中國文化大學外國語文學院日本語文學系
碩士論文
Master of Thesis
Department of Japanese Language and Literature
College of Foreign Language and Literature
Chinese Culture University
石橋湛山之研究以〈小日本主義〉為中心
石橋湛山の研究─小日本主義を中心に
鍾瀚閣
CHUNG HAN-KOH
指導教授﹕陳鵬仁 教授
Advisor:Professor Chen Peng-Jen
中華民國 99 年 6 月
第一章:序論 第一節 研究動機 西暦十八世紀、イギリスが工業革命を始め、他の欧米諸国も一連の工業化と近 代化を实施し、資本主義、帝国主義と植民地主義の思想と風潮が幕を開いた。 アジアに位置する日本も中国や他のアジア諸国と同様、欧米の列強諸国から開 港、自由貿易、そしてさまざまな不平等条約の締結を強いられた。当時の日本 は一連の屈辱と不平を味わった後、日本は富国強兵と文明開化の必要性と重要 性を痛感した。そして徳川幕府を倒し、明治政府が誕生して「明治維新」を实 施し、日本は正式に現代化、工業化へと変貌し、アジアで唯一最初に高度的に 近代化した先進国となった。そして日本は徐々に列強の一員としての仲間入り を实現させた。当時の欧米では資本主義に基づいて海外で植民地を拡張するこ とによって経済的利益を獲得する風潮の中で日本もごく自然に欧米の列強の 真似を始め、アジアに対して一連の侵略及び搾取を開始した。当時はもとより 現在でも日本は天然資源に恵まれず、国土も狭いので、海外の原料と土地に依 存せざるをえなくなり、後には人口過剰という問題も生じたのが海外侵略の根 本的な理由だと主張する。こういった理由と原因で日本はひたすら欧米列強の 後を追従するようになった。しかし石橋湛山はまだ政界に足を踏み入れていな い時、彼は当時世間で前述した一般的に定着した論説を否定していた。日本は たとえ天然資源や国土などの先天的な条件が欧米列強に务れていても、一人一 人の人材の運用を最大限に発揮し、世界中との国際貿易に力を入れさえすれば、 日本は何の問題もなく立派に発展し続けることが可能であることを石橋は主 張した。彼はたとえ小国でも小国なりのやり方や生き方があることを再三強調 した。しかし彼のこのような思想は当時の日本の社会では奇抜的で異端視さえ されていた。彼は一人の知識人として日本が軍閥によって一歩ずつ軍国主義と 侵略戦争の方向へ進んで行くのを看過できず、紙面の社説などを通してあらゆ る注意、警告そして呼びかけを何度も繰り返してきたが、当時の日本は帝国主 義と軍国主義に酔い痴れていた。朝鮮と中国の侵略を始めとし、いわゆる大東 亜共栄圏を实現させるため日本は大東亜戦争を起した。この戦争で日本はアジ ア諸国を苦しめたほか自国の国民にも多大な苦痛を与え、取り返しのつかない 結果を招いてしまったのである。筆者は石橋湛山の小日本主義を研究すること によって、石橋湛山の小日本主義ならではの独特な政治観、外交観、経済観そ して世界観を探求してみたいと思う。 第二節 研究目的 石橋湛山は当時日本がまだ大東亜戦争と即ち第二次世界大
戦にまで発展していない時から常に日本の帝国主義と軍国主義に対 する批判をしていた。彼のこのような言動は当時の日本の政界では非 常に珍しい存在だった。彼の考え方は常に先見性と洞察力に満ちてい て、今日から見ても大変ユニークでかつ珍奇である。彼は生涯世界平 和を主張し、極右でも極左でもない中道的な思想は当時の日本の政界 では際立っていた存在である。彼は東洋経済新報の主幹・社長、第 1 次吉田内閣の大蔵大臣、GHQ による公職追放を経て一時は政界から追 い出されたが、その後再び政界へ復帰し、第 1 次鳩山内閣の通商産業 大臣を担当、まもなく自民党総裁の選挙で事前岸信介が殆ど勝算を握 ったという非常に不利な状況で最後は辛勝して岸信介を破り、見事に 自由民主党第 2 代総裁に当選した。残念ながら後に彼は健康が原因で やむを得ず首相を辞任した。彼の人生はまさにドラマチックであり、 彼の率直な性格や大衆や選挙民に媚びない気骨はまさに人格者であ り、日本の政界では尐ない清流とも言えるだろう。台湾では石橋湛山 に関する研究や紹介がまだ見当たらないので、今回本論文の研究を通 して石橋湛山という人物と彼の思想を探求してみたいと思う。 研究範囲 石橋湛山が東洋経済新報社に勤めていた時期から彼が政界に入り、 第1次吉田内閣の大蔵大臣、GHQによる公職追放を経て一時は政界から追い出さ れていたが、その後再び政界へ復帰し、第1次鳩山内閣の通商産業大臣を担当、 そして第55代内閣総理大臣に当選し内閣総理大臣になり、最後は脳梗塞で首相 の座を退いたにもかかわらず、日中米ソ平和同盟のために中国訪問するまでの 彼の足跡を探ってみたいと思う。 第三節 研究方法 現在台湾では石橋湛山に関する中国語の文献や参考資料が極端に尐ないので、 筆者は台湾で入手できる日本語の書籍を利用して研究を進めたいと思う。筆者 は石橋の生い立ちと教育の環境及び思想の形成などの面から石橋湛山という 人物の思想哲学を分析したいと思う。そして彼が当時日本国内外にもたらした 影響を探求するつもりである。
第四節 先行研究 台湾では石橋湛山に関する中国語の書籍や資料がないため、日本語の出版物を 通して先に日本の学者によって発表された研究内容に目を通して、石橋湛山の 生い立ち、人格及び思想の形成、彼が東洋経済新報で発表した数々多くの社 説、そして政界入りした後に彼の主な主張と思想、そして諸外国との触れ合い などから小日本主義と言う抽象的な概念を解き明かそうと思う。 【日文】 石橋湛山 石橋湛山全集全十巻 1971 年 東洋経済新報 松山治郎 近代日本政治史 1972 年 白桃書房 現代の眼編集部 昭和宰相列伝:権力の昭和史 1980 年 現代評論社 石橋湛山(著), 増田弘(編纂) 小日本主義─石橋湛山外交論集 1984 年 草 思社 増田弘 石橋湛山 占領政策への抵抗 1988 年 草思社 石橋湛山 (著), 松尾尊兌 (編纂) 石橋湛山評論集 1991 年 岩波文庫 姜克实 石橋湛山の思想史的研究 1992 年 早稲田大学出版部 中村隆英 昭和史〈2 1945‐89〉1993 年 東洋経済 姜克实 石橋湛山─自由主義の背骨 1994 年 丸善 (株) 内田健三・著 戦後宰相論 1994年 文藝春秋 増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 1995 年 中公新書 佐伯啓思 現代日本のリベラリズム 1996年 講談社 石橋湛山 鴨武彦 (編集) 大日本主義との闘争 (石橋湛山著作集―政治・外 交論) 1996 年 東洋経済新報社
正村公宏 世界史のなかの日本近現代史 1996 年 東洋経済新報社 佐高信 孤高を恐れず―石橋湛山の志 1998 年 講談社 五出孫六 石橋湛山と小国主義 2000 年 岩波書店 姜克实 石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義 2003 年 (株)東洋経済 新報社 姜克實 晚年の石橋湛山と平和主義 : 脫冷戰と護憲.軍備全廢の理想を目指 して 2006 年 明石書店 【中文】 陳鵬仁『戰後日本的政黨與政治』1978年 大舞台書苑 顧維鈞回憶錄 1986年 蒲公英出版社 陳鵬仁 從甲午戰爭到中日戰爭 1997年 國史館印行 陳鵬仁、黃琬君 戰後日本的政府與政治 2004年 水牛出版社 以上の先行研究を総じて言えば石橋湛山は主に反戦的、右派的でも左派的でも ない中道主義者であり、経済的には日本は四つの列島の資源で十分、人々は政 府や国家に頼るばかりではなくまず自分から積極的にセルフヘルプの精神を 持つことが必要であり、米ソ冷戦対立の時期にはアメリカ合衆国にもソ連にも 加担せず、世界にとって最も重要なのは世界平和であり、資本主義と共産主義 などのイデオロギーに牽制されるべきではないと強く主張した。しかし果して 中道という道はそんなに簡単なのであろうか?
