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『エウデモス倫理学』における友愛と自知-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第72巻 第 1号 1999年 6月 167-186

における友愛と自知

『エウデモス倫理学』

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は じ め に アリストテレスの倫理学書における友愛論の位置づけは,幸 福概念との関わりにおいて,難問を抱えている。幸福の定義が個人の魂に向ザ られたものであるにもかかわらず,友愛論では,幸福な人にとって友が不可欠 のものであると論じられている。個人の魂のよさに即した活動を幸福だとする アリストテレスの倫理学体系に,利他性を本質とする友愛を位置づげることは, 矛盾したものを統合する困難な試みであるように見える。道徳的行為者として のレベルでは,利他性自体が道徳性に含まれるから,両者は調和的なあり方を 保つことになろうが,観想的生活においては,その活動がただ一人だけでも可 能であって,相手自身のために善を願うという友愛に基づく活動は,最高の活 動とされている観想活動を妨げるものであるように見える。 周知のように, しかし,一方で, 幸福な人々は友と共に生きることを欲するという事実が存在するが故に, 事実と観想的活動の本性との聞に理論的なつながりをつけなければならない。 『ニコマコス倫理学,.g(略称

EN)

における幸福と友愛との関係に関する我々の 検討の結果,友と友自身の自己認識にも自体的な価値を付与することで,この 問題の解決が図られているということが明らかになった。本論は,前稿におい て,言及だけに終わっていた『エウデモス倫理学,.g

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におげるアリストテレ スの立論を詳しく検討して前稿の補足とし,合わせて『エウデモス倫理学』の その 関西哲学会年報』第4号.1996 (1) 拙稿「アリストテレスにおける友愛と自知J.rアルケー 年45司55頁。

OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

(2)

-168 香川大学経済論叢 168 段階におけるアリストテレスの自己意識に関する見解を解明しようとするもの である。 前稿では,友の存在をもっぱら自己認識の手段に舵めかねない解釈に対して 批判を加えた。その中でもA.

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の解釈が特に問題である。彼は,共同の 企てとしての友愛の解釈に認識論的な根拠付けを与えるためにエウデモス倫 理学』第

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章の関連箇所を以下のように解釈する。彼によると,自己自身 の活動の把握でさえ,自分の力だけでは不可能であって,友がいてはじめて可 能になるとされる。テキストでは,人聞が自己を認識するためには,外界の事 物の知覚と認識を通じて,知覚し認識する存在それ自身が知覚と認識の対象に ならなければならないとされているが,

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によると,外界の事物の知覚や認 識において,我々はある意味において自己を意識

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するにし ても,その段階ではまだ,自己意識

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として自己を意識するには,友を知覚する必要があ るとされる。外界の事物の知覚には自己についてのなんらかの知覚が含まれて いるにしても,それは,ちょうど,窓ガラス越しに外を眺めているようなもの なのであって,自分の目が自分には見えないように,知覚者としての自己は自 己にとっては透明なままである。ところが r私には,自分の目は見えないが, 友が私の目を見ていることは見える

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から区別することを学ぶのは彼 から」であり,このことを一般化することによって,最終的に r自分が仲間を 知覚していることの意識から知覚者である限りでの抽象的な自己意識へと移行 する」のである。要するに,友の知覚構造を分節して理解することによって, 自己意識が生ずるというのが

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の基本的な解釈である。この解釈のテキス ト上の根拠は r友を知覚することはある意味において自己を知覚することであ るJ,あるいは「友を知覚することは自己をある仕方において知覚することであ ( 2 ) Price 121-2

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169 l'エウデモス倫理学』における友愛と自知 169-ー る (Priceはこちらを採る )Jという文

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1245a35-6)に求められるが,文脈 から見てこの解釈は成り立たないと思われる。以下において~'エウデモス倫理 学』第7巻 12章の議論の構成と文脈を分析することによって, Priceが解釈す る意味での知覚者としての自己,つまり認識主観としての自己についての意識 ではない,別の意味での「自己についての意識」がそこで語られていることを 明らかにしたい。 L~ ヱウデモス倫理学』第 7 巻 12 章の構成 はじめに,この章の議論のおおまかな構成を,本稿が主に依拠する

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のテ キストの節分けに従って示しておく。 (1) 友愛と自足に関するアポリアの提示(1244bl-21) (2) 自己認識はもっとも価値のある生であることの論証 (1244b21-45a10) (3)a (2)から,共生を選ぶのは愚かだという帰結の導出 (1245all-18) (3)b (3)aに反する経験的事実の指摘(l245a18-26) (4) 共生を求める理由:友の知覚は自己の知覚につながること (1245a26-b9) (5) 優れた人には友が不要だという議論が生じた根拠の解明 (1245b9-19) (6) 友は少数に限るべきこと (1245b19-25) (7)友愛の印:友の幸せを願うことと共に生きることを願うこと (1245b26 -46a10) (8) 友の知覚が自己の知覚につながることを証する事例 (1246a10-25) ( 3 ) Price (120-124)の議論では,抽象的な自己知覚から現実の自己知覚へと進むという点 も論じられているが,議論の認識論的な核心は上述の命題に尽きると言ってよい。 (4) EEはテキスト自体に不明な部分が多く,推測も含めて解釈者たちの閑で一致しない点 が多い。したがって,本稿では,必要に応じて,関連部分の翻訳と逐語的な解釈を行うこ とにする。なお,本稿では自己意識」という言葉を「自己知覚」と「自己認識」を総 称した意味で用いる場合がある。 (5) R R Walzer, l M, Mingay, Aristotelis Ethica Eudemia, (Oxford Classical Text), 1991

