香 川 大 学 経 済 論 叢 第74巻 第l号 2001年6月 1-18
戦後香川の土地改良事業と満濃池
辻
唯 之
はじめに 阿讃山脈の竜王山に源を発する土器川は仲多度郡と綾歌郡の郡 境を北流し,丸亀市に至って瀬戸内海に注ぐ流域面積 100平方キロ,流路延長 42キロの香川県第一級の河川である。しかし,香川県の諸河川の例にもれず, 土器川も傾斜が急で,降雨があっても川水は瞬時に瀬戸内海に流出してしまい, 土器}IIから直接に水を取り入れてかん瓶できるのは札の辻井堰より上流の 100 haばかりの水田にすぎない。札の辻井堰より下流ではふだんは表流水をみるこ で す い とはほとんどなく,暗渠を設けたり,出水と呼ばれる堀割を掘って伏流水を利 用している。昭和2
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年に県の土地改良課が行った調査では,札の辻井堰より下 流に,右岸側で34コ,左岸側で同じく 34コの出水の存在が確認されている。 図1からも推察できるように,札の辻井堰は土器川右岸にとってもっとも枢 要な井堰であって,ここから打越池に導かれた土器川の水はさらに下って仁池 や小津森池,大窪池などの右岸の主だったため池に入っていく。この札の辻井 堰について特筆しておくべきことは,札の辻井堰から右岸に入る水は亀越池の 水も含んでいるという事実である。つまり,亀越池は図1にみるように,その 位置が右岸とは全然関係のないところにあるようにみえて,じつは右岸用のた め池なのである。どういうことかといえば,亀越池の水は一度土器川に落とし てから札の辻井堰まで導き,ここから土器川本来の水とともに右岸に引き入れ る。土器川とは関係ないため池を札の辻井堰から遠くへだたる山中にっくり, その池水を,土器川を水路としつつ,すでに存在するいくつもの井堰一一札の 辻井堰の上流には古くから薬師横井,片岡上所横井,間藤横井などいくつもの 井堰があったーーを越えて札の辻井堰にまで導くという,この巧妙かつ強引な 計画が実行に移されたのは時代はさかのぽって江戸初期の寛永年間のことであ り,実行の立て役者となったのは鵜足郡は岡田上村(現在の綾歌郡岡田上)の- 2ー 香川大学経済論叢 [五毛] i前波池 〔岡田村) { 二i也 大窪j也 〔飯野村〕 図 1 土器川右岸・左岸の水利 反
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可
、
23 戦後香川の土地改良事業と満濃池 3-大政所・岡田久次郎であった。そして亀越池築造後,仁池,小津森池,大窪池 などが次々と築かれて岡田の村むら一帯の林や畑は水田へと姿を変えていっ h ''-0 ところ、で,土器川と左岸のかかわりはどうか。先述のとおり,札の辻井堰の 下流には左岸用の出水も多数存在するが,しかし,左岸最大のため池にして, かつ,左岸全体の親池ともいうべき満濃池はその水源が金倉川であって,土器 川とはもともと何の関係もない。だから後述するように,昭和
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年にはじまる 満濃池の用水事業において最大の難関となったのは土器川にあらたに水利権を 設定することであった。C
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満濃池の第
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次かさ上げ
土器川沿岸用水改良事業の発足 昭和14年 9月半ばのある暑い日,満濃池 の堤防に隣接する神野神祖の境内で満濃池普通水利組合と県の耕地課との会談 がもたれた。ときあたかも県下の農村は大干ばつにみまわれ,満濃池の掛かり からも収穫皆無の村が出現するなど,そのありさまは惨たんたるものであった。 組合の幹部らは干上がった満濃池の白い池底を指さしながら,県の当局者に次 のように訴えた。、昭和5
年に堤防を5
尺かさ上げしたが,今年のような干ばつ の年には水はなお足らない。ついては再度かさ上げしてさらに池水をふやした しゾと。 当時,時代は戦時下にあって国是とされたのは食糧増産であった。そのため か,満濃池掛かりの陳情はすぐさま農林省の取り上げるところとなり,事業費 の半額が国庫補助される県営用排水幹線改良事業として採択された。満濃池の 堤防を6メートルかさ上げするこの事業はその名称を「土器川沿岸用水改良事 業」という。「県営土・器川沿岸用水改良計画書J(昭和1
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年)によれば,高さ2
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メートノレ,長さ 153メートルのコンクリート堰堤を土器川に築造し,その貯水 をかさ上げした満濃池に導水する一方,右岸側にも送水して土器川両岸の水田 の用水を増強しようという計画であった。コンクリート堰堤の築造で湖底に家 屋と土地を失うおよそ1
