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B. C (= 2 C = 佉 坌

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広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像(宝冠弥勒) 名古屋大学伝統文化鑑賞会 頭中将 ※主要参考文献 廣隆寺パンフレット NHK趣味悠々 2002年 古都ほとけ出会い旅 講師:西村公朝 知識ゼロからの仏像鑑賞入門 瓜生中 幻冬舎 半跏思惟像の研究 田村圓澄・黄壽永編 吉川弘文館 NHKライブラリー 国宝への旅 1古都夢幻 日本放送出版協会編 1・広隆寺 A.特色 推古天皇11年(603)秦河勝建立の秦氏の氏寺で、聖徳太子の追善の為に創建され た。田村圓澄氏によると、推古30年・壬午年(622)創建の所伝もある。地元では太 秦のお太子さんとして親しまれる山城最古の寺院であり、法隆寺や四天王寺といった聖徳 太子建立の日本七大寺の1つとしても知られる。 寺院名称は、古くは蜂岡寺(はちおか)、秦寺、秦公寺、太秦寺、葛野寺(かどの)と 変遷してきた。また創建者の秦一族は、日本書紀によると、応神天皇16年に日本へ渡来 し、養蚕・機織・農耕・醸酒を日本へ伝えたとされる。秦氏の本拠地太秦は上代山城文化 の中心地でもある。 創建以来広隆寺は度々の災禍に見舞われたが、その度に復興している。例えば弘仁9年 (818)・久安6年(1150)の火災は特に有名であるが、2つの火災が起こる度に、 伽藍(=寺院の建物。)は焼失した。前者は秦一族の道昌僧都が再興に尽力し、後者は永万 元年に復興された。 B.伽藍 現在の南大門はかつての中門に当たる。かつてはさらに南に南大門があった。現在の本 尊は上宮王院太子殿の聖徳太子像である。講堂、通称赤堂は重要文化財としても知られる。 桂宮院本堂は法隆寺夢殿と同じ八角円堂である。霊宝院には飛鳥∼江戸の仏像が安置され ており、広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像もこの中にある。他にも泣き弥勒、不空羂索観音菩薩 立像、十二神将像、阿弥陀如来坐像、聖観音立像、千手観音菩薩立像が安置されている。 2・弥勒とは? A.弥勒とはどんな仏なのか? 釈迦の救済に漏れた人を、釈迦に代わって救済する慈悲の仏であり、釈迦入滅後、56 億7千万年後・将来久遠に苦しみが多く、忍耐すべき現実世界である、娑婆世界へ下生(げ しょう)し、華林園内の竜華樹で悟りを開くと言われている。竜華樹(りゅうげじゅ)は 弥勒の菩提樹(=如来が悟りを開く木の総称。)で、架空の樹木だが、沖縄原産の光沢・長 楕円形の葉を持つ、テリハボクとも伝えられている。 56億年という年月は衆生救済の法力を持つ如来となる大変な修行を物語っている。仏

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教の伝わり具合には正法(しょうぼう)(=釈迦の教え通りで、法が守られれば悟る人間も 出る。)・像法(ぞうぼう)(=正法に似ているだけで、真に悟りを開く者はおらず、仏像製 作が開始される。)・末法(=釈迦の教えは皆無で、救いがたい状況が1万年続く。)の3段 階があるが、弥勒はその先の無仏暗闇の時代に現れるとされている。因みに末法開始の時 期としては500年説(=末法開始が5C。)と1000年説(=末法開始が10C。)が あるが、日本の場合、仏教伝来を考慮して、6C頃、日本史的には平安・鎌倉時代頃が末 法開始に当たる。 弥勒が人間だった頃の名前はサンスクリット語でマイトレーヤ(=慈しみから生まれた 者。)、漢訳して慈氏弥勒と呼ばれている。南インドのバラモン種族であるとされ、優れた 能力と人格の持ち主として描かれており、種々の経典によれば弟子入りしてすぐに、仏教 の奥義に精通したというが、その後まもなく亡くなったとされている。臨終時のエピソー ドの中に、マイトレーヤが、釈迦に「仏教の真髄とは?」と尋ねると、釈迦は、「私の悟っ た仏教の全てをあなたに譲ろう。あなたは須弥山(しゅみせん)(=仏教界で世界の中心に そびえ立つ山。)の上空にある兜率天で修行しなさい。再びこの世に戻ってきた時、弥勒如 来となり、この世を仏国楽土にしてくれ」と答えたというものがある。弥勒菩薩は今この 瞬間にも、兜率天で将来の衆生救済の計画を練っているのだ。 B.2つの弥勒信仰―上生信仰・下生信仰 弥勒経典は漢訳経典で37種あったと伝えられているが、うち3分の1はすでに散佚し ている。ここではまず6C 朝鮮半島三国の形態を通して、弥勒信仰に迫っていきたい。さ て、この時代に特に重視された経典として、下生信仰で3種、上生信仰で1種挙げられる。 すなわち前者は「弥勒大成仏経」(=全1巻。後秦。鳩摩羅汁。弘始4年〔402〕訳。)・ 「弥勒下生成仏経」(=全1巻。後秦。鳩摩羅汁。弘始4年∼弘始14年〔412〕訳。「弥 勒大成仏経」の抄出。)・「弥勒下生経」(=全1巻。西晋。竺法護〈=唐代の誤り。〉。太安 2 年〔303〕訳。「増一阿含経」〔=東晋僧伽提婆。〕第44巻別出を4C 後半に訳出か?) であり、後者は「観弥勒菩薩上生兜率天経」(=全1巻。宋。沮渠京声。孝建2年〔455〕 訳。)である。 「弥勒大成仏経」は釈迦仏が摩伽陀国の婆沙山で、比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく) (=非出家仏道の男。)・優婆夷(=非出家仏道の女。)の四部衆を前に説法し、無比の功徳 人である弥勒が世に現れて妙法と説くと言い、それに対して十大弟子の舎利弗(しゃりほ つ)が「いかなる善根で第一智人、弥勒が見られるのか?」と問いかける所から話が始ま る。さて穣佉王が君臨する翅頭末城は七宝で荘厳せられ、行人の往来する道に塵坌1つな いという。また明珠の柱の光が昼夜問わず太陽の如く輝いており、この国は安穏で、怨賊・ 劫竊の患いや水火刀兵・飢饉毒害の難もないという。人々は弥勒の訓導により、慈心・恭 敬和順であって、正に土地豊熟・人民熾盛の理想社会がここに描かれているが、この国に 弥勒は城内の婆羅門、修梵摩を父、同じく修梵摩の、梵摩拔提を母として生まれてくるの である。身長は釈迦に等しく、身相・相好が端正で、鋳金像のような弥勒は世間の人々が