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-170- 香川大学経済論叢 170

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凶 友愛と自足のアポリア 自足と友愛との関係についてIi"エウデモス倫理学』第

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章では,次の ようなアポリアによって,問題を導入している(上記(1)節)。神は完全に自足し 自己以外のなにものをも必要としないが,この神のあり方と類比的に考えるな らば,人間の中で最も自足した優れた人には友が必要ではないということにな る。人間の中で最も幸福な人は,自分自身と共にあることにおいても自足した 人で,自己との対話の世界に閉じこもっていても幸福でいられるほど,思考に 係わる生活が充実している。この立場からすれば,友は最小限にし,これまで の友も減らして行くべきであり,有用性のための友ばかりではなく,共に生き るにふさわしい友も軽視するべきであるという結論になる。しかし,他方では, 一般に次のように考えられている。自足した幸福な人には,楽しみや有用性の ための友は必要ではないにしても,徳ゆえの友は必要である。何ものも欠いて いない時に,人は共に人生を享受できる人を求めるのであり,世話を焼いてあ げる身近な友を求めるのである。むしろ,自足しているときにこそ,他者の性 格を正しく判定できる心の余裕を持てるのであっ‘て,その時にこそ,共に生き るにふさわしい友を我々は必要とするのである。 (1)節で提示されたこのアポリアについて,

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節ではその積極的な面を取り出 すための議論が展開されるが,そこでの議論は,自己知と友愛の関係に関する アリストテレスの見解の核になる部分であると考えられるので,以下,この節 の議論を詳しく検討していくことにする。 III" 自己を知覚すること この節の内容を一言でいうなら,自己を知覚し認識することは各人にとって もっとも望ましいことであるという主張になるであろう。ここでは,友と共に 生きることが念頭に置かれてはいるが,議論は自己を知覚し認識することに集 中する。

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171 『エウデモス倫理学』における友愛と自知 -171ー 「このアポリアについて,ある点ではうまく論じられてはいるが,あること が,神との類比によって気づかれないままになっているのではないか検討し てみるべきである。現実態における生,つまり終極としての生とは何かを把 握するならば,このことは明らかとなる。生きることは知覚することと認識 することであるから,共に生きることは共に知覚することと共に認識するこ とであるということは明らかである。だが,自己を知覚することと自己を認 識することは各人にとって最も望ましいことであり,この故に,すべての人 は生きることへの生来の欲求を持っているのである。まさに,生きることは 一種の認識であるとしなければならない。J(~~

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はじめに,生きることは知覚することと認識することであると主張されるが, これは,初期著作の『プロトレプテイコス』から後期著作の『デ・アニマ』に 至るまで一貫して主張されていることであり,人聞が存在する位相に関するア リストテレスの根本把握であると言える。現実態における生が終極であるとい うのは,可能態との対比に基づいて述べられていることである。優れた人であっ ても,眠っているときには可能的に生きているだけであって,優れた意味にお いて生きているといえるのは,現実に活動している時である。永遠に美しさを 保ちながらも死の眠りを眠るエンデュミオ、ーンのような生涯を望むものはいな いであろう。人聞が目的として目指すべき生き方は,現実に知覚活動と認識活 動を行うことなのである。そして,この知覚や認識の活動は,人聞においては 動物とは異なり,食糧獲得など他の目的の為に奉仕する活動ではなく,活動そ れ自体が目的であるような活動である。人聞は認識のために認識を欲する存在 である。知覚もまたある種の認識であり,その中でも視覚は認識活動に最も近 く,視覚や認識に伴う快楽が奪われるなら我々の生は生きるに値しないのであ (6) b26-27の校訂に関して,本稿では,Bonitz 76 (Susemihl, Walzer/Mingay)の修正を採 用する。 (7) cf.. EE 1216a2-9, EN1l78b18-20 エンデュミオーンの物語については,呉茂一『ギ リシア神話』新潮文庫上巻418-419頁参照。

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-172- 香川大学経済論叢 172 る。動物も食糧獲得のために感覚的知覚においである種の認識を行っていると 考えられるが,動物には接近不可能な人間的な感覚的知覚が存在する。それは, 美しい形姿を見,調和した音を聞き,香しい匂いを嘆ぎ,舌先で味を見分ける ことである。このような感覚的知覚には,美しいものについてのある種の認識 が含まれている。もちろん,思考に関わる認識もこのようなものであり,アリ ストテレスは,人間の卓越性を論じる中で,美しいものどもを認識することも また美しいと述べている。このように,人間的な知覚や認識には,美しいもの を認識する能力が必要とされるのである。この箇所では,人聞が知覚や認識と それに伴う快楽を欲求するばかりではなしそのような知覚や認識を行う自己 自身の認識をも欲求する存在であることが主張されている。生きることの人間 的本質が認識にあることは形市上学~

