10 シンポジウム 論 考 投稿原稿 会務報告 大会報告
Ⅰ.経済か経済学か
学習指導要領での経済学習のねらいは「経済的な見 方や考え方」を身に付させることである。高等学校で の経済学習の場としては,「現代社会」および「政 治・経済」での経済分野がその場所である。このどち らをとるかにより内容の力点は大きく変わる。また, 大学受験生,そのなかでもセンターテストや私大受験 生がどれだけいるかによって授業の力点は変わる。校 種別に違う経済教育が暗黙に措定されているのが高等 学校の経済教育の実態である。それを踏まえない議論 は帯に短し襷に長し状態となる。つまり,受験校,中 堅校,困難校,チャレンジ校,職業高校,定時制高校 など多様な校種に合わせた経済教育が必要なのである。 ところが,学習指導要領は全国一律のものである。そ こで現場教員に必要なものは,どんな学校でも誰にで も伝えなければならない経済的知識や考え方と,目の 前の生徒の現実に対応した個々それぞれの経済教育な のである。 その点でいえば,本来,低学年で履修する「現代社 会」と高学年での履修を想定している「政治・経済」 とでは対象や内容構成が違ってよいはずなのだが,経 済学習に関してはそれほどの差異がない。どちらも, ミクロ,マクロ,国際経済,経済の諸問題という大枠 で学習指導要領が構成されている。本学会の理事で経 済教育ネットワーク代表の篠原総一教授は,それを批 判し,あまりにも大学の経済学の構成を下敷きにしす ぎているという。篠原教授は,高等学校までに学ぶべ きものは薄められた経済学ではなく経済の仕組みであ ると力説している。ここでは,篠原教授のそのような 批判がでるほど,「経済的な見方や考え方」が経済学 の知見に基づいているということを確認しておけばよ いだろう。1)Ⅱ.四つの概念を教える
報告者自身はこのような様々な対象と分野を持つ高 等学校の経済教育ですべての校種,すべての生徒に共 通に必要なものは何かという問いに対して,近年ずっ と「四つの概念を教えればよい,それさえ身に付けて 卒業できればあとは応用問題」と言い続けている。2) 四つの概念とは何か。希少性,機会費用,需要供給, 比較優位の四つである。それぞれの意味は会員の皆様 に説明する必要はないであろう。では,なぜ「経済的 見方や考え方」をこの四つに絞り込んだか。それは, 経済を学ぶことは社会の仕組みを学ぶと同時に自分の 生き方を考えることであると位置づけているからであ る。教育の業界用語でいえば,「在り方生き方」と経 済学習を結びつけた報告者のこれまでの実践のなかか ら浮かび上がった内容だからである。 希少性は経済を学ぶ出発点である。経済的資源が希 少でなければ選択する必要はない。 機会費用は選択の基準を提供する。選ぶことは捨て ることという理解は人間行動から政策判断まで重要な 基準となる。 需要供給は市場メカニズムの理解のキーポイントで あるとともに世の中の動きを予測する手がかりとなる。 みんなが欲しがれば価格は上がるし,大量に供給され れば価格は下がる。大学でいえば,ロースクールの惨 状などは始める前から予測がついていたはずである。 比較優位は交換の原点であり貿易の原理でもあり, またどんな人間にも居場所があるというメッセージを 発する概念である。 多くの経済事象を学びながら,そのなかからこれら 四つの概念を言葉ではなく,身に付いた発想法として 持たせることが高等学校までの経済教育の使命である と報告者は考えている。いま高校生に経済を教える意味
─シンポジウムでの資料と発言から─
The Journal of Economic Education No.33, September, 2014What’s the Today’s Significance of Teaching Economics to High School Students?
