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新出 東山四条河原遊楽図屛風 に関する検討り 胡粉で丁寧に盛り上げられた白い桜花の中にもやはり点々と散りばめられた朱色は春らしく 可愛らしく 華やかさを増している この屛風は上質な絵の具が使われているため 今日までその発色を留めている 春の気分に身を任せ思い思いに遊びを愉しんでいる人々は様々な人間性

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Academic year: 2021

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文化情報学   十二巻一号   74~ 55(平成二十八年十月)

一、はじめに

  「 東 山 四 条 河 原 遊 楽 図 屛 風 」( 細 見 美 術 館 所 蔵 ) は 縦 が 三 十 八 ・ 四 セ ン チ、 横 が 一 九 四 ・ 二 セ ン チ、 六 曲 一 隻 の 作 品 で あ る。 最 初 期 の 遊 楽 図 と し て 有 名 な 狩 野 秀 頼 筆「 高 雄 観 楓 図 屛 風 」 は 縦 が 一 四 八 ・ 五 セ ン チ、 横 も 三 六 四 ・ 二 セ ン チ あ る た め、 本 作 品 は、 屛 風 に し て は か な り 小 柄 な 作 品だといえる。   こ の 屛 風 作 品 は、 『 伊 藤 若 冲 と 京 の 美 術   細 見 コ レ ク シ ョ ン の 精 華 』 (二〇一四)において新出作品として発表された(図一) 。   この作品の美術史的な位置づけを考えるためにまず、本屛風自身に描 かれた内容を把握する。その内容から、景観年代・制作年代、筆者問題 を探ってゆく。筆者が不明なまま「町絵師」と括られることの多い風俗 画作品において、その筆者を明らかにしようとすることは、美術史学的 に興味深い作業になると考える。   はじめに、この屛風はどのような作品であるか、概説する。   この屛風を拝見した際、朱色の美しさが印象的であった。そこには金 箔地ではなく、金泥が綺麗に落ち着き、そのうえには朱色が一層引き立 つ よ う に 比 較 的 多 く 使 わ れ て い る。 祇 園 社 の 境 内、 大 仏 殿、 八 坂 の 塔、 そして花見の毛氈と四条河原芝居小屋の幕を彩る朱色は今しも最盛にあ る人々の享楽をより一層盛り上げるのに一役かっている。季節は春であ 研究論文

   

新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討

久野

 

由香子

  本 論 の 目 的 は、 新 出「 東 山 四 条 河 原 遊 楽 図 屛 風 」 の 景 観 年 代・ 制 作 年 代、 筆 者 問 題 に 関 す る 検 討 に よ り、 こ の 作 品 の 美 術 史 的 な 位 置 づ け を 明 ら か に す る こ と で あ る。 こ の 目 的 を 達 成 す る た め に、 本 論 で は、 こ の 屛 風 に 描 か れ た 時 世 粧 や 筆 致 を 検 証 し て ゆ く。 遊 楽 に 興 じ る 人 々 を 画 題 と す る「 遊 楽 図 」 は 数 多 く 遺 さ れ、 近 世 初 期 風 俗 画 の 一 時 代 を 築 い て い た。 本 研 究 で は 遊 楽 図 に 留 ま ら ず、 様 々 な 絵 画 作 品 や 文 学 作 品、 そして風俗の面から考察し、 本作品の位置づけを行う。結果、 本作品の美術史的な位置づけは、 奈良絵本制作に近世初期狩野派が携わっ て い た こ と を 示 す、 重 要 な 屛 風 で あ っ た こ と が わ か っ た。 こ の こ と は、 近 世 初 期 風 俗 画 研 究 に 加 え、 近 世 初 期 狩 野 派 研 究 に も 新 た な 見 地 を 加えることになるはずである。 一 ( 74)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討 り、 胡 粉 で 丁 寧 に 盛 り 上 げ ら れ た 白 い 桜 花 の 中 に も や は り 点 々 と 散 り ば め ら れ た 朱 色 は 春 ら し く、 可 愛 ら し く、 華 や か さ を増している。   こ の 屛 風 は 上 質 な 絵 の 具 が 使 わ れ て い る た め、 今 日 ま で そ の 発 色 を 留 め て い る。 春 の 気 分 に 身 を 任 せ 思 い 思 い に 遊 び を 愉 し ん で い る 人 々 は 様 々 な 人 間 性 で 描 き 分 け ら れ、 桜 と 松 の 幹 の 色 の 使 い 分 け が い ち い ち な さ れ て い る こ と も 注 目 す べ き 点 で あ る。 こ れ ら の こ と は、 本 屛 風 が 仕 込 絵 で は な く、 あ る 程 度 の 層 の 注 文 主 が 裏 に い た こ と を 示 す。 さ ら に、 小 さ い サ イ ズ の 屛 風 は 女 性 に よ く 好 ま れ て い た こ と と、 使 わ れ た あ ざ や か な 色 彩 か ら 本 屛風は女性による注文の可能性がある。   金 雲 と す や り 霞 を 使 い 分 け、 そ の 中 か ら 享 楽 に 沸 い た 当 時 の 洛 外 が 浮 か び 上 が っ て く る。 こ の 作 品 の 舞 台 は 東 山 一 帯 の 地 域 と 四 条 の 河 原 で あ る。 遊 楽 図 と し て は 地 理 的 に お お よ そ 正 確 で あ り、 伽 藍 な ど 細 部 ま で 描 き こ ま れ て い る。 い わ ば 洛 中 洛 外 図 第 二 の 定 型 の 右 隻 右 上 あ た り か ら ち ょ う ど 東 山 一 帯 を 抜 き 出 し て ク ローズアップしたような格好になる。   当該屛風は六曲一隻であるが、対となる作品はあったのだろうか。東 山一帯を一隻に描く遊楽図屛風は北野を舞台にした遊楽図と対で一双作 品 と な る こ と が 多 い。 そ の 代 表 的 な 作 例 と し て は 長 円 寺 所 蔵 の「 北 野・ 祇 園 社 遊 楽 図 屛 風 」 や、 サ ン ト リ ー 美 術 館 所 蔵「 東 山・ 北 野 遊 楽 図 屛 風」などいくつか挙げられる。それゆえこの作品も、本来北野周辺の遊 楽図屛風と一双を成していた可能性を指摘できる。あくまでも想像の域 を出ないが、構図的には、向かって左にゆくにつれ色彩・人数ともに賑 やかになることから、向かって右に重心を置いた左隻があった可能性が ある。   本屛風は「風俗画」のなかの「遊楽図」という画題に分類される。室 町末期から江戸初期にかけて、当時の人々を魅了してやまなかった「風 俗画」というひとつの絵画作品群は、主に人間に視点を置いて、時代を 鏡のように映し表現したものである。そこには文字通り貴賤僧俗様々な 人 間 と、 そ れ ぞ れ の 日 常・ 風 俗 が 描 か れ る。 こ れ を「 時 世 粧 」 と 呼 ぶ。 その舞台として多く描かれるのは京のまちである。洛中と洛外を広範囲 に亘って舞台とし、その中に人々の時世粧を描く「洛中洛外図」という 画 題 が ま ず 生 ま れ た。 「 洛 中 洛 外 図 」 か ら 次 第 に 特 定 の 名 所 や 歓 楽 地 を 舞台とした「遊楽図」が派生してゆく。舞台が狭まるにつれて人間が大 きく描かれ、より「人々の遊楽」にスポットライトが当てられた画題で ある。本屛風は「遊楽図」 の中でもさらに 「野外遊楽図」 に分類される。 「 野 外 遊 楽 図 」 の 成 立 は「 遊 楽 図 」 と い う 画 題 が 描 き 始 め ら れ た 最 初 期 段階である。現在最も古い「遊楽図」といわれる「高雄観楓図屛風」は 永禄年間(一五五八 -七〇)の制作とされ、洛中洛外図屛風の文献上の 図 1 細見美術館所蔵「東山四条河原遊楽図屛風」(全図) 二 ( 73)

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文化情報学   十二巻一号(平成二十八年十月) 初出から数十年を経る。風俗画は複雑に変化・発展・派生しつつ描き継 がれてゆく。近世初期の時代を経て徳川の安定した時代になれば、江戸 を舞台にした作品も増え、また近世初期の時代を回顧的に映した作品も 生まれてくる。本研究の対象作品である、この「東山四条河原遊楽図屛 風 」 は、 ど の よ う に 位 置 づ け ら れ る で あ ろ う か。 本 論 は、 「 遊 楽 図 」 ― ―近世初期の時代そのものを体現し得た世界でも稀有な画題――を当該 屛風の視点から検討してゆく。まずは通例に従い当該屛風を向かって右 から一扇ずつ概観し、いつごろ描かれたのかを検証する。