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抱える五欲の苦しみから、衆生救済の決意を固め、出家学道し、龍華樹下で正覚(しょうが く)を成就して、弥勒仏となる。弥勒仏は花林園の重閣講堂で説法をし、初会で96億の比 丘衆、第2会で94億人、第3会で92億人に阿羅漢を得さしめ、大梵天王(=梵天。)や 釈提桓因(=帝釈天。)、四天王からも恭敬合掌して讃嘆されるようになる。続いて弥勒仏 は狼跡山山頂で滅尽定の迦葉と会いに行く。迦葉は弥勒に釈迦の付嘱した僧迦梨(=三衣。) を授けると、耆闍堀山の住処へ帰り、身より火を出して涅槃に入った。弥勒は山頂に塔を 建て、その舎利を収める。弥勒仏は6億万歳生き、衆生を憐愍し、法眼(ほうげん)(=仏 法の全てを見極める心。)を得しめるという。滅後は転輪王が四天下に塔を建てその舎利を 収める。釈迦仏は四部衆が精進・善業すれば、世間の燈明たる弥勒の化身が必ず見られる と言い、この説法を終える。 次に「弥勒下生成仏経」では弥勒功徳の神力・国土の荘厳を聞きたいという舎利弗の要 請で仏の説法が始まっている。四大海の水減少する三千由旬の時、閻浮提(えんぶだい) に翅頭末城があるという。その国は福徳の人が充満し、豊楽安穏にして、怨賊劫竊の患い や水火刀兵や飢饉毒害の難も無いという。人心は恭敬和順で、人々は謙遜な言葉を交わし ており、害し合い・証妄・盗みの根源となる珍宝が地に破棄されていても厭う心を見せる。 婆羅門出身の弥勒は人々の五欲の患いと生死への沈没を見て、深い憐愍の情を起こし、出 家学道する。龍華樹下に坐し、正覚が成就した弥勒仏は華林園内で説法をし、初会で96 億人、第2会で94億人、第3会で92億人に阿羅漢を得しめたという。 また「弥勒下生経」では舎衛国の祗樹給孤独園で、500人の比丘に為されている説法 の中で、将来久遠、蠰劫王が治める翅頭城下が土地豊熟、人民熾盛で、街巷では行を為し ているということが語られる。またこの国では甘美な果実の香気が漂い、言語は一種で差 別が無く、金銀の珍宝を始め、宝物が地上に散らばっても心を止める人はいないともいう。 兜率天の弥勒は大臣の修梵摩を父、梵摩越を母として生まれ、出家後、龍花樹の下で正覚 を成就させ、弥勒如来となる。弥勒仏は摩竭国の毘提村山中に迦葉(=過去久遠釈迦文仏 の弟子で、釈迦から弥勒出現まで般涅槃しないよう伝えられている。弥勒の教化する弟子 は釈迦文仏の弟子であり、迦葉は過去と未来の弥勒仏のつながりの証明人の役割を果た す。)を訪問する。弥勒は鬼神と共に門を開き、迦葉の禅屈へ行き、迦葉の僧伽梨を被着し たところ、迦葉の身体は星散する。弥勒仏は第1会説法で96億人、第2会説法で94億 人、第3会説法で92億人に阿羅漢を得さしめるが、この時比丘は慈氏の弟子と名乗って いる。そして弥勒は比丘に、無常之想、楽有苦想、計我無我想、実有空想、色変之想、青 瘀之想、膖脹之想、食不消想、膿血想、一切世間不可楽想の十想の思惟するように説いた のであった。 最後に「観弥勒菩薩上生兜率天経」は世尊(=釈迦。)が舎衛国祗樹給孤独園で、弟子・ 優婆塞・優婆夷・菩薩を対告衆として説法開始することから始まる。世尊は弥勒菩薩が1 2年後に終命し、兜率天(=七宝で作られており、光明に輝く。音楽が絶えず流れ、無数 の天子・天女の侍御を受ける勝妙の福処で、上妙の快楽に満ちている。)への上生を予言す

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る。兜率天の弥勒は一生補処の菩薩(=一生だけ繋縛せらる。)であり、次の生で仏の位処 を補う菩薩、すなわち第2の釈迦として供養を受けた後、来世では成仏するという。さて 予言通り、弥勒は12年後入滅すると、紫金色に輝いて、兜率天に化生し、昼夜六時(= 晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜。)上生者に説法する。そして56億万年後、兜率天 の弥勒は人間世界に晴れて下生することになるが、その時兜率天上生の衆生も弥勒と共に 人間世界に下生し、諸仏に結縁することができる。諸々の天子と共に弥勒仏の歓迎・来迎 を受け、兜率天に往生・上生する為には、弥勒菩薩の形像を造り、弥勒を称名する必要が あるという。世尊の説法が終わった時、無量の大衆は世尊に「未来世で弥勒に値偶(ちぐ)・ 兜率天に上生したい」と誓願する。世尊は十大弟子の阿難へ未来世の為に「弥勒は生天の 路を開いた」と述べて説法を終える。 さて、以上の経典の内容を整理すると、まず兜率天は光明・音楽・七宝で荘厳された天 子・天女の侍御を受ける楽土として描かれ、そこで昼夜六時に弥勒が説法を続けている。 また上生信仰とは、臨終に際して、弥勒を念じ、弥勒の名号を称えることによって、弥勒 の来迎を預かろうとする信仰であるということが言える。すなわち出家者に求められる煩 悩を断つような難行は必要とされず、持戒のような在家者に可能な修繕で十分に、兜率天 への上生資格が得られるというわけだ。また下生信仰とは、56億万年後、「一生補処の菩 薩」として、兜率天から人間世界に下生し、出家学道・修行した後、正覚を成就し、如来 となった弥勒仏が、釈迦滅後の衆生救済の為、龍華樹の下で3度の説法、龍華の三会を行 うという内容を持っている。この時、兜率天に上生している者にも下生する機会が与えら れているが、龍華の三会に結縁する為には、あらかじめ兜率天への上生が必要であり、上 生信仰と下生信仰を合わせてこれを図式化すると、人間世界→兜率天→人間世界への帰還 という構図が成り立つ。これは現世を厭離穢土として嫌う西方浄土信仰とは非常に対照的 な枠組みを有していて、興味深い。因みに弘法大師も、この上生信仰と下生信仰の思想に 立脚して、高野山で亡くなる際に、「私は死ぬのではなく、兜率天で修行をしに行くのであ って、56億7千万年後に弥勒と一緒に働くのだ」といった趣旨の内容を述べている。西 村公朝氏も、弥勒は56億7千万年後でないと助けてくれないというわけではなく、現在 進行形で活躍中の仏であって、弥勒の上生信仰を、仏教信者の為の災害保険「弥勒保険」 の比喩になぞらえて説明を試みている。すなわち弥勒の慈悲に預かれる保障期間は56億 7千万年であって、上生する為の掛け金は個人であれば「南無弥勒仏」の合掌、国家であ れば経塚(=写経を入れた銅の経筒の埋蔵。)、寺院、仏像であるとしている。 次に田村圓澄氏の「半跏思惟像の諸問題」に従って、中国・朝鮮半島における弥勒信仰 を概観していく。 まず、古代中国の弥勒信仰について見ていこう。龍門石窟の開鑿(かいさく)造像は太 和17年(493)の洛陽遷都前後∼唐末まで続く。造像記は阿弥陀・観音・釈迦・弥勒 の四尊像が大半を占めているが、紀年造像記より、南北朝時代には主に釈迦・弥勒が造ら れる一方、唐代には主に弥陀・観音・地蔵が製作されており、一般信仰対象の移行が伺え

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る。紀年造像記より、釈迦は総数61体、うち南北朝には50体、中でも北魏時代には4 3体が製作されたが、対照的に唐代には10体しか製作されなかった。また弥勒像は総数 49体、北魏時代には35体製作された。さらに阿弥陀像は総数122体、全て唐代に造 られている。以上のことから、洛陽地方の造像・礼拝対象は、北魏時代には釈迦・弥勒像 を中心とし、唐代には阿弥陀仏が中心となっていたことがわかる。また雲岡石窟開鑿造顕 は北魏文成帝時代、すなわち和平元年(460)∼都が大同(平城)から洛陽に移った太 和17年(493)まで続く。例えば、17洞の明かり窓のある仏龕には上方に太和13 年(489)の造像願文より、弥勒と推定される交脚倚坐菩薩像、下方に「法華経」見宝 塔品から、釈迦・多宝仏と推定される二仏併坐像が見られる。弥勒が交脚の坐像であるこ とは例えば龍門古陽洞の景明3年(502)の比丘恵感造弥勒像、正始2年(505)の 王史平造弥勒像からも伺える。 さて、交脚倚坐の弥勒像は頂上に天宝冠を付け、宮殿の中に倚坐している。また閻浮檀 金色の如く輝く獅子像を左右に配置しているが、これは「観弥勒菩薩上生兜率天経」中の 命終した弥勒が兜率天の七宝台内摩尼殿上師子床坐に化生するという記述に由来している と考えられる。左手の掌は左膝の上に伏せた形で置かれたり、上向けに置かれたりするが、 右手は一様に5指を伸ばして、施無畏印(=掌を前に向ける。)を結んでおり、兜率天で説 法する姿を表したものと推定されている。また、装いに関しても「観弥勒菩薩上生兜率天 経」の所説に対応しているという。さて龍門・雲岡の例より、北魏の弥勒信仰は兜率天へ の上生に重点が置かれているものと考えられるが、造像発願者の上生を祈ったものではな く、近親者の死者上生・死者追善儀礼として像が製作されたと考えられている。また下生 信仰においても、龍華樹の三会の説法に結縁することよりも、弥勒と同じ上層身分の子孫 として生まれることが願わるなど、現世への関心の強さが垣間見られる。 次に新羅の弥勒信仰について検討していきたい。現存する半跏像を除いて弥勒像とされ るのは、如来3体・菩薩1体しか残っていない。例えば、甘山寺弥勒菩薩立像は光背裏面 の銘記より、造像由来が判明している。すなわち開元7年(719)重阿飡金志誠が、亡 考(=父。)・亡妣(=母。)追善の為に甘山寺を建立し、1・74mの石造の阿弥陀如来立 像1体と1・83mの弥勒菩薩立像1体が造られたという。白月山南寺・金山寺の例より、 前者は講堂本尊、後者は金堂本尊と推測されている。上記より、この造像は上生信仰によ るものではなく、死者の追善儀礼として行われたと言える。こうした例は竹旨嶺北峯石弥 勒像、溟州蟹県嶺石弥勒像、三花嶺弥勒如来倚坐像にも見られる。慶州国立博物館蔵三花 嶺石造弥勒三尊は慶州南山三花嶺の石龕に安置されている。中尊は倚坐像で、右手は施無 畏印を結び、左手は着衣執持(=保持。)の如来形である。兜率天より人間世界に下生し、 正覚を成就した後の弥勒と見られ、龍華三会の説法像とも考えられるが、いずれにしろ下 生弥勒信仰の対象であった。脇侍は立像の菩薩形をしており、釈迦三尊説・薬師三尊説・ 阿弥陀三尊説・黄壽永氏の弥勒三尊説などの所説が存在するが、田村圓澄氏は弥勒三尊説 を支持している。断石山は慶州、海抜827mの所にあり、三国統一の英雄、金庾信が青

