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80 ある というのが 基 本 的 な 私 の 考 えです つまり AからBへと 文 化 が 伝 達 する 場 合 に AからBに 向 かって AにもBにも 通 ず る 普 遍 的 な 表 現 理 解 の 過 程 を 経 て 一 つの 文 化 が 理 解 されていく という 連 続 的 な 過 程

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Academic year: 2021

シェア "80 ある というのが 基 本 的 な 私 の 考 えです つまり AからBへと 文 化 が 伝 達 する 場 合 に AからBに 向 かって AにもBにも 通 ず る 普 遍 的 な 表 現 理 解 の 過 程 を 経 て 一 つの 文 化 が 理 解 されていく という 連 続 的 な 過 程"

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◆論説

禅公案の英訳は

公案の工夫を深めるか

―「趙州無字」の場合―

心鑑

◆ 前号では「父母未生以前に於ける、本来の面目如何?」の英訳を例 に取りながら、「禅公案の英訳は公案の工夫を深めるか」という問題 を考えてみました。今回は、「無字」の公案として知られている「趙 州無字」について考えてみます。 前号では「本来の面目」の英訳について考える前に、松尾芭蕉の俳 句、「古池やかわず飛び込む水の音」の英訳を検討してみました。読 者のみなさんの中には、翻訳にはこのような問題が潜んでいるのかと、 驚かれた方もおられるのではないでしょうか。あるいは、「古池やか わず飛び込む水の音」の俳句は、英語ではきちんと伝わっていないの ではないか、という感想をもたれた方も多いのではないかと思います。 ある文化を他の言語で紹介する場合、紹介された文化は全く同じ文 化ではありえない、とする考え方があります。たとえば、20世紀最大 の小説家と言われるジェームス・ジョイス(James Joyce)の翻訳家 として知られる柳父章(1998: 162-163)は、翻訳という行為に関し て、以下のように述べています。 異文化の理解、異文化の伝達ということは、意味の理解というよ うな、いわば連続的な過程で起こっていくのではなく、非連続で

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ある、というのが基本的な私の考えです。つまり、AからBへと 文化が伝達する場合に、AからBに向かって、AにもBにも通ず る普遍的な表現理解の過程を経て、一つの文化が理解されていく という連続的な過程ではなく、その間には非連続な過程がある。 その非連続というのは、意味がいったん消失することだと思うの です。いったん消失して、改めてそこで意味の再構成、再形成が 行われる。だからその結果として、A文化、B文化そのどちらで もないC文化ができあがっていく。一見それはA文化、あるいは B文化と似てはいるけど、実はちがうんだというのが、私の基本 的な考え方です。 実はこのようなことは、単に翻訳という行為だけでなく、世界で最 も凝縮された文学形式である俳句の鑑賞についても、同様のことが起 こっていると考えている批評家もいます。「俳句は英訳できるのか: 翻訳という営みの本当の意味を考えるために」(芳賀徹編,2000)と いう文章の中で上田真は俳句の翻訳に言及しながら、俳句そのものの 鑑賞においても異文化の翻訳と同じことが起こっていると結論付けて います。 日本人だって俳句を読むとき、一人一人が原句を「翻訳」して理 解しているのだ。その翻訳されたものは、各読者の間で微妙に、 あるいは大きく違う。これを疑う人は、岩田九郎著『諸注評釈芭 蕉俳句大成』(明治書院、1967年)を見ればよい。だから、個々 の俳句に一つだけの「正しい読み」がないという意味において、 唯一の「正しい翻訳」もまた存在しないのである。結局すべて文 学作品は、読者個人がもっとも魅力を感じる形で受容されるので あって、翻訳という営みも、各翻訳者が原作のなかで最も魅力を 感じる部分を核として外国語に置換する、そういう性格をもって

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いるのである。(芳賀徹編,2000: 127) このように考えていくと、公案の英訳もまた翻訳者のその公案に対す る見方、あるいは見解を核とした個人の営みということになります。 つまり、一つだけの「公案の正しい英訳はない」ということです。み なさんはどのようにお思いになりますか。 前号では、「本来の面目」の英訳の問題について時制の問題を主に 扱いました。今回は語や語句の翻訳について考えてみます。 五木寛之の『他力』(講談社文庫)は、英語に翻訳され、そのタイ トルは『TARIKI』と日本語がそのまま使われました。その経緯に関 して、五木寛之は河合隼雄との対談の中で次のように語っています (『仏教のこころ』、2005)。 河合:道元禅師が「自他一如」と言っていますが、仏教そのもの が習合をゆるす幅をもっていますね。自と他の境目がない んです。自がすなわち他、他がぜんぶ自なんです。他とい えば、五木さんの『他力』(講談社文庫)も、海外でずい ぶん読まれたでしょう。 五木:ぼちぼちです(笑)。「他力」を英語にどう訳すかで、け っこう悩んだんです。「アナザー・パワー」とか(笑)。「サ ムシング・グレート」とかいろいろ案はありましたが、結 局カラテやサムライと同じように「タリキ」だろうと。そ こで『TARIKI』のままで出しました。(pp. 61-2) ご存じのように、仏教用語である「他力」は「自力」と対照的に用い られ、禅宗は自力宗で、浄土宗や真宗は他力宗だなどというように仏 教の宗派を区別する際に使われることがあります。 「他力」という言葉は、文字通りの意味では「他の力」の意味なの

