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ウィリアム・モリスにおけるユートピア思想の性格--労働本質観を中心に---香川大学学術情報リポジトリ

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ウィリアム・モリスにおける

ユートピア思想の性格1’

− 労働本質観を中心に・一

木 村 正 身 Il・開題。ⅠⅠ.モリスの・ユ・一−トピア思想評価の諸方向。ⅠⅠⅠ.Aか7創動朋 0./Joカ〝βαJJにおける歴史観。ⅠⅤ・Ⅳ♂紺5∴/ン・β研〟〃紗カ♂γβの構想の特 質(1トーーベラミのエ¢0ゐ査邦gβαCた紺αγd との対比。Ⅴ.〟β紗ざノン仇朋 〟銅祓〝βの構想の特質(2)一労働本質観を中心に。ⅤⅠ−S∂CgαJg∫∽J 〟・S GれW離上のば(加須0椚βの終章の内容。ⅤⅠⅠい補説と緒収鵬とくに 労働本質論の課題をめぐって。 I ユートピア思想史におけるウィリアム・モリス(WilliamMorris,1884−96) 1)本稿は,経済学史学会第23回大会(1961年5月14日,東北大学)での,おなじ論題の 筆者報告の草稿を補修拡大したもので,本年報第2号に掲載の予定であったが紙幅の都 合で延期されたものであり,昭和36年度文部省科学研究費交付金による各個研究の作其 の−・部である。本研究につきとくに水田洋教授のご協力をうけたことを感謝したい。論 旨は筆者が芸を負う。なお,本稿は下記諸拙稿を予想し,それらと補完しあうかたちで もっばらモリスのユ−トピア思想そのものの具体的検討に視点を局限したことをおこと ぁりしたい。州(1)「クィリアム・モリス解釈の新段階」,『香川大学経済論革』,第29 巻第5号。(2)「“ロマン的反抗”の政策思想トーーウィリアム・モリスの場合叫」,同誌, 第35巻第4号。(3)ラスキン『ムネラ・プルクエリス(政治経済要義論).』,開書院,1958 年,の巻末解説。(41「無何者郷だより」,平凡社『世界名著大事典』第6巻所収。(5) 「ウィリアム・モリスの政策思想柵反体制的政策概念の形成紅関連して+−−」,『凝滞 政策の現代的課題』(大泉行雄博士還暦記念論文集),勃草苦房,1963年12月。

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香川大学経済学部 研究年報 3 …”2 − ∫96β の名は,周知のように,主として.Ⅳわ闘/少0∽∧わ紗ゐβ′βの筆者として位眉づけ られており,この物語の内容も,文学史上すでにあまり軋も著名なものである が,しかしこの物語なりその他の関連諸著作をつうじて,モリスが試示しよう とした究極的理想社会像が,どのような構造と特賀のものであったか紅ついて は.,これまでの相当豊富なほずの・ユー・トピア思想史研究およぴモリス研究のあ とでも,なお案外いくつかの最も重要な点が,かならずしも十分解明されてい ないとおもえるふしがある。 なるはど,∧な紗ぶル♂研∧わ紗カβ7・βを・一・読した人,もしくほそれがrゐβCo招一 微槻柑扉誌漉発表された経緯の大署を知るはどの人は誰でも,この著作が,こ れ紅先立ったエドワード・ベラミ(Edwafd Bellamy,1850−98)のベスト・セ ラーエのゑg〝g・βαC烏紺α㌢d2000−ヱββ7,1888の機械時代待望風・国家社会主義風 な構想への蛾烈な批判として,Socialist League の立場から,実の社会主義 の目標を弁別開明し擁護宣伝するという意向で書かれたものだったことや,し たがってまた▲,いきおいその内容が,国家への権力集中や機械文明にはげしく 反揆して,−・見無政府主義的・中世牧歌的な雰囲気をつよく盛ったものである こ.とを,知っている。 しかしそれに.しても,この一層があらわすユーナビア像ほ,なにを指示する のか。それほ.,所詮19世紀末風なポへミ.アン=モリスの−・夢想にすぎなかった のか。すなわち,なるはどモリスほ,そのころアジテー・ターとしでマルクス主 義を熱心軋唱導し実践したにもかかわらず,また,かれの人道主義的熱意は高 く評価されすぎることはありえぬとしても,結局この−・書からは,むしろ思想 家モリスに抑圧されていた審美家モリスの声が漏れ聞こえ,問わず語りの筆の すさびのうちに却ってかれの耽美的・復古反動的な寅骨頂がしめされたのであ り,「社会主義」の方ほいわば付け焼匁にすぎなかったのではないか,、という 疑問は,モ.リス研究家に周知のものといってよい。モリスは,ヴィクトリアン ・ミドルクラスの富裕な家庭と最高学歴に従う出世コL−スを青年時代に惜しげ なく捨てたとはいっても,以後の,ラスキンを師とする芸術運動や革命的社会 主義運動への没頭も,終始かれ自身の巨萬の財産を活動の拠点にしていたこと を抜きにしては,不可能な態のものにすぎなかったのでほあるまいか。モリス は,19世紀80年代の“社会主義の復興”のムー・ドに乗り,マルクス『資本論』

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ウィリアム・モリスにおける・ユ・−†ピア恩恵の性格 −β 一

第1巻(仏訳1を読んで共鳴し,欣然とマルクス主義の戦列紅はいったが,すぐ またH・M・ハインドマンら主流(SocialDemocratic Federation)と訣別し てSocialist Leagueを設立し,その機関誌たる 77b Commonu)ealを編集し ながら,みずからも革命的社会主義啓蒙の詩や評論や物語を,さかんに同誌に 寄せたのであり,∧物肌㌧カβ招肋紺ゐβ㌢・βも,じつほその寄稿にふくまれている。 だが,このめまぐるしくはなばなしい遍歴全体が,最晩年のケルムスコットで の印刷実術への沈潜をふくめて,結局かれの人と思想の斜場ボヘミアン的な, 情熱的だが移り気な本質を,もしくは,思想家としてよりもむしろ回顧的装飾 芸術家としての面目をしめすものであり,かれのユートピアのイメージも,所 詮ほ.“科学的”でなくで‘空想的”だったのだし,人道主義と㍑fellowship”の精 神を超えては,思想的にとくに汲みとりうぺきものは見当らない,という解釈 が普及してひさしいようである。たとえば,ベラミの研究家であるA・E・モ ーガンのつぎの指摘は,ベラミを擁護するたてまえ上当然ながら,きわめて手 きびしく,上述のような理解の最右翼線を伝えているといってよいだろう。 「モリスは,特権と搾取との産物であった。幼時から死にいたるまで,かれ の環賂のしずかでぜいたくな美も,規格化からのかれ自身の自由も,従者たち の睨格化と親身の奉仕と労苦と紅よって,また,貧窮下に働く彪大な人々紅よ って,じつは支えられていた。ウィ.リアム・モリスほ,なるはど巨大な不正に 反発した。みずからを社会主義老と呼んだし,自分の運命を他人と分つという 人道主義的なスリルを感じたいと欲した。が,実践でも理論でも,かれは必要 な価格を支払うところまではすすまなかった。ベラミほ,この課題にたちむか ったのである。モリスほ,自分の社会改良への関心なり特権的身分なりのどち らかを押さえるすべも判らないままに,かれが実際に生きているところの,あ らゆる現実の巻と憩とを伴った,富裕と貧困,支配と隷属の現実社会から,ロ マン的で夢幻的な世界へと,逃避した。そのうえでかれほ人々と運命を倶化す ることを想像した。しかし,かれほ,身についたぜいたくも,大部分が貧窮者 たる他人の隷従的労苦紅よって可能にされた自己表現の特権をも,捨てはしな かった。」2) 2)ArthurE Morgan,EdwardBellam.y,NewYork(ColumbiaUnivりPress)1944,p・・403.