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戸の農家は移民として満州、│に送り出すつもりであっ-4- 香川大学経済論叢 4 たといわれている。下流の多数の利益のためには上流の少数の犠牲も止むなし とする戦前の公共事業最優先主義にもとづく強引な計画であった。 土器川沿岸用水改良事業は昭和16年に開始された。しかし,導水路のトンネ ルもすでに265メートノレばかり掘りすすみ,用地買収も一部はすでに完了して いた昭和19年,資材不足,労働力不足のために工事は中断を余儀なくされた。 築堤工事はじまる 戦争で中断していた工事が再開されたのは,昭和21年 のことであった。池尻に近い池下部落に設営された「土器川沿岸用水工事事業 所」には電灯もなく,職員も所長を含めわずか
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名という小所帯での再出発で あった。事業は県営であるから,所長は県庁の耕地課課長が兼務する。 工事再開にあたって,土器川からの取水計画はコンクリート堰堤から頭首工 に変更された。頭首工が建設される天川はコンクリート堰堤築造の予定地で あったところよりさらに 5キロ上流の地点、で,ここから約 4,700メートノレの導 水路を新設して土器川の水を満濃池に引き入れようというのである。そして, 新しく築かれる堤は旧堤より 6メート/レ高く,堤高は32メート/レ,堤長は155 メートルという規模であった。新堤が完成すれば貯水量はこれまでの780万立 方メートルから一挙に 1,540万立方メートルへとふえる。旧堤の外側に,旧堤 に重なるように築かれるこの新堤の天巾を幅広く 20メートルもとったのは,恒 例のユル抜きのとき,例年,堤防上に出店や屋台が立ちならんで見物客が多数 寄り集うことを配慮したからであった(図2
。) 工事は堤の床掘りからはじまった。掘り下げるところは河床であるから,作 業は湧水に悩まされつづけたという。床掘りが終われば埋め戻して次は盛土で ある。盛土に使う用土は近傍の山を切り崩して採集し,これをベルトコンベア で現場まで運ぶ。そして運ばれた土は蒔き出して締め固めながら堤を築いてい く。築堤の作業ははじめは昔ながらの人力で行われたが,やがてトラクターや ブノレドーザーなどの機械に代わった。工事に必要な労働力は近郷の農家から調 達したが,終戦直後のことゆえ人夫がなかなか集まらず,村むらに強制的に割 り当てて何とか人手を確保したという。 このたびの築堤の場合,盛り上げる土は21万8,000立方メートルもの膨大な5 戦後香川の土地改良事業と満濃池 図
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満濃池の堤体断面 A:寛永8年(1631)西嶋八兵衛による堤体断面 B:戦前 C:現在 資料) I満濃池1(季刊大林No40,
1995) 14頁より. -5ー 量である。当初は資金不足や機械不足,さらには労働組合問題などのために遅々 としてすすまなかった築堤工事も,昭和2
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年ころから県側の体制もととのい, 昭和2
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年2
月に満濃池土地改良区も設立されてそのペースがはやまった。昭和 27年 3月 28日の四国新聞はそのありさまを i工事は高松市玉藻建設が土砂運 搬を請け負い,延長一九0
メートノレの大型コンベアで一日二00
立方メートlレ もの土砂を運ぶという大がかりなもので,水漏れを懸念してコンクリートは全 然使わず,このため付近の小山六か所は変形するほどにつぶ、され,毎朝午前四 時頃から寒風にさらされ,野鳥の不気味な声を聞きながら総燭光五000
ワッ トの投光器の光りの中で最後の仕上げを急いでいる」と報じた。新堤が完成し たのは,昭和 27年 3月のことである。 ところで,築堤工事の遅延の原因のひとつとして労働組合問題を上に指摘し たが,当時の時代状況を知るために,このことについて少し言及しておきたい。 つまり,戦後間もない時期,日本民主化の一環として労働運動の高揚があった ことは周知のところであるが,その余波がここ土器川沿岸用水改良事務所にも おしよせて「満濃池労働組合」が結成された。はげしかった昭和 23~24 年当時 の組合運動の状況について,かつて土器川沿岸用水改良事務所の職員であった ひとりがii県営事務所」の看板と並んで「満濃池労働組合」の看板が懸けられ, 事務所内には組合専従者の机が設けられて,最盛期には男子1名,女子 1名が 常勤して組合事務を処理すると云う,現在の事務所では考えもつかぬ事態が約-6ー 香川大学経済論叢 6