第二章: 石橋湛山の生い立ち及び各時期の経歴 本章では、石橋湛山の幼尐期、尐年時代、東洋経済新報社に勤務、第1次吉田 内閣で大蔵大臣を担当、GHQによる公職追放、第一次鳩山一郎内閣の通商産業 大臣を担当、自由民主党第二代総裁に当選し、内閣総理大臣に就任、脳梗塞発 症により自民党総裁・総理大臣を辞職し、その後の活動など石橋湛山の歩んで きた人生について述べたいと思う。 石橋湛山の小日本主義について討論するのなら、まず彼がこれまで歩んできた 人生と遍歴そして彼は一体どのような教育を受け、如何なる環境と背景の下で 小日本主義という独特な思想が形成されたのかについて述べたい。 第一節 幼尐期及び尐年時代 石橋湛山は 1884 年九月二十亓日、東京麻布区芝二本榎に生まれた。父の杉田 湛誓(後 1894 年に日布と改名)は日蓮宗の僧侶で、母・きんは、江戸城内の 畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女。湛山の幼名は省三で、 宗門の風習によって、母方の苗字石橋を名乗った。父親は当時日蓮宗の最高学 府「東京大教院」の助教補を務めていた、しかし翌年生まれ故郷山梨県南巨摩 郡増穁村の青柳昌福寺の住職に転勤するため、一家で甲府市稲門へ引っ越した。 1889 年稲門尋常小学校に入学したが、第三学年になった頃父に引き取られ増 穁村尋常小学校へ転校することになった。父親は日蓮宗管長、総本山身延山久 遠寺の第八十一代法王を歴任した高僧なので、石橋が幼い頃から厳しい宗門教 育と躾を施してきた。1894 年、父親が静岡県静岡市の池田本山本覚寺の住職 に転任したため、石橋は父親の宗門の兄弟分で中巨摩郡鏡中条村の長遠寺住職 の望月日謙(1865~1943)に預かれることになった。その理由については孟子 『古者(いにしえ)は子を易えて之を教う』 という言葉の感銘を受けたとい う訳である。以来实質的な親子の関係は絶たれて、幾度となく手紙を出すが父 母からの返事はもらえなかった。 1895 年、石橋は日謙に勧められ山梨県立尋常中学校に入学し、当時の進学率 を見ると決して容易なことではなかった。しかし中学生になった石橋は優秀な 生徒ではないばかりか、一年と四年に何と二度も落第した。その後、最後の第 亓学年に進学した 1901 年の三月に幣原坦前校長の後任として赴任してきた大 島正健校長との出会いで石橋の思想に大きな影響を与えた。大島正健はクラー ク博士の「徹底した民主主義教育」の理念と「剛健な開拓者的精神」を崇拝し 非常に大きな影響を受けたので、大島正健と出会ったことによって石橋はクラ
ーク博士1の理念を信奉する宗教家、教育家になることを志した。 このように中学時代の七年間、石橋は日蓮宗とクラーク博士の理念という東洋 と西洋和洋折衷の思想を受けて成長した。クラーク博士からは「開拓者」的の 精神と徹底した民主主義及び個人主義、日蓮宗からは『開目抄』 「我日本の 柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」の一節を座右の 銘にして自分ばかりではなく後輩を激励した。そのほかの法華経の教義につい てはあまり勉強していなかった。 同じ日蓮主義と雖も、湛山が信仰したのは田中智学2、北一輝3、石原莞爾4 のような「国家主義」的な日蓮信仰ではなく、高山樗牛5、宮沢賢治6、尾 崎秀实7のような「宇宙实相の信仰」でもない。同じ日蓮の信者でも湛山 の思想はコスモポリタン的な立場で「小日本主義」を主張し、プラグマテ ィズムの「人生中心」の世界観を主なモットーとして極めて奇抜的な存在 であった。要するに石橋の思想には日蓮宗のほかにキリスト教、プラグマ ティズム、自由主義、民主主義、個人主義などありとあらゆる多種多様な 観念が含まれているのである。 1902 年、石橋は山梨県尋常中学校を卒業し、東京帝大を目指して上京し たが、二度も試験に失敗し十ヶ月の小学校教諭を務め、1903 年九月には 早稲田大学に入学した。最初は東京帝大で医学を学び、医者と宗教家を兼 ねるという夢を持っていたのだが、最終的には早稲田大学の哲学科へ進学 することになった。後に石橋は早稲田大学で彼の今後の思想に最も大きい 影響を与える田中王堂8と出会った。そしてこの「王堂哲学」が後の湛山
1 ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、クラーク博士、1826年7月31日 - 1886年3月9日) は
札幌農学校 (現北海道大学) 初代教頭。当時の明治時代のお雇い外国人。 2田中智學(田中 智学、1861年12月14日(文久元年11月13日) - 1939年11月17日)は、明治期から昭和初期に かけての日蓮宗宗教家。 3 北一輝(本名:北 輝次郎(きた てるじろう)、明治16年(1883年)4月3日 - 昭和12年(1937年)8月19日) は、戦前日本の思想家・社会運動家。 4 石原莞爾(明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、昭和の陸 軍軍人、最終階級は陸軍中将。「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。 5高山樗牛(1871年2月28日(明治4年1月10日) - 1902年12月24日(明治35年))は明治時代の日本の文芸評論家、 思想家。東京大学講師。文学博士。明治30年代の言論を先導した。本名は林次郎。 6宮沢賢治(1896年8月27日(戸籍上は8月1日)- 1933年9月21日)は、日本の詩人、童話作家。 7尾崎秀实(1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)は日本の評論家・ジャーナリスト、 朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託を務める。 8田中王堂(1868年1月24日(慶応3年12月30日) - 1932年(昭和7年)5月9日)は日本の哲学者、評論家。王堂、
の思想形成に一役を買ったと言えよう。田中王堂は明治・大正期の有名な 哲学者と文芸批評家でもあり、日本ではプラグマティズム学問の権威であ る。湛山は 1905 年から 1908 年まで大学と研究科で四年間田中王堂の「倫 理学」と「西洋倫理学史」の講義を受けていた。 石橋の思想形成に最も大きな影響をもたらした王堂哲学は大筋をまとめ て言えば人生中心の哲学そして一元的・作用主義的方法論でアメリカ流の プラグマティズムを大きな特徴とする。いわゆる個人を本位とする思想で 自己の欲望を求めることは出発点でもあり、同時に帰結点でもある。しか しながら、ただひたすら自我の願望を満足させるだけではなく、社会とい う大きな環境において自分の理想を实現させることで、「個人主義」、「国 家主義」、「私欲」と「理想」、「個人」と「社会」などのあらゆる要素が同 時に存在する時の均衡の取れたバランスを求めることを主張する。石橋も その後「私は、先生によって、初めて人生を見る目を開かれた。もし、今 日の私の物の考え方に、何がしかの特徴があるとすれば、主としてそれは 王堂哲学の賜物であると言って過言ではない」述懐している。9 太平洋戦争下の自由主義者の奮闘 当時清沢洌の暗黒日記の内容から当時太平洋戦争の下で石橋湛山や清沢 洌などの自由主義者と反戦主義者の活躍と奮闘について 石橋湛山は山中湖で有田八郎10と会談し、有田は時局に対して非常に悲観的で あるのに対し、東条英機11首相の下の人間達はまだとても楽観的であった。 王堂学人は号で、本名は喜一。早稲田大学文学部教授。 9姜克实 石橋湛山─自由主義の背骨 丸善株式会社 P2~10 10 有田八郎(1884年(明治17年)9月21日 - 1965年(昭和40年)3月4日)は、新潟県佐渡郡真野町(のち佐 渡市)出身の外交官、政治家。号は澤農、貴族院勅選議員、衆議院議員1期(第26回)。实兄の山本悌二郎は 立憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を務めたことで知られている。戦前は 「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。 日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放。追放解除後は革新陣営に属し日本の再軍備に反対し たことで有名。 11