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“)冒頭の一文に集約されてい るが,ここではさらに一歩を進めて,その認識が自己認識に高まることを人聞 は欲するとされているのである。アリストテレスのいう自己認識とは,外的対 象の知覚や認識に伴う作用であって,彼は,知覚の認識的要素が高度になるほ ど,知覚にこの作用が伴う可能性は高くなると考えていたと思われる。認識に ついても,おそらく,ほとんどの思考に関わる認識に自己認識が伴うと考えて いたと想定しでもよいであろう。だが,続く箇所において言及されている『プ ロトレプテイコス』では,自己認識を示唆する箇所は見あたらない。 ( 8) r認識することや見ること,あるいはその他の感覚が人聞にもたらす快楽が奪われるな ら,摂食の快楽とか性愛の快楽のみによって,生きることを選ぶ人はいないであろう。」 (EE1215b31-34) (9 ) ギリシア語では r感覚(sensation)jと「知覚(perception)jは区別されない。 αlo8aνεσ0ωという動詞は両方の意味を含んでいる。 cf.Hamlyn,D Wづ Sensationand Percettion, 1961, ch. 1. 感覚的知覚(senseperception)は,対象の受容的要素が優越し ている場合には,感覚的であるが,受容した感覚対象の認識の機能が高まるにつれ,知覚 的となる。対象の感覚的知覚を媒介にして自己を知覚する場合は,受容的要素よりも認識 的要素が優越しているので r自己の知覚」というべきであろう。 (10) cf..EE 1230b25-1231a18 (11) EE 1216b19-20 (12) Metaph980a1 rすべての人聞は,自然本性において,知ることを欲する。」 (13) Gaiser 332

(7)

173 『エウデモス倫理学』における友愛と自知 173-「さて,もし,認識することを切り離し,それをそれだけで{望ましいもの で)あるとしてしまい, {自己を認識することを望ましいことであると}しな ければ(たしかにこのことは,あの論議において書かれているように,見過 されることもあるが,事柄としては,見過されてはならない),自己の代わり に他者が認識するとしても違いはないことになるだろう。それは自己の代わ りに他者が生きるようなものである。だが,当然,自己を知覚し認識するこ とは,より望ましいことなのである。J(~~

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この箇所の最初の文には,テキストの部分的脱漏があると考えられ,脱漏部 分の補正をめぐって様々な提案がなされてきたが,完壁な解釈は難しいようで ある。たとえば,この前件を「認識を生から切り離すならば」と解釈する学者 は,認識する自分が生きていないから自分は認識していないということを理由 に,後件(,自己の代わりに他者が認識するとしても違いはないことになるだろ うJ)が説明されるとするが,事情は他者においても同じことであって,認識す る他者も生きていないことになるはずだから,このような説明は成立しないと 思われる。この文は,自己認識が最も望ましいものであるにもかかわらず,認 識をそれだけで望ましいものだとした「あの論議」の欠陥を自己批判したもの だと解釈するのが適当だと思われる。認識は,通常は外的な対象に向かい,そ

(14) Apelt 741. Dir1meier 460 (Apelt sieht im Grund richtig).茂手木319,362.. Gaiser (327

ー332)はDir1meierの推定に基づき,切り離しには,認識のない生と生のない認識のふた つの局面が考えられ,前者(植物状態など)は『プロトレプテイコス』で取りあげられ, 後者(脱魂状態での認識 Timaeus7ID-72B)がここで取りあげられているとする。しか し rあの論議」で気が付かれなかったのは,切り離すこと自体であって,切り離すこと の一方のケースではない。Jaeger269もある種の脱魂状態での認識と解している。認識と その反対物とを切り離すという解釈(Solomon,Rackham)はそもそも理解が困難であ る。 (15) 古文書学的にはDirlmeier(460)の推定(44b30μ奇くei.μα>)が優れているが,その場合 でも r認識と自己とを一緒に理解しなければ」という意味に解することも不可能ではな いと思われる。 Decarieは, μ寺<xar'a'AAo>と推定し,人間の認識にはつねに対象が必 要であると解釈するが, μ号くαIJroν〉も適合的な解釈だとする。本稿では, μ寺<roaIJroν〉 (WalzerjMingay)を採用する。