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で、字義通りの訳では“another power”や“ (the) other power”と 訳せるかも知れません。「他」を「自己」以外のものとして強調した ければ“non-self power”も可能でしょう。 確かに「他力」とは他の力によって救済されることを意味しますが、 他の力にすがる前提となっているのは、自己を完全に放下すること、 つまり自己の五欲七情をすべて捨て去って自己をすっかり他に委ねる ことです。これは自己に対する絶対的な信頼のもと自己の小さな我を 完全に捨て去って、本来の自己に目覚めんとする「自力」と同じ目的 地に到達する異なった道順でしかありません。あるいは仏教という硬 貨の裏表にすぎないのです。そこのところを河合は、「自と他の境目 がないんです。自がすなわち他、他がぜんぶ自なんです」と言ってい ます。 五木寛之の『TARIKI』が英訳として“TARIKI”を選択しないで、

『ANOTHER POWER』や『THE OTHER POWER』というタイトル

であったら、欧米の読者は、「自力」とは異なった特別なpowerを想 像 し て し ま う こ と で し ょ う 。 同 じ 事 は 「 サ ム シ ン グ ・グ レ ー ト 」 “something great”にも言えます。このような英訳では、自力と他力 との影響関係や連続性が断ち切られてしまうことになります。 このように、その文化の特性を反映している表現は、字義通りに語 と語を組み合わせて訳すと誤解を招くことがあります。他方、内容を 考えて訳すと翻訳される文化の特異性が伝わらないことがあります。 それでは、本題の「趙州無字」の公案の英訳を考えてみましょう。 これは次のような公案です。 趙州、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや、また無しや?」 く し 州云く「無!!」 趙州のところに一人の僧がやってきて、次のように趙州に問いを発し

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ました。「一仏成道観見法界、山川草木悉皆成仏と云ってこの世のあ らゆるものに仏性はあるといいますが、犬にも仏性はありますでしょ うか」と詰問します。すかさず、趙州は「無!!」と言い放ちます。僧 の問いの中の「仏性有りや、また無しや?」の「無し」は、有るか無 いかの相対的な存在の有無の意味で使われていますが、趙州の「無」 は相対的な存在の有無ではなく、相対的な有無を超えた絶対的な「無」 を表しています。 一般的にはこの「無」は“Mu”として訳されることが多いようで す。次の訳はKatsuki Sekida (1977: 27)のものです。

A monk asked Joshu, “Has a dog the Buddha Nature?” Joshu answered,“Mu.”

R.H. Blyth (1966: 22)も“Mu”を使っていますが、この「無」は文字

の意味としては、括弧書きで(No)を挿入しているように、否定であ

ることも同時に明記しています。

A monk once asked Joshu, “Has a dog the Buddha-Nature? ” Joshu answered, “Mu! ”(No)

同じようにPaul Reps(1957: 95)も本文中の“Mu”に注釈を付けて

います。

A monk asked Joshu, a Chinese Zen master:‘ Has a dog Buddha-nature or not? ’Joshu answered:‘Mu.’[Mu is the negative

symbol in Chinese, meaning‘No-thing’or‘Nay.’]

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訳の仕方に対してThomas Cleary (1993)は異議を唱え、次のように、 “NO.”を使っています。

A monk asked Zhaozhou, “Does even a dog have Buddha-nature?” Zhaozhou said, “No.” (p. 1)

もちろん、Clearyは「仏性はない」という否定の意味で“No.”と訳

したわけではありません。英米人にとって全く意味をなさない呪文の ような“Mu”や“Wu”では趙州の肚を伝えていないという理由から です。次のように述べています。

Some translators do not grant any semantic value to the reply No, but render it as if the master in the story had answered with an inarticulate utterance, which they generally say is Mu, a Japanese pronunciation of the Chinese wu. This reflects a practice of using this meaningless syllable as a kind of mantra or concentration spell to clear the mind of thoughts and detach it from the world of objects.