二、当該「東山四条河原遊楽図屛風」について

二 -一、屛風概観   第一扇(図二)は、右下に大仏殿が聳え立つ。中には黄金に輝く大仏 が見え、大仏殿の開け放たれた扉から覗くのはその大きな腹である。近 づいてみると、衣紋線や腹の皺まで忠実に描かれており、画家の描写に 対するこまやかさが感じられる。   大 仏 殿 の 上 に 描 か れ る 音 羽 の 滝 で は、 も は や 風 俗 画 の 定 番 で あ る、 水 垢 離 を 行 う 二 人 の 姿 が 添 え ら れ て い る。 そ し て 水 垢 離 を 終 え 山 道 の 階 段 を 登 る 人 に 注 目 し てゆくと視線は第二扇上方へ上がり、音羽山中腹に建てられた清水寺本 堂 へ と 続 い て ゆ く( 図 三 )。 清 水 の 舞 台 上 で は、 西 国 三 十 三 所 巡 り を 彷 彿 さ せ る、 ご ざ を 背 中 に 背 負 っ て 休 む 二 人 の 姿 が あ る。 清 水 寺 は 西 国 三十三所巡りの十六番札所として平安以降賑わったため、風俗画では山 伏の姿もこの清水の舞台に描かれることが多い。清水の舞台からまっす ぐ望んだ位置にある、第一扇上方に覗く屋根は、妙法院と考えられる。   第二扇下方には、既に卯建があげられて板葺きに石を置いた屋根造の 三軒の家屋が立ち並び、その裏には建仁寺の屋根が描かれている。   第 三 扇( 図 四 ) と 第 四 扇( 図 五 )、 屛 風 を 開 い た ち ょ う ど 真 ん 中 に は 法 観 寺 の い わ ゆ る 八 坂 の 塔 で あ る 五 重 の 塔 が み え、 そ の 横 に は 祇 園 社 が 詳 細 に 描 か れ て い る。 第 一 扇・ 第 二 扇 の 大 仏 殿 の あ た り は 祇 園 に 比 べ て ひ と け が 無 い。 祇 園 ま で 来 て 漸 く だ ん だ ん と 人 の 賑 わ い が 際 図 4 同(第 3 扇) 図 5 同(第 4 扇) 図 2 同(第 1 扇) 図 3 同(第 2 扇部分) 三 ( 72)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討 立って聞こえてくるようで、ちょうど 祇園社前、法観寺八坂の塔の下では毛 氈を敷いて宴の真っ最中である。真ん 中 に 描 か れ た 男 は 興 が の っ て き た の か、扇子を開いて踊っている(図六) 。   そしてこの屛風の一番の主題である 四 条 河 原 で の 遊 楽( 図 七・ 図 八 ) は、 最高潮の賑やかさを迎える。四条河原 の歌舞伎芝居は遊楽図には欠かせない ほ ど よ く 描 か れ る も の の、 相 撲 興 行 ま で も 催 さ れ て い る こ と は 珍 し い。 芝 居 に は 駕 籠 で 乗 り つ け た 人 々 も お り、 退 屈 そ う に 主 人 を 待 つ 駕 駕 舁 き の 様 子 は 前 述 の 音 羽 の 滝 の 水 垢 離 同 様、 風 俗 画 の 定 番 光 景 で あ る。 現 在 か ら は 想 像 で き な い 粗 末 な 様 子 の 四 条 橋 の 上 で は 被 衣 を 羽 織 っ た 女 性 が 侍 女 に 傘 を 差 し 掛 け ら れ な が ら 四 条 河 原 の 賑 わ い へ と 吸 い 込 ま れ て ゆ く。 こ の 橋 は、 祇 園 社 へ の 参 詣 道 で あ る こ と か ら 祇 園 橋 と も 呼 ば れ た。 当 該 屛 風 を 詳 し く み る と 人 が よ う や く す れ 違 え る ほ ど の 幅 の 板 が 二 枚、 縦 に 繋 い で 造 っ て あ る こ と が わ か る。 大 阪 市 立 美 術 館 所 蔵 の 洛 中 洛 外 図 の 四 条 橋( 図 九 ) に、 こ れ と 殆 ど 変 わ ら ぬ 橋 が 描 い て あ る こ と か ら、 本 屛 風 の 橋 も 同 じ よ う に 板 を 横 に 二 枚 繋 い だ も の を さ ら に 縦 に 繋 い で い る と 推 測 で き る。 橋 の 上 で は、 祇 園 社 方 面に橋を渡ろうとする女二人組が男 二人組に声をかけられ足を止めてい る( 図 十 )。 し か し 左 側 の 男 は、 彼 女たちに声を掛けつつ既に橋の真ん 中ほどに立つ女性、――先ほどの傘 を差し掛けたグループの一人だろう か ―― 彼 女 と 視 線 を 絡 ま せ て い る。 そ し て 第 六 扇 に 視 線 を 移 し て み る と、本屛風の一番左下では楊弓場が 設けられ、的を当てて愉しむ男たち が描かれている。弓幹部分に金泥を 点々と施し、蒔絵風に表現するところに画家の繊細さが表れている。   全体を見渡すと、視線はやはり賑やかな方へと向かってゆく。大仏殿 図 6 同(第 3 扇部分) 図 7 同(第 5 扇) 図 8 同(第 6 扇) 図 10 細見美術館所蔵「東山四条河原遊楽図屛風」 (第 6 扇部分) 図 9 大阪市立美術館本洛中洛外図 (『都の形象 洛中・洛外の世界』展 図録 113 頁) 四 ( 71)

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文化情報学   十二巻一号(平成二十八年十月) の 描 線 は 右 上 か ら 左 下 へ、 建 仁 寺 と 並 ん だ 家 屋 は そ の 描 線 の 向 き に 従 う。上方の清水の参詣道は左上から右下へ、第六扇の鴨川と四条河原は 左上から右下へと線を描く。通常洛中洛外図などでは順勝手・逆勝手の どちらかに統一されて描かれるもの の (1 ) 、この作品は順勝手と逆勝手をた くみに使い、見る者の視線を祇園社と四条河原へと収斂してゆくのであ る。   以上、全体を見渡したところで、本屛風には注目したい点がもう一箇 所存在する。 二 -二、当該屛風と『恨の介』   こ こ で は、 前 項 で 述 べ た 当 該 屛 風 の 内 容 に つ い て、 「 近 世 性 」 と い う 視点から述べてゆく。   清 水 の は り 出 し た 舞 台 の 上 に は、 僧 体 の 男 が こ ち ら に 背 を 向 け て 欄 干 に 寄 り か か っ て い る。 こ こ で 慶 長 期 を 下 ら な い 時 期 の 作 で あ る 仮 名 草 子『 恨 の 介 』 の 文 言 を 借 り て み よ う。 す る と こ の 男 は ち ょ う ど「 た ゞ 一 人 清 水 へ 参 り、 佛 の 御 前 に て 祈 誓 申、 そ の 後 欄 干 に 腰 を 掛 け、 参 り の 道 者 を 眺 む る 」 態 で あ る( 図 十 一 )。 本 屛 風 で は、 男 は 欄 干 か ら 下 の 景 色 を 見 下 ろ す 三 人 の 若 い 男 た ち の 姿 を 眺 め て い る。 『 恨 の 介 』 の文を用いれば、三人の若い男たちは「これよりすぐに豊国へ」 、「いざ や我等は祇園殿」 、「さては北野へいざ行きて、國が歌舞妓を見ん」など と 云 い つ つ、 「 い ず れ か よ か ら ま し か は 」 と 次 に 行 く 場 所 を 相 談 し て い る 様 子 で あ る。 欄 干 に 腰 掛 け る 男 と、 舞 台 か ら 下 を 見 下 ろ す 三 人 の 若 い 男 た ち は、 『 恨 の 介 』 の 舞 台 を 絵 画 化 し た 情 景 と 解 釈 で き る。 『 恨 の 介 』 (2 ) の 舞 台 は「 慶 長 九 年 の 末 の 夏、 上 の 十 日 の 事 」、 す な わ ち 慶 長 九 年 ( 一 六 〇 四 ) 六 月 十 日 で あ る。 こ こ で 少 し『 恨 の 介 』 の 時 代 背 景 に つ い て触れておく。   まず『恨の介』の文章表現において散見する「近世性」について取り 上げる。この話は恨の介と近衛殿の養女・雪の前の悲恋話であり、多く の霊験譚や手紙、歌のやりとりといった中世的な要素を多分に含む。そ もそも恨の介が雪の前と出会うきっかけとなったのは、恋人がいないこ とを心許なく思った彼が「觀世音の御誓あらたに思ひ」て清水寺に参詣 したことであった。 これも中世的な発想である。 しかしその脇で、 「祇園」 や「 北 野 」、 当 世 流 行 り の「 歌 舞 伎 」 と い っ た 近 世 を 彷 彿 す る 言 葉 が 散 見 し、 そ れ ら を 愉 し む 時 世 が 描 か れ て い る。 『 恨 の 介 』 は 全 体 的 に「 中 世性」に寄りかかりつつ無意識的な「近世性」が表出してしまうことは 否定出来ない。 中世性と近世性の相違の根幹をいちばんに支えるのは 「浄 土 的 」 概 念、 す な わ ち 念 仏 信 仰 の 軽 重 で あ る。 「 浄 土 的 な る も の は、 当 時最高の価値づけをもってなお生活の規範となっていた」よう に (3 ) 、中世 的なすべての事物、事象、精神の奥底にあったのはまさしく浄土的概念 である。しかし 『恨の介』 の時代よりも少し前、それまでは無かった 「現 世」という概念が少しずつ人々の心の中に現れてくる。これを象徴する 出来事として、南無三宝――仏に帰依を誓い、救いを求めるときに佛語 図 11 同(第 2 扇部分) 五 ( 70)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討 として使われていた――が、日常生活でしくじった際に感動詞として使 われるようになったことが挙げられる。中世性――浄土至上主義が支配 していた精神世界――に近世性、現世至上主義が少しずつ顔を出し始め た原因は応仁の乱が与えた衝撃である。応仁元年(一四六七)に勃発し たこの乱による京のまちの焼亡は、中世と近世を隔てることとなったい ちばんの大きな契機であった。このときの精神的衝撃は当時の記事にも 数多く散見し、内藤湖南氏は応仁の乱の意義を「日本の文明をまったく 新しくした」と見定め る (4 ) 。もうひとつ着目すべき重要な点は、精神世界 と表現世界のタイムラグである。応仁の乱による現実世界の破壊を契機 として、乱後の十五世紀後半頃から精神世界は少しずつ変化の兆しを見 せる。しかし人々の心の内に現れた「近世性」が、表現として外に向か うのはまだ先のことなのである。   近世的概念が人々の心内で醸成されると、人間は次第にそれを「表現 す る 」 と い う 方 向 へ 向 か っ て ゆ く。 「 表 現 」 と は 文 化 で あ り、 文 化 は 当 時〝文学〟や〝絵画〟であった。まずは〝文学〟として表現することか ら 始 ま る。 そ の 嚆 矢 と し て 挙 げ ら れ る の が『 閑 吟 集 』 と い う 本 で あ る。 『 閑 吟 集 』 は 応 仁 の 乱 か ら 大 凡 五 十 年 後 の 永 正 十 五 年( 一 五 〇 八 ) に 編 纂、流行していた三一一首の小唄が収録されている。収録された小唄自 体は、おそらく応仁の乱直後あたりからひとびとの間で唄われていたと 推測されるものであり、それらが編纂されて一冊の本として纏められた ということが重要である。書物として編纂されるに至ったということは 即ち、需要と供給が成り立つ、ひとつの文化として一般に認識されたと いえるのではないか。   たとえば、 『閑吟集』からいくつかの小唄を引用すると、    何せうぞ   くすんで   一期は夢よ   たゞ狂へ    (  一 生 な ん て す ぐ 終 わ っ て し ま う の だ か ら そ ん な に ま じ め く さ っ て も仕方がない。ひたすら遊んですごすべきだ) は最も知られた一文である。また、    くすむ人は見られぬ   夢の  〳〵  〳〵   世を   現顔して も殆ど同様である。さらに、あまり引用されてこないが、    只吟可臥梅花月   成仏生天惣是虚    (  た だ 吟 じ て 臥 す べ し 梅 花 の 月   成 仏 生 天 す べ て こ れ 虚: 現 世 で は た だ た だ 梅 の 花 を 愉 し ん だ ら 良 い、 来 世 仏 に 生 ま れ 変 わ っ て も、 虚しいだけなのだから ) (5 ) という一文は、もはや「浄土世界よりも現世の愉しさ」を優先する冷め た心を端的に表している。これらの小唄が一般に受け入れられ、共感を 得られる基盤がこのときに出来つつあり、そこから少しずつ時間をかけ て広く文学に表出してゆく。   〝文学〟 『恨の介』の視点は「老若男女貴賤都鄙、色めく花衣、げにお もしろき有樣なり」と冒頭で述べられているように心が目の前の現実の 楽しさ・面白さに向いていることが顕著である。さらに「心の慰みは浮 世 ば か り 」 と い う 一 文 で そ の こ と を 見 事 に 表 す。 「 心 の 慰 み 」 は 既 に 浄 土 で は な く〝 浮 世 〟、 つ ま り 現 世 で あ る。 従 っ て 慶 長 初 期 と い う 時 代 は 六 ( 69)