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-174ー 香川大学経済論叢 174 の対象の形相を受容して判別する作用であるから,認識の作用に自己認識の作 用が伴うことは見逃されやすいが,ここで反駁されている議論のように,認識 すること自体が人聞にとって最も望ましいということにするならば,自己によ る認識よりも他者による認識の方が優れている場合,他者による認識の方が望 ましいことになる。とすれば,その優れた他者が認識活動を行って生きる方が 自己が認識活動を行って生きるよりも望ましいということになるだろう。自己 認識の作用を抜きに,認識それ自体の価値が称揚されるならば,他者が認識の 主体になってもよいことになってしまい,結果的に,他者が生きる方が望まし いということにもなりかねない。しかし,各人にとって自己を認識する生を送 ることが,より望ましいことであるとアリストテレスは主張する。これは,自 己意識と生に関するかなり強い主張ではあるが,アリストテレスはどのような 自己であっても自己を認識することが望ましいとは考えていない。むしろ,自 己認識の生来的な欲求は,自己がよりよいものであることを求めると考えてい る。本章において問題になっているのは,優れた人にとっての友の必要性であっ たが,優れた人は自己自身にとって望ましい存在であり (EE1236b28-29),自 分自身にとって欲求される存在である (EE1240b14-15, 19-20)。したがって, 優れた人ほど,自己自身のよさを知覚し認識する欲求が強いとも言える。優れ た人が自己を知覚し認識することを望むことは,よい存在としての自己を知覚 し認識することを望むことである。これは,自己の認識が真に可能となるのは, 自己がよい存在である限りにおいてであるということを含意している。次に続 く笛所においてこの点が論じられる。

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よい存在としての自己と自己認識の可能性

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節において,上述の引用文に続いて,次にように述べられている。 「というのは,あの論議で語られていたこつのことを結合しなければならな いからである。そこでは,生きることは望ましいということと,善は望まし いということが語られていたが,これらの命題から,そのような本性(限定

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175 『エウデモス倫理学』における友愛と自知 -175-されていること)がそれらに属しているが故に,それらは望ましいというこ とを導かなくてはならない。そこで,そのような系列表の一方は,望ましい ものの並びになっているとすれば,認識されるものと知覚されるものも限定 された本性に与っているが故に,一般的に言えば,望ましいものである。し たがって,自己を知覚することを望むことは,自己がしかじかの(限定され た)ものであることを望むことなのである。J (EE

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ここで言及されている『プロトレプテイコス』には,生きることは望ましい という命題と善は望ましいという命題が見られるが,ここでは,このふたつの 命題を結合して,生きることと善は望ましいものであるという命題を導き出す べきであると述べられている。アリストテレスは,この難解な議論によって何 を明らかにしようとしたのであろうか。「生きることは望ましい」という命題は すでにこの節の初めに述べられており,ここでは「善は望ましい」という命題 を付加しようというわけである。これらはある意味で当たり前の命題である。 これらからいったい何が導かれるというのであろうか。そして,それは

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)

節の 文 脈 の 中 で ど の よ う な 位 置 を 占 め て い る の で あ ろ う か 。 ま ず r望 ま し い (αtρεめν)Jという言葉には,概念上 r各人にとって」ということが伴うことに 注意するべきであろ

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。そうすると,この命題は,生きるのは他ならぬ自分で あるのだから,これらのものを我々は客観的に望ましいものとしているのでは なしそれらが我々自身の生であり善である限りにおいて望ましいものとして いるという意味に理解される。このような理解で正しいなら,ここでふたつの 命題から導き出される命題が意味していることは,人聞は自分自身の生が限定 (16) 1244b36はDir1meirの読み方を採用した。 (17) Protrepticus Fr.. 7 Ross/B76 During, Fr.. 12 Ross/B 42 During.,.cf.. Gaiser 333 周知 のように,この言及をProtrepticusとしたのは, Jaeger 257であるが, Dir1meierは,講 義に使用されていた概念項目の分割に関わる警と考えている。 (18) 人が選び取る(αJρa)ものが望ましい(alρ

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ν)ものである。 (19) cf. Apelt 742, Gaiser 333. (4)節との関係で先取り的に語るなら,このことは友におけ るよき生の望ましさを排除するものではない。

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-176 香川大学経済論叢 176 されたよいものであることを望むということである。そして,次の文では,こ の「限定されたもの」であることが認識されることの条件であるとされている。 したがって,我々自身の生がよいものであることを望むということは,自己の 生が限定されたものとして認識可能なものであることを望むということであ る。自分の生が認識されるものであることを望むということは,自己を認識す ることを望むということの裏返しである。つまり,よく生きることを望むこと は自己認識を望むことなのである。このように,ふたつの命題を結合する議論 は,自己認識の欲求が,よく生きることの欲求と同根であることを示すための ものであったのである。要するに,自己認識を求めることは,幸福を求めるこ とに他ならない。 しかし,問題は,どのような自己であっても自己認識の欲求が生じるわけで はないということである。自己がよいものである限りにおいて,自己認識の可 能性があり,またこれを望むということになるのである。自己認識の可能性が あるというのは,外的な対象を知覚し認識することにおいて,その知覚や認識 自体に気づくことによって,後述のような理由から,優れた人にとっては自己 が見えやすくなるということである。自己が見えやすいのは自己の活動が限定 されているからであるが,限定されているということは,よいものであるとい うことであるから,必然的にそれは認識欲求を引き起こすのである。 ところで,上述のように,人聞にとって生きるとは知覚し認識することであっ た。つまり,よく生きるということの人間的なあり方は,よく知覚し認識する ことである。とすれば,優れた人の活動が限定されているということは,彼が よく知覚しよく認識しているということである。よく知覚することやよく認識 することはよいものであり,その意味において限定されているからである。で は,よく知覚し認識することはいかにして可能になるのか。知覚や認識は知覚 や認識の対象を受容しその形相を判別することによって成立するから,よく知

