技 術 ノ ー ト
(No.40)
特集:隅田川
社団法人
東京都地質調査業協会
〒 101-0047 東京都千代田区内神田 2-6-8
TEL (03)3252
-
2963 FAX (03)3252
-
2971
ホームページアドレス
http://www.tokyo-geo.or.jp/
目 次
発刊にあたって
技術トピックス「隅田川」
1.はじめに
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
1−1 隅田川の成り立ち
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
1−2 隅田川の歴史的背景
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4
1−3 隅田川の周辺について
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7
2.隅田川の地形・地質概要
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
2−1 河川の変遷
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
2−2 隅田川に沿った地形・地質
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
2−3 自然環境
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
3.こころの中の隅田川
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
3−1 人と隅田川の関わり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
3−2 隅田川周辺の旧跡
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
3−3 周辺の観光スポットの紹介
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
4.隅田川に架かる橋
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
4−1 橋の名称由来と歴史
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
4−2 橋の構造と文化について
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
4−3 代表的な橋の景観と文化
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
5.隅田川と洪水
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
5−1 洪水の歴史
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・32
5−2 水門
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・34
5−3 防災への取り組み
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・36
6.まとめ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
6−1 隅田川に関わるイベント
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
6−2 新東京タワー構想
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43
6−3 親水を踏まえた隅田川の将来像
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
<付録>隅田川周辺のグルメスポット
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46
発 刊 に あ た っ て
社団法人東京都地質調査業協会では、防災講演会、東京都防災展への出展、
情報誌「技術ノート」の発行などを通して地盤災害と都民生活との関わりにつ
いての広報活動を続けております。近年では、環境問題としての土壌汚染、温
暖化現象によると思われる風水害の増加など都市の地盤に関わる問題は山積し
ている状況にあると言えます。
昭和62年12月に創刊号を発行してから、今回で40号を迎える技術ノートは発
刊当初から地形・地質とそこに住む都民生活との関わりをテーマとして編集・
発行してまいりました。
その歴史の中では、都市の生活文化に密接に関わる地震災害、風水害、斜面
災害との戦い、インフラ整備の変遷が浮彫りにされてきたように思います。
前号の「東京の地名と地形」では、江戸から東京に改称された明治維新以来
の地名の変遷、地形や地質に由来する地名から、地震災害、水害、防災などと
日常生活との関わりを紹介してまいりましたが、今回は「隅田川」をテーマと
して、江戸以来の隅田川と共に育まれた庶民生活・文化の変遷について紹介し
ております。
本誌のタイトルは「技術ノート」となっておりますが、内容は読者に分かり
やすく、興味を持って読んで頂けるように編集されております。この冊子を通
して隅田川が都民の生活文化の形成に計り知れない影響を与えたかを知り、そ
の魅力をご理解いただければと思います。
平成 19 年 11 月
社団法人東京都地質調査業協会
会 長 大 越 良 裕
