多 賀 大 社 の 本 願 と 坊 人 (菊 池) 一 〇 八
多
賀
大
社
の
本
願
と
坊
人
-其
の
活
動
と
変
遷-菊
池
武
多
賀
大
社
は、
古
来
か
ら
長
寿
延
命
の
大
神
・
農
蚕
・
縁
結
び
の
守
護
神
と
し
て、
其
の
神
徳
は
広
く
行
き
渡
っ
て、
今
日
に
於
て
も
広
い
層
に
信
仰
さ
れ
て
い
る。
こ
う
し
た
情
況
を
作
り
出
し
た
要
因
に、
修
験
系
の
坊
人
と
呼
ば
れ
る
勧
進
聖
達
が
い
た。
そ
こ
で
今
回
は、
彼
等
の
活
動
と
其
の
総
元
締
め
た
る
本
願
不
動
院
の
変
遷
を
簡
単
に
紹
介
し
た
い。
さ
て
多
賀
社
境
内
に
は、
本
願
不
動
院
を
中
心
と
し
て、
般
若
院
・
成
就
院
・
観
音
院
の
四
院
(
坊)
が
存
在
し
た。
多
賀
社
と
仏
教
と
の
関
係
の
初
見
は
判
明
し
な
い
が、
長
禄
三
年
五
月
の
﹃
近
江
国
守
護
奉
行
人
連
署
奉
書
﹄
に
は、
経
蔵
を
め
ぐ
っ
て
の
紛
争
に
社
僧
が
出
て
来
る
の
で、
此
の
頃
に
は
仏
教
的
な
も
の
が
存
在
し
た
事
が
分
る。
然
し、
社
僧
の
雄
た
る
不
動
院
の
由
来
は
詳
か
で
は
な
い
が、
明
応
よ
り
永
禄
に
至
る
(初
代
祐
尊
・
二
代
祐
賢)
約
八
十
年
間
は、
守
護
佐
々
木
高
頼
(
他
に
多
賀
・
尼
子
氏
の
城
主)
等
に
近
づ
き、
一
草
堂
に
過
ぎ
な
か
っ
た
も
の
を
次
第
に
大
き
く
し
て
行
っ
た。
三
代
祐
桓
の
時
代
に
至
っ
て、
社
家
側
の
不
始
末
で
秀
吉
の
不
信
を
買
っ
た
事
も
あ
っ
て、
神
官
が
排
除
さ
れ
(﹃
豊
臣
秀
吉
社
公
社
領
井
諸
式
勤
行
之
御
朱
印
状
﹄
天
正
十
六
年
九
月)、
﹁
次
第
二
社
家
に
者
有
名
無
実
之
身
分
と
相
成、
剰
へ
別
当
汐
者
家
臣
之
如
ク
被
二
取
扱
一候
﹂
(
﹃
社
家
連
署
歎
願
書
﹄
慶
応
四
年
四
月)
と、
過
去
を
振
り
返
っ
て
い
る
如
く、
不
動
院
が
社
領
・
神
事
に
口
入
す
る
権
限 を 得、 神 官 等 の 支 配 に ま で 及 び、 ほ ぼ 一 社 の 全 権 を 握 る の で あ る。 こ う し て、 天 正 か ら 慶 長 に か け て 秀 吉 の 力 を 背 景 に、 ﹁ 別 当 不 動 院 ﹂ ( 文 禄 五 年 三 月) と し て 堂 々 た る 伽 藍 建 築 と な っ た ( ﹃ 多 賀 観 音 院 古 記 録 ﹄ 巻 三)。 尚、 こ う し た 不 動 院 も、 ﹁ 修 理 所 ヲ 抱 ル 寺 僧 共、 多 賀 ノ 勧 進 ヲ ユ ル サ ル ・ ハ 修 理 ヲ 致 ン 為 也 ﹂ ( ﹃多 賀 大 社 寛 永 造 営 記 ﹄ 寛 永 元 年 四 月) と 言 っ て い る 如 く、 他 社 の 本 願 同 様 元 々 は 神 社 の 修 理 を 掌 る の が 本 筋 で あ っ て、 こ こ で も ﹁勧 進 方 ﹂ と ﹁ 修 理 方 ﹂ に 別 け ら れ、 総 元 締 め 役 の 不 動 院 の 他 に 前 述 の 三 坊 が 従 っ て い た。 そ こ で、 こ れ 等 の 各 坊 に は、 そ れ ぞ れ 下 級 の 社 僧 (坊 人 11 同 宿 輩 = 与 力 と も 言 う、 日 吉 大 社 ・ 祇 園 社 の 如 き) が 隷 属 し、 何 れ も 修 験 道 に 入 っ て い た。 