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ローマ人への手紙 5:12~21 最初のアダムと最後のアダム 先月の英語礼拝で 私たちはイエス様がよみがえられた後のことを学びました それは聖書の中からご自身を探し始めるように弟子たちを導かれたところです 当時の彼らにとって聖書とは旧約聖書のことです 彼らが少し深く掘ってさがしたところ 以前には見つ

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Academic year: 2021

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ローマ人への手紙5:12~21 最初のアダムと最後のアダム 先月の英語礼拝で、私たちはイエス様がよみがえられた後のことを学びました。それは聖 書の中からご自身を探し始めるように弟子たちを導かれたところです。当時の彼らにとっ て聖書とは旧約聖書のことです。彼らが少し深く掘ってさがしたところ、以前には見つけ ることのなかったイエス様についての宝物を見つけ始めたのです。今日のメッセージの初 めにこの宝物のいくつかをみなさんと一緒に探ってみたいと思います。一回の説教ではと ても多くて見切れないほどですが、今日はまず始めていくことにしましょう。そのような やり方で私たちは神のことばからイエス様に出会い、イエス様の初代の弟子たちがそうだ ったようにもっと深いやり方でイエス様のことを知っていくようになります。それこそが 教会で学ぶすべての学びの中で私たちが到達すべきゴールなのです。私たちは神のみ子イ エス様を通して神様とのもっと深い関係に入りたいと望んでいます。そのことなしには、 この世の中や自分自身を十分にまたはっきりと理解することはできないでしょう。ですか ら、私たちの旅をここから始めましょう。 いつもしているように、新約聖書と旧約聖書両方から学んでいきます。両方を学んでいる クリスチャンの方たちは新約旧約の間の驚くべきつながりを見つけられるでしょう。事 実、私たちが学んでいる聖書のどの巻を見てもイエス様を指し示しているのが分かりま す。それはちょうど新約聖書の中のイエス様が光の中に立っている人物であり、旧約聖書 はイエス様の影のようだということです。影はイエス様ご自身と全く同じとは言えないか もしれませんが、二つを分けることはとても難しくてできることではありません。二人は いつも共に行動し、影を見ることでその人についてのとても大切なことをいくつも見るこ とができるからです。 聖書の教師たちは旧約聖書に見られるイエス様のこういうイメージを『型』(タイプ)と 呼んでいます。ここにはタイプライターを思い出すことのできるそれほど若くない方たち が何人かおられますね。タイプライターの中には文字の型があります。文字の型がインク の付いたリボンをたたくと、型はリボンの後ろの紙の上にその同じ形の文字を付けます。 それはスクリーンの上に映し出される映画に印字する過程に似ていました。このイメージ は私が『大捜査網』と呼ばれていた警察ドラマを観たときに、テレビのスクリーンでよく 見たことがあります。

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『型』とは(a)ひな形のことです。一般的に、最初に来るものと次に来るものの間のつ ながりや関係でものを見せます。何か大切なものを見せる時に、似ているからとか独特だ からということで、また違いがあるからとか対照的だからという理由を付けます。『型』 とは(b)歴史的です。現実の世界で起こる実際的な出来事や人々です。『型』とは(c) 予言や神からの特別な言葉です。例えば、未来に起こる何か大切なことを見せることで す。神様は大きなことをなさろうとするときに、神を信じる人々を備えさせるために予言 を与えられます。『型』(タイプ)とは(d)始めの一歩です。それは完成されたもので はありません。完成されたものは後にやって来るので、型破り(アンチタイプ)と呼ばれ ています。それはジャイアンツに敵対することをアンチジャイアンツと呼ぶような『型』 に敵対するという意味ではありません。ただ、『型』というものに対照的であるという意 味です。 今日の聖書箇所の中に良い例があります。パウロはキリストが『最後のアダム』であると 教えています。彼が言いたいことを知るためにもっと詳しく見ていきましょう。そうする ことで、キリストとはだれなのかというキリストのイメージに関わる深くて大切な教えを 見つけることができるでしょう。事実、基本的な質問の全てに対する答えがあります。そ れは私たちが自分の世界観を作るときに抱く質問であり、人々が何とか答えているもので す。(a)私たちは誰なの?(b)どこからきたの?(c)なぜここにいるの?(d)自分た ちはどこが間違っているの?(e)何が私たちを助けてくれるの?(f)私たちはどこへ行 くの? そのどれであってもです。言い替えるなら、キリストを『最後のアダム』として 捉えることがキリストを信じる者として世界観を作るのを助けてくれます。 1、いちばん最初のイメージをまとめると創造と破壊についてです。まず初めに光と闇を 見てみましょう。創世記1:2b-4で、神が私たちの世界を造られる前に『…やみが大 いなる水の上にあり…』それから「神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができ た。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光と闇とを区別された。」と書かれて います。この世界にアダムが置かれました。 ここからイエス様が死なれた日に飛びましょう。その日よく似たことが起こりました。マ ルコ15:33に『さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、』と書かれていま す。『世の光』であるイエス様(ヨハネ8:12)が殺されたとき、光は消え失せてしま