1.はじめに 「春のうららの隅田川∼♪」、今回の技術ノートのテーマが「隅田川」と決まり、編集 会議をしていた時に、無意識に口ずさんでいたのはこの唄である。 唱歌「花」のフレーズにも盛り込まれる隅田川は、自称「江戸っ子」あるいは東京在 住の人々のこころの故郷として、柔らかな安らぎを与えている。 隅田川をこよなく愛した文学人、芥川龍 之介は、作品「大川の水」に、「大川の水 の色、水の響きは我愛する東京の色、自分 は大川(隅田川)あるが故に東京を愛する ……」といった隅田川に対する郷愁の思いを綴っている。 奥秩父を源とする荒川から、北区の新岩淵水門付近で分かれ、東京湾に注ぐ隅田川は、 いつの時代も東京に暮らす人の母なる川といっても過言ではない。 東京の中央部分を貫流する隅田川は、昔は江戸の中心地として栄え、その後明治に入 ってからは、工場が乱立する時代となり、その結果工場廃水にまみれ、荒廃した環境に さらされながらも、現在ではそれを乗り越え東京の象徴的な存在にまで至っている。 また文化面からしても、川に因んだ「花見、船遊び、花火、祭り」などの行事は、「早 慶レガッタ」のように復活したものも含め、隅田川の文化財的な存在価値をより高めて いるといえよう。 写真1 隅田川と橋(手前:永代橋)2) 図1 隅田川の分類1) (晴海運河) 岩淵水門
そこで、今回は東京の母なる川「隅田川」を取り上げ、その歴史あるいは用途、環境 などを紐解き紹介する。 1−1 隅田川の成り立ち <隅田川の現在> 隅田川は、北区にある岩淵水門で荒川 か ら 分 岐 し た 後、 新 河 岸 川 を 合 流 さ せ、 東京都沿岸7区(北、足立、荒川、隅田、 台東、中央、江東)のほぼ区境を流下す る荒川水系の1級河川である(図1)。昭 和39年(1964)に制定された河川法改正 により赤羽の岩淵水門より下流が隅田川 と定義され、以降多くの橋がかけられて きた。流路長23.5km流域面積は新河岸川 を含め690.3km2であり、流域人口は全体で約300万人にも達しているという。 流下する地域は、いわゆる東部低地帯と称される軟弱な地盤で構成されていて、地盤 沈下などの問題も抱えている。 特に隅田川左岸(東側)の地盤面の大半は、高潮の脅威にさらされる地域でもあるこ とから、現在は水害に備えて「テラス護岸」などの治水事業が勢力的に進められている ところである。なお、隅田川の川底の高さは、日本の海抜標高TPの原点になっている ことはあまり知られていない。 これは隅田川の川底を0m(AP ±0m)とした霊岸島量水表(図 2) で 観 測 さ れ た 当 時 の 東 京 湾の平均潮位(AP隅田川川底 +1.134m)がTP±0mとして設 定されたことによる。現在の水 準原点は国会議事堂前にある日 本水準原点(TP+24.414m)で ある。 <隅田川の河道の変遷> 隅田川の河道は、利根川と渡良瀬川・鬼怒川の総合改修から銚子へ流下させたいわゆ る利根川の東遷、また併行して行われた荒川の瀬替えである西遷の河川改修に大きく影 響を受けている(図3)。 図3 利根川の河川改修4) 図2 水準点と隅田川の関係3)
本来、利根川水系であった隅田川は、荒川の瀬替えによる荒川水系への変化、さらに 洪水対策のための荒川放水路の完成、これによって荒川の正式名称が放水路側に決定 し、隅田川の呼称される領域が決定した経緯がある。 隅田川は伊勢物語などにも登場した古くからの河川で、江戸時代は千住付近では千住 川、浅草付近では浅草川、荒川、宮戸川などと呼ばれていたが、明治の初期には特に両 国橋より下流部では大川という名称が一般的だったようである(下流の川辺を大川端と 称した)。明治時代の古地図(図-4①)には、新大橋∼永代橋付近に大川の記述が残さ れていたことも興味深い。 また、明治42年(1910)の古地図には、千住付近に古隅田川の流路の記載がある。 一方で埼玉県のさいたま市岩槻区から春日部市梅田まで緩やかに蛇行して流れる河川も、 古隅田川として一級河川に分類されていて、かつての隅田川の呼称範囲の広さを物語る。 図4 隅田川に関わる古地図5) ①明治13年古地図 ③江戸時代の海岸線3) ②明治42年古地図
このような資料から、千住付近の古隅田川が合流する部分より東京湾までの下流側 が、概して荒川の「瀬換え」以降の隅田川分類になるものと推定される。以前の隅田川 の河道は、より上流の分類と、合流する河川の多さ、瀬替えの変遷によって様々な諸説 があるようである。 一方、隅田川と荒川の分岐から始まる現在の荒川(荒川放水路)は、明治40,43年の 大雨を契機とした洪水対策の目的で、大正2年から昭和5年にかけて掘削された人工河 川であることは広く知られるところである。 1−2 隅田川の歴史的背景 隅田川は、江戸時代に河川と運河により形成された、舟運流通のネットワークの主要 部として利用され、日本橋川の魚河岸との合流部としても重要な位置を占めていた。 さらには、屋形船や釣り船、猪ちょ牙き舟ふね、渡し船などの川遊び、堤防での花見、川開きの 花火見物(図5)も盛んになっていった。江戸時代の大名や豪商は船遊びを競い合い、 屋形船を仕立てて川にでることは一種のステータスシンボルだったのであろう。船遊び はよほど江戸っ子の趣味に迎合したようであり、小旅行も船を利用して行われたとい う。 船といえば、江戸幕府の豪華な御座船「安あ た け宅丸まる」が、江戸時代最大の軍艦として伊豆 で建造され、寛永9年(1632)に安宅河岸(現在の新大橋付近)に係留された。長さ 53mもの豪華船であるが、実用はされず50年もの間係留された後、解体されたという。 その後、明暦3年(1657)の大火では、隅田川にかかる橋が軍事目的から、千住大 橋のみとされていたため避難経路を断たれ、大惨事を引き起こした教訓から、以降は両 国橋(大橋)、新大橋、永代橋、大川橋(吾妻橋)が次々にかけられていった。 特に、幹線道路の一部とされた両国橋などの効果から、本所、深川方面に人、物資の 流通が盛んになり、隅田川の両岸には多くの人が集まるようになっていった。 図5 江戸の隅田川、両国橋1) 出典:葛飾北斎「絵本隅田川両岸一覧」
