日本近代 にお ける植民地体育政策 の研究
(第
1報
)∼満州 における体育政策の成立過程∼
保健体育科教育教室
入
江
克 己
A Study on the Colonial Poncy of PhySical Education by
the Prewar」 apan(Part l)
一′
rhe Pohtical Process of Physical Education in``Manchuria"一
Katsumi IRIE*
(―)
まえが き ∼植 民 地 体 育政 策 に関 す る先行 研 究 ∼ かつて筆者は,絶
対天皇制下における明治神宮大会の成立 と展開の過程 を『昭和スポーツ史論一 引治神宮競技大会 と国民精神総動員運動―』(1991年 不昧堂出版)と して著 したが,そ
の研究の過 程で1940毎
日15)年
の第11回 〈皇期二千六百年奉祝〉大会に参加 した「満州(まんちゅり功 」国の存在にこ だわ りを感 じ,日
本 というよりも関東軍の愧儡国家である,あ
の満州国における体育・ スポーツ政 策 と実態がどのようなものであったのか,Vゝつの日にか機会を見つけて明 らかにする必要を感 じて いた(1ち りんかん 1993年 7月 4日,「中国東北冷陥十四年史」編纂委員会のメンバー を招いて 日中シンポジュウム「近 代 日本 と“満州"」 が神奈川県川崎市で開かれた。 日本社会文学会の主催で昨年夏,中
国の長春で開 催 された第1回シンポジウム「 日本帝国主義 と『満州』の文化」をうけて企画 され,200余
人が参加 した。そ こで は,「日本 に統治 され,資
料 を残す余裕 もなかった」中国側 に くらべ,日
本側 にこそ資 料 を発掘,整
備す る責任があること,さ
らに日本側が もっ と研究 をしてい く義務があることが指摘 されている。ち たしかに「今 までの植民地研究 とい うと政治,経
済,軍
事 などが中心で,文
化 の面か ら植民地や 占領下のアジアの問題が検討 された ことはほ とん どなかった。風俗や大衆芸能やマス・ メヂア と大 いにかかわる問題 だが,そ
うい う研究の蓄積 はほ とん どない。もとい う状況 は,体
育学研究 において も同様であ り,昭
和戦前のファシズム期 はい うまで もな く,日
本 の支配下 における植民地体育・ ス ポーツ政策 に関す る研究 は,き
わめて乏 しい もの といえる。ただ,わ
ずかに日本支配下の旧朝鮮 に おける体育政策 に関 して,西
尾達雄 の「 日本植民地体育政策 の特徴」 に関す る一連 の貴重 な研究が 例外 として存在するだけである “ち 一方,旧
満州 。満州国 における体育 。スポーツ政策 については笹島恒輔 の「第13章 満州国」(『近代中国体育スポーツ史』逍遜書院
1966年 185∼
197ページ),志
々田文明の「『満州国』建国大学 と身体運動教育」(『体育原理研究』第21号1990年
)が
見 られ るものの,残
念 なが ら,両
研究 とも 満州国における体育・ スポーツ政策 とその実相 に迫 るもので はない。 前者 はその概要 に とどまってお り,後
者 は1937(昭和12)年8月,「道義世界建設 の先覚的指導者 を養成するを目的」 として設立 された建国大学 における「武道の近代化 と武道教育」 とい う,対
象 が個別分野 に限定 されてお り,民
族支配 としての植民地体育・ スポーツ政策 の分析 とい う視点が欠 落 している点 は,惜
しまれ る。 (工)分
析 の 視 点(1)
ところで,一
般的にわが国近代 における植民地支配 の構造 は,「『本土』 を中心 として同心円的拡 が りをしめし」,か
つ「その外郭 に皇民化朝鮮・ 台湾 な どの直轄植民地 (第二次大戦 の末期,『本土 決戦』の戦略的配置 において本土 に属す る沖縄・千島 は外郭 として位置づけ られた)」 であ り,こ
れ ら植民地の外縁 に「文化之融合」 した「 日満華」 とい う旧帝国主義的文明圏の性格 を残す「東亜新 秩序」 を位置づけ,さ
らにその外周 に「東亜新秩序」 をささえる「大東亜共栄圏」 と名づ けられた 経済・ 資源・ 補給圏が設定 された。 このような同心円的な支配構造 は,「新秩序」とい う名 の旧帝国主義的秩序 を内包 しつつ,資
源圏 である諸地域 は,「戦争協カ ノ強化」のために一方的な奉仕 を強要 され る立場 にあった。 これ は,言
葉 を換 えれば「皇民化」政策か ら「文化之融合」政策 という論理の転換であ り,
この新旧二重 の帝 国主義的支配 は,19世
紀以降の欧米帝国主義 による一貫 した植民地の帝国的支配 とい う構造 と異な つた特徴 をしめしているとされている(り。 この「皇民化」政策か ら「文化之融合」政策 という場合,両
者 は断絶 した関係 にあるので はな く, 前者 の「皇民化」政策 は,後
者 の背後 に隠蔽 されているもの として とらえるべ きであ ろう。 で は,こ
うした植民地支配 の構造的な特質 とのかかわ りで分析 の視点 をどこに据 えるのか,が
問 題 になって くるが,基
本的には,わ
が国が満州 と具体的なかたちでかかわ る1905(明
治38)年
か ら1932(昭
和7)年
の満州国の成立 を経 て1945(昭
和20)年
の満州国の崩壊 に至 る過程 における植民 地体育政策 な らびに理念 を分析す ることによって,上
述 の支配構造が,い
かに映 し出 されたのかが 問題 にされるだろう。 (三)植
民 地 (満州・ 満 州 国)体
育 政 策 の 創 始・ 展 開・ 崩 壊 の 過 程 例 えば,「満州建国十年史」は,「執政時代 (大同元年∼大同3年
2月)」,「帝政第一期 (康徳元年 ∼同4年
6月)」,「帝政第二期 (康徳4年
7月 ∼同9年
3月)」 に区分 しているが,以
上 の過程 を次 の5段
階に区分することによって明 らかにしたい。(1)1905(明
治38)年
の日露戦争 (ポーツマス条約)か
ら満州事変 を経 て愧儡国家である満州国の 成立 に至 る過程 と満州体育・ スポーツ政策 の特質。 この段階 は,複
製化 された近代体育 とスポー ツの移植をとおして自国民 (―移植民)を
く皇民化〉 してい く教化政策 の段階である。(2)執
政 による満州国成立 (1932年 大同元年)か
ら帝政実施 (1934年 康徳元年)の
間 における 満州国体育政策 の理念 と実況 とは,い
かなるものであったのか。 この過程 は,五
族協和 (日・朝・ 満 。中・蒙)・工道楽土建設 の手段 として体育・ スポーツによる 〈文化開発〉 と五族 に対す る 〈文化之融合〉政策が繰 り広 げ られ る段階である。 ●
)1934年
の帝政実施 か ら新学制 の実施 (1937年 康徳4年
)に
おける満州国体育政策 の変容。 こ の過程で は,教
育制度 の再編 を挺子 に く文化之融合〉 を経て「 日満華」の くスポーツ文化圏〉の 形成,な
らびに薄儀 の訪 日 (1935年)に
象徴 され るように,〈東亜新秩序〉建設の一環 として組 み 込 まれてい く。 “)1937年
の新学制実施か ら1941年のアジア 。太平洋戦争勃発 に至 る満州国体育政策 の特徴 とはな にか。「皇国 日本」を中軸 にその外縁 として く東亜新秩序〉建設の大義名分の もとに回曇訓民詔書, 薄儀 の再度 の訪 日 (1940年)と
建 国神廟創建 にみ られ る 〈建国精神 の聞明〉,「日満華」一体 の強 化が呼号 され,資
源補給圏・ 戦争協力体制 の強化 とい う軍事戦略上か ら位置づ けられる。(5)ア
ジア・ 太平洋戦争 の勃発か ら翌年の建国十周年 を経 て1945年の満州国崩壊 における体育政策 理念 とその実相。「大東亜共栄圏」の構想 のもとに日本 の国家総力戦体制 に従属 し,自
壊 してい く 段階である。 この (第1報
)で
は(1)を対象に,そ
の過程 を考察す ることにす る。1.
