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職業教育に於ける人格陶冶の問題-香川大学学術情報リポジトリ

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商工摩臍研究 第十四巷撃一躾︵餓帥㍍配︶

職業教育に於ける人格陶冶の問題

階 順 職米蔵背1即ち凝集的陶冶を主とする教育をその尭旨となしてゐる襲校忙於て、人格陶冶卜即ち岬般的陶冶を義眼と する教科軋携る者にとつて殊忙、共通なる最大の嘘、みは、専門的なる職薬教育と一般的人格陶冶とを如何忙調和してゆ くべ牽かといふところにあるではないかと考へる。勿論この間題は、教育撃上の古典的な認婁問題であ夢、随って教育 に携る著すべてにとつて等しく重大闘心事であるべ尊であり、また事賓、さうあるであらうことを信ずるものである が、貿黄昏門拳銃にあって人文教科を議ずる者忙とっては、との偶みは姥に直接探.刻のもの1やうである。本稿憶、以 上の問題を私自易の問題として解凍の迫を見出すべく歩を進めて見たものであつて、﹁研究﹂といふよりはむしろ〟己の ﹁意見﹂であヮ0忙過ぎない。併L今日、何々塾或は何々造鬱などゝ解して人格的陶冶を主眼とする如き教育の勃興しっゝ ある一方、塾ら聴葦的必要上より多くの賢弟撃校の急設されようとL、人格陶冶と職業教育とが贋際上愈々隔属せんと するが如き傾向kある時機に於て、また或はモの反封忙、耐老を山暦緊密に聯閻せしめようとする婁選の脚つの現れと 思はれる中等教育山元化開放の論議されっつある機倉に際して、これらの嗣者即ち、聴弟教育と人格陶冶との関係問題 職業教育に於ける人格陶冶の開成 ︵入五︶ ︼

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について考爵して見ることは、教育仝般の上より、何等かの意味を有ち待ることではないかと思は九る。 十、問題−職染的陶冶か人格的陶冶か 二 間題忙封する種々なる立場 二仙 個性即全人聞牲 四 解凍!敬治的陶冶即人格的陶冶 + ﹁職業教育に於ける人格陶冶﹂なる題下の考察に於では、兜づ筋㌶に教育E甘zieFunOqと陶冶Bi己u点との意義並に その関係とについて考究する必要があるであらう∵﹂れについては、両者を全く同数と解するもの、同位概念と 見て前者は外部からの助成であるが後者は内面からの形成であるとするもの、前者は意的同化であるが後者は知 的同化でぁるとするもの、後者を前者の上位概念と解するものなど、軽々の見解があり、そして多くの問題をそ こに学んでゐるのであるが、併し今はそれらのことに深入りすることはせすに、雨着を各々同意義のものと解し、 そして題意を只、﹁職柴的陶冶を主眼とする驚築拳校,簡柴専門畢校に於て人格的陶冶を如何に考ふ恒きか﹂と いふ如き意味に解しで論述を進めてゆかうと忍ふ。こゝに於て問題は自ら職柴的陶冶と人格的陶冶即ち叫般的陶 冶との正し阜関係如何といふ、コ驚に現代の教育に於ける一間越中の間魔﹂ といはれてゐるものとなる。これは全 教官界に亙って存し、而艮繁琴訓蹄姦議の諸方面に関係を有っ錯雑した問題であるが、それを幾分でも軍縮化 麓十四怨 ′第 こ.渋 ︵八六︶ こ

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するために、私は以下、背光軍門拳校の教授方面に於け姦問題として主として論述を進めて見波いと思ふ。 蒐づ教育上陶冶とは如何な畠ことであるか。それは外部から血走の形式を附興することではなくして、内面か らの畿展藍息味し、眩って児童・生徒の自認的活動を倹って初めて成立し成果するものとされてゐる。即ち陶冶 とは、仙定の方法の下に人間の内面的精紳汚劫を出来得る限り完全な姿に恐展せしめる作用並にその結果をい ふ。随ってそれは、作用方面より見る時は自己活動による内面的教展を意味し、目的上より見る時は、人間金本 質の完全園藩なる形成を意味するものと解される。 人格的陶冶と職業的陶冶とはこの陶冶叫般の下位概念としで並列的に考へられてゐるものである。先づ人格的 ll 陶冶とは仙般的陶冶ともいひ、全人問性の多方面なる調和的敢展を特に冒的とする教育を指し、略薬的陶冶とは 仙定の職柴に刺する知識技能を得しむる教育黎意味してゐる。後者はこれをまた嘲明朝闇ともいふ。佃詳詮する ならば、前者は人間心身の諸方面の幣達を意を用高、その人格を進め、、賂釆如何なる職葵に従事する場合にも必 要とするところの基礎的性能を養成することを指し、後者は、心身の金牌的恐展よりもむしろ職幾人として将来 の生活に必要なる叫定の職纂を鼠習けしめんとするものである。前者を主とする教育を我が園では通常、瑠璃観 潮といひ、彼脊を主とする鴻のを管柴教育または専門堅田と呼んでゐる。 本釆差別のあるべきで広路同じ人間の同じ教育に、以上の如き封立的二方面が償別せられるせいふことは、人 細性の上からも教育の本質上からも首骨じ得ぬこと∼忍はれるのであるが、番寛に於でこの二方面は、古米教育 聴染教育に於ける人格陶冶の問題 ︵八七︶ ≡

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弟十匹l容 第二離 ︵八八︶ 四 の両方面として償別的にのみ考へられて釆た。希臓の皆既に方便的な職華教育と目的自侶としでの自由教育とが 閲別せられ、羅馬に於てもこれが叫般に量守せられてゐに。その後教育畢の進歩するに従ひ、教育理想給も次第 に多きを加へるに至ったが、それらも多くは以上の封立的二方面を認め、その上でそれらの何れか叫方を選ぶと いふ如き立場のものであった。今自、我が国の挙校数常に於でも、大儀に於て以上の二方面を封豆的に認めてゐ ることば、法令に徴して見ても明かである。 兜づ小峯校令姉叫條に﹁小輩校ハ児童身鰻ノ張連二留意シテ遺徳教育及囲民教育ノ基礎﹂を授くるを以て本旨 とすとなしでゐるのは人格的陶冶のこ七を規定し、次に〓凱英ノ生活二必禎ナル普通ノ知識披灘ヲ授クルヲ以テ 本旨耳ス﹂とあるのは、それと政行して倣柴的陶冶の行はるペきことを規定してゐるものと解される。故近制定 の青年畢校令の第二僚﹁青年革校ハ男女常年二封シテリノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涌養スルト共二職柴及ビ鸞際生活 二項要ナル知識技能ヲ授ケ以テ困民クルノ資質ヲ向上セシメルヲ目的トス﹂も亦この趣旨に従って定められたも のと察せられる。 次に中華校令第州債に﹁中拳校.ハ男子二須嬰ナル高等普通教育ヲ馬スヲ以テ目的†シ特二問民遺徳ノ養成こ脚力 ムヘヤモノトス﹂とあり、また高等女革校令第山仮に﹁高等女拳校ハ女子二須嬰ナル高等普通数奇ヲ焉スヲ以テ 目的†シ轡一−観民遺徳ノ登城二カメ婦徳ノ涌重工留意スヘ吏モノトス﹂とあるは、共に人格的陶冶のことのみ規 定んてゐるやうであるが、これは驚菜拳校令弟二億の職柴的陶冶の規定に相塑止してゐると考へられたためのも