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年時代に救国を祈った場所としても知られる。頂上近くには自然岩の石窟寺院である神仙 寺遺址があり、切り立った石室の三面には仏・菩薩・人物像が刻まれている。正面中央の 壁面には23尺如来立像1体が存在し、左右の壁面には菩薩立像各1体の浮き彫りがある。 窟内の南壁面の銘文より、正面の中尊は成道した弥勒仏であることが判明し、弥勒三尊と して下生信仰の対象になっていたことが分かる。 最後に百済の弥勒信仰を見ていこう。益山(=韓国全羅北道益山郡金馬面。)の弥勒寺 の存在が注目される。この寺の創建事情として、百済の武王・夫人が龍華山の師子寺に行 幸した際、山下の大池から弥勒三尊出現したという話が残っている。夫人は弥勒三尊に大 伽藍創建を願い出て、許されるが、この時百済から新羅真平王に黄金を贈り、武王即位の 道を開いたという知命法師は神力で一夜にして山を崩し、池をうずめて、平地とし、弥勒 寺創建に寄与したと伝えられている。この時新羅の真平王も多くの工人をこの寺に派遣し、 弥勒寺造営を援助したという。知命法師は弥勒の行者のイメージに重なる、山林修行の咒 験者(しゅげんじゃ)の性格を持っているが、龍華山(=兜率天に擬せられる。)師子寺(= 師子床座に由来。)は弥勒上生信仰の拠点であったと推定される。このことから、師子寺本 尊は兜率天で昼夜六時に説法を行う弥勒菩薩像だったとも考えられる。また弥勒寺の伽藍 は仏殿・塔・廊廡(=回廊。)を一院とする三院であって、龍華の三会の教説に由来する、 中央・東西に並立で構成する異例の三塔三金堂式の伽藍配置であった。この三金堂には下 生信仰として龍華三会の説法像の弥勒が安置されたと考えられる。また塔の建立の背景に は塔を建て、仏舎利を供養する者は、功徳により、龍華の三会に結縁できるという思想と 弥勒仏は滅後、荼毘に付され、転輪王が四天下に8万4千の塔を建てて、その舎利を収め るという思想があるが、弥勒寺の造塔・仏舎利安置は前者に基づいており、後者は星宿劫 の未来世を表していると言える。弥勒寺の中院には木塔、東西両院には石塔が建てられた。 弥勒の仏像には二種類ある。一つは上生信仰に基づく修行中の弥勒菩薩で雲岡・龍門の 例のように、交脚倚坐像を主流として表されることが多い。この交脚倚坐像は北魏に多く、 古代朝鮮半島や日本には少ない。またもう1つは下生信仰に基づく56億7千万年後を想 像した弥勒世界の教主たる弥勒如来であり、図像は龍華樹下の説法を表している。この類 の像は北魏に少なく、新羅や日本に多い。日本では平安時代の末から弥勒如来が造像され 始め、大半は坐像である。例としては興福寺北円堂の弥勒如来像(=鎌倉時代の運慶晩年 の作で、力みのない穏やかな姿をしている。桂の木造。漆箔。国宝。像高141.9cm。) が挙げられる。 菩薩とは菩提(=悟り。)薩埵(=衆生。)(=悟りを求める衆生。)の略であり、サンス クリット語のボーディサット(bodhisattva)を漢訳したものである。如来の補佐役であり、 図像的には装飾品や宝冠を身に付け、三尊形式(=中尊〔=如来。〕+脇侍〔=菩薩。〕)で 表されることが多い。大乗仏教では発菩提心(=悟りを求める心を起こすこと。)を得た者 は全て菩薩と見なされるが、修行進度・教義理解に応じた、経典によるランキングがあり、 最上位の菩薩は次の転生で輪廻転生から解放され、如来になることができるとされている。

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また如来とは最高位の仏であり、図像的には大日如来を除いて、原則的に装飾品は無い。 3・半跏思惟像とは? A.半跏思惟像の一般的特徴 本節は毛利久氏の「半跏思惟像とその周辺」に基づき、検討を行っていく。典型的な半 跏思惟像は、菩薩形で、右手指先を右頬に近づけることにより、思惟を表している。また 台座に腰を下ろして、片方の足、多くは左足を踏み下げ、他方の足、多くは右足を曲げて、 左膝の上に安んじている。さらに左手は足首に軽く伏せられており、上半身は裸形で、両 腰垂下の円環紐帯(じゅうたい)を身に付ける。岩崎和子氏は左右の均衡を破った造形に 半跏思惟像の特徴を求めている。また、宮治昭氏は語源的に半跏思惟を考察している。そ れによるとまず、思惟(siwei)はサンスクリット語の動詞語根√cint、名詞 cinta の漢訳 であり、「思考する・熟考する」及び「心配する・不安に思う」、この2つの「考える」と いう意味があるという。ただし、漢訳された思惟は前者の意味に近く、後者の意味はほと んど含まれていないらしい。また、半跏は坐勢の名称で、正しくは「半跏踏み下げ」と呼 ばれているという。 一方、この特徴に反する異色像も存在する。左右正反対の像としては、松原三郎氏紹介 の太和8年銘銅造半跏思惟像、隋石造四面像、朝鮮慶尚北道栄州邑出土銅造半跏思惟像(= 古新羅。)が例として挙げられる。また通肩長袖中国式寛衣(=ゆったりした着物。)を着 ている像は右手第二指を軽く頬に当てる一般的なものもあるが、右手先に異形があるもの も時として見られる。荘重な威厳・厳粛な形相を持つ。この像は聖徳太子信仰の広まり・ 半跏思惟像への愛仰を背景として、日本を中心に、特に聖徳太子関係の寺に安置されてい る。敦煌画・絵因果経・雲岡仏伝のような仏伝関係図に見られる寛衣の悉達太子像の中に も、似た物が見出せる。この像の代表例としては右手全指を伸ばし、頬に近づけた法隆寺 聖霊院像(=藤原時代。)・三千院・盧山寺像(=鎌倉時代。)と右臂を屈し、施無畏風の印 を結んで、大形三山冠を付ける最古の法隆寺献納御物を挙げることができる。特に法隆寺 献納御物は「別尊雑記」中の四天王寺救世観音像 聖如意輪云々仍私加之(=大阪四天王 寺本尊。)図像に近似している。この像は「別尊雑記」には註記として如意輪観音とも称さ れており、法隆寺学僧、顕真の「古今目録抄」中でも救世観音・如意輪観音と記述され、 後者は銘文で記されていたという。これは聖徳太子信仰の所産としての尊名であると推定 されている。また「古今目録抄」には弥勒の尊号も見られ、年紀ある座中の銘記に由来す ると考えられる。 この例のように、半跏思惟像の尊名は弥勒や如意輪観音・救世観音とも伝承される。如 意輪観音は如意宝珠と輪宝とで衆生の願望を満たし、救済する変化観音であり、煩悩を打 ち砕く法輪を持っている。信仰は8C から続いており、古くは2臂像が多く、右手を頬に かざした思惟手があった為、弥勒と判別しがたく、菩薩半跏像としばしば混同されていた。 天智天皇5年(666)野中寺半跏思惟像の框銘に「弥勒御像也」と明記されていたこと から、半跏思惟像が全て弥勒とみなされる説もあるものの、久野健氏はその見方に疑問を

