哲窓茶話
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
2
ページ
91-204
発行年
1987-10-26
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002878/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja志
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哲窓茶話
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(巻頭) 大LE 5年5月5日 4. †llそ了勾三f]日 底本:初版 5. 右jj売,ε∴〔 句読点ありL冊数
1冊
2.サイズ(タテ×ヨコ} 149×105mm 3.ページ 総数:299 3 11文次
序目
’本文:285哲窓茶話
序
言
近時の学生の弊として、学校といえば、単に知識を授くる所と思い、学は月謝で買うもののごとく考えている らしいが、学校は決してさようなものではない。学校とは、人の人たる道を学ぶ所で、学問とは、人の人たる道 を求めることである。すなわちいわゆる朝に道を聞かば、夕に死すとも可なりという心得がなくてはならぬ。し かるに今の学生には、その心得がないために、学校においても、勢い厳重なる規則を設けて、生徒を取り締まら なければならぬこととなり、規則の束縛を受くるが故に、生徒の方では、わが意に背きながらも、規則の網をく ぐって、自由の巷に遊ぼうとのみ工夫するようになる。知識の有無はともかくとして、道徳品行などのことは、 実に学校では見ることのできない有様である。そこで余の教育法は、特に有形の知識を授くる外に、無形の道徳 をも養成しなくてはならぬという主意で、特に寄宿舎に重きを置き、それによって平素の主張を貫徹せんことを つとめ、したがって寄宿舎には、細密なる規則の網を設けず、かえって寛大なる徳門を開き、これを出入りする ことは、学生の意志の制裁に任すこととしたのである。これにおいてか、朝夕、時のよろしきを計って、茶会と いうものを開き、道徳もしくは知識に関する談話をなし、あるいは遊戯し、あるいは談笑し、愉快にしてかつ親 密なる学校生活の間に、学生の徳性を酒養し、実学の練習にも資することとした。本書はすなわちその茶会にお ける談話を、佐村八郎氏が筆記せられたものである。近頃これを上梓せんとて、余に序言をもとめられしにより、 その請に応じて一言を題するのである。 大正五年四月 演述者誌 91知育のみに偏すべからず
わが国の教育制度は、明治維新以来ようやくに普及して来て、今日は日本国中至る所として校舎の結構を見な い所なく、またその設備の整頓を聞かざる所なきに至り、したがって町村に不学の家なく、家庭に無学の子弟な しといってもよろしいほどである。ここにおいて人知はとみに進み、制度文物の改良より、農業にまれ、工業に まれ、商にまれ、その他諸般の芸業にまれ、歳月と共に発達して、山村も僻地も異口同音に文明開化を唱うるよ うになったのは、国家のため何人も慶賀するところである。しかれども事物の一得一失は、定まれる数であって、 人力をもって容易にこれをいかんともなすべからざるものが、これを一人の心性に例えてみれば、情感の強きも のは知力意志共に弱く、知力の盛んなるものは、情感も意志共に衰え、三の者が同時にその力をたくましうする ことのできないようなものである。今や眼を開いてわが国の社会状態を観察するに、人知の発達と共に人情は漸 を追うて薄らぎ、これと共に道徳はまさに地を掃わんとするは、国家のために嘆ずべきの至りではないか。翻っ て欧米各国の状態を見るに、その文明を唱え富強を称するものは、ひとり制度文物の改良と、農商工芸の発達整 頓とのみによるのではない。必ず教育宗教の力をもって、その国民の道徳品性を高め、各個の独立と、社会相愛 の精神との、確固として抜くべからざるによらないものはないのである。わが国明治の維新はおおむね政治上の 改正にして、未だ道徳品性の改良に至らず。明治二十三年十月三十日、教育勅語の換発ありて以来、臣民一般に 国民道徳の標準を得たるものなるが、その中には﹁わが臣民よく忠によく孝に億兆心を一にし、世々その美をな せるはこれわが国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す﹂とあり。これによるもこれ決して知育のみ 92哲窓茶話 に偏するを得ず、教育の任にあるものはいうまでもなく、 意すべきところである。