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のと忍はれるぺ即義堂塾校令拾〓快には次の如くあろ、﹁鸞柴解校ハ驚柴ニ・碓轟スル者ユ頒密ナル知識技能ヲ 授クルヲ以テ目的1ツ聴ネテ徳性ノ鳩車二カムヘキモノトス﹂。この後車は人格的陶冶の規衰であるが、それは・ 附加的のものであつで、仝條の趣旨はいふまでもなく職業的陶冶である。即ち初等教育に於て結合的に考へられ 圭教官の両方面が、中等教育に於ては全く分潮的に考へられ七趣きがある。 この中等教育に於ける分離的劉立状態が直ちに高等教育に於ける高等塾政と専門革校との封立にまで延長され でゐることは、各々のその法令を見れば明かである。即ち高等拳校令第山條には﹁高等畢校ハ男子ノ高等普通教 育ヲ完成スルヲ以テ目的トシ昭二駒民選徳ノ充葦二カムヘキモノトス﹂とあり、轟門輿校令姉﹂條には﹁高等ノ 撃彿技塾ヲ教授スル革校ハ軍門塾校トス﹂七あり、錦附加的に﹁専門畢校二於テハ人格ノ陶冶及閲鰐観念ノ養成 二瓶患スヘキモノトス﹂と規定されでゐ‖るのである。 攻後に大挙令姉仙旋を見るに、﹁大攣ハ図家二娼要ナル単術/理論及ギ應用ヲ教授シ並其ノ辣奥ヲ攻究スルヲ 以テ目的トシ粂テ人格ノ陶冶及国家思想ノ編撃−望息ス︷キモノトス﹂とあり、これも轟々職柴的陶冶と人格的 陶冶との結令七日指してゐる牒の之解し得ち血電のでめる。 以上の如く人間教育七は常に二方面のもめが窄へちれるのであるが、人間は本来すべて人格者であ名さ共に職 業人で透るべきである。故に人間としでこ.の甘に慶する以上、何人も人格の向上に芯瑠と共にヰ首必ず一定の職 業に綻ひ、以て日・他に刺する自らの本分を完うせぬばならぬものである、。縫って教育も亦常然この二方面に亙 ● 職染教育に於ける人格陶冶の問題 ︵八九︶ 五

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︵九〇︶ 六 第十四谷 罪〓 鮮 って、禰むそれらが完全に調和する如くなさるべきである。けれども驚際に於てこれらの二方面即ち人格的陶冶 と職業的陶冶とがそのやうに先金に調和的に葦現されるといふことは、教育上の瑚想でしかあ竜に過ぎない牒こ の理想が番襟上帝に賓甥され=てゐるとすれは、そて、に糾嘩の起心得る竿はないが、驚際的に徹りの不調和・矛眉 をそこに見由すが故に、それが我々教育者の切葦なる画題となり、探測なる憾みともなるわけである。卑近な例 ● によつて見るに、例へば葦葉革校や轟門畢校の接徒は、中撃校や高等辟校の生徒に比して、人格的陶冶・仙般的 敬重の鮎ほ於て甚だ遺憾と思はれる境地に礎かれてゐ、︰そのために諺の卒業生も、人物や識見といふ槻鮎よりし で、比扱的に狭小であると見られねばならぬ如き鮎がなくはないであらうか。また反割に中挙校や高等単校の生 徒は、職業や貰務から縁遠い人格や教養万両に偏した陶冶めみをなさしめられる結果、草葉しても賀川に適せぬ やうな人聞に仕上げられる傾向がないであらうか。かくの如きことが、勿論多く■の例外は認められるであらうと しでも、′ 叫般に禽撒的にも承認せられ、ま主審蜜としても布衣するものとするならば、それは人間としての教育 上大い服考旛を聾する問題といはなければならぬ。何故ならば、人格と職業とは、前述の如く、人間すべてに於 て新森的二元者であつてはならや、それはもと′1山鴨的のものとなつてゐなければならぬと思はれるからで ある..それを本来離衣的のもの、或は離春的たらしむべきものゝ如く御し、そしでその▼山方にめみ強調鮎を遅く 如き教育の思潮・方法ほ、・その選ばるべき仙方の何れたるとを閃はや、人生の意義や人間性の本質を顧みぬもの といはなければならぬ

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然るに絹にも述べに如く在米の教育思想はこれら両者を難療的にのみ、そして相互に矛盾するものとしてさへ

考へ釆つにやうである。ヂユ†イも指摘せる如く釈餐c已tureと職業言Cati。nとが相封宜し、教寒が有閑階級

の純精紳的にしで朋想的な、そしてま㌍何人の私的な非祀愈的洗練となり、職繋が肉髄的労働や物質的生産に附

し、ノ雨着が械然と格別され来ったのはー嘗に教育界の根強き因襲であつた。由ってそれらが同時に間也となる場

合、その提題の形式は﹁職業的陶冶か人格的陶冶か﹂といふ掃山的選言命題のかたち営とるのが普通であった。

こゝに問題も悔みも生じたのである。併しながら、今やこの捉捜それ白身が反省されなければぢら聖そしてそ

れについての我々の結論を便宜上務め提示するならば、教育は常に.﹁人格的陶冶にして而も同時に職業的陶冶﹂ でなければならサ、縫って.﹁撒葉的陶冶が直ちに人格的陶冶﹂とならねばならぬといふことである。それ故に残