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呈している。内藤藤一郎氏も半跏思惟像は菩薩一般に通形の像容を示したものであって、 半跏思惟像=弥勒説を否定している。 B.ガンダーラの半跏思惟像 本節は宮治昭氏の「ガンダーラにおける半跏思惟の図像―半跏思惟像の出現―」と「半 跏思惟像の生成―イメージ・テクスト・宗教実践―」に基づいて検討を行っていく。半跏 思惟像の起源はガンダーラ彫刻に求められる。モハマッド・ナリー、ロリヤン・タンガイ といった特定の寺址からの出土が見られ、特定の工房で製作が推定される。インドの仏教 美術においてはガンダーラの影響の濃いマトゥラーの1彫像を除いて、半跏思惟像は皆無 であるという。これは、インド美術尊像の形姿に無関心だったことを示すものではない。 むしろ、聖像の形姿はその性格に関わる本質的問題であった。インドでは一方の足を他方 の足の膝上に置かず、座上に安んじて、安息な休息を示す遊戯座が好まれたが、これは自 然主義的な意味での王者の安楽さではなく、王や神の繁栄・豊穣を司る機能に関わる象徴 的な意味を表しているとされている。一方、片足を伸べて腰掛け、他方の足を外方へ屈し て、伸べた足の膝上に置く半跏座は、ガンダーラを除いて、南インドの中世ヒンドゥー教 のシヴァの1つのムールティに見られる程度でしかないという。また聖世界の存在である 仏陀像は、一般的に結跏趺座(=禅定→悟達。座禅の座り方。)し、倚像(=椅子に座る像。) がたまに見られる程度であり、一方菩薩像は、仏陀と俗世界の王者・神としての両義性を 持つものの、王・神の象徴領域か仏陀の象徴領域に分化する傾向があるらしい。例えば仏 伝図像中では、南インドアマラーヴァティー美術のように仏形もあるものの、多くは俗世 界の繁栄を示す王者の姿をしており、遊戯坐も見出され、沈思の姿とは程遠い。また尊像 では、仏三尊像の両脇侍・単独像の立勢が多く、例えばクシャン朝マトゥラー・グプタ朝 の坐勢を取る単独像は、ほとんどが結跏趺座であるという。但し、エローラ石窟・パーラ 朝密教美術ではヒンドゥー教の神々の要素を取り入れ、坐勢における遊戯性の受容も見ら れる。しかしながら、グプタ朝以前には単独像は少なく、半跏坐・遊戯坐は発展しなかっ たということだ。 さて、まず、仏伝図の半跏思惟像を見ていくことにする。中国の半跏思惟像の一系列に は悉達多太子が見られるが、ガンダーラ起源かどうかは明瞭ではないらしい。 例えば、「出家決意」という図像では、雲岡第六洞南壁に右足を遊戯坐風に屈し、右手 を頬に付けて思惟する悉達多太子が見られるが、一方、ガンダーラの浮き彫りの多数は、 寝台に腰掛けて、片足を垂下し、他方の足を足台に置くのが一般的であり、思惟ではなく、 出家への固い決意・悟達への道を表しているかのような、施無畏印、または手を大きく挙 げる姿をとっている。 一方、田畑の虫の死や農夫の労苦、牛の疲労を目の前にして瞑想を行ったという、「閻 浮樹下の静観」の仏伝に由来する図像、樹下思惟像において、中国の場合には、現世の憂 いの思惟として表されているが、ガンダーラ浮き彫りでは結跏趺座の瞑想・禅定(dhyana) として表現されている。

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また、「愛馬カンタカとの別離」でも、中国の図像が半跏思惟であるのに対し、ガンダ ーラ浮き彫りは決然と立った姿で、それを表現し、しばしば御者に装身具を渡して1人苦 行林に入っていく様子が暗示されている。 ところで、ガンダーラ美術の中には中国の起源になっている可能性が見られる図像も存 在している。例えば、内藤藤一郎氏によると、ガンダーラ出土の「閻浮樹下の静観」で、 画面中央に、樹下に腰を下ろし、右足を屈して左膝の上に置き、左手を顔に当てて考える、 大変珍しい太子像があるのだという。また、モハマッド・ナリー出土の1パネルの第4区 画には半跏の坐勢で、台座に腰掛け、首を傾けて思惟する太子が描かれており、太子半跏 思惟像の祖形となったのではないかと注目を集めている。閻浮樹下の静観の太子が悩める 姿を強調したこの図像は、太子の発心に対する礼讃を示唆する二人の合掌者を伴っている。 さて、思惟が聖世界に対する俗世界からの離脱を暗示しているのに対して、瞑想は悟りの 手段であり、結跏趺坐や禅定の姿で表現されている。閻浮樹下の静観は半跏思惟で表現さ れる、世俗の生死の苦しみを憂う思惟と解脱の前兆を物語る三昧境に至る瞑想・禅定の2 つの要素から構成されている。文献テクスト的に、前者は「ブッダチャリタ」といった、 一部サンスクリット・テクストに言及があるほか、特に「仏所行讃」や「方広大荘厳経」、 「過去現在因果経」、「仏本行集経」など、多くの漢訳テクストで強調されている内容であ る。一方、後者はインドで主流となっている、「ニダーナカター」や「ラリタヴィスタラ」 といった、パーリ・テクストやサンスクリット・テクストの中に登場する。 さて、「婚約」という場面にも、台座に腰を下ろし、左脚を半跏に組んで、左手をあご に当てて考えている、悉達多太子自身と推定される図像がある。これは、浄飯王が結婚を 勧め、官能の快楽という危機的状況がまさに悉達多太子に迫らんとする場面であって、悉 達多太子が世俗と解脱の間で揺れ動く思惟の象徴的表現が為されている。 あるいは、フリア美術館所蔵・スワート博物館蔵の「降魔成道」という図像もある。誘 惑に失敗し、その16の理由を思い巡らす魔王マーラが、足を組んで左手を頬に当て、右 手で地面に字を書く人物として描かれている。インドの魔王はうずくまって思案に暮れる 姿によって、俗の聖に対する敗北を象徴しているのに対し、ガンダーラの魔王はこのよう に穏やかな思惟で表現され、俗における聖の予兆を暗示しているのだという。 以上の検討を通して、ガンダーラ浮彫中の半跏思惟像は、俗に身を置きながらも、聖と の狭間にあって揺れ動く象徴的心理や欲望の俗世界から安穏なる解脱世界への転換を暗示 していると言える。インドで、仏陀に近い存在である菩薩が王者的・英雄的勝利者として 表現されたり、魔王が王者・敗者として描かれるのとは実に対照的なことある。 ところで、毛利久氏も仏伝中の悉達太子を検討しているが、完全な半跏思惟像ばかりで なく、片足を踏み下げるだけの半跏像も存在すると共に、半跏思惟像が単に左右対称の厳 飾的な意味合いとしてのみ活用される場合もあったということをここに付記しておく。 次に、転法輪印・蓮華座・結跏趺坐の仏陀の周囲を仏・菩薩・供養者が取り囲む、大神 変図で必ず見られる半跏思惟像を検討していく。

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モハマッド・ナリー出土の浮き彫りは五段の二次元的な平面性の強い画面構成であり、 三段目両端に両脇侍を従えた転法輪印の交脚像と最上段に左右相称的な半跏思惟像がアー チ形の建物内に配置されていて、いずれも菩薩であると見られている。さて、パネル下方 には舎衛城の神変が描かれている。これは原初の水の象徴である、二組の龍王夫妻が創り 出した、太陽の象徴、大蓮華上に、宇宙主たる仏陀が結跏趺坐して、転法輪印(=仏教真 理の開示を表す。)を組むという図像であり、カオスからコスモスを生じさせる宇宙生成の 祖形となっている。ただし、千仏化現(=大量の化仏〈けぶつ〉創造。〉の点で図像とは必 ずしも照合していない。むしろ、図像的には大乗経典に描かれる、仏陀の偉大な三昧(= 心の統一。)・説法を示現する奇瑞(きずい)の光景、特に聖衆の視線が光のある釈迦の方 向に集まっていることから見て、仏陀の白亳(びゃくごう)から放たれた大光明で仏国土 が露になるという、法華経の大光明の神変に近い。さて、最上段の半跏思惟像1対は丸い 座に腰掛け、一方の足を踏み上げ、他方の足を浮かせて半跏風に坐し、一方の手を額に当 て思惟のポーズを取っている。明確な形姿を示すことと、建物内にあることから見て、特 別に聖化された菩薩ではないかと推定される。ところで、法華経の中には、弥勒菩薩が文 殊菩薩に「神通力で起こった出来事が、一体何であるか」を尋ね、文殊菩薩が過去の如来 の神変の因縁を説明している場面も見受けられる。従ってこの図像も、神通力の意味を思 惟する菩薩を表しており、仏世界の深遠さを形として象徴的に示しているのではないかと 推測されている。この図像に特定の尊名があるかは、依然として不明であるものの、冠物・ 持物から見て、おそらく同系統の菩薩ではないかと考えられている。またこの浮き彫りに ある半跏思惟像の左右対称形は、仏世界の深甚不可思議さを強調した表現だと見られてい る。正面性・左右対称性に貫かれた幾何学的な浮き彫りの構成は、仏陀の超越的・宇宙論 的性格・悟りの本質を開示する神的顕現に他ならないという。 次に、ペシャワール博物館の1パネル見ていく。左上方部を一部欠損しているものの、 ①とほぼ同じ画面構成である。さて、右上方のアーチ形建物内には右手を欠損し、左手に 華鬘(けまん)を持つ、右足を左足に安んじた半跏坐・籐座の半跏思惟菩薩像が見られる。 さらにその上にも、建物を象る枠内に転法輪印・交脚の菩薩像がある。もしかすると、欠 損した画面左に、対となる菩薩像が配されていたのかもしれないという。 サーリ・バロール出土の仏説法図浮き彫りには、三頭の象に支えられた蓮華座で結跏趺 坐し、転法輪印を組む釈迦と左右の脇侍菩薩で構成される三尊形式の像が見られる。像全 体が、宮殿のようなアーチ形の建物構造に覆われている。蓮華座や建物構造は仏陀の荘厳 世界を表現しているという。この浮き彫りの全ての半跏思惟像は、ターバン型の冠飾を付 け、一方の手を頬に当て、他方の手に華鬘を握っている。一方、全ての交脚菩薩は、いず れも髻(もとどり)を結い、右手で施無畏印を組んで、左手に水瓶を握っている。また、 上方二列目の両端にある一対の半跏思惟菩薩像やその内側ある交脚菩薩像には、何か特別 の意味が込められているのではないかと推察されている。 モハマッド・ナリー出土の別の浮き彫りパネルは、梯子破風とアーチを組み合わせた屋