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文化情報学   十二巻一号(平成二十八年十月) 中世から近世への移行期――『恨の介』に代表されるように、人々の表 現世界における「浄土への好奇心」と「現世への好奇心」の比重が逆転 する過渡期――であった。それが、この物語の成立した慶長という時代 で あ っ た。 『 恨 の 介 』 の 史 学 的 価 値 は こ こ に あ り、 題 材・ 舞 台 と も に 中 世の枠組を取りつつ、表現の近世性をところどころに感じさせるところ は「慶長」という時代そのものである(後述する美術史学的価値につい て も 同 様 で あ る )。 こ の 近 世 性 が 文 学 世 界 に 表 現 さ れ た 後 の こ と は 後 述 する。この〝文学〟 『恨の介』の精神世界と本屛風に表出する「近世性」 という点において学術的関連が少なからずあるのである。   それでは、その景観年代および制作年代についてひとつひとつ画証を 検討してゆく。

三、当該屛風の景観年代

  まず景観年代を定めるのに重要となる画証は方広寺大仏殿の存在であ る。周知のようにこの大仏殿は倒壊と焼失、再建を繰り返し、複雑な経 過を辿っている。   天 正 十 四 年( 一 五 八 六 )、 秀 吉 が 東 大 寺 に 倣 っ て 大 仏 殿 創 建 を 目 指 し た。しかし漸く完成しようとした直前の慶長元年(一五九六)に京都で 大地震が発生し、大仏ともども大仏殿も烏有に帰した。再建のめどが立 たないまま、その二年後に秀吉は没してしまう。その後秀頼が秀吉の遺 志を継いで再建に取り掛かるが、これも完成しないまま慶長七年に失火 で焼失する。再度建て直しにかかり、完成したのは秀吉が着工した天正 十四年から二十七年も経た慶長十七年のことであった。本屛風に描かれ た大仏殿は、破風の形態からこの慶長十七年以降のものであることが判 明する。大仏殿はその後も何度か地震や落雷による倒壊と再建を繰り返 してゆき、寛文七年(一六六七)には銅造ではなく木造仏と替わってい る。以上のことから、この大仏殿が本屛風に描かれたような荘厳な姿を 誇っていたのは短い期間であった。元和七年(一六二一)から元和九年 の間の成立とされる『竹斎 』 (6 ) という仮名草子があるが、そこには豊臣家 滅亡後の大仏殿の様子が以下のように記される。    當社大明神は、先の関白秀吉公の御霊跡なり。    今時移り變じて、社頭大破に及べり。    幾世とも榮へもやらで豊國の古き宮ゐは神さびにけり。 この様子を主人公である竹斎は、    ゆゝしげに   顔をば見せて秀頼の   役には立たぬ大佛かな と 一 句 詠 む (7 ) 。『 竹 斎 』 の 成 立 当 時、 大 仏 殿 も 豊 国 社 も 荒 廃 し て い た こ と が窺えるが、近年の調査で東大寺大仏殿よりも大規模であったことが判 明し た (8 ) 。   景観年代の検討に関わる画証はもう一点あり、第三扇に描かれた祇園 社の鳥居である。この鳥居ははじめ木の鳥居であり、朱に塗られていた が、正保三年(一六四六)に石の鳥居に建て直された。現在もそのまま 石の鳥居の姿を見せている。したがって、この本屛風の朱に塗られた鳥 居が示すのは正保三年以前の景観と分かる。鳥居は青い額束に金泥で何 七 ( 68)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討 ら か の 文 字 が 書 か れ る の が 確 認 で き る が、 文 字 ま で は 判 読 で き な い。 同 じ く、 木 の 鳥 居 が 描 か れ る 「 舟 木 本 洛 中 洛 外 図 屛 風 」 で は こ の 部 分、 同 じ 色 使 いで 「感神院」 の文字が書 かれている(図十二) 。   以 上 、 本 屛 風 の 景 観 年 代 は 慶 長 一 七 年 ( 一 六 一 二 ) か ら 正 保 三 年 ( 一 六 四 六 ) ま で 、 即 ち 三 十 五 年 間 に 絞 ら れ た 。   そ の 上、 豊 臣 家 の 威 光 で あ っ た 大 仏 殿 が 大 き く 描 か れ て い る こ と と、 元和以降消失してしまう底抜けの明るさが画面に出ていることから、本 屛風の景観年代はさらに慶長末から元和初期頃にまで上がることが推測 される。   で は、 こ の 画 面 に は、 何 故 溌 剌 と し た 明 る さ が 感 じ ら れ る の だ ろ う か。次章ではその理由について探ってゆく。

四、当該屛風における「遊楽」の意味

四 -一、 四条河原の誕生と発展   前述のように、当該屛風では四条河原の様子が最も賑やかに描かれて いる。第五扇・第六扇に亘って、人数もここに集中する。   洛中洛外図や遊楽図において「四条河原での遊楽」という光景は欠か せないモチーフである。四条河原では歌舞伎や見世物が興行され、人々 が多く集まってきた。この〝四条河原〟という地名と〝遊楽〟が結びつ くようになった時期が、ちょうど前述の『恨の介』の時代――中世から 近世への移行期――だったのである。四条河原と遊楽が連想関係になっ たのがそれほど昔ではなかったということは風俗画の展開に重要な視点 となる。まず風俗画の母胎である洛中洛外図を検討してみたい。洛中洛 外図はその景観描写方法によって第一定型と第二定型に大別して考えら れる。周知のように両者の景観描写方法の変化には応仁文明の乱と秀吉 の京都改造、そして家康の二条城築城が大きく関わってくる。第一定型 は上京を東からみた景観を描く上京隻と下京を西からみた景観を描く下 京隻から構成される。一方、第二定型は京の東部分を西から眺めた構図 を と る 右 隻 と 西 半 分 を 東 か ら 眺 め た 構 図 を と る 左 隻 で 構 成 さ れ て い る。 左隻では二条城と北野社、右隻では大仏殿と東山が第二定型において主 要景観となる。   第一の定型をとる作品は現在確認されているところ初期洛中洛外図四 本のみであって、その後は第二定型が踏襲されてゆく。第一定型四本の うち、掉尾を飾るのが、米沢市所蔵「上杉本」と呼ばれる六曲一双作品 である。この作品は狩野永徳の傑作として夙に名高い。近年、その完成 日は永禄八年(一五六五)九月三日、永徳が僅か二十三歳のときと判明 し た (9 ) 。 第 二 定 型 の 作 品 が 制 作 さ れ は じ め る の が 慶 長 十 二 年( 一 六 〇 七 ) 前後のことである。この年は豊臣秀頼によって北野社の三光門が再建さ れた年であり、よって殆どの第二定型の作品には再建後の三光門が描か れている。上杉本以降、第二定型の出現まで――元亀、天正、文禄年間 ――に描かれたと考えられる作品は見つからない。天正二年 (一五七四) 図 12 舟木本洛中洛外図 (『都の形象 洛中・洛外の世界』展 図録 138 頁) 八 ( 67)