される間庖は・只、この﹁職業即人格﹂﹁人格即職業﹂の教育を如何にして賓現すべきかといふことのみとならなけ

ればならぬ。これらのことを以下主として驚聖教育を中心として論述して見たいと欄ふのである。

職業的陶冶と人格的陶冶との脚係問題は∵古来嘗際上にも柑々鍬綜した姿態智明は七まに多くの箪老にまつ

で理論的にも色々に取扱はれ発った。我々、は次に▲それらを便宜上川つの立場に分期しで概見してみたいと忍ふ。

ー・−方 主 菜

職尭教育忙於けあ人格陶冶の間組 ︵九一︶ 七

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︵九二︶ 八 加斗匝瑳.第 二択 先づ鈴一に以上桶者の小の何れか二ク曾﹂偶人に連行することに放て、充分にして完全なる入聞教育の驚甥が 兼盲れ得るとする詮が翠げちれる。その輌カの何れがその個人に進行さるべきかば﹂その何人の配合的地位によ って不動的に定められてあるとするのである。この巧へ方は階級的隈別の厳格な配合には常然のことゝしで許さ れてゐたやうである。その放も典型的なものはプラ二トンやアリスナテレスの教育詮にこれを見出し得るであら う。プラトンの理想的北ハ和樹に於て考へられた詮によれば、人間は生来受配楷顔と被支配階級とに分たれてゐ、 その各大の階級にはそれに相應はしい〓〃卵教官のみが授けらるべきであるとする。即ち、支配階級には人格的 陶冶を、そして被支配階級には職柴的陶冶を施すべしとしたのである.。アリス十テレス亦この訟を奉じ、上流の 支配階級には非蜜Ⅲ的な目的日限としての自由教育を施し、商人や奴隷などの被支配的下層階級には寄ら蟹用的 な方便的職葉歌麿を威すべきであるtなした。彼によれば、人間の生活には本来多忙の魚活と閑暇の飴活とがあ る。前者は自己叫身の生計や観衆存立のための鉾臍的・暦務的鋒活、謂はゞ戦争のにめの免餌であり、後者は壁 間や輩術に過す謂はゞ平和のための生活である。前者の日棟は寄ら管用といふところにあり、後者の日概は糞的 なものにある。.戦争は平和のための手段であり、多忙は閑暇を得るための方便である。畦つで閑暇のにめの自由 教育は目的百偲であり、多忙のための職業教育は方便的意味暫しか有た軋ものである。然るに希膿の都市闘家に 於て閑暇の生酒をなすやうに凄まれてあるのは上流の豪族階級であり多忙の坐活を花すやうに定められでゐるの は絢人や奴隷の下暦階級である。随って後者にはその生活に即する方便的琴職豊艶脊を施すべく、前者には職業

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に班はされることのなき自由教育赤飯すべしとするのである。これと昇々同じやうな土とが、階純利魔の峻膳仁

和度に於ける教育や、また我が国にあつても、封建時代の武士と庶民の教育に於て大椙認められてゐにやうに恩

はれる。l

以上の如き立場が葦際的にも粧凍の弊宰をもたらし、理論的にも親万であることは榊よりいふまでもへ甘い。そ

れは故に誤れる聞外観・人間観・酢骨髄・職葉観の上に立つ七ゐるかちである。児づこの見方は蒜に精榊と物

筑、仝篤と部分とを別輿のもの主兄、而もそれらが矛盾的判立を先すもの∼如く僻する二元論的冊堺欄の上に立

つてゐるものと思はれる。勿論以上の如き教育詮を有ったアリス†テレスの幣解説が二光論的であつてといふの

では穏い芸ハ、人格的陶冶と職業的陶冶とを矛屑封立的に置別する考▼ヘカが二光論的であ牒といふのである。何

故ならば、人格は道徳的領域の理想として、本来精油的・仝槻的即ち流山的であることを本質上するが、、職柴は

辟済的領域の方法としで、物質的・部分的即ち分業的であることをその本繹としてゐる如く考へられるからであ

る。併し㍍がらさうした二元論的世羅観の葦は狭うであることはいふまでもない。次にこの見雰は人間件の本質

を洞瓶してゐない。人間は閑暇のみの布布でも多忙のみの存在でもあり得ない・。閑暇と易忙とは屑の両面であ

り、人間牲はこの二つのもの右端ハに有っことにょつて完成され、人生はこの二つ爽に琴?しとによつて慣侭ある ものとhuるのであるじその﹁方のみを十偶人に定めることほ不合理であると典に不可能である。次に一般に楷寂

是認の軋禽槻は鋳りである。天収入碓説を保つまでもなく、塗れた時人間はすべて平等であう十我が囲について

激発教育に於ける人格陶冶の問題 ︵九三︶ 九

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発ヤ四巻 罪こ畢 、■ ︵九四︶ 血○ いふなむば、⊥衰の下、由民すべで中等である?教育に於ても機愈均等の原理の行はれねばならぬといふことは いふ卓芸ナもない。配合の階級は若しそれが尭るとしても、決しで支持さるべきものではなく、況はんや固定化き るぺきものでは掲封にない1臨つでか∼る階級のための準備を意味する如き股初よりの仰方的教育強制ほ、教育 上罪悪的のむのであ 制度上、痙臍上何れの閃由によつて行はれるにもせよ・1﹂個人はその天版や個性を錬視せられ、配合は階級的細 粒よ巧自らにして醸成される悪弊のために自己硬壌にまでも導かれねばならぬであらう。最後に以上の∵万的見 方は誤れる職契機の上に立ってゐる。即ち撒光宏単に物質的控酒的生産活動にのみ限局し、政治・挙間・革術・ 軍事等の方面にも職葉蘭域あることを無税してゐるのである。何れにしても教育を機柴の仁めのものと人格のに めのものとに両分し、それらの二万のみを何人に階級的に運命づけ、叫方の教育が他方には有害であるかの如く 思惟する!励へば依らしむべし知らしむペからすといふ如き1考へ方は、根本的な棋謬であるといはなけ ればならぬ。今日、主として杵柄的暴偶のために所謂教育上の横倉均等が得られや、以上の如き報れる教育思想 が事貨上行はるべく飴儀甘くされてゐると小ふやうな状態が放してないかどうかを反省することば、絹代人とし ての我々の義務であらう。 以上の立場に似で而も趣旨を異にしてゐると恩はれるものに、人格的陶冶か職葉的陶冶かの何れか二カにのみ 教育の本質を兇糾すものがあ怒これは嘉覧囲める鮎で蹄遇のものと同じであるが、妄のみを認める断でそ