重光葵12は廣田弘毅13を訪ね、駐ソ大使として日ソ関係の打開を頼んだが、 廣田はそれを断り、最後は東郷茂徳14に頼んだ。しかし東条英機はそれを受け 入れなかった。東郷は東条内閣の時に外相を辞任したので、東条は感情的に東 郷のことを気に入らなかった。 日本はイギリスを東亜から追い払うべきではない。イギリスの勢力が東ア ジアに存在すれば、日本はイギリスと共にアメリカ合衆国を牽制すること ができる。イギリスを恐れるべきではない。イギリスの勢力を追い出すこ とによって英米同盟を生み出してしまった。排英運動は素人による外交運 動で最も悪い例である。日英同盟の破局は日本にとって甚だ不利であるこ と清沢は指摘した。 噂によると中国にいる日本人は売ることさえできれば財産を売却し日本 へ帰国しようとしている。特に「中国通」と自称する者にはこのような傾 向が見られるそうだ。この戦争の結果により、北米、南米、中国などの土 地での全ての努力は水泡に帰するのである。この点から清沢も石橋と同じ 満州及び海外植民地の不利益性を批判。15 もし日本が敗戦すれば日本は被告となる。その時日本はその一連の行為に ついて弁明しなければならない。しかし日本の外務省は全くそのような準 備をしていない。それどころか、そのような必要さえないと考えている。 戦後の世界の新たな秩序など毛頭考えていない。 12重光葵(1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本の外 交官・政治家、第二次世界大戦中に外務大臣を務め、政府全権としてポツダム宠言に調印した。戦後は東京裁 判で有期禁錮の判決を受けたが、赦免されて政界に復帰し、再び外務大臣となって日本の国際連合加盟に尽力 した。貴族院勅選議員、衆議院議員(戦後)当選3回。 13廣田弘毅(1878年(明治11年)2月14日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の外交官、政治家。勲等 は勲一等。旧名は丈太郎。外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴 任した。 14東郷茂徳(1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋 戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大 臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣 兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任 を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に朋役中に病没した。 15 陳鵬仁 從甲午戰爭到中日戰爭 P328
ウォルター・リップマン16のアメリカ外交史を見ると、日本とドイツを除い て、アメリカ合衆国、イギリス、ソ連と中国は戦後の世界の新たな秩序を維持 する強国になると述べている。但し一般論としては中国、アメリカ合衆国、イ ギリス、フランス、ロシアという国連の常任理事国が世界の秩序の維持を担う という観点から見てフランスが除外されている点に筆者は不思議に思う。 石橋湛山は敵軍の艦隊は既にクェゼリン環礁17まで来ていて、日本側の全滅は もはや免れないだろうと分析した。そして戦死した息子で悲しむ妻をどうやっ て慰めたらよいのかが大きな問題だと淡々と述べた。彼の冷静に清沢は非常に 驚いたそうだ。 戦争を起した者は尐しも責任を感じない。そればかりか宿命論や先見など を説いている。私には将来このような無責任な論者を批判する責任があ る。 午後、東洋経済新報社の評議委員会に出席した。久しぶりに姿を見せなかった 蝋山政道18も出席した。自由に話したいことを話せるのはこの会のみである。 他の場合たとえ2、3人の集会であるとしてもスパイがいるので本音を話すこと ができないのである。私達は国家の安否を一刻も忘れることはなく、研究と討 論の内容も全て如何に国家の安全に対処することである。19 当局者の大半は直言を容れようとしない。ある国会議員は東条英機と二人 っきりの場合で東条に直言した。しかしその国会議員は帰りの途中に憲兵 隊に呼ばれて酷い目に遭ったのだ。「こんな国に生まれたのは何という不 幸だ」と は言った。私は一人の知識人としてこのような低务な雰囲気と 干渉は容認できない。 地理的条件から見れば、日本は均衡な勢力を保つ(バランス・オフ・パワ 16 ウォルター・リップマン(Walter Lippmann, 1889 年 9 月 23 日-1974 年 12 月 14 日)は、アメリカ合衆国の ジャーナリスト、コラムニスト、政治評論家、1958 年と 1962 年の 2 回、ピュリッツァー賞を受賞している。 著書『世論』は、大衆社会化する現代におけるメディアの意義を説いた本として、ジャーナリズム論の古典と して知られる。 17 クェゼリン環礁(英語:Kwajalein Atoll、クワジェリンとも)とはマーシャル諸島、ラリック列島にある 環礁。1944年にクェゼリンの戦いでアメリカ軍が日本軍を排除、占領した後は環礁は軍事目的で使われている。 18蝋山政道(1895 年 11 月 21 日 - 1980 年 5 月 15 日)は、日本の政治学者・行政学者、政治家、お茶の水女子 大学名誉教授。民主社会主義の提唱者であり、行政学研究の先駆的存在である。 19 陳鵬仁 從甲午戰爭到中日戰爭 P334
ー)20政策を取るべきである。イギリスがヨーロッパ大陸に対するように アジアでは中国をめぐって列強諸国に衝突が起きるのは必然的な結果で あるので、日本はバランス・オフ・パワーでそれに対応すべきである。日 本は大陸としてこの争いに臨むこと自体が失敗を招く原因である。 人間は自分の経験以外のことは分からない。日本政府は軍隊の管理を工場 に導入させるのが最良だと思っているらしい。彼らは競争主義のメリット を全く分かっていない。彼らは全く知識のない輩ばかりである。 日本人は戦争に対して一種の信仰を持っている。日支事変以来、私の周りの者 も戦争に加担するようになった。小汀利得21、太田永福もそうだ。戦争に反対 なのは石橋湛山と馬場恒吾22しかいない。今後の戦争は戦争の信者にとっては 最も实用的な教育になるであろう。しかし、この教育の代償はあまりにも大き すぎる。 最近キリスト教系大学で幾つかの悲劇が起こった。同志社大学の湯浅八郎23学 長の辞職は証書を読み間違えたからである。立教大学の木村学長24は階段で詔 書を読んだために辞任を強いられた。青山学院の笹森院長25事件26は愛国心と 20 バランス・オフ・パワー 日本語では勢力均衡は、19世紀以降、欧州の国際秩序を維持するために各国間 の軍事力に一定の等質性(パリティー)を与えることにより、突出した脅威が生み出されることを抑制し、地 域不安や紛争の誘因を低下させることを目的として考案されたバランス型の秩序モデル。 21小汀利得(1889年12月3日 - 1972年5月28日)は、日本のジャーナリスト、時事評論家。第二次世界大戦前 は中外商業新報紙(後の日本経済新聞)の経済部長、編集局長、社長を歴任、戦後はTBSテレビの座談会番組 「時事放談」のレギュラー出演者として有名だった。 22馬場恒吾(1875年7月18日 - 1956年4月5日)は、ジャーナリスト・政治評論家・实業家。岡山県岡山市出身。 同志社神学校から東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業。ジャパン・タイムス、国民新聞の記者を経 て、読売新聞社の主筆・社長などを歴任した。リベラリストの言論人として活躍。 23 湯浅八郎(1890年4月29日 - 1981年8月15日)は昆虫学者。1935(昭和10)年、同志社総長に推薦され受諾。 同志社第10代総長に就任する。 24 木村重治 1874-1967明治-昭和時代の西洋史学者。明治7年5月4日生まれ。30年渡米し,ホバート大,ハーバ ード大などにまなぶ。立大経済学部教授,学部長をへて,昭和7年学長。戦後は極東軍事裁判弁護人,グルー基金 常務理事などをつとめた。 25 笹森順造(1886年5月18日 – 1976年2月13日)は、大正・昭和期の政治家(元国務大臣)、教育者、武道家 (小野派一刀流第16代宗家)。正三位勲一等瑞宝章受賞。青森学院院長第7代院長(1939~1943年在任) 26笹森順造在任期間は戦時下という、キリスト教主義学校にとってきわめて過酷な状況にあり、日米間の緊張 が高まる1941(昭和16)年2月、米国メソジスト教会より青山学院の宠教師に帰還命令が出され、同年12月8日