学生の境界
青年子弟にして、いやしくも志あるものは特に反省留 人間一生のうちにおいて、その愉快なるときは、学生時代に及ぶものはない。これ青年にとりては、身体強健、 心神爽快の時代であるからである。青年の前途はなお未だ定まらず、他日あるいは公侯たらんか、将相たらんか、 はた紳士富豪たらんか、その位置はあらかじめ期することはできない。されば希望も高く、抱負も多く、したが って愉快もまた大なり。妻があるのでなく、子があるのでなく、家政に関せず、職業に従わず、なにごとをなす にもなんらの妨害なく係累なく、ことに当たりてすこしも羅絆を受けず、束縛を被らず、言語動作共にその意の ままである。したがって思うこと、なすこと、見ること、聞くこと、食うこと、衣ること、ことごとく爽快なら ざることなく、垢面蓬頭にして貴顕の門も叩くべくもとがむるものなく、汚衣破帽にして緒神の人に接するもす こしも怪しむものはない。非人や乞食と交わるも、またあえて恥辱となすことなく、学生中の幸福愉快なること は、とても言語筆紙をもって形容し尽くすことはできないのである。もしもなお年少なくして、少年の時代なら んか、前途はいよいよ長しといえども、未だ知力意志の活動作用に乏しければ、すべて愉快を感ずることも少な く、さればとてまた数年を過ぐして壮年の時代たらんか。家を持ち妻子を有し、家政を執り、職務を治め、倹約 して、仁義もし、ときにあるいは心にもなき追従をもし、意を曲げて人の鼻息をも伺わざるを得ないこともある のである。これを思えば青年の時代こそ実に人間一生の春というべく、これを一年に例うれば百花燗漫、奇香複 93郁として、至る所春風の騎蕩たる覚ゆるがごとし。しかも前にも述ぶるがごとく、青年学生の時代は比較的無責 任のものであれば、したがって東西にも屈曲しやすく、南北にも漂流しやすく、一朝不慮の嵐にかかりたるとき は、畢生なすなきの枯木となり、終身絶海の漂浪者とならざるべからざることなきにもあらざれば、その危険な ることもまた思わねばならない。要するに終身の幸不幸は、全く人生の基礎を作るべき二十歳前後から二十七、 八歳に至るまでにある。すなわち青年学生中にあるものであるから、努めなければならず、また慎まなければな らない。
わが国の山水
日本の山水は、その風景の明媚なる、その韻致の雅趣ある、筆にもこれを写すことはできず、口にもこれを言 うことはできない。仰いで富士の岳を見れば、聾然として清高無垢なる気韻を示し、傭して日本三景を望めぱ、 艶然として優麗なる雅致をあらわしている。その他山となく川となく、一として明媚と雅趣のないものはない。 外国人がわが国の自然の美を称して天下無比となすもの、また実に偶然ではないのである。私がかつて海外諸国 に漫遊して、帰航するとき、ドイツ人の某氏と同船したが、船のようやくわが領域に入らんとするや、某氏は頻 りにわが国の気候が中和であって、水の風光の明媚なことを称し、沿岸なる港湾島喚を見るに至りては、羨慕嘆 賞してやまず、神志悦惚として眠食も忘るるもののごとくであった。その神戸に着するや、日本料理店に入りこ れを饗するにあたり、庭園の築造をもって、いよいよ気韻の高妙に驚きしが、実にさもあるべきことである。西 洋にありては、山にまれ、川にまれ、ロッキー山、アルプス山のごとく、ナイル川は、ミシシッピ川のごとく、 94哲窓茶話 その山はまことに高く、その流れはまことに長いけれども、更に景色として眼を楽しましむべき山水なく、また 寒暑の気候が常にその中を