つ ま り、 ﹁ 不 動 院 の 元 祖 ハ 国 廻 り の 山 伏 に て 有 し か ( 中 略) そ れ 故 今 多 賀 に 国 廻 り 之 札 く ば り の 社 坊 有 (中 略) 不 動 院 山 伏 妻 帯 に て 有 し 時 の 屋 敷 跡 今 字 に 山 伏 屋 敷 と 言 也 ﹂ (﹃ 淡 海 古 説 ﹄ 坤 ・ 天 保 九 年) と あ り、 又 江 州 飯 道 寺 岩 本 院 正 大 先 達 裏 印 の ﹃ 各 僧 職 補 任 状 ﹄ も 十 数 通 伝 わ っ て い る。 然 し、 元 々 修 験 道 家 で あ る の に、 多 賀 の 使 僧 役 も 勤 め て い る の で、 醍 醐 の 三 宝 院 や 本 願 か ら、 ど ち ら で 家 業 を 相 続 し て い る か 追 求 さ れ る 事 も 起 っ て 来 た。 彼 等 は、 言 坊 に 大 体 四 ・ 五 十 人 程 い て、 ﹁ 常 ハ 医 者 ノ 如 キ 容 一二 ア 俗 也。 少 シ ・ 本 坊 へ 運 上 ヲ 出 シ、 檀 家 ヨ リ ノ 初 穂 ヲ 受 納 ス ル 也 ﹂ ( ﹃ 江 左 三 郡 録 ﹄ 巻 之 二 ・ 明 和 二 年) と 記 し て い る 様 に、 神 札 を 各 地 に 配 り な が ら 師 檀 の 契 約 を 結 び、 講 を 開 き ( 多 賀 講 社 と い う 組 織 も 出 来 た)、 持 参 の 神 影 ・ 曼 茶 羅 を 掲 げ、 多 賀 社 の 神 徳 を 説 き、 護 摩 を 焚 き 祈 濤 を 行 っ た り し て、 参 詣 の 勧 誘 を し て 熊 野 先 達 ・ 伊 勢 の 御 師 ・ 高 野 聖 の 如 く 宿 坊 ( 後 述 す る 様 に、 彼 等 の 本 拠 は 本 社 よ り 離 れ た 所 に あ っ た の で、 本 坊 に そ れ ぞ れ 宿 泊 せ し め た) の 世 話 も し-593-た。 又、 此 の 時 伊 勢 の 御 師 同 様 に、 神 札 に 添 え て、 供 物 ・ 杓 子 ・ 延 命 酒 ・ 鰹 節 ・ 鰻 ・ 菓 子 ・ 薬 品 等 の 土 産 を も 持 参 す る を 例 と し た。 特 に、 多 賀 赤 玉 神 教 丸 を は じ め と す る 薬 品 類 は、 今 日 の 近 江 の 重 要 産 業 と も な っ た。 そ し て、 造 営 時 の 勧 進 に も 奔 走 す る の で あ っ た。 尚、 こ う し た 檀 家 廻 り に は、 諸 帳 面 (道 中 帳 面 ・ 廻 檀 帳 ・ 寄 進 勧 進 帳) ・ 判 木 類 ・ 御 会 符 ・ 往 来 手 形 ・ 提 燈 等 を 携 え、 下 男 ( 手 代) を 引 き 連 れ て い た。 彼 等 は、 代 々 本 拠 を 本 社 か ら 離 れ た 甲 賀 郡 ・ 浦 生 郡 内 に 持 っ て い て ( 百 姓 も し て い た)、 各 組 織 ( 池 田 ・ 塩 野、 ・ 磯 尾 ・ 龍 法 師 ・ 万 ・ 野 尻 ・ 新 宮 ・ 大 原 ・ 市 ノ 瀬 等 の 各 組 坊 人) が あ り、 地 位 は 決 し て 高 い も の で は な く、 各 坊 の 社 僧 に 酷 使 さ れ、 外 部 で も 売 僧 の 如 く 蔑 ま さ れ も し た と い う。 此 の 様 に し て、 多 賀 社 は 室 町 時 代 か ら 坊 人 の 活 躍 に よ っ て 其 の 崇 敬 層 を 広 く 他 国 に 迄 拡 大 し た (庶 民 化)。 そ れ に は、 当 時 の 権 力 者 に 負 う 所 も 少 な く な か っ た 様 で ( 反 面 で は 利 用 さ れ た と も 考 え ら れ よ う)、 天 正 九 年 八 月 織 田 信 長 は、 当 社 に、 ﹁ 多 賀 大 社 具 那 廻 事、 任 最 前 朱 印 之 旨、 柳 不 可 有 異 儀、 今 度 不 レ 可 レ混 二 高 野 聖 成 敗 一候 条、 同 宿 往 来 可 レ 為 レ 如 二 近 年 一候 也 ﹂ ( ﹃ 織 田 信 長 朱 印 状 ﹄) と い う 朱 印 状 を 与 え、 高 野 聖 の 諸 国 俳 徊 は 禁 じ て い る が、 当 社 の 旦 那 廻 は 以 前 ( ﹃ 織 田 信 長 朱 印 状 ﹄ 天 正 三 年 八 月) の 如 く 承 認 す る と い う も の で あ る。 