関係があるらしい。立教大学の図書館館長はカーネギー財団27と何らかの関係 があるので、官憲の圧迫により自害した。 日本は国家の存亡に関わる大戦争を起した時、一体何人がその詳細、指導、思 考と交渉について把握しているのであろうか?せいぜい10人くらいであろ う。それ故、秘密主義、官僚主義と指導者原理28の危険性と恐ろしさが窺える。 総領事である千葉皓29(石橋湛山の婿)は二等兵として軍隊に入隊した。生ま れつきの早口なので「上等兵殿」の殿の発音がはっきりと聞こえないため、軍 隊で酷い仕打ちをされたそうだ。総領事が無知な上等兵に殴られるとは。30 陸海軍の報道部、内閣情報局、内務省、警視庁はみなその独立権限を理由に 互いに言論の取り締まりについて競い合っている。言論統制とその取締りの模 様について。 坂本君のお宅を訪ね、丁度鳩山一郎も来ていた。彼の話によれば吉田茂は15、 16日に憲兵隊に連れ去られたそうだ。樺山愛輔31伯爵の家も捜索されたそう に開戦。伝統ある神学部の閉鎖など青山学院は苦難の時代に突入し、学院内が大きく動揺するなか、笹森院長 もさまざまな圧力を受け、志半ばで退任せざるを得ない状況に迫られた。 27
カーネギー財団或いはカーネギー研究所[(英語:Carnegie Institution for Science)は、1902年に鉄鋼 王アンドリュー・カーネギー (Andrew Carnegie) が設立した、科学研究を支援する財団法人である。設立時 の名称はワシントン・カーネギー協会(Carnegie Institution of Washington)。今日、カーネギー研究所は 植物生物学、発生生物学、天文学、材質科学、環境生態学、地球惑星科学の6分野の研究をサポートしている。 28 指導者原理(独:Führerprinzip、英:leader principle)は、指導者には絶対恭順すべきだとする、ナチ党が掲 げた原理である。指導者原理は、ドイツ第三帝国の統治構造における政治的権威の重要な基礎である。 29 千葉皓 妻は内閣総理大臣石橋湛山の娘 。外務省欧米局長、オーストラリア大使、ブラジル大使等を歴任。昭和 54年4月29日勲一等瑞宝章を受章。 30陳鵬仁 從甲午戰爭到中日戰爭 P340 31樺山愛輔(、慶応元年5月10日(1865年6月3日) - 昭和28年(1953年)10月21日)は、日本の实業家、政治家。伯 爵。1865年、薩摩藩士・樺山資紀の長男として鹿児島に生まれた。1878年、米国に留学。アマースト大学卒業後はド イツ・ボン大学に学ぶ。实業界に入り、击館どつくや日本製鋼所、十亓銀行などの役員を務める。1922年、父資紀(海 軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年に貴族院議員に選任され、1947年に貴族院が廃止されるまで務めた。 1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して 終戦工作に従事した。1946年、枢密顧問官に就任。20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会 長や国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長、ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。
だ。政治評論家の岩淵雄も憲兵隊に逮捕されたそうだ。元々内閣閣議の決議に よれば全ての敗戦主義者を逮捕する予定だったが、そうなるとその人数は6000 万人に上るので、結局取りやめることになった。32 第二節 東洋経済新報社時期 普選運動と護憲運動について 石橋は 1913 年(大正二年)に桂太郎33内閣打倒を目的とした第一次護憲運動に 関与していた。それ以来石橋は以下のような普選論を唱えるようになった。「元 来制限選挙制というものは道理に合わざる制度なり。殊に財産に由て制限を設 け、幾ら幾ら以上の直接国税を納むる者には国政に参与する権あれども、其の 以外の者には其の権無しなど云う事は、言い換ゆれば、金の有る者は国民なれ ども、金の無き者は国民にあらずと云う事にて、其の不道理なるは識者を待っ て後知るべき事に非ず」つまり、日本の総人口亓一七亓万人のうち、選挙権を 持つ者はわずか三パーセントの一亓四万人に過ぎないのである。そしてその他 の亓〇二一万人は租税だけを取られ、兵役の義務は義務付けられていながら、 租税の用途や兵役のあり方などについては一切意見を持つことが許されない のは不合理であると石橋は言う。34その上、「普通選挙にならなければ駄目であ る。国民は何故之れを要求しないか。吾輩は实に歯痒くてならぬ」、「吾輩は普 通選挙制要求の声を是非共国民の中に起し、今日の政党と議会と政府とを悉く 改造する事に努めねばならぬ」と述べた。35 この普選論の背後には民主主義(当時は民衆主義と呼ばれた)と自由主義があ った。石橋は民主主義思想を次のように受け止めていた。「民衆主義は、人類 が最新に発明したる生活法であり、近代の文明が、経済的側面も、文学的側面 も、道徳的側面もすべてことごとく民衆化し、ますます民衆化せざるをえない 今日、この民衆主義以上に吾人の生活を豊富にし、清新にし、福利を増進する 手段はない」「換言すれば民主主義は一切の責任を民衆自らに負わする主義で あり、人類が過去幾千年の経験を結果生産せし最も实用的にして而して最も偉 大なる思想なり」と述べた。 32陳鵬仁 從甲午戰爭到中日戰爭 P355 33桂太郎/桂清澄(弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年10月10日)は、日本の武士(長州藩 士)、陸軍軍人、政治家。 34増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P53 35増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P53