リッ トン調 査 団 と満 州 国 ス ポ ー ツ 。イ ヴ ェ ン トの展 開(1)「
第 1回 進国大運動会」の開催 と「満州国体育協会」の成立 満州事変勃発の翌年である1932(満 歴 大同元)年
3月 1日,〈満州国建国宣言〉が行なわれた直 後の 4月,関
東軍による愧儡国家である満州国の成立 と同時に,同
年5月に新京 (も との長春)に
到着予定 の国際連盟が派遣 した リッ トン調査団。)の満州 における視察 日程 に呼応するかのように,全 国的 に「建国努頭 を記念 して,満
州国内諸民族青少年 を動員 して,体
育運動 を通 じ建 国精神 の第一 礎石 を築 くと共 に,国
民体位向上の重要性 を全国民 に認識せん とす る目的(D」 の もとに日・満建 国記 念連合大運動会 (第2回
大会か らは連合の文字 を削除 し,建
国記念 〈開催地名〉大運動会 と改 め ら れる)を
各地で開催す る案が企画 された。 当時 の関東軍宣伝課,民
生部文教司,資
政局弘幸艮処等 の関係者 の間で協議が行 なわれ,そ
の結果, この運動会の主催者 として体育所管 の文教司内に体育運動統制機関が組織 された。「 ここに満州国体 育協会 とい う名称が全関係者 によって黙認せ られた。未 だ形無 き主催者であったが,こ
れによって 建国 と同時 に国家的な体育統制団体が生 まれ,そ
の第一着手事業である本大運動会 によって幸多い 体育 の発祥 を見たのである。。も 大運動会 は 4月 下旬か ら5月 上旬 にかけて実施 されたが,そ
の模様 はこう伝 えられている。 この第1回大会 は,初
等。中等学校児童生徒,専
門学校以上の学生 を対象 に奉天(現藩陽),長
春(新 京),吟
爾濱 を中心 に「全満三〇余 力所 (正確 には31都市 筆者注)で
行 なわれたが,爾
来 これが体 育協会 の年中行事 として端年の節旬の日に催 され,民
族融和 を目的 とす る体育祭 として年々隆盛 に 赴いた。一九四一年の第十回大会 の ときは,開
催地三七〇余力所,参
加人員二〇〇万人 を突破す る に至 った “Lと
い う。 種 目は,「各種民族児童 を適宜団体 もしくは数組等 に混入 し,民
族融和 の実現 を期す る如 き。Lも
の として団体運動 (マス・ ゲーム体操舞踊)を
中心 に,運
動競技 (演技 。武技 。陸上競技・ サ ッカ ー・器械体操 。その他仮装行列)で
あった。「第一回大会 に当 りては,開
催前後 に於 ける宣伝 に力が 注がれ,運
動会歌 を作成す ると共 に,国
旗掲揚 に合唱すべ き国歌 に代 る建国歌ママも作成せ られ,又
日満両国旗掲揚 の 日本国旗 は関東軍司令官閣下 よ り,満
州国旗 は大会名誉総裁薄儀執政 より寄贈 の光栄 に浴 した16J」 とぃ ぅ。 リッ トン調査団の日程 にぶつけて大会が開催 された ところに
,関
東軍 の戦略的意図が端的 に表れ ているが(この点 に関す る分析 は次の機会 にゆず りたい),
リッ トン調査団の一員 として同行 した ド イツ代表のH・シュネーによる『満州国見聞録一 リッ トン調査団同行記-0』 は,残
念 なが らその様 子 について何 ら書 き残 していない。 ただ『満州建 国十年史』は,「斯 くて第一回大会 は開催各地共予期以上 の成果 を収 めて終了 したの であるが,偶
々国際運盟調査員 リッ トン卿一行 の来満 あ り,吟
爾濱,奉
天其の他 に於て本運動会 に 遭遇,満
州国が建国の初頭,既
に斯 の如 き一大文化運動 を開催 し得 た事実 に多大の感銘 を与 えたの であるlal」 といい,建
国運動会 の実施が,た
またま偶然 に リッ トン調査団の渡満 と「遭遇」したにす ぎない と言己述 している。 この第1回
建国運動会 の実施 とともに設立 された満州国体育協会 は,後
に執政か ら帝政への移行 により「大満州帝国体育連盟」 に再編 され ることになるc(2)第
1回満州国体育大会の開催 建国大運動会 とともに注 目すべ きは,引
きつづいて同年 9月25日,第
1回満州国体育大会が開催 されていることである。 この大会 は男女陸上競技,男
子バ スケ ッ トボール,女
子バ レーボールの3 種 目のほか,デ
モンス トレー ションとして新京女子小・ 中学校舞踊,新
京武技道場会員武技演技等 にわたって奉天省・吉林省・黒龍江省・新京特別市 。東省特 区5団
体 の総勢150名の選手が参加 して 新京西公園運動場 で繰 り広 げられている。 この大会 の参加資格 は,各
満州国体育協会支部 の区域内に 2ヵ 月以上居住 している者であれば, 「満州国内居住民 は其の民族如何 を間 はず総て選手 の資格 を有す」 とされている。 『満州建国十年史』は,「大同元年九月運動競技者 の最高試練 目標であ り,且
又運動競技発進 の門 戸 とも言ぶべ き,第
一回満州国体育大会の開催が企図せ られた。本大会 の開催 は当時の実状 よ り見 ては,無
謀 に近い企てであったのであるが,将
来 に備へて建 国元年 に於 て其の第一回を強行す る重 大意義 の前 に,あ
らゆる非難 と困難な事情 を押 し切 って実現の運 びに至 ったのである。・・・・・結 果 は悲観的予想 を解消 し,堂々将来 の躍進 を約束す る好成績 を齊 らしたのである。もと記録 している。 第2回
大会 は,翌
大同2年
9月29日か ら3日 間 に延長 され,7団
体300名が参加 し,陸
上競技のほ かに男子バ レーボール,サ
ッカー,女
子バスケッ トボールを加 えて実施 されている。以後 この大会 は,第 2回
大会か らは極東選手権大会 の派遣代表予選 も兼ね,年
々その規模 を拡大 していってい る。 ところで,満
州国の成立 とともにこうした大がか りな競技大会が,な
ぜ可能 になったのか。 日本 の愧儡 国家である満州国における体育・ スポーツ政策 を明 らかにす るためには,満
州国成立 の立役 者 となった「関東軍」 と満州 における植民地支配の中軸 とな り,か
つ体育 うスポーツを普及 させた 「南満少H鉄道株式会社」(以下,満
鉄)に
ついて触れなければな らない ことは,言
うまで もない。2.関
東 軍 の登 場 と満 州 国 の成 立 過 程(1)関
東都督府の設置 と満州鉄道の割譲 東三省 (遼寧省・吉林省・黒龍江省)と
呼ばれる満州 は,東
西の長さ約4,200キロ,南
北の最大幅 1,650キロ,面
積およそ120万平方キロ,日
本本上の約3倍
以上,フ
ランスとドイツ (旧東西)を
あ わせたものに匹敵する(図1)。 その満州が注目されはじめたのは19世紀 に入 り,先
進資本主義国が中国進出を始 めてか らである。 まず帝政 ロシアが満州 に進 出 し
,1895(明
治28)年
の日清講和条約で満州 を含む清国全上で治外 法権 を獲得す るとともに,1901(明
治34)年
9月,英,米,露
,伊
,日
,清
朝 と「最終議定書」を 調印 し,北
京 と海岸間 を占領す る権利 を獲得 し,翌
年 には天津還付 に関す る交換公文 によ り天津市 への駐兵権が追加 され,日
本 は1,570名の兵隊 を派遣 した。 日露戦争の結果,1905(明