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年以上もつづいたのであった。日く「労働協約の締結j,日く「有給休暇の要 求j,日く「経営協議会の提案」と,全く応接にいとまのない労働攻勢で,所長 室に組合幹部の姿が見えぬ日はないと云った状態だ、った」と回顧している(回 顧文の掲載されている「まんのう」は,今回の満濃池工事竣工を記念して昭和 34年に発刊された)。そして,組合問題に苦慮した県当局がとった対策は,施工 する工事の大半を満濃池普通水利組合と請負契約することによって直接に工事 を監督する立場からはなれるというものであった。このような県の姿勢は満濃 池土地改良区設立以降も続く。 土器川沿岸用水改良事業から満濃池用水改良事業へ 戦後の工事再開にあ たって,満濃池の取水計画がコンクリート堰堤から頭首工に変更されたことは 先に述べた。しかし,右岸,左岸の両岸共用のコンクリート堰堤を廃止し,左 岸の満濃池に導水するためだけに頭首工を築造するのであれば,左右両岸の用 水事業はこれを右岸,左岸一体のものとして実施する必然性はもはやない。そ れどころか,満濃池はこれまでに土器川から取水したことがなししたがって, 満濃池があらたに土器1
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から取水することになれば,右岸側は何の利得もない ばかりか,取水のやり方いかんでは旧来の水利権を侵害されることにすらなる であろう。しかし,工事再開の当初はこれまでどおり,左右両岸一体の計画の もとに満濃池の事業はすすめられてきたのであるが,やはり懸念されたように 昭和26年 8月 2日,右岸側から突然,、満濃側ではすでに築堤工事・天川導水 路の建設がすすんでいるのに,右岸側の工事は一向にすすんでいなしゾ、満濃側 は右岸事業の工事費を一部負担する約束であるのに,その負担率について言を 左右にして明言しない汐等々を理由に,事業の中止を求める陳情書が農林大臣 宛に提出された。 今後ともこうしたトラブルの続発が予想されたため,県当局は昭和28年 4 月,土器川沿岸用水改良事業を右岸側と左岸の満濃側に分離して実施すること を決断,こののち右岸の事業は「土器川右岸用水改良事業j,左岸の事業は「満 濃池用水改良事業」としてそれぞれ別々にすすめられることとなった。ここに 満濃池用水改良事業として実施された工事をあげれば,すでに昭和25年2月に7 戦後香川の土地改良事業と満濃池 -7-工事がはじまっていた天川導水路建設の継続,昭和
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年取水塔,昭和3
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年余 水吐け,昭和3
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年天川頭首工等々であった。満濃の新規取水にかかわる天川頭 首工については後述するとして,取水塔の建設について少し説明すれば,まず, 今回新しく築かれる取水塔は煉瓦造りの旧取水塔(大正3年建造)に代わるも ので,工事に着工したのは稲刈り前の11月のことであった。取水塔は池中にあ るから,これをあらたに築くとなると,池水はいったん池の外に落とさなけれ ばならない。工事中は貯水できないから,建設工事は急を要する。 3交代制の もと,昼夜を措かずすすめられた新取水塔工事が完了したのはその年の暮れの1
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月3
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日であった。 なお,満濃池用水改良事業が発足した昭和2
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年,-県営金倉川沿岸用水改良 事業」が発足した。かさ上げによって豊かになる満濃池の水を下流の広大な受 益地に対し効率的にロスなく送水するために8本の幹線水路を改善整備しよう という当事業は,昭和 41年には改善整備すべき水路を 4本ふやすなど事業規模 の拡大がはかられた。工事のすべてが完成したのは昭和 44年 3月のことで,事 業の対象となった水路は総延長5
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キロに達した。投じた事業費6
億3
,9
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万円 は満濃池用水改良事業費5
億4
,3
3
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万円を上回る。 水没農家の補償問題など 満濃池の堤防に立って湖面を見はるかすその先 端の地は五毛の集落である(図 1参照)。かさ上げ工事のたびごとに五毛集落の 人たちは奥地へ奥地へと移動を強いられ,今回はさらに集落の農家40戸のうち3
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戸と1
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haの水田,0
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.