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内の三尊形式の図像である。最上段の右側にはターバン冠飾を付け、思惟手と考えられる 右手を欠損し、左手に華鬘を握った半跏像が、また左側には細部は不明であるものの、交 脚像が確認されている。 ところで、毛利久氏は、ラホール博物館の仏説法像を取り上げ、この図像が舎衛城の神 変を表しているとするフーシェの説を紹介すると共に、表現上の特色として、厳粛な形相 の仏陀を中心に、多種多様の変化ある姿の聴衆を満面に刻出していることを挙げている。 第3に、ガンダーラの仏三尊像浮き彫りを検討していく。一般に中央には宇宙主たる仏 陀が転法輪印を組んで、蓮華坐に結跏趺坐する姿が見られ、両側には補助機能を持つ菩薩 が、坐像も少数ながら存在するものの、大半が立像で配されている。両側の脇侍はターバ ン冠飾・持蓮華の観音菩薩と束髪・持水瓶の弥勒のセットが極めて多い。 さて、ロリヤン・タンガイ出土の浮き彫りを見てみる。中央には水に関連した生物であ る、象の支える蓮華坐で結跏趺坐し、転法輪印を組む釈迦像が配されている。また、左に は頭部と両手首を欠損した交脚菩薩像が見られ、一方右には、右足を左膝上に載せた半跏 坐を取り、ターバン冠飾を身に付け、左手に華鬘を握り、右手は欠損しているものの、お そらくは思惟手であったのではないかと推察される半跏菩薩像が位置している。前者は後 に、中央アジア・アフガニスタンで一般化した弥勒菩薩、後者は観音菩薩ではないかと推 測されている。この浮き彫りの梯形破風型の建物は、浄土世界の楼閣の祖型となった。 次に、ロリヤン・タンガイ出土の別の浮き彫りを見ることにする。大神変の図像を残存 させつつも、完全な仏三尊像である。破損はしているものの、釈迦の蓮華座はニ龍王に支 えられていたらしい。左右の両脇侍菩薩は半跏思惟像であり、両像とも片足を半跏風に浮 かせて、台座に坐し、片手を額に当てているものの、両者には明確な区別が為されている。 すなわち、右には前飾のあるターバンを付けて、左手に蓮華を握った、おそらく観音菩薩 と同定される像が、左には髻を結い、右手に梵経を持った、おそらく文殊菩薩と同定され る像が、それぞれ配置されている。三尊の頭上には、アーチと梯形破風で示唆される宮殿 建築があり、華鬘が下っている。個々の図像が仏陀の神的顕現に由来するとしても、特定 の信仰として造像された可能性が高いという。 カーピシー地区出土の浮き彫りはガンダーラ彫刻と密接なつながりを持ちながらも、独 自の一流派を築いている。ショトラック出土の一浮き彫りを見てみよう。彫像は欠損して いるが、台座は残っている。この浮き彫りの幾何学的な構成は先程のロリヤン・タンガイ 出土の浮き彫りに近いという。宮殿を象る梯形破風下に転法輪印を結んで、獣足脚の台座 に坐す交脚菩薩があるが、これは兜率天の弥勒菩薩と推定されている。その左右には、非 対称の菩薩形の脇侍像があり、左側の像が交脚の坐勢で、右手に水瓶を持ち、左手をあご に当てる思惟の身振りをする一方、右側の像は両手で右膝を抱えている。このような三尊 形式は、後に交脚弥勒と両脇侍の一対の半跏思惟像が配置される、北魏の浮き彫りの原型 になったと見られている。さて、パイターヴァ出土の一浮き彫りパネルの主尊は肩から炎 を出し、下端は欠損しているものの、足元から水を発する双神変(=舎衛城の神変の千仏

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化現の第一。)の仏陀で、左右上方に苦行と初転法輪の場面が描かれている。半跏風の思惟 像が樹下に坐しているが、悉達多太子ではないかと考えられている。すなわち、苦行と初 転法輪の仏伝場面に同じ樹の表現があり、傘蓋(さんがい)的な役割を果たす図像ではな いかと見られている。この思惟像は、左手の第二指を頬に当て、象らしき動物の座に腰を 下ろしている。左側は欠失しているが、おそらく相称的な半跏像が配置されていたと推測 され、主尊の両脇侍的構成になっていたものと考えられるという。この他、ショトラック の浮き彫り断片二例が半跏思惟像を表しているが、両者とも仏陀の神変場面や仏三尊像の 脇侍として、表現されたのではないかと見られている。 最後に、カーピシー地区出土の半跏思惟像を見ておこう。この地方の像は、ターバン冠 飾を身に付け、一方の手の指を頬に当てて、他方の手を膝上に置き、一切の持物を持って いない。この場合、特定の尊名を持った菩薩としての造形かどうかは疑問であり、ガンダ ーラの仏陀の大神変の図像における、主尊の深遠な神的顕現の世界を思惟する菩薩の図像 の継承ではないかと推察されている。このカーピシー彫刻は造形上の要求から、左右対称 性志向が強く、北魏の三尊像の図像と特別の関係があるのではないかと考えられている。 最後に、ガンダーラの単独の半跏思惟像を検討していく。ガンダーラの作例は、10例 程度知られ、単独の半跏思惟像に対する信仰が存在したことを示唆している。その初期的 な様相は大神変図や仏三尊像の浮き彫り中の半跏思惟像の形式に近いものだった。 タフティ・バイ出土、ルコック将来の半跏像を見てみる。台座と両脚下部を欠失してい るが、肘をついた右手の第二指を伸ばして額に当てて、首を傾げた思惟像である。華やか な前飾のあるターバンや瓔珞といった装飾品を身に付けると共に、左手には華鬘を握り、 右足を外に張って浮かせた、不完全な半跏の坐勢を取っている。 ペシャワール博物館蔵菩薩思惟像も造形的には前者に近い。本像は下部や右前臂を欠損 しているものの、半跏風の坐勢を取り、左手に華鬘を握って、ターバン型の冠飾や装飾品 を身に付けている。高田修氏は、こうした像が、蓮華が観音の持物として定着する先駆と なったと考えている。 さて、多くの単独の半跏思惟像は、持物として未敷・開敷蓮華を持っている。例えば、 松岡美術館所蔵の半跏思惟像は、敷物を掛けた籐製の台座に腰を下ろしているが、右足は 革靴を脱いで、左膝の上に載せ、左臂を下げて、開蓮華を軽く指でつまんでいる。また右 臂は、肘をついて、手を軽く握り、それを顔に近づけ、第二指を伸ばしている。前飾のあ るターバン冠飾・装飾品を身に付けており、左肩から右脇に掛けて護符飾が掛かっている。 毛利久氏は、本像を半跏思惟像一般の要素を備え、完成に達した像として評価している。 ロリヤン・タンガイ出土の2作品も松岡美術館所蔵の半跏思惟像に近い。一体は首と右 手は欠損しているものの、籐座に半跏し、左手に開蓮華を持って、豪華な装飾品を身に付 けている。一方、もう1体はターバンの冠飾を身に付け、繰型の足の台座に半跏坐で腰を 下ろし、右手は欠損しているものの、左手で未敷蓮華をつかんでいる。 またアシュモーレアン博物館蔵半跏思惟像は遊戯坐風の半跏坐で、肘をついた右手の第