Arai, Akira 新井 明(東京都立小石川中等教育学校)
The Japan Society for Economic Education
経済教育33号 11 ところが,四つのうち後二者は伝統的に経済学習の 項目であったが,前二者はこれまではほとんど触れら れることはなかった。しかし,新しい指導要領のなか には言葉こそ入っていないが,解説本などを通じて確 実に浸透しつつある。「政治・経済」の新しい教科書 のなかには機会費用を大きく取り上げたところもでて きている。時代はすこしずつ変化している。3)
Ⅲ.授業実践の一例
報告者の経済の授業を簡単に紹介しておきたい。授 業の内容,構成はこれまで触れてきたように誰もが学 ぶべき基本的概念をベースとして,これまで経験して きた学校における生徒のニーズに合わせたものである。 批判に答えながら試行錯誤のなかから生み出したもの と言ってもよい。 「現代社会」でも「政治・経済」でも経済学習にと れる時間は 20 から 25 時間程度である。その限られた 時間を,10 から 11 テーマにまとめて授業を構成して いる。主な内容は以下のとおりである。(後掲資料1) ①経済とは何か(基本概念を知る) ②レモンⅠを読む(市場,価格,労働,競争を知 る) ③需要と供給の世界(市場メカニズムと市場の失 敗) ④目指せ社長を+ SOS の出し方(企業,労働) ⑤レモンⅡを読む(マクロ経済の世界を知る) ⑥景気変動とは何か(国民所得,成長率,景気変 動) ⑦大人たちがやったこと(金融政策と財政政策) ⑧おかねの世界(金融とパーソナルファイナンス) ⑨貿易の仕組み(国際経済の知識) ⑩世界をめぐるおかね(国際金融の世界) ⑪南北問題(国際的経済格差,成長)である。 農業問題,環境問題などは新聞スピーチという生徒 の発表授業のなかで取り上げたり,ディベートのテー マとしたりしている。また,なまなましい現実の経済 シーンの理解のために「株式学習ゲーム」を同時並行 ですすめている。 このような授業実践を 20 年近く,微調整しながら 続けてきた。生徒の反応はすべてが OK という訳では ない。しかし,卒業生の追跡調査(後掲資料2)など の結果は予想以上に概念を覚えている生徒がいて手ご たえを感じてもいる。4)Ⅳ.残された問題
大きな物語が消えたポストモダンの世界で生きる若 者たちにどのような経済教育が必要かという問いに対 して,この四つの概念だけでは太刀打ちできないのは 事実である。また,あまりにも経済学的との批判もあ ろう。しかし,教育とは,目の前の生徒に対して, 「おれはこれだけをきみたちに伝えたいんだ」という メッセージを投げかける行為なのだろう。私はこれで きた。これらの提案,実践がどこまで時代を撃つのか, 有効性の射程距離はどのくらいなのか,若い先生方が 批判的に検討し,乗り越えてほしいと願っている。 最後に,本日のシンポジウムの出席者である佐和隆 光先生に感謝したい。先生が紹介された『レモンをお 金にかえる法』がなければ報告者がこのような授業実 践を行い,また,ここまで到着することはなかった。 私の経済教育の出発点はここにあり,終着点もここに ある。Ⅴ.シンポジウムを終えて
ここまでの部分は,シンポジウムでの配付資料に若 干の整理をしたものである。この資料に基づいて当日 のシンポジウムにのぞんだ。 シンポジウムでは,持ち時間の関係で詳細な内容を 説明することができなかった。これは仕方がない。ま た,コーディネーターの山根先生の意図は,「いま経 済を教える意味」のなかで「いま」を意識した企画 だったようだ。具体的にはアベノミックスや高齢社会 にむけての年金教育などを素材にしてそれぞれの校種 でどう取り組むかの共通項を探ろうという趣旨である ことがシンポジウムで発言されていた。それに対して 報告者は,高校教育での実践を踏まえてひろく経済教 育の困難性や課題を中高大で共通に理解してゆこうと いう問題意識からの提起をしたわけである。そこでは 大いなるミスマッチがあり,議論そのものは深まった とは言えないと感じている。