京 都 女 子 大 学 現 代 社 会 学 研 究 185 研 究 ノ ー ト
『ユ タ 日報 』 創 設 者 ・寺 澤 畊 夫 の
ラ イ フ ヒ ス ト リー 的 研 究 序 論
東 元 春 夫
要 旨 「ユ タ 日報 』 は1914年 に米 国 ユ タ州 ソル トレー ク シ テ ィで寺 澤 畊 夫(て ら さわ ・うね お)に よ っ て創 刊 さ れ た 日本 語 新 聞 で あ る。 この 小 論 で は、 同新 聞社 に残 さ れ た資 料 を も と に寺 澤 畊 夫 の ラ イ フ ヒ ス トリー 的 研 究 を 試 み る こ とに よ り示 唆 さ れ る社 会 学 的意 味 を探 る こ とを 目的 とす る。 具 体 的 に は 寺 澤 畊 夫 の 米 国 到 着 か らユ タ 日報 創 設 ま で の期 間 に 限定 して 、彼 の足 跡 を 辿 った が 、 日 本 人 コ ミ ュニ テ ィの 基 盤 とな る 日本 人 会 、 仏 教 会 お よび 日本 語 新 聞 の創 設 の 功 績 が 大 で あ った 一 方 、 故 郷 に 帰 って 政 治 家 にな る夢 の 実 現 の た めベ ン チ ャー ビ ジ ネ ス へ の意 欲 も高 か った 事 実 が 浮 か び上 が っ た。 キ ー ワ ー ド ユ タ 日報 、 寺 澤 畊 夫 、 ラ イフ ヒス トリー 、移 民 、 在 米 日系 人 1 は じ め に ユ タ 州 を 初 め て 訪 れ た 日本 人 は 日本 政 府 の 使 節 団 、岩 倉 具 視 一一行 で1872年2,月4日 の こ とで あ る 。 民 間 人 で は 「醜 業 婦 」が1890年 前 後 に 同 地 を 徘 徊 、 ま た 労 働 者 も こ の 頃 か ら入 っ て く る が 、 本 格 的 に 流 入 す る の は1900年 代 に 入 っ て か らで あ る 。1) ち な み に ユ タ が45番 目 の 州 と し て ア メ リ カ 合 衆 国 に 加 盟 す る の が1896年 で あ る 。 日本 人 の 流 入 が 始 ま っ た1890年 を 「原 点 」 と す る と、 ほ ぼ25年 ご とに 『ユ タ 日報 』 に と っ て の 「節 目」 を 迎 え て い る こ とは 興 味 深 い 。 す な わ ち25年 後 の1914年 に 『ユ タ 日報 』 が 創 刊 さ れ る が 、 こ れ は 日本 人 コ ミ ュニ テ ィ全 体 か ら見 る と 「単 身 」 の 「出 稼 ぎ 」 的 労 働 か ら 「家 族 」 を 伴 っ た 「定 住 」 へ の 変 容 の 時 期 と解 釈 さ れ る 。 既 に こ の 時 期 に は 「日本 人 町 」 が ソ ル トレ ー ク シ テ ィ の 中 心 部 に 形 成 さ れ て お り(東 元:1995)、 日 本 人 コ ミ ュ ニ テ ィ の 発 展 期(展 開 期)と 考 え られ る。 国 際 的 に も第 一 次 世 界 大 戦 の 時 期 で あ っ た た め 、 米 国 国 内 で も労 働 力 が 不 足 し、 移 民 労 働 の 需 要 が 高 か っ た 。 『ユ タ 日 報 』 の 創 刊 号(1914. 11.3.)に は 、 戦 争 の た め 東 京 か ら輸 入 し た 活 字 の 延 着 に よ り創 刊 が 遅 れ た 事 情 が 述 べ ら れ て い る。 そ の25年 後 で あ る1939年 に 寺 澤 畊 夫 が 死 亡 。 そ の 年 に 同 紙 の 英 語 ペ ー ジ が ス タ ー トす る 。 こ の 時 期 は 二 世 が 成 長 し成 人 に 達 す る 者 も 出 て き て 、 そ の 結 果 英 語 メ デ ィ ア の 需 要 が 次 第 に 高 ま っ て い っ 1)こ の 項 、 詳 細 に つ い て は 東 元 春 夫(1994)「 ソ ル トレ ー ク シ テ ィ ー 日本 人 町 の 消 滅 一社 会 学 的 一 考 察 」 『芦 屋 大 学 論 叢 』 創 立30周 年 記 念 号II, pp.1-24.186 「ユ タ 日報 』 創 設 者 ・寺 澤 畊夫 の ラ イフ ヒ ス トリー的 研 究 序 論 た と解 釈 で き る 。 そ の2年 後 に 太 平 洋 戦 争 が 始 ま り、 『ユ タ 日報 』 は 一 時 的 に 発 行 停 止 を 命 じ ら れ る が 、 や が て 米 国 政 府 と強 制 収 容 所 に 入 れ ら れ た 日系 人 と の パ イ プ 役 と し て 、 発 行 を 許 さ れ た 。 こ の 時 期 に 同 紙 は 各 地 の 収 容 所 に 郵 送 さ れ 、 そ の 発 行 部 数 は1万 部 を 越 え て い た 。 日米 開 戦 か ら25年 後 の1966年 、 ソ ル ト レ ー ク シ テ ィ の 日本 人 町 が 解 体 さ れ 、 「第 二 の 強 制 立 ち 退 き」 が 起 こ る 。 こ の と き に は ユ タ 日報 社 自体 も移 動 を 余 儀 な く さ れ 現 在 の 社 屋 へ 移 っ て い る。 こ れ は 公 民 権 運 動 の う ね りが 全 世 界 を 包 ん だ 時 期 で あ り、 日系 人 の 社 会 的 地 位 の 上 昇 が 始 ま る 時 期 と も 解 釈 さ れ る 。 こ の1966年 の 日本 人 町 の 解 体 は 、 強 制 的 で は あ る が 白 人 居 住 区 へ の 分 散 を 意 味二し、 両 サ イ ド と もそ の 意 志 に か か わ ら ず 事 実 上 、 同 化 を 促 進 さ せ た 。一 般 論 と し て 、マ イ ノ リテ ィ ・グ ル ー プ は 都 市 の 中 心 部 に 集 中 的 に居 住 す る傾 向 が あ り (バ ー ・他:1979)、 ロ サ ン ゼ ル ス の 黒 人 居 住 区 や 韓 国 系 居 住 区 な ど 、各 地 に そ の 典 型 が 見 ら れ る。 さ ら に そ の25年 後 の1991年 、 畊 夫 の 妻 、 國 子 (く に ご)が 亡 くな り 『ユ タ 日報 』 が77年 の 歴 史 に 幕 を 下 ろ す 。 國 子 が 亡 くな る3年 前 の1988年 に は 当 時 の レ ー ガ ン 大 統 領 が 日系 人 の 戦 時 強 制 収 容 に 対 す る 補 償 法 案 に 署 名 。 さ ら に 今 年(2000年) に な っ て ア ジ ア 系 と し て 初 め て ノ ー マ ン ・ミ ネ タ が 政 府 閣 僚(商 務 長 官)に 就 任 し た 。 こ れ は 米 国 行 政 の 最 高 レ ベ ル ま で 「構 造 的 同 化 」 が 進 ん だ と い う象 徴 的 な 出 来 事 で あ る 。 こ れ ま で 地 方 自 治 体 な ど で の 司 法 ・立 法 ・行 政 で 日系 人 の 進 出 は 見 ら れ て い た が 、 文 化 的 同 化 や イ ン タ ー マ リ ッ ジ な ど の 同 化 理 論 の 諸 相 の 中 で も 「構 造 的 同 化 」 が 最 終 的 な もの で あ る とい う 意 味 で 画 期 的 と い え る。