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いました。週の初めの明け方にキリストに従う者たちはイエス様が生き返られたというす ばらしい知らせを手にします。今や私たちはイエス様が共におられるので『光の中を歩 む』(第一ヨハネ1:7)ことができるのです。そうして、いつか天において神様と共に 過ごすというヨハネの幻(黙示録22:5)には、『もはや夜がない。神である主が彼ら を照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。』と書かれています。 二番目のイメージが園です。創世記2:8に『神である主は、東の方エデンに園を設け、 そこに主の形造った人を置かれた。』と書かれています。ではまたアダムの時代からキリ ストがなくなった時代に飛びましょう。ヨハネ19:41-42に『イエスが十字架につ けられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があっ た。…彼らはイエスをそこに納めた。』と書かれています。 最初のアダムは園で誘惑との闘いに負け、神様が食べてはいけないと言われていた木の実 を食べる方を選びました。最後のアダムは、園での誘惑との闘いに勝利しました。そのこ とを通して、私たちは自分の生活で実際に起こる誘惑と日々闘うときに希望を持つことが できるのです。 マグダラのマリアはよみがえられたキリストを見た時(ヨハネ20:15)園の管理人と 間違えてしまいました。それはある意味もっともだと言えるでしょう。キリストは新しい み体であったし、神の園のさらに良き管理人だったからです。キリストは、そのみ体と血 潮を通して、最初の罪が取り去ってしまったものを取り戻されたのです。そのことのゆえ に今日ここでイエス様をほめたたえましょう。 それから、アダムの話とイエス様の話の両方に共通するものとして息があります。創世記 2:7には神様について『土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれ た。そこで、人は、生きたものとなった。』と書かれています。神の、命を与えるという み業は、イエス様が十字架で殺されたひどい日には真逆の方向へと落とされました。ルカ 23:46を見ると、「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだ ねます。』こう言って、息を引き取られた。」となっています。しかし、このひどい時を 通ってこそ復活が成り立つのです。命の息がイエスにもたらされ、それほど経たないうち に(ヨハネ20:22)弟子たちと共にいたときのことですが、「彼らに息を吹きかけて 言われた。『聖霊を受けなさい。』」と言われ