つまり不発だったわけで ある。 シンポジウムの中で,発言を何回かしたが,そのな かで準備した資料以外に伝えたかったことは三つあっ た。一つは,教育の属人性ということである。教師は 置かれた環境のなかで目の前の生徒を相手に勝負して いる。そこには指導要領が想定している平均的生徒は いない。教師個人が自分の実存をかけて投企している わけである。やりすぎもあろうが足りないところもあ る。それでいいのではないかという事である。二つ目The Japan Society for Economic Education
12 シンポジウム 論 考 投稿原稿 会務報告 大会報告 は,にもかかわらず「不易と流行」を踏まえて「不 易」部分をしっかり伝えるべきであるということであ る。時々のテーマを考えるのは重要だが,それ以上に 個々のテーマのなかにある普遍性,共通性をいかに抽 出しながら生徒に「役立つ」内容を伝えるか,その基 本を忘れないようにしたいということである。三つ目 は,「役立つ」という内容である。私の場合は「役立 つ」とは,①大学での経済学との接続を意識して授業 を行うこと,②生活の中で役立つ知識を与えること, ③価値判断ができる基準や原理を伝えること,④政策 判断ができる知識や考え方を伝えることの四つに整理 できる。そのような「役立つ」授業を目指したが,道 遠しであると結論した。 これからの学会の課題としては,やはり個々のイッ シューにとらわれず,若者が成長するためには何が本 当に必要かを教育の観点から追究してゆくことだろう。 特に教育では理念が語られがちであるが,実証的な データを踏まえた経済教育の方法論の議論がまだまだ 必要ではなかろうか。今後の企画に期待したい。また, 個人的には,経済を教えるための経済学のあり方に関 して構想をまとめてゆきたいと考えている。 註 1) 篠原総一「経済学と高校の政治・経済のあいだ─『わか る』政治・経済へ」,『経済セミナー』653 号,2010 年 4・ 5 月号 2) 新井明「中学・高校の経済学教育 vol.1 中高の経済教育 は今」,『経済セミナー』659 号,2011 年 4・5 月号 3) 本大会の自由研究で,これらの概念がどう教科書に取り 入れられてきたのかの歴史を分析し発表した。 4) 新井明「機会費用の教育性・再考」,『経済教育』No.25, 2006 年 11 月 【シンポジウムでの配付資料】 〈資料1 卒業生の追跡調査 2005 年 9 月実施〉 1)調査対象は以下のとおりである。*数値,年齢などは調査時のもの。 1995 年度受講生(1997 年度卒業生・現在 25 歳,社会人 4 年目)から 2000 年度受講生(2002 年度卒業生・現在 20 歳,大学 3 年生)まで,総計 865 名に発送。締め切りまでに戻ってきたも のが 273 通。実回収率 33.3%。 2)「株式学習ゲーム」の記憶 「株式学習ゲーム」を記憶しているとした生徒が 82.8%に達しており,約 8 割強の生徒が記憶している。 3)どのような経済概念を記憶,役立てているか 報告者の経済の授業では,基本的な経済概念と理論を徹底的にマスターさせることをねらいとしている。表で「記憶」 となっているのは,「それらの概念を覚えているか」という設問への回答であり,「生活の中での効果」は「現在,生活 の中でそれらの概念が役立つと思うか」への回答である。 記憶 生活のなかでの効果 希少性 58.1% 50.2% 機会費用 45.9% 33.9% コストとベネフィット 91.9% 83.8% 需要と供給 98.1% 89.3% 比較優位 45.7% 37.9% 4)自由記述から ・複雑でデリケートなお金の問題に実際にぶちあたるのはほとんどの人が社会人になってからだと思います。その時, 実践で役立つのは自分の学ぼうとする意欲であり,周囲の人の助けであり,高校の経済教育ではありません。高校の授 業内容は忘れてしまったり,教育では実際の人間関係まで教えられません。