治38)年
9月 のポーツマス条約 によ り日本 はロシアか ら長春・ 旅順間 の鉄道 を割譲 し, 1キ
ロに付 き15名以 内の鉄道守備兵 を配備す る権利 をもち,10月
には関東総督府 (翌年 8月,旅
順 に設置 された関東都督府 の前身)を設置 し,指
揮下 に陸軍2個
師団 を駐留 させた。 翌1906(明
治39)年
12月の北京条約 によって中国 は,ロ
シアの租借 していた関東州,東
支鉄道長春 以南の路線の日本への委譲 と新 たに15年間における安東・ 奉天間の鉄道経営権 を日本 に与 えたので ある。 修)関
東庁の設置 と関東軍への再編 翌1907(明
治40)年
3月,に
は同鉄道 と附属地を警備する独立守備隊(6個
大隊)が
配備 される 一方,同
7月 に第1次
日露協定 を締結 し,南
満州 を日本 の勢力範囲 とす ること,ロ
シアは日本 の朝 鮮併合 (1910・ 明治43年)を
承認す ることをとり 決めている。 さらに第1次
世界大戦 のさなかであ る1915(大
正4)年
の「二十一 ケ条」の要求 によ り,旅
順,大
連 を含 む関東州 は1997年 まで,満
鉄 本線 は2002年まで,安
奉線 は2007年 まで延長 され た。 こうして旅順,大
連 の租借権,南
満州鉄道の経 営権等 を受け継 ぎ,満
州支配の素地 をつ くる とと もに,1912(明
治45)年
7月 の第3次
日露協定で 日本 の特殊権益 の境界線 を内蒙古 (熱河省)ま
で とし,こ
こに満州問題 は,満
蒙問題 に拡大す るこ とになったのである。 しか も,鉄
道守備隊 は,日
露戦争か ら第1次
世 界大戦直後 に至 るまで現役将官である関東都督府 長官の指揮下 におかれ,都
督府陸軍部 と称 されて いたが,1919(大
正8)年
4月に長官 を文官 とし たため,都
督府が租借地 (関東州)を
管理す る関 東庁 (長を関東長官 と言い,関
東軍司令官 と満州 特命全権大使 を兼務 し,関
東州 の管轄,満
鉄業務 の監督 と路線 の警務 を行 な う)が
設置 された。 なお,こ
の時点で満鉄(「総裁」は官僚的である として「社長」 に改称 され るが,昭
和2年
に再 び 復活する)と 陸軍部 に分離 されて以後,「関東軍」として編成 され るが,満
蒙治安維持 の立役者 とし てその政治的地位 を強化 し,対
中国政策 に影響 を与 えるようになるその基盤 は,満
蒙 にお ける日本 (図1)満
洲事変当時の満洲 備考 山口重次『悲劇 の将軍 石原莞爾』(扉)より `一′ t ↑bBH3‖搾 丸 剰
内 舞
1吉 { 河 峰 ョ メ ´雑。赤
瑚﹂
の特殊権益 。特殊地位 を有す るとい う考 え方であったのである。 中華民国が成立す る と満州 もその支配下 に入 ったが
,1925(大
正14)年
7月,国
民党 (総統蒋介 石)が
広東で国民政府 を樹立す る と同時 に,北
伐 を開始すると,関
東軍司令部 は,「東三省 (熱河特 別地域 を含む)に
一長官 を置 き,自
治 を宣布せ しむ」 との方針 を決定 し,満
蒙 を国民革命か ら切 り 離 し,日
本の特殊権益地域化 してい く動 きを強 めていった。 満州支配が1906(明
治39)年
か らスター トして1931(昭
和6)年
までの25年 間 は,日
本 の支配 は 南満州の一部分 に限 られていたが,満
州事変 を契機 に,以
後 日本の支配力 は満州全域 に拡大 し,日
本が敗北 によって満州 を放棄す るまでの15年間にわたって植民地支配 の活動 を展開す ることになる のである。 (31 満鉄の経営理念 ―「文装的武備」論― これ らの鉄道経営のために1906(明 治39)年■月に半官半民の国策会社南満州鉄道が設立 され(同 年 6月 の満州鉄道創設 の勅令 〈第142号〉 による),参
謀総長で台湾総督 を兼任す る児玉源太郎 の推 挙 によって初代総裁 に台湾総督府民政長官の後藤新平(副総裁中村是公,後
藤 に継 いで第二代総裁) が就任 した。任期 は明治41年 7月 までであったが,満
州の経営理念 は,基
本的には後藤 の独 自な経 営理念である「文装的武備」論 を反映 している(1ち 後藤 は,「満州 をして列国民人和絹 互営の利市た らしめん ことt21」,すなわち資本主義的市場 た ら しめることが,満
州経営の最終的な目的であ り,意
義であると認識 し,そ
の原則 こそが「文装的武 備」論 にほかな らず,「文装的武備」 とは,「文事的施設 を以て他の侵略 に備へ,一
旦緩急あれば武 断的行動 を助 くるの便 を併せて講 じ置 く事」であ り,「王道の旗 を以て覇術 を行ふ13j」 ことであると いう。そして満鉄 は,そ
うした植民活動 としての鉄道経営 。炭坑開発 。移民・ 牧畜諸農工業開発 と い う く経済開発・文化開発〉のための役割 を果 たすべ きであるとし,こ
うして満州経営 は,こ
の満 鉄 を中枢 の機関 として出発 したのである。 後藤 は,そ
のために従来の都督府・ 領事 。満鉄 とい う「三頭政治」 もし くは加 えて陸軍 。海軍 に よる「五頭政治」の弊害 を改め,多
頭政治の統一 を要求 しているが,「文装的武備」論 の真 の姿 とは, 実 は権力 を満鉄総裁 に集 中す ることを要求す ることであったのである。 満鉄 は,鉄
道付属地域 における行政権 を委任 され,ま
た教育・ 衛生 を含 む諸事業 の経営権,必
要 経費 のための課金 を徴す る権利 を許容 されていたのである。「満鉄 はそれに託 された,も ろもろの重 要な経済的,軍
事的の国家 目的 を遂行 してい くべ き植民地開発会社であつた。 この目的 を達成する ためには,ま
ずその前提条件 として鉄道 の整備 の改善 をはじめ,あ
らゆる近代的施設 を設置す るこ とが要求 された141」 のである。 満州開発のためには,華
北 と北満 の距離 を縮 める近代的交通機関の建設 と整備,外
国貿易 に必要 な諸施設 (港湾,船
舶,金
融機関,取
引 き所等)の
建設,輸
出す るための海外市場 の販路 の開発 と 拡大,そ
した活動 に必要な日本人官吏,満
鉄従業員,技
術者,企
業化 を定着 させ るための諸公共事 業の建設,都
市経営等が要求 され,こ
れ らの開発・ 建設事業が満鉄 を中心 に展開され,や
がて「満 州支配 の最大の極格 に転化す る。ち ことになる。14)満
州移民 と都市人 口 これに対 して日本 の満州移民 は,上
記 の満州 における四大開発政策の要 として,ま
た「我若 し満 州 に於て,五
十万 の移民 と数百万 の畜産 とを有せんか,戦
機若 し利 な らは,進
みて敵 国を侵略す る年 次 関束州 付属地合 討 ¢ 猟 上 域 以 地 総 計 1906(明治39)年 3,821 16,61 1910(明治43)年 25,266 1915(大正4)年 1920(大正9)年 6■ 57( 1925(大正14)年 1930(昭和5)年 1935(昭和10)年 494,708 1940(昭和15)年 202,824 362,24( 1,065,072 表