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ました。命の霊は元に戻されたのです。そして神と共に私たちのうちに住まれる聖霊によ って、私たちは力を受け、日々導かれるのです。 造られた者と造った者としてアダムとイエスの対比は、私たちに多くのことを教えてくれ ます。二人はそれぞれ奇跡的な神のみ業によって生まれたにもかかわらず、アダムは地か ら、イエス様は天からやって来られました。最初のアダムは(善悪を知る木の実を食べる ことによって)神のようになろうとしました。最後のアダムは人となられた神です。イエ ス様は完全であり、罪のない方でした。一方アダムは誘惑に会う前だけは罪がありません でした。彼は無邪気でしたが、道徳的にまた霊的には強くありませんでした。彼はヘビに 誘惑されたとき、屈服してしまいました。キリストは違いました。自分自身を悪を行うこ とに任せず、天の父に従うため多くの良きものを選ばれたのです。 それだからこそ、イエス様は神様の救いのみ業を完成させることができたのです。創世記 2:1には、神がその創造の働きを『完成された』と書かれています。しかし、アダム (とエバ)の罪が私たちの世界に破れをもたらしました。そして、私たちはだれもが人生 の日ごとに破れを持ち続けています。キリストの死は回復を可能にしました。それはイエ ス様が『完了した。』(ヨハネ19:30)と言われた時に告げられた完成に人々が戻る ためでした。それを通して私たちは、達成されたもの、完全にされたもの、神がご自身の 世界に望んでおられるもので聖書がシャローム(平安)と呼んでいるものに戻る道を得る ことができるのです。 2、もうひとつの最初のアダムと最後のアダムのつながりをまとめるなら、一致と分離に 関係があります。神様は一体とするために人類を造られました。(創世記2:18)に 『人が、ひとりでいるのは良くない。』と書かれている通りです。おそらく私たちのだれ もがイエスさまのお名前のひとつが、『神の子』ということを知っています。しかし、ル カの3:38を読むと、最初の人類について『アダムは神の子である。』と書かれている のを思い出しませんか。 私たち皆が神の子どもとして、神の家族として生きることは神様のご計画なのです。別の 意味で、アダムは人類の大家族の頭となり、神の愛と平安の中で共に生きるように皆が彼

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に従うような存在になるべきでした。 しかし罪がこの世界に入り込んだとき、それは神が求められた正しく健全な関係である一 致を壊してしまいました。それは神から男と女を引き離し、男と女の間をも引き離してし まいました。創世記3:8に『人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身 を隠した。』(私たちは今なおそうしようとします。)と書かれています。それから神が 彼らのところに来られた時、アダムは彼らのトラブルの責任を妻に負わせ、彼女を自分に 与えたことが神の失敗だったのではないかとほのめかすようなことさえしました。(3: 12) それでイエス様がこの世に来られ、私たちの罪をその身に引き受け罪を打ち負かされた 時、人々の共同体を破壊している分離というものに勝利しなければなりませんでした。イ エス様はこの勝利をたった一人で死ぬことで、すなわち見捨てられ、裏切られ、見放され る中でなされたのです。最初のアダムは神のみ顔を避けて隠れました。でも、最後のアダ ムはみ顔を隠さないでくださいと神に懇願しました。(マタイ27:46)そして死を通 して、イエス様は信仰の新しい家族を造られました。十字架によってキリストを頭とした キリストと共にある回復された共同体が存在することになったのです。それは、誘惑が来 るまでは一緒に上手くやっていけたアダムの最初の家族のようなものではありません。イ エスは恵みを土台として家族を築きました。わたしたちは皆が自分たちは間違った選択を しましたということを認めながら、そして神に自分を変えるのを助けてくださいと頼みな がらその家族に入っていくのです。神様が実際に私たちをそのように造られた神の子とし て行動できるようにと頼みながら。 聖書はさらに共同体に関する二つのイメージを使っています。一つは食べ物です。イエス 様の文化においては共に食べることは受け入れるしるしでした。人々は肉体の命を支える ために食べ物を分けるだけではなく、互いに支えるしるしとしても食べ物を分けました。 それは、人間の社会に対して神が意図された計画のひとつです。しかし最初のアダムはヘ ビが『これを取って食べなさい。』と実際には木の実について言ったとき、それを聞いて しまうことでこの世界に罪をもたらしました。最後のアダムは彼に従う者たちをひとつに 集め、 死なれる直前に食べ物をお与えになりました。『これを取って食べなさい。これは私の体 です。』と言いながら。『主の晩餐』を共にすることを教えながら、イエスは罪から離さ れた共同体を再建されました。イエス様は私たちがご自身と共に、また互いに集まるため に主の晩餐を用い続けておられます。