つ ま り、 多 賀 社 で は 何 度 も 類 焼 し た り、 風 水 害 で 破 損 し て い る の で、 其 の 度 に こ う し た 旦 那 廻 を す る の で あ る が、 江 戸 期 に 入 る と 幕 府 や 藩 へ 遷 宮 ・ 造 営 ・ 修 復 の た め と し て、 諸 国 ・ 御 府 内 ・ 畿 内 ・ 領 内 等 へ 勧 進 奉 加 や 富 興 行 の 許 可 を 願 い 出 ね ば な ら ず、 そ れ に 対 し て 幕 府 や 藩 の 方 で は、 場 所 と か 期 限 ・ 勧 進 高 を 切 っ て 許 可 し て い る。 然 し、 そ れ で も 常 に 不 足 が ち で 再 勧 進 を 願 っ た り、 引 き 上 げ を 申 し 出 た り も し て い る。 所 で こ う し た 中 に あ っ て、 や は り 道 を 外 す 者 や 私 的 な 勧 進 者 が い た 様 で あ る。 早 い 方 で は、 天 文 十 五 年 ・ 弘 治 四 年 ・ 永 禄 六 年 の 文 書 に 出 て 来 る。 即 ち、 ﹁ 同 宿 輩 之 事 ( 中 略) 溝 二 私 宅 一、 令 二 無 音 一、 剰 号 二 勧 進一、 国 々 江 令 二 往 還 一族 在 レ 之、 云 々 ﹂ ( ﹃ 近 江 国 守 護 奉 行 人 連 署 奉 書 ﹄ 天 文 十 五 年 十 二 月) と し て、 多 賀 の 同 宿 輩 が 私 宅 を 構 え て、 諸 国 に 私 に 勧 進 往 還 す る 事 を 上 げ、 本 願 不 動 房 に 厳 し く 処 分 す べ き 事 を 求 め て い る。 然 し こ う し た 事 は、 な か な か 無 く な ら な か っ た 様 で、 天 正 十 四 ・ 十 七 年 に 豊 臣 秀 吉 ・ 秀 次 の 取 り 締 り が あ り ( ﹃ 豊 臣 秀 吉 朱 印 状 ﹄ ﹃ 豊 臣 秀 次 書 状 ﹄)、 江 戸 の 寛 永 元 年 五 ・ 十 一 年 に も 繰 り 返 し 出 さ れ て い る ( ﹃ 多 賀 大 社 寛 永 造 営 記 ﹄)。 又 寛 永 元 年 四 月 に は、 ﹁ 近 年 年 ヲ 追 テ 社 仕 ヲ 違 背 シ テ、 ホ シ イ マ ・ 二 具 那 ノ 施 物 ヲ ハ 取 リ、 手 前 ノ 作 事 用 後 世 ノ 資 糧 ト シ テ、 社 役 ハ 勤 メ ス、 我 カ マ ・ ハ タ ラ ク 事 サ タ ノ カ キ リ ナ リ ﹂ ( ﹃ 同 前 ﹄) と、 大 分 零 落 し た 様 子 で あ る。 更 に は、 文 化 九 年 四 月 の 不 動 院 の 日 記 に は、 坊 人 達 の 身 分 を 保 障 す る 所 の ﹁ 御 会 符 ﹂ の 偽 物 を 持 っ て 諸 国 を 往 来 し て い る 者 が い る の で、 御 会 符 の 裏 印 を 改 め た と し て い る。 か く て、 不 動 院 を 中 心 と し て 四 院 と 坊 人 達 は、 一 社 内 に 覇 を 唱 え た が、 明 治 維 新 に 際 会 し、 神 仏 分 離 令 に よ っ て、 遂 に 廃 止 せ ら る る に 至 っ た。 そ し て、 其 の 地 位 は 逆 転 と な り、 社 僧 側 は 神 官 地 元 民 の 攻 撃 を 受 け、 文 書 ・ 宝 物 ・ 什 器 ・ 仏 具 類 は 散 逸 し て し ま っ た。 今 は 其 の 跡 だ け が ひ っ そ り と 残 っ て い る が、 本 願 と 坊 人 達 の 果 し た 役 割 は、 多 賀 大 社 の 長 い 歴 史 の 上 で 大 き な も の で あ っ た 事 を 認 識 し な け れ ば な ら な い。-註 は 省 略 -参 考 論 文、 拙 稿 ﹁伏 見 稲 荷 大 社 本 願 所 の 成 立 と 消 長 ﹂ ( ﹃ 朱 ﹄ 第 二 十 六 号)。 ( 大 谷 大 学 大 学 院 修 了)