2) こ の1991年 の 『ユ タ 日報 』 の 廃 刊 は 、 一 般 に 移 民 新 聞 の 皮 肉 な 運 命 を 物 語 る 。 す な わ ち 、 「移 民 新 聞 に と っ て は 、 同 化 の 推 進 こ そ が 究 極 の 達 成 目 標 で あ っ た 。 とす る と、 移 民 新 聞 の 成 否 は 、 あ る 意 味 で 、 自 らの 足 元 を 切 り崩 す 能 力 を も つ か ど う か に よ っ て 計 る こ とが で き た の で あ る 。」(ジ ャ ノ ウ ィ ッ ッ:1967)こ の 仮 説 は 多 くの ヨ ー ロ ッパ 系 の 移 民 新 聞 に よ っ て サ ポ ー ト さ れ て き た が 、 『ユ タ 日報 』 に お い て も ま さ に こ れ が 当 て は ま る の で あ る(東 元:1984a;1984b)。 そ し て こ の 廃 刊 と と も に 移 民 と し て の 日系 集 団 の 「同 化 の サ イ ク ル 」 が 一一巡 し た と解 釈 で き る 。
]1 研 究の位置 づけ と方法
筆 者 は これ まで 、 主 として 質 問 紙調 査 に よ り収 集 した デー タ に基 づ い て 在 米 日系 人 の社 会 的 同化 を さ ま ざ ま な 角 度 か ら研 究 して き た 。1983年 と 1993年 に ユ タ州 全 域 とロサ ン ゼ ル ス郡 の 日系 人 を 対 象 と した調 査 が そ の 中核 とな って い る。 そ れ は 従 来 の 「理 論 的 背 景 か ら導 か れ た 仮 説 を統 計 的 デ ー タ に よ り検 証 す る 」 とい う ス タ イ ル を 踏 襲 し た も の で あ る 。 そ の 一 方 で 、 中 野(1981)が 指 摘 す る よ う に 、 「性 別 ・年 齢 別 ・階 層 別 ・職 業 別 と い っ た 集 団 化 を 急 ぎ 、 そ の よ う な 観 点 か ら の 説 明 へ の 早 あ が りの な か で 、 個 性 を も っ た ま ま の 諸 個 人 を と ら え そ こ な っ て き た こ と」も 否 定 で き な い 。2)同 化 理 論 に つ い て は 、Gordon, Milton M. Assimilation in American Life. Oxford University Press.1964.(邦 訳:倉 田 和 四 生 ・山 本 剛 郎 訳 編 「ア メ リ カ ン ラ イ フ に お け る 同 化 理 論 の 諸 相 』2000年 晃 洋 書 房)、 ま た 日系 人 の イ ン タ ー マ リ ッ ジ に つ い て は 、 東 元 春 夫(1996)「 在 米 日系 人 の イ ン タ ー マ リ ッ ジ ー 一ユ タ 州 で の 調 査 か ら 一一」 『移 民 研 究 年 報 』 第2号pp.65-88.を 参 照 。
京 都 女 子 大 学 現 代 社 会 学 研 究 187 表1.寺 澤 畊 夫 と 『ユ タ 日報 』 略 史(事 実 と言 説) 1872.2.4. 岩 倉 具 視 一 行(日 本 出 発 時107名)が ユ タ 州 を 訪 れ る(現 地 新 聞 ・他 よ り)。 1881.3.11.畊 夫 誕 生:長 野 県 下 伊 那 郡 山 吹 村679番 地 ロ 号 。 父 ・興 太 郎(き ょ う た ろ う)、 母 ・佐 野 の 長 男(戸 籍 謄 本 一 以 下 「戸 籍 」 と略 す 一 よ り) 1894.8.1. 日清 戦 争 (13歳) 1896.7.8. 國 子 誕 生:長 野 県 下 伊 那 郡 飯 田 町 甲1373番 地 。 父 ・金 太 郎 、 母 ・「き う」 の 次 女(戸 籍 よ り)(こ の 年 、 ユ タ が 米 国45番 目の 州 と し て 合 衆 国 に 加 盟) 1903. 郡 書 記(22歳)(追 悼 文 ・原 稿 お よ び 紙 面 よ り) 1904.2.10. 日露 戦 争 (22歳)(1905.5.27-28.日 本 海 海 戦 1905.9.5.日 露 講 和 条 約 調 印) 1905. 畊 夫 渡 米(『 山 中 部 と 日 本 人 』 よ り。 畊 夫 の 「発 状 控 」 で は 「3月2日 桑 港 着 」)(23歳) 1906.4.18.サ ン フ ラ ン シ ス コ で 地 震 と大 火 1907.ll.16-1908.2.187回 の 覚 書 交 換 に よ る 日 米 紳 士 協 約(日 本 側 の 自 主 規 制 約 束) 1907. ユ タ 州 初 の 日本 語 新 聞 「絡 機 時 報 』 創 刊(オ グ デ ン に て 飯 田 三 郎) 1908. 『絡 機 時 報 』 ソ ル ト レ ー ク シ テ ィ で 再 刊(飯 田三 郎 の 弟 四 郎 に よ る) 1909. 畊 夫 ソ ル トレ ー ク シ テ ィ へ 移 動(『 山 中 部 と 日本 人 』 よ り。 畊 夫 の 郵 便 物 で 確 認)(28歳) 1910. 同 胞 農 家 パ イ オ ニ ア と し て ソ ル ト レ ー ク シ テ ィ 郊 外 の 野 菜 園 で 約3年 間 経 営 。 「ユ タ セ ロ リ」 の 開 発 者 と し て 「百 姓 寺 澤 」 と称 さ れ る(紙 面 よ り)。 1911. 日韓 併 合 1914.7.28.第 一 次 世 界 大 戦 (33歳) 1914.11.3. 「ユ タ 日報 』 創 刊(紙 面 よ り)(33歳) 1919.1.10-14在 米 日本 人 会 定 期 代 表 者 会 に 「ユ タ 州 日 本 人 会 代 表 者 」 と し て 出 席(38歳)(議 事 録 よ り) 1921.12.21.國 子 と結 婚(入 籍)(旧 姓 村 松 。 戸 籍 名 は 國)(戸 籍 よ り)(40歳)(國 子25歳) 1926.8. 長 女 ・和 子 誕 生(戸 籍 よ り)(45歳) 1927.9.25. 「絡 機 時 報 』 を 吸 収 合 併(紙 面 よ り)(46歳) 1932.5.28.次 女 ・治 子 誕 生(戸 籍 よ り)(51歳) 1937.7.7. 蘆 溝 橋 事 件(日 中 戦 争 始 ま る)(56歳)) 1939.4.24.畊 夫 没(56歳)(紙 面 お よ び 戸 籍 よ り)(國 子42歳 、 和 子12歳 、 治 子6歳) 1939.9.1. 英 語 ペ ー ジ を 新 設(紙 面 よ り) 1941.12.7.真 珠 湾 攻 撃 に よ り太 平 洋 戦 争 始 ま る 。 翌 年2.月 ま で 発 行 中 断(紙 面 よ り) 1966. ソ ル トレ ー ク シ テ ィ の 日本 人 町 解 体(4.月 ∼5月 強 制 退 去)(後 藤 武 男 「公 共 の た め に は 」 「文 芸 春 秋 』 1996年11月 号pp.87-89.)