1
満州における日本人人口の増加趨勢 表2
関東州・ 付属地の人口増加 備考 関東局調査による F満州開発四十年史(上巻)J(84ペー ジ)より作成 の準備 となすへ く,亦
若 し我 に不利 ならは厳然不動,和
を持 して以て機会 を倹つに足 るへ し」(後藤 新平「満鉄総裁就任情 由書」)と いう大陸経営の一使命 として軍事戦略的に構想 され,ま
た1910(明 治43)年 には外務大臣小村寿太郎が,議
会で20年間 に100万人 の満蒙移住 を提唱 した。 しか し,現
実 には,満
州事変 に至 るまでの25年間にわたる満州移住 は関東州,満
鉄付属地等でわずか23万人 にす ぎず,農業移民 は1,000人にも満たなかったのであ る。 この失敗 は,事
変 までの満州経営が もっぱら 利潤 の追求 に終始 した結果で もあった。 日本人 の満州移民が本格化するのは,「本格的移 民期」 とされ る愧儡国家満州国成立か らアジア・ 太平洋戦争勃発 にか けてであ り,そ
れ は経済移民 で はな く,あ
くまで も一つには,満
州国の治安 の 維持 と関東軍 の後備兵力 (武装移民)と
してソ満 国境 の防衛 に投入 されるという軍事的性格 をもち, 第二 には,昭
和恐慌 と農村不況 による天皇制 を支 える政治的・ 社会的基盤の動揺 を抑止す ると同時 に,「日本的秩序」の中核的な存在 た らしめるとい う政治的任務 をかせ られていたlel。 それ以前 においては,例
えば (表1, 2, 3)
に見 られ るように,「在満 日本人人 口が 目立 った増 加 を示 したのは第1次
大戦 中 と戦後であった。"・ 表4
満州における都市の発達 1907盗F 1915年 19254F 19304F 20万以 上 3 3 10∼ 20万 3 1 25∼
10万 3 9 63∼ 5万
61∼ 3万
計 都市人 口数 2,629 農村人 口数 16,717 18,566 23,873 26,544 都市人 口比 6.0% 7.7% 10.2% 1.02% 備考 前掲『満州開発四十年(上巻)』 (97∼98ペ ー ジ)よ り作成 人 口数の単位 (千人) 関 東 州 人 日 の 増 加 鉄道付属地人日の増加 1905年 1910年 1930年 1935年 1906年 1910年 1980年 1935年 日本 人 36166E 159,74( 25,266 調鮮 人 中 国 人169,726 '35,01( 第三国人 1,769 計 374,786 粥9■ 14 1,119,87〔 lL49( 57,437 352,096 501,396 備考 関東局調査による前掲『満州開発四十年史(上巻)J(84ページ)より作成 表3
関東州・ 付属地 における日本人有業者職業別人口 農 業 水建要工 業 鉱 業 商業・交通課商 業 交 通 業 労働者 公務・自由業家算倒昭吹そ の 他 無 職 合 計 家 族 聡 人 口 1910年 3,844 632 12,684 28,456 33,882 62,338 1930年 17,946 16,279 17,631 3,40を 75,582 139,881 215,463 1935年 1.11 552 28,742 2,773 29,512 1,77C 134,371 210,902 345,273 備考 日本帝国統計年鑑・ 関東局統計局による 前掲『満州開発四十年史 (上巻)』 (85ページ)より作成日本人 の活動地域 は
,日
本 の行政権 の及ぶ関東州お よび鉄道付属地 に限 られていた。 日本人 の大部 分 は鉄道従業員や行政的事務 に従事 した もののほか,関
東州お よび付属地 において商工業,鉱
業 に 従事 した ものか ら成 り立 って171」ぉ り,関東州および満鉄付属地 にお ける諸都市の建設 と行政面 に異 常な努力 を傾注 し,注
目すべ き・・・・ 大連 を自由港 とし,埠
頭設備 と市街地建設 のために巨費 を 投 じ,・・・ 。近代的設備 の完備 した 。・都市 を出現せ しめた。 このほか満鉄付属地 の停車場 を中心 とする市街地 において も道路,水
道,下
水,電
気,ガ
ス,公
園,学
校,病
院等の施設が大規模 に日 本人 によって実施 され,衛
生的な小都市が出現 した。 これ らの諸都市 においては治安が保 たれ,近
代的行政が施行 され(働」た。 その結果た しか に,こ
れ らの条件 は,部
分的 には都市の発達 を促 し,人
口の都市集中を加速化 さ せ ることになったが,満
州の都市 は工業都市 としてで はな く,商
業都市 として発達 し,人
口3万
未 満 の小都市が大半 をしめることになった (表4
参照)。 以上 の ごとく,満
州事変 までの約25年間にお よぶわが国の満州経営 は,欧
米帝国主義諸国が世界 各地域 で行 なっていた伝統的な植民地支配の特徴 に沿 った ものであ り,満
州 は,支
配 の主体である 日本資本主義 の発展のための商品市場,投
資市場,原
料・ 食糧等の資源・ 補給圏 として経済的 に従 属 し,近
代的な工業化が阻止 され るのみならず,旧
帝国的支配秩序 を温存 しつつ,か
つ封建的な社 会経済構造 を拡大再生産 しなが ら典型的な植民地的発展 をた どったのである。 したが って,満
州国成立前 の体育政策 は,こ
うした支配構造 に強 く制約せざるえない。3.満
州国成立前における く
皇民化・ 融和〉教育政策
(1)教
育制度 と融和政策 教育 は大別 して関東庁管内 と領事管内に分 けら れ,関
東庁管内 は長官が管掌 し,領
事管内は領事 および外務・ 文部大臣が管掌す る。関東庁管内 は 関東州の教育 と奉天や長春等の満鉄付属地の教育 に区分 され,州
内は州長が,付
属地 は満鉄が経営 にあたっていたが,朝
鮮人 の学校 は主 として朝鮮 総督府が管掌 していた。注意すべ きは,以
後,在
満 日本人 の教育行政権 は,昭
和12年 12月 1日 に実 施 された 日本 の満州国における治外法権 の撤廃お よび南満州鉄道付属地行政権 の移譲の際にも「保 留」 となっていることである。 一方,教
育制度 としては,(図
2)のように,建
国前 には初級小学校4年
,高
級小学校2年
制,両
者 を併置 した完全小学校が存在 していた。初級小 学校 のカ リキュラムは修身,国
語,日本語,算
術, 自然,作
業,体
育音楽,図
画 の9科
日,高
級小学 校で は修身,国
語,講
経,日
本語,算
術,歴
史, 地理,自
然,実
業,体
育,音
楽,図
画の12科目(女 子 には家事裁縫 を加 える)となっているが,「体操」 (図2)学
制改正前の学校体系1鋼
高 等 師 範 学 校 専 門 学 校 師 範 撃 校 高 級 中 學 校 農 、 工 、 商 科 高 級 中 学 校肺
鰤
誹
騨
維
師 範 講 習 所 初 級 中 学 校 騨 ず 謂 離 初 級 中 学 校 高 級 小 學 校 初 級 小 学 校 備考 満州帝国政府編f満州建国十年史』(702ページ)による科で はな く,「体育」科 とい う教科名 に注 目したい。 また言語
,教
育 目的,教
育課程 の相違か ら日本人教育,中