中でも現在の蔵前1丁目から2丁目に かけて米蔵の用地が造成され、幕末には 60棟 も の 米 蔵 が 立 ち 並 ん で い た こ と か ら、御蔵前の地として蔵前と呼ばれた(図 6赤線範囲)。 この米の売買は旗本に代わって「札ふださし差」 が 行 い、 中 に は 大 富 豪 も 続 出 し た。 彼 ら は 吉 原 で 派 手 に 遊 び ま わ る な ど し て 「十じゅうはち八大だいつう通」といわれる遊びの通人まで 現れたという。 また、隅田川べりに夏を呼ぶ川開きは、旧暦5月28日に始まり、8月28日に終わるが、 この川開きに合わせて約260年もの伝統を持つ両国の花火が行われていた。現在5月28 日が花火の日として設定されているのは、旧暦の隅田川の花火によるものである。時代 が刻々と刻まれてく中、隅田川はこのような江戸時代の文化や生活に密着しながらその 文化の中心になっていった。 その後、幕末の黒船の来航から、明治維新を経て富国強兵として国力増強が推進され る時代の変化にあって、江戸の流通を支えた舟運は明治政府の河岸の官営工場への接収 によって縮小されていった。これに替わって鉄道が輸送の手段として役割が大きくなる 一方で、水運の役割は急激に低くなっていった。 昭和に入り第二次世界大戦∼終戦となって、経済の急激な高度成長を遂げる影で、自 然環境を無視した有害な工業排水の増加は、隅田川の水質を悪化させ、隅田川はいわゆ る「ドブ川」に変化してしまった。 「生き物は生息できない」とまで言われ、悪臭のために川に近寄ることも避けられ、 さらに洪水・高潮対策の治水工事による防潮堤などの建造から川が目隠しされたことで、 人々の生活からも隅田川の存在が 切り離されていった。しかし、最 近になって浮間浄水場の建設や下 水道普及や河川整備により水質改 善(図7)は如々に成果を遂げた た め、 平 成15年 度 の 調 査 で は17 種の魚類の生息が確認されるとと もに、さらには大学対抗ボートレ ース「早慶レガッタ」が昭和53年 より復活している。 図6 江戸切り絵図6) 図7 下水道普及率と水質の浄化1)
以下、隅田川の歴史をたどる意味で歴史的な出来事を表1に整理してみる 表1 隅田川関連の歴史年表(最近の橋の架橋は後述) 時 代 内 容 内 容 江戸以前 隅田川 改 修 利根川、荒川、入間川の支流として変遷 1594 隅田川 千住大橋 架橋(代官頭伊奈忠次による) 1594 ∼1654 江 戸 時 代 隅田川 利根川東遷事業 会の川締め切り∼赤堀川通水(利根川流路変更)完了 1629 隅田川 改 修 荒川付け替え(利根川支流から荒川支流へ) 1641 隅田川 木場 日本橋の大火により木場を深川に移す。 1644 隅田川 佃島 鉄砲洲対岸干潟を埋め立て佃島となる。 1657 防災 火 事 明暦の大火(下町一帯も焦土化)回向院に埋葬 1658 隅田川 両国橋(大橋) 明暦の大火を受けて橋の複数化構築 1661 隅田川 本所の開発 掘割開削し、湿地を埋め立て道路整備 1693 隅田川 新大橋 架橋 1698 隅田川 永代橋 架橋 1702 文化 永代橋 赤穂浪士の泉岳寺入りに吉良家から渡橋。忠臣蔵 1707 防災 江戸全体 富士山噴火(宝永の大噴火)雪のように降灰 1714 文化 隅田川 吉原の遊郭通いの猪牙船、贅沢を理由に禁止。 1717 文化 隅田川堤桜植樹。隅田川の桜餅(山本屋)の普及。 1729 隅田川 改 修 隅田川と利根川の分離工事 1733 防災 川開き 川開き1732凶作犠牲者慰霊を目的として5/28実施し た水神祭りが川開き花火が始まり 1742 防災 洪水 隅田川大洪水、溺死者3800人 1763 文化 両国橋付近 船遊びなどで両国橋付近が賑わう。 1766 防災 洪水 7月江東方面、小日向周辺で洪水 1774 隅田川 吾妻橋 架橋 1781 防災 洪水 大 雨 出 水、 千 住 大 橋、 新 大 橋、 永 代 橋、 大 川 橋 破 損。 翌年も大雨により破損 1803 防災 火事 隅田川花火船に引火、川に避難した玉屋の息子溺死 1807 防災 事故(永代橋) 深川富岡八幡宮の祭礼で橋が崩れ、1500人余り死亡。 1830∼ 文化 花見 桜堤の賑わい最盛期(∼1844頃) 1843 防災 火事 両国橋上流の花火屋玉屋から出火し、所払いとなる。 1861 隅田川 架橋 隅田川に架かる4橋に番所ができる。 1896 明 治 隅田川 河川名称 河川法に基づき荒川と認定 1897 防災 両国橋 川開き花火で高欄崩壊、数十名死傷者 1902 文化 文学 幸田露伴 水の東京 1905 文化 行事 早慶レガッタ開始 1909 文化 文学 永井荷風「すみだ川」発表 1913∼ 大 正 隅田川 荒川放水路 隅田川分岐(∼1930) 1914 文化 文学 芥川龍之介 「大川の水」発表 1923 防災 関東大震災 1937∼ 昭 和 文化 戦前最後の川開き花火、(∼1948)復活 1961∼ 文化 S36早慶レガッタ中止(荒川、戸田へ)∼1978 1964 隅田川 架橋(佃大橋) 近代橋の中の最後、佃大橋架橋 河川法改正 現流域の隅田川の正式に命名 1966 隅田川 渡し 汐入の渡し廃止、1964佃の渡し廃止 1970 隅田川 架橋(勝鬨橋) 勝鬨橋可動部利用の最後S45 1978 文化 隅田川花火大会17年ぶり復活、早慶レガッタ復活 *2007:隅田川に架かる3橋(清洲、永代、勝鬨)が国の重要文化財に指定。 注)網掛け:文化・防災