(國 子69歳) 1991.8.2. 寺 澤 國 子 没(94歳)(他 紙 紙 面 お よ び 葬 儀 次 第 よ り) (1998年4月 東 元 春 夫 作 成 2000年9月 修 正) ラ イ フ ヒ ス ト リ ー の 主 流 で あ る 「口 述 」 に よ る 方 法 は 、 本 人 が1939年 に 死 去 し て い る こ と か ら不 可 能 で あ るが、 こ こで は残 さ れ た手 紙 や 写 真 そ の 他 の ドキ ュ メ ン トに よ り、 「歴 史 的 現 実 の 再 構 成 」 (中 野:1995)を 試 み る 。 ユ タ 日報 社 に 保 存 さ れ て い る資 料 を 整 理 す る プ ロセ ス で は 、 「歴 史研 究 の 門外 漢 と して の社 会 学 者 」 に何 が で き る か不 安 に 陥 っ た が 、 「社 会 学 は 方 法 の科 学(方 法 論 に独 特 の特 徴 を もつ科 学)で あ る か ら、 研 究 対 象 につ い て い え ば、 社 会 学 者 は そ こに社 会 現 象 が あ るか ぎ り、 そ れ が い か な る も の で あ ろ う と も 、 貪 欲 に 研 究 対 象 と す る 」 と い う河 西 宏 祐(1992)に 習 う こ と に し た 。 筆 者 の 研 究 と の か か わ り に お い て は 、谷(1996) が 「ラ イ フ ヒ ス ト リー 法 の 共 通 理 解 」 と し て 挙 げ て い る10項 目 の う ち 、 次 の4点 が 特 に 重 要 で あ る 。 (1)ラ イ フ ヒ ス ト リー 法 は 、 異 文 化 を 対 象 と し、 そ れ を人 間行 動 の動 機 に遡 っ て 内面 か ら理 解 し よ う と す る と き、 よ り効 果 を 発 揮 す る 。 (2)ラ イ フ ヒ ス ト リ ー 法 は 、 個 人 の み な らず 、 マ ク ロ な 組 織 、 制 度 、 シ ス テ ム も視 野 に 入 れ 、 個 人 史 と社 会 史 、主 観 的世 界 と客 観 的 世 界 、 これ ら の連 動 関 係 を把 握 し よ う とす る。
188 「ユ タ 日報 』 創 設 者 ・寺 澤 畊夫 の ラ イフ ヒ ス トリー的 研 究 序 論 (3)デ ー タ と し て の ラ イ フ ・ヒ ス ト リ ー に は 代 表 性 や 客 観 性 が 欠 け る との 批 判 が あ る け れ ど も 、 個 別 を 通 して 普 遍 に い た る こ とは 可 能 で あ り、 個 性 記 述 の 蓄 積 を 通 し て 類 型 構 成 へ の 道 が 開 か れ て い る 。 (4)ラ イ フ ・ヒ ス ト リ ー な ど の 質 的 デ ー タ と量 的 ・統 計 的 デ ー タ との 相 互 補 完 に よ っ て 、 よ り豊 か な 研 究 成 果 を 生 み 出 す こ とが で き る。 こ の ラ イ ン を 視 野 に 入 れ つ つ 在 米 日 系 人 の 研 究 を 進 め た の が 、 「ソ ル ト レ ー ク シ テ ィ ー 日本 人 町 の 消 滅 」、 「戦 時 強 制 収 容 と構 造 的 同 化 」、 「1916年 の ユ タ 州 日系 コ ミ ュ ニ テ ィ 」、 「在 米 日 系 人 の イ ン タ ー マ リ ッ ジ 」(東 元:1994;1995a;1995b;1996) で あ っ た 。 い ず れ も 全 面 的 に ラ イ フ ヒ ス ト リ ー 的 ア プ ロ ー チ を と る も の で は な い が 、 少 な く と も部 分 的 に は そ の 手 法 を 取 り 入 れ る こ と に よ り、 「個 人 と い う フ ィー ル ド」 を 意 識 し た 試 み で あ る。 な お ラ イ フ ヒ ス ト リー の 手 法 を 使 っ た 最 近 の 研 究 と して 、 東 京 経 済 大 学 の 研 究 グ ル ー プ に よ る ハ ワ イ 日系 人 二 世 に 関 す る 調 査 報 告 が あ る(山 中 、 山 田 、 ロ ス:2000)。 こ の 「資 料 」 は 、 そ の シ ス テ マ テ ィ ッ ク な 調 査 方 法 の み な ら ず 、CD-ROM 化 に よ り音 声 お よ び 映 像 を も 含 め て 提 供 さ れ て い る と い う点 で 特 筆 に値 す る 。 こ こで は 「個 人 」寺 澤 畊 夫 と い う 「フ ィ ー ル ド」 を 中 心 に 、 渡 米 か らユ タ 州 定 住 ま で の プ ロ セ ス を ラ イ フ ヒ ス ト リー 的 ア プ ロ ー チ に よ り吟 味 す る。 そ れ に よ っ て 「個 人 」 お よ び 日系 コ ミ ュ ニ テ ィ と い う 「集 団 」 の 関 係 とそ れ を 取 り巻 く当 時 の ア メ リ カ 「社 会 」 に 関 す る 理 解 を 深 め よ う とす る試 み で あ る 。
皿 資料紹介 と考察
1.日 本 出発 前 この 小論 の ス コー プ か らは外 れ る が、 全 体 像 を 明 らか にす るた め に渡 米前 の寺 澤 畊 夫 の事 情 を把 握 して お く必 要 が あ る。 1.1.新 聞 記 事 よ り 畊 夫 死 亡 時 に 『ユ タ 日 報 』(1939.5.10.)に 掲 載 さ れ た 「故 社 長 略 歴 」 に よる と、1881年3月11日 長 野 県 下伊 那 郡 山 吹村 の 「名 家 」 の 父 、 興 太 郎(き ょうた ろ う)と 、 母 佐 野(さ の)の 長 男 として 誕 生 。 父 は 「村 治 に携 っ て功 あ り、 且 つ教 育 家 として 誉 れ 高 く文 部 省 よ り褒 賞 の 沙 汰 あ り」。(畊 夫 は) 年 少 時 よ り既 に進 取 の 気 象 先 覚者 を凌 ぐ風 あ り、先 ず 中学 敷 地 問 題 の 紛 々た る銅 臭 を排 し、 正 義 の 言 論 を吐 き、 郷 党 青年 の首 領 と して大 に言 論 界 を開 拓 し、 青 春22歳 郡 書記 の重 職 を 拝 命 し早 くも公 人 生 活 に入 る 時 し も新 日本 興 国 に際 し養 蚕 、新 産 業 、 其 他 実 業 大 発 展 に際 し、 私 財 を 投 じ公益 を擴 め られ た る厳 父 は 、 為 に 巨万 の 負 債整 理 の逆 境 に立 つ、 畔 夫 君 は 父 を助 け て 苦 難 を切 り抜 く るた め に努 力 し、 や が て 氏 が 生 涯 を通 じて の 奮 闘 的 生 活 の 門 出 をな した るか 。 寺 澤 氏 は 明治38年4月 寺 澤 家 の 家運 を北 米 の天 地 に開 拓 せ ん と決 心 渡 米 す 。 1.2.戸 籍 と聞 き取 り調 査 に よ り 筆 者 が 入 手 した 「戸 籍 」 等 に よ り、 畊 夫 を 中 心 とす る寺 澤 家 の親 族 関 係 を示 した の が 、 図1で あ る。 