このような民主主義を实現させるためには、自由主義的な政策の实施が必要と されていた。その自由主義的政策は政治上、経済上、社会上、思想道徳上にお ける個人の行動に均等のチャンスを与え、その自由を保障する政策である。具 体的な方法としてはまず衆議院議員選挙法を改正し、その選挙権を更に広める こと、第二は税制を改定し社会の貧富の差と負担を配慮し、産業に対する保護 政策を廃止すること、第三は憲法の明文を依拠として思想と言論の自由を保障 し、治安警察法、新聞紙法など言論と思想にたいするあらゆる悪法を改正また は全面的に廃止すること。第四は内閣の官制を改め、陸海軍大臣を軍人のみに 限るという決まりを撤廃すること。第亓は高等文官、司法官、弁護士、教員と その他を対象とする試験委員の選択制度を改革し、学閥跋扈という問題を防ぎ、 志望者に均等な機会を与えるべきであることを主張した。36 そして石橋は国民主権を公言することさえ惜しまなかった。「如何なる場合に 於いても『最高の支配権』は全人民に在る、代議政治はその発見を便宜にする 方法で、現在の処之れに代ゆべき手段はない」と石橋は述べた。主権在君を絶 対とする帝国憲法37の下で石橋はそれに対して疑問を投げかけたり、指摘した りする姿勢は当時では危険思想と断罪されかける所であったが、石橋にとって 主権在民は自明の論理であったのである。また石橋は議院内閣制度では議会が 国民の意見を反映する無二の場所であるという考えから、責任ある機関とは帝 国議会であらねばならないと主張した。当時の帝国議会の会期は三ヶ月だった ので、それを十二ヶ月、つまり一年中常設の状態に変えると、「一切の政治運 動と政論とは、常に議会を中心として行われるようになる」と石橋は説いた。 38 当時の大隈内閣も、寺内内閣も石橋から見れば、正に非民主的な政権であった。 石橋は大隈内閣に対し「政治上に、君主の絶対意思を認め、政治上の一切の責 任を挙げて君主に負わしむるの論を議会に公言して憚らない。是れ实に立憲代 議制の今日と全く相容れない所の専制時代の思想である」とコメントした。そ して寺内内閣に対しては「国民の意志を無視せる元老の奏薦に従って起ち、国 民の至当なる願望(政党責任内閣の確立)を無視して、純然たる超然内閣を組 織した。此の意味から、寺内内閣は实に不良内閣と云わねばならぬ」と批判し た。このように石橋は当時の内閣と対決姿勢を示す一方国民を代表する政党と 政治家が根拠とする議会の強化を目標としその前提として普通選挙の实現を 36増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P53 37大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス大日本帝国憲法第1章第1条 38増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P54
要求したのである。 このように普選運動が再び白熱化した 1919 年春、石橋は 3 月 1 日、日比谷音 楽堂広場に集まった三万人といわれる民衆の普選の实現のために国民大会が 開かれ、銀座を経て皇居二重橋までデモが行われた時、副指導者の役目を勤め ていた。尾崎行雄39もこの頃から普選即行論者としてこの運動の先頭に加わっ た。しかし普選はすぐに实現しなかった。 1924 年一月、清浦奎吾内閣40が発足し、政友会・憲政会・革新倶楽部の有志者 によって第二次護憲運動が勃発した。翌年 25 年三月、いわゆる護憲三派内閣 のもとで普選のための衆議院議員選挙法改正法律案が両院を通過した。この結 果、一定年齢以上の男子には納税の制限なしに全ての選挙権が与えられた。石 橋が普選論を提唱して以来、14 年もの時間を要した。石橋はもしも早く大正 八、九年の頃に各政党が普選論に踏み切っていたら、日本の民主主義も更に迅 速に開花したであると同時にこれによって 1931 年(昭和六年)以後に軍部や 官僚の勢力の台頭によって日本も戦争という不幸な道を歩まずに済んだのか もしれないと指摘した。41 婦人参政権について 石橋は婦人参政権を論ずる前にまず先に日本社会で婦人に対して不公平であ る数多くの現象を改正すべきであると述べた。彼はまず日本の教育界が婦人の 力を利用しないことを指摘した。小学校や女学校には女教員は一応あるのだ が、それはただ教師という職業を持つ婦人を利用しているだけで必ずしも婦人 そのものの才能を尊重しているわけではない。率直に言えば女教師の給料が安 いから女教師を雇うのである。職業の種類などに拘らず一般的に婦人そのもの の力と才能を教育上に有効に利用するのがポイントである。外国では市町村の 学務委員は既に婦人に選挙権と被選挙権を与えて直接子供の教育行政に参加 39尾崎行雄(おざき ゆきお、安政5年[1]11月20日(1858年12月24日) - 昭和29年(1954年)10月6日)は、日 本の政治家。日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高 齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。 40 清浦奎吾(きようら けいご、嘉永3年2月14日(1850年3月27日) - 昭和17年(1942年)11月5日)は、日本 の政治家。第23代内閣総理大臣。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を 歴任。 41増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P55
させる方法を用いているのに対し、日本はこの面で相当遅れている。その他日 本の各学校の生徒保護者会も表面の保護者が各生徒の父親であるため实際に 子供達の教育に多くの力と時間を費やす母親達は却って正式に参加すること ができない。このような結果によって多くの学校の保護者会は有名無实の団体 になっている。専門学校以上の生徒ならともかく、小中学校程度の子供の教育 は大抵母親が担当するので、仕事で毎日外で働く父親には手が及ばない。しか し法律では父親が世帯主であるため、实際に子供の教育に専念できない者に保 護者会の参加を強いるのは不合理である。しかしこのような現象は今でも続き 法律では何の改正の行われず、实際は各学校の教育者の考え一つで変えられる ことであると石橋は指摘した。 そして産業組合でも夫の許可がない妻の行動を制限しているので婦人は正式 に組合員になるのが難しく、男子と同じように活動することが許されないので ある。この問題は民法の改正に関係し、尐々面倒な問題であるが、今は婦人参 政権を論じているのでまず先にこのような権利を婦人に与えるのが急務であ る。以上のように市町村の衛生委員、都市改良委員という職は外国では既に婦 人に選挙権と被選挙権を与えていて、またこのような仕事も確かに婦人の意見 に耳を傾け、婦人の力を利用すべきである。日本の現在の制度は婦人をあらゆ る分野で除外しているので、特定の事業の発達に支障を来すだけではなく、一 方男子にもそれなりに余分な負担をかけてしまうことになる。日本の社会では 一口に「女が」という言葉で婦人を軽蔑する。实際現在の日本社会の婦人の中 には軽蔑されざるを得ない要因は沢山あり、その状況を改善する方法は即ち婦 人の社会進出に力を入れるしか別途はない。今日の男子が平均的に女子に勝る 能力を持つのは学校教育のおかげであり、自由に社会に進出し、多種多様の体 験を得て経験を積み重ねることができるからである。婦人の参政権を議論する 際にはまず即刻に女子の教育や社会進出などの問題について深刻に考える必 要があると石橋は述べた。 ワシントン会議: 第一次大戦後のヨーロッパと東アジアでは旧来の秩序が一変し、新たな局面を 迎えた。当時のアメリカのウォレン・ハーディング42政権は列強諸国の軍備拡 張や日英同盟の継続問題などのほか、山東問題、満蒙問題、シベリア出兵問題、 日本移民問題など日米間の諸問題の解決を図るため、1921年(大正十年)の夏、
42 ウォレン・ガマリエル・ハーディング(Warren Gamaliel Harding, 1865年11月2日 - 1923年8月2日)はア