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香川大学経済学部 研究年報 3 ヱ963 ー 4 − この点をみとめるなら,モリスの1ユ・−トピアが耽美的・小生産者的・復古反 動的なムードのものと解されるとしても当然である。たとえば,「〃ぬ膵ノ翫間 Aわびゐβγ♂ほ,ファシズムを予示さえしている」3)と述べたのほ,はかならぬ標 準的モリス書簡集の編者フィリップ・ヘンダースンである。 だが,それ紅もかかわらず,以上のような理解の線が,はたしてモリスの,ユ ートピアにたいして真に内在的検討をつくしたといえるかどうかには,問題の 余地があるとおもわれるのである。なぜなら,・−・体モリスは,ハインドマンや E・B・バックスとともに,イギリス人としては科学的社会主義の洗礼を先駆的 ながら本格的に受けたはずの人物群中の1人なのであり,しかも♪南肌./わ∽ 肋びゐβ㌢・βほ,まさにその科学的社会主義の実践の英只中で,軽い気持でとはい え社会主義そのものの宣伝を明確紅意図して,十分の信念をもって書かれたは ずなのである。モリスのユー・トピアの背後紅は,たん紅モリス自身の思想の真 剣な遍歴があっただけでほなく,2っの大陸を蔽う近代諸思想の巨大な諸潮流 が,1880年代の“社会主義の復興”を中心紅,はげしく渦巻いていたのであり, モリスほその問題から逃避するどころか,逆に.まさに問題そのものの根砥に正 面から対決しようとした,その時代の数少い人物の1人にはかならない。もち ろん,モリス自身がみとめ,碧白した“a piece of preciousness”の問題ほ, かれの活動にとって運命的な限界をしめしたとしても,だからといってかれの 、ユー・トピアをいい加減なものとして看過ごすことには,疑問がある。 すなわち,モリスの1ユートピアの特質の問題を,たんに文学的・審美的見地 からではなく,社会思想史的見地からとりあげようとするかぎり,おのずから その検討ほ,まず第1に,モリスにおけるロマン的思想基盤−いわゆる“Ro− mantic Revolt”−−の意味と程度,第2には,かれの科学的社会主義の信憑 性,第3に,この両点のつながりの状況,といった諸点を,かれの全労作およ び全実践に即して吟味するという課題にかかわり,またひいては第4に,イギ リス・ロマン派思想,イギリス社会主義思想の双方の系譜と意義の解明という 課題に,大きくつながるはずであろう。そして,このような諸課題のそれぞれ

3)Philip Henderson(ed”),The Leiters ofWilliam MorriS tO his Family Friends,London,etC(Longmans,Green)1950,p11vi

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ウィリアム・モリスにおけるユーートピア思想の性格 −5 − が格別の考察を要するであろうことほ.,これまでのモリス研究史が如実紅物語 っているところといってよい。筆者は,すで紅若干の論稿で,これらの諸顔題 のそれぞれの問題点につき,諸先覚の研究を手がかりとしながら,考察する機 会をもった。本稿の目的は,それらの展望の終着点にたって,とくにモリスの ・ユ・−トピア思想の特質を内在的紅考察することである。 しかし順序として,上記諸課題の全体関連の展望からひきだされた若干の緒 論を,必要最少限,本稿の作業のための予備視点として,書きとどめることか

らはじめたい。それほ,つぎのようなことである。

闇近代イギリス・ロマン派思想の,功利主義・思想との対決面での反体制 的意義と,ミドルクラスに趣味を提供した面でのその限界とをふくめて,その 脈絡ほ,後進国起源・系譜のロマン主義の国内的・国際的脈絡とほ,けっして かならずしも同一・でほないだろうということ。(2)この点を無視したロマン派評 価は,抽象的道義論か,耽美的“芸街至上主義”鑑寅か(ちなみに,artfoI・aIでs sakeの見地は,モリス自身が終始つよく批判しつづけたものであった4)),フ ロイト風なpersonalinterpretationへの分解作美5)か,それとも,ロマン主 義即小ブルジョア的復古反動思想という十把一・からげ方式による問題抹殺か, のどれか紅帰してしまうだろうということ。(3)イギリス・ロマン派の多岐な諸 形態(プL/イク以下の前期ロマン派から,コpルタジ,“LiberalAnglicans”, 粥Pre・Raphaelites”,カーライル,ラスキン,それに前期のモリスまで)のl つ1っが,それぞれイギリス社会史の諸局面との関連で特殊な検討に低いす るとともに,系譜全体の形成と帰趨の必然性が検証され(たとえばとくに, ‖Romantic Revolution”にかんするクリストプァ・コー・ドゥヱルの規定6)を想 起),最末端に位して80年代に踏みこむモリスだけが,は.じめて大飛躍によっ てこの系譜をマルクス主義と結びつけることを試みたといってよいが,こ.の縫 4)との点,とくに上掲拙稿「“ロマン的反抗”の社会思想」を参照されたい。 5)モリス解釈をこのようなpersonalemotionの問題に帰してはならぬことを,へンダ −スンも確認しているものほ注意に伯いする。PfIenderson,OP.cit.,pXX

6)Christopher Caudwell,Illusion and Realit.y,aStud.γOfthesowces ofboeir.y,

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エ963 香川大学経済学部 研究年報 3 ーーー 6 − 綿ほけっして偶然とか,ボヘミアン的な気まぐれの結果とはいえないであろう ということ。性巨理論および実践の両面でのモリスの“科学的社会主義”の信憑 性に.ついて−は,モリス研究史上,ミドルクラ.ス陣営・進歩陣営の双方から従来 ひさしく提唱され,また通見として一・般にもみとめられてせていたところの疑 義pすなわち,・−・方ではJ.W.Mackailの標準的モリス伝が暗示し,J・B・ Glasierが−・見決定的に確認強調したところの否定的解釈の線,他方でほ,ソ 同盟大百科辞典的な,ユー・トピアン即小プル反動思想家という枠にモリスを投

げこむ解釈の線一にたいして,ふるくはAymerVallance,R・P・Arnotら

からE..P.Thompson,A.L.Mortonなどにいたる肯定的解釈の線が対決し

ているが,文献立証の点では,論争の範囲にかんするかぎり,後者の説得力の 優位がみとめられるようにおもわれること。7) (5)もっとも,この算4の点については,とりいそぎつぎの留保が必要であ ろう。すなわち,まず−・方では,アーノットやトムスンのようなかたちでのモ リスのマルクス主義の認定の仕方にほ,モリスびいきの1次資料展示に急なあ まり,一腰に方法論的配意が欠けた点があるとおもわれる。社会主義や革命や 価値・剰余価値にかんするマルクス=エンゲルスの個々の諸命題へのモリスの 忠実さと,かれの革命的実践の真撃さ・一骨放とほ十分虹論証に意が注がれた とおもわれるが,それにもかかわらず,全体としての史的唯物論や『資本論』 の弁証法的構造にかんするモ.リスの理解度については,これらの研究は意外に の触れるところがきわめて少く,また,そのこと自体に反省もないように・みえる は,トムスンの大著とかぎらず,“ニュー・レフト”,いな,伝統的イギリス社 会主義そのものの一腰性格と,関連がありそうである。8)とこるで他方,・この盲 7)ここで言及した諸家の文献については既掲諸別稿で述べたので,列示を省略する。 ただ,†掛前に思想史よりもむしろ文学史の分野で知られたAINoyes,AComptonq Rickett,A Clutton・BIOCk以下の諸文献や邦文献をもふくめた,モリス研究文献火の 整理が必要である。ここではわがくに戦前のモリス導入史が,その亀点を・『平民新削 (明治36年12月6日号)の紹介した「社会主義の詩人」という当初の視角から,いつしか 「その胎内空想についての証明」(大槻慮二)といった観点匿移した経緯を,とりあえず指 摘しておく。参照,東京ヰリアム・モリス研究会編ほリス講二.結」j,1934年。