さ らに生 存 す る親 族 か らの 聞 き取 り調 査 に よれ ば、 渡 米 前 に畊 夫 は 奈 良 県 在 住 の叔 父 、忠 次郎 に 相 談 に行 って い る。 当 時 小 学 校 の校 長 を して い た 忠 次 郎 は 「叔 父 が 先 に渡 米 す べ き」 と考 え 、本 人 よ り先 に渡 米 した とい う。1911年 帰 国 し、10年 間 の在 米 生 活 を も とに 『亜 米 利 加 土 産 』(1912)を京 都 女 子 大 学 現 代 社 会 学 研 究 189 図1 寺 澤 畊 夫 と叔 父 ・忠 治 郎 (親族 関 係 図) 著 し て い る 。3) 2.カ リフ ォル ニ ア で の足 跡 渡 米 後 の 足 跡 に つ い て は不 明 な部 分 が多 い。 娘 の和 子 と治 子 に よ れ ば 母親(國 子)か ら畊 夫 が 日本 か らまず シ ア ト ル に 着 い た こ とを 聞 い て い る が、 発 見 され た 記 録 と し て は 畊 夫 の 「発 状 控 」 に よ る 「1905年3月2 日桑 港(筆 者 注 、 サ ン フ ラ ン シ ス コ)着 」 だ け で あ る 。 2.1.郵 便 物 に よ り この 「発 状 控 」 は 自分 の発 信 した手 紙 の写 しで あ る。 当時 日米 間 は 船 で 18日 ほ ど か か る た め 、 手 紙 が 往 復 す る の に 最 低 で 40日 を 要 し た と推 定 さ れ る 。 そ の た め 、 日米 間 で (1998年4月 東 元 春 夫 作 成:2000年9月 修 正) 頻繁 に手 紙 を送 受 す る畊 夫 な どに とって は、 いつ 誰 に どの よ う な 内容 の 手 紙 を送 っ た か を 記 録 し 3)忠 次 郎 お よび 親 族 関 係 に つ い て の補 足 (注1)忠 次 郎 は 前 妻(倉 田 家 の 娘)と の 間 に 丁 十(て い じ ゅ う ・男 子)と 敏 子 が 生 ま れ た 。 敏 子 は 岡 山 県 人 の ウチ ダ家 に嫁 ぎサ ン フ ラ ン シ ス コに住 ん で い た。 映画 監 督 で有 名 な トム ・ウチ ダ と親 戚 関 係 に な る。 (注2)オ シ ン は1998年 長 野 県 下伊 那 郡 高森 町 山 吹 で死 去(100歳) (上記2項 目 とも畊 夫 の 従 兄 弟 の 寿忠 氏 との ・イン タ ビ ュー よ り。1998.3.31.) (注3)戸 籍 に よれ ば 畊 夫 の姉 の 只(た だ)は 小 池 家 に嫁 ぎ離 婚 後 、松 澤 熊 太 郎 と結 婚 … 「只 は朝 鮮 へ嫁 ぎ そ こで 子 供 を 産 ん だ 」(畊 夫 の 従 兄 弟 の 寿 忠 氏 との イン タ ビ ュー よ り。1998.3.31.) (注4)戸 籍 に よれ ば 畊 夫 は1921年 に國(く に)と 結 婚 す る前 の1917年 に実 姉 、 只(た だ)の 長 男 で あ る實 夫 を養 子 に して い る 。… 「寺 澤 家 の 跡 取 りを し た くな い の で養 子 を 迎 え て 自分 の 代 わ りに跡 取 りに し よ う と し た 」(畊 夫 の従 兄弟 の寿 忠 氏 との イン タ ビ ュー よ り。1998.3.31.) (注5)ナ ラ エ が亡 くな っ て か ら3歳 上 の 清 忠(1916年 生 ま れ)は オ シ ン に預 け られ 、 寿 忠 は シ ズ(子)に 預 け られ た 。 次 女 の シ ズ(子)は48歳 で 没 。 清 忠 は 今 宮 工 業 の 二 部 で 溶 接 を 学 び 、 大 阪 鉄 工 所 に 定 年 ま で 勤 め る (現在 、 大 阪 市 在)。 寿 忠 は1919年 生 まれ 。 中学 卒 業 後 、 逓 信 関係 の仕 事 に つ き、学 校 で 教 え た が 、 そ の 後 退 職 し て 新 宮 へ 移 り、 長 く寺 沢 塾 を経 営 。 現 在 は寺 沢 塾 を や め た が 、 現 役 の 塾 の 教 師(新 宮 市 在 住)。1982.9.- 1987.5.留 学(当 初 異 母 姉 の敏 子 を頼 って サ ン フ ラ ン シ ス コ州 立 大 学 の 語 学 学 校 。 そ の 後1983.5.オ ハ ・イオ 州 ア シ ュ ラン ド ・カ レ ッジ へ 移籍)(畊 夫 の 従 兄 弟 の 寿 忠 氏 との イン タ ビ ュー よ り。1998.3.31.) (注6)畊 夫 の 長 女 和 子 に よれ ば 、 畊 夫 は渡 米 前 忠 次 郎 に相 談 した と こ ろ、 叔 父 が 先 に 渡 米 す べ き と考 え 、 本 人 よ り先 に渡 米 した 。… 忠 次 郎 は 慶 応2年(1866)10.月 生 ま れ。 長 野 県 師 範 学 校 を 明 治16年(1883)7月 に 卒 業(18歳)。 同 校 で 第1回 の 小 学 校 教 員 免 許 を取 得 。 卒 業 後 す ぐ長 野 県 で校 長 に な った 。 当 時 は 正 式 教 員 が め ず ら し く正 式 の 免 許 が あ れ ば若 くて も校 長 に な れ た とい う。 そ の後 奈 良 県 北 葛 城 郡 の 新 庄 小 学 校 の校 長 を して い た 。 ナ ラ エ の 実 家 の 村 野 家 は昔 、 そ この 城 主 の 家 老 を し て お り、 平 民 の 忠 次 郎 が 結 婚 を 申 し込 ん だ と きは 「どこ の 馬 の 骨 か わ か らぬ者 へ娘 を 嫁 に は や れ ぬ 」 と一 度 は断 られ た 。 そ の 後 、 村 野 家 が 長 野 へ 調 べ に 行 って 結 婚 が許 可 さ れ た とい う。 ち な み に昔 は 山 吹村 で 「北 」 とい え ば 寺 澤 家 、 「西」 とい え ば 倉 田家 で 、 自宅 か ら他 人 の 敷 地 を通 らず に駅 ま で行 け た ら しい(注 、 この1文 に 関 して は 寺 澤 和 子 か らも 同様 の 発 言 あ り)。 い ず れ に せ よ、 忠 次郎 は17年 間校 長 を して い た が、 畊 夫 が 渡 米 の 相 談 に奈 良 まで 来 た時 、 急 に 自分 も行 きた くな った ら し く、 校 長 を や め 妻 子 を残 して 急 に渡 米 し た ら しい 。 妻 の ナ ラ エ も行 きた か っ た ら しい が 、 これ か ら横 浜 を 出 発 す る とい う知 らせ を 突 然 聞 い た とい う。(畊 夫 の 従 兄 弟 の 寿忠 氏 との ・イン タ ビ ュー よ り。1998.3.31.) (注7)ソ ル トレー ク シ テ ィの 畊 夫 の 墓 碑 の 日本 語 は 寿 忠 が書 い た(畊 夫 の 従 兄弟 の 寿 忠 氏 との イ ン タ ビ ュー よ り・1998.3.31.寺 澤 和 子 に確 認 ・1999.2.7.)