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文化情報学   十二巻一号(平成二十八年十月) 三 月 に は 信 長 が 将 軍 義 輝 の 遺 志 を 汲 み 取 り 上 杉 本 を 謙 信 に 贈 っ て い る。 即ち洛中洛外図はその間も権力者にとって魅力的な存在であったことは 確 か で あ る。 こ の 頃 に 作 品 が 制 作 さ れ な か っ た と は 考 え に く い も の の、 作 品 は 一 つ も 見 出 さ れ て い な い。 こ の 空 白 の 時 代 に 京 の ま ち は 変 貌 し、 洛中洛外図も視点を変えて描かれるようになったのである。         次に「四条河原」に主眼を置き洛中洛外図の変遷を辿ってみたい。第 一 定 型 に お い て 四 条 河 原 は 小 さ く 描 か れ、 〝 遊 楽 〟 の 様 子 は 微 塵 も 窺 え ない。ここには数人が見物する祇園会の神輿が寂しく渡る様子が描かれ るのみである。   し か し 第 二 定 型 に 入 る と 次 第 に 四 条 河 原 の 様 相 が 変 わ っ て く る。 「 京 都の肖像」と呼ばれるよう に )(( ( 、実際の変化が反映されてゆくのが洛中洛 外図という画題の大きな特徴である。制作年代と景観年代の差を考慮す る必要はあるものの、第二定型が成立した頃から四条河原が少しずつ賑 やかになってゆく。   第二定型初期の作品として名高いのは、京都国立博物館所蔵の六曲一 隻 作 品( 旧 山 岡 A 本、 以 下 京 博 本 )、 お よ び 京 博 本 と 同 じ 粉 本 を 使 用 す る冨山・勝興寺所蔵の六曲一双作品(以下勝興寺本)である。京博本は 狩野光信、勝興寺本は狩野孝信の作とする説が有力であり、第二定型洛 中洛外図の最初期を永徳の息子、狩野派正系が担っていたことは注目に 値する。   さらに、この二本の洛中洛外図と類似構図をとる作品として出光美術 館所蔵の六曲一双屛風(以下出光本)がある。出光本は第二定型である に も 関 わ ら ず、 北 野 社 は 秀 頼 再 建 以 前 の 姿 で 描 か れ て い る。 『 都 の 形 象 ― 洛 中 洛 外 図 の 世 界 』 の 解 説 で は、 「 慎 重 に 検 討 さ れ な け れ ば な ら ぬ 」 )(( (  としながらも勝興寺本や京博本よりも景観年代が上がる可能性が指摘さ れている。   もう一点、堺市立博物館所蔵の六曲一双作品(以下堺市博本)は同前 の解説によると、同じ粉本を用いた作品が米国に存在する。構図として は京博本と勝興寺本の流れに位置すると指摘される作品である。大仏殿 は慶長十七年以前、再建前の姿を見せ、北野社は三光門完成後、つまり 慶長十二年以降の姿である。この点から推測すると堺市博本の景観年代 は慶長十二年から十七年の間となるが、慶長十八年に完成した高瀬川が 描かれていることから、制作年代とのずれが生じている。このずれは粉 本使用の理由によるもので、使用した粉本自体は京博本とほぼ同時期ま で遡るものと考えられる。   以上四本の洛中洛外図 (堺市博本 ・ 出光本 ・ 京博本 ・ 勝興寺本) について、 歌舞伎に関係する四条河原、五条河原、北野社を中心に見てゆく。   以下では河野元昭氏の論文「四条河原図の成立と展開 」 )(( ( に拠りつつ論 考を進めてゆきたい。   堺市博本の四条河原は歌舞伎興行もなく閑散としている。四条橋も当 該屛風同様、板をつなげただけの簡素な造りである。歌舞伎興行は五条 河 原、 五 条 橋 の 両 橋 詰 で 行 わ れ て お り、 ひ と つ は 歌 舞 伎 の 初 期 の 演 目、 「 茶 屋 あ そ び 」 と 判 ぜ ら れ る。 小 屋 の 形 態 も 非 常 に 質 素 で、 歌 舞 伎 小 屋 の最初期の様子を示す。歌舞伎が誕生したとされる北野社での興行も描 かれており、こちらも初期の演目「念仏踊り」が演じられている。   次 に 出 光 本 で は、 歌 舞 伎 興 行 が 催 さ れ て い る の は 北 野 社 頭 の み で あ る。北野社頭には芝居小屋が一軒描かれ、演目は「茶屋あそび」が演じ られている。五条橋は立派であるが、そこに芝居小屋の姿はなく、また 九 ( 66)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討 四条橋は金雲に隠れ、辺りには殆ど人がいない。   続 い て、 京 博 本 の 左 隻 で あ る。 北 野 社 で は 歌 舞 伎 興 行 が 催 さ れ、 賑 わっている様子である。演目は「茶屋あそび」であり、小屋の形態も初 期を示す。右隻は失われているため、四条河原や五条河原を見ることは 叶わないが、粉本は勝興寺本と同じくすることからそこに描かれている 内容を推測することは可能である。勝興寺本はその由来か ら )(( ( 、遊楽的要 素は一つも描かれていない。しかし勝興寺本と同粉本を用いた京博本に は「北野社での歌舞伎」が描かれている。このことは粉本に「北野社で の歌舞伎」が描かれていたことを保証し、粉本には四条河原や五条河原 で歌舞伎が催されている様子が描かれていたと推測できる。河野氏が述 べるように、この粉本を使用している京博本の失われた右隻にも四条河 原と五条河原での歌舞伎が描かれていたことは間違いないだろう。   最後に堺市博本に注目する。堺市博本に描かれた大仏殿は慶長十七年 以前の姿を示しているため、再建後の姿を描くことが多い第二定型の洛 中洛外図にしては珍しい作品といえる。 『都の形象―洛中洛外図の世界』 において指摘されるように、堺市博本は勝興寺本よりも京博本と一致す る内容が多い。北野社で興行されている演目は京博本では 「茶屋あそび」 で あ る こ と に 対 し、 堺 市 博 本 で は「 念 仏 踊 り 」 で あ る。 「 茶 屋 あ そ び 」 よりも「念仏踊り」の方が古い演目であり、すると堺市博本の粉本は京 博本より古い可能性もある。このことは、堺市博本において五条の方が 四条よりも栄えていることからもいえるだろう。京博本の失われた右隻 の四条河原に歌舞伎興行が描かれていたとすれば、堺市博本の元となっ た粉本の方がより古いことと証明できる。   堺市博本には四条河原の歌舞伎興行が描かれていないことから、京博 本は四条河原の歌舞伎興行を描いた最初の作品であったことは確かだろ う。慶長時代に入って歌舞伎が流行しはじめ、次第に〝京都の肖像〟で ある洛中洛外図に描かれるようになってゆく。この流れは絵画の世界で は第二の定型の時代に入って以降のことである。出光本や堺市博本など で証明されるようにはじめは、歌舞伎に代表される〝遊楽〟のイメージ は常に北野や五条と一体であった。光信が描いたとされる京博本におい ておそらく初めて四条河原での歌舞伎興行が描かれ、爾来絵画において 四条河原と遊楽が結びつくようになったのではないだろうか。その部分 をクローズアップして屛風作品としたのが当該「東山四条河原遊楽図屛 風」のような遊楽図屛風である。   以降大阪市立美術館所蔵の六曲一隻作品など多くの作品に代表される ように、四条と五条の両方で歌舞伎が描かれるようになる。次第に芝居 小屋の数も多くなり、本屛風に描かれるような人形浄瑠璃の舞台も増え てゆく。   慶長八年(一六〇三)に歌舞伎が北野社で興ったとされるそもそもの 土台史料は『当代記』 (寛永年間成立、筆者不詳)であった。     ……慶長八年四月頃カブキ躍と云事有、出雲國神子女(名ハ國、但 非 好 女 ) 出 仕、 京 都 へ 上 ル、 縦 ヘ バ 異 風 ナ ル 男 ノ マ ネ ヲ シ テ、 刀、 脇差、衣装以下殊異相也、彼男、茶屋ノ女トタハムルル體、有難ク シタリ、京中の上下賞翫スル事不斜、…… 「 不 斜 」 ―― な の め な ら ず ―― と い う 言 葉 か ら も 京 中 の 熱 狂 ぶ り が 垣 間 見える。 「茶屋ノ女トタハムルル」 姿を演じるのがこれまで出てきた 「茶 一〇 ( 65)