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2指を伸ばして思惟し、左手に未敷蓮華を持っている。 さらに、P・パルの発見した像は籐製の台座に腰掛けて、右足を左膝の上に載せ、右肘 をつき、典型的な思惟の姿を取っている。また、前飾付きの豪華なターバンを身に付け、 左臂を下し、未敷蓮華を持っている。頭光の周縁に光輝状の文様があることや衣端のジグ ザグ状の襞(ひだ)、それに加えて作品全体の硬化した様式から、P・パルは本像をガンダ ーラ後期の作品だと推定している。 単独の半跏思惟像の特徴として、丸い籐座に左膝上に右足を載せていることや右手で思 惟のポーズを取っていること、また単独像で左手の思惟のポーズはなく、それが定形化し たことが挙げられる。単独の半跏思惟像は、下半身にドーティー(=インドの民族衣装。) を身に付ける一方、上半身は裸形で、ひだのある団扇形・中心に楔形の前飾つきターバン 冠飾や装身具を身に付けている。持物としては、未敷・開敷の持蓮華を取る。高田修氏は、 早くも中国北魏時代の観音像が未敷蓮華を持っていることから、ガンダーラの持蓮華菩薩 も観音を示す図像ではないかと見ている。さて、中国・朝鮮・日本で半跏思惟像と言えば、 弥勒菩薩の図像を指すのが一般的になっているが、ガンダーラにおいて、弥勒菩薩はバラ モン出身者であることから、螺髻・持水瓶の梵天(=ブラフマー。)の性格を反映して、髻 を結い、水瓶を持つ、行者の性格で表現されている。すなわち、上求菩提という、悟りを 求めて自ら修行に励み、瞑想する菩提心の働きを弥勒菩薩の性格の基本としていることが、 図像にも表現されていると言える。毛利久氏も、現段階で半跏思惟像に弥勒を当てる例は 皆無であると主張し、むしろ右手で施無畏印を示して、左手に水瓶を持つ、「弥勒像」の刻 銘入りの、アヒチャトラー出土マトウラー式菩薩立像からの研究を促している。また、パ ーラ朝に至ると、持蓮華・小塔を付けた宝冠の弥勒像の例が増えてくるという。 これに対して、世俗の王者の象徴たる、前飾のあるターバン冠飾を身に付けた像は、次 の2種に大別することができる。すなわち、前飾のあるターバンの冠飾を身に付けながら、 持物を持たない像は、クシャトリア出身の悉達多太子像と同定することができる。例えば、 サーリ・パロール出土、閻浮樹下禅定の太子像も中央に楔形・円形の前飾のあるターバン 型冠飾を身に付けている。一方、前飾のあるターバンの冠飾を身に付けながら、蓮華ある いは華鬘を持つ像は、悉達多太子とも関係の深い、観音菩薩と同定されている。例えばサ ンガオ出土の菩薩断片は左手と下半身を欠損しており、右手第二指を頬に付け、豪華な前 飾付きのターバンを身に付けているが、注目すべきことに頭光の周囲には蓮華が生じ、下 端の蓮蕾(=つぼみ。)から、合掌する半身の小人物が蓮華化生している。インゴルトは蓮 華に関係深い本像を観音と見ている。G・トゥッチによれば、兜率天の釈迦の視が慈悲の 眼差しへと発展したのが観音の起源であり、この説は慈悲の眼差しを想起させる半跏思惟 像と観音との結びつきの証になると、宮治昭氏は述べている。下生衆生という、衆生救済 に励む慈悲心の働きが、図像的にも反映されていると言える。さて、以上のことを踏まえ た上で、三仏三菩薩を交互に並置した浮き彫りを見てみると、左側の束髪・持水瓶型の像 は弥勒、中央で、ターバン冠飾を身に付け、左手を腰に当てた無持物型像は悉達多、右側

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でターバン冠飾を身に付けた持蓮華型の像は観音と、それぞれ同定することができる。こ の浮き彫りで、悉達多太子と観音の頭飾は同じ物であり、弥勒と観音は、共に護符飾を掛 けている。 このガンダーラの伝統は西北インドにも伝わったらしい。スワートのチャグダラ地区の チャトパットの半跏思惟像は、宝冠・装飾品を身に付け、右手で思惟をしながら、茎の長 い開蓮華を持っている為、おそらく観音菩薩と推定されている。また、摩崖浮き彫りの思 惟形観音像は中インドの影響を受け、左足を垂下し、右足を組んで座上に安んずる遊戯坐 ではあるものの、ガンダーラの影響からか、宝冠を付けて、指先を伸ばした思惟のポーズ を取り、左膝に置いた左手で蓮華の長い茎をつかんでいる。スワートではこの形式の観音 菩薩が盛んに信仰されたようだ。 では、最後に、インド北西部スワートカシミール将来の銅像を見ておこう。左手に開蓮 華持った遊戯坐の半跏思惟菩薩像は、この地方で観音の一形式として定着した。例えば、 ロックフェラー収集の銅像は籐状の円座を象った蓮弁付きの台座で遊戯坐を取っている。 左手に開蓮華の長い茎を握って、頭には化仏を戴き、左肩へ鹿皮を掛けるなど、ポスト・ グプタ期に確立した観音の図像の伝統を引き継いでいる。ただ、右肘をつけて、手を頬に 近づける思惟相は、ガンダーラの影響と見て間違いないという。メトロポリタン美術館に は、上記と同一形式の8C に造られた像がある。P・パルの像は、蓮華座に趺坐する一方、 左手には開蓮華を持って、右手で思惟を示している。出土地は西北インドらしい。カラチ 国立博物館蔵銅像は、左右に小脇侍を従えながら、岩盤上の蓮華座で遊戯坐を取り、左手 で開蓮華を持って思惟し、宝冠には化仏を戴いている。さらにハールの発見した真鍮像は、 開蓮華を手に持つ、遊戯坐・思惟形の像であり、左肩には獅子皮を掛けている。本像はグ プタ様式の洗練さと力強さを併せ持っているとされている。 さて末尾に、3C 後半のガンダーラで半跏思惟像は、釈迦の説法を聴聞する菩薩の自由 な姿勢の一つとして、菩薩一般に通形の像容であったという、田村圓澄氏の見解もここに 付記しておく。 C.中国の半跏思惟像 本節ではまず、毛利久氏の「半跏思惟像とその周辺」に基づいて、検討を行っていく。 敦煌では北涼∼北周初期窟に、龍華樹下の弥勒菩薩が二体一対で見られる。これは厳飾的 性格による配置であると推察されている。また、雲岡石窟には、隋以降は如来倚像にとっ て代わられるものの、中尊の弥勒を菩薩交脚像とし、それに加えて特定の尊名がなく、厳 飾的な意味合いしか持たない、相称的な半跏思惟像を配置した形態が見られる。一方、雲 岡石窟には五尊形式と呼ばれる、半跏思惟像を両端に対称的に配置した形態も存在する。 さらに、白馬カンタカを伴う半跏思惟形の悉達太子2体を対称的に東西の明窓に分けて刻 む作例も確認されている。中国の半跏思惟像の中には左右正反対像が出現し、それが単独 像として製作されるようになることもあった。 さて、北斉の河北省定県地方で盛行した白玉製の像も看過できない。太子思惟像、太子