図2 郵 便 物(手 紙 ・葉 書)に 見 る寺 澤 畊 夫 の 足跡 (place) (1998年4月 東 元 春 夫 作 成:2000年9月 修 正) 1905 1906 1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913 1234567890ND1234567890ND1234567890ND1234567890ND1234567890ND1234567890ND1234567890ND1234567890ND1234567890ND San Francisco Oakland Fresno Tulare Fillmore 5 8* 3** 2 notebook) 8 (mails) 5 5 (mails) 6 8--- Los Angeles (no mails)
Stine, Nevada Frisco, Utah Salt Lake City
P,O.Box 294 4701 South 11th East #34 Richard Street. Rt 0 (Uneo's 1 (mails) 4 4 —7(3 7(3 mails) 7 (mails) N N 3 D 9 294 7 * 8/14/05 Addressed ** 3/22/06 Rec'd: c/oto: c/o Mr. C
Mr. C. Terasawa 59 Minna Terasawa. 839 Sacramento St. St. San San Francisco; Francisco
Corrected to read: Kamikawa Hotel #1538 Kern St. Fresno
(参考1)
畊 夫 は1912年 当 時 Garden Growerと して(寺 澤 農 園)ソ ル トレー ク シ テ ィの郊 外(南)210E 12th Southに いた が、 P.0. Box l l68も 郵便 物 の 受信 に使 っ て いた 。 このP.0.Boxは 絡 機 時報(Rocky Mountain Times)の 所 有 で あ る。
(1910年2月21日 着 信 の年 賀状 に は 「米 国 ユ タ州 ソー トレー キ 、 ロ ヅキ ー 時 報 社 内 寺 澤畊 夫 殿 」 とあ る) (参考2) 葉 書:2/1/11(発 信)2月2日 午 後7時 か ら評 議 員 会 議 題:サ ン フ ラ ン シ ス コ か ら帰 った 有 馬 氏 の 報 告 葉 書:2/17/11(発 信)2月19日(日)午 後8時 か ら 日本 人会 事 務 所 で評 議 員 会 葉 書:1/10/12(発 信)「 明 け ま して お 目出度 う。 来 る十 四 日、 日曜 に千 代 田旅 館 に於 て?三 回例 会 を催 しま す か ら同好 御 誘 の上 御 出席 に成 り度 御 案 内 申上 ま す。 正 月 の 事 とて 特 に今 回 は 午 后 一 時 よ り歌 骨 牌??等 用 意 致 して 待 ち う け居 ります 同好 の 方 は お 遠?に 及 ば ず御 手 な み を示 しな さ れ度 午 後 七 時 よ り例 会 開会 幹 事 の苦 心 にな る面 白い プ ログ ラム で?を 落 す と落 さぬ は 諸 君 の お?手 、(以 下 不 明) 四十 五 年 一 月 十 日 在 温 倶 楽部 当幹 事 」 (注、?は 解 読 不 明の 箇 所 を示 す) 葉 書:5/13/12(発 信)在 温 倶 楽 部 発 起 人 会 「拝 啓 兼 テ御 意 ヲ得 置 候 在 温 倶 楽 部 常 設 場 ノ儀 愈 ヨ千 代 田旅 館 内 第 四 号室 二決 定 仕 候 間一 角 後 御 内暇 ノ際 ハ 御 来 遊 被 下 度 此 段御 通知 旁 々御 案 内 申上 候 也 五 月 十 三 日 発 起 人 」 葉 書:7/5/12(発 信)7月7日 午 後1時 か ら 日本 人 会 事 務 所 で 評 議 員 会 葉 書:7/19/12(発 信)7.月27日 午 後7時 か ら千 代 田旅 館 で 総会 葉 書:7/31/12 カ リフ ォル ニ ア 州 フ レス ノ発 「富樫 喜一 儀 急性 腹 膜 炎 に て薬 石 効 な く本 日午 前 参 時 貳 拾 分 死 去仕 候 間此 段 御 知 らせ 申上 候 敬 白 七 月 参 拾 壱 日 妻 富樫 美 輪 「布 市 」(手 書 き) 組 合教 会 追 て葬 送 は来 る八 月 一 日午 后 三 時 組 合 教 会 にて執 行 可仕 候 「寺 澤 日本 人 会 幹 事 」(手 書 き)殿 」 葉 書:8/7/12(発 信)「 当会 定 期 役 員 会 ヲ来 ル 十 一 日(日 曜)午 後 一 時 ヨ リ開催 致 候 問御 出席 被 下 度 此 段 及 御 通知 候 也 大 正 元 年 八 月 七 日 ユ タ州 日本 人 会 」 葉 書:10/11/12(発 信)日 本 人会 よ り畊 夫 宛(宛 先:210El2th S St. POBox 1564)「 来 ル13日(日 曜)午 後1時 ヨ リ定 期 役 員会 開催 仕?二 付御 出席?下 度?也 」 (ユ タ州 日本 人 会) 葉 書:5/22/13(発 信)5月25日(日)午 後2時 か ら特 別 委 員会 開催 の連 絡 (参考3) 1918年3月8日 発 、 北 海 道 北 見 中頓 別 、 岩 田猛 五 郎 氏 か らの 郵 便 物 は米 国 で の 検 閲 の 跡 が あ る が 、 宛 先 と して 「亜 米 利 加 エ ム デ イ鑛 山株 式 会 社 長 兼 総 支 配 人 大 和 土 地 物 産 株 式 会社 副社 長 兼 取 締 役 ユ タ 日報 社 長 寺 澤 畊 夫 殿 」 とあ る。 以上 お 0 N
黒
d 塾 靆 ㊦ 畑 ペ プ こ fた 、 明 治 版 「通 信 ロ グ 」 と し て 機 能 し て い た と考 え ら れ る 。 こ の 「発 信 記 録 」 と届 い た 郵 便 物 の 「受 信 記 録 」、 す な わ ち ユ タ 日報 社 に 残 さ れ て い た 手 紙 や 葉 書 を も とに 、 畊 夫 の 足 跡 を 辿 っ た の が 、 図2で あ る 。 こ れ は 郵 便 物 の 受 信 記 録(宛 名 と 消 印)に よ り 「場 所 」 と 「時 期 」 を 集 計 し た も の で あ り、 必 ず し も そ の 「時 期 」 に そ の 「場 所 」 に い た こ と を 示 す も の で は な い 。 カ リ フ ォル ニ ア 州 で も 複 数 の 場 所 で 受 信 し て い る こ と か ら、 そ の 場 所 を 往 復 し て い た の か 、 あ る い は 主 と し て 一 箇 所 に 留 ま り、 時 々 他 の 場 所 を 訪 れ て い た の か は 不 明 で あ る 。 図2 の サ ン フ ラ ン シ ス コ で の 住 所 で"c!oMr.C. Terasawa"と な っ て い る の が 、 叔 父 の 「忠 次 郎 」 と推 察 さ れ る 。 な お 「受 信 郵 便 物 」 の 多 く と こ の 「発 状 控 」 は 「くず し た 字 」 で 書 か れ て い る た め 解 読 が 困 難 で あ る 。 こ れ ら の 「内 容 分 析 」 が 進 め ば さ ら に 「足 跡 」 や そ の 他 の 事 情 が 解 明 さ れ よ う 。 2.2.名 刺 等 に よ り 『ユ タ 日報 』 の 社 屋 か ら 次 の2枚 の 名 刺 が 見 つ か っ た 。 ひ と つ は"U. TERASAWA GENERAL LABOR CONTRAC-TOR K STREET TULARE, CAL"で あ り、 電 話 番 号 欄 は 空 白 に な っ て い る 。 