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覚し認識するためには,知覚や認識の対象がよいものでなければならない。 知 (20) cf NE 1074b33-1075a1

(11)

-177-『エウデモス倫理学』における友愛と自知 177 それらは限定された本性に与って 覚や認識の対象がよいものであるためには, これらが限定されているとはどういうことなので あろうか。限定されていることは,量的な無限定の反対概念ではなく,質的な 無限定の反対概念である。それは,何かある仕方で指示できるものが存在する ときに適用される。質的に限定されたものは,無限定的なものを前提として, それを限定する結果として生ずる。たとえば,石や煉瓦をある仕方で結合する ことによって家と名指されるものが生ずるが,完成された家が限定されたもの である。家は完成されたとき家としての美しさを実現している。同じように, いなければならない。では,

その諸要素が基準に従って正しく配列されることによって, 形姿や和音は, はじめて,美しさや調和を獲得する。諸要素が まり限定されることによって, ばらばらな状態では,限定された全体は生じることがない。 知覚し認識するためには,よく限定された美しいものを知覚し認識する必要が あるということになる。 外的な美しい対象を知覚し認識、できる能力は,よい状態にあるが, はそれ自体では知覚され認識されることはない。能力の発現としての様々な活 よく したがって, この能力

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OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

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-178- 香川大学経済論叢 178 ものであることを望むからなのである。J

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ここで,「我々がそれ自体におい、ては知覚されるものでも認識されるものでも ない」と言われているのは,

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の解釈が示唆するように,友がいなければ認 識主観としての自己の意識を持つことができないということを意味しているの ではなく,我々が自らの知覚や認識の対象になる仕方は,外的な対象が知覚や 認識の対象になる仕方と同じではないということを意味している。我々が知覚 や認識の対象になるためには,我々は自らの知覚や認識の能力を働かせなけれ ばならない。我々の優れたあり方は現実態にあるが,この同じ現実態において, 我々は自らのあり方を確認するのである。自己が知覚され認識されることと 我々が存在の完全なる階梯において存在することとは同じ位相において成立し ていることなのである。つまり,自己意識において人聞は十全な意味において 存在しているのである。 さらにここでは r人は知覚することによって,その知覚する仕方や,知覚す るものに応じて,あらかじめ知覚する限りにおいて,知覚されるものになり, 同様に,人は認識することによって,認識されるものになる」と述べられてい るが,倫理的文脈を考えると,ここでは,単なる色や音などの感覚的知覚が念 頭に置かれているのではなく,美しい形姿や美しい行為などの目撃が念頭に置 かれていると考えられる。美しい光景を見るという現実の知覚活動を通じて, そこにおいて,その光景に浸っている自分を知覚するのである。 しかし,どのような意味において,我々は,その都度の感覚的知覚において, 感覚している自己を知覚していると言えるのであろうか。

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の言うように, その都度の感覚的知覚において,知覚対象と知覚している自己との区別ができ ないとしたら,その都度の感覚的知覚において自己を知覚することは不可能で あろう。そうなれば r自分が今美しいものを見ている」という言明は成立しな いことになる。アリストテレスによれば,知覚対象と知覚活動とは,現実態に おいては同時に生起するものである(出来事としては一つである)が,本質規 定性においては異なるとされる。その根拠をアリストテレスは挙げているわけ

(13)

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179 『エウデモス倫理学』における友愛と自知 -17少ー ではないが,おそらくその区別は感覚的な知覚意識の直観的な事実にあると見 なしていたと思われる。見ていることに気が付いている事実を説明することは 位) 難しい。気が付いていること自体がこの区別を前提にしているからである。こ の箇所では,少し前に知覚するかぎりにおいて,このような事実に気が付くと されている。本稿では,感覚的知覚という出来事における知覚活動と知覚対象 との区別に関しては,アリストテレスが直観的事実として認めていると解釈し た上で,知覚活動と知覚している自己との関係について考察する。 では,アリストテレスにおいては,どのようにして自己の知覚が可能になる のであろうか。我々の感覚的知覚は,外界の対象についての一連の感覚的知覚 として現れ,その都度の感覚対象の与えられ方に応じて,その形態が決まって くる。我々の感覚的知覚はこのような現れ方以外において現れることはない。 そして,このような現れの系列以外において,自己が知覚されることもない。 その都度の感覚的な知覚活動の主体として以外,我々は自己を捉えることがで きないからである。つまり,外界の対象についての一連の感覚的知覚を反省す ることにおいて,自己についての知覚が生起するのである。外界の対象の一連 の感覚的知覚は,上述のように,連続した系列をなすが,自己についての知覚 は,この系列を通じて「同じもの」として現れてくるものについての知覚であ る。つまり,自己性の知覚は,外界の対象の一連の感覚的知覚の間の整合性に よって可能になるのであり,それらの聞の整合性が失われるとともに失われて いくのである。この整合性が,自己が限定された認識可能なものであることの (21) この箇所における感覚と思惟の成立に関する理論と『形而上学』第12巻7章および9 章におけるそれとの聞の理論的・近代的近接性は諸家の指摘するところである。 (22) ムーアによると,確定するのは難しいが,我々の感覚にはこれを心的事実(mental facts)たらしめている意識性(consciousness)の要素が含まれている。そして隠喰を用 いて言うなら,それは透明であるように思われる」とされる。 (GEムーア「観念論論駁」 『現代替学基本論文集IIJ所収, 32-33頁, G.E.. Moore, The Refutation of Idealism, Mind N.. S. No..48, 1903, 433-453 it seems, if 1 may use a metaphor, to be transpar -ent--we look through it and see nothing but the blue. (p. 446)..) S..シューメーカ}に よれば rムーアはここで,把握や感覚の作用について諾っており,この作用の主観につ いては何も述べていないが,彼はおそらく主観についても同様のことを述べただろう」と いうことになる。 (r自己知と自己同一性』勤草書房81頁)