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れと興るのである。先づ人格的陶冶のみを教育と考へるものとしでヘルパル下を撃げることがで一きよう。彼によ れば、教育とは﹁般的なる人間陶冶のみを小ひ、唯必要に迫られて飴儀稼ぐ行ふ所謂暇柴的陶冶は教育とはいひ 得ない。教育といふ以上その目的は専ら人格的陶冶の人間教育のみでなければならぬとなしに。﹁君子は撃仏ら す﹂といへる礼子の思想や、それに註するに﹁器は各々其の用に適して相通する能はす。成徳の士は餞典らざるな し。故に川周からぎるなし?特に仙才二勢にるのみに非す﹂となせる栗子の思想の中にも以上の如き考へが見ら れ得るであらう。かくの如く人格的陶冶をのみ教育となす考へ、方は、教育や職業のl概念を散りに数量に解するよ ト′起った謬見であつて、今灯その針ゝに支持され得るものでないことはいふまでもない。 右と鑑反封の立場に於で、職柴的陶冶にのみ教育の本質を認めようとするむのにゲーテやロダンなどの塾術次 がある。即ち、﹁〓早宮威すものはすべてを成す﹂といへ去ゲーテの考へヽ一二審を難解するものはすべでを和解 する。すべての中に同様の淡則あるが故に﹂′ょいへ去ロダンの思想の巾に、⊥つの撒薬に徹することによつて﹁ 切の暇柴に必婁な能力即ち人格的な力を完成し得るとなす考へ方が看取し得られるの′である。この考へ方を〓修 撃的に磯展させたものとして、ケルシエンシ声クイナーの職柴教育詮が額げられる。彼によれば、純僻な人細へ は我々の天分としでの職条約活動からのみ導かれ、そしで理想的な人間とは有用な人間のみであるや予股的陶冶 即ち人格的陶冶なるむのが若しあるとすれば、それは接活の終局にのみあり、畢校教育のなし得阜濃鹿の仕事は 生徒の粍紳構造に相通合した文化財になるべく探ぐ導くのみでぁるとするつこの詮の亘に我々は∵憫性に州應じ 職染教育忙於ける入梅陶冶の問題 ︵九五︶ ㌻−

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滞十開巻∴.郡こ渋

︵九六︶ 山二

た職業的陶冶倉威すことにのみ教育の本質を見出す思想を看取することができる。山般に特殊が普遍を食み∵部

分が仝髄を宿すといふ考.へ方からすればこの説には眞珊性がある。けれとも究極に於て人格の陶冶を目指す如き

職葉的陶冶履これを純然たる職鶉陶冶といへるであらうか。普遍を含む特殊や金柑を桁す部分を謹ん示ること

は、普遍や金髄を既に換盈削挺してゐるものともいひ得られるであらう。職業的陶冶概念の中に人格的陶冶ぉも

強健仲に包秘しでしまふが如き訟に我々は賛同することはできない。

算するに如何なる意味にもせよ以上の叫方、ヨ弊誌々は賛成し得ない。それは今日の教育魂象の小に、人格陶

冶的方面と職柴陶冶的方面との現存することは、思想的にも蕃質的にも否定し得ぬことと思はれるからである。

2 連 結 孟轟

上述の教育上の二万而は、右に述べ仁如く夙くか埼認められ、∴博捜にされ来ったものであるが、摘に箪柁教育

に於て職菜的陶冶の畢ルぜられるやうになつにのは近代の文化軋曾に於てであるとされてゐる。その埋拍として

デューイの尊げるところによれば、.兜づその第山のものは近代に於ける労働禽苧酢倉本什の精紳の整慧厨 う、何人も醐定の職柴によつて肛愈に奉仕する頚務を有つとの信念をこ般に閉めるに李つたことである。筋±は 近代

の文化赦愈に於いて特に蹄解約活動の盈要件とその鶴岡とが増大されて衆たことセある。箪こは料贋的基礎

の上に立つ近代的産業を途行するには特別なる知的数黍を必要とするが、その教養の陶冶が革袴警−1に委ぬられ

たといふエとである。帯川に近代席栄職基礎たる科挙は蜜鞠的方法を特色として有つが、その葦脂の場所たる任

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務哲壊校が有りやうになつにといふことでぁる。揖∬に近代に於ける挙習心址の研究の結兼としで兄韮期の遊戯 と成長後の作業即ら職発との間に本質上の合致鮎が見出され、遊戯から作葉への推移を漸進的ならしめよう 意粗から、畢校に於ける遊戯哲次範に作業化せんとするに至ったことなと、である。これらの埋由は何れにぁせ よ、今日拳校歌抒に於て人格的陶冶と同株に職.菜的陶冶の盈変組をれてゐる番貨は否定するわけにはゆかない。 絶って我々の立場も、この事襟髪机にして以上の叫方主義に止ってゐるわけには勿論ゆかサ、補方を共乍認め、 同等に盛んずる如きものとならなければならぬ。これを仮に弼重いふならば、今日存する革訟・主張はす ● ペてこの両方主義であるとい あらうと瑠へる。 その第⋮のものを恨に連結重義と呼ぶ。即ち大鰐時間的昭麗の関係に於で輌宥を組合せんとするものである。 この説の代敦者としてはコーン及びシュプランガーを翠げることができるであらう。コノーンは先づ最初に一般的 人相的陶冶を施すと北ハに、その開聞に於て同時にすべての職柴に必婁なる叫定の能力を典へ、職柴の選韓につい ての準備的知識をも授け、次いで橋架的陶冶に移り、知識階級に封しては更に⋮犀高い梓盛砂叫駁的陶冶を魔す べきでみるとしたひシュプランガーも大野jれと同じ立場に於て陶冶を三つの段階に分ち、第仙段を基礎的な瑚 般的人格陶冶とし、第二段を職柴的陶冶、箪二段窒向等なる人格的陶冶となした。即ち第町段に於ては児童の郷 土を中心としてあらゆる文化に閲する一般的精細財を得しめ、緋二段だ於て自己の炸質に相礁じた文化的活動即 職基数育忙於ける人格陶冶の問題 ︵九七︶ 二ニ

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魂十四谷.篤二輩 ︵九入︶ ∵圏 ち職柴的渦動台なし、以て自己の本分を全うし、文化敢愈の有力なる二月たらしめ、聖顔に於て両者を綜合せ しめんとしtのである。 さて、、叫融に職柴的陶冶といつても、それは⋮単に叫定の職薬のみに教育の冒棟を崖くべきものではない。自己 の根葉への沫き理解は必ず他の職菜との閲係の理解にまで導くものである。それ故に自己の職柴を拭く理解する ことは、それだけまた全文党活動に封する金髄的詳解をも深めるものとなる。それ故に高等なる人格的陶冶は賓 ほ職柴的陶冶を適してのみ可能であるわけと克る。また逆に職薬的陶冶も、それが仙般の人相的基礎なしに完全 に行か得るものではない。人格的陶冶が職業的陶冶のためにも不可紋的基辟教育となることも疑ひ得ぬことであ る。即ち職菜的陶冶は人格的陶冶の上にのみ可能であるといはなければならぬパ以上の見地から、コーンやシュ ブーフγガーの詮には多くの眞理性を認めることができる。殊にこの連結重義的理葡は、峯校系統の問題を解決す る場合の有力軋る総揚となることができる。現に我が国硯凝に於ける拳校系統も大鰐に於て右の如き三段階的原 理の上に立ってゐると解されるのである。血ち小峯校・中畢校は太閤職柴的陶冶の準備のための人棉的陶冶の場 所と考へられ、・その上の専門革校は人格的陶冶を加味した職柴的陶冶の場所、ノ′更にその上の大単は仙暦高き意味 の人格的陶冶の場所と考へ・られるからである。尤も、小輩嘩︰甲拳校∴向等螢校・大挙のコースは右の三段階説 に和合的であるとはいひ得ない。 以上の三つの段階が明確に分割されて時間的系列の下に配鑑さるべきものでないことは、勿論シユ.プランガ1