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haの畑,2
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haの山林などが水没するほか,神社やお寺 も移さなければならなかった。 移転農家に対する補償交渉は難航をきわめた。農地の買収はすでに戦前には じまっていたが,補償交渉を再開するにあたって,買収完了の農家,一部買収 の農家,未買収の農家それぞれの立場で利害が異なっていたことが補償交渉を いっそう困難にしたのであった。県当局と水没農家との補償交渉は農家ごとに 行われ,昭和2
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年にはじまった折衝が完了したのは満濃池用水改良事業完成の 前年の昭和33年のことであった。ちなみに,水田および畑の買収価格は1
0a
あたりそれぞれ1
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万円と1
2
万円で,生活補償費としては大人には3
万6
,0
0
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-8ー 香川大学経済論叢 8 円,子供にはその半額を支払い,このほかに協力感謝料という名目で
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戸当た り10万円の補償金が支払われている。 天川頭首工と満濃池をむすぶ、導水路の敷地となる農地や山林の買収も簡単に すすまなかった。先の「まんのう」によると,天川導水路建設に関して次のよ うなトラブルも紹介されている。琴平の象頭山を右に見ながら土器川の上流に 向かつて国道438号線をしばらく王者で走ると,琴南町役場を過ぎたころに天川 神社の欝勃たる杉木立が目に入ってくる。天川導水路の隠道はこの杉木立の真 下を走っているのだが,隆道建設当時,境内の地下を掘り下げるなどとは神域 を汚す不敬の所業であるとか,掘り下げれば必ず神木の杉が枯死するとかで氏 子らの猛反対があり,県当局から神社に寄付金を出すということでようやく工 事着工にこぎつけたという。このトラブルの舞l台となった天川神社の参道口の すぐ下,国道438号線をへだてて土器川が流れており,ここに天川頭首工があ る。 昭和31年春のトラブル 満濃池用水改良事業を推進するにあたって満濃 池土地改良区にとっての難関は,五毛集落における水没農家の補償問題と用地 買収のほかにもうひと‘つ,天川頭首工から取水するための右岸側との交渉で あった。先に述べたように満濃池はこれまで土器川から引水したことがなし したがって,土器川に対する水利権はない。先に満濃側による右岸工事費一部 負担云々のことにふれたが,これは推測すれば,満濃側が土器)[1からの新規取 水の代償として右岸側にみずから申し出たからのことであろう。それはともか く,昭和2
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年に満濃側が天川導水路の建設に着手したとき,この時点、ではまだ, 満濃池が土器}I1から取水することに対する右岸側からのはっきりした承諾はな く,、正式な交渉は後日グということでともかくも工事ははじめられたのであっ た。 天川導水路の建設も頭首工を残すだけとなった昭和31年の春,満濃側と右岸 側で次のようなトラブJレが発生した。土器川上流の用水事情の一端を知るため にこのトラブルの模様を紹介しよう。 図3を見られたい。天川頭首工ができる前,そのすぐ下流に「大横井」と呼9 戦後香川の土地改良事業と満濃池 -9ー 天)11頭首工 大横井 土器川 図 3 天川頭首エ付近の水利状況 ばれる井堰があった。これは右岸側の琴南村内田集落の専用井堰で,この井堰 の水路はすぐ下流で杵野川と合流し,集落内を流下したのち,西
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11と呼ばれる 小1
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と合流してふたたび土器川に出る。天川頭首工が完成したら,大横井は廃 絶し,枠野川の水は天川導水路に落とし,内田の集落に必要な用水は天川導水 路から引き入れる計画であった。天川頭首工が完成して枠野川の水が流れるよ うな状況にあれば,これは満濃池が取水できる水ではないから土器川に返さな ければならない。その装置が西川と交差するところに設けられた天川導水路の 西川放水門で,水路の水は水門を開ければ満濃池に落ち,閉じれば土器川に落 ちる仕組みであった。昭和31年のはじめには頭首工のほかは天川導水路も西川-10- 香川大学経済論叢 10 放水路も工事が完了し,水路には枠野川の水も流入していたのであるが,この 年の
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月,土器JlI