国人教育,日
中共学 の方法 によって実 施 されていたが,基
本的には小・ 中等教育 においては日中分離主義,専
門お よび大学教育 は共学制 を採用 していた。 日本人 に対す る教育 は,こ
れ を義務化せず,小
学校・ 実業補習学校・ 中学校・高 等女学校・実業学校・ 専門学校・ 大学等があ り,す
べて日本 の学制 を援用 して きたが,特
に満州の 環境 と生徒・ 児童の将来 の生活上 の要求か ら学科 目,教
材,教
授訓練等 を改編 していった。 磁)初
等教育 と く皇民化〉教育 日露戦争以後,日
本 の領有化 になった租借地 の関東州立,居
留民団立,満
鉄付属の 日本人学校が 設立 されていったが,初
等教育 に関 して は1905(明
治38)年
10月,安
東軍政署が安東 日清学堂内に 小学校 を付設 したのが最初である。翌年 の 5月,営
口軍政署 によ り営 口小学校,遼
陽基督教青年会 によって遼陽小学校が設立 されている。 表5
関東州・ 鉄道付属地教育機関 (初等 。中等教育) 小 学 校 公 学 堂 普通学堂 中 学 校 女 学 校 家政学校 実業学校 校数 教員数焚雰生徒数 教員数魔勢 生徒夢 吹員数 生徒数 険郵生徒数 教員数交勢生徒数 教員数交数 生徒数 教員数 幻東 州 16,33( 81718 2,538 11 4 2,342 2 6 付属 翼 lt 4 1,567 1 計 1 2125帝 備考1931年12月現在 前掲『満州開発四十年史(綸巻)』 (76ページ)より作成 表7
保護者職業別 (高等科) 満 鉄 社 員 労 働 商 業 医 師 官 吏 軍 人 工 業 旅 館 料 理 店 運 送 土 木 請 負 そ の 他 355 農 業 計 備考 大正6年3月現在前掲『満州開発四十年史 (補巻)J(74ページ)より作成 また同年 8月,外
務大臣,大
蔵大臣,逓
信 (郵政)大
臣の命令書 によって満鉄が鉄道付属地内に 教育事業の経営義務 を負 うことにな り,満
鉄 は,そ
の経営 を居留民会 に委ねていたが,明
治40年 10 月居留民会が廃止 に ともなって会社経営に移 し,関
東都督府 (大正8年
関東庁 になる)の
監督下 に おかれることになった。 満鉄創立当時の初等教育機関 は,こ
のほか奉天小学校(明治39年10月 居留民会),撫
順千金案小 学校 (明治40年3月 大谷派本願寺系)等
公立3校
,私
立3校
に過 ぎなかった。当初,満
鉄 は居留 民会 に学校経営 をさせていたが,居
留民会 の廃上 によって漸次会社経営 に委譲 し,そ
して1908(明
治41)年2月 に付属地小学校規則 を制定 し,学
校配置計画 にしたがって年々拡張 していった(表5,6, 7参
照)。 教育方針 は,す
でに1911(明
治44)年
には満鉄付属地内の7校
に「御真影Jが
下付 されているこ 表6
鉄道付属地小学校児童数 明治41年3月 明治45年3月 大正6年3月 尋 常 科 3,231 高 等 科 3,957 学 級 数 教 員 数 備考 前掲 『満州開発四十年史 (補巻)』 (73ページ)よ り作成とか らも理解 され るように
,国
体観念 の養成が重視 された ことは自然 のな りゆ きであったが,『満州 開発四十年史』 には,「身体 を鍛練 して抵抗力 を養成 し,・・ 。・他 日植民地 における業務 に従事 し て国民 (国家ママ)発
展 の人 に当 らん とす る人物 の陶冶 を期せざるべか らず・・・・,教
授 において は・ ― ・個別指導の方針 を とり,―
中 学級教授 においては特 に児童の自学 自習 を奨励 し,―
・・ 学級児童の平均数 を約四十名 に制限(lLした と記 されてお り,こ こにも大正 自由教育 の影響 を垣間見 ることがで きるのは,意
外である。 また満鉄 は,植
民地在住 の児童 の特質 について研究 を進め,1915(大
正4)年
には児童訓練要 目 を定め,教
科内容 の生活化,地
方化 を理念 として,中
国語 を随意科 として課 し,ま
た各種 の補充教 科書 を盛 んに使用 した とい う。(3)中
等・ 専門 。大学教育 と軍教の実施 日本人 の中等教育 は,1909(明
治42)年
に旅順 中学校が設立 され,1918(大
正7)年
には関東庁 によって大連第一中学校,さ
らに1924(同
13)年
には大連第二中学校が設置 されている。一方,満
鉄 によるもの としては,大
正7年
に奉天 に,同
12年に鞍山 と撫順,同
14年 に安東 に中学校が設立 さ れた。 女子教育 に関 して は関東庁 によ り1910(明
治43)年
に旅順高等女学校,1914(大
正3)年
に大連 神明女学校,続
いて1919(大
正8)年
には大連市 によって大連弥生高等女学校が開設 され,ま
た満 鉄 によって鉄道付属地 に奉天浪速高等女学校 (大正9年
),新
京高等女学校,安
東高等女学校 (大正 12年),撫
順高等女学校 (大正11年)等
がそれぞれ設立 されている。 これ らの中等学校 は文部省令,も
し くはこれ に準 じた会社特定 の学校規則 によって運営 され,在
外指定学校の指定 を受 け,1927(昭
和2)年
か ら男子 は軍事教練が課 され るようになった。 満州 における日本 の専門教育施設 として 日本人教育 を中心 とした専門学校 と日中共学制 の専門学 校が存在 した。前者 には南満州工業専門学校,満
州教育専門学校(昭和8年
廃校),日
露協会学校が あ り,後
者 は,旅
順工科大学付属工業専門部 (明治43年設置 された旅順工学堂が前身であるが,大
正11年の旅順工科大学 の設立 によ り,大
正15年に廃止 される),南
満州医学堂(満鉄の経営 によるも ので,大
正11年には南満州医科大学 に改組 され る)で
ある。 例 えば旅順工科大学 は,1929(昭
和4)年
5月 現在で教員数100,学
生数 は予科,日
本人171,中
国人31,大学,日本人152,中国人16,予備科 に14名の中国人が在学 していた。また満州医科大学 は, 昭和4年
4月 末現在,学
生数,大
学,日
本人219,中
国人23,予
科・予備科,日
本人185,中
国人121, 専門部,中
国人114名,教
授数 は101名を擁 していた といわれる。 141 外国人教育 と融和政策1904(明
治37)年
12月,錦
州軍政署 は日本側 による中国人 に対す る最初 の南金書院民立小学堂 を 開校 したが,こ
れが 日本人 による満州 における中国人教育の創始である とされている。明治39年に は既設の学堂 を公立 とし,民
立 を改めて関東州公学堂南金書院 と改称す る とともに,関
東州民政署 に移管 した。 その学堂教育 の方針 は,日
本の「小学校令」 と酷似 してお り,「児童の身体 に留意 し, 徳育 を施 し,な
らびにその生活 に必須 とす る普通 の知識技能 を授 けることを主眼 とす る」 とい うも のであった。 また朝鮮人 に対 する教育 は,ほ
ぼ朝鮮総督府学校規程 によっていた。一方,中
国人 に対 する教育 は,日
本語 を中心 に融和政策の もとで普通学堂(4年