(15)

も認めてゐるところである。即ち三者は常に相互的蘭係に於て存し、それによつて;の生きたる金牌的紳紐を

形成すべきであり、人格的陶冶と職業的陶冶とは不可可離の関係にあるべきものでぁる。このことを彼も認ゆでゐ

るやうであるが、併し何れにしてもこの≡段階甜を挽く以上、やはりそこに両者を嘲應分離的に考へて、然る後

これを時聞的に連結したものと鬼ざるを得ない。随って魔の意味の相踊、即ち牒時的相即的摘聯を主張する我々

の山皿場よりすれば、佃未だあるべき教育の眞の姿を如賓に祝いてゐるものとはいひ得ない。それ故に大盟に於て

である。この立場のものとして私は、﹁理論的教育拳﹂の立場に於け碧

むべく努助てゐるのに過ぎない。

れ努﹂ヽに批判的に論じょうとするのでは勿論ない。只、由へられてある制度の下に於て政事を措し得る遣を求

脅分離約に封立せしめてゐることは、理想的状態とんて我々の認容し得ぬところである。併しながら、私は今そ

にも述べる如く、中等並に高等数百に於て、人格的陶冶を主とするものと職業的陶冶を主とするものとの両系統

理想的にのみ考潤するとするならば、それは叔尊のものとして無條件に認容することばできぬてのらう。即ち後

右の三段階謝的原理によると児はれる我が図現時の畢校系統も、飴儀なき他の董の諸條件を備に考旛せす美ハ

3 並 置−革 義

並避主意と便宜上呼ぷ牒のは、人格的陶冶と職柴的陶冶とを同仙時間内に並列的に存起せしむペしとするもの

轟げ得るではないかと考へ

る。コ撥的陶冶と職薬的陶冶の封立ではなくて、兵の内在的な交互聯開こそ教育の中心着眼釦であり、鵬■が他

職共教育に於ける人格陶冶の開成 ︵九九︶ 劇五

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弟十川怨 第こ択 ︵山00︶ 二ハ から分れ、分れながら結合する其の姿にぞ、いつでも教育者の限は注がれねばならぬ﹂と挽かわる﹁禦晶﹂の 立場に掛ける博士の紛は、次に準ぺる相即主義にめると忍はれるが、﹁叫般的陶冶は、職業的陶冶を通じてゞは なく、寧ろ職柴的陶冶と相並び、職業的陶冶の偏局に封抹する粛として、人を自由ならしめる陶冶である。そし てか1る封扶G蔓nWirkungとして、自由への遣として叫般的陶冶は結局は、常畢的態度の教養の外に存しな いであらう。﹂と静かれる前著の立場は、特に封杭なる言葉によつて硯はされてゐることからも推知される如く、 並置主義的のものと御し得られかと思ふのである。博士によれば、職葉的陶冶の偏局に封推してこれを救解すべ き抑‖塾的態度乃至常劉的紳の 精教養とは、署に教科としての腎単による数百のみを指すものではなく、全開的統 叫としての哲拳的珪命を増ふものであり、常塾の外、科革・塾術∴示教などによる教薙藍息吹するものである。 そしてそれによつて﹁個人を自由ならしめ、仙切を金牌との紬聯に於て理解せしめ、高所より、せ界、人生を達 観し得る、供い見界と、深い洞察を輿へ、分光の赦倉に於ける職業的活動から埠る偏局を救ひ、よりで以て、職 柴的活動を人造化苧m呂isi¢⋮nOqする事﹂﹁哲塑的精紳に充たす番﹂をなさんとするのである。かくの如き﹁仙 般的陶冶と職莱的陶冶の二者は相互に相補うて全きを得る﹂ものであり、随って﹁現代の職柴教育が、励もすれ ば専門家、′披術家の養成に偏し、叫般的陶冶との紺係に封する顧慮を快いてゐるのは、恨事と冨ほねば誓つ空 と将士は挽かれてゐる。 両者を相互補足的のものとして封批的に並崖せしめようとするこの態度は、蹄の時間的連結主義に射しての蛋

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間的並列重義といへる。硯今我か図の拳校教育がこの立場に於てその日的を定立してゐることは、前掲の辟校令 に於て明かに看取せられるところであらう。即ちその中では、人格的陶冶と職業的陶冶とが、﹁蛍ニ﹂﹁共一こ或 は﹁免テしなる首薬によつて紺係づけられてゐるのである。随って該拳校内の単科日の選棒配営も大憺に於てこ の立場に於てなされてゐるやうである。その最も明かな例は賓柴笹校に於けるそれであらう。今、.商業挙校につ いてこれを見るに、文部省令︵大正十年八月叶八日︶に次の如く規定されてゐる。﹁商業畢校ノ撃科目ハ修身∵公 民科−図語・数拳・地理・歴史・理科・外国語・照雄︵武道ヲ含ム︶並一岬商畢二閑スル蓼科す及嘗習トス但シ箇 番・エ菜・農薬・其他ノ単科目ヲ加設スルコトヲ得。﹂即ち血般的な人格陶冶的単科目に並べて商柴即ち職兼的陶 冶に資する峯村自及び賃習が規定されてゐる。そしてその職業的陶冶に要する畢科首に′関しては次に﹁商業二閲 スル重科目人商事要項・簿記・商品・商党女・商業算術・商業地理・商業史・商業洪規。商業英語・タイプライ テシグ・速記術・其ノ他必要サル事項ヨリ漢籍シテ之ヲ定ムべシ﹂﹁商柴二開スル単科目及賓習ハ其ノ両部ヲ選 樺科目下馬スコトヲ得﹂と規定されてゐる。高等商美挙校に於ける単科日の選棒配常も暑チアjれと固じ趣旨の下 に各々規定されてゐるものと思はれる。 併しかくの如き並誼主義に於て、職業陶冶的賓発車科目と人格陶冶的人文単科日との理想的配分を確定し得る ことは頗る困雑なことであり、而もあらゆる方面の考慮検討に於てこの困難を起服することは、まさしく常路者 の盈要な任務と思はれるのであるが、仮に私見を挿むことを許されるならば、少くとも現在の軍門畢校に於ける 職兼敏育に於ける人格陶冶の問題 ︵仙○こ 則七