1−3 隅田川の周辺について 隅田川周辺には、川に起因した数々の名所がある。それらは江戸時代ゆかりのものが 多く、江戸文化を継承している場所が大半であり、近代化の波に飲まれた結果、伝説と してのみ存在する場所も多くなってきている。 隅田川の魅力は、まず下町の江戸っ子のイメージ、川開き花火、大相撲、川遊び、文 化、演芸、渡し船、七福神、柳橋花街、本所、深川、吉原、水上バス、漕艇、寺社、祭り、 橋などが挙げられ、非常に多岐に渡る。 以下、これらの隅田川に関係した代表的な名所、いわれのごく一部を紹介する。 ①隅田川に架かる橋:千住大橋に始まり、明暦の大火により架橋された両国橋、永代 橋、新大橋、吾妻橋の5橋が江戸時代に架けられて以降、現在では鉄道、高速道路を含 め36もの橋が架かっており、橋の品評会いわゆる橋のギャラリーとして名所になって いる。反して、橋の架橋に伴う渡し船の衰退も隅田川の歴 史である。 ②渡しは江戸時代戦略上の問題から、隅田川への架橋は 実施されなかったことから、渡しが増え続け20以上もの数 になっていたが、橋の架橋に伴い汐入の渡しを最後に廃止 された。主な渡しには、山の宿の渡し(現隅田公園内)、佃 の渡し(現佃大橋付近)、熊野の渡し(尾久橋)などがある。 ③隅田川七福神:江戸時代、隅田川七福神は蜀しょく山さんじん人らで 創始され、隅田川べりの散策コースとして人気を集めた。 恵比寿・大黒天(三囲神社)、布袋尊(弘福寺)、弁財天(長 命寺)、福禄寿(百花園)、寿老人(白鬚神社)、毘沙門天(多 聞寺)である。 ④祭り:三社祭の起源は、1300年以上も前、隅田川で漁をしていると、観音像が網 にかかったため、発見した檜前兄弟、鑑定した土師真仲知がお堂で観音様を祭ったこと による。この3名を祭神としたのが三社さまの浅草神社である。三社祭は、観音様が網 にかかった旧暦の3月18日を新暦に置き換えて、現在は5月に行われている。 ⑤吉原:幕府公認の遊郭が日本橋に誕生(元吉原)したが、明暦の大火で消失したこ とから、浅草(現千束3∼4丁目)に移転(新吉原)が命じられた。周囲にお歯黒溝どぶと 呼ばれる幅2間程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界か ら隔絶されていた。茶屋を通さないと上がれない格式ある店から、路地裏にある小店ま での序列があった。大店は社交場としての機能もあった。 写真2 渡しの跡
⑥花柳界(柳橋、深川):神田川と隅田川との合流部で神田川の最下流位置に架けら れた柳橋であるが、この周辺に深川芸者が移り商売を始め、柳橋芸者が誕生した。深川 芸者は気風が良く、男物の羽織を引っ掛け座敷に上がっていたという。 ⑦梅若伝説:平安時代、梅若丸は人買 いにかどわかされ、隅田川のほとりで重 病にかかったため隅田川に捨てられ、12 年 の 生 涯 を 閉 じ た。 地 元 の 人 が 塚 を 建 て供養したが、それを知った母は出家し て、庵をかまえて我が子の霊をなぐさめ ていたものの、世をはかなんで池に身投 げした。梅若伝説は古典芸能に大きな影 響をあたえた。塚は梅若塚、それを守る ために建てられたものが梅柳山木母寺で ある。 ⑧隅田川の水ごり:汚濁のひどかった昭和30∼40年台の隅田川からは、浄化が進ん だとはいえ、現在の水質での水ごりは考えにくい。しかし、かつて両国橋の東岸は「向 こう両国の垢こ り ば離場」として大山参りにいく人々の水ごりとして、一日千回の水ごりを一 週間続けることが行われていた。 ⑨回え こ う い ん向院:明暦の大火の犠牲者の埋葬する ため万人塚が建立された。両国にある本所回 向院である。安政地震の死者、刑死者、無縁 仏も埋葬する。有名なところではねずみ小僧 の墓がある。墓石の破片を持っていると賭け 事に強くなるジンクスから、欠き易い墓石が 本物の前に建っている。 天明元年(1781)以降には、境内で勧進相撲 が興行された。これが今日の大相撲の起源と なり、旧両国国技館が建てられるに至った。 ⑩花火:隅田川の花火は、毎年7月の最終土曜日に行われ、言問橋や駒形橋付近から の打ち上げになっている。享保18年(1733)水神祭りのため両国大川の水神祭りの催 しで始まった。両国橋下流が鍵屋、上流が玉屋の担当で玉屋の人気が高かった。がぎや、 たまやの掛け声はこの時代のものである。 このように隅田川は、地域に根付き、歴史上の舞台の主人公、文学、演芸の舞台にも なり、江戸っ子のこころの拠り所である。2章からは違った角度から隅田川を紹介する。 写真4 ねずみ小僧の墓 写真3 木母寺梅若塚
2.隅田川の地形・地質概要 2−1 河川の変遷 隅田川が流れる東京低地は、約6000年前の縄文海進の時代、奥東京湾と呼ばれる海 域が、現在の東京の下町や埼玉県南部付近まで広がり、水の流れの影響が少ない海域に は、シルトなど細粒な土を主体とする地層が厚く堆積した。この地層は有楽町層と呼ば れるが、形成時代が新しく地層の圧縮が進んでいないため、非常に軟らかい地層である。 この地層の堆積により、平坦な地形面(下町低地)が形成されたが、この奥東京湾の 凹地を形成したのは古東京川によるものである(図8)。 その後、海水面の低下とともに海域は後退し、河口のデルタ地帯には自然堤防や後背 湿地などが形成された。しかし、河川勾配が緩やかな河口に近い下流部における河川流 路は蛇行しやすく、洪水時にバイパスのように自然堤防を乗り越え、河川流路はランダ ムな動きを見せて変化したものと推測される。 現在、われわれが目にする河川は、長年の治水事業により、洪水に見舞われることが 少なくなり、川が初めからそこを流れているように感じるが、自然の河川は流路を変化 させることが自然な姿といえる。 一方、河川が人間の生産の場に関わるようになると、河川は舟運という重要な役割を 担い、また、農業生産や生活の場である背後地を洪水から防ぐ目的で人の手によって流 路は変遷を行うようになってきた。 現 在 約6000年前 (縄文海進) 約2万年前 (最終氷期) 約12万年前 (最終間氷期) 図8 古東京川と奥東京湾7)