も う 一 つ は "JAPANESE AMERICAN REALTY IN-VESTMENT COMPANY/JAPANESE LABOR CONTRACTORS 1541 KERN STREET FRESNO, CALIFORNIA TEL. CHINA 571"日 本 語 で 左 端 に 縦 書 き で 「日米 農 業 合 資 會 社 」 と あ る 。 こ れ は 個 人 名 が 書 か れ て い な い の で 、 会 社 で 共 有 し た 名 刺 と考 え ら れ る 。 こ の2種 類 の 名 刺 を 前 述 の 図2 と併 せ て 考 え る と、 カ リ フ ォル ニ ア 州 テ ユ レ ア で 郵 便 物 を 受 け 取 っ て い る1907年12.月 か ら翌 年8.月 の 期 間 は 同 地 域 で 労 働 請 負 の 仕 事 を し て い た も の と推 察 さ れ る 。 京 都 女 子 大 学 現 代 社 会 学 研 究 191 2.3.「 手 帳 」 に よ り な お こ れ を 補 足 す る 資 料 と し て1909年 に 布 市(筆 者 注 、 フ レ ス ノ)神 川 兄 弟 銀 行 ・神 川 兄 弟 商 会 の 「懐 中 便 覧 」 が あ る 。 こ れ は 、 労 働 請 負 人 の ハ ン ドブ ッ ク の よ う な も の で 、 「労 働 タ イ ム ブ ッ ク 」 の ペ ー ジ に は 同 年4月 な ど の 自 分 自 身 を 含 む 「労 働 者 」 リ ス ト と労 働 の 記 録 が 書 か れ て い る 。 し た が っ て ま だ こ の 時 期 に は カ リフ ォ ル ニ ア 州 中 部 を 活 動 の 本 拠 と し 、 そ の 後 ユ タ 州 に 移 動 し た と推 察 さ れ る 。 3.カ リフ ォ ル ニ ア か ら ユ タ へ 3.1.「 一 攫 千 金 」 を 夢 見 て 前 述 の 「故 社 長 略 歴 」 に よ る と、 渡 米 後 「直 ち に 中 部 加 州(筆 者 注 、 カ リ フ ォ ル ニ ア 州)の 農 事 に 携 は り」、 「1909 年8月 羅 府(筆 者 注 、 ロ サ ン ゼ ル ス)よ り ソ ー ト レ ー キ 市 に 入 る」 と の 記 述 で あ る 。 こ の 「農 事 に 携 は り」 と は 「現 実 に 農 場 労 働 を 行 っ た 」 の か 、 あ る い は 「労 働 請 負 の 仕 事 だ け を 行 っ た 」 の か 解 明 を 要 す る が 、 フ レ ス ノ で の 「懐 中 便 覧 」 の メ モ か ら推 察 す る と寺 澤 自身 も何 ら か の 労 働 に 従 事 し て い た の で あ ろ う。 ロ サ ン ゼ ル ス で の 郵 便 物 の 受 信 の 記 録 は な い 。 地 図 の 上 で は フ ィル モ ア が 比 較 的 ロ サ ン ゼ ル ス に 近 い の で 、 上 記 「略 歴 」 の 筆 者 が 「ロ サ ン ゼ ル ス 近 郊 」 と い う意 味 で 用 い た の か も し れ な い 。 さ ら に こ の 「便 覧 」 メ モ 欄 の 最 後 の 方 に 、 「ユ タ 州 オ グ デ ン 市 」 の 住 所 の 記 載 が あ る 。 こ の 時 点 で 、 少 な く と も 同 市 の だ れ か と連 絡 を と っ て い た 可 能 性 も あ る 。 3.2.銀 山 で の1年 図2が 示 す よ う に 、 1908年4月 か ら翌 年7月 ま で ユ タ 州 ブ リス コ で の 郵 便 受 信 の 記 録 が あ る 。 ブ リ ス コ は ユ タ 州 南 部 ビ ー バ ー 郡 の 砂 漠 地 帯 に 位 置 し(図3参 照)、 今 で は い わ ゆ る 「ゴ ー ス ト ・タ ウ ン 」 の ひ とつ で あ る。 そ の 町 は1870年 代 半 ば に 銀 の 発 見 に よ り人 々 を 引 き つ け 、1880年 か ら85年 ご ろ に は6000人 が 居
192 「ユ タ 日報 』 創 設 者 ・寺 澤 畊夫 の ラ イフ ヒ ス トリー的 研 究 序 論 図3 畊 夫 の 足 跡 ・略 図 住 し て い た が 、1885年 に 鉱 山 の 陥 没 事 故 を き っ か け に 人 口 が 急 減 、1920年 ま で に は 居 住 者 が い な く な っ た(カ ー:1972)。 寺 澤 畊 夫 が 郵 便 物 を 現 地 で 受 信 し て い た 時 期 は 、 こ の 陥 没 事 故 か ら20年 以 上 が 経 過 して い る が 、 そ れ で も1885年 か ら1913年 の 間 に2,000億 ド ル の 産 出 力 が あ っ た(カ ー: 1972)。 寺 澤 が こ こ で ど の よ う な 活 動 を 行 っ て い た か は 不 明 で あ る が 、後 に な っ て 起 こ す 「エ ム デ ー 鉱 山 株 式 会 社 」(ネ バ ダ 州)や ワ イ オ ミ ン グ 州 で の 油 田 採 掘 な どの ベ ン チ ャ ー ビ ジ ネ ス へ の 布 石 と も解 釈 可 能 で あ る 。 4.ユ タ へ 到 着 4.1.「 百 姓 寺 澤 」 何 が 彼 を 「ユ タ」 の 地 へ 導 い た の か 。 現 在 の と こ ろ そ れ を 示 す 資 料 は 見 つ か っ て い な い。 唯 一一の 手 が か りは 前 述 した フ レス ノ で の 「懐 中便 覧 」 に書 かれ た オ グ デ ン市 の住 所 で あ る。 「故 社 長 略 歴 」 に は 次 の よ うに 書 か れ て い る。 全 年(筆 者 注 、1909年)11月3日 明 治 大 帝天 長 の佳 晨 に際 し、 初 め て 塩 湖 同胞 を 代表 して祝 賀 を述 べ られ し が氏 が 山中 部 に於 け る公 人生 活 実 に30ヶ 年 の1頁 に該 当 す 1910年 同胞 農 家 パ イオ ニ ヤ ー の 一 人 として塩 湖 市 郊 外 野 菜 園 に入 り其 所 に氏 が 全 生涯 を飾 る奮 闘努 力 の歴 史 は展 開 す 又 農 務 多忙 中新 世 界 支 社 の煩 務 を擔 当 し後 年 一 新 聞 社 の 長 として の 実 務 を習 得 さ る 是 等 の 劇 務 に も屈 せ ず 氏 独 特 の進 取 的研 究 は一一 日 も忽 がせ にせ ず 、 秘 密 とせ るセ ロ リ栽 培 法 を 探 知 し是 とグ リン タ ップ 種 と花粉 交 合 に よ る新 種 を発 明 し且 つ其 貯 蔵 法 を 考 案 し是 を私 せ ず独 り同 胞 間 の み な ら ず普 く米 国 々産 を 増 進 す る 等 。 直 接 農 事 経 営 は 三 ヶ年 の短 期 な りし も氏 が 熟 達 と老 練 は能 く此 大 功 を樹 て 、 時 人 呼 ん で百 姓 寺 澤 と称 す る に至 る。4) 郵 便 物 か らは ソル トレー クシ テ ィ よ りか な り南 に位 置 す る住 所"4701South llth East"で1910 年3月 か ら同年12月 まで の 期 間 の 記 録 が あ るが 、 同時 に 同年2月21日 着 信 の 年 賀 状 には 「ロ ッキ ー 時 報 社 内寺 澤 畊 夫 殿 」 と記 され て い る。 ま た 日本 の私 書 箱 に 当 た る P.0.Box で の 受 信 の 記 録 が 1909年11月 か ら1911年9,月 まで あ る。 これ は都 心 の郵 便 局 で郵 便 物 を受 け 取 って い た こ とを意 味 す る。 した が っ て この 時 期 は 市 の 南 方 で農 園 を営 み な が ら市 の 中心 部 とも行 き来 して 、 後述 す る新 聞 社 関 連 の 仕 事 や 日本 人 会 な ど政 治 的 活動 を して い 4)こ の 記 事 の 原 稿 と思 わ れ る 「寺 沢 氏 葬 式 順 」(著 者 不 明 。 ユ タ 日報 社 屋 で 発 見)に は、 セ ロ リに つ い て 「当 時支 那 人 の み秘 密 とせ る セ ロ リー栽 培 法 」 とあ る。