8)この.・ミ‡、。については,とくに水田群数授の潜接の示唆に負う。

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ウィリアム・モリスにおける・コし−トピア思想の性格 −7・−一 点を先駆的に衝きながら埋もれていたGustav Fritscheの研究9)が,モリスの 認識論の構造の観念的性格を指摘し,モリスの社会主義ほ“科学的”でほなくて ユ・ぷトピア的もしくぼ観念的だったと結論していることは,この種の研究文献 が乏しいだけに,蕃要である。が同時に,フリッチ.ヱの場合,引照文献上の制 約と諸欠環が看取され,また,そのドイツ風な形式分類学的分析方法がモリス の“社会主義”を機械的紅バラバラに解体しただけにおぁった感があるうえ,い くつかの資料的に明白に誤った推論をも含んでいるから(本稿ではその吟味を 省略1,かれの結論もまた,にわかにわれわれを首肯させがたいものがある。 −−こ.うして,モリスの科学的社会主義の信憑性の問題は,研究の現段階でも なお解決したといえぬふしが多いのである。 さて,およそ以上のような全体的関連の展望の帰着点に立ちながら,とくに 微視的に,〟ぬ甘カ・0招♪わぴゐ♂㌢・βおよびこれに漁按関連した若干諸著作によっ でモリスが具体的紅どのような理想社会を語ろうとしたか,それは他の1ユート ピア群像に比しどんな独自性をもつかというこ.とを検討するのが本稿の考察目 標である。とはいえ,われわれの課題は,当然ながらそれをたとえばプラトー ンやモアやアンドレアの・ユートピアとの対比においてではなく,社会主義社会 の近代的理想像の問題という見地から,なによりもさしあたりベラミの構想と の対比において,追跡しなけれぼなるまい。そしてその点,すでに判明するよ うに,モリスの・ユートピアは,総じてそれが一・方において,もともとイギリス ・ロマン派最後の巨匠だった人物によって,しかし同時に他方,たんなる文学 的夢想ではなくて科学的社会主義を明確に標接しながら,特殊的にとりわけベ ラミ風な機械化のユー・トピアを直接批判する目的で書かれたという点が,根本 的にそれを特異ならしめるといってよいだろう。だが,はたして−この批判は有 効であり,このヴィジョンほどんな独自な意味と奥実性とをもったのか。この 点を一層具体的に検討する仕事が,われわれになお残されているよう紅おもわ れる。

9)Gustav FIitzsche,mlliLam MoYris’SozialiSmuS und anaYChistisCheY・Kommunis,

〃玖甜Sご肋7・,ざg♂〃〟ガg♂β′55.γノ5才β班5〟〃d〝〝fβγ’S〟C肋間g d〝・Q〟eJ/β刀,Leipzig(BeInhaId Taucbnitz)1927

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香川大学経済学部 研究年報 3 J96∂ ー・β − たとえば,とりわけつぎの点はどうか。ユ・叩トピア思想史家たちは従来しば しば,l=・−トピアの基本的2類型として,「’逃避塾」(“utopias of escape”)と 「再建型」もしくは「実現型」(“utopias of reconstruction”,純utopias of realisation”)とを区別してきたが,10)そのさい,モリスのものは,r逃避型」の 系列の綽尾をかざるものとして(また,これに対応して,ベラミのものは「再建 型」の模範的モデルとして),引合いに出されるのをつねとしてきたようであ る。しかし,はたしでモリスほ,鵬・方で科学的社会主義者でありながら(サーく なくともみずからそう信じながら),同時紅,他方で現実の世界からの“逃避”的 断絶のうえに・ユー・トビア物語を書くという論理上の離れわざを,やってのけた のだろうか。この点,モリスの歴史認識の構造ほどうだったのか。その場合, モリスの・ユートピアをたしかにきわだってベラミのそれから裁別せしめるとい ってよいところの以scarcityconcept”11)の欠如は,そのまま著者の生産力認識 の欠如を物語るものであろうか。かれの生産力認識の構造はどうだったのか。 最後把二,モリスの・ユー・トピアに.おける砧無政府共産主義”といわれるものの実体 は,なにか。 以下われわれは,上記のような問題を携えながら,まずモリスの・ユ・−トピア をめぐる評価の若干方向を展望してのら,とくに−・走の理由からAヱ)γ♂α∽げ ノわゐ形β〃〝と肋紺ざノね雛肋紗ゐβγβの両作品,およぴ5bcねぬ研ご〟5Gγ仙励伽d O〟ね∂仰の終章の内容を中心素材として,課題の検討をこころみたいとおも う。 ⅠⅠ モリスの未来社会観にかんする種々の評価態度のうち,従来みられた若干の

1O)Lewis Mumfold,The Stor)・0f LT(obia!:IdeL7[C(”〃,110〃E(・ぐq[thゞ G,ld So(La[

Myih$,New York(Boni&Liveright)1922,London ed・(G、Harrap),pp.15−26,

173−174,244;.l.Kn Fuz,ⅣβJノおγβ烏山偶の融■ぐぶ≠花 月〝gJよ5カ 乙伽♪よ〃.ゞ,ノン〃弼 ダ′・α〝C7∫

Baconio Adam Smith,Hag11e(Martinus Ni3hoff)1952,pp3−4

ll)上記のFuzは.,エJ−tピア思想が経済学的福祉概念とむすびつくか否かの基準を, ‘scarCity coneept’ないし配分概念の存暦に求めている。この狙いはわかるが,ユ・−ト

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ウィリアム・モリスにおけるユ・L−・トピア思想の性格 −、9 一 代表的方向を,以 ̄ ̄F′に挙げてみよう。 欝1に・,従来のモリスの・ユートピア評価の支配的方向の1っとして,〃如囲 ル∂∽肋紺ゐβγβが有名なだけに,これを単独にとりあげて,モリスの他の諸著 作ないし生涯の思想との動的関係,とりわけかれの革命的社会主義の理論や実 践との関係には触れずに,いきなりその内容に盛られた14世紀風テムズ河畔の 風景、人情のうつくしさや,仕事のよろこびや,復古佐一一・般,㍍ヒユ.−マニズ ム”−・般,無政府主義的架空性等々を吟味しですませる傾向が,かなりある。 たとえば,L・マムフォードの1ユートピア思想史研究におけるモリスの取扱い かたが,それである。マムフォードの研究ほ,たしかに.,制度派的ないしギル ド社会主義風な実践的視点から,・ユー・トピア思想史に近代市民の諸志向(‘‘ido− 1a”)一般∼かれのいわゆる“Coketown”ぉよび“CountryHouse”の“idola” −“までを包摂させつつ,その全体を社会史との関連でとらえようとした該博 な力作といえようし,かれの“regionaleutopia”の提唱や,1ユーF・ピア思想群 の「逃避型」(utopias of escape)と「再建型」(utopias of reconstr・uction) への2分類もすこぶる有効なものといえよう。しかしながらマムフカ■−ドは, 川棚省力β桝♪わ紺ゐβγβを,モリスの革命的社会主義者としての活動との関連に は−・語もふれる ことなしに取扱い,そのため,なるほどモリスの、ユ・−トピアが J・バブキンガムやE・ベラミの19世紀現実型岩「再建型.」の機械文明体制容 認的な・ユ・−トピアの支配と対立する点で,「かえって人間的真実の核心紅近づい ている」12)ことを指摘しながらも,結局これを古典的ユ・−トピア(プラトーン, モア,アンドレア,カンパネラ,ペイコンら)の19世紀での延長物として,「逃 避型」の類型に投げいれるだけにおわり,内容のサイコロジカルな分析に終 始したのであった。(ただし,はたらく人々の幸福な共同体の構想という点 で,書リスの先縦としてアンドレアがとくに・評価されている点は,注目され る。マムフォードの・ユートピア類型の2分類が,たんなる形式的分類ではなく て,とりわけ再建型・ユートピア思想の系譜の背後にひそむ都会と別荘とへのあ こがれの志向一・般へのするどい批判を準備した点は,きわめて高く評価される としても,たとえばかれがエテ・ィエソヌ・カベーゼ)『イカリヤ』を,「知って 12)LMumfoI吼♂♪C払,pい1」73