右岸土地改良区連合から満濃池土地改良区へ一通の抗議文が 送られてきた。抗議文に日く,西川放水門を閉じて満濃池への通水をストップ したと。水路を流れる枠野川の水を,満濃側が自らの手で水門を聞いて満濃池 に導水したことに対し,右岸側は水門を閉ざす措置に出たのであった。 右岸側に知れれば非難されることを承知しながら,西川放水門を聞いて枠野 の水を満濃池に引き入れたのには,満濃側に次のような切迫した事情があった からである。それは先述のとおり,昭和30年の秋から暮れにかげで実施された 満濃池の新配水塔建設工事のために冬季の貯水期間がそれだけ短縮されたとい う事情である。昭和31年6月20日のユル抜きまでに貯水できる池水は平年の 8割を切るであろうというのが大方の予想であった。そして昭和30年は昭和 14年以来の大干ばつの年で,満濃池土地改良区として2年連続の干ばつだけは 避けたいという気持ちがあった。そういう気持ちから満濃池土地改良区は内田 だけの了解を取り付け,水門の錠を解いて水路の水を満濃池に引き入れたので ある。西川放水門が閉ざされてから4
日後,満濃池土地改良区の代表者は右岸 連合の理事長に陳謝し,かさねて満濃池導水を要請した。 天川頭首工の建設ー満濃池用水改良事業の完了 土器川を横一文字に築か れた幅25メートノレの天川頭首工が完成したのは,昭和34年3月のことである。 頭首工左岸の取入堰には,土器川の流量が毎秒2..5立方メートノレを超えたとき, その超えた分だけが溢流するようにつくられている。天川頭首工がこのような 構造に設計されたのは,満濃池土地改良区と土器川右岸土地改良区連合の間で 昭和33年2月に締結された協定書の第2条「乙(満濃池土地改良区のこと一注) は「天川頭首工地点」に於ける土器川流量が毎秒2..5立方メートル以上に達し たときに取水する」にしたがったものである。 それでは,協定書にいうところの毎秒2
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立方メートルとは何か。それはこ れだけの水量が確保できれば土器川右岸の水田はすべてかん瓶できる水量であ り,したがってこれ以上の水は瀬戸内海に流れ出てしまう水であった。満濃池 が獲得したのはこのような右岸側には必要のない無用の水であったが,しかし,11 戦後香川の土地改良事業と満濃池 -11ー 古くから数多くの井堰や出水が存在し,そのもとで慣行的に厳しく複雑な水利 秩序が形成されているような土器川の場合一一讃岐の河J11はいずれもそのよう な状況にあるが一一、そこへあらたに参入するとなれば,こういう形でしか参 入するよりほかに途がなかった。それも,もし,右岸,左岸相対の直接交渉な ら,おそらく右岸の新規参入はなかったのではないか。県営事業として満濃池 用水改良事業を推進させなければならぬ立場の県当局が幾度も幾度も右岸と交 渉を重ねた結果,ようやくにして成立した上の協定書であった。 天川頭首工の完成によって,満濃池用水改良事業はすべての工事を完了した。 戦前の土器川沿岸用水改良事業開始からかぞえれば,じつに 18年もの歳月を要 した大事業であった。 逼迫する満濃池土地改良区の財政事情 満濃池用水改良事業に要した経費 は総額5億4,332万円であった。このうち半額を農林省が補助し,残り半額を 県と満濃池土地改良区で折半する。したがって,満濃池土地改良区の負担金は 事業費の4分のlにあたる 1億3,583万円であり,この1億3583万円の80% のおよそ
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億円は農林漁業金融公庫からの借入金でまかなわれた。しかし,事 業完成後,満濃池土地改良区はこの借入金の利子すら返済できないほどの財政 不振に陥った。 土地改良区の財政は改良区が受益農家に課す賦課金によってまかなわれる。 そして土地改良区があらたに大規模な事業を実施する場合は,通常,賦課金を 増徴するなり,受益農家を増やすなりして資金の調達が行われるのであるが, 今回のかさ上げ工事では,当初予定の1,300haの新規加入地区は実際はわずか 300 haにすぎず,さらに次のような組合内部の事情から賦課金を増徴すること もできなかった。すなわち,満濃池掛かりは証文水地域と呼ばれる上流地域と それ以外の下流地域では配水に厚薄のあることは別の機会(たとえば,拙著『戦 前香川の農業と漁業.D2