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第十四番 第二兢 ︵一〇二︶一八 人文革和白の、そしてまた反動に高等拳校に於ける葦葉的単科目の仙般的に僅少に過ぐるを私は認めぎるを得な い。併しながら、これらのことも勿論私はこ∼に論じょぅとするのではない。こゝでも志すところは只、輿へら れてある単科課程に於で最善の遣を求めんとするのに過ぎない。蓋し教育制度といひ単科路程といふも、それを 生かすものは要するに整円者自身にあると思はれるからである。かくて我々は叔後に、定められてある革校系統 と輿へられである単科課程との下に於て、而も濠車を轟し得ると忍はれる究極の立場として、また特に教育者の 人間的要素に最も緊密の関係ある立場として、相即主義一覧挙げたいと寧ふ。

4 相 即 主 蓑

.時間的連結主義も董間的並琴≡童も要するに兜づ引き離された職菜的陶冶と人格的陶冶とをいかにして結合す・ べきかといふところに問題を見出すものと思はれる。ところで相即主義は、故初から両者を引き離すことをせ す、不可離的相即のまゝに弼者を相互に補足し、相互に生かさんとするものであそ即ち人格的陶冶に於丁職業 教育をもなし、職柴的陶冶に即して人格教育㌢も速行せんとする立場である。卑近な例を車げるなうば、例へば 球算練習の中に甜意力・決断力・綿密醸等をも養ひ、簿記の修得中に炭理愛好性・應報的宗教感情・美的情挽尊 をも、また経済拳の蓼習中に宇宙観・人生観をも併せ得しめんとするものである。そしてまた例へば修身に於て は商人学渡せ術をも、壷単に於ては廃せ術や経せ韓民族をも授けんとするものである。要するに賛米軍科目の 中にむ人格陶冶的要素を語痴し、人文単科日に簸ても職柴陶冶的要素を鸞現せしめんとするものである。これは

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職柴を全人閲生活の鵬部分として教へ、分共な金座東の⋮環としで理解せし協、専門を人間の任命として自覚さ せるところに完成されると考へる。この相即主義のよつて立っ根接は全人問性即個性といふことであβ。我阜は 次にその根接を珊玲的に明かにしなければならぬ。 三 職菜的陶冶と人格的陶冶とを本来矛屑するものゝ如く考へる思想の横松には、人冊的布衣に於ける伯仲と仝人 間性とを根本的咤、或は本質上異つにものと思惟す亭考へが存しでゐ各やうである。何故ならば、職栄は個性に 閲し、人格は全人問性に基づくものと思はれるから了のる。これら両者の関係はやがては部分せ奄鰹、何と仝、 自由と統制などの関係にも繋りを有つものであり、随うでそれだけまた、特に現代に於て、盈要件を有つ問題を 梢成するものと点はれる。個性と全人問性とは兼してその如く本来別奥のものであるであらうか。この間魔を探 究することに 間牲なる選評を原理的に明かにしなければならぬ。 先づ全人問牲の考察から初めよう。叫慣に人間が他の動植物から畷別される桝以の本質、即ち人間の人間たる 所以の本質は何であらうか。これについては古来常識的に例へば、入閣は道具成ば火を使川する動物であること や、言葉を有つ動物であることなどがいはれてゐた。併し今日は、哲畢的人間革の立場より厳密津速なる研究が 峨薬教育忙於ける人格陶冶の問題 ︵山○琴︶ 山九

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第十四巻 発こ琴

︵二じ旭︶ こ○ これについて果されつ∼ある。その∵つとして、マックス・シテ−ラーの詮の車げられることは、今は殆ど何人

も知ってゐることであらう。彼は過去に於ける西欧の代表的人間観として彗の牒の、即ち神輿的人間観・背嚢

的人間観・白然主義的人間観・人類蚕靡観的人間観・要請的無神論に於ける人間観を肇げ、自らはこれらすべて

を批判しっゝ而もそのすべてを調和する立場に於て、人間の本質を規定するに精紳に浦された生物G軋st乳彗e沸 訂bewese。七なしたのである。併しながら、この精神に渚ぎれた生物とは、人間を理性的動物animahatiO邑0 として規定し、いはゆる理性人′FOm⋮apien∽を尊蓋した希臓的古典的人間解繹と本質に於て異るものとは恩 はれない。只異るところは、その理性が後者に於ては感性乃至衝動と矛盾するものと考へられたが、シ土−ラl

に於てはむしろそれを底礎としてその上に成立するものとなす鮎のみに過ぎぬやうである。我意シューエアーの

人間解樺に全面的には同意をなすものではだが、併し今述べた鮎、即ち感性乃至衝動を底礎として街その上に

理性を有つ存在として人間を規定することには全き聾者表するものである。即ち人間をシュトラー的意味に於

て理性的存在と解繹し、感性乃至衝動を有うっ品もそれを武雄として、それを超えに理性なるものを所有する

といふところに、人間の他の生物より異る所以の本質を見出し得ると億ずるものである。

さて然らばその理性とは何であるか。、それについては私は、その理由の詳述は今は省かねばならぬが、それは

普通考へられでゐるやうに感情や意志に相封立する理知ではなくして、知情意を統合した人間特有の精油的活

動、即ち時に論理的思惟として、時に塾術的情擁としてーまた時に道徳的意志として牽劫するところの高等複雑

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なる精神的活動と見る。今仮にコーヘンなどの見解に従って動物共有の感性乃至衝動を自然意識Natu旨ewuss一 宮inといふならば、以上の人間特有の精神活動はこれを文化意識K已言rbew宏StSeinといふことかできるであ