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文化情報学   十二巻一号(平成二十八年十月) 屋 あ そ び 」 の 演 目 で あ り、 こ れ が お そ ら く 歌 舞 伎 の 最 初 と 考 え ら れ る。 催 さ れ た 場 所 に つ い て は 諸 説 あ り、 北 野 社 頭 で 最 初 の 興 行 が な さ れ た こ と が 通 説 に な っ て い る。 し か し、 五 条 が 最 初 で あ る と の 記 録 が あ る こ と に も 少 し 注 目 し て お き た い。 例 え ば『 東 海 道 名 所 記 』 は 万 治 二 年 ( 一 六 五 九 ) に 成 立 し た 仮 名 草 子 で あ り、 少 し 時 代 が 下 が る も の の こ こ には     むかしむかし京にカブキのはじまりしは、出雲神子におくにといへ るもの、五條のひがしの橋づめにて、やヽ子おどりといふ事をいた せり、其後北野の社の東に舞台をこしらへ、念佛をどりに歌をまじ へ、…… という記事を確認できる。また 『翁草』 (神沢杜口、寛政三) や 『画証録』 ( 喜 多 村 筠 庭、 天 保 十 年 自 序 ) で は 五 条 の 興 行 を は じ め と し て い る 記 事 が散見する。前述した堺市博本と出光本、京博本では歌舞伎興行が北野 と五条いずれにも描かれていた。五条は北野社とほぼ同時期の比較的早 い時期に歌舞伎が行われたことの証左である。   阿国による歌舞伎の最初が『当代記』に記された慶長八年であったと すれば、その後ときを隔てず五条河原で興行するようになった。四条河 原での歌舞伎は遊女らが五条河原のものを真似したものと考えられるだ ろう。慶長七年、遊郭が六条三筋町に構えられている。そこで働く遊女 たちが、阿国歌舞伎の真似を一斉にし始めたのである。その様子の記事 史料として『孝亮宿禰日次記』の慶長十三年(一六〇八)二月二十日条 には、    四条に向いて女歌舞伎見物せしむ、数万人群集す、目を驚かす者也 との一文があ る )(( ( 。河野氏の前出の論文によれば、これは 四条河原での 4 4 4 4 4 4 歌 舞伎興行を伝える記念すべき最初の記事であり、時期は北野で阿国が興 行してから五年後のことになるのである。公卿であった孝亮宿禰の立場 を鑑みても、慶長十三年以前に四条で女歌舞伎が興行されていれば当然 知っているはずであり、わざわざ「目を驚かす」と記述していることか ら、慶長十三年(一六〇八)がほぼ最初の興行だったとみて間違いない と考えられる。   つまり、当該「東山四条河原遊楽図屛風」にみられる四条河原の賑々 しさは大凡慶長十年代以降元和頃までのこととなるのである。   第二章で述べた『恨の介』の物語の成立は慶長十七年から末年にかけ てであり、物語の背景は慶長九年のことであった。このように、絵画作 品による四条河原の歌舞伎遊楽成立の検討からすれば、この物語に記述 されている「北野へいざ行きて、國が歌舞妓を見ん」および「五條にて 慰まん」との詞は、この「阿国歌舞伎」が誕生した慶長八年直後の様子 を 考 証 し て 描 写 し て い る こ と が よ く わ か る。 実 際、 物 語 の 成 立 は 慶 長 一七年から末年にかけてである。つまり既にその頃阿国自身による歌舞 伎はなく、遊女たちの阿国の真似による「女歌舞伎」が四条河原で大流 行していたはずであった。永正十五年(一五一八)の『閑吟集』編纂か ら徐々に染み出てきた現世志向は底抜けの健康的な明るさを経て、およ そ百年の間に醸成され、このころすでに 諦念に裏打ちされた 4 4 4 4 4 4 4 4 4 明るさを少 しく見出すことすらできるようになっている。当該の世界は、この狭間 に 位 置 す る。 ま さ に『 恨 の 介 』 の「 わ が 身 の 程 を 按 ず る に、 電 光 朝 露、 一一 ( 64)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討 石の光の内を頼む身の、しばし慰む方も無し」という言葉に強く表れて いるのではないか。それが一番端的に象徴されたのが「殊異風」 (『当代 記 』) を 好 ん だ 人 々 に よ る「 カ ブ キ モ ノ 」 の 流 行 で、 そ の 流 行 を 上 手 く 利用して舞台に上げ、共感を得ることに成功したのが阿国による歌舞伎 興行であったといえるだろう。   当該「東山四条河原遊楽図屛風」の景観年代から鑑みると、ここに描 かれた歌舞伎は遊女による女歌舞伎であると考える。   引き続き本作品の景観年代・制作年代に迫るため、まずは描かれた歌 舞伎小屋の形態を検討してゆく。 四 -二、歌舞伎芝居、小屋の変遷   まず歌舞伎小屋の囲いは比較的簡素で、切虎落造りである。この小屋 囲 い は 次 第 に 板 張 り と な る た め、 ま だ 初 期 形 態 と 考 え ら れ る。 さ ら に、 小屋の入り口の役割を果たす鼠木戸はまだひとつしかない。鼠木戸は時 代 が 下 が る と 入 口 用 と 出 口 用 と で 二 つ が 設 け ら れ る よ う に な っ て ゆ く。 また櫓の上に置かれている三つ道具と槍も初期形態を示す描写表現であ る。現在も歌舞伎の劇場にはこれらの道具が掲げられており、この伝統 が続いていることが読み取れるのは興味深い。櫓上に槍や梵天、三つ道 具を入口に置く由来には諸説あり様々な文献に語られている。たとえば 『守貞漫稿』には、 「櫓の上に梵天帝釈を勧請し障礙災難を祓ふ祈りとい ひ鎗を並ぶるは非常を禁る也」と記述されている。また一説には、最初 芝居見物に着た武士の一行が櫓上に槍などを置いたことが始まりとされ る。 こ れ ら は、 阿 国 歌 舞 伎 時 代 か ら の 伝 統 で は あ る が、 時 代 の 変 遷 に よ っ て 槍 な ど の 置 き 方 が 変 化 す る の で あ る。 最 初 期 に は 立 て て 置 か れ、 次第にななめに立てかけられ、最終的には地面と水平に置かれるように なってゆく。前述した四本の洛中洛外図では槍などはすべて縦に置かれ ていることから、歌舞伎の初期を表していることが分かる。そして櫓上 には幔幕が張られ、下り藤紋を大きく染め出している。初期の歌舞伎を 描いた作品にはこの下り藤紋を掲げるものが数多くある。そして方二間 の、床は吹抜けの舞台造りであり、向かって左手には橋掛りがあり能舞 台が踏襲されているが、まだ脇座はない。時代が下がると、床下に板が はめられ、さらに舞台に脇座がつくられる。脇座では、三味線を弾く遊 女が並んでいることが多い。以上のことから、本屛風に描かれた芝居小 屋は初期形態を示している。   芝居見物にきた大勢の人たちは何を観ているのだろうか。   舞台の上で演じられているのは前出の洛中洛外図にもみられた「茶屋 あ そ び 」 と い う 演 目 で あ る。 向 か っ て 右 側 か ら 男 装 の「 カ ブ キ モ ノ 」、 女 装 の「 茶 屋 の か か 」、 そ し て 道 化 役「 猿 若 」 が 並 ぶ。 目 付 柱 の と こ ろ で正座するのは禿と思われる。   本屛風の歌舞伎舞台を見ていると、実は前述の京博本洛中洛外図の北 野 社 頭 に お け る 歌 舞 伎 芝 居 小 屋 と 殆 ど 同 じ つ く り で あ る こ と に 気 付 く (図十三) 。興味深い点は、二つの場所は違うが小屋の形態や水引幕の色 彩 な ど 類 似 点 が 各 所 に 見 出 さ れ る こ と で あ る。 「 初 期 」 の 歌 舞 伎 小 屋 の 形態描写の一定のパターンが読み取れる。これは当時の歌舞伎小屋の標 準的な形態を示す。したがって第三章において推定した当該屛風の景観 年代――慶長一七年(一六一二)から正保三年(一六四六)――から京 博本の成立と比較的近い時期に絞り込めることができる。北野社と四条 河原という場所の相違からして当該屛風が少し遅れたころと考える。 一二 ( 63)

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文化情報学   十二巻一号(平成二十八年十月)   次に制作年代を考える手続きとしてまず本屛風の筆者問題について述 べてゆく。