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香川大学経済学部 研究年報 3 −JO・− J96β か識らずか,ナポレオン的伝統を理想化したもの」13)だと指摘している洞察に くらべれば,J鞄紺∫.ル・♂沼∧わ抑ゐ♂γβの分析−・それはテムズ河畔のがいしてア ルカディア的な情景下の人間の心理分析紅とどまる岬・の比重が,不当にかる いこ.とを,われわれはみとめないわけ紅ほいかない。 第2に,モリスの・ユ・−トピアをかれの伝記事情ないし思想展開との不可分な 関連で理解しようとする方向のうち,この関連(ひいてほ,かれの芸術と社会 主義との関連)を,思想的にではなく心理学的意味でとらえようとするゆきか たがある。この場合の有力な限拠ほ,たとえ.ばモリスの,「私の仕事ほ,なん らかのかたちでいろいろのゆめを具現することです」という述懐であり,この ような命題を基軸としてモリスの生涯全体を夢幻化してうけとめようとするフ ロイト的解釈が,現代の伝記学の支配的方法から発して,有力となっているわ けであるが,そのl例として,H・ジヤクスンはつぎのように述べている。「詩 人・装飾家〔としてのモリスニ〕を政治運動家・社会主義召から切りほなすひとほ, 表面は反対にみえるにかかわらず,じつはモリスの詩,しかもその最初期のも のも,またかれのデザインや製品も,すべてがきわめて主観的であるという事 実をみのがすことになる。かれ〔モリス〕は不断に.情緒的状況を客観化しようと つとめるが,この状況はおもに潜在意識的であり,このことから,かれがもし 平静を得ようとすれば,なんらかの完成状態の観念が不可避ならしめられてく る。かれはつねに内的環境と外的環境との斗争状態におり,精力家のかれは行 動によって内的ストレスを鎮めようとする。詩や小説の作品,絵画,デザイン, エ作,経営,講演,そして社会主義実践など,すべて,心理学での客観化・昇 華として知られているところの過程によって,内部斗争を解決しようとするこ. ころみに他ならない。」14) この場合には,出発点での建築への精進以来のモク.スの活動のすべてが,か れの旺盛な・エネルギーの抑制現象たる“ゆめ”とその実現に他ならぬということ で,いわば入物パル∂∽♪ゐ紺ゐβγβの掛合がモリ.スの現実生活にまで拡大される 13)J∂gd..,pl151 14)HolbI00k.Tackson,か′βα∽β㌢S〃ノ■∂′βα〝ヱトr〃ね」吼Sβα〃dダαJJ〃ノ■J9〃之Cβ〝∼〟7.γ Idealism,New Yo工k(FarIar,Straus)19生8,pp137−138

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ウィリアム・モリスにおける・ユ・−トピア思想の性格 一封㌧岬

ことに.なる。モリスの多くの著作の標題の夢幻的表現はこのことをしめし,と く、にEaYihly PaY・adlseの冒頭の開幕詩の1節にいう“theidle singer of the empty dream”の艇常哀調のイメーミ7こそ,「かれのあらゆるゆめの基礎であ り,かれの詩にも散文にもくりかえし再生されるものだ」15)と,ジヤクスンほ いうのである。結果としてはマムフヵ・−−ドがモリスのを「逃避型」・ユートピアに・ いれたことと整合的である。が,この観点でほ,いくらモ.リスの芸術も社会主 義も渾然・−・体だと唱え.ても,それほ personalな観点での話であって:,perSOn・ alな“ゆめ〃のなかにふくまれた独自なsocialな思想性そのものは,つかめな いだろう。つまり,そのようなsocialな要素は,・ユートピアの内容の個別事項

の精神分析的遡及とともに.分解消散してしま・う。たしかに,ラスキンの聖ジョ

ージ・ギルドのヴィジョンも,モリスのゆめも,“ロマン的反抗’’の心理的基礎 は同一・だといえ.よう。しかしこれを超えては,ジヤクスンが「ラスキンはキリ スト教的で道徳的であるが,モリスは異教的でヘドニストである」18Jという程 度以上のことを提言できないのも,当然であろう。この点,心理学の社会恩恩 史への適用の先駆者ヴプ.プレンが,マルクスを“へドニスト′’だと批判したこ と17)が,想起される。われわれが第1節で引用したベラミの擁護者モー・ガンの モリス観も,この系譜にいれてよい。われわれの追求したいのほ,モリスの文芸 作品−・般をおおうidle dreamと,その実現としてのjoyin workとの心理学 的連鎖ということでほなく,また,“ロマン的反抗〃T−・般におけるヒューマニ ズムー・般ということでもない。とくにかれの文芸作品中でも例外的に啓蒙的な

propagandist romancesとしてのA Dream of.hhnBaHおよぴ1晦肌.fyvm

♪わびゐβ㌢・βが,かれの革命的社会主義との関係で具体的紅どんな独自な思想性を

15)Jみ柑..p・140 16)J∂柑.,pり152

17)Thorstein Veblezl,“The SocialistEconomicsofXarlMarx and‡IisFo1lowers,”

¢〝〟γ′βγJ一γ./〃〟タ・ガαJoノ■風邪抑戒心,Vol。ⅩⅩ,Aug.1906and Vol‖ⅩⅩ1,Feb・1907 なお,思想家としてのヴェブレンがラスキンおよびモリスの機械観にたいして意外とも みえる無理解な酷評を加えたのは,逆に.とれほ,モリスたちの見解がテクノクラットた るヴェブレンの急所紅触れたからでもあろうか。CfT・Veblen,rゐe rカβ〃γ■.γ〃./’〃わ

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香川大学経済学部 研究年報 3 J963 ーーJ2・一 もつのかということ,これがわれわれのここでの課題なのである。 では.第8に,モリスの・ユ−トピアをとくに.社会主義ないし共産主義との開運 に.おいて観察すること紅よって\その思想性を確定しよう とする方向は,どう か。これほ,おのずから,モリスのマルクス主義の信憑性問題に関連し,前述 の予備視点の(4)および(5)で述べた脈絡と重複することになるが,念のため,つ ぎのさっの解釈の分立がみられることを再確認したい。 (a)モリスの・一\見中世的なハンディクラフト復興論をはじめとする諸主張 から推して,簡単にモリスをラキンと同列の反動的復古思想家・空憩的社会主 義者だと割りきり,初期イギリス・マルクろ主義ほやほり一応ハインドマンに・ よって代表され,モリスとは関係がうすいのだとする理解は,・エ∴ンゲルスがモ リスを>Gemiitssozialist<∈だと規定して以来,18)むしろ進歩陣営におけるふつ うの態度となってごきたが,この観点からすれば,モリスの1ユートピアには検討 に催いすべき独自性とか現代性とかも,みとめられなくなることは,近代派の 評伝家がモリスを反動的とみた場合(たとえば,ほやくはM.HewlettのNeu}S ノン0研肋紗カβγ♂批判19))と,同様である。 (b)逆に,モ.リスのユートピアの独自な科学性(マルクス主義への忠実性)を みとめ,入物肌.ルり研♪わびゐβγ♂の世界を「イギリスのユートピア像の弁証法的 発展における最後のジンテー・ゼ」・「・ユートピア的でない最初のユートピア」(A・ L・モートン)20)であると貿揚する‖ニ,−・レフト’派の理解線でほ,既述のと おり,文献立証ばかりでなく,まずなにが粥科学的社会主義”=“マルクス主義” なのかという,方法論的認識をほっきりさせきっていないところに,問題があ るといえよう。E・P・トムスンは,薫リスがマルクスおよびマルクス主義に いかに忠実であろうとしたかを多くの典拠によって情熱的に例証するが,21)ト 18)BYie.fb,Engelsan Sorge,London,Apri129,1886

19)Maurice Hewlett,“William Morris,”NationalReview,Voln17,p‖818ff・

このヒューレットの見解を詳細覇介批判したものとして,Anna AVOnHelmholtz−

Phelan,The SocialPhiloso♪h.y ofmlliam MoYrig.Durham(Duke UnivtPres6) 1927,pp.、182−184