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-18(}ー 香川大学経済論叢 180 根拠である。このような感覚的知覚の系列において知覚されているのは,外界 の対象の感覚的知覚と区別された知覚主観ではなく,一連の感覚的知覚を安定 的に現出させる能力を有するものとしての自己である。このように,外界の対 象についての一連の感覚的知覚の,対象としての統一に,自己の知覚の成立根 拠があるのである。認識活動と認識している自己についても同様のことが言え る。 したがって,優れた人の安定した知覚や認識においてこそ,自己についての 明瞭な意識が生じるが,劣悪な人間でも,感覚的知覚や素朴な思考のレベルに おいて,一連の感覚的知覚や一連の認識の間の整合性を得ることができ,その 限りにおいて自己についての意識を持つことができる。しかし,倫理的行為や 高度な思考の一貫性といったレベルになると,そこに明確な自己性を意識する ことは次第に難しくなってくるであろう。極端な場合では,自分が何を考えて いるのか分からなくなり,ついには自分がいったい誰なのか分からなくなると いう状態にもな

2

。その意味では,アリストテレスにおける自己意識とは,倫 理的・美的世界に方向付けられた自己意識であると言える。 このように,人聞は神とは異なり,知覚と認識の現実活動の連続した系列を 通して,そこに自己を意識するという仕方でしか,自己意識に到達することが できないが,このような仕方によって,自己自身だけで自己意識に到達するこ とができるのである。そして,優れた人だけが,このような連続した系列のい わば焦点として, くっきりとした自己の姿を意識することができるのである。 このように,自己を意識する心的機制は優れた人においては個人において完結 しているのである。 (23) cf

EE

1240b16-17. (24) ここでの結論はエウデモス倫理学』におけるアリストテレスの自己意識理解に限ら れる。なお,内心に一貫した邪悪な意志を持つ偽善者という人間類型の存在をアリストテ レスは想定していないと筆者は考える。

(15)

181 『エウデモス倫理学』における友愛と自知 -181ー V, 共生の意味 (3)節では,個人における自己意識の可能性の立場からは,饗宴のような通俗 的な共生に対して批判があるとする一方 Iしかしながら,明らかに{人々は共 に生きることを選んでいる}のであり,我々はすべて, よきことどもを友と共 有することに,より大きな快を感じるのであるJ (EE 1245a18-20)と述べ,今 度は優れた人々の聞における友愛の事実を指摘する。そして,この事実を救い 説明するために,個人における自己意識の完結性を主張する立場は,優れた人 たちが友との共生を望む事実を無視することになる限りにおいて,誤りを含ん でいると表明する。 「さて,議論はアポリアを検討して, かのことどもを述べたわけであるが, 事実は明らかに上に述べたようなことになるのである。 したカまって, アポリ アを検討した議論は, ある意味において我々を惑わすことになる。そこで次 のことから真実のことを探求するべきである。諺にも云う通り,友はもうー 人のへラクレス,すなわちもう一人の自己である。だが,友と自己とは切り 離されており,一つになることは難しい。自然本性においてはもっとも血筋 白) の近い人が似ており,身体的には別の人が,魂の面ではまた別の人が似てい るのであり, さらに身体と魂のそれぞれの部分においてもそれぞれ別の人々 それでも,友はいわば分割された自己なので ある。それ故,必然的に,友を知覚することはある意味において自己自身を 知覚することであり,自己自身を認識することである。したがって,通俗的 な事柄に関しでさえ,友と共に快楽を楽しみ共に生きるということが快いの しカ〉し, が似ているのである。 は当然である(というのは, この場合, {友を知覚すると同時に}自己自身も 知覚するからである)が, より神的な快楽を共に楽しむなら, より一層快い ことになる。 このことの原因は, 自己がよりよい状態にあることを眺めるこ (25) cf, EE 1240b34-37