制)。公学堂(6年
制,土
地の状況 によ り4年
制)。中学堂・師範学堂
(1校
)を
設置 し,支
障のないか ぎり日本人 の学校 に入学す ることを認 めて いた。4.満
州 に お け る植 民 地 体 育 政 策 の 現 況(1)学
校体育 と保健政策 建国直前の満州体育・ スポーツ界 は,関
東州庁 な らびに満鉄 (満鉄運動会)に
よって付属地 を中 心に日本人 を対象 としてわずかに存在 していたにす ぎない。 『満州建国十年史』 は「建国前の満州体育界 は,満
鉄付属地 を中心 とする日本人対象の体育 に於 て,誇
るべ き成果 を結んでいたのであるが,満
州全土 に対 す る体育施策 には何 ら見 るべ きものが無 く,僅
かに旧政権 の一部選手中心の体育施策 に,そ
の名残 を止 めたに過 ぎない」 と指摘す る ととも に,「満鉄 は施政 の当初 よ り夙 に付属地福祉施設 に力 を致 し,殊
に体育施設 に対 しては学校社会 を通 じ,日
本内地 に先が けて完壁 を期 し,岡
部平太,斉
藤兼吉両氏 を得 るに及び飛躍的な発展 を遂 げ, 創業三十年付属地行政権移譲 に際 し,体
育方面 にも亦満鉄 は不滅 の功績 を残 したのである(lLと も自 画自賛 している。 岡部平太,斉
藤兼吉等 は,先
進欧米諸国の体育事情 を視察 し,デ
ンマークのエールスプ ックを満 州 に招聘するとともに,「満鉄で は満州の気候 にマ ッチ した学校体育要 目を制定,小
。中等学校等 を 通 じ,全
学校 に体育館 を完備 し,全
校庭 にスケー ト場 を整備 し,専
任学校医 を地区 ごとに常置す る ことな どによって学校生徒の体位 は逐年向上 し,日
本 内地 に比べ はるかに優位 を示 した。 さらに中 国側 の東北大学,汚
庸大学 にも出張 してその体育指導 に当たったK21」 とぃゎれ る。 満鉄が制定 した とされ る「学校体育要 目」が建 国後 の「学校体育教授要 目」 をい うのか,ま
たそ の性格・ 内容が どのような ものであったのか,さ
らには当時初等教育 (初級 。高級小学校)の
みな らず,中
等教育等 における「体育」の内容・方法が 日本 の「学校体操教授要 目」 によっていたのか, 実態がいかなるものであったのか は,残
念 なが ら不詳であ り,今
後 の課題である。 一方,保
健 に関 しては夏期 には戸外衆落活動 を組織 し,海
浜衆落 (明治43年開始),温
泉衆落 (大 正7年 ),山
間衆落 (大正13年)等
を開設 してい る。学校衛生 に関 しては,1908(明
治41)年
2月 の 付属地小学校規則で私立 に学校医 を置 き,公
立 には翌1909(明
治42)年
6月 に義務づ け,毎
年学校 衛生研究集会 を開催 している。 また1910(明
治43)年
には トラホーム予防巡回診療制 を制度化 し,1918(大
正7)年
には トラホーム予防規定 を定 めた。1921(大
正10)年
か らは学校衛生帰 (中等学校 には昭和6年
以降)を
お き,昭
和3年
には歯科, 眼科 の診療規定 を定 め,1929(昭
和4)年
には公費区学校医職務規定 を定め,沿
線小学校,家
政女 学校,幼
稚園に専任 の学校医を3名がおかれ,児
童身体検査 (発育検査,一
般検査,特
別検査)が
実施 されている。12)満
鉄 とスポーツ・ クラプの組織化 近代 スポーツ,広
域 にわたる全国的なスポーツ・ クラブ組織 な らびにスポーツ大会 の成立 に とっ て近代的な賃金労働者群 の形成,近
代都市の出現,近
代的な交通機関の整備,そ
して何 よ りも近代 的なスポーツ施設が不可欠である。 しか しなが ら,満
州 における都市の発達 は,き
わめて未成熟で あ り,1930(昭
和5)年
の段階で全都市75の内,そ
の大半が人 口数1∼5万
の小規模都市であ り, 都市人 口比 は,農
村人 口数 に対 して1.02%で
あった (前掲表4
参照)。表
8
満州 における体育 。スポーツ団体組織名 。所在地 。設立年・ 主要事業等 備考 『植民地二於ケル体育運動団体二関スル調査J(文部省大臣官房体育課1932年)より作成,な お「整球Jはバスケットボールの初期の名称で,そ の後「籠球」 と呼ばれるようになる。この他,大正2年に溝鉄の野球クラブである「満州倶楽部」が設立されている。 この ことは,す
でに指摘 したごとく,満
州国成立前 における 〈統治一権力〉機構 の農村への拡大 政策 の もとで,移
民が基本的 には農業移民であった ことに由来する。 こうした客観的・ 物質的な環境 のなかで近代 スポーツの大衆的な発展 を期待することは困難であ つた ことは,容
易 に推測で きるといえるだろう。 そうしたなかで,満
州国成立以前のスポーツは, 国策会社「満鉄」の「運動会」 という支配層のエ リー ト組織 を中心 に普及,発
展 していったが,そ
のスポーツ・クラブの組織化 は,す
でに1910(明
治43)年
には満鉄運動会が組織 されているように, 明治の後期 か ら始 まっている。 後藤新平 は,社
員 に対 して「大家族主義」 を説 いていた といわれ,満
鉄「社員会」が結成 され る のは,大
正15年の ことであるが,同
会 の綱領 には,(―
)自主独立の精神 を涵養 し,自
律 自治の修養 を積 む こと,(二
)会
社 の使命 に立脚 し,そ
の真正 なる地位 を擁護す ること,(三
)会
社 の健全 なる 発達 を基調 とし,社
員共同の福祉 を増進すること,が
掲 げ られてお り,満
鉄運動会がそうした精神 的土壌 を背景 に設立 されたであろうことは,容
易 にうかがい知 ることがで きる。1922(大
正11)年
には,既
に後の満州国体育協会 の前身である統合的な「満州体育協会」が設立 され,満
州事変 の1931(昭和6)年
までに組織 されたクラブ組織 は,(表 8)の
通 りであるが,各
種 目別 のクラブなが ら11団体 に及んでいる。 ちなみに,わ
が国においてスポーツ組織 (体育協会)が
成立す るのは,大
正後期 の ことであった。 文部大 臣官房学校衛生課が,1925(大
正14)年
に行 なった「社会体育団体 に関す る調査」によれ ば, 同年の 4月 末段階で府県単位 の既設 の組織 (計画中の団体 は除 く)は
,19団
体であることを考慮 に 入れ るな らば,決
して少 な くはない0。 例 えば野球 に関 していえば,早
くも1909(明 治42)年4月 に大連 の実業団が社員対見習 の試合(伏 見台中央試験所前広場)が ,同
年 9月 には大連実業団 と米艦乗組員 との試合が行 なわれている。 ま た1913(大
正2)年
6月 には大連実業団 と満州倶楽部 の試合 (西公園小学校北側)が
行 なわれてい る。 団体