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みなさんはマグダラのマリアがどのようにして、またいつ復活のキリストとお会いしたか 思い出すことができますか?彼女はキリストを園の管理人と間違えたのでしたよね。キリ ストのみ体と血潮を通して、最後のアダムは、禁じられた木の実が壊してしまった共同体 を再建されました。彼は従う者たちを新しい天と地にある回復された田園都市に招いてお られます。そこには、神のみ座の周りに生えた命の木があり、その実は自由に取って食べ られるのです。(黙示録22:2) それから、イエス様の共同体に関して、さらにもう一つのことがあります。それは花嫁と 花婿です。私たちはすでに、最初のアダムが自分たちの悪い選択の責任をどうやって花嫁 に負わせたかに注目してきましたね。神は最初のアダムを『妻と結び合う』(創世記2: 24)ために造られました。しかし、罪が彼を彼女から引き離し始めたのです。一方、最 後のアダムは彼の花嫁のとがを負われました。『キリストの花嫁』とは、キリストの共同 体(黙示録21:2)である教会のことを言うときに新約聖書で使われる名前です。十字 架はキリストと教会の関係にさらに深い回復を与えることができるのです。 3、イメージの最後のまとまりは祝福とのろいに中心が置かれるものです。ひとつは最初 のアダムと最後のアダムの体のわき腹に関係があります。創世記2:21で、神はアダム のパートナーである最初の女を『彼のわき腹にあった穴から』造られたと書いてありま す。エバは神からのすばらしい贈り物であり、神の祝福であったのです。しかし、彼女と アダムが神様に対してノーということを選択し、善悪を知る木の実を食べた時、彼らは自 分自身を神の祝福を得られないところに追いやってしまいました。彼らは呪いの下に来て しまいました。彼らにとって神のこらしめを受けるのは自然で妥当なことだったでしょ う。それは神が聖なる方であり、正義をなすために罪を裁かれるからです。 福音のすばらしさは、それがこの話の結末ではないところです。神はご自身の創造された 人々に対する深い愛ゆえに、私たちが義とされる道を作ってくださいました。たとえそれ が悪い選択をし、罪を犯した後でさえもです。キリストが十字架につけられていた時に、 (ヨハネ19:34)『…兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。する と、ただちに血と水が出て来た。』それはイエス様が死なれていたことを表しています。 この二つ目のわき腹の穴を通して、神は、神から離れ人類が閉じ込められていたのろいか ら立ち去る道を作っておられたのです。言い換えれば、最初のアダムは神がわき腹を開け

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られたとき祝福を受けましたが、最後のアダムは人が神のわき腹を開けたとき祝福を与え ました。 次は木です。最初のアダムが住んでいた園には『永遠の命を与える木』(創世記2:9) がありました。ヨハネ19:18aにはイエスの死について『彼らはそこでイエスを十字 架につけた。』と書いてあります。十字架というものは木製であり、木から作られます。 そしてこれは罪を征服するために神が用いられた道具になりました。それゆえに世界中の 人々の命が永遠のものされることができたのです。 このことを他の言い方で言うならこのようになります。創世記3章でアダムが善悪を知る 木の実を食べたとき、彼はこの世界に死をもたらしました。しかしイエスが木に付けられ て死んだとき、彼は逆にのろいを持って行かれました。最初のアダムは木から死を味わい ました。最後のアダムは木の上で死を味わわれました。 そういうふうにして、イエス様は命という賜物を与えられたのです。それは神様がみなさ んをそしてこの私をどれほどまで愛されているか、私たちの救いをまかなうのに十分なほ どです。神様は私たちの賛美に値するお方です。 それから、衣があります。もともと(創世記2:25)『人とその妻は、ふたりとも裸で あったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』しかし彼らが罪を犯しととき、それは私 たちの世界に恥をもたらしました。そして、それゆえに人々は裸でいることを恥ずかしい と感じるのです。アダムとエバは自分たちのためにいちじくの葉で着る物を作りました。 (創世記3:7)神はもっと良い考えをもっておられました。それは神が続けようとして おられ、イエス様において完成されようとしていた働きの形を表していました。神は彼ら に動物の皮で着る物を作ってくださったのです。(創世記3:21)それは犠牲を表して いました。血は人類の罪をおおうために流されたのです。 動物の犠牲という方法はそれが必要だった時代に行われ、クリスチャンのためにイエス様 がその必要を取り除かれるまで続きました。十字架の上でイエス様は全ての人のため、あ らゆる罪のため、あらゆる時代のための完全な犠牲となられました。彼は衣を脱がされ、 木に架けられました。そこには恥がありました。その地の文化においてはなおさらでし た。しかし、その犠牲を通して私たちはあがなわれたのです。私たちの恥は取り除かれま