隅田川について見て見ると、隅田川はかつての荒川のことを言い、縄文時代には、図 9に示すように、利根川の支流として流下していたようである。天明3年(1783)に 浅間山で大噴火の発生により、上流 に形成された堰止湖は、それに続く 地震により決壊し、その泥水は利根 川を流れ下り、前橋から伊勢崎付近 までを荒廃させ、多数の犠牲者がで た。さらに、洪水は荒川(隅田川) を流れ下り、両国付近にまで達した と言われる。両国回え こ う い ん向院にはこの惨 事を供養する石塔が存在し、隅田川 がかつての利根川水系であったこと を伝えている9)。 一方、中世∼江戸初期の隅田川河口は今より上流にあり、図10に見るように、日比 谷入り江や佃島などの州が発達し、現在の河口付近は海であった。ところが、その後の 江戸の町の発展とあいまって埋立工事が進み、図11に示すような多くの河岸を擁する 運河が数多く建設されている。 図9 縄文時代後期の荒川8)(一部加筆) 図10 江戸湊の周辺10) 利根川 図11 江東地区の河岸10) 荒川 荒川(隅田川) :自然堤防
ところで、この利根川は現在、東京湾ではなく千葉県銚子で太平洋に注いでいる。これは、 1章でも述べたように「利根川の東遷」と呼ばれた江戸幕府の軍事的な事業であり、埼玉 県東部平野の開発、江戸の水害防止、舟運の確保を目的とした政策であったと言われる。 また、同様に荒川でも「荒川の付け替え工事」が行われた。これは、埼玉県越谷付近で 利根川と合流していた荒川を、寛永6年(1629)に熊谷市久下で締切り、新しい河道を 掘削して入間川に合流させたため、荒川の洪水が直接隅田川に押し寄せるようになった2)。 洪水対策は、逆八の字に配置された「隅田堤」と「日本堤」が行われ、洪水流量を調節し、 下流で氾濫が起こらないようにしたが、逆に上流の遊水池で洪水が生じるようになった。 明治43年(1910)、都市化の進む流域に大洪水が発生したが、これを契機に荒川放水 路の建設が着手され、昭和5年(1930)に20年の歳月をかけ完成した。昭和40年(1965) の政令により荒川放水路が正式に荒川となり、岩淵水門より下流は「隅田川」となった。 2−2 隅田川に沿った地形・地質 隅田川流域の地形を見ると、図12に示すように、上流側は隅田川によって運ばれた 土砂が堆積してできた下町低地と呼ばれる三角州性の海岸平野であり、ところどころに 自然堤防でできたやや高い場所があるものの、ほとんど起伏のない平坦面である。永代 橋より下流の東京湾周辺は、江戸時代より現在まで続いた埋立てにより、陸化した地域 である。この地域は、地下水の汲み上げによる地盤沈下が著しく、最近では汲み上げ規 制により沈下傾向は収まっているが、標高が海面より低い地域となっている。 図12 東京の地形分類図 凡 例 三 角 洲 海 岸 平 野 豊 島 台 目 黒 台 久 が 原 台 自 然 堤 防 砂 洲 埋 立 地 旧 河 道 本 郷 台 河 谷 底 氾 濫 平 野 淀 橋 台 荏 原 台
− 12 − 図 1 5 隅 田 川 の 地 質 1 1 ) 地 質 断 面 図 に 隅 田 川 を 加 筆 、 地 形 区 分 図 は 「 東 京 地 盤 図 」( 東 京 都 ) よ り
隅田川に沿った地質図は、技術ノート第7巻に縦断図があるので、これをご覧いただ くとして、ここでは、深部地盤図(東京都)の新知見も加えその地質的特徴を見てみよう。 まず、隅田川が流れる東京低地であるが、この低地の始まりは、今から2.2万年前の最 終氷期に海水面が低下してできた谷地形が関係している。図13に沖積層を剥ぎ取って見 られる埋没地形を示すが、この図で見るように「古東京谷」と呼ばれる谷が東京低地部を 深く掘り下げているのが見て取れる。また、この深い谷と台地部の間の斜面部には、谷 が1枚の斜面を作らず、等高線(等深線)が張り出し、地下に埋没した平坦面を持ってい ることがわかる。この平坦面は、海水準が 一定期間安定した時期に形成されたかつての 波侵台面や埋没した河岸段丘面である。 地 質 横 断 図( 図14)で 見 る よ う に、 隅 田 川は古東京川の右岸(西側)にあり、本郷 台等の洪積台地に近く、これらの埋没段丘 面の付近を流れていることがわかる。 古 東 京 川 で は40∼70m に 及 ぶ 沖 積 層 の 堆積が見られるが、隅田川周辺では沖積層 厚 は25m 前 後 と 薄 く な っ て い る。 表 層 に は有楽町層上部の砂質土、以下に有楽町層 下部の粘性土が続き、以深には埋没段丘礫 層が見られる。基盤は下総層、上総層に相 当する地層が、地殻変動により傾斜、褶曲 状の分布をしている様子が伺える。 図13 東京湾と周辺部の沖積層の基底7) (隅田川を加筆) 図14 B ー B’(図13中)地質断面7) 1:砂礫 2:砂 3:粘土・シルト 4:関東ローム 5:表土・盛土 6:腐植土 7:植物 8:貝殻 9:沖積層基底 BG:沖積層基底礫層、LS:下部砂層 LC:下部泥層 MS:中間砂層 UC:上部泥層、US:上部砂層 図中の数値はN値 隅田川 隅田川 B B'
2−3 自然環境 隅田川は首都東京の真ん中を流れる河川であり、日本の高度経済成長期“公害”と呼 ばれた環境汚染の影響を大きく受けた河川のひとつである。昨今では、多摩川や内陸部 の河川では、利水や防災のため、完全に自然の状態に戻すことはできてはいないものの、 かつて生存していた生き物が復活したり、BOD(生物化学的酸素要求量)の値が前年 より更に改善されたなどの話題が多い。 隅田川についても、その水質が気になるところであるが、隅田川の地形的な特徴とし て水質面で不利な条件があるようである。すなわち、隅田川はほとんど勾配がなく、全河 川が潮の干満の影響を受けやすい感潮域となっており海水の遡上の影響をうけること、屈 曲部も多いことから河川水が滞留しやすい特徴がある。また、流域には隅田川に排水する 水再生センターや浄化センターが3箇所(平成18年現在)あり、河川水に占める下水処理 水の割合が高いことなどがあげられる。河川の水質は下水処理水の影響を強く受け、全窒 素の濃度が高いことが特徴であり(表2)、溶存酸素量が少なくなっているようである。 しかし、下水道の普及と利根川導水路事業による浄化用水の流入等により、現状では BODが5mg/L程度を推移するまでに改善されてきている(1章図7)。 