名 事 務 所 所 在 地 設 立 年 月 日 代 表 者 氏 名 主 な 事 業 内 容 満 鉄 運 動 会 満鉄地方部学務課内 月治43年 満 鉄 総 裁 昨育運動の実施,施 設の計画・管理 大連基督教青年会体育部 大連市敷島町内 大連基督教青年会内 明治44年3月1日 体育部主事 黒 田善 ノヽ室内体育館で少年,学生・青年,壮年別に毎 週日曜日に体操,運 動競技を指導 溝 州 体 育 協 会 満鉄地方部学務課内 大正11年 満欽地方部長 大 連 市 民 射 撃 会 大連市西公園町156 大正11月2月11日 大連 市長 小 ,II順之政 大連講道館有段者会 満鉄地方部学務課内 大正12年 ハ パ 長 山 西 恒 貞 │ 毎年春秋2回全満有段者・無段者団体試合, 全満中学校柔道大会の開催 満 州 剣 友 雀 同 上 大正12年5月 副 会 長 森 本 勝 己全満剣道大会,全満中学校選手確大会,全 満 対内地学生・有力団体戦等の開催 大連アスレチック倶楽灘 同 上 大正15年 自
治 制 壁上競技大会の開催,選 手の派遣・招聘 満州ラグビー蹴球協会 大連市南満州工業専門学校 昭和3年11月3日 常任理事桂正一大賀潔安藤武雄満州の中枢機関として該競技の普及・発達を 図る 六 連 筐 球 連 整 大連基督青年会内 昭和3年12月H日 連盟委員長 岡
大 路春秋競技会 ,研究会の開催,審判員の養成・ 派遣,審判員協会の設立 旅 順 体 育 協 会 関東庁体育研究所内 昭和4年12月 16日 関東庁内務局長 全旅願学生競技大会・全旅順スケート選手権 大会・全満スケート選手権大会の開催 蒔州学生陸上競技連盟 南済州工業専門学校 昭和6年10月 18日委 員 長 松 田 一 人満州学生陸上選手権大会。その他出版・連盟の目的に通した一切の事諜同記録認定・年鑑・
1915(大
正4)年
9月には第1回の満州野球大会が奉天で開催 され,長
春チームが優勝 している が,以
後毎年開催 され るようになった。同年現在で満州 における野球 クラブは,大
連 に満州倶楽部 (満鉄),大
連実業団,工
業学校,若
葉会,満
鉄埠頭,同
電気,同
沙河 口工場,旅
順工科学堂,中
学 校,奥
地満鉄撫順,奉
天,長
春等 に存在 していた。そして この年 に大連西公園にグラウン ドが設置 されている。 そして1916(大
正5)年
には満 日主催 の第1回関東州野球大会が開催 され,翌
6年
に早稲田大学 のチームが渡満 し,満
鉄倶楽部 と対戦 している。以後,ほ
とん ど毎年 日本の大学,高
等学校(旧制) を招聘 し,試
合が行 なわれている。渡満 した大学 は早大,東
大,慶
応,明
治,立
教,法
政の6大
学 ほか,学
習院,京
大,同
志社,関
西学院,一
高,三
高,山
口高商等東西の主要大学の野球部 のみな らず,大
毎,宝
塚協会等 も対抗戦 に参加 し,1925(大
正14)年
には極東オ リンピック,1927(昭
和2)年
には第1回都市対抗戦 に満鉄倶楽部が初参加 している。 各スポーツ種 目による全満な らびに各地域 (たとえば旅順等)中
等学校や大学選手権大会の開催 が可能であった ことは,中
等・ 高等教育 の整備 とスポーツの普及 と定着が不可欠であった。 『満州国史』 は,当
時の様子 を「社会体育面 においては,満
州体育協会 (大正■年設立)が
中心 とな り,高
野茂義範士,鯨
岡喬七段 を中心 とする武道の普及,大
連満倶,大
連実業等の野球界,彗
星のマークをもつ陸上競技団,終
始 日本 を リー ドしたス ピー ドスケー ト,ア
イスホ ッケーな ど最た るものであ り,ま
た関東州三十周年記念行事 としての日仏対抗競技大会 の開催 な ど,満
州体育発展 の基盤が,日
本側 の手 によって築かれていた ものである “Lと
伝 えている。 一方,満
州全土 に対す る体育政策 に関 して は,軍
閥 によって振興策が とられていた。『満州建国十 年史』 は,極
めて否定的 に断 じている。 「張学良 もその没落 の晩年,付
属地体育 に刺激 されてようや く体育 に目覚 め,奉
天城 内に大競技場 を建設 し,優
秀選手養成 に力 を入れたのであるが,勿
論 それ は一般大衆 の体育的基礎 に立 った もの ではな く,偶
発的学生選手発見の競技本位 の ものであった。当時満州 には初等,中
等学校 は蓼々た るものであったが,大
学,専
門学校 は,軍
閥の権力拡充 を期す る意味で立て られた私設 の ものが三 十余校 も濫立 し,徒
に輪奥 の美 を競 っていた。 張学良 は,之
等大学,専
門学校 に運動競技 を奨励 し,就
中奉天東北大学,碍
庸大学 に対 して は, 専任指導者 を配 して優秀選手養成 を企画 した。・ … 而 し其 の奨励 方法 は唾棄すべ きもので,選
手 に は莫大な奨励金や競技用具 を公布 し,競
技 の為 めの休学 を公認 し,一
般学生 よりは特殊扱いを受 け, 醜状 目に余 るものがあったのである。一方学校体育 について見 ると,体
育要 目は制定せ られていた が名 ばか りで,体
育教師 は教師中の最下位 に甘んじ,施
設又微々たるもので何 ら建設的足跡 を見せ ていないのである。も と。 満州への望郷 とい う感情 を背景 に編纂 された同刊行会 の指摘 は,当
然 このような記述 にならざる をえないだろう。 だが,そ
の実情 の解明 は,今
後 にまつほかない。 また対外的には,満
州国が国家 として国際的な認知 を得 るために第10回オ リンピック大会 に参加 することを画策 し,大
日本体育協会の影響 を背景 に大同元年 5月 に派遣選手 を決定 し,国
際オ リン ピック委員会 とオ リンピック組織委員会 に働 きかけたが,承
認 を得 られず断念 している。 大同2年
7月 には,全
日本女子 スポーツ連盟主催の招聘 により女子選手40名 (陸上・ バ レーボー ル)が
来 日し,さ
らに同年11月の第8回
明治神宮体育大会 に,そ
の視察 をかねて陸上 の14名が「満 州」地方代表 として参加 してお り,同
時 に関東 と関西で開催 された 日満交歓競技大会 にも出場 して いる。この段階で指摘で きることは,「満州国」成立以前 における教育や体育・ スポーツの在 り様 とは, 〈移植民一 自国民〉に対す る 〈皇民化〉政策 と同時 に
,ま
さに支配者である「近代国家―皇国 日本」 とい うイメージを誇示す ることであった ことにほかな らない。13)満
州青年連盟 と体育・ スポーツによる教化運動の開始1928(昭
和3)年
5月,混
迷す る満蒙問題 の積極的な解決 をもとめる運動 を展開す るために大連 新聞の呼びかけに,満
鉄の青年社員 を中心 として大連で満州青年議会が結成 された。 そ して同年の 11月に第2回
青年議会 において満鉄社員の山口重次,大
羽時男 らが「満州青年連盟」(以下,青
年連 盟)の
設立 を提案,満
場一致で可決 され,議
会終了後 に,正
式 に発足 した。 青年連盟 は,そ
の結成宣言のなかで「今や世界の視聴 は極東 に集注 し,隣
邦の政情 は混沌 として 国民帰趨の紡 うこと年久 し く,満
蒙の前途 も亦逆賭すべか らざるもの」がある。「翻 って母国の情勢 を顧 みる,産
業の振興 に,人
口食料問題 の解決 に,其
の資源 を満蒙 に倹つや急」であ り,た
めに青 年連盟の使命 は「青年の純誠 と熱情 とを以て国策 の遂行 に尽澪 し,生
を満蒙の地 に献 じて,国