京 都 女 子 大 学 現 代 社 会 学 研 究 193 図4 1910年 頃 の 絡 機 時 報 社(写 真) (右 か ら2人 目が寺 澤 畊 夫 、 左 か ら2人 目が 飯 田四 郎) た の で あ ろ う。 4.2.『 絡 機 時 報 』 へ 居 候 こ の よ う に 農 業 を し な が ら 「新 世 界 通 信 員 」 を し て い た こ とは1924 年 『絡 機 時 報 』(ろ っ き 一 ・じ ほ う)発 行 の 『山 中 部 と 日本 人 』 に も書 か れ て い る 。 「新 世 界 」 と は 当 時 サ ン フ ラ ン シ ス コ で 発 行 さ れ て い た 日本 語 新 聞 で あ る が 、 寺 澤 が こ の 新 聞 と関 わ っ て い た こ とは 発 掘 さ れ た 他 の 資 料 か ら も 明 ら か で あ る 。 こ れ に つ い て は 別 稿 に お い て 触 れ た い 。 ま た 『絡 機 時 報 』 社 屋 前 で の 記 念 撮 影(図4)に 同 紙 社 長 の 飯 田 四 郎 ら と写 っ て い る 日本 人9名 の 中 に 寺 澤 の 姿 が あ る 。 こ れ ら の 資 料 が 示 す の は 少 な く と も 「1909年 に ソ ル ト レ ー ク シ テ ィへ 移 動 し て 直 ち に 新 聞 社 関 連 の 仕 事 を 始 め て い た 」 と い う こ とで あ る。 カ リ フ ォ ル ニ ア 時 代 か ら既 に 『新 世 界 』 と何 ら か の 関 係 を も っ て い た と も考 え られ る が 、 あ く ま で 推 測 の 域 を 出 な い 。 4.3.日 本 人 会 と の 関 わ り 前 述 の 「故 社 長 略 歴 」 が 示 す よ う に 、1909年8月 に ユ タ に 移 っ て 直 ち に 現 地 の 日 本 人 組 織 と接 触 し、 早 く も11月3日 に は 「明 治 大 帝 天 長 の 佳 晨 に 際 し、 初 め て 塩 湖 同 胞 を 代 表 し て 祝 賀 を 述 べ 」 て い る 。 さ ら に 発 見 さ れ た 郵 便 物 か ら 日本 人 会 の 「評 議 員 会 」 や 「役 員 会 」 の 案 内 が 多 く見 ら れ る 。 後 年 に な る が 、1919 年 に は ユ タ 州 日本 人 会 の 「代 表 」 と し て サ ン フ ラ ン シ ス コ で 開 催 さ れ た 「在 米 日本 人 会 定 期 代 表 者 会 」 に 出 席 、5) ま た 死 亡 時 の1939年 に は 「ユ タ 州 日 本 人 会 」 の 「公 告 」 に は 「本 会 会 長 兼 幹 事 」 5)大 正8年1月(1919年)在 米 日本 人 会 「在 米 日本 人 会 大 正8年 度 定 期 代 表 者 会 議 事 録 」 よ り。
194 「ユ タ 日報 』 創 設 者 ・寺 澤 畊夫 の ラ イフ ヒ ス トリー的 研 究 序 論 と あ る 。6) 4.4.仏 教 会 と の 関 わ り 「塩 湖 仏 教 会 」 は 1912年 、 市 内 の 「九 州 屋 旅 館 」 内 の ホ ー ル を 「仏 教 会 」 と して 使 用 し た こ と に 始 ま る が 、 そ の 発 足 時 の10名 の 中 に 「寺 澤 畔 夫 」 の 名 が あ る 。7) さ ら に1924年 の 仏 教 会 着 工 時 に は 「ユ タ 日報 の テ ラ サ ワ ・ウ ネ オ 」 が 借 入 金 の 保 証 人 と し て 署 名 し た と 同 教 会75周 年 の 英 文 ブ ッ ク レ ッ トに 記 さ れ て い る 。8) 畊 夫 の 死 後 、53年 間 『ユ タ 日報 』 の 発 行 を 続 け た 夫 人 の 國 子 が 生 前 筆 者 に 語 っ た と こ ろ で は 、 同 地 で 『絡 機 時 報 』(1907年 創 刊)が キ リス ト教 系 で あ っ た の に 対 抗 し て 、 仏 教 系 の 新 聞 と し て ス タ ー ト し た の が 『ユ タ 日報 』 で あ る 。 4.5.『 ユ タ 日 報 』 設 立 準 備(活 字 購 入) 1914 年9月 付 け で 「株 式 会 社 東 京 築 地 活 版 製 造 所 」 か ら 「寺 澤 畔 夫 」 に 屈 い た 「勘 定 書 」 に よ る と、 合 計 額704.080円 、 「内 御 入 金 」300.000円 、 「差 引 」 404.080円 が 請 求 さ れ て い る 。 こ れ に は 「荷 造 費 」、 「運 賃 」、 「諸 経 費 」 以 外 に 「保 険 料(戦 時 保 険 を 含)」 や 「領 事 手 数 料 」 な ど が 含 ま れ 、 当 時 の 時 代 背 景 を 反 映 し て い る 。 ]V お わ り に 寺 澤 の 娘 で 現 在 ソ ル ト レ ー ク シ テ ィ に 在 住 の 和 子 と治 子 が 筆 者 に 語 っ た と こ ろ に よ る と、 畊 夫 は 故 郷 に 帰 っ て 政 治 家 に な る の が 夢 で あ っ た と母 親 の 國 子 か ら よ く聞 か さ れ て い た とい う。 こ の 「夢 」 を 検 証 す る こ と は で き な い が 、 発 見 さ れ た 資 料 か ら畊 夫 の 「政 治 的 活 動 」 の 事 実 は か な りの 程 度 明 ら か に な っ た 。 ユ タ 日系 社 会 の パ イ オ ニ ア と し て 彼 の 功 績 は 大 で あ る 。 そ れ は コ ミ ュ ニ テ ィ の 基 盤 で あ る 「日 本 人 会 」、 「仏 教 会 」、 そ し て 「新 聞 」 設 立 へ の 貢 献 で あ る 。 こ れ ら は コ ミ ュ ニ テ ィ の メ ン バ ー の 社 会 的 相 互 作 用 の 場 と し て 重 要 で あ る が 、 そ の 一 方 で そ れ を 彼 の 政 治 的 野 心 を 実 現 す る た め の 「装 置 」 と解 釈 す る こ とは で き な い だ ろ う か 。 当 時 唯 一一の マ ス メ デ ィア で あ っ た 「新 聞 」 の 影 響 力 を 彼 は 十 分 に 理 解 して お り、 そ れ を 彼 の 「政 治 的 活 動 」 に う ま く利 用 し た の か も し れ な い 。 「明治 版 ベ ン チ ャー ビ ジネ ス」 ともい え る彼 の 志 向 は新 聞だ け に留 ま らず 、 前 述 した よ うに鉱 山 や 油 田へ の投 資 に も 向い た 。 米 国社 会 で起 業 家 と して成 功 す るた め に英 語 は 必 須 で あ る。弁 護 士 や 銀 行 な どホ ス ト社 会 との コ ミ ュニ ケ ー シ ョン が で きな けれ ば 何 もで きな い 。 寺 澤 が 副 社長 を務 め た 「エ ム デー 鉱 山株 式 会 社 」 設 立 の 事 実 や発 見 さ れ た他 の多 くの 契 約 書 等 が 、 か れ の 「英語 力 」 を物 語 る。 時 期 を特 定 で きな い が 、 彼 の 名前 が 書 か れ た 「英 語 の練 習 帳 」 の よ うな もの が 数冊 発 見 さ れ た。 現 在 の 日本 にあ て は め る と 「中 学 か ら高校 レ ベ ル 」 の 英 文 を ノー トに書 き、 そ れ に訳 語 が付 さ れ て い る。 独 学 な の か誰 か に教 わ った の か不 明 で あ る が、 渡 米 後 彼 が 英 語 習 得 に努 力 した証 拠 と し て貴 重 で あ る。 1934年 発 行 の 運 転 免 許 証 には 「身 長:5フ ィー ト2イ ン チ(157.5セ ン チ)体 重:122ポ ン ド(約 6)『 ユ タ 日報 』1939年4月24日 7)塩 湖仏 教 会 1962「 慶 讃 新 築 落 成 創 立 五 十 周 年 先 亡 者 追 悼 感謝 法要 」(冊 子)
