頃、綱通様御代御帰依に而日々登城被仰付候砌如意寺 と申真言寺跡有之に付寺建立仕度旨、賀嶋太夫主水殿迄絵図四方詰を以奉願候処、早速被達御聞 願之通永々御免地に被下置候に付、則如意山瑞泉寺と寺号相改延宝六年に綱通様御他界被遊候に 付右御由緒を以綱矩様御代徳音院殿御位牌御建置被遊御座候、就中京都花園妙心寺直末宗門並罷 成後住石室に相願候砌、諸等之義は御国御奉行直当相成居申則別紙有之候、正徳元年寺焼失に付 徳音院殿位牌之外御判物之類夫々焼失石室義も相続遷化仕後住相撰候迄之間、所役人へ御預けに 相成候迄享保年中石室後任慈光寺梁巌従義督首座相居候得共其儘に指置候義故、自然と所支配に 罷成候得共御先代之御当座法事等之節は、徳島禅宗壱統之通御配に不抱本山の僧席を以相勤、御 当日には御目見等被仰付候、且又納経等も御役所を相離れ徳島禅宗一統之通指上来候開基成立如 件 但寺地境 東ハ谷切 西ハ谷切 南ハ横山切 北ハ田地切 絵図之義は別紙に有之 右条々後世之法制可被相心得候(35) この史料にも記されているように、瑞泉寺の中興開山とされているのは、高僧として著名であった慈 光寺の南山である。南山は他に徳島城下の臨江寺や三好郡池田村の桂林寺などを再興し、また佐古山に

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