家大 使命 の貫徹 を期せん こと」である と言い,「満蒙 に於 ける青年の大同団結 を図 り,満蒙諸問題 を研究0」 することを目的に掲 げた。 青年連盟の理事長 に満欽理事 の小 日山直登,顧
間には満鉄衛生課長金井章次 (後に理事長)等
が 就任 した。以後,青
年連盟 は,満
蒙問題 に対す る在満 日本人 の危機意識 を背景 に,関
東軍 とともに 建国工作 に画策す ることになる。 青年連盟 は,必
ず しも満蒙政策 に対する世論 の喚起 という対外的な宣伝活動 に終始す るだけでは な く,そ
の思想教化活動の一環 として体育・ スポーツ,そ
して保健 に関す る啓蒙活動 を積極的に利 用 していった ことを指摘することがで きる。青年連盟で は,講
演会,体
育映画,体
操実演,遠
足会 な どを開催 して,体
育やスポーツ,保
健 に関す る啓蒙活動 を繰 り広 げている。 例 えば「昭和5年
度 に於 ける運動概録」 によれば,第
13回役員会 (4月28日)に
おいて「協議事 項」 に「1
健康週間,遠
足会 に関する件2
健康週間映画並 に講演会 に関する件」があげられ ているが,こ
の「健康週間」 は,
この年 に全満で 4月27日か ら5月 4日にわたって実施 されるよう になるが,建
国後 は,「体育週間」 とな り,全
満 にわたって実施 され るようになる。 「四月二十七 日か ら全満 に亙 って実施 され る健康週間に当って,満
州青年連盟本部 に於 ては,種
々 なる催 しを計画 しつつあったが,二
十九 日天長 の佳節 を利用 して,会
員及一般一民の保健体育 を強 調す るため,大
房身連盟理事岡田猛馬氏経営の農園に遠足 を行 ひ,同
農園の実習 を行 なった。会す る者本部理事 を初 め役員及会員,煩
わ しい都会生活か ら逃れて大地 を耕す喜びを味合 うと同時に, 宏麗無辺の中に立 ち,旭
光 の連盟旗 の下で大 に体育の増進 をはか り,頗
る有意義 に一 日を終 った0」 とい う。 また健康週間の行事 として映画 と講演会が企画 され,「体育・保健」 の映画「手のたわむれ4巻
, 健康第一,二
巻,体
育映画二巻」と青年連盟理事長代理の金井章次が「保健 に関 して」,岡
部平太が 「保健体育 に関 して並びに映画の説明」について講演するとともに,体
操実演会 も開催 されている。 さらに同年 9月22日には (第4号
議案)「全満州国際オ リンピック大会開催 の件」(吟爾賓支部提 出)な
らびに「 日支露対抗陸上競技会開催 の件」(長春支部提出)が
決議 されているが,『満州青年 連盟史』 には,こ
う記述されている。 「本案の主 旨 とす るところは体育奨励 を兼,日
,支,露
三国の親 善 に資 し,延
いて東洋 の平和 に貢 献せん とするものにて,最
も有意義 なる催 しなれ共,事
国際的に亙 り,且
つ経費の点等 よ りして議会 に種々異論 あ りたるなれ共
,長
春支部 の具体 的精算,計
画 に信頼 し,同
支部 に一切 を挙 げて委任 するに決 した」が,「爾来同支部 に於 て は奉天東北大学及吟賓爾露人体育協会 と協議 を重ね,其
プラ ンを進 め来ったのであるが,翌
昭和六年 に至 り日支関係 は益々悪化するに至 りたるを以 て遂 に中止 の止むな きに至 った次第である。いも この青年連盟 は,1932年
7月25日,国
務院 において発会式 と創立宣言 を行 ない「満州国協和会」 (大正12年の関東大震災の際にあの大杉栄,伊
藤野枝 を虐殺 した元憲兵大尉甘粕正彦が特務部長 に 就任す る。 また1939年11月 には国策映画会社「満映」の理事長 となる。)に
再編成 され,ス
ポーツの 擬似的,も
し くは虚像 としての (文化開発〉政策 に深 く介在す ることになる。 あ と が き ― 満 州 体 育・ ス ポ ー ツ の く近 代 化 〉幻 想 一 近代 に成立 したさまざまな大衆文化 は,あ
る一定 の政治性 を帯びたイデオロギー として機能す る ことは指摘す るまで もない。つ まり全体主義,自
由主義,共
産主義等の政治 。社会体制 は,大
衆文 化やマスメディアの もつ大衆性・ 宣伝性・ 扇動性等 に依存 しなが ら,そ
うした大衆文化 が もつプロ パゴングの機能 を積極的に利用 して きた。近代 において登場 したスポーツも大衆文化 として成長 し, そうした歴史的制約 を受 けざるをえない ことは,自明の理であ り,かって当然 のごとく叫 ばれたくス ポーツの政治的中立〉 という言葉 は,今
日,も
はや死語 となった。 近代 においてわが国のさまざま大衆文化 は,「明治神宮競技大会」に象徴 され るように,わ
が国の 国民 に植民地帝国 としての日本のイメージを刻 み込む ことに成功 した。 と同時 に,そ
られの文化的 媒体 は,ア
ジアにおける被植地民 に対 して,「皇国 日本」としてのわが国の 〈虚像〉を広汎 に宣伝す るために想像以上のメディアの機能 を発揮 した。 それ は,国
家 として成立す る以前の「満州」 にお いて も妥当す る。 すなわち,第
1に,以
上のような満州 にお ける満鉄 を主軸 とす る体育・スポーツ政策 は,(資
源圏〉 として「満州」を位置づ けるとい う戦略 を忠実 に反映 し,「文化之融合」以前の主 として満鉄付属地 を中心 とした自国民である移植民の 〈皇民化〉政策 とい う旧帝国的支配の構造 を内に含 みつつ体育・ スポーツ政策,換
言すれば,後
の「文化之融合」政策 に とって不可欠な客観的・ 物質的条件 をつ く りあげることであった。 この ことは,も
ともと欧米 の帝国主義 の大衆文化である総体 としての 〈近代 スポーツ〉の 日本化 された く複製〉文化 を く移植〉す ることによって,そ
れを媒体 に支配者 としての植民地帝国である 「近代化 された皇国 日本」のイメージを糊塗 してい く過程であつたのである。 だが,第
2に,こ
の政策理念 は,や
がて満州国の成立 によって変質 してい くことになる。つ まり, 建国 と同時に大規模 なスポーツ・イブェン ト(「建 国大運動会」や「満州国体育大会」 な ど)を
開催 す るという発想 は,従
来 の植民地政策 とは質 を異 にしている。つ まり,こ
うした満州国 にお ける体 育・ スポーツの政策理念 な り,そ
の策定 は,例
えば日韓併合か ら始 まる日本 の朝鮮半島 に対す る植 民地支配 は,寺
内・ 長谷ナIIのいわゆる 〈武断政治〉 を経て,第
3代
斉藤実の く文化政治〉へ と軌道 を修正 させ ることになったことと対応 している(1ち その背景 には, 3・1独
立運動 に対 して く武カーカ〉 による封 じこめ政策 の限界 を察知 した 日本 帝国主義当局が,武
断 にとってかわる文化 による植民地支配 の可能性 に目醒 め,あ
る種 の懐柔策 と して,そ
れ までの弾圧政策 を緩和 し,植
民地政策 の重点 を 〈文化開発一近代化〉 にお くとい う方針 を策定 した ことを意味す る。 まさに満州国における体育・ スポーツ振興政策 は,国
内にお ける先導試 行 (その典 型 は「 明 治 神 宮競 技 大 会 」 で あ る