五、当該屛風の筆者問題

  まずは顔貌表現について検討する。当該屛風では男女ともに顔は全体 的 に 薄 く、 目 や 鼻 な ど の パ ー ツ は 離 れ て い る( 図 十 四 )。 屛 風 の サ イ ズ と同じように顔のパーツがこぢんまりとしていることも離れているよう に見える一因だろう。女性の眼と口は、割った筆先で点を打ったような 筆致である。さらに顔の比率は体に比べて大きく描かれている。以上の 特 徴 に よ っ て 鑑 賞 す る 者 は ま ず 人 形 的 な イ メ ー ジ を 持 つ の で は な い か。 と り わ け、 芝 居 小 屋 で カ ブ キ モ ノ を 演 じ て い る 女 性 は 胸 を 張 っ て い る よ う に 描 か れ て い る が、 軽 妙 な 筆 で 人 間 的 で な く マ ス コ ッ ト 的 な 可 愛 ら し さ を 演 出 し て い る。 ま た、 男 性 の 極 端 な 下 が り 眉 も 本 作 品 に 共 通 す る 特 徴 で あ る ( 図 十 五 )。 男 女 い ず れ に し て も 全 体 と し て マ ス コ ッ ト 的 な 形 態 の た め、 幼 い 印 象 を 与 え る。 鼻 梁 は、 高 く、 鼻 筋 は 長 く 大 き め に 描 か れ て い る。 ま た こ の 画 家 は、 多 く の 女 性 の 首 に 顔 の 輪 郭 と は 別 に 一 筋 の 線 を 引 く。 そ し て、 彼 ら の 人 形 的 イ メ ー ジ を 一 層 印 象 づ け る の は、 顎 か ら 首 に か け る な だ ら かな横顔の輪郭線である(図十六) 。   し か し 他 の 箇 所 を 見 て ゆ く と、 顔 貌 と は ま た 異 な っ た 描 法 が 見 受 け ら れ る。 髪 の 毛 の 表 現 は 一 本 一 本 き ち ん と 描 か れ て い る。 相 撲 を と る 力 士 た ち の 身 体 は 前 述 し た 人 形 的 イ メ ー ジ と 異 な っ て 正 確 な 線 が 引 か れ て い る こ と も 注 目 に 値 す る。 風 景 描 写 も 本 格 的 な 線 が 引 か れ て い る。 山 肌 や 岩 皺 の 漢 画 風 の 描 写 は さ き に み た 人 形 的 描 写 と は 異 な っ た、 深 み の あ る 線 で あ る( 図 十 七 )。 画 家 は 漢 画 の 描 法 を き ち ん 図 14 同(部分) 図 13 京都国立博物館本洛中洛外図 (『都の形象 洛中・洛外の世界』展 図録 75 頁) 図 13 細見美術館所蔵「東山四条河 原遊楽図屛風」(第 6 扇部分) 図 15 同(部分) 図 16 同(部分) 一三 ( 62)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討 と 学 ん だ と 思 わ れ る。 狩 野 派 の 漢 画 を 学 ん だ 画 家 は 素 朴 な 表 現 を 描 く こ と が で き る が、 学 ん で い な い 画 家 に は、 漢 画 風 筆 致 を 出 す こ と は 難 し い。 本 屛 風 の 筆 者 は、 正 系 で は な い も の の 狩 野 派 の 筆 致 を 示 し て い る と 考 え ら れ る の で あ る。 本 論 の「 は じ め に 」 で も 述 べ た が、 松 と 桜 の 木 の 幹 の 色 を 逐 一 変 え て い る 点、 松 の 下 枝 の 描 き 方、 根 の 張 り 方、 ど れ を 見 て も、 非 常 に 丁 寧 に 描 か れ て い る。 ほ と ん ど の 人 物 の 衣 紋 線 に は 金 泥 で 縁 取 り が な さ れ、 丁 寧 さ が 窺 え る。 人物描写は一見漫画的であり、その筆使いには軽妙さが見受けられなが ら、この屛風の筆者は漢画的描法も随所に出す。一見素朴な人物の可愛 らしい表現は、第一章における推測

本屛風の小ささや色彩の鮮やか さから注文主は女性とする想定――も援用するのである。次章ではこの 推測を詳述し、引き続き筆者問題と制作年代を検討してゆく。

六、奈良絵本との関連について

  当該屛風の筆致を論ずるにあたり、京都大学附属図書館所蔵の奈良絵 本「國女歌舞伎絵詞」を参照する。この奈良絵本は歌舞伎誕生の由来を 詞 書 き と 挿 絵 に よ っ て 記 し た 冊 子 構 成 )(( ( と な っ て お り、 大 和 文 華 館 所 蔵 「阿国歌舞伎草紙」 、松竹大谷図書館所蔵「かふきのさうし」の二本とと もに歌舞伎の誕生を物語る史料として聞こえが高い。この奈良絵本の筆 致について、当該 「東山四条河原遊楽図屛風」 との関連を指摘してゆく。   一般に、奈良絵本の挿絵は素朴や稚拙、プリミティブと表現されるこ とが多い。実際、絵師の名前が判明する作品は殆どなく、現在数多く残 る奈良絵本は不明な点がたくさんある。美術史的側面からの研究の進捗 が 遅 い 理 由 は、 「 奈 良 絵 本 」 と い う 名 称 自 体 が 近 代 以 前 に は な く、 明 治 に 入 っ て 後、 総 称 と し て 付 け ら れ た 名 前 で あ る こ と か ら も 説 明 で き る。 「 奈 良 絵 本 」 の 定 義 が 現 在 も 明 確 で な い こ と は 問 題 で あ る が、 平 た く い えば「奈良絵本」とは、御伽草子を題材にした作品である。ここで奈良 絵本定義を仲田勝之助氏による名著『絵本の研究』から引用したい。     ……形式からいへば鎌倉時代の中葉から種々の古説話や偉人の事蹟 や 神 仏 の 霊 験 談 等 が 作 成 さ れ、 そ の 詞 書 を 挿 絵 で 補 つ た 所 謂 絵 巻 が、室町時代に至つて巻物が帖となり書冊形をとつて草子と呼ばれ たものが即ちそれで、江戸時代初期に迄も及んでゐる(中略)つま り未だ絵巻が上流の翫び物であつたやうに、これは上流の婦女の読 物 で あ つ た の で、 中 世 以 前 の 物 語 や お 伽 草 子、 仮 名 草 子、 舞 の 本、 浄 瑠 璃 本 等 を 含 ん で ゐ た。 即 ち 上 流 の み の 翫 弄 物 で あ つ た 絵 巻 が、 内容に変化はなくとも、より一般化して書冊の形をとり、近世的分 子を加へたのが奈良絵本であると云える… … )(( ( 最 後 の 一 文 に 記 さ れ た「 近 世 的 分 子 」 に、 第 二 章 で 述 べ た「 恨 み の 介 」 図 17 同(部分) 一四 ( 61)