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像、思惟像、白玉思惟像の銘記から、半跏思惟形は悉達太子であると考えられているが、 龍樹思惟像造像銘も確認されており、それは龍華樹下に半跏思惟する弥勒像だと推察され ている。なお、フリア美術館の河清4年(565)銘双弥勒像は、半跏思惟像を左右に並 べて独立整備した白玉の二尊形制であり、特に特定の尊名や性格にはこだわっていない顕 れであるとされる。中国の半跏思惟像は南北朝時代に流行した。久野健氏によると、中国 では一般的に半跏思惟像は、思惟像または悉多太子像を表し、交脚菩薩像で弥勒菩薩が表 されているという。 さて、ここからは田村圓澄氏の「半跏思惟像の諸問題」に基づいて検討を行っていく。 田村圓澄氏によれば、龍門・上品蓮台寺本「過去現在因果経」の絵に見られるように、中 国の半跏思惟像は、出家入山前の悉達太子を表している場合があるという。同様に、水野 清一氏も北魏∼流行の最後に当たる隋代に至るまで、中国の半跏思惟像は専ら悉達太子で あると述べている。一方、望月信成氏は、古代中国・日本の半跏思惟像を検討し、半跏思 惟像が過去の修行者としての悉達太子、もしくは現在・将来の修行者であり、衆生済度の 為、待機の姿勢を取りながら、兜率天で修行する弥勒菩薩を表現しているのではないかと 主張し、町田甲一氏・毛利久氏もこの説を引き継いでいる。さて、この説に対し、田村圓 澄氏は、「観弥勒菩薩上生兜率天経」の、弥勒は兜率天で上生した天子・天女に昼夜六時説 法という所説から疑問を呈しており、兜率天での弥勒は衆生済度の修行中ではなく、救済 者に終始していると反論する。実際、兜率天上生以前に弥勒は、世尊から一生補処の菩薩 の使命と来世の成仏の受記(=予言。)を付与されており、釈迦の寄託に応え、衆生済度の 宿願を果たす為に、兜率天上生を果たしたとされている。では、半跏思惟像はどのような 弥勒を表現しているのか?弥勒は諸経典によると、人間世界に下生し、翅頭末城の婆羅門 の家に生まれる。そして翅頭末城は豊楽安穏・人民熾盛の国でありながらも、人々は五欲 の過患に苦しんでいるのである。衆生の苦・空・無常を観察した弥勒は、家が牢獄のよう に厭われ、衆生の苦を自分の苦として、煩悶沈思するようになる。田村圓澄氏は弥勒の半 跏思惟像が、この翅頭末城時代の出家学道直前の姿を表していると推測している。また、 半跏思惟像の像容面での差異がない為、悉達太子と弥勒の区別は厳密にはできないらしい。 ところで、雲岡や龍門石窟には、弥勒を表す交脚倚坐を中尊とし、左右一対の半跏思惟 像を脇侍とする三尊形式の形態がある。さて、この脇侍が一体どのような仏を表している のかについては諸説ある。例えば、中尊を弥勒とすれば、当然脇侍は弥勒ではなく、よっ て特定の菩薩を想定すべきではないという説や一場面中に同一の仏・菩薩が数回表される 例は仏教美術作品に普通に見られることであり、脇侍は弥勒であるという説がある。これ に対して、田村圓澄氏は、中尊は現在仏で、兜率天で説法する衆生済度の弥勒菩薩を表し ており、一方2体の脇侍は過去仏としての悉達太子と未来仏としての下生した弥勒を表し ているのではないかと主張している。田村圓澄氏によれば、このような配置を通して、三 世に渡る救済を説くだけでなく、現在仏と過去仏・未来仏とのつながりの強さ、さらには 過去釈迦の委嘱に応える姿勢と未来世の衆生済度にかけた自己の意思といった、一生補処

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の菩薩である、現在仏の衆生済度志願の深さを示しているという。 D.朝鮮半島の半跏思惟像 本節ではまず、毛利久氏の「半跏思惟像とその周辺」に基づいて検討を行っていく。朝 鮮では三国時代以来、半跏思惟像のかなりの流行が見られたという。「元興寺伽藍縁起并流 記資財帳」には、百済聖明王が欽明天皇に対して太子像を送ったとの記述が残されている また、ソウル国立博物館に大形で、宝冠に弥勒のシンボルである小塔の付いた古新羅半 跏思惟像があるが、これは弥勒か悉達太子を表していた可能性があるらしい。 さらに、敏達天皇13年(584)に鹿深臣は百済から弥勒石像一体をもたらしている が、それには居足下と記されており、半跏思惟弥勒であったと推察されている。 さて、ここで、弥勒信仰と真興王時代以来、戦士的訓練にはげむ青年貴族集団である花 郎の結びつきについて言及しておく必要があるだろう。弥勒信仰は花郎にとって、その精 神的連帯を保つ手段であった。特に花郎と弥勒信仰との結びつきにおいては、弥勒が兜率 天から下生した時に行われるという、人間世界の三会の説話に大きな期待が集まった。事 実、慶尚北道断石山・中清北道中原の新羅摩崖像は弥勒上生・下生信仰に基づいており、 それぞれの信仰に対応する形で、弥勒の半跏思惟菩薩形・如来形が製作されている。 朝鮮と日本の半跏思惟像の共通点として、両国に交脚像はほぼ皆無であり、左右対称の 交脚像や倚像よりも、むしろ自由な半跏思惟像が好まれ、それで弥勒・悉達太子を表して いたということが挙げられる。 次に岩崎和子氏の、韓国三国時代の半跏思惟像の様式的考察に基づいて、検討を行って いく。さて、7C前半の朝鮮の小金銅仏・石仏には、触知的視覚活動による造像が不十分 な作例が多いという。半跏思惟像の紀年銘は、蓮華寺発見戊寅(676)銘半跏三尊碑像 を除いて、ほぼ皆無に近いらしい。 田村圓澄氏によると、百済では主尊となる大型の半跏像がなく、専ら小型の半跏像が個 人の信仰・礼拝の対象となっていたという。一方、新羅では花郎=半跏像=弥勒信仰の影 響で、弥勒下生による新羅社会救済を望む同信集団の形成が促された結果、国家レベルに まで拡大した信仰の変容が見られ、大型の半跏像が、個人の信仰対象であると同時に、集 団の信仰対象として製作されていたという経緯があるようだ。 具体的にどのような半跏像が朝鮮半島で製作されていたのか、見ていくことにしよう。 例えば、高句麗遺例される金東鉉氏蔵金銅半跏像が、比較的制作年代の早い物として知ら れる。 また、王城址にあったことから、百済扶与都邑時代の作品と推定されている、扶蘇 山出土の蝋石製像も忘れてはならない。そのうち3体が半跏像である。さて、その3 体の うち1体と中央博物館像金銅像を試みに比較し、幾つか共通点を挙げてみよう。両像とも 痩身であり、体躯が扁平であり、側面観をあまり意識していない造形であることが見出せ るだろう。中央博物館像金銅像はしばしば、48体仏の丙寅銘半跏像「法隆寺献納宝物目 録」156号とも比較される。156号は野中寺弥勒像(666)との様式比較から、推 古14年(606)に制作されたと推定されており、銘文より、韓国と密接な関係を持つ

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人の発願であるとされている。そして7C 前半の製作である、安東玉洞発見の小金銅像は 中央博物館像金銅像や扶蘇山出土の蝋石製像よりも奥行きがあると共に、前傾した背中の 自然な丸みとその側面観の重視に特徴を見出すことができる。このような造形感覚は平壌 平川里発見像や下半身のみ現存する慶州松花山麓発見の石造大像にも見られるらしい。 同様に7C 前半の製作である、小倉コレクションの伝公州出土像も同様な造形感覚で作 られているが、表現に多少の穏やかさあり、衣文も自然な動きであるという。次いで、岩 崎和子氏は、それらに続く像として、旧徳寿宮像・旧博物館像・奉化発見像のような、写 実的表現や彫刻的表現に手慣れた作品を位置付けている。 最後に、磨崖像を見ておくことにしよう。制作地から動いていないことで、大変貴重な 造形である。さて、断石山神仏寺石窟磨崖像群の薄浮き彫りによる菩薩半跏像は古新羅の 物で、銘文から弥勒如来であるということが分かっている。この半跏像は岩面の7体の中 で、唯一正面向きの像であり、他6体は東への方向性を持って主尊弥勒・弥勒半跏像の方 を向いている。この半跏像の意味するところは、田村圓澄氏が弥勒如来と弥勒半跏像の意 味の違いを解釈した、中原磨崖半跏像(=古新羅・忠州郊外。)の持つ意味合いに近いと岩 崎和子氏は考えている。ところで、百済にも瑞山郡雲山面磨崖三尊脇侍像という造形が残 されている。動きはないものの、丸みのある顔立ち・豊かで優しい体躯をしており、立体 的な肉体把握が為され、触知的視覚活動がすでに始まっている。6C にはこうした特徴は 見られないので、中国北斉の影響を受けて、7C初頭に製作したものと推測されている。 以上の検討から、作例の少ない高句麗は別として、彫刻における根本的な造形活動におい ては、百済・古新羅がほぼ同様の発展経過を遂げてきたと言える。そのうえで、例えば百 済の微笑、百済後期の柔らかさ・優しさを主調とした作風、新羅の金属工芸といった個々 の特徴が、それぞれの地方性・国民性・風土・宗教形態の影響を受け、プラスアルファー 的に形成されていったのではないかと、岩崎和子氏は主張している。一方、姜友邦氏は瑞 山磨崖仏と拝里三尊仏の比較から、新羅の造形性の特質が、稚拙さ、土俗性、ユーモア、 矛盾の共存、鈍重さ、マッス的処理、未完成にあると述べ、同時に百済の造形性を完全な 構成美、洗練美、開放性、精彩と論じている。しかし、岩崎和子氏は泰安磨崖仏(=百済。) との比較だったら、果たしてこれほど顕著な差が出るのだろうかと、姜友邦氏に対して懐 疑的な見解を示している。 では最後に、田村圓澄氏の「半跏思惟像の諸問題」に基づいて、検討を進めていく。 まず、朝鮮半島三国の仏教伝来の過程を追っていくことにしよう。高句麗の仏教伝来は、 小獣林王2年(372)、宗主国の前秦符堅王から臣従国の小獣林王へ仏像・経典・僧が下 賜されたことに由来する。その後間もなくして、符堅王の命により、高句麗の都丸都で寺 院が建立される。高句麗は、故国原王25年(355)に燕の冊封体制に入ったのだが、 以後中国王朝との冊封関係は継続していくことになる。故国原王40年(370)に前秦 によって燕は滅亡したが、当時すでに高句麗と宗主国の関係にあった前秦の命を受け、故 国原王は燕への攻撃に協力している。この前秦の下賜は、いわば燕の討伐に協力した忠誠