らう。かく解するとき、理性的有産とは要するに文化的存在といふことであり、文化を所有するといふそのこと

が、結局に於て、人間の動植物と興る所以の特質であるわけとなる。

次に然らばその文化とは叫鰭何であるか。これについてもこゝに詳しく論やる暇はないが、要するにそれは理

想的人間生命の自己表現であり、文化佗倍に於てまはされた全人間性の結晶であると解される。ところでその文

化慣倍としては普通に、琴撃琴撃力・琴利等が奉げ得られ、そしてそれ等各々の慣値には辞盛上の茸即ち慣

低等級が認められると共に、またそれら相互の問に、.支配依屠の関係即ち慣値償系の認めら汀るのが普通であ

る。然るにこの償値鰭系なるものは、理念的には唯一のものを理想的に構成して見ることも可能ではあるが、賓

際には各人各棟のものを硯嘗的に構成してゐ、それによつて日常の生活々動をもなしてゐるのであつで、この現

驚的慣値鮨系が多稀多様なればこそ、人々は多くの文化領域に於て各棟各棟の文化活動に自己の最善をつくすこ

ともできるわけである。即ち例へ.ぱ単著は眞を、薮術家は美を、辟清人は利をす指して、各々科挙・黎術・経済

なる文化領域にその文化的活動をなし得るのである。かくて慣倍鰭系なるものは、理想的には叫・たり得べきも現

質的には多であり、理念的には確立し得べきも管際的に′は固定的に決定できぬものと見なければならぬ。

さて然らばそのやうな硯管的慣低牌系の多を可能ならしめでゐる人間的根城は何魔に尭るであらうか。我々は

職染教育に於ける人格陶冶の問題 ︵鵬〇五︶ 二劇

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︵副〇六︶ 二二 弟十四番第 こ渋 これを結局入関の仰他に於て見出さなければなちぬと侶やる。何故ならば何件とは、偵伯創造に放ける不可分割 .的なる唯︸軌であり、また西田博士の定義した如く、﹁成る慣倍を中心とせる憤慨意識の所動せる内面的秩序の 猫自性﹂であるといへるからである。即ち伯仲とはその個人が如何なろ僧侶鰐系を規賓に於て認め、そして如何 なる文化慣鹿を至上のものとして驚際に求めつヽあるかによつて、 文化慣佑に闘係を有つが故に、憫牲を完成しで簡明することはやがて文化慣値を嘗現する所以と打†り、仙切の文 化活動は仰件の張揮にょつで可能であるともいか得られるであらう。然るに☆化活劇は、前述の如く、理件的存 轟としての人間特有の活動であり、謂はゞ人間惟を完成し軍規する所以の道である。換言するならば、全人問低 は個性の教抑によつて初めで管規完成され得るのである。かくて全人間作は相性によって自己を警視する。叫般 に佃は全の、そして部分は金牌の自己限定であるといへる。ライプニッツの軍手は小字苗としてそれ自照大串由 を映すものであつたのである。かくで聾するに全人問件の完成即ち人格の完成は偶牲の認坪に於て初めて可能と なるのである○ 以上我々は全人問件への肇究を探めることによつて個性に到達した。全人問性と個性とは相即的のものであつ て別其のものでないことが明かにされた。即ち人間棟数育即ち人格的陶冶が偶作教育即ち職葉的陶冶と相即せぎ るべからぎふ二つの理由が明かにされたと思ふのである。 次に方向を換へて個件から出撃しぺ別の遺を剋つで検討を進めで見ることにしよう。何件Indi≦.dua−ityとは

(23)

既に見た如く人間が人間たる所以の核心であり、その意味でまさしく不−分割1性Ⅰ㌢diまduai・ity であるが、 それはまたその常人ビけの有つ特殊性であり、この意味では不蔓分配−性Ⅰ苧di七id喜Tity 即ち不分有仲でもあ る。即ちそれは﹁私だけのもので他人のものではない﹂といふ性質を有ってゐる。ハイデッガーが碍存春Da乱芦 の存在規定としてそれに辟した各自性Jemeinigkeit即ち﹁私のものといふ性質﹂ぁかくの如きものと解される であらう。貝憫的に硯驚に生存してゐる人間は、各自がすべて私であって他人ではないといふ自覚に於て春先し てゐるものである。即ち各自憧を存廃規定として有つ現存凝だけが具礪的人間として泰壷してゐ左のである。こ の各自悼といふ音昧の個性をその本質として有つところの、その現存泰的人間とは然らば如何なるものであらう か。この問題を考察することによつて私は、個性といふも結局それは全人問恍であるに外ならぬことぉ次に明か lニしようと思ふのである。勿論詳述は今の場合許されてあらぬが故に、極く天龍の論述だけに止めで置かねば ならぬ。 ハイデッガーによれば、現存泰の存在は各自件によつて規定せられるが、それはまた、日僚的存在仲、世界1 内王存在恍、超越性等としでも規定せられるものである1こゝに超越怜とは、現存泰が世親内蜃的i︼岩er言−tFcF な個々存在を惑越すると共に世界司告そのものによつて超越されてゐることである。この世兇の中に在ると いふことが各日性を有つ現存在の本質性である。瑛布衣は世界内屠的何々存在と共にせ界の内に既に投げ入れら れでゐる。この他界とは然らば⋮餞如何なるものであらうか。 職染教育に於ける人格陶冶の問題 ︵一〇七︶ 二三

(24)

ハイデッガーのせ界はこれを二つに分つことができるであらう。即ち債鬼内展的といふときの﹁せ界﹂V尋e↑t△ と、世界﹂内といふときの世界尋告とである。先づ一﹁せ鼎﹂について見るに、これは現存在としての人間の側 にある個々の事物のせ界でありヽ現存泰に関係し、現存泰との交渉に於て初めで存赤することのセきる謂はゞ道 具のせ界である。随ってそれは範疇的な箱的基問ではない。造兵の世界では例へば遠近も専ら現存在に交渉する 親疎の関係によつて決定される。讃署の際の眼鏡と書籍とでは啓籍の方が眼鏡よりも近いとされる如くである。 ﹁世界﹂は我々の日常生活の周固に展開されてゐる自然界や人間配合であり、これを教育的にいふならば環境であ るといひ得るであらう。人間はすべでかゝる意味の環境を自ら所有し、その環境の中心たる﹁此魔﹂に、胡に眉兇 的存在としで生存しでゐるのである。このやうに自ら環境を所有しでるるといふこと、環境を自己の所有として 雄得し得るところに、人間の他の動物と興る所以の特質がある。動物は環境に於て自己を失ひ、それと.叫憾とな り、常に環境のまゝに動かされてゐるのであつて、環境を自ら所有することがない。即ち人間のみが随魔作吏的 存在であら、常に﹁世界﹂を道具として所有し、環境を自己の所有としつ>、各自性をつくつてゐるのである。 ところで、かくの如き環境を所有してゐるといふ専管は、自覚的布衣としての人間すべてに共通であり、而むそ の環境は本釆風土的性質のものであるが故に、それは全人問にとつで、殊に各民族にとつで共通である。かゝる 共通性に於て民族は民放たることができ、人間は人間たるととができる。この事貰を補して、現存泰が﹁せ界﹂を 超越しでゐるといふのである誹 第十四巻 第 こ渋 ︵脚〇八︶ こ四