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頁)に述べた。しかし,改良区の賦課金はその変更を 求める下流側の強い要望にもかかわらず,戦前来一貫して均一賦課の方法が踏 襲されてきた。だから,下流側にしてみれば上流側の用水潤沢は下流側の犠牲 のうえに確保されてきたものであり,今回のかさ上げ工事の費用はその犠牲を12ー 香川大学経済論叢 12 償う意味でも上流側が負担すべきであるという強い思いがあり,あえてかさ上 げを必要としない上流側は上流側で,工事の費用は工事を必要とする下流側が 負担すべきであるという態度であった。このような土地改良区内部の対立を解 消することなく今回の大事業が進められたため,事業完成後に満濃池土地改良 区は極度の財政不振に陥ったのである。そしてすでに指摘したようにかさ上げ 工事の関連事業として昭和28年からはじまった金倉川沿岸用水改良事業で改 良区の財政赤字はいっそうふくれ上がった。 かさ上げ工事完成 3年後の昭和 37年,満濃池土地改良区は農林省など関係機 関に「財政再建についての陳情書」を提出,農林漁業金融公庫からは新規の借 入,償還元利金据え置きなどの財政支援を得つつ,懸命に財政再建に取り組む ことになった。財政再建の見通しがついたのは香川用水が満濃池掛かりにやっ てきた昭和50年ころのことである。 満濃池土地改良区が極度の財政負担に陥ったころ,土器川右岸土地改良区連 合も同様に極度の財、政負担に陥っていた。そのために土器川右岸土地改良区連 合は事業を中途で打ち切ることになるのであるが,以下,あらためてそこに至 るまでの土器川右岸土地改良事業を概観しよう。
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土器川右岸用水改良事業の概観
土器川右岸用水改良事業の発足 昭和28年の4月に土器川沿岸用水改良 事業から右岸側を分離して満濃池用水改良事業が発足したことは先に述べた が,右岸側の用水改良事業ー一一正式名称を土器川右岸用水改良事業という 一一ーもそのときに発足したのであった。そしてその1
か月後の昭和28年5月, 当事業の推進母体として土器川右岸土地改良区連合(以下,連合と略)が設立 された。連合を組織するのは,亀越池土地改良区など右岸の 12の土地改良区で ある。関係地域は丸亀市,坂出市,飯山町,綾歌町,満濃町,琴南町の2市4 町で,受益面積は2,165刷5haにおよぶ。 それでは,土器川右岸用水改良事業はどのような計画内容であったか。事業 実施にあたって亀越池土地改良区などが県に提出した「香川県営土器川右岸用13 戦後香川!の土地改良事業と満濃池 13 水改良事業計画書J (昭和28年3月6日)によれば,まず第1に,札の辻井堰 打越池の打越池導水路,打越池 小津森池・仁池の小津森導水路・仁池導水 路,それに飯野幹線水路の各幹線水路の改修であった。「その断面が狭小不整形 で,加うるに漏水が多く……」と計画書が述べている古い幹線水路は延べ
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キ ロについて改修される。第2は亀越池のかさ上げであり,第 3は備中地池をか さ上げして新しく水資源を開発する。そして最後に第4
は札の辻井堰の改修で あった。ただ,札の辻井堰改修計画は,向井壌をめぐる右岸・左岸の水争い勃 発(昭和3
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年)と天川頭首工建設(昭和3
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年)という新しい状況発生のもと に,大川頭首エ新設に変更された。右岸事業の経緯をみるまえに,この大川頭 首工建設について言及しておこう。 大川頭首エ建設をめぐって 昭和3
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年の8
月1
3
日,連日の日照りのため に讃岐の各地で干ばつの被害が出るなか,札の辻井堰で右岸と左岸の水争が勃 発した。 8月 15日付けの四国新聞はそのありさまを「土器川を挟んで水げんか 一約百名が座込み」と題して,次のように報じた。 「一三日午後一時頃,綾歌郡長炭村長尾部落=耕地面積四十五町歩=が,土 器川の取入れ口,札の辻井堰を同川全体に作り,川の水を同部落に引き入 れようとした。このため対岸の吉野地区野津郷,宮東,宮西部落ニ耕地面 積四十五町歩=では,従来二分されていた土器川の水を全然こちらへ流さ ないようにするのはもってのほかだと長尾側が作った井堰を直ちに切って 落としたため,川をはさんで両部落の農民が対立,それぞれ約五十名ずつ が同日午後七時ごろからクワ,ツノレハシを持って川をはさんで座り込み, 不穏な形勢を示した」 図4にみるように,札の辻井堰直下の左岸には興免,荒川の出水があって, これらふたつの出水の水は吉野地区に入る。札の辻井堰はこれまで土器川の右 岸堤防から川の中央部まで築き,そして長尾地区は右岸寄りの水を,吉野地区 はその下流で左岸寄りの水を取るならわしであった。しかし昭和2
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年の台風で 河床の状況が変わり,昭和3
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年の夏の土器川は川水が左岸寄りにしか流れなく なったため,長尾地区は札の辻井堰を川幅一杯に築く措置をとったのであるが,-14- 香川大学経済論叢 14 制 流 卦付 〔吉野地区〕