20)A‖L Morton,The English Uto〆a,London(Lawrence&Wishart)1952,pp 164,171

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ウィリアム・モリスにおけるユートピア思想の性格 −・ヱβ叫 ムスソ自身がマルクス主義をどう規定するのかが十分あきらかでなく,したが って例証が論証となるとかならずしもいえないふしがある。忠実さの必要条件 ほかりでなく十分各件を,その例証が救ったかどうかのノょしの自覚にとばしい場 合,研究が彪大であるだけ,かえって始末がわるいのである。この点ほ,アー・ ノットの論法22)も同様に不十分であった。とりわけて蚤要な点を挙げれば,モ リスの社会観・歴史観に.おける階級斗争認識や価値・剰余価値範疇の大局認識 ほ,いわば牛刀を用いずともありあまるはどに検証でぎるのだが,その支柱と もなるぺき生産力認識廊よび史的唯物論把握の点は.どうだったか。トムスンの 彪大な著述がこの点についてはとんど−・言するところもないのが,あやしまれ る。 (c)G・フ.リッチ.‡.ほ,上記のトムスンの研究の曹点を約80年も以前に予見 したかのように,モ.リスの思想全体に.わたっての詳細かつ鵜織的なQuellen− untersuchungをおこない,縄文献的・分類学的にでは.あるが,モ9スに影響 をあたえた諸家の痕跡を榎線構造的紅詳しく追求し,英米的モリス研究の常石 をやぶった独特の視野から,いくつかの独自な結論をひぎだした。その当否は しばらく招き,その緒論の要点をしめせば,モ.リ.スの初期の改良主義思想の源 泉ほあきらかにラスキンであるが,後期の社会主義思想の源泉は,・−ト義的でな い。ラスキンの濃い残映のはか,J・S・ミルおよびコンレデランを媒介とした フーリエの影寒が重要である。他方,モリスはハインドマンやバックスを仲介 としてマルクス=エンゲルスからきわめて深い影響をうけ,モリスの理解した かぎり紅おいて,その個々の理論をはとんどそのまま忠実に採用している点 は,一・般常識を超えるものがある(この点,フリプチェはかなり厳密周到なマ ルクス主義の規定を予備的におこなっている)。それにもかかわらず,全体と してみれば,結局モリスの社会主義理論は不断に理想=当為の発想法を主軸と しているのであり,事実の客観的解明に徹するという“科学的’’性格を欠き,た ご1)EP.Tho皿pSOn,l打//iLl?))Mo)・)・is.Ro)))OMtic to Rez・0[tLtioltOT.l・、London(Lawl・ rence&Wishart)1955′ なお,拙稿「ウィリアム・モリス解釈の新段階」を参娼。

22)R・PageArnot,mlliam Morris,a Vindication,London(Martin Lawrence) 1934,eSp.pp6−7

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ーー∫イ ーーー 香川大学経済学部 研究年報 3 L J96.? ん紅文字どおり“・ユートピア的”なものにとどまる。また,1885年以降のモリス の思想ほ,むしろ“無政雁共産主義”というべく,その想源ほ主としてクロボト キンであろう,とフリッチ ェは推定サーる。そしてプーリッチェほ,肋紺ぶノン・の邪 肋紺ゐ♂柁紅おいて.以上のす−ぺての諸源泉を多元的に跡づけ,しかしとくに無政 府共産主義思想を董心と解しているようである。−・このよ■うな徹底的な源泉 分析ほすこぶる貴重であり,モリス研究史に.あたらしい視野を加えたといって よいが,しかし上記の導出諸論点紅ほか奉り問題の余地があるとおもわれる (本稿ではその点検を省略)。そのうえ,このような諸源泉への分解作業だけで ほ.,はたしてモリスのユートピア像の独自性が鮮明ならしめられるかといえ ば,結局,答は逆である。フリッチ エのようなQuellen研究ほたしかに媒介的 に・不可欠であろうが,それだけではわれわれの課題にたいして積極的にあたえ る飼に・乏しいであろうことを,ここでほとりあえず指摘するにとどめたい。23) さて,モリスの、ユートピアにかんする上記の評価諸方向を踏まえながら,わ れわれほ以下において,さしあたりとくに重要とおもわれる既述のいくつかの 問題点の解明に作業をしぼり,そのための資料−それは相当彪大である−− も必要な中心原典若干にあえて限定し,その範囲で具体的かつ端的にモリスの ・ユートピア思想の特質を析出してみたいとおも・う。 ⅠⅠⅠ 肋紗ぶ./ね研♪ゐぴゐ♂㌢ぞが反動的紅「23世紀から14世紀への逆行」をゆめみた ものだという−・般的批難の当否を検討するには,:迂回作菜とはなるが,A βグ・♂α研げ.ルカ〝β〃〝の内容の吟味が有効とおもわれる。ちなみにこの著作 は,モリスをふかく識る一・部の研究家たちによって,その含意ほ.種々であれト モ.リスの最高傑作ないし最重要著作だと折紙をつけられながら,24)と.れまであ まりその内容が分析されなかったことは注意に借いする。 23)G一Fritzscheの諭旨とその長短については,前掲拙稿「〃甲マン的反抗”の政策恩恵」 を参照。 24)たとえばA.Ⅴal1ance,0♪lCti.,P344;G小D・H・Cole,A Histor.γOfSoeialist r如〟g尉,Vol」ⅠⅠ,p423

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ウィリアム・モリス匿おけるユー・・−・トピア思想の性格 −・お山 入物紗ぶル∂桝♪わ紺ゐβγ♂がベラミ.の加クゐ友和gβαCゐぴαγdへの批判をこめて書か れたことほ有名であるが,しかし他方それが,その内容上も啓蒙的ねらいの点 でも,これ紅約3年先だって書かれたA∂㌢βα∽げ.カゐ〟βα〝とともに見事な 1対の作品をなすものであったことは,モリス研究家たちによってさえも,案 外十分認識されていない。しかしながら,両作品はとも軋,革命的社会主義の 啓蒙のための物語として,ともに.7Ⅵ♂Gク研微ク紹紺♂αJ誌紅連載されたし,内容的 にみても,とりわけモリスの社会観と歴史観とをやさしくしめすべく,相互に 密接紅補いあう関係にたつものであったとおもわれる。すなわち,肋紗ぶノン0∽ 肋紺ゐβ柁が,革命的社会主義の立場から,とくに究極的理想社会を,イギリス を舞台紅,19世紀末的資本制社会と対照させながら想像描写した,現在と未来 との対比であるとすれば,Aヱ)γβα研ク./.カゐ搾βα〝は,おなじく革命的社会主 義の立場から,おなじくイギリスを舞台に,民衆の革命的要求と団結と斗争と の歴史的展開の様相を,14世紀末と19世紀末とについてくらべた,過去と現在 との対比だと,いってよい。 ここで留意して−よいことほ,25)第1に,モリスがAヱ)γ♂α朋げ.カゐ〝βα〝を rゐβC¢椚椚0〝紗βαJ誌に.連載(1886年11月13日−87年1月22日)したときほノ,SDF から分裂してわずか2年たらずのSLが,はやくもみずからも仏議会派”とパ無 政府派”の内部対立を露呈したときであって,中間派のモリスほノ,両派紅たい してともに(しかしとくに,ゆきがかり上,“議会派”にたいして)批判的ながら も,革命的社会主義の大義のために諸派の団結を切望していたというととであ る。あらかじめいえば,∠上肋吻紺=げ.カゐ〝βα〝において強淘された 以feト lowsbip”の精神も,見かたによっては,このような意見の敵船を超えた共同 の精神が,なによりもさしあたり社会主義者たちのあいだで喫緊不可欠なこと を寓意したものと,みるぺき理由が多いのである。 第2に,本作品の執筆当時と肋抑ざノね研助力♂柁のそ\れとのあいだには, かなり重要な事件がいくつか生起しているということも留意に低いする。すな わち,トラファルガ広場でのいわゆる“血の日曜日”事件(‘‘Bloody Sunday”, 1由7年11月13日),クロボトキソの影響の普及(86年訪英,以後,モリスと親交 25)以下の事情については,拙稿「ウィリアム・モリスの政策思想」を参照。