関係諸国をワシントンに招くことを決めた。これに対し日本側の反応は最初否 定的であった。何故ならば政府も軍部も大衆メディアもパリ平和会議で日本が 窮地に陥った羽目を忘れていなかったためである。そこで日本政府はアジア及 び太平洋問題を議題から排除し、軍縮問題のみに限定させることを要求したが、 当時のアメリカ政府は日中両国に対して、同格に扱うという保障をしたので、 日本は出席することを決めた。この会議は日米英仏伊中国など合計九カ国が参 加した。本会議は同年十一月から翌年の二月まで話し合いが行われた。そして 主に中国に関する九カ国条約、太平洋に関する四カ国条約、海軍軍縮に関する 亓カ国条約など亓条約と十三の決議が採択された。43 石橋は数多くの大衆メディアとは対照的に、アジア・太平洋ならびに軍縮会議 開催の消息を喜ばしいニュースとして捉え、積極的な姿勢をアピールした。ワ シントン会議44についての石橋の基本的な考え方は、日本が一切を捨てる覚悟 をもって中国と提携することであった。つまり「弱小国に対して、この『取る』 態度を一変して、『棄つる』覚悟に改めよ、即ち満州を放棄し、朝鮮台湾に独 立を許し、其他支那に樹立している幾多の経済的特権、武装的足懸り等を捨て てしまえ、そして 弱小国と共に生きよ」「大欲を満すが為めに、小欲を棄て よ」という心構えが必要であると述べた。日本はこれから「如何なる国と雖も、 新たに異民族又は異国民を併合し支配するが如きことは、到底出来ない相談な るは勿論、過去に於て併合したものも、漸次之を解放し、独立又は自治を与う る外ない」と分析した。 何故日中両国はこの会議で提携する必要があるのかについて石橋は「支那と日 本とは、融和し、交驩し、提携するのが、地理上、歴史上、国際関係上順であ り自然である。…若し我国が、支那の納得し、信頼し得る如き態度に復れば、 蓋し等反作用の理由により、支那は大に喜んで、固く我国と握手し提携するの が、極めて自然」と指摘した。45 日本が一切を捨てて中国と提携した場合は一体どのような利益が得られるの か、石橋は次のように説明する。まず「英米から袋叩きにさるべき理由は全く 消滅すると同時に、局面は一転して、印度を領有し、白人豪州を作り、メキシ コを圧迫し、有色人種を虐げ、菲律賓やグアムを武装して極東を脅威している 英米が、遂に詮議せられる位地に立たねばならぬ」次に「支那は広い。満蒙は、 其広い支那の一局地、而かも、経済的に最も不毛な一局地だ。之を棄つること 43増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P73 44 ワシントン会議(1921年11月12日 - 1922年2月6日)とは、第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウオ レン・G・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍縮会議。 45増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P75
に依って、若し支那の全土に、自由に活躍し得るならば、差引日本は、莫大な 利益を得る」「台湾にせよ、朝鮮にせよ、支那にせよ、早く日本が自由解放の 政策に出づるならば、其等の国民は決して日本から離るるものではない。彼等 は必ず仰いで、日本を盟主とし、政治的に、経済的に、永く同一国民に等しき 親密を続くであろう」と解析した。46 しかし当時の日本政府は物事の皮相と短絡的な考えにより、石橋の意見やアド バイスは聞き入られることはなかった。石橋は憤慨し「依然として支那を袖に して、英国に縋り米国と諒解を得ようとしている。何たる事大主義の醜態だろ う」と批判した。47 ワシントン会議についての石橋のもう一つの主張は軍備を撤廃することであ った。満州放棄論の軍事的観点のように石橋は日本のみならず世界の列強各国 の軍拡競争に批判的な態度を示していた。要するに日本政府が満州などの海外 植民地を確保することによって国防安全の確立する見解を幻想であると非難 した。他国を侵略する意図がなく、また他国から侵略を受ける懸念もないので あれば、警察以上の兵力は無用だと判断した。かえって中国やシベリアといっ た海外領土をめぐる日米間の対立こそ戦争を勃発させる危険性のある要素で あることを世間に訴えた。米国は日本の極東独占政策を口实に日本と開戦する つもりはなく、ただ中国や極東地域に対する影響力と軍事力を深めることを望 み、主要な目標はバランス・オブ・パワー(勢力均衡)であると石橋は分析し た。そのバランス・オブ・パワーについて石橋は「戦争をするのが目的でない が…ぐずぐず云えば、直ぐにも砲火を開くぞと云う競合いの状」と述べ、米国 がそのような態度を取るのは日本がこの方面を独占しようとしたからであり、 根本的な原因は日本側にあると指摘した。 このような状況を回避する場合、第一、日本が全ての植民地を放棄し、極東独 占政策を撤去すること。つまり中国、シベリアを勢力下に入れる野望を棄て、 満州、台湾、朝鮮、樺太等の土地に対し役に立たない態度を示すことを石橋は 挙げた。48そうすれば戦争は決して起こらず、日本が他国から侵略を受けるこ とも絶対に起こらない。「論者は、此等の土地を我領土とし、若しくは我勢力 範囲として置くことが、国防上必要だと云うが、实は此等の土地を斯くして置 き、若しくは斯くせんとすればこそ、国防の必要が起るのである。其等は軍備 を必要とする原因であって、軍備の必要から起った結果ではない。然るに世人 46増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P75 47増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P75 48増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P76
は、此原因と結果とを取違えておる」と述べた。49 第三節 吉田茂内閣大蔵大臣時代 石橋湛山が戦後初めての総選挙(第二十二回衆議院議員総選挙)に立候補する のを決意したのは、1946 年二月末で、議会の解散からすでに二ヵ月半経って いた。彼が初めて政治の世界に足を踏み入れようとしたきっかけは、一月四日 の衝撃的な公職追放令50(SCAPIN-亓亓○、亓四八)であった。 当時の追放令は GHQ が総選挙を狙いに实施したものであり、特に旧体質で保守 的な政治家を一掃するのが目的であった。この指令によって最も大きな打撃を 受けたのは進歩党で、党が成立した当時の二七四名の代議士がいっぺんに一四 名に激減し、自由党、社会党でも多くの戦前戦中派の政治家が選挙で立候補す る資格を失ってしまった。いわば各党とも候補者が足りないという困難に直面 していた。石橋はこの機会を利用して自分の理論を实践させて日本の再建に己 の力を貢献したい絶好のチャンスだと思った。51 自分は無所属で立候補するべきではないと考えた石橋は、松岡駒吉52や片山哲 など旧友が多い社会党から積極的に入党を勧誘されたが、社会党は「社会主義 に拘束されて、思想の自由を欠いているようにみえる」という理由で断った。 一方進歩党の松村謙三53、斉藤隆夫54、幣原喜重郎とは古い知り合いであるう え、総裁の町田忠治は新報社の創設者でもあったため、進歩党からも同様に入 党を勧められたが、進歩党の唱える統制経済主義には賛同できないので、断っ たのだ。 結局石橋は自分の主張や理念を受け入れてくれるのは自由党のみであると判 49増田弘 石橋湛山─リベラリストの真髄 中央公論新社 P77 50 公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令は、公職追放について規定された日本の勅令。公職追放 令とも呼ばれる。 51増田弘 (著) 石橋湛山 占領政策への抵抗 株式会社 草思社 P35 52松岡駒吉(1888年4月8日 - 1958年8月14日)は大正・昭和期の政治家、労働運動家。第39代衆議院議長(在 任期間・1947年5月21日 - 1948年12月23日)。戦前日本の右派労働運動の代表的存在。 53松村謙三(1883年1月24日 - 1971年8月21日)は、富山県福光町(現在の南砺市)出身の日本の政党政治家。 衆議院議員選挙に通算13回当選し、厚生大臣・農林大臣・文部大臣を歴任した。 54斎藤隆夫(1870 年 9 月 13 日(明治 3 年 8 月 18 日) - 1949 年(昭和 24 年)10 月 7 日)は日本の弁護士、政 治家。行政管理庁長官、内閣法制局長官、日本進歩党総務会長を務めた。