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182- 香川大学経済論叢 182 とはより快いということにある。この状態とは,ある場合は,何かをされる 状態であり,ある場合は,何かをする状態であり,またある場合は,何か別 の状態である。自己がよく生きることが快く,また友がよく生きることも快 ければ,そして共に活動することが共に生きることにおいて行われるとすれ ば,共同の営みは最上の目的に含まれることどもにとりわけ深く関わる。従っ 倒) て,友と共に(善美なるものを)観想し,共に祝祭を執り行う必要がある。 会食や生活の必要事はこのような交わりではなく,単なる享楽にすぎないと 思われる。そのようなものではなし各人は到達できる限りの目的において, 友と共に生きることを望むのである。共に生きることが望めなければ,次善 のこととして,友によくしてあげたり,友からよくしてもらうことを,とり わ仇人々は選ぶのである。J

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この箇所は,優れた人にとって友が必要であることの根拠を述べた箇所であ るが,ここは上述の箇所との文脈的なつながりの中で解釈されなければならな い。ここでは,友との共生は,最終的には,自己を知覚することに伴う快楽の 故に求められている。ここで知覚の対象は,友の現実活動態における生つまり 知覚と認識である。友を知覚し認識することが自己を知覚し認識することにつ ながるのは,知覚と認識の対象である,友における知覚と認識の活動が,自己 における知覚と認識の活動に似ているからである。友の精神活動を言葉を通し て知覚し認識することが,ある意味において自己を知覚し認識することである というのは,あたかも友という鏡の中に自分の姿を映して見るようなものであ るが,ここでは,友との関係は,単なる鏡映的関係として閉じた世界を形成し ているわけではない。友との関係は,外界の対象を共に知覚し認識する活動の なかで,互いのあり方を確認し合う関係である。友の行う知覚がいつも美しい 形姿や美しい音楽に受容性を示すことを知覚し認識することを通して,友の性 (26) Dirlmeierの訳を採用。Liddell& Scottの辞書には次のような記載がある。 actas θEωρO$'or go to a festival together, Lys 8. 5, Ar.

v

.

.

1187,EE 1245b4

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183 『エウデモス倫理学』における友愛と自知 -183-格や能力を知覚し認識するのである。 アリストテレスは,友同士が共に何を行うかについては,通俗的な事柄から 神聖な事柄まで,かなり広範囲にわたって認めているが,優れた友同士が共に 行うべきこととして観想活動のような神聖な快楽の伴う事柄を推奨している。 人間であるからには,優れた人でも通俗的な気晴らしを必要とするかも知れな いが,それぞれの人は達成可能な最高の目的を立て,その活動のなかで友と共 に生きるべきであるとするのである。 このように見てくると, (4)節に至る文脈の中では,友を知覚するのは,知覚 主観を知覚内容から区別するためであるという解釈を入れる余地はないと思わ れる。自己知覚や自己認識が最上の生き方であるとした(2)節の議論は,優れた 人には自分だけで自己の知覚や認識に至ることが可能であることを証示してい た。この節では, (3)b節で指摘された,優れた人が事実として友を求めること 仰 の理由について, (2)節の心理学的議論を前提にその説明が行われているのであ

ω

る。友がいなければ自己を認識できないのではなく,友がいなくても自己を認 識できるが,友を認識することは事実として快いので,優れた人々はお互いの 知覚と認識を知覚し認識し合うことを欲求する。このようなことが欲求される のは,友の行う知覚は自己の行う知覚に似ているからであり,友を知覚するこ ω) とが自己を知覚する快さを倍加させるからなのである。 (27) この言葉は, Frai鈴eからの借用である。必ずしもデ・アニマ』におけるような心理 学的議論に限定されたものではないが,広い意味では,人間の心的機制を明らかにしたも のと考えることができる。COrtusAristotelicumには,いわゆる自己意識の心的機制に言 及した箇所がいくつかあるが,アリストテレスの自己意識論については,稿を改めて論じ る予定である。 cfEN 1170a29-b1, DA 425b12-22, Somn..455a16-20 (28) もし仮に, (2)節で論じられていることは,自己知覚と自己認識の望ましさだけであると するなら,この(5)節の説明において, Priceが言うような意味での,優れた人にとっての 友の必要性の根拠が明記されているはずである。しかし,このようなことに関する言及は 全く見あたらない。 (29) Fraisse (1971)は,EEにおいては, (2)節における心理学的条件を優先させ,同時に友の 必要性を論じているとする。結論的には友を意識することを自己意識の快さの倍加とし て捉える。さらに, Fraisse (1984)は,ENにおいて,EEにおいては不可能とされた「共 同主観性」によって友愛の真の根拠付けがなされていると解釈するが r共同主観性」の 根拠とされる 1170b10(x.似)の解釈には賛成しがたい。