隅田川の水質は両国花火大会や早慶レガッタが中止された昭和36年当時のBODの値 は37.8mg/Lで あ り、 生 き 物 が棲めない「死の川」と呼ば れた時代もあったが、現在で は水質が改善され、イベント の復活し、水上バスも行き来 するなど生活の場の一部にな っている。 平成9年度より水質はD類 型から水道3級、水産2級の C類型(表2)へと、次第に 改 善 さ れ て き て い る。 一 方、 大雨時には底泥の巻き上げに よる有機物の拡散が、微生物 を大量発生させ、酸素を消費 させてしまうためと考えられ る魚の浮上事故が発生してお り、更なる水環境の向上が望 まれている。 項目 類型 利用目的の 適応性 基準値 水素イオン 濃度 (pH) 生物化学的 酸素要求量 (BOD) 浮遊物質量 (SS) 溶存酸素量(DO) 大腸菌群数 AA 水 道 1 級 自然環境保全及 びA以下の欄に 掲げるもの 6. 5以上 8. 5以下 1mg/ℓ以下 25mg/ℓ以下 7.5mg/ℓ以上50MPN/100mℓ以下 A 水 道 2 級 水 産 1 級 水溶及びB以下の 欄に掲げるもの 6. 5以上 8. 5以下 2mg/ℓ以下 25mg/ℓ以下 7.5mg/ℓ以上1,000MPN/100mℓ以下 B 水 道 3 級 水 産 2 級 及びC以下の欄 に掲げるもの 6. 5以上 8. 5以下 3mg/ℓ以下 25mg/ℓ以下 5mg/ℓ以上 5,000MPN/100mℓ以下 C 水 産 3 級 工業用水1級及 びD以下の欄に 掲げるもの 6. 5以上 8. 5以下 5mg/ℓ以下 25mg/ℓ以下 5mg/ℓ以上 ー D 工 業 用 水 2 級農業用水及びEの 欄に掲げるもの 6. 0以上 8. 5以下 8mg/ℓ以下 100mg/ℓ以下 2mg/ℓ以上 ー E 工 業 用 水 3 級環 境 保 全 6. 0以上8. 5以下 10mg/ℓ以下 ごみ等の浮遊が認めら れないこと 2mg/ℓ以上 ー 備考 1. 基準値は、日間平均値とする(湖沼、海域もこれに準ずる。)。 (注) 1 自然環境保全:自然探勝等の環境保全 2 水 道 1級:ろ過等による簡易な浄水操作を行うもの 〃 2級:沈殿ろ過等による通常の浄水操作を行うもの 〃 3級:前処理等を伴う高度の浄水操作を行うもの 3 水 産 1級: ヤマメ、イワナ等貧腐水性水域の水産生物用並びに水産2級及び水産3級の水産生物用 〃 2級: サケ科魚類及びアユ等貧腐水性水域の水産生物用及び水産3級の水産生物用 〃 3級:コイ、フナ等、β−中腐水性水域の水産生物用 4 工業用水1級: 沈殿等による通常の浄水操作を行うもの 〃 2級:薬品注入等による高度の浄水操作を行うもの 〃 3級:特殊の浄水操作を行うもの 5 環 境 保 全 :国民の日常生活(沿岸の遊歩等を含む。)において不快感を生じない限度 表2 河川水質環境基準(参考)1)
表3 隅田川及び東京内湾における全窒素量1) 隅田川(小台橋) 東京湾内湾(st.5) 環境基準値(海域のみ設定) 平成10年度 11.1mg/L 2.90mg/L 1.0mg/L 平成17年度 9.361mg/L 2.64mg/L 1.0mg/L 水質が浄化されつつある隅田川の生物を「隅田川流域河川整備計画」から紹介する と、東京都の平成15年度調査では17種の魚類が生息が確認されている。ハゼ類、サッパ、 コノシロ、モツゴ等の魚類が存在しており、魚類の餌となる底生生物も多く確認されて いるようである(写真5)。 また、隅田川の周囲には鳥類の生息に適した荒川河川敷やヨシ原、公園等が存在し、 河口近くではユリカモメやカワウなどの海鳥類等が、岩淵水門付近ではカワウやサギ、 カモ等が多く見られるようである(写真6)。 写真6 隅田川で見られる鳥類1) 写真5 隅田川で見られる魚類1) ウナギ モツゴ ウロハゼ サッパ コイ科(Cyprindidae) マハゼ コノシロ ドジョウ アシシロハゼ カタクチイワシ ナマズ アベハゼ コイ アユ スジハゼ ギンブナ カダヤシ シモフリシモハゼ フナ属(Carassius sp.) スズキ ヌマチチブ タイリクバラタナゴ ブラックバス チチブ オイカワ ブルーギル チチブ属(Tridentiger sp.) ウグイ ボラ ハゼ科(Gobiidae) ウグイ属(Tribolodom sp.) ウキゴリ イシガレイ アブラハヤ ビリンゴ :「東京都の保護上重要な野生生物種」 出典:「河川水辺の国勢調査(平成15年)」東京都建設局 カワウ イソシギ ツグミ ダイサギ ユリカモメ セッカ アオサギ セグロカモメ シジュウカラ カルガモ ウミネコ アオジ コガモ ドバト オオジュリン オカヨシガモ キジバト カワラヒワ ヒドリガモ ツバメ スズメ オナガガモ イワツバメ ムクドリ ホシハジロ ハクセキレイ オナガ キンクロハジロ セグロセキレイ ハシボソガラス ハマシギ ヒヨドリ ハシブトガラス ジョウビタキ ※「東京都の保護上重要な野生生物種」は該当なし 出典:「河川水辺の国勢調査(平成13年)」東京都建設局