断し、そのうえ、旧友の植原悦二郎55の勧めや、鳩山一郎総裁とは戦時の頃か ら既に接触があったため、最終的には自由党に入党することになった。 四月十日、戦後最初のそして旧憲法下である最後の選挙が行われた。石橋の獲 得した票数は二万八○四四票であり、順位は 20 位で当選を果たせなかった。 立候補の準備が不十分で一般大衆及び投票する有権者の間での知名度が必ず しも高いとは言えなかったため、落選したのである。しかし、この歴史的意義 のある選挙戦で自由党が確保した議席数は一四○で、九四議席の進歩党を追い 越して第一党となったのである。そのため自由党総裁の鳩山一郎の首相就任は 決まったものだと思われていたが、亓月四日に鳩山は急に公職追放となってし まい、幣原内閣の外相の吉田茂が首相の座に着き、石橋湛山は落選したものの、 亓月二十二日に成立した第一次吉田内閣の蔵相に就任するという劇的で意外 な結果を迎えた。落選したにもかかわらず、閣僚のポストを得るということは 前代未聞であった。56 石橋が吉田内閣に選ばれた理由についてはいくつかの説がある。 まず最初に大蔵大臣という役目は、相当な見識を持たなければならないほか、 自分の信仰する主義と主張を最後まで信奉し、そして貫く信念を持つことが必 要とされるので、些細なことには動揺せず、頑迷と言われてもよいので、最後 まで頑張らなければならない。続いて、当時は第二次世界大戦敗戦後で、食料 は不足で工業生産も足りないという不足した時代なので、とりあえずまず生産 と産業の復興が一番主な課題であった。当時の世論ではインフレーションの激 化という不安が囁かれていたので、それを上手に予防することが余儀なくされ ていた。そして最後に、何事も勝手で気ままに放任できないのだが、敗戦後の 国民で権力的な統制を満遍なく行うのには不適であり、また一刻も早く自力し て立ち直るということを目指すには、国民も企業も政府の補助金ばかりに頼っ てばかりいては仕方ないので、できるだけ統制だけは避けるようにしなければ ならないという思惑があった。 一方吉田茂が石橋湛山に対する第一印象と言うと「平素親しく交際していたわ けではなかったが、戦前から自由主義的な経済雑誌『東洋経済新報』の主宰者 であったことや、゛街の経済学者“として相当な見識の持主である」ことを聞 き知っていたので、党側から石橋を蔵相に推薦した時は「何の躊躇もなく」石 橋に決めたのである。吉田の基本方針から着目すると、吉田が鳩山の代理とし 55植原悦二郎(1877年5月15日 - 1962年12月2日)は、大正・昭和期の政治家・政治学者。元国務大臣・内務大 臣。 56増田弘 (著) 石橋湛山 占領政策への抵抗 株式会社 草思社 P38
て内閣を組閣し、財政経済面の政策で重要視したのは、東久邇と幣原の二つの 内閣から引き続き存在する戦時問題の解決や食糧・石炭などの重要な物資の不 足に関する対応と戦後の日本の財政経済が一刻も早く回復しそして安定する のが主な課題であった。吉田茂自身も「占領軍総司令部の対日管理政策はまだ 厳しい時代であり、…財政、経済方面においても、いろいろと、今から言うな らば、内政干渉的なことの多かった」と回想している。その一方石橋の蔵相就 任は实は自由党の鳩山からの推薦も大きく功を奏していた。その理由は以下の 諸点にまとめることができる。 一、石橋は総選挙に先立って既に自由党のインフレ対策委員長を務めており、 言い換えれば影の大蔵大臣を務めていたといえるだろう。 二、大内兵衛57東京大学教授が石橋の入閣要請を固執し拒否したことと、大口 喜六ら党内の蔵相の有力候補者が次々と追放されたこと。 三、当時の閣僚の人事で最も重視されたのは GHQ からの人物評価であったた め、その点でも石橋は ESS の顧問も経験したことがあるので GHQ 当局から の評判も良いと看做された。 四、昭和初期の金解禁論の論争が始まって以来、自由主義的な色彩を持つ経済 評論家石橋湛山は経済界で一定の声望があり、さらに石橋のアイディアに よる経済倶楽部の規模は全国的に及び、この組織を通じて石橋を支持する 勢力と団体も形成された。 亓、鳩山の石橋に対する個人的信頼が高かったのも一因である。鳩山は吉田に 石橋湛山を推薦し、戦中に石橋と既に面識があった吉田は石橋の蔵相の件 を容認したのである。58 石橋湛山の蔵相時代に唱えられた「石橋財政」について 石橋湛山が蔵相を担当した当時に大きな問題として議論されたのが「石橋財 政」であり、その石橋財政とは積極財政とも呼ばれ、金融緊急措置でいったん 鎮静したインフレーションを、赤字財政と復興金融金庫融資をテコとした生産 57 大内兵衛(1888年8月29日 - 1980年5月1日)は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。専攻は財政学。 58増田弘 (著) 石橋湛山 占領政策への抵抗 株式会社 草思社 P39
第一主義によって再燃させたものであって、資材が絶対的に不足していた当時 においては、生産拡大よりインフレ促進的であったと批判されていた。この問 題は以後石橋湛山が GHQ による公職追放の要因の一つとなるのである。石橋湛 山の経済財政方針にはケインズの経済学理論が大きな影響を与えているので、 むしろ石橋は学界で初めてケインズの理論に注目してその理論を实践に移し た最初の大蔵大臣なのである。当時終戦後最も大きな問題は〝インフレ必至論 〞であった。戦争当時から既に戦争が終わると絶対にインフレが起こるという 説が走って一旦その状況に陥ると一般国民に大災害が起こる。特にドイツの場 合が絶好の例だと言われていた。この問題に対し、石橋は在野時代から「今は インフレーションよりデフレーションをおそれなければならない、インフレな ら緊縮政策で行くべきであるけれども、生産が減っているのだから、緊縮政策 は今の場合採るべきではない」という反論を説いていた。インフレは好ましく ないが、あまりにもインフレを恐れて行過ぎてしまうと取り返しのつかない状 況に陥ってしまう。戦時生産が終戦によって停止するので、一刻も速やかに平 時の生産に切り替え、生産活動を再開し、維持する方針に重点を置くべきであ るというのが石橋の主張であった。 インフレによる生産力拡張論 石橋の財政政策の中で最もベーシックで重要な思想はインフレの理論である。 日本は敗戦により、戦後は一時経済の混乱と不況が続いた。その原因は生産力 (設備と人間の要素を含めて)の遊休化だと指摘され、むやみにインフレを抑 制して均衡的な財政を施せば、失業率はますます悪化して、生産が停滞すると いう悪影響をもたらすのである。こういう時は通貨膨張政策=インフレーショ ンを通じてまず先に重点産業の生産の回復を促進させ、これを牽引として全面 的に生産活動の再開を狙うというのが石橋の見解であった。「戦後の日本の経 済で恐るべきは、むしろインフレではなく、生産が止まり、多量の失業者を発 生するデフレ的傾向である。この際、インフレの懸念ありとて、緊縮政策を行 うごときは、肺炎の患者をチフスと誤診し、まちがった治療法を施すに等しく、 患者を殺す恐れがある」と指摘していた。このような間違った均衡財政に対す る認識を改め、自分が政界入りした動機は日本の生産力を発展させることによ って経済の復興を目指すことであると強調した。大蔵大臣になった石橋はこの 政策を实践するために予算編成と融資そして通貨政策などの手段を用いてこ の政策を反映させることに力を入れた。59 59姜克实 石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義 東洋経済新報社 P107