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次に現存衣が世界1内1存在であるといふときノ、その世界は有限的人間に封する無限的世界、有としての人間 美封する無のせ界と考へられる。もれはまた生としての現存泰に封するところの元のせ界ともいひ得るであち う﹂生きなから而も常にこの死の眞直中にぁる故に人間は不断に死への配慮を飴儀なくせられ、無常といふ運命 を荷ふに至るのである。今これを時間的に見るとき、現在は常に﹁今﹂の瞬間を生きつゝあるのである。そしで その今を今にらしめてゐるものは、無限の過去と未釆とである。生前をも含んだ無限の過去と死後をも包んだ無 限の未来とが規泰の生を可隙にしてゐるのである。かくの如く、現尭に生きつ∼ある有として−の現存森村規定す るものとして、無としての永遠の過去と凍釆とがあそこれは﹁甘響ではなべして世界であり、むんろ冊照性 ● といふべきものである。これが各人問を先天的に規定してゐる。その限り宣於てこれはまた歴史性で凍るともい ひ得るであらう。この歴兜性は教育的にこれ々見るとぅ遣魔性凄も解され′る﹂遺体性は個人を超えて而ゃしれを 規定してゐるものであり、自由な特殊性にその場桝を定めてゐる運命的普遍性とも見られるものである。 以上の如くして現存在は常に﹁此廃そして今﹂︵首鳶n已nC︶を生きつヽあるので㊦るが﹂その﹁此虚﹂.は環 境を有つ我の規定として考へられ、﹁今﹂は遊侍を有つ我の規定として考へられる。そして大牒に於て前者は﹁せ 界﹂を後者は世界を示すものと考へられるバ▼︺の環境と遭侍とが教育々條伸つけるものであ牒が、それは各目性 としでの現存在を規定しっゝ、而もこれを超えてゐる普遍的力、運命力の如きものであるJ個性もかゝる普遍性 を離れてあり得ない。個性の背後にあつて而も個性を決定するこれら普遍的なるもの、それこそ、人間に於て鵬 職業教育に於ける人格陶冶の問題 ︵ごり九︶ 二五

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第十四春 男二渋 ● ︵仙 叫○︶ 二六 般に全人問恰と考へられてゐるものでなくして何であらう。まさしく欄枠は全人問件の日己限定たるものであ る。個性もかくて結局は全人問鮭であるといへる。個性を有つ限りに於て人間は各々異ってゐるが、全人問性を 有つ限りに於てそれはすベT叫憾である。欄牲も全人間性なくしては成立せす、もと′\雨着は不可解相即のも のであ、る。これ普通よく全人問怖が関心の蝶大としでの園周としで考へられ、まに個怜が園周の凝縮としての鼠 心として意味づけられる所以であらう.かくして結局、全人間仕切教育も個体の教育を招いては考へられぬこと が明かである。 以上我々は全人問性を探究することに於て憫陣に遭過し、また逆に相性を考究しで全人問怜に到達した.。全人 問牲と個性、即ち仙般に金と仰、公債と部分とが本来離在的のものでなく、祝しで矛倍するものでは決してなく、 本釆相即的のノらのであることが、以上に於て犬照明かにされたであがう。こゝに我々が敢初に提出した問題への 解決の遷が風漉され得ると恩ふのである。 四 個性と全人問性とが以上の如く相即的であるとするならば、欄枠の番坪は常然人格の賓甥であり、何件後顧の 職柴発寒が何よりも人格蜜現の邁であることが明かであらう。無職とか無為徒食とかを慣借ある㊦のヽ如く考へ る凪が若しあるとするならば、それは封建的遺風の中でも噂も葦患なものである。他覚とはBeru叫﹀<OCatiOnの

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語が示す如く、画に召されで紳の命を果し、全開的縦封的紳の中にあつて部分的祁判的な自己の本分を完うする 意味のものである。それは紳への奉仕であり、人間としての義務途行である。人は特殊なる文化活動としでの職 柴によつてのみ、人間としての理想を嘗現することができ、またそれによつて牒み全称脅横柄の中に恵鶉ある自 らの地位を確定しその分を果すことができるのである。生活維持のための手段といふ如き螢利的要素は、たとひ 職莫の重野な要素ではあるとしても、その本質的な要素ではない。地位・階叔・財産の如何妙問はす、人間とし で何人にも無為徒食の許されざることは明白であるといはなければならぬ。 以上のことから挙校教育に於ても、賓菜的単科日に於ても人格的陶冶を心掛け、人文的単科目に於ても職業的 陶冶牽念とすべきことが明かであらう。即ち専門的菅栄単科に於ては常に仝餞への達観を志し、仝慣の立場∫り 寄甘の意義を開明し、以て生せ界・全人生・全人格との開聯に於で専門的教材を取扱ふべきであらう。かく全焼 との開聯に於て専門を取扱ふことは専門を生かす所以であり、人格との関係に於て職業を教へることは職柴を生 かす所以である。また二万、叫般的人文単科に於ては常に専門への顧慮をなし、機業との開聯に於てその教材を 吟味すべきである。叫般的敬重をかくの如く職発との閲聯に於て施すことは、教養に内容あらしめ、それを虞に 身についたものとなす所以であらう。 以上の結論は、別言するならば、琶柴拳校や専門革校にも合科教授的要素を加味すべきであるといふことに廃 するであらう。これは脚兇暴論の如く見えるが、今日の時勢はそれを必野とするところまで進んでゐると思はれ 凝集教育忙於ける人格陶冶の問題 ︵﹁二︶ 〓七

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第十四容.第二賠 ︵仙山二︶ 二八 る。こ偶に燈するためノには、、教育者先づ、深き専門的知識と騎き人間的敦襲を得べく努めなければならぬであら ヽヽ ぅ。.自己の専門にのみ閉ぢ麓って他に言及することを故意に避けるといふ如き態度は、単著的なものとしては賞 ︳ヽヽ 揚もされようが、専門拳校程度までの教育者−−天顔の教授は別として5の態度としては、高騰に過ぎる嫌ひ があるといはれねばならねで透らう。 要するに、人格的陶冶に即した職薬教育、職柴的陶冶に即した人格教育を完成することが表に畢校教育の理 想でなければならぬ.。この鬼地から見て、人格的陶冶を主とする普通教育系統と、職業的陶冶を主とする驚乗数 青系統とを封立的に平行させてゐる現在我が囲の中等・高等教育の制度は・理憩的とはいひ待ぬであらう。中等教 育完化開港の如きは、それを直ちに蜜行に移すに、何等の論議をも必要とせぬ筈である。併しながら、現在朗ハヘ ヽ︳ られてゐる今日のこの歌官制度の下に於て、より多ぐ理想状態に近づけ得る遭を求めるならばそれは、小畢校・ 青年畢枚・大螢は別として、中拳校や高等畢校に於ては窟多く職業陶冶的配慮をなし、菅栄畢校や専門単校に 於ては現在以上に人格的陶冶・議的敢蕃の方面に多くの配慮をなすといふことでなければならぬと考へる。 最後忙繰り返し断つ七置かねばならぬしとは、以←の朗読は、教育即ち教授・訓練壷韓中の教授の方野にのみ補して なされたものであつて、賓際には訓練方野との開聯に於て説かるべきものであつたが、その方面には及ぼなかつたとい ふととである。︵則四・四二五︶

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