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-184- 香川大学経済論叢 184

VL

論議の流れの検討 以上の議論によって本稿の課題は果たされたが,最後に,本章における (2)節 の位置づけを確認しておきたい。(4)節において,アリストテレスの真なる見解 が示された後で, (5)節では,もう一度,議論の流れを振り返って,次のように 述べられている。 「だから,まさに友と共に生きるべきであり,そしてこのことをすべての人 が望んでいるということ,そして,最も幸福な人,最も優れた人がもっとも 優れた意味においてこのような人であるということは明らかである。だが(神 について語る)議論に従うなら,明らかにこのような結論にはならなかった し,このことは,その議論が真なることを語っているのだから, (神について の議論を人聞について適用するなら)当然のこととして帰結したのである。 ( 測 というのは,真なる並置を結合すれば,解決がもたらされるからである。と いうのは,その結合は,神は友を必要とするようなものではないということ を,神に似たものにも同じく要請するからである。さらに,この議論に従う なら,優れた人は(自分以外の何かを)思惟することさえないということに なる。というのは,神はこのような仕方において(すなわち,自分以外のも のを思惟することにおいて)良い状態にあるのではなしこのようなことよ りも良い状態にあるからである。その理由は,我々にとって,良い状態とい うのは他との関係においであるのに対して,かのものにとっては,かのもの 自身が,かのもの自身の良い状態だからである。J (~lî

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ここでは,友愛と自足に関するアポリアの解決のあとに,これまでの議論を 回顧して,なぜ、このようなアポリアが生じてきたのかという理由が説明されて (30) Rieckher, Susemihl, WalzerjMingayのくobx>を採らない, Solomon, Rackham, Dirlmeier, Decarieに従う。

(19)

185 『エウデモス倫理学』における友愛と自知 -185ー いるが,ここで特に言及されている「議論」は,神と優れた人間とを同一視す る「議論」である。この「議論」によれば,神との類比によって,優れた人に とって友が不必要であることが帰結したが,同様に,この「議論」によると優 れた人が思惟することさえできないとされている。神との類比については, (2) 節の初めに言及があり, (2)+(3)a節はそのアポリアの検討であった。そのアポ リアを検討する議論は,自己認識が人間にとって最も望ましいとするもので あったが, (3)節の初めでは rアポリアを検討した議論は,ある意味において我々 を惑わすことになる」と述べられている。神との類比の「議論」は明白に友の 必要性を否定するが,アポリアを検討する議論(とくに, (2)節の自己認識の重 要性を論じた箇所)は,友の必要性を全面的に否定するものであると解釈する べきではない。なぜなら,友の必要性を論じた(4)節は, (2)節の議論を前提にし ているからである。

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節が「我々を惑わす」とされているのは,それが友にお ける生が望ましいということを排除するものと誤解される限りにおいてのこと なのである。上述のように,優れた人は友を求め,そこに倍加された自己の知 覚を認めるのである。この節の後半に見られるreductioad absurdumもこの ようなつながりを示している。神との類比の「議論」に従うなら,優れた人は 思惟することさえできないという論は,明らかに人間の自己認識を称揚する (2) 節の議論が神の類比の「議論」とは独立のものであることを示している。自己 意識は人聞にとって何よりも重要だが,神との類比論が行うような,優れた友 における生の望ましさの排除を伴うものではないことの確認が,本意解釈の鍵 であると考えられる。 テ キ ス ト Bekker, L, Aristotelis 印era,(Academia Regia Borussica), Berlin, 1831. Fritzsche, A, Eudemi Rhodii Ethica, (Regensburg), 1851. Susemihl, F, Eudemi Rhodii Ethica, (Teubner), 1884.

Rackham, H, Aristotle.. The Eudemian Ethics, (Loeb Classical Library), 1935 Walzer, R R jMingay, J Mけ AristotelisEthica Eudemia, (Oxford Classical Text), 1991.

(20)

-186- 香川大学経済論叢 186

翻 訳 と 注 釈

Solomon, J, The Works of Aristotle, ix, Oxford, 19日"

Rackham, H, Aristotle: The Eudemian Ethics, (Loeb Classical Library), 1935.

Dirlmeier, F., Aristoteles Werke in deutscher Ubersetzung, Band 7: Eudemische Ethik, Berlin, 1962 茂手木元蔵ェウデモス倫理学J,アリストテレス全集14,(岩波書庖), 1968年。 Decarie, V, Aristote, Ethique a Eudd旨me,Paris & Montreal, 1978. 参 考 文 献 Apelt, 0., 1894, Zur Eudemischen Ethik, ]ahrbuchβr classischer Philologie, 40, 729 -52..

Arnim, H, von, 1928, Eudemische Ethik und Metaphysik, SB Wien 207, 5

Bonitz, H, 1844, ObservatiOnω criticae in A ristotelis qωe ferunter Magna Moralia et Ethica Eudemia, Berlin

Dliring, 1, 1961, Aristotle也Protr.eρticus,Goteborg

Fragstein, A.von, 1974, Studien zur' Ethik des Aristoteles, Amsterdam

Fraisse, J-C, 1971, Aor,aρ'Xelαet

φ

lIl[αen EE VII 12, 1244bl-1245b19, in P Moraux und D. Harlfinger (edd..), Untersuchungen zur Eudemischen Ethik, 1971, 93-133 Fraisse,

J

-

C, 1984, Philia, La Notion d'Amitie dans

t

a

Philos

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Rheinisches Museum, 110, 314-345川

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Jaeger, W, 19552AristotelιsBerlin.

参照

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