昭和二一年度の衆議院財政演説にて、石橋は何回も繰り返して「健全財政」の 常識を痛烈に批判した。「国に失業者があり、遊休生産要素の存する場合の財 政の第一要義は、これらの遊休生産要素を動員し、これに生産活動を再開せし めることにあると考える。この目的を遂行するためならば、たとえ財政に赤字 を生じ、ために通貨の増発をきたしてもなんらさしつかえがない」というコメ ントを出した。つまりフル・エンプロイメント(完全雇用)を目標として、「積 極財政」を予算編成の基本理念として、石炭などの枢軸産業に対しては「特殊 の促進」を促し、政府系金融機関、日銀、復興金融による特別融資などの措置 を挙げていた。60その一方、このように政府によって行われる積極的な生産融 資は同時に高騰する物価を生み出すので、石橋には皮肉に「インフレ大臣」「イ ンフレショニスト」などの悪名がついたのである。その後、在任期間の予算編 成の真意について問われた時、石橋は「ああいう混乱状態の中では、ある程度 物価高騰がおこることは避けられないわけで、物価を騰貴させながら生産量を 増大させていく、それ以外に方法はないですよ。…生産が回復するにつれて、 結局は物価下落ということで落ちつく」と説明した。しかし「どの程度の生産 回復で物価が落ちつくか」という核心の問題について、石橋は完全に予測でき たという訳でもなかったのである。实際当時 1946 年年末のインフレの終止に 対する石橋の予測は翌年の 1947 年では「三月危機憂うるに足らず」といった 予測は後に二月のインフレ収束論に訂正された。この結果石橋蔵相の景気予測 は「アテにならぬ」と非難された。主に石橋は敗戦というこのような特殊な時 期ではこういった方法で速やかに日本の経済を再建するしか別途はなかった という思い一筋で大胆で明快にこのインフレ政策を遂行したのである。61 吉田首相の二回にわたる連立工作が失敗に終わり、「インフレ大臣」という石 橋の存在感が余りにも強調されたため、不満の民意という前提で改造された内 閣が 1947 年二月に発足したので、石橋の財政政策が緊縮財政にチェンジする という予測も現れた。国民がインフレに対する抵抗感が深まる状態の中で、石 橋は昭和二二年度の予算編成に取り掛かった。そして二月二七日閣議で決議さ れた結果は歳出入ともに 1170 億円の均衡予算になった。一体何故均衡になっ た経緯について石橋は積極財政やインフレ政策にしても「僕の考えはかわっち ゃおらぬ」、「世間がやかましいから、それなら均衡予算にしてみせるというこ とでやった」という意気込みと意思を表明した。そして昭和二二年度の財政予 算はいわば大衆の批判を避け、見た目だけの「均衡」なのであるという仕組み を説明した。このような石橋のインフレ理論と積極財政の発想は 1930 年代資 本主義恐慌救済で高橋是清が主張する思想の延長線であり、「労働は富なり」 60姜克实 石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義 東洋経済新報社 P108 61石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義 東洋経済新報社 P108
「人間が働けば景気がよくなる」というケインズの経済学を基調とする石橋の 貫いてきた基本的思想である。62 石炭増産による傾斜生産について 石橋は石炭などエネルギー基幹産業の生産の回復を刺激しそれを牽引に生産 を全面的に回復させるのが主な狙いであった。石炭の増産を狙いとするのなら まずは炭鉱労働者の労働条件、生活を保障する食糧、坑木、地下足袋などの生 産、ほかには生活物資が必要となるが、当時は戦後の混乱という状況に置かれ ていたので日本政府はたとえ配給するのを約束していても、現实的にはこうい った物資を石炭生産関係者に配給することはできなかった。この難関を解決す るために石橋は大蔵省の特別融資を通じて特別資金を提供し、供給のルートを 選ぶと言う市場原理でこのような必要物資を調達し、石炭生産量の確保を最優 先した。年間三千万トンの石炭の供給がもらえるのなら金額は業者の要求に従 って惜しみなく払うという条件を炭鉱業者と約束し、契約書を交わして国会の 財政演説に石橋は臨んだ。彼は演説で「われわれは、増産の保証さえ、炭坑が 確实に与えてくれるなら、合理的なる価格の値上げに対し、これを値切るごと きことはいたさない」と述べた。63結局この政策は GHQ の異議により生産価格 の全面的値上げは实現されず、補助金もほんの一部にとどまった。そしてこの 政策は確かに当時の石炭増産に一役を買った。この方法は「傾斜生産」と呼ば れるようになり、その後の片山哲内閣にも引き継がれていった。 第四節 GHQ による追放時期 GHQ は戦時補償打ち切り問題と終戦処理費の問題に関して、石橋蔵相の一連の 政策と反抗的な態度には常に難色を示し、かなりの不満を抱いていた。マーカ ット経済科学局長官は自ら「实は大蔵大臣が経済科学局に対して非常な反抗を しているという風説が総司令部に流布されていて、やりにくくて困っている。 だから気をつけてほしい」と警告したことがあり、次第に「総司令部の中には 彼(石橋のこと)を「占領政策に反対する大物」だとする批判が濃くなり、彼 を始末しなくては困るという空気が自然とかたまってきた」というコメントを 62姜克实 石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義 東洋経済新報社 P109 63 姜克实 石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義 東洋経済新報社 P110
出した。ESS(経済科学局)64が相当神経を尖らせていたのはインフレの抑制で あるが、この点に対して大蔵大臣石橋湛山は公然とインフレ政策を主張したの で、GHQ からは占領政策に対する抵抗と看做されていたのである。1946 年十月、 GS(民政局)のホイットニー長官は ESS 宛の書類に、同局によって作成された インフレ抑制計画を全面的に後押しする意思を表明し、もしも ESS の指令が 「妥当な時間内にこれを遵守することを(日本政府が)拒否した場合には、当 民政局は、その反抗的な官僚を公職から追放するよう勧告する用意がある」と、 政治的による石橋の追放を示唆した。65 石橋湛山日記の 1958 年の「今だから話そう」において、石橋は吉田茂首相と の関わりからこの公職追放の問題に言及する。66 「終戦直後、あれほど自由主義者として私を優遇した GHQ も、ズケズケものを いう私の言動をケムたがりはじめた。占領軍という高っ飛車な態度を、そのま ま受け入れなかった私の信念が、マーカット経済科学局長あたりの気にさわっ たらしい」。と述べている。そして昭和二二年の二月ごろ、どこからともなく、 「石橋追放」という噂があちこちで流れ始めた。ついに石橋本人にも「どうも、 総司令部の空気が変です。いまのうちに手を打っておいたら—」という忠告や 情報が徐々に入ってきたのである。1947 年四月の総選挙が終了し、選挙区の 静岡から上京するにつれて、この噂はますます大きくなった。ついに「石橋の 追放は、選挙前に GHQ で決まっていたが、落選すると思って発表しなかった。 当選した今日追放の発表は時間の問題—」という確实な情報さえ入ってきた。67 これに対し石橋は「そんなバカなことがあるものか、相手は民主主義の国だ」 と笑い飛ばしたが、後にこういうことが現实になるとは石橋は全く予想外であ った。亓月上旪の頃、石田博英は一通の書類を手にして慌てて石橋のところへ 訪れた。「先生、大変です。数日中に、メモランダム・ケース(総司令部の直 接追放命令)で追放になるそうです。これが GHQ から外務省への書類です。」 と石田は告げた。これについて石橋は「もっとも司令部も、私にネライはつけ たものの、処分の決定までには、それ相応の苦労があったらしい。あとで聞い た話だが、まず外務省に命じ、私のことを詳細に調査してみた。しかし〝自由 主義者石橋湛山〞をひっくりかえす材料はとれなかった。次の手として、戦時 中に発行された東洋経済新報を調べた。絶対に追放しようと決意して、ここま
64 経済科学局 (Economic & Scientific Section) - 連合国軍総司令部 (GHQ/SCAP) 幕僚部の部局の一つ。財
閥解体などを担当。
65姜克实 石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義 東洋経済新報社 P124
66姜克实 石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義 東洋経済新報社 P125