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文化情報学   十二巻一号(平成二十八年十月) の〝 近 世 性 〟 が 繋 が っ て ゆ く。 つ ま り 仲 田 氏 が 述 べ て お ら れ る よ う に、 物 語 の「 内 容 に 変 化 は な く と も 」、 書 く 側 と そ れ を 読 む 側 に こ れ ま で と は異なった種の気分――近世性――が芽生えてきているのである。物語 の内容が中世的である分、挿絵や脇の文章にその気分は顕著に現れてゆ く の で は な か ろ う か。 筆 者 は「 二 -二、 当 該 屛 風 と『 恨 の 介 』」 に お い て、 「この近世性が文学世界に表現された後のことは後述する」とした。 そのことについて、ここで述べたい。   室町末期から江戸初期にかけて絵画世界では、奈良絵本や風俗画が生 まれてきた。時の権力者は勿論、人々を魅了した絵画である。奈良絵本 や風俗画がこの時期に誕生し人々に受け入れられた理由――それは近世 性の表出に共感を得た、ということに他ならない。   前述した『閑吟集』は永正十五年(一五〇八)の編纂である。応仁の 乱 の 衝 撃 か ら 人 々 の 心 の 内 に 芽 生 え て き た 現 世 意 識 ―― 近 世 性 ―― は 『 閑 吟 集 』 よ り 少 し 前 辺 り か ら「 文 学 」 に 現 れ る。 そ し て『 閑 吟 集 』 編 纂によりそれは決定的なものとなってゆく。洛中洛外図の文献上の初出 も ほ ぼ 同 じ こ ろ、 永 正 三 年( 一 五 〇 六 ) の こ と で あ る。 こ の こ ろ か ら、 文 学 世 界 に 少 し 遅 れ て 絵 画 世 界 に も 近 世 性 が 表 出 し て く る。 描 く 側 も、 享 受 す る 側 も、 近 世 へ の 準 備 が 整 い つ つ あ っ た 時 期 で あ っ た。 ゆ え に、 奈良絵本、そして風俗画がこれだけの隆盛を見せたのである。   で は、 『 恨 の 介 』、 奈 良 絵 本「 國 女 歌 舞 伎 絵 詞 」、 当 該「 東 山 四 条 河 原 遊楽図屛風」の三者には共通する要素はあるだろうか。   以下ではこれを検証する。   「 國 女 歌 舞 伎 絵 詞 」 の 筆 者 は 不 明 で あ る。 制 作 年 代 は 名 古 屋 山 三 が 亡 霊として登場することから、彼が没した慶長九年(一六〇四)より元和 末年(一六二四)までの間である説が有力であり、歌舞伎小屋の形態や 描 法 の 様 子 か ら も そ れ は ほ ぼ 間 違 い な い と考えられる。   まず 「國女歌舞伎絵詞」 の筆致と当該屛 風の筆致の比較を試みたい。   男性の顔貌 (図十八) は前述した顎から 首 に か け る な だ ら か な 横 顔 の 線 を も ち 両 作品に共通すると思われる。 顔の傾き加減 と、 下 が っ た 眉 の 形 は、 両 作 品 に 共 通 す る筆ではないか。 さらに眼や鼻、口が離れ て 描 か れ て お り、 ひ と つ ひ と つ が こ ぢ ん ま り と し て い る こ と も 類 似 点 と し て 挙 げ られる(図十九、図二十) 。 図 18 國女歌舞伎絵詞(部分) 当該「遊楽図屛風」(部分) 図 19 國女歌舞伎絵詞 (部分) (a) (b) (c) 図 20 当該「遊楽図屛風」(部分) 一五 ( 60)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討   続いて、樹木の表現(図二十一)を検証してゆく。松の描き方は、特 に下枝を跳ねさせたようにリズムよく細い線で仕上げるところが酷似し ている。幹の色使いもよく似ており、両作品に流れる空気は全体におい て軌を一にしているのである。   第五章において、本屛風の筆者は、丁寧で高度な画技を持っているこ とを指摘したが、 「國女歌舞伎絵詞」についても同様のことがいえる。   たとえば、衣紋が的確な線を辿っていること、男女で顔の色を逐一変 えていること (この特徴は、当該「東山四条河原遊楽図屛風」における、 桜 と 松 の 幹 の 色 を 変 え る こ ま や か さ に 通 じ る )、 馬 の 描 写 な ど、 や は り 漢画の画法を学んだ絵師によるものである。   さらに 「國女歌舞伎絵詞」 の筆の的確さを伝える資料として 『出雲阿国』 展覧会図録に収載された大森拓土氏の図版解説を挙げる。大森氏は、本 作品の絵師について「正規の画技を学んだろうことを示して」おり、本 作品が一見稚拙にみえるのはこの絵師が「総じて詞書の内容を説明的に 描 く 意 識 が あ り、 し た が っ て 挿 図 自 体 が 強 く 自 己 主 張 す る の で は な く、 あくまでも物語を補助的に理解させることを意図している」ためである と指摘す る )(( ( 。   したがって、当該屛風の筆致と「國女歌舞伎絵詞」の筆致は類似して おり、画技が近い絵師による作品と認められるのであれば、当該屛風を この絵師は「あえて」 (稚拙ではなく)素朴に描いていると考えられる。 第五章で述べたように、この屛風がかなり小さく作られているため、そ の注文主を女性であると仮定すれば、この女性のために人物のマスコッ ト的な素朴な愛らしさを敢えて表現することはこの画家にとっては簡単 なことであろう。むしろそれが注文主に対する画家の器量であったとも いえるのである。   以上、人物の筆致の類似点、そして素朴表現に垣間見える漢画的描写 の 共 通 項 か ら、 当 該「 東 山 四 条 河 原 遊 楽 図 屛 風 」 と「 國 女 歌 舞 伎 絵 詞 」 の筆者は狩野派に属する画技や時代において近い存在であると考える。   さらに風俗画史のなかでいえば、本屛風は「野外遊楽図」という分野 に入る作品である。冒頭で述べたようにこの分野は、洛中洛外図から派 生して描かれるようになった一連の作品群である。遊楽図の嚆矢は永禄 年 間( 一 五 五 八 -一 五 七 〇 ) の 制 作 と さ れ る「 高 雄 観 楓 図 」 で あ っ た。 そこから洛中洛外図同様元亀・天正にかけて作品が出現しておらず、慶 図 21 國女歌舞伎絵詞(部分 a) 國女歌舞伎絵詞(部分 b) 当該「遊楽図屛風」(部分) 当該「遊楽図屛風」(部分) 一六 ( 59)

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文化情報学   十二巻一号(平成二十八年十月) 長はじめころに狩野長信による「花下遊楽図屛風」が描かれる。この時 期を境に遊楽図は発展を遂げてゆくのだが、山根有三氏は遊楽図に関し て 「『高雄観楓図』 から 『花下遊楽図』 へ」 という流れと 「『名所風俗図』 か ら『 祇 園・ 北 野 社 遊 楽 図 』 な ど へ 」 と い う 流 れ の 二 つ が あ る と 述 べ て お ら れ る )(( ( 。 筆 者 は 二 つ の 流 れ の 内、 当 該「 東 山 四 条 河 原 遊 楽 図 屛 風 」 は「名所風俗図」に位置し、のちに「祇園・北野社遊楽図屛風」の系統 へ 繋 が っ て ゆ く 作 品 で あ る と 考 え る。 で は、 祇 園、 北 野 も 名 所 で あ れ、 いったい「名所風俗図」と「祇園・北野社遊楽図」系統の相違点はいか な る 箇 所 か。 「 名 所 風 俗 図 」 と「 祇 園・ 北 野 社 遊 楽 図 」 系 統 の 違 い に つ いて山根氏の説から検討すると、名所風俗図の舞台は広範囲であり、ま だ洛中洛外図から分化したばかりの地理的な要素をも含んだものと考え ら れ る の で は な い か。 一 方「 祇 園・ 北 野 社 遊 楽 図 」 系 統 は 長 円 寺 所 蔵 の「祇園・北野社遊楽図屛風」に代表されるように、一つの社寺の境内 が大きく一隻に配され、人々の遊楽はその内と周辺に描かれるようにな る。近年見出された個人蔵の「北野社頭遊楽図屛風」もこの系統にあた るだろう。この観点からいえば、当該屛風は、洛中洛外図から分化した 格好であり、一つの社寺の中ではなく、一定の広い地域に配された社寺 とその地域の人々を捉えた作品である。そのため当該屛風は「名所風俗 図」のなかで捉えることができる。当該屛風は祇園社や東山を描き、北 野を描いた片隻があった可能性もあるが、可視的には洛中洛外図の視点 に近い。 「名所風俗図」が時代を下がるにつれて「祇園・北野社遊楽図」 系 統 へ と 繋 が っ て ゆ く と 見 た 場 合、 「 名 所 風 俗 図 」 寄 り の 形 態 で は な い だろうか。即ち、当該屛風の構図は遊楽図の流れの前期段階に位置する と考えられる。   最 後 に 当 該 屛 風、 國 女 歌 舞 伎 絵 詞 の 両 作 品 に 見 受 け ら れ る「 漢 画 的 」 「 狩 野 派 的 」 な 描 写 を さ ら に 援 用 す る 作 品 と し て、 ラ イ デ ン 国 立 民 族 学 博 物 館 所 蔵「 長 恨 歌 」 三 冊 も 例 に 挙 げ た い。 「 長 恨 歌 」 は、 奈 良 絵 本 系 統 に 属 す る 冊 子 本 で あ る。 こ の 作 品 に 関 し て は「 ( 奈 良 絵 本 の ) 通 例 の 稚拙な画風と異なり、狩野派に極めて近い江戸時代初期の絵師の作と思 われる品格のある筆致 」 )(( ( との指摘がされる。このように、狩野派や漢画 的画法を学んだ絵師が奈良絵本の制作に関わったならば、狩野派に属す る 絵 師 が 奈 良 絵 本 と 屛 風 作 品 両 方 に 手 を 拡 げ て い た こ と に な り、 当 該 「 東 山 四 条 河 原 遊 楽 図 屛 風 」 と「 國 女 歌 舞 伎 絵 詞 」 の 関 わ り も さ ら に 強 く認められるのではなかろうか。奈良絵本の描写を一概に〝プリミティ ブ〟と表現していてはならないことになる。   「 國 女 歌 舞 伎 絵 詞 」 は 慶 長 半 ば か ら 元 和 頃 に か け て の 制 作 で あ る。 す ると当該屛風の制作年代もほぼ同時期、すなわち慶長末頃であったと推 測したい。この作品には慶長に代表される〝近世初期の気分〟――『恨 の 介 』 に 顕 れ る 現 世 謳 歌、 現 世 主 義 の 気 分 ―― が 満 た さ れ て い る た め、 同 時 代 の 画 家 で な け れ ば こ の 作 品 を 描 け な い よ う に 思 う の で あ る。 「 國 女歌舞伎絵詞」 も 『恨の介』 も時世粧、風俗描写が詳細になされている。 たとえば「國女歌舞伎絵詞」の画家は歌舞伎舞台だけでなく、見物客の 様子や花見の図を多彩に描き、現世を愉しむ人々の姿を描こうとした姿 勢 が 窺 え る の で あ る。 第 四 章 で 述 べ た よ う に、 『 恨 の 介 』 に 書 か れ た 祇 園 や 北 野 と い っ た 土 地 は、 当 時 流 行 り 始 め た ば か り の 遊 楽 地 で あ っ た。 そういった場所があざやかに描き込まれた当該屛風は、当時の人々の時 代精神を反映しているのである。 一七 ( 58)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討