The original saying was in fact articulate and meaningful, and its original use in meditation was not as a spell. (pp. 7-8)

(翻訳者の中には、Noという返答に意味的な価値を認めず、ま るでよく口にされる、中国語読みでは「う」、日本語読みでは「む」 である、曖昧な言葉で趙州が返事をしたかのように表わす人がい る。これは、心から想念を取り除き、色界から引き離すための一 種のマントラか集中するための呪文としての意味のない音節使用 の実践の反映である。原文の言葉「無」は、実際には明確で意味 があり、瞑想においては本来呪文としては使われない。) 確かに、“Wu”や“Mu”ということばは英語圏の人々には、いわゆ

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る外来語として何の意味の連想も引き起こさないでしょう。中には “Mu”を[mju:](ミュー)と発音し、ギリシャ語のアルファベット と勘違いする人もいるかも知れません。Clearyの主張は、趙州の「無」 ははっきりとした意味をもつ「無」である、その明諦なところを英米 人にとって曖昧なことばで訳してはいけない、というものです。しか し、少なくともこの問答の僧には趙州の「無」は全く理解できません でした。それは英語圏の人々にとって“Wu”や“Mu”が意味をもた ないと同じ程度に理解できなかったのです。したがって、“No”と訳 すことは「この世のあらゆるものに仏性はあるが、犬には仏性はない」 という意味に読者には理解されてしまうでしょう。 そこのところを配慮してか、様々な仏典を英訳し、英語で禅の入門 書を書き、世界的な禅ブームを巻き起こした鈴木大拙(1994初版は1950 :80)は、「無」の中国語読み“Wu”と日本語読み“Mu”を併記し、 「文字通りの意味ではnot、あるいはnoneを意味する」と説明した後、 次のように文字的な意味とは関係がないと言いきっています。

Wu literally means‘not’or‘none,’but when this is ordinarily given

as a koan, it has no reference to its literal signification;

(「無」は文字どおりには「not や none」の意味だが、公案とし て通常使われる場合は、文字通りの意味とは無関係である。) 修行過程を考えると、“Wu”や“Mu”で英訳された公案に参ずる 外国人は、日本人のように有無の無にとらわれない分だけこの「無」 の云わんとしているところを掴みやすいかも知れません。しかし、日 本人の修行者のように、「無」を「無い」と理解し、相対的な有無に 悩み、苦しみ、壁にぶち当たり、相対的な物の考え方の限界まで追い 込まれて、そののち忽然として得られる納得、つまり迷いを転じて悟 りを開く「転迷開悟」に到達する修行の過程を、充分に経験すること ができないという問題があります。

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このように英語にはない語であるMuやWuをそのまま使うのは、英 語にはそのようなものを指し示す表現がないからというだけの理由で はすまされない問題が生じます。同じような問題は、「無心、無念、 無想」などの「無」の漢字をもつ禅語にも起こります。英語にはこれ らの語に近い概念があるのでしばしば問題はもっと複雑になることが あります。 たとえば、和英辞典で調べると、「無心」は「思いやりのない、無 情な」の意味で「無心の木石」を例にして“insentient trees and stones”

や「金品などをねだる」の意味で「金を無心する」の英訳として“ask for a loan”が使われ、一般的には禅語の意味は記載されていません。『新 和英大辞典』(第5版、2003年)のように、「無心」は「無邪気」と同 意語だとして“innocence”を訳語に当てる辞書もあります。もちろ ん、禅語として「無心」はこのような意味ではありません。 横井(1991)は「無心」を “no consciousness”と訳し、稲垣(1991) は “no mind; no thought”と訳しました。このような “no + 名詞” の訳し仕方は鈴木大拙からきています。鈴木大拙(1972)は「無心」

を“no mind”と訳しました。

禅語としての「無心」の英訳でまず問題になるのは、「心」の訳語 に“mind”が適切であるかどうかである。日本語の「心」は英語で はmindとheart に分けて考えられます。「心を集中する」“keep one' s mind on”、「心に浮かぶ」“come to mind”、「人の心を読む」“read a person's mind”、「心が定まらないで」“of (in) tow minds”のような場 合はmind が使われます。一方、「心の底から」“from the bottom of one' s heart”、「優しい心」“a tender heart”、「心ゆくまで」“to one' s heart' s content”のような場合は、heartが使われます。では、禅語の「無心」 の心はどちらかといえば、善悪、美醜、損得などの相対的な判断をす る「心」、あるいは分別心を問題にしているので、自然発生的な「心」

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Harding(2002)は、「無私」を“no head”と「私」の訳にheadを使って 訳しているのは一つの見方と言えるでしょう。

次に問題となるのは「無心」の「無」です。福島慶道(1994:150-4)

は鈴木大拙の“no mind”の訳に異議を申し立て、“no mind”は英米

人には“no thinking”と理解され「何も考えない」と誤解されてしま う。「無心」は“no thinking”ではなく“free thinking”であり、“free mind”、 “fresh mind”、“creative mind”であると述べています。このように 日本語の側から英訳を考えるのではなく、それが指し示す内容に近い 概念を表す英語表現を複数提示していくやり方があります。これは、 討論や講演、あるいは説明文では大変有効なやり方です。