3.こころの中の隅田川 3−1 人と隅田川の関わり 芥川龍之介「大川の水」(大正3年)の一節“家を出て椎の若葉におおわれた、黒塀 の多い横網の小路をぬけると、すぐあの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ 出るのである。(中略)この大川の水に 撫愛される沿岸の町々は、皆自分にとっ て、忘れがたい、なつかしい町である。 ……青く光る大川の水は、その冷やかな 潮のにおいとともに、昔ながら南へ流れ る、なつかしいひびきをつたえてくれる だろう。”と書かれているように、かつ て隅田川は庶民の生活、食材としての魚 介類の供給、人や物の輸送路として深く 関わるだけでなく、こころの風景に残る 母なる“ふるさとの川”としての意味を 持っていた。江戸時代の隅田川は、街の中心を流れ東京湾へ繋がることから、運送業や 旅客業、屋形船や釣り舟、交通手段としての渡し舟、川遊び、堤防での花見、花火見物 等、庶民にたいへん親しまれてきた。また、江戸第一の歓楽地である浅草が近いことか ら、多くの庶民にとっての憩いの場所となっていた。しかし、明治時代以降の工業化に より水質が悪化し、洪水から住民を守るた めの防潮堤等の治水工事により、川岸まで 行っても水面を見ることが出来ない状況と なった。やがて人と川は、まったく離隔し た存在になっていった。 3−2 隅田川周辺の旧跡 隅田川周辺には、江戸時代から残る旧跡 や 昔 か ら な つ か し い ス ポ ッ ト が 多 く あ り (図17)、その一部を歩いてみよう。 (1)墨堤(墨田堤) 墨堤にある常夜燈は、明治4年(1929) 向島牛島神社へ行く坂の途中にあり、川舟 の安全をはかるための燈台と墨堤の燈明を 兼ねて建立された(写真7)。燈籠を目印 に花見客が集まり、ここで一息いれて散策 図16 明治時代の隅田川両国橋付近12) 手前が流れを弱めるための百本杭,両国橋上流左 岸(百本杭ノ三日月 井上安治 明治13(1880)) 図17 隅田川周辺の旧跡、スポット (地図:アルプス社、プロアトラスSV2に加筆) 天ぷら伊勢屋 見返り柳 山谷堀跡 日本堤 花やしき 待乳山 今戸橋 常夜燈 墨田堤 花の碑 竹屋の渡し跡 神谷バー 新東京タワー 駒形どぜう
していた江戸、明治時代の風情を回想させるもの である。江戸中期の享保年間(1716∼36)、徳川 八代将軍吉宗の命により隅田川河畔の墨堤に植樹 されて以来、上野と並び桜の名所となった。現在 も吾妻橋から桜橋間の両岸に広がる隅田公園を中 心に多くの人が繰り出している。 (2)山谷堀 江戸のころより山谷堀と呼ばれたこの水路は、 遊郭吉原への江戸中心部からの通い道であった。 粋人(遊び客)たちは神田川の最端部の浅草橋 や柳橋から船足の速い猪ちょ牙き舟(屋根のない細長 い小船)を仕立てて隅田川をさかのぼり、吾妻 橋をくぐってしばらく遡行してから左に折れて 今戸橋をくぐり、山谷堀を半里ほど進んで吉原 大門近くの土手(日本堤とよばれ、徳川二代将 軍秀忠が山谷堀に沿って高さ3mの防水堤を築 かせ、日本中の大名を動員したため日本堤と呼 ばれた)で舟を降り、衣紋坂と呼ばれる土手を 下りさらに五十間歩いて吉原大門の前に立った ものである。現在、堀は完全に埋め立てられ、 山谷堀公園となり、隅田川合流部付近に「今戸橋」の親柱が現存している(写真8)。 「竹屋の渡し」は、隅田川にあった渡し船のひとつで、 山谷堀口から向島三囲神社(墨 田区向島2丁目)付近を結んでいた。明治40年発行の「東京市浅草全図」では山谷堀入 口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「待乳の渡」 とも呼ばれた。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれている。 江戸時代、隅田川をのぞむ今戸や橋場一帯は風光明媚な地として知られ、さまざまな文 写真9 竹屋の渡し跡(今戸橋付近) 写真7 墨堤に現存する常夜燈跡 写真8 山谷堀の隅田川との合流 点にあった今戸橋親柱 写真10 花の碑(隅田公園内)
学や絵画の題材となり、その中に「竹屋の渡し」を描写したものも多い。昭和3年(1928) 言問橋の架橋にともない、渡し場は廃止された(写真9)。 この付近の隅田公園内には,“春のうららの隅田川” で有名な武島羽衣が作詞、滝廉太郎が作曲した「花」の 歌詞が刻まれている。この碑は「春のうららのすみだ河 上り下りのふな人が・・・」と詠んだ武島羽衣を偲んで昭 和31年(1956)に建立された(写真10)。 山谷堀の奥に位置する旧吉原遊郭の入口付近の土手脇 に「見返り柳」があり、遊び帰りの客が後ろ髪を引かれ る思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返った ことから「見返り柳」と呼ばれている(写真11)。 (3)待ま つ ち や ま乳山 山谷堀の入口、今戸橋の南側にあり(写真12)、縁起によると、推古3年(595)9月 20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降り、この降起は十一面 観音菩薩の化身「大聖歓喜天」の出現と伝えられた。その後、天候不順と日照りが続き、 民衆が飢えと焦熱の地獄に陥ろうとした時、この大聖歓喜天が出現し、人々を苦しみか ら救ったことから、それ以降、民衆からの篤い尊信が集まるようになった。待乳山は、 隅田川右岸(西側)に望む海抜9.5mの小丘陵であるが、下町の平坦な地の一画にある 小山はひときわ目立ち、その優美な姿は、墨田川からの眺望もよく有名画家の錦絵にも 描かれ(図18)、詩や歌にも詠まれ、江戸名所の一つとして知られた。ただし、地質的 に見ると、この地に突然土地が隆起することは考えにくく、海面が低下する過程で台地 がこの部分だけ残されたものと推定されるが、あまり夢がなくなるのでこの推理はしな いことにする。境内の各所に施された「大根.巾着」の意匠は当時の御利益を示すもの で大根は健康で和合、巾着は商売繁盛を表すものだという。 写真11 見返り柳(吉原大門) 写真12 待乳山聖天(手前が隅田川) 図18 広重東都名所 真土山之図13) (待乳山、手前が大川、右の橋が山谷堀の今戸橋)