8) Salt Lake Buddhist Church. SALT LAKE BUDDHIST TEMPLE 75TH ANNIVERSARY: NOVEMBER 14, 1987 (booklet)
55キ ロ)年 齢:52歳 (1934年3月9日 発 行)」 と書 か れ て い る 。 身 体 の 具 体 的 な サ イ ズ が 記 さ れ て い る貴 重 な 資 料 で あ る が 、 彼 は 早 く か ら 自動 車 を 使 っ て 活 動 を し て い た こ と が 推 察 さ れ る 。 娘 の 和 子 は 、 幼 少 の 頃 か ら父 の 自動 車 に つ い て は 記 憶 し て い る が 、 「百 姓 寺 澤 」 の 時 代 か ら トラ ッ ク を 使 っ て 市 場 に 野 菜 類 を 運 ん で い た と彼 女 は 推 察 す る。 他 の 輸 送 手 段 が な か っ た か らで あ る 。 彼 は い ち 早 く 自動 車 を 入 手 し、 鉄 道 だ け で は 回 り き れ な い よ う な ア イ ダ ホ や ワ イ オ ミ ン グ な ど 広 範 囲 な 「山 中 部 」 で の 「営 業 活 動 」 に 利 用 し て い た こ と は 間 違 い な い 。 こ の よ う に 「英 語 力 」 と 「機 動 力 」、 そ れ に 新 聞 お よ び 印 刷 物 に よ る 「広 報 力 」 を あ わ せ た 広 義 で の 「コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョン 能 力 」 を 身 に つ け る こ 参 考 文 献 河 西 宏 祐 編(1992)『 戦 後 史 と ラ ・イフ ヒ ス ト リー:千 葉 大 学 教 養 部 の 教 育 実 践 記 録 』 日 本 評 論 社 pp.9- 10. 倉 田 和 四 生 ・山 本 剛 郎 訳 編(2000)『 ア メ リ カ ン ラ イ フ に お け る 同 化 理 論 の 諸 相 』 晃 洋 書 房 塩 湖 仏 教 会(1962)「 慶 讃 新 築 落 成 創 立 五 十 周 年 先 亡 者 追 悼 感 謝 法 要 」(冊 子) 谷 富 夫 編(1996)『 ラ イ フ ・ヒ ス ト リ ー を 学 ぶ 人 の た め に 』 世 界 思 想 社pp. iii-iv. 寺 澤 忠 次 郎(1912)「 亜 米 利 加 土 産 』 心 身 革 新 学 院 中 野 卓(1981)「 ラ イ フ ・ヒ ス ト リ ー に よ る 人 間 研 究 」 『私 の 履 歴 書 一経 済 人 』 別 巻 、 日 本 経 済 新 聞 社:pp. 50-56. 中 野 卓 ・桜 井 厚 編(1995)「 ラ イ フ ヒ ス ト リ ー の 社 会 学 』 弘 文 堂 東 元 春 夫(1984b)「 移 民 新 聞 と 同 化 一 『ユ タ 日報 』 の 事 例 を 中 心 に 」(田 村 紀 雄 と共 著)『 東 京 経 大 学 会 誌 』 第138号 pp.183-218. 東 元 春 夫(1994)「 ソ ル ト レ ー ク シ テ ィ ー 日 本 人 町 の 消 滅 一社 会 学 的 一 考 察 一」 『芦 屋 大 学 論 叢 』 創 立30周 年 記 念 号IIpp.1-24. 東 元 春 夫(1995a)「 戦 時 強 制 収 容 と構 造 的 同 化 に つ い て の 一 考 察 一日系 ア メ リ カ 人 の 調 査 か ら 一」 『立 命 館 言 語 文 化 研 究 』 第6巻4号pp.47-66. 京 都 女 子 大 学 現 代 社 会 学 研 究 195 とに よ っ て 、 日本 人 コ ミ ュニ テ ィ 内 外 と活 発 に 交 流 し 、 彼 の 政 治 家 へ の 野 心 を 実 現 し よ う と し て い た こ とは 十 分 に 推 察 可 能 で あ る 。 こ の 小 論 で は 、 あ く ま で 実 験 的 な レ ベ ル で 、 『ユ タ 日報 』 創 設 者 の 寺 澤 畊 夫 「個 人 」 とい う フ ィ ー ル ドに 焦 点 を 絞 っ て 探 求 を 進 め た が 、 そ の プ ロ セ ス で 、 日系 コ ミ ュ ニ テ ィ と い う 「集 団 」 お よ び そ れ を 取 り巻 くホ ス ト 「社 会 」 との 関 係 も 見 え て き た 。今 回 の 作 業 で は 歴 史 上 の 事 実 で あ る 「点 」 を い くつ か 発 見 し、 そ れ を 結 ぶ 「線 」 を 推 察 し た に 過 ぎ な い 。 「歴 史 的 現 実 を 再 構 成 」 す る ま で に は 至 ら な い け れ ど も 、 ラ イ フ ヒ ス ト リ ー 的 ア プ ロ ー チ が 社 会 学 的 考 察 に と っ て 有 効 な 手 が か りを 提 供 す る可 能 性 を 示 し た 。 (以 上) 東 元 春 夫(1995b)rlgl6年 の ユ タ 州 日系 コ ミ ュ ニ テ ィ ー 『ユ タ 日報 』 と 『絡 機 時 報 』 の 紙 面 よ り一」 『比 較 生 活 文 化 研 究 』 第5・6合 併 号pp.1-11. 東 元 春 夫(1996)「 在 米 日 系 人 の イ ン タ ー マ リ ッ ジ ー ユ タ 州 で の 調 査 か ら 一」 『移 民 研 究 年 報 』 第2号 pp. 65-88. 山 中 速 人 、 山 田 晴 通 、 ピ ー タ ー ・ロ ス(2000)「 ハ ワ イ ・カ ウ ア イ 島 サ ト ウ キ ビ ・プ ラ ン テ ー シ ョン に お け る 日系 人 二 世 の ラ イ フ ヒ ス ト リー 調 査 報 告(CD- ROM告(CD- 解 説)」 『コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョン 科 学 』 第12号 東 京 経 済 大 学 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 学 会 pp.73-91. 『ユ タ 日報 』1939年4月24日 、 同 年5月10日. 絡 機 時 報(1924)『 山 中 部 と 日本 人 』p.542.
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BUDDHIST TEMPLE 75TH ANNIVERSARY: NOVEMBER 14, 1987 (booklet)