しかし、州云く「無!!」を、“free thinking, free mind, fresh mind, creative mind! ”と4通りの表現を使って訳す方法は、禅公案のよう な問答ではなじまないように思います。もし、表現を一つに限定すれ ば、“free thinking”、“free mind”、“fresh mind”、“creative mind”のど の表現を使っても、英語という言語が慣習的にこれまで指示してきた 内容を示すことになります。英語にない禅語の「無心」の意味を把握 することは困難でしょう。 異なった指示内容を示すには異なった言語表現を使う、あるいはそ の言語に存在しない言語表現を造り出すことが必要であるという考え 方があります。また、「無心」にしても「無私」にしても「趙州無字」 の「無」を体験した心の状態を表していると考えて、 “Mu Mind” や“Mu Thinking”とするやり方もあります。「無」と「無心」の関係 性がもっと明確になるかもしれません。さらには、「Mushin」のよう に日本語をそのまま使うやり方も可能かもしれません。このように 「無」という1音節の言葉でもその英訳は容易ではありません。 日本文化において、この「無+名詞」の英訳は難しく、さまざまに 訳されることがあります。宮本武蔵(1584-1645)の剣術二天一流の 兵法についての極意書である『五輪書』には「無念無相の打ちといふ

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事」という章があります。この『五輪書』の英訳を調べると「無念無相」 がさまざまに訳されています。現在『五輪書』の英訳は11種類ありま すが、6種類を選んで調べてみました。「無念無相」の訳は、次の4 つのタイプに分けられます。ちなみに、武蔵の「無念無相」は「無想」 ではなく「無相」を使っています。 (1) 「no+名詞」のタイプ

Victor Harris (1974): no design, no conception. (p. 52) Kaufman (1994): no thought, no idea (p. 41)

Ashikaga (2003): no plan -- no concept (p. 58) (2) 「without+名詞」

Cleary (1993): striking without thought and without form (p. 36)

(3) 否定的な意味合いを内包

Nihon Service Corporation (1982): the blow free from worldly thoughts--the spontaneous blow (p. 43)

(4) その他

Tarver (2002): The impulsive strike (p. 29)

それぞれの訳し方を比較考察すると興味深い問題がいろいろと浮かび 上がってきますが、ここでは6種類の英訳すべてが異なった訳をして いる点だけを指摘しておきます。このように、いろいろに訳されてい るということは、「無念無相」は日本語では固定した表現ですが、英 語では定着した訳語がまだないということです。「無念無相」の英訳 の難しさは、「無念無相」が担っている日本文化や仏教文化に対する 理解の難しさによるものです。 日本の文化に対する深い理解がなければ「無心」も「無念無相」も理 解できないし、訳すこともできません。翻訳における語と語の組み合 わせは単に語と語の問題だけでなく文化とも関わりがある問題です。

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以上、今回は「趙州無字」の「無」の英訳に伴う問題を考えてきま した。この公案を透過した人は、MuであろうとNoであろうとNoneで あろうと、どの英訳でもかまわないとお思いでしょう。「趙州無字」 という饅頭の味を言葉で知らせることは所詮無理で、参禅しないと分 からないでしょう。しかし、欧米の文化とは異なる東洋の禅の世界を 可能な限り忠実に伝えようとするのが英語翻訳の営みなのです。参禅 しなければ分からないと言うのは、日本語の場合も同じことなのです。 参考文献

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Cleary, Thomas (translated) (1993) Unlocking: The Zen Koan. North Atlantic Books.

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Record. Shambhala.

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芳賀徹編(2000)『翻訳と日本文化』山川出版社.

Harding, Douglas (2002) On Having No Head: Zen and the Rediscovery of

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北條文緒(2004)『翻訳と異文化:原作との<ずれ>が語るもの』み すず書房. 堀正広(2001,2002)「ニューヨークの禅者:曹渓庵佐々木指月:海 を渡った放浪の禅者」(1)、(2)、(3)『禅』4号、5号、6号、人 間禅出版. 堀正広(2008)「日本文化は英訳できるか:宮本武蔵『五輪書』の場 合」熊本学園大学付属『海外事情研究』第35巻第2号、85-108.

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■著者プロフィール

堀 心鑑(本名/正広)

熊本学園大学外国語学部教授、図書館長。博士(文 学)。英語コーパス学会会長。

著書:Investigating Dickens' Style: A Collocational Analysis. (Palgrave Macmillan, U.K. 2004, 英語コーパ

ス学会賞)、『英語コロケーション研究入門』(研究 社、2009年)、『例題で学ぶ英語コロケーション』(研 究社、2011年)など。昭和53年、人間禅荒木古幹老 師に入門。現在、人間禅布教師。

参照

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