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香川大学経済学部 研究年報 3 ・一−J61一−▲ J963 関係を生ずる),また,米国のリカゴ市に・おけるヘイマーケット爆弾事件(86年 5月4日)を起因として無実の罪に問われた粥Chicago Anarchists”の断罪(死 刑4名をふくむ。87年11月11日)に刺戟されての,イギリスでの無政府主義 者たちの活動とテロリズム強行,かれら紅よるSLおよびその機関誌(乃β Cク椚弼0乃紺βαJ)の実質的占拠と,かれらとモリスとのあいだの応酬,さら紅, 89年5月のベラミのエ〃0烏加gβαぐ点紺αγd刊行と,同年秋のロンドン・ドック・ ストライキ,等々。これら諸事件はいずれも,たしかに♪南耶ノね研爪肋痛別 の執筆動犠を,前著の場合よりもずっと複雑にしたにちがいない。ただしか し,こ.れらのうち,アナーキズムの昂揚はむしろかえってモリスにその危険を 悟らせ,ひいてほ,“血の日曜日”における無組織・無抵抗な民衆の惨敗の経験 とともに.,最晩年のモリスをして,議会主義や国家社会主義を過渡的必然慈と して・しぶしぶ〕ながらもみとめるにいたらせた直接の契機となったようにおもわ れる。したがって,この間に無政府的な発想法ほむしろモリスにおいて漸次後 退しつつありこそすれ,前進したものとはおもわれないから,両作品のあいだ にこの点で思想上の基本的変化があったとは(いわんや,社会主義から無政府 主義への推転があったとほ.),およそ推測しがたいのである。この点,無政府主 義者としてのクロボトキンの影響をあまりに看視するフリッチ.ヱの見解26)ほ., とりがたいのでほあるまいか。 さて,Aβγβα沼0ノ\カゐ乃βα〝でほ,19世紀も末のロンドンの1社会主義運 動家である「わたし」が,ゆめのなかで,便宜,時間をさかのばって,1881年 のケントの農民−・揆の場面にさまよいこみ,豪快な人物ウィル・グリーンの案 内で,農民軍の精神的指導者ジョン・ポ−ルの熟肺脇にあふれる説教を聴いて 感激したり,小戦斗でのめざましい農民軍の勝利と犠牲者のいたましい死を目 撃したりしたあと,明日はロンドン紅進撃という1夜,嘆賞すべき建築美を秘 めた小教会の建物内で,月光を窓紅,ジョン・ポーールと未来社会について談じ あかすという筋であって,全12尊から成り,叙述は全巻隙間なくうつくしく充 実し,既述のように,識者によっでモリス最高の文芸作品といわれるのもふし ぎでないのだが,思想的紅みれば,この物語のヤマ場ほ2つある。1つぼ.,広 26)GFI・itzsche,〃〃い0い,SS94−119.

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ウィリアム・モリヌにおける1ユ・−トピア思想の性格 一員7−一 場紅おける汐ヨン・ポールの格調たかい説教の叙述部分(第4章),いま1つは, 「わたし」とジョン・ポールとのひそやかなながい問答の部分(第9−12章)であ る。こ.のうち,とくに.前者,すなわち“fellowship”について汐富ン・ポール が農民たちに語る感動的ないくつかの節は有名であり,また,これがそのまま モリスの思想の核心をあらわすものとし・て,じつにしばしば諸家紅引用されて ぎたようである。とくに,つぎの1節は有名である。(とくに本著については., 以下原文のまま引用することにする。)

“Forsooth,brothers,fe1lowshipis heaven,andlack of fellowshipis hell:fellowshipislife,andlack of fe1lowshipis death:and the deeds

that yedo upon the earth,itis for fellowship’s sakethat ye do them, and thelife thatisinit,that shalllive on and on for ever,and each one of you part ofit,While many a man’slife upon the ear・th from

the earth shallwane.”27)

ところでわれわれは.,みぎの文章,ないしジョン・ポールの立言−・般を,そ のままモリス自身の思想の核心とみること28)に,重大な留保をつけなければな らない。なぜなら,この作品においてほ,なるはど階級社会の歴史をつうじて つらぬかれるべき民衆のCOmmunalな大義を,i7ヨン・ポールが当時風なり に渾身の信念をもって見事に代表するかぎりでは,ポールのこ.とばほ.そのまま 著者自身の志向点をしめすだろう。しかし,思想的にほ,この物語をつうじて のモリス自身の立場は,結局当然ながらポールではなくて,なにより「わたし」

27)May MorIis(ed.),The Collected WoYks of William Morris,Vol小 ⅩⅤⅠ,p 230 28)ジョン・ポ・−ルの見解をそのままモリスの思想と等置させる解釈が普及している有 様は,おどろくペきものがあり,アーノットのいわゆる“モリス神話”の起因の1つもこ の辺にあった感じである。ついでながら,この著作の題の意味は,もちろん「ジ′ヨン・ ポールについ・ての〔わたしの〕ゆめ」なのであって,「ジョニ/・ポールがみたゆめ」では ない。また,冒頭は不完冠詞(“A”)であって,定冠詞(“rゐgつではない(肋.γ肋γ′・∠5 に拠る)。ところがおどろくべきことに,マッケイルもア−ノットも,“rゐβかγβα∽‥” とやっている。これら一・連のあやまりは,おそらく相互関係があり,問題はたんなる文 法を頓えて,標準的伝記家たちの責任ほ小さくないようである。

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香川大学経済学部 研究年報 3 J96β ∴」ヱβ−− 匿よってしめされていることは,あきらかである。そして,本作品第9章以下 に.展開されるジョン・ポーリレと「わたし」との見解の相違点こそが,社会主義 者モリスの面目を明確にしめして−いるのである。 「わたし」は当然ながら,すでに領主制に.かわって登場した資本主義の搾取 機構とその展開史,またそれに.対応する労働者階級の斗争や革命的社会主義の 意義を心得ているが,ジョン・ボールにほ到底そんなことは見当もつかない。 そ・こでジョン・ポールからみれば,「わたし」ほつぎのようにみえる。㍑Itis

SO after a11that thou art no manin the flesh,but art sent to me by

the MasteroftheFellowship,andtheKing′s Sonof:Keaven・tOtell

me what sha11be∼”29)他方「わたし」からi?ヨン・ポールを評すれば,如if

Iknow more than thou,Ido farless;therefore thou ar・t my captain

andIthy minstrel.”30)ということになる。 まず,昼間の戦斗で倒れた農民軍兵士の安置死体をめぐって,ジョン・ポー ルほ,みずからも死を悠々覚悟しつつ,義によって死者の魂が天国において聖 者群とともに実在し,そのfellowshipが生者のfellowhipと不可分につながる ものと信ずる旨,また,そのゆえにこそ“死”に意義ありとおもう旨を,力説す る。しかし「わたし」は,「生きた肉体にやどるもの以外には魂なるものは知 りません」き1)といい,「では,なぜ人は生きることになるのですか」82)と反問す る。ポールによれば,生は「〔彼岸的)大義をなすため,または,生まれて−きた ことを悔ゆるため」$3)にあるのだが,「わたし」の見解は,「’世界が生きている がゆえ紅,生ぎるために,生きるのです」呵というのである。こうして,まず 生死観紅ついて,永遠の教会と fellowshipの論理とを主張するポ,)L/のキリ スト教的見解と,現世の生のみしかみとめず,ただ個人は.,死んでも人類が生 きるかぎり,終滅しないのだから,義はこの世においてつらぬかれるものなの だとするところの「わたし」の唯物論的見解とほ,決定的に対立し,ポールほ すこぶる困惑するのである(以上,第9章)。ついでながらモリスがすでにr鮎 29),30)Ⅳ〃γゐs,VolXVI,p268 31).32)J∂∠d.,p263 33),34)J∂掃・,p264,

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ウィリアム・モリスにおけるこ1−・トピアノ恩恵の性格

−J9−

励γ瑚γPαグ・飢克郎(第1巻,1868年刊)において,つまり社会主義者となるず っと以前から,死の現世的性格を静観的紅認識・拒示していたらしい点は,す で紅わが国の戦前のモリス研究史上の業績が,指摘したところだった。3さ) 「わたし」は,−・揆の直接のかなしい運命と領主反動の山・時的成功・繁栄や しかしそれに.もかかわらずやがて領主制の没落と民衆の自由化,だが踵を接す る“囲い込み”を始点とする民衆のあたらしい困窮と“労働力”の売員という史 的必然の展開紅ついて予言的説明をあたえ,かえってますますポーールを混乱に おとしいれる。というのは,14世紀の農民一揆の指導者には,粥W血en Adam

delved andEvespan,Who was then the gent】eman?棚)という原始キy

ト数的斗争思想と,その帰結としての儀主制廃止=地上の天国という ヴィジ ョンしか,念頭にないからである)第10章,参照第4輩)。 ボールの熱心な追及に.こたえて「わたし」はさらに,新圧制下での民衆の窮 乏と過剰化,しかも表面での“自由”に.眩惑されての遅々たるかれらの斗争,他 方,商品の豊富低廉化の進行,これらが平行しですすむことを概説してやるの だが,ボールの困惑ほ絶頂にたっし,しかも,はや夜は白みかける(第11茸)。 最後に,「わたし」はなお,ポールに.ひきとめられての質問に.答えて,資本主 義下の不労階級の巧妙な支配の方法と民衆の眩惑,機械の発明紅よる商品の増 産と民衆の貧困化の一層の進行の説明をつけくわえ,ポールをいよいよ混乱失 望させるが,せめて最後にそんな事態の救済策を教えよと乞われ,まさに夜の明 けようとするのにあわてた「わたし」は,いそいで決定的な“希望”のことをい い添える。すなわち,巧妙な新圧制もかならずくずれる日のくるだろうこと, 真のあたらしい時代のあけぼのほかえって灰色かもしれないが,救済策が断じ で民衆の手中に’あることを「わたし」はのべて,ポールを一・応安心させる。“By

such greylight shallwise menand valiant soulssee the remedy,and

dealwithit,a realthing that may be to11Ched and hand王ed,and no

glory of the heavens to be worshippedfromafaroff・〃37)