ノ
[長尾地区〕 i前波i也 (救援水) (上流) 図 4 大川頭首エ付近の水利状況 これでは下流の興免・荒川の両出水に水が落ちなくなる。そこで,吉野村が記 事にあるように井堰を切り落としたのであった。 昼間は警官が井堰の堤上に座り込み,夜間はパトカーの照明灯があかあかと 現場を照らすというものものしい警戒のなか,1
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日に至って事態はさらに険悪 となった。というのは,この日の午前中,亀越池のユルが抜かれ,この池水を 確保せんとする長尾側がふたたび堰を川幅一杯に築いたからである。さきに述 べたように,亀越池の水は一度土器川に落としてから札の辻井堰まで導き,こ こから右岸に取り入れる。そのために長尾側はふたたび、1
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幅一杯に築いたので15 戦後香川の土地改良事業と満濃池 15-あるが,しかし,あたかも堰を築く口実をつくるために亀越池のユルを抜いた と疑われでも仕方がない長尾側のこの行為に対し,吉野の農民たちの敵対感情 はさらに高まった。 8月20日の四国新聞はこのありさまを r……土器川をは さんで対立している農民の数は刻々増えており,一触即発の危機をはらんで夜 に入った」と報じた。 ところで,亀越池は長尾地区の用水にとどまらず、右岸全体の用水なのだから, 右岸の士地改良区連合の合意なしに岡田村は亀越池のユノレを抜くことはできな い。
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日のユル抜きは,当然,右岸全体の了承のもとに行われたとみるべきで あろう。また,吉野地区はもともと満濃池掛かりなのだから,札の辻井堰をめ ぐる吉野村の用水問題はやがて満濃池土地改良区の問題でもあった。したがっ て,このたびの吉野地区と長尾地区の水利紛争は,左岸・満濃池と右岸全体に かかわる。裁判事件にまで発展した当水利紛争の農事調停がととのって協定が 締結(昭和33年3月5日)されたとき,協定の当事者の一方が満濃池土地改良 区,もう一方が土器川右岸土地改良区連合であったのはこうした事情からであ り,そしてまた,大川頭首工が土器川右岸用水改良事業のなかに組み込まれて 建設されたのもこうした事情からであった。大川頭首工が竣工したのは,昭和 34年8月30日のことである。ちなみに,亀越池の水が放流されたとき,右岸専 用の用水であるこの亀越池の水は左岸側に流出せず右岸側にのみ流出するよう な構造に頭首工はつくられている。 さて,協定はどのような内容であったか。正式の名称を「香川県土器川右岸 用水改良事業中『札の辻(大}l1)頭首工』に関する協定書」というこの協定書 の第3
項に rr札の辻(大川頭首工)によって取水した水は,左右両岸の直接掛 り面積に按分し,右岸側7..5,左岸側2..5の割合により分水するものとする」と あるように,その分水の割合は右岸3に対し左岸1である。協定書に関連する 「覚書」に「大川頭首工改修前の分水の比は左右両岸対等であった」と記され ているから,これまでの分水慣行からすれば,このたびの協定は左岸・満濃側 にとって大きな譲歩であった。さらに,協定書第5
項によれば,連合から要請 があれば,満濃池土地改良区は救援水として満濃池の水5
万立方メートルを右16- 香川大学経済論叢 16 岸に送らなければならない。そのために,満濃池の水路のうち土器川寄りの水 路に連結させて土器川を経て右岸に出る分水路が建設された(図4参照)。救援 水はこの分水路をとおして右岸に送られる。しかし,なぜ,左岸・満濃側は分 水割合で譲歩し,また,救援水を右岸に送ることに同意したのであろうか。そ の理由はまさに,土器川に左岸・満濃池の水利権を新規に設定するためであっ た。そして昭和34年3月,土器川の水を満濃池に導水するための天川頭首工が 建設されたことは先に述べた。 事業の打ち切りと香川用水 昭和29年度打越池幹線水路改修,昭和31年 度仁池幹線水路改修,昭和32年度小津森池幹線水路改修,昭和34年度大川頭 首工建設,昭和37年度備中地池新設,そして昭和38年度飯野幹線水路改修と, 順調に進捗してきた土器川右岸用水改良事業であったが,昭和38年度末に亀越 池かさ上げを残して事業はストップした。 なぜ,工事はストップしたか。それは次のような事情からであった。土器川 右岸用水改良事業の場合,必要な資金はその75%を固と県,残り 25%を地元が 負担し,地元の負担金は各土地改良区から徴収する賦課金でまかなわれる。そ して連合の定款によれば,賦課金のうち,備中地池や大川頭首工など水源地事 業は全事業費を各土地改良区の受益面積で按分し,水路事業は事業費の20%を 全土地改良区で負担,残りの80%は関係土地改良区が負担するというルールで あった。したがってとりわけ,幹線水路の改修工事の場合,当幹線水路にかか わる土地改良区において賦課金が負担できないといったことにでもなると,工 事は資金難からすすめられなくなる。事実,昭和