高校教育でできることは私たちが逃れられ ないという経済というものに深く組み込まれていったときのために慣れさせることだと思います。(25 歳,研究・女) ・現在,理系の大学院に通っているが,自分が学部時代の友人たちはほとんど「経済的な物事の考え方」を知らなかっ た。高校のときの経済の授業自体はほとんど覚えていないが,コストやベネフィットや,何かを選ぶことは,何かを失 うことなどは良く覚えているし,日々良く考えている。高校のときにそのことを学んだことは,自分にとって,ものす ごく大きかった。プラスだった。テレビなどで,経済に関して知識を深めようという意図なのか,投資家の人が話して いるのを聞くと,どうもハウツー的な感じがするので,高校などの教育現場では,考え方を中心に教えるべきだと思う。 それを踏まえて意思決定ができるようになればよいと思う。(24 歳,大学院生,男)
The Japan Society for Economic Education
経済教育33号 13 〈資料2 授業プリントの一部〉 中等4年「政治・経済」ノート 新井 ◆テーマ2 経済とは何か…希少性と機会費用 2−1 経済ということば ・経済の二つの意味 〔 エコノミー 〕としての経済…個人,家庭がいかに生活するか←ギリシャ語の「オイコノミス」に由来 〔経〕国〔済〕民としての経済…一国全体をいかに豊かにするか←中国東晋時代の本『抱朴子』に由来 ・共通する課題 〔 希少 〕な経済的資源をどのように活用するかの意思決定の問題 希少な経済的資源とは,人間が使えるすべてのものに存在 例:石油などの天然資源,水や空気,時間など ・経済の全体像 ①細胞としての〔 ミクロ 〕経済の世界 ②人体としての〔 マクロ 〕経済の世界 ③人間と人間のつながりとしての〔 国際 〕経済の世界 2−2 選択には犠牲が伴う…判断の基準としての機会費用 ・選択の基準は? コスト(費用)とベネフィット(便益)を比べることで選ぶ 最少の費用で最大の効果を上げるという考え方 ・コストにはどんなものがあるか?(大学進学の例) 見えるコスト会計費用 授業料,教科書代など学費 見えないコスト〔 機会 〕費用 大学に行かないで働いて得た収入 ・ベネフィットにはどんなものがあるか 見えるベネフィット 大学で得る知識,大学を出たことで得られる収益差 見えないベネフィット プライド,ネットワーク,モラトリアム 事例:進学の経済学 大学にゆくのが得か 図示するとこうなる (図略) 2−3 『世の中なんでも経済学』を見る(略) 2−4 機会費用はあらゆる行動について回る ・夏目漱石の世界…『こころ』『それから』の事例 ・補償金の金額算定…男女で違う,年齢で違う,障碍で違う なぜ? それでいいの? ・「君のその行為の機会費用はなに?」 居眠りの経済学,遅刻の経済学,内職の経済学 etc. 社会全体では? ・機会費用が関係する事例をできるだけたくさん集めてみよう 各自が考え記入(テストで確認) 秀逸なのはこの授業と書いた生徒がいた *資料の説明 基本はプリント授業を行っている。本資料はその一部である。プリント内の〔 〕やアンダーライン部分が空白となっていて, 授業のなかで埋めながら話をすすめる。授業では映像を利用したり,質問したりすると時間ぎりぎりで積み残しすることも多い。 また,この回の授業は説明中心であるが,シミュレーションやゲームなどアクティビティを組み込んで授業構成をすることも心が けている。 このプリントを使用した授業は経済単元の二回目であるが,肩慣らしで『レモンをお金にかえる法』を先に読ませたあとでの授 業となり,実質的には経済の授業のスタート部分である。 なお,プリント中に出てくる『世の中なんでも経済学』は 2000 年に NHK 教育で放映された番組である。協力者として制作にか かわったので思いが深く,古くなっているが今でも見せている。生徒は機会費用などはじめての概念が出てくるので戸惑うが,印 象的だったとの感想は毎回出てくる。
The Japan Society for Economic Education