35)モリス生誕百年記念協会けリモリス記念論集』1934年,川漸二讃・店,所収の志賀肪「“地 上楽園”のモリス」参照(71−108ぺ一汐)。

36)Cf肌)7烏・S,VolⅩⅤⅠ,p228・ 37)J∂∠d‖,p285

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香川大学経済学部研究年報 3 −1ご()− J9∂β だが,ここで,開かれたドアからほいる白光で,ゆめほさめてしまう。「わ たし」ほ,いつものみすぼらしい部屋で目ざめ,窓からのテ■ムズ何の眺めは寒 々ときたなく,折からのけたたましい工場群のサイレンに苦笑しつつ,自分の 日課の「仕事」につく。じつはその「仕事」とほ,ラスキンたちも教えたとお り,本来娯楽(“play”)たるべきほずのものだったのだが。− 以上であきらかなように,この物語においてジョン・ポールと「わたし」と は,民衆の困難や“主人”の支配の解消という斗争目標と,その基礎としての共 同団結という大義とその希望とに.おいて一・致するが,ジョン・ポールの思想が 中世末期農民のイデオロギL−・のキリスト教的・彼岸的表現として明示されるの にたいし,「 ̄ゎたし」の思想ほ唯物論的・此岸的であり,はっきりと19世紀も 末葉の近代市民社会の革命的階級斗争史観につらぬかれていることが,あきら かである。ポールのいう“fellowship”とは,たとえばウィリアム・ラングラン ドも泳いあげたところの,天上と地上の教会につらなる永遠の敬虞な砧同胞愛” であるが,88)「わたし」にとってほ,それは近代的労働者および社会主義者の 具体的・現世的な“団結”以外のなにものでもない。しかも,いわば両者の弁証 法的な発展的継承関係が,物語全体として−,じつにいきいきと打ちだされてい るのが看取される。とりわけつぎの文章ほ,そのような思惟をしめす1例とし

て,注目されよう。“Ipondered on allthese things,and how men fight

andlosethe battle,and the thing they fought for comes aboutin spite

Of their defeat,and whenit comesit turns out not to be what they

meant,and other men have to fight for what they meant under ano−

ther name〃89)

このように,Aかγβα研げ.カゐ紹βα〝ほ,物語でほあるがじつほ1っの充実 した社会史的思想史の番であり,モリスの数多くのどの著作軋もまして,かれ の歴史観が最もいきいきと鮮明に打ちだされているといってよい。なおついで ながら,そのノ〔i、の背景として,1883年以降のモリスの唯物論的かつ弁証法的な

38)CfWWlSkeat(edl),The Vision ofmlli’am concerning Piers the Plou)man, in Three ParallelTexis,etC。,VolⅠⅠ,ppliii−1vii

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ウィリアム・モリ.ス紅おける一ユ′−トピア思想の性格 −え仁一 歴史観の成熟状況が,とくに芸術史を取扱ったいくつかの活演や評論において 跡づけられることを,付言しておきたい。40〉 こうしたモリスの歴史観が,すくなくとも言及されたかぎりにおいては,科 学的社会主義ないし『資本論』の立場と完全に整合的なことは,いまや明白な

ようにおもわれる。モ.リ.スが,“HowIBecame aSocialst”(Justite,16June,

1894)において,「『資本論』の歴史叙述部分を完全に.エンジョイした」41)と述 懐していることが,想起される。 ただ,それにもかかわらずなお大きく残る疑問点がある。Aヱ)㌢βα椚げ.み触 βα〝において−,たしかにモリスは,階級斗争史観,生死の現世的・唯物論的解 釈,そして弁証法的歴史観を鮮烈に.打ちだしており,それらほ合して−はとんど 完全紅史的唯物論の立場と−激するかにみえる。だが,モリスは,革命の主体 の視点で物語を展開しており,史的唯物論の最重要命題たる生産力=生産関係 の照応7 土台=上部構造の関係は,物語全体としては、見事に浮き彫りにされて いるものと筆者は解したいが,直接明瞭な語彙をもって説明されてはいないよ うである。−・般に,感覚的な階級斗争史観がかならずしもただちに,厳密な意 味での史的唯物論にひとしくはないというこ.と(あるいは,『共産党宣言』と『経 済学批判』の序文・序説との羞)に関連して,こ.の物語における土台ニ=上部構 造の認識,存在=意識の認識,生産力=生産関係の認識がどの程度だったかと いう点が,わだかまる。なぜなら,筆者の知るかぎり,モリスのどの著述にも, “唯物弁証法”・ “史的唯物論”という用語は剛、られた形跡がないようだし, かれが『凝済学批判』を読んだ明確な形跡も,おそらく唯1つの例外(ペイン トンあての手紙,1888年4月2日肘)42)をのぞけは,ないからである。もっと も,『資本論』第1巻の歴史的叙述諸章だけでも,熟読して眼紙背に徹すれ は,含意の把握は不可能ではないはずだから,モリスが単独でどこまで実質的 40)串とえはとくに,“ArchitectureandHistory”(漁猟払188岬o WoY’ks,VollⅩⅩⅠⅠ, ppl296−317所収);“TheRevivalof Handicraft”(FoYlnightlγReview,Novl1888; ′∂ブd.りpp331−341所収)など。 41)l穐㌢・ゐ・5,ⅩⅩⅠⅠⅠ,p 278

42)To the RevGeoIge Bainton,2 April1888”CfPHenderson,OPCitu,pp”

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香川大学経済学部 研究年報 3 J96β ・ヱニ ー に歴史の基底,とりわけ生産力認識に到達したかが,藍大な分岐点となるはず ●●●●● である。この点,モリスの歴史認識が,実賀的紅はちょうど初期マルクスのよ うにまだ階級斗争一本槍方式風の理解にとどまっていたのかどうか,Aか作α沼 8ノ\ルカ搾βα〝という著作だ分からは,まだなんともいえぬふしがある。そこ で,このことを十分念頭におきながら,転じて次節以下において,われわれは 服紗ざノね椚肋紺ゐβ柁の内容を眺めることにしたい。あらかじめいえは,この ・ユ・・−トピアのなかで,モヅ.スは,たとえ.ば労働や機械をどう眺めるか,また, それはどんな歴史認識に.支え.られるか,という点が,根本問題となるはずであ る。 だがここで念のため,先述のマムフォードやジヤクスンの主張との関連で, ふたたび確認しておきたいことは,本稿に・おいてわれわれが検討レて言いるとこ ろのモリスの・ユ・・−トピアは,モリスの社会思想の内容としてのそれなのであっ て,モリスのサイコロジー−−・般に.おける“ゆめ”の優位の問題とは,べつだとい うことである。−・般に“ゆめ”は個人的で審兼的なものであるから,すぐれた夢 ●●●●● 想家はすぐれた文学者・芸術家だといえようが,そのゆめが社会思想性をもつ かどうかば,精神分析を超えた問題であり,それがここでのわれわれの考察対 象なのである。したがって,たとえ.ば乃β励γ才ゐ少劫7・α成よβ にしめされたモ リスのゆめは,まだはとんどたんに審美的,つまりidledreamであって,こ れはたしかに文学的鑑賞の対象としては吟味に値いするかもしれないが,そこ には社会思想性が稀薄だから,われわれはここで富まこれを(既述の点以外)検討 する必要がないとおもう。たんにこの点紅とどまるようなゆめは,まさに心理 学的する意味(personalemotion)での「逃避型]のゆめといえ,よう。モリス の純文芸作品には,たしかに.このようなものが多いらしいことは,事実である (最晩年の純芸術的創作作業再開の意味紅ついては留保を要する4$))。われわ れは,このことを否定しない。しかしながら,われわれの課題ほ,モリスの“胎 ●●●●● 内空想”の精神分析でほなくて,その・ユ・−・トピアの社会思想性の解明に.あるの である。 43)モリスの最晩年の純芸術活動への役帰の意味についてほ,拙稿「−“ロマン的反抗,、の 政策思想」の末尾部分を参照。