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した。私たちは本来の自然な自分へと解放され、神がそうなるようにと造られた姿へと解 放されるのです。私たちが従うようにと人が与えた規則がどんなにたくさんあろうと問題 ではありません。最も重要である内側においては、私たちは自由です。キリストに感謝し ます!そのすばらしい賜物のゆえに神様をほめたたえます! 最後に、二人のアダムのお話にはどちらもとげが出てきます。最初のアダムが神様に逆ら ったとき、神は彼が食物を育てるために苦労して働かなくてはならず、土地は『いばらと あざみ』(創世記3:18)を生えさせると語られました。罰は彼に対してだけではあり ませんでした。エバは苦しんで子を産まなければならなくなり、彼らの後に生まれる者た ちは罪の結果として、遅かれ早かれ死ぬということになりました。『ひとりの人が罪を犯 したために罪がこの世界に入って来ました。そして、罪ゆえに死がやって来ました。すべ ての人が罪を犯したためにすべての人に死がやって来ました。』(ローマ5:12) しかし、最初のアダムがいばらを収穫したにもかかわらず、最後のアダムはいばらをかぶ りました。マタイ27:29を見ると、人々はイエスを十字架に付け、『…いばらで冠を 編み、頭にかぶらせ、』と書かれています。彼らはイエスをからかおうとしてそうしまし た。しかし、イエスの死を通して、『神の恵みを豊かに与えられた人々は神の賜物を受 け、神にあって義とされました。』そしてキリストの『ひとつの義なる行為がすべての人 を神にあって義としたのです。そして神にあって義とされた人はすべて生きるのです。』 (ローマ5:18)十字架を通して、神は創世記3:15でヘビにした約束を保たれまし た。それは、『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間 に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』と 書かれている通りです。いばらの冠をかぶられた王なるキリストはその『子孫』なので す。それは逆にのろいです!最初のアダムは呪いをもたらしました。最後のアダムはのろ いとなられました。アダムは死をもたらし、イエスは命をもたらしたのです。それが福音 です!その真理の中を日々歩みましょう。 今日私たちは、キリストの注目すべきイメージについて、旧約聖書に戻っていくつか見て きました。光、闇、息、園、花嫁、食べ物、ふたりの人のわき腹、木、衣、とげ、またも っと他にもあるこのようなものを、何千年も離れて起こったことがらと一致するようにま とめることを誰がすることができたでしょうか?このようなことができるのは誰でしょう か?そのようなことをなさるのは神であることにたどり着きます。

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要約するなら、『死のゆえに罪が支配しました。それで恵みも神にあって義とされた人々 の命において支配します。私たちの主イエス・キリストがなさったことのゆえに、神の恵 みは永遠の命をもたらすのです。』 (ローマ5:21)それが恵みについてのすべてです。私たちの罪にさえ勝利された神の 愛についてのすべてです。それはキリストの話であり、私たちの話であり、その話のすべ てなのです。祈りの中で主のみ元に行きましょう。 主よ、あなたが世界中の人たちにあなたの愛を示そうとして、非常に多くの年月をかけて 行われた驚くべきみ業を見るときに、へりくだった感謝とあなたの導きに自分自身を委ね ることだけが、唯一のふさわしい応答であるように思えます。お父様、あなたの命を与え るという信じられないほどの愛の贈り物をありがとうございます。私たちはあなたの恵み によって生きています。恵みこそが私たちを抱き、日々前進させてくださるものです。そ の力によって今日も明日も日々を歩むことができるよう助けてください。このようにし て、あなたの私たちに対するすばらしい寛大さのゆえに感謝に満ちあふれた心をささげさ せてください。キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。 参考文献

Stonestreet, J. (April 13, 2017). Breakpoint. Retrieved April 14, 2017 from http://www.breakpoint. org/2017/04/breakpoint-jesus-last-adam/ Stonestreet, J. (April 18, 2017). The Point. Retrieved April 19, 2017 from http://www.breakpoint. org/2017/04/jesus-last-adam/

参照

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