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年に飯野村が丸亀市に合併 されるという状況のなかで,飯野幹線水路工事が本格化した昭和3
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年以降,当 水路の関係土地改良区である飯野土地改良区からの賦課金の徴収が滞るという 事態が発生したのである。さらに羽間土地改良区においても後述するような事 情から昭和3
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年に連合を脱退することを決め,以降賦課金を納入しなかったた めに連合の財政がいっそう悪化し,ついに連合は事業そのものをストップせざ るを得なくなった。 農林漁業金融公庫に対する償還金が遅延して未払い分がふくれ上がっていく17 戦後香川の土地改良事業と満濃池 -17ー なか,連合は昭和40年12月,飯野,羽間の両土地改良区連合ならびに丸亀市 に対し訴訟を起こした。しかし高松地方裁判所は裁判による決着をさけ,県当 局に調整を依頼した。たしかに飯野土地改良区の賦課金滞納,羽間土地改良区 の賦課金未納は法律違反である。しかし,羽間土地改良区側は羽間土地改良区 側で,大川頭首工が建設されたために羽間地区の水源である「大出水」が枯渇 したこと,羽間池導水路工事に対する連合の助成が不履行であること等々,連 合に対する言い分がある。また,丸亀市は丸亀市で,これまで飯野村が助成し てきた飯野土地改良区の賦課金は合併以降は丸亀市が代わって助成する約束に なっていると,このように飯野村はいうけれど,市当局の認識はそのような合 意は明文上成立していないというものであった。それに,事業の受益地の末端 に位置する飯野地区(図 1参照)では,亀越池のかさ上げが実現していない現 状では,幹線水路を改修しでも,事業の用水増強効果はほとんど期待できない。 こうしたさまざまな事情を考慮、した結果,裁判所は和解による解決の途を奨め たのであった。そして和解は昭和 48年 8月に成立した。この間,連合は両土地 改良区の受益地に対して用水供給のための措置を講じる一方,昭和41年3月の 総会において事業の打ち切りを決定し,亀越池かさ上げに代わる水源として香 川用水を求めたのであった。土地買収をともなう亀越池かさ上げでは
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立方 メートル当たりの水価220円に対し香川用水では60円ですむのであるから,こ れは当然の決定であったといえよう。ちなみに,この年,香川用水建設規成会 が設立され,翌昭和42年に早明浦ダムの本体工事に着手して香川用水の実現も 間近という状況にあった。 以上概観したように,土器川右岸ならびに満濃池用水改良事業においてかな めとなった工事は,大川頭首工と天川頭首工の建設であった。このふたつの頭 首工の建設によって土器JlI
の新しい水利秩序が形成され,土器川の水は左岸地 区およそ 4,600ha,右岸地区およそ2,200haの水田をあますところなく潤すこ ととなった。讃岐農業水利のー研究者の命名にしたがえば,土器JlI
は「鉄砲J
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から「母なるjllJへと変貌したのである。18ー 香川大学経済論叢 18 参 考 文 献 1 .県営土器川沿岸用水改良事業計画書J(香川県,昭和16年) 2..r満濃池工事竣工記念発刊 まんのうJ(県営満濃池用水改良事務所・満濃池土地改良区, 昭和34年) 3 .辻 噌之「土器川沿岸用水改良用事業と満濃池嵩上げ工事の概要J(1香川県における水資 源および土地の有効利用に関する研究平成元年度香川大学教育研究プロジェクト報告 書J1990年3月) 4.r右岸連合設立の経緯と天川頭首工の現況と評価J(土器川右岸土地改良区連合所蔵) 5 嶋村利文「満濃池関係の一連の県営事業の完成にあたってJ (W香川の土地改良!No.l28. 昭和44年 11月) 6 高松秀信「幕を閉じた県営金倉川沿岸用水改良事業J('香川の土地改良JNo.l28.昭和44 年11月) 7 藤倉庫夫「香川県営満濃池用水改良事業完了に際してJ(1香川の土地改良JN.o6. 昭和 34年6月) 8 讃岐のため池誌! (香川県,平成12年3月) 9 辻唯之『戦前香川の農業と漁業J(信山社,平成 5年) 10川辻 唯之『戦後香川の農業と漁業.1(信山社,平成8年) 11 r土器川右岸調書 N.o2 J (土器川右岸連合所蔵) 12 r香川県営土器川右岸用水改良事業計画書J(土器川右岸連合所蔵,昭和28年) 13. 県営土器川右岸用水改良事業土地改良所長・杉平鉄雄「県営大川頭首工の完工にあたっ てJ('香川の土地改良J11号,昭和34年11月) 14香川清美「讃岐における連合水系の展開 第II報J(1四国農業試験場報告』第10巻,昭 和39年3月)