3−3 周辺の観光スポットの紹介 (1)浅草界隈 隅 田 川 の 周 辺 の 観 光 ス ポ ッ ト と し て、最もメジャーな場所はなんと言っ ても“浅草”であろう(写真13)。 浅草は古くから門前町として発展し てきた。浅草寺は5世紀の推古天皇の 時代から続くと言われるが、一大歓楽 街として花開くのは江戸時代からであ る。浅草には「浅草寺」「浅草神社」の 参道として有名な“仲見世”をはじめ、 か つ て は 演 芸 の 街 と し て 栄 え た“ 六 区”、遊戯施設として古い歴史を持つ “花やしき”など、見る物が多い。今 では、昭和30年代の絶頂期(写真14) に比べると寂しい状況であるが、外国 人観光客の多さは、他の繁華街よりも むしろ勝っているようにみえる。浅草 六区も映画館が少なくなり、やや寂し い状況であるが、六区通りに喜劇俳優 の写真を街灯に掲げ集客の回復を試みている(写真15)。 浅草のランドマークである「花やしき」は嘉永6 年(1853)に開園した、我国最古の遊園地と言わ れている。わずか5,800m2の中に20以上のアトラク ションがあり、ところ狭しの状況となっている(写 真16)。 昭 和28 年(1960)に 登 場した日本最古 の「ローラーコ ースター」は有 名であり、今で も現役として活 躍している。 写真16 花やしきの正門 アトラクションがところ狭しと林立している 写真13 休日の仲見世通り (相変わらず人でごった返している) 写真14 昭和40年代の六区14) (映画館、ホールが軒を並べている) 写真15 浅草六区通り 街灯に芸人(コロンビアトップ) の写真がかかっている
(2)両国界隈 明 暦 3 年(1657) の 明 暦 の 大 火 に より江戸500余町を焼き尽くし、その 復興とあわせて、それまで人が殆ど住 んでいなかった隅田川東部の開発が急 速に進んだ。越中島、小名木川、仙台 堀川等の地名はその頃の名残である。 色あざやかな関取衆のノボリがはた めき、ふれ太鼓がなり響くなか、雪駄 をはいた力士の鬢付け油の匂いが漂う ……本場所が始まると国技館のある両 国界隈は、相撲一色になる。「相撲の 町」両国の中心にあるJR総武線の両 国駅は、開業当時は総武鉄道株式会社 の駅として開設され、両国橋駅と名乗 っていた。明治時代は、東武伊勢崎線 も両国駅を始発駅とし、本所駅(現錦 糸町駅)、亀戸駅を経由して今の東武 亀戸線と接続していた。現在の両国駅 舎は、昭和4年(1929)の建築であり、 始発駅としての風格がある。駅の階段 を上がると正面のシャッターの向こう 側には現在使用していない車止め方式のホームがあり、昭和40年代までは房総方面の 始発駅として大活躍した。優勝力士の優勝額やレストラン(かつては「ビアステーショ ン両国」があったが、2006年2月で残念ながら閉店した)を併設している(写真19)。 また、駅横には大きなモスグリーンの屋根を有する両国国技館があり、1階には「相撲 博物館」が常設されている。 両国橋のたもとにある回え こ う い ん向院は、明暦の大火による10万7千人余の犠牲者を追悼す るため創建された寺院で、天保4年(1833)から相撲の定場所(5月、11月)となっ た(図19)。その後、明治42年(1909)に回向院東にドーム型の国技館ができ、大いに 繁栄したが、敗戦後進駐軍に接収され、その後、日大講堂などに利用された。戦後大相 撲は蔵前橋の北の隅田川西側に蔵前国技館として移設し、昭和60年(1985)に現在の 両国駅に隣接した場所に移設した。この界隈には、立浪、時津風、春日野、二所ノ関等 の名門「相撲部屋」が多くあり、散策も十分楽しめる。 写真17 両国駅駅舎 かつては房総の終着駅として活躍したが、今はその 役目を東京地下駅に委譲し、レストランを併設 図19 回向院での両国大相撲13) 「両国大相撲繁栄之図」相撲博物館所蔵
旧安田庭園は国技館に隣接してあり、常陸笠間藩主本庄氏により元禄年間に築造され た。隅田川の水を導いた数少ない汐入回遊式庭園であり、潮の干満によってできる水位 差でわずかに変化する島の浮沈などの景観を楽しむことができる江戸名園の一つであっ た。その後、富豪安田善次郎の邸宅となり、関東大震災によりほとんど旧態を失ったが、 現在では復旧し、池のまわりの歩道は起伏に富んでおり、散策が楽しめる。 両国はかつては、武蔵と下総の国境に位置し、江戸幕府がここに大橋(両国橋)架け たことにより、交通の要所となり、庶民の憩いの場としてたいへんに繁栄したため、こ の界隈には江戸の昔から引継がれてきた伝統文化が今なお残っている。 (3)水上バス 現在隅田川には、いくつかの航路で水 上 バ ス が 運 行 さ れ て お り、 そ の 内、 浅 草 と J R 浜 松 町 駅 近 く の 日 の 出 桟 橋 を 約40分 で め ぐ る 船 の 旅 が 最 も 人 気 が あ る(写真18)。吾妻橋、両国橋、新大橋、 清洲橋などの12の橋をくぐり、名所・旧 跡を紹介する船内アナウンスを聞き、江 戸の情緒、変貌する隅田川や東京湾を眺 めながら、東京の「今」を発見してみて はいかがですか。 水 上 バ ス に は、 漫 画・ ア ニ メ 界 の 巨 匠・松本零士氏がデザインした宇宙船の ような「ヒミコ」(写真19)が、2004年 から浅草∼お台場間に就航している。船 内では同氏の代表作「銀河鉄道999」の キャラクターたちが船内放送に起用されており、星野鉄郎、メーテル、車掌さんと一緒 に旅しているような体験が楽しめる。隅田川に運行している水上バスは、6隻が就航し ており(表4)、「ヒミコ」、「アワータウン」を除いて約550人程度の客席を用意してい る。是非一度乗船してみ て下さい。「浅草乗船口」 は東京メトロ銀座線浅草 駅、5番出口から徒歩1 分。料金は、浅草∼日の 出桟橋間で大人760円。 表4 隅田川ラインの水上バス性能ラインアップ15) 船名 総トン数(トン) 全長×全幅(m) 旅客定員(人) (ノット)航海速力 道灌 148 32.4×7.8 553 11.0 リバータウン 141 29.7×7.7 550 11.0 ユアータウン 143 29.8×7.7 550 11.0 アワータウン 138 29.8×7.7 320 11.0 竜馬 143 32.0×7.8 560 11.0 ヒミコ 114 30.5×8.0 171 12.0 注)東京都観光汽船株式会社 隅田川ライン就航船舶より 写真18 隅田川水上バス 写真19 水上バス「ヒミコ」15)