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ウィリアム・モリスにおける、.ま−−トピア思想の性格 一−2β−H IV われわれはまず,∧屯紺5ルク沼肋脚力βγβにしめされたモリスの歴史観を点換 するため,この理想社会がモリスの生きた現実社会とどう接続したかを,なが めよう。この物語では,社会主義者たる現代(19世紀末)イギリス人が,かりに. テムズ河畔の完全な未来共産社会に.まぎれこんだ場合が想定され,この未来社 会は,1952年を始点とした巨大な社会主義革命(㍑the Great Change”)の,な がくくるしい経過後に.漸次実現したこと紅なっておりら 約2世紀以上も後の 安定した状況下に.描かれる。階級斗争の歴史は遠大なパー・スぺクティグのほる か後方に過ぎさって伝説化し,わずか紅ハモンド老人やへ・ン.リ・モルサム老人 の談話のなかで考古学的・微視的に回顧されるものとなる。「人間が歴史のこと をひどく気紅するのは,世の中が紛糾混乱して争いの多い時節のようです」44) とは,老ハモンドの曽祖父の見解であった(第5茸)。 しかしながら,とりわけ「変化はどのようにして到来したか」について,ハ モンド老人の口をつうじて語られる部分(第17茸)ほ,19世紀的なミドルクラス 中心の生活と功利主義の支配を構評するだけでなく,社会改慮主義や国家社会 主義を適確紅批判し,それらのえせ社会主義の無効なことを指摘し,労働者保 護法規(最低賃金制等)の意義と限界,革命の寅の動力としての労働者階級の団 結の完成(横優等の不正行為分子の淘汰をふくめての)と,社会主義革命の必然 についての認識の成立,等のことを前提として,商業組織の麻痺化と恐慌の到 来とを機に,“大衝突”がおこったことを述べており,その叙述はきわめて迫真 的といってよい。その“大衝突”,すなわち物語上の1952年のトラファルガ広場 における事件を起点とした大斗争=社会主義革命の描写も,史実としてのマン チェスター流血事件や1887年のトラファルガ事件を踏まえたものである。労働 者側での治安委員会の結成,市街戦における軍隊の民衆虐殺,斗争の激化とブ ルジョア政貯の屈服,反動派の陰謀と内乱再開,治安委員たちの逮捕,労働者 側の3日間紅わたる大ゼネストと鼠軌反動派軍隊の士気喪失と休戦,軍隊派 44)l穐′滋S,ⅩⅤⅠ,p小30布施延雄訳}無何有郷だより_(春秋社㌻社会思想全集ム1929 年,所収),46ぺ−汐。

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香川大学経済学部 研究年報 3 J96∂ −ヱ一−一 の自滅と革命の完全な勝利,−−−この1遵の革命・反革命のながいくるしい斗 争史,「産業的奴隷制から自由の状態にいたるまでの,あるおそるべき過渡期 の歴史」,をふまえて,はじめて一理想社会がおもむろにほ.じまる。 したがってモリスは,他のユ−・トピアンたちのように,歴史的現実から遮断 されたどこかに・ユ・−トピアの孤島を描くというのではなく,あくまで資本制的 現実と階級斗争との弁証法的展開の究極点として,理想社会を把握しようとし たのであった。この点,モリスのものが「逃避型」ユートピアだという表現に ついては,十分な留保の必要があることが,注意されよう。 こ.こでわれわれほ,〃如膵./ン・0∽∧わ紺おγ♂における歴史観を一層たちいって 明確にするために,その内容を,かれが痛辞した相手たるベラミのム犯彪柁g ゑαCゐ紺α㌢・dの内容との対比において,全体として把捉しておくことが便宜であ ろう。 両者とも,19世紀末の社会不安昂進のはとんど同一・時期に,歴史的現実から 逃避するのでなく歴史の発展の延長線上の21世紀の未来を仮挿しようとした点 では.,おなじであった。この点,両者のユ・一トピアが,たとえばトマス・モア のような純粋逃避塾のものとは異ることは,十分注意されなぐてほなるまい。 さてしかし,凡狐㍉仇槻♪加祓椚では,革命的社会主儀者団体の1同志長る 「わたし」にとって,1887年のトラファルガ広場(ロンドン)ゐ流血が示唆した社 会主義革命の必然性が,現実的出発点だったのにたいし,山繭吻巨翫班別椚 では,おなじ年のポストソの富裕な1在住者たる「わたし」4き)の目に映じたアメ リカ独占資本のとめどもない集中集税の進行,そして,それが深刻な労働問題

と社会不安−いわゆる輔theGreat Upheaval”d−をひろげながらも,結局

45)「既成の秩序に大きな利害関係をもつ富者の1人として,私ほ当然私の階級と不安 を・ともにした。そのストライキが私の結婚をおくらしたため紅,私が当時の労働者階級 に対して抱いた特別の苦悩が,疑いもなく,私の彼等に対する感情に特別の敵意を加え たのである。」(山本政音訳『顧りみれば』,岩波文庫,19−20ぺ−−ジ)。ヌ・卜で新婚住宅の 建築が無期延期の呂の手紙をみて,「カリグラほ,ロ−マの人民の首がただ1つであれは いい,そうすればそいつをちーこんぎってやるのだが,と言ったそうだが,この手紙を読 んでいると,当座ほ,私もアメリカの労働階級について同じことを望みかねなかったろ うと思う」と主人公は,ゆめの新世界啓示以前では,単純に憤慨する(同,26ぺ一汐)。

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ウィリアム・モリスにおけるエ.−トピア恩恵の睦路 −2β一一・ 生産の社会化を押しすすめる必然性を・一応しめしたことが,出発点であった。 新秩序の建設の政治的手続きは,前者では,当然労働者階級が唯一・の主体と なっですべてをおこなうところの社会主義革命のながい苦斗と騒擾と流血の帰 結であるが,シカゴ・アナーキストのはねあがりがもたらしたへイマーケット 事件以後つづいた反動的雰囲気の支配のもとで構想された後者46)でほ,「邪魔 をする以外にほすこしも関与するところのない」47)赤旗の追随者とか,「なにご とも大規模に,あるいは永久的な規模で,完成することなどできなかった」48) ほずの労働者の見ではなくて,すべての階級の共同利益を文字どおり代表した “国民党”紅よ って,遂行される。つまり後者は,「人民を代表する単一・のシ∵ソ ジグ」−†」ないし「単一・事集会社として組織された国民149)による,全国の独占 資本の1本化と,人民全体の支持による,なんの暴力もともなわぬ,すこぶる 簡単な手続き紅よって,「はかに.どうなりようもない産業進化の過程の結果と して」60)実現するのである。なるはど両未来社会とも,人々の平等と平和と健 康と善意の普及,互助協力の原理の確立,利有財産制の,したがって通貨・市 場・売買・金融・政党政治・立法制度・軍隊・大部分の官庁行政機構の廃止, 司法制度の極度の縮小・教育の重視と普及,自由恋愛と婦人解放叫の実現,等 々の諸点では,大同小異である。しかし,最も重要な若干側面,すなわち労働 および国家のありかたをめぐる諸側面において,河ユ・−トピアはきわめ七対照 的である。順序として,まずベラミの場合について検討しよう。 「■ェ00点∠〝gβαC烏紺α7・dは,形式は空想的なロマンスであるが,進化の原則に したがって,人類の,とく紅この国の,産業と社会の発展の次の段階の予測を まったく鼻剣に.意図したものである。」52)と,ベラミは同著の扱文で明言してい 46)A”E・Morgan,0♪Cit・,p1372”なお,ボストン第1国民党クラブ初代古記Cyrus WiiiaIdの証言によれば,ベラミは本音執筆当時マルクスを読んでいなかったという。 4−7)山本訳,244ぺ一汐。以下D工∴Leeteの見解はそのままベラミのものと解される。 48)同,246ページ。 49)同,57ペ・−ジ。 50)同,51ぺ−ジ。 51)ただし,教育や婦人解放の意味内容は,両人に蓮要なちがいがある。後述参照。 52)山本訳,324ぺ−ジ。

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