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への嘉賞に他ならず、前秦としても宗主国の王の立場を強化する絶好の機会であったに違 いない。また高句麗が仏教を受容することも、対外的には前秦従属の証であると共に、国 内的には貴族層の仏教受容の問題でもあり、臣下である貴族層の掌握の証として、国王の 地位や威信の強化に大きく関わっていた。古代において仏教は王権と強く結び付いており、 仏教受容は信仰の問題であるというよりも、対外的・対内的な政治問題の色彩が強かった。 ところで、都を長安に置く前秦では、道安・僧朗・鳩摩羅汁・僧伽跋澄・竺仏念などの西 方の訳経者が集まっており、仏教が隆盛していた。事実、前秦は西域への関門に当たる敦 煌を押さえていた。鳩摩羅汁が前秦に連れてこられたのも、符堅王の亀玆討伐に伴っての ことであった。 次に百済における仏教伝来は、文献資料においては明らかではない。ただ近肖古王27 年(372)∼中国国南朝との冊封関係が始まっていることや韓国忠清北道南道公州邑宋 山里の武寧王・王妃の陵墓の内部が蓮華文様の塼(=煉瓦。)で飾られていたり、副葬品が 蓮華文様・忍冬文様といった仏教的色彩を帯びていたこと、さらに公州の大通寺が武寧王・ 聖王(6C)時代には創健されていたことを鑑みて、伽藍仏教としてはおそらく百済東城 王・武寧王(5∼6C)時代に、中国南朝斉・梁から百済王権へ伝来したものと推測され ている。 最後に新羅の仏教公伝であるが、新羅の場合、私伝仏教が公伝仏教に先行している。そ れは祗王(5C)時代のことであり、高句麗僧の墨胡子が一善郡(=韓国慶尚北道善山。) の毛礼家に仏像安置したと伝えられている。この毛礼の私伝仏教が、新羅の王女発病に伴 って、訥祗王宮廷に伝わったのが、新羅における仏教の起源とされる。さて、それから4 代後の法興王(6C)が仏教信奉表明しているものの、当初は群臣貴族層の反発があった。 僧徒の服装容儀が異なるということと議論が奇弁で常道を外れているというのが、群臣貴 族層の主な反発の原因であった。王は苦しい立場に立たされたが、近臣、異次頓の殉死を 機に、貴族の態度は一変し、次々と崇仏派となったらしい。新羅ではこの時代に、興輪寺・ 皇龍寺建造開始されると共に、覚賢のような学問僧が梁へ赴いていくこととなる。さて、 新羅が北斉へ使者を送り、中国の冊封体制下へ入っていくのは、真興王26年(565) のことであった。それまでに新羅は、真興王12年(551)に高句麗領へ進攻し、漢江 上流地域の占領を果たしている。また、真興王14年(553)には、漢江下流の百済領 を併合し、新羅は党項(=南陽。)を、中国王朝を結ぶ海港として確保している。さらに、 真興王23年(562)には大加耶(=高霊。)が滅亡、新羅は加羅領有をも実現した。こ うした過程を経て、新羅は中国との冊封関係を結んだ訳だが、一度冊封体制内に入ると、 中国先進文化・文物を自国内へ積極的に移入していったという。 ところで、李基白氏は新羅における仏教の役割を次のように分析している。すなわち古 代新羅では、原始的な樹林崇拝が行われていたが、その信仰は在地性と割拠性とを基調に しており、聖地分散と閉鎖性にその特色があったという。しかし、そのような信仰の性格 では、政治統一の精神的基盤、つまり国家的宗教とは成り得ず、むしろ反王権的な性格で

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さえあったようだ。そこに仏教受容の役割があったのだと、李基白氏は指摘する。つまり、 仏教は出世間の仏・菩薩を礼拝の対象としており、地域の閉鎖性・種族対立克服の国家統 一原理を内在していたのである。その結果、例えば天鏡林が興輪寺に、神遊林が四天王寺 にというふうに、樹林信仰の聖地が突如寺院伽藍に変化したり、あるいは巫覡が僧尼にな ったような例もあったらしい。ただ双方の信仰は元々、別次元の話であって、同一平面上 での移行としてこの変化をとらえるべきではないだろう。このように伽藍仏教としての国 家仏教は、王権の拡大・強化に大きく寄与したのである。 さて、ここからは韓国の半跏思惟像について、検討していくことにしよう。韓国の半跏 思惟像で現存する像は33体あり、それを発見地で区別すると、出土地不明が9体、高句 麗像が1体、百済像が10体、新羅像が13体ある。また、制作年代としては、6C 後半 を上限とし、7C 中葉・後半を下限としている。8C 中葉1体の例外はあるものの、約1 C 半という短期間に集中している。これは仏像制作が仏像信仰の動態に対応しているとい う面からも改めて検討されねばなるまい。さて、百済・高句麗の事情は不明な点が多いの で、ここでは新羅を中心に話を進めていく。「三国遺事」の新羅弥勒像一覧によると、8C にも上生信仰としての弥勒菩薩像、下生信仰としての弥勒如来像が製作されていたようで ある。ただし、中国・日本の例からも分かるように、新羅の半跏思惟像が、全て弥勒信仰 の対象であったとは断言できない。まず、法量(=仏像寸法。)から半跏思惟像を分類する と、27石碑像(=百済滅亡後製作。忠清北道燕岐郡全東面多方里。)、碑巌寺28石碑像 (=百済滅亡後製作。忠清南道燕岐郡西面月河里。)、蓮花寺31磨崖像(=慶尚北道月城 郡内東面南山里。8C 製作。)を除いては、仏殿の主尊として奉安されていた、80cm以 上の大形像と携帯・移動に便利で、家宅に安置されたり、礼拝供養に適する個人の身辺に 安置されていた念持仏・守護仏など、それ以下の小形像とに分けることができる。 さて、百済半跏思惟像は10体中6体が23cm以下の小形であり、これは個人の信仰 を中心に仏教が成立していたという事実を物語っている。現時点で百済に確認される、8 0cm以上の大形の半跏思惟像は、三尊像脇侍の30忠清南道瑞山郡雲山面龍賢里の磨崖 像1体のみであり、主尊となる大型の半跏思惟像は、百済から全く発見されていない。 像高80cm以上の大形半跏思惟像は全て新羅に集中している。例えば、3銅像(=国 立中央博物館蔵・国博像。)、4銅像(=国立中央博物館蔵・徳美像。)、25石像(=慶州 市松花山。)、26石像(=慶尚北道奉化郡物野面北枝里亀山洞。)、29磨崖像(=慶尚北 道月城郡西面断石山雨 谷)32磨崖像(=忠清北道中原郡可金面鳳凰里。)などが挙げら れる。 ところで、新羅における半跏思惟像の信仰は、国都慶州に止まらず、小白山脈南麓・漢 江上流域にまで及ぶものだった。人々は半跏思惟像信仰の同信集団を形成して、人的結合 を図ったのである。慶州興輪寺の弥勒主尊の堂には、僧真慈が弥勒像に祈願した花郎出現 の文言が残されている。この花郎とは美しい青年を意味する語で、真興王が組織した新羅 固有の青年貴族集団首領を指し、国家的社会的教育を受ける組織、歌舞遊娯を行う社交ク

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