七、おわりに

  以上、細見美術館所蔵「東山四条河原遊楽図屛風」に関して、主に景 観年代・制作年代、筆者問題の検討、考察を行ってきた。   景観年代は慶長十七年以降、慶長末から元和初期頃までとし、制作年 代もこの時期に準ずるころと考察する。   本作品は狩野派正系ではないものの、狩野派の画技を学んだ画家によ る作品である。さらに筆者問題を考究したことによって奈良絵本制作に は近世初期狩野派が携わっていたことが判明し、美術史学的に重要な位 置にあると結論づけられた。第六章で指摘した奈良絵本「長恨歌」と近 世初期狩野派との関わりの説も、当該「東山四条河原遊楽図屛風」と國 女歌舞伎絵詞の関連性から援用できる。同時に、御用絵師である狩野派 の手によって奈良絵本が制作されていたという事実は、奈良絵本自体の 美術史的価値を高めることになるはずである。 文献 〈書籍〉 ・  仲田勝之助(一九五〇) 『絵本の研究』美術出版社 ・  市 古 貞 次 ほ か 編( 一 九 六 三 )『 日 本 古 典 鑑 賞 講 座   第 十 六 巻   御 伽 草 子・ 仮 名草子』角川書店 ・  山根有三(一九六七) 『日本の美術十七   桃山の風俗画』平凡社 ・  内藤湖南(一九七六) 『日本文化史研究(下) 』講談社 ・  武田恒夫ほか(一九七七) 『日本屛風絵集成   第十四巻   風俗画   遊楽 ・ 誰ヵ 袖』講談社 ・  武 田 恒 夫 ほ か( 一 九 七 八 )『 日 本 屛 風 絵 集 成   第 十 三 巻   風 俗 画   祭 礼・ 歌 舞伎』講談社   ・  市古貞次ほか(一九八〇) 『図説   日本の古典   第十三巻』集英社 ・  原田伴彦ほか(一九八三) 『近世風俗図譜2   遊楽』小学館 ・  横井清ほか(一九八三) 『近世風俗図譜5   四条河原』小学館 ・  奥 平 俊 六( 一 九 八 七 )「 遊 楽 図 二 題   『 清 水 寺 遊 楽 図 』・ 『 春 秋 遊 楽 図 』」 〔『 古 美術   81号』三彩社   所収〕 ・  京都国立博物館/東京国立博物館(一九八八) 『シーボルトと日本』 ・  土 井 洋 一 ほ か ( 一 九 九 三 )『 新 日 本 古 典 文 学 大 系   五 十 六   閑 吟 集 』 岩 波 書 店 ・  京都国立博物館(一九九六) 『洛中洛外図   都の形象―洛中 ・ 洛外の世界』京 都国立博物館 ・  黒田日出男(一九九六) 『謎解き洛中洛外図』岩波新書 ・  田沢裕賀(二〇〇六) 『日本の美術   第四八三号』至文堂 ・  狩野博幸(二〇〇七) 『新発見   洛中洛外図屛風』青幻舎 ・  島根県立美術館(二〇一三) 『出雲阿国』 ・  細見美術館 (二〇一四) 『伊藤若冲と京の美術   細見コレクションの精華』青 幻舎 ・  京都国立博物館/京都市埋蔵文化財研究所   「京都国立博物館構内発掘調査現地説明会資料(一九九八年八月八日) 」   <http://www.kyoto-arc.or.jp/news/gensetsu/92kyouhaku.pdf>   (六月十日   閲覧) ・  京都大学附属図書館ホームページ   <http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/okuni/jpn/okuindxj.html > 一八 ( 57)

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文化情報学   十二巻一号(平成二十八年十月)   (六月十日   閲覧) 〈史料〉 ・  『当代記』 〔国書刊行会(一九一一) 『史籍雑纂   第二』国書刊行会   所収〕 ・  『恨の介』 『竹斎』 〔前田金五郎ほか校註 (一九六五) 『日本古典文学大系 (九十) 假名草子集』所収〕 ・  喜 多 村 筠 庭( 一 八 三 九 )『 画 証 録 』〔 日 本 随 筆 大 成 編 輯 部( 一 九 七 四 )『 日 本 随筆大成』   第二期四巻   所収〕 ・  神沢杜口 (一七七六) 『翁草』 〔日本随筆大成編輯部 (一九七八) 『日本随筆大成』 第三期十三巻   所収〕 ・  浅 井 了 意( 一 六 五 九 )『 東 海 道 名 所 記 』〔 朝 倉 治 彦 訳( 一 九 七 九 )『 東 洋 文 庫 346』平凡社   所収〕 ・  『閑 吟 集 』〔 小 林 芳 規 ほ か 校 註( 一 九 九 三 )『 新 日 本 古 典 文 学 大 系( 五 十 六 )』 岩波書店   所収〕

図版「國女歌舞伎絵詞」に関する注記

  本 論 に 収 載 し た 京 都 大 学 附 属 図 書 館 所 蔵「 國 女 歌 舞 伎 絵 詞 」( 図 十 八・ 図 十九・図二十一)は以下 URL に掲載されている画像の部分である。 図十八 http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i235/image/01/i235s0010.html 図十九(a) http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i235/image/01/i235s0028.html 図十九(b) http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i235/image/01/i235s0014.html 図十九(c) http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i235/image/01/i235s0009.html 図二十一(a) http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i235/image/01/i235s0005.html 図二十一(b) http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/i235/image/01/i235s0027.html

(1)  例 外 的 に、 林 原 美 術 館 所 蔵 洛 中 洛 外 図( 池 田 本 ) は、 逆 勝 手 と 順 勝 手 両 方 を使って描かれる。 (2)  『恨 み の 介 』 は、 主 人 公「 恨 の 介 」 の 悲 恋 を 描 い た 物 語 で あ る。 野 間 光 辰 氏 の 研 究( 『 日 本 古 典 鑑 賞 講 座   第 十 六 巻   御 伽 草 子・ 仮 名 草 子 』 解 説 ) に よ れ ば、 慶 長 十 一 年( 一 六 〇 六 ) 五 月 十 日、 好 色 無 頼 の 罪 に 問 わ れ て 没 し た 幕 府 旗 本 の 松 平 若 狭 守 近 次 と 禁 裡 女 房 を 勤 め て い た 女 の 密 通 事 件 を モ デルにした作品であり、慶長十七年頃から末年までの制作とされる。 (3)  武田恒夫 (一九七七) 「遊楽風俗図の成立と展開」 〔『 日 本 屛 風 絵 集 成 ( 十 四 ) 風 俗 画   遊 楽 ・ 誰 ヵ 袖 』 講 談 社   所 収 〕 一 一 六 頁 (4)  内藤湖南 (一九七六) 「応仁の乱について」 〔内藤湖南 『日本文化史研究 (下) 』 一九 ( 56)

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新出「東山四条河原遊楽図屛風」に関する検討 講談社   所収〕六十五頁 (5)  以 上 三 首 の 訳 文 は『 新 日 本 古 典 文 学 大 系( 五 十 六 ) 閑 吟 集 』( 岩 波 書 店 ) を参考にした。 (6)  前 田 金 五 郎 ほ か 校 註( 一 九 六 五 )『 假 名 草 子 集 』 岩 波 書 店   十 六 頁、 森 田 武「解説」による。 (7)  前田金五郎ほか校註(一九六五) 『假名草子集』岩波書店   九十三頁 (8)  一 九 九 八 年、 京 都 国 立 博 物 館 と 財 団 法 人 京 都 埋 蔵 文 化 財 研 究 所 の 調 査。 本 文に記した大仏殿創建の歴史は、この際の「現地説明会資料」に基づく。 (9)  黒田日出男(一九九六) 『謎解き洛中洛外図』岩波新書による。 ( 10) 狩 野 博 幸( 二 〇 〇 七 )「 洛 中 洛 外 図 の あ ゆ み 」 八 頁〔 『 新 発 見   洛 中 洛 外 図 屛風』青幻舎   所収〕 ( 11) 京 都 国 立 博 物 館( 一 九 九 六 )『 都 の 形 象   洛 中・ 洛 外 の 世 界 』 図 版 解 説、 九十九頁 ( 12) 河 野 元 昭「 四 条 河 原 図 の 成 立 と 展 開 」 一 〇 六 ・ 一 〇 七 頁〔 横 井 清 ほ か (一九八三) 『近世風俗図譜五   四条河原』小学館   所収〕 ( 13) 勝興寺二十代摂常に嫁いだ高司関白准后の娘の持参品との寺伝がある。 ( 14) 河野元昭 「四条河原図の成立と展開」 一〇五頁 〔横井清ほか (一九八三) 『近 世風俗図譜五   四条河原』小学館   所収〕 ( 15) 紙 数 は 十 四 丁 で あ り、 そ の 内 極 彩 色 挿 絵 十 五 面 を 含 む。 縦 十 八 ㎝、 横 二十七㎝の冊子本である。 ( 16) 仲田勝之助(一九五〇) 『絵本の研究』八潮書店   十二頁 ( 17) 島根県立美術館(二〇一三) 『出雲阿国』展図録一四四頁・一四五頁 ( 18) 山 根 有 三「 遊 楽 図 風 俗 図 概 観 ― 野 外 遊 楽 図 を 中 心 に ―」 六 十 七 頁〔 原 田 伴 彦ほか(一九八三) 『近世風俗図譜二   遊楽』小学館   所収〕 ( 19) 京 都 国 立 博 物 館( 一 九 八 八 )『 シ ー ボ ル ト と 日 本 』 展 図 録   狩 野 博 幸 氏 に よる図版解説   一三六 ・ 一三七頁

付記

  本論に掲載した細見美術館所蔵「東山四条河原遊楽図屛風」の写真画 像は所蔵元である細見美術館のご協力を得て執筆者が撮影をおこなった ものである。また、京都大学附属図書館には「國女歌舞伎絵詞」の画像 を提供していただいた。   末筆ながらここに記し、深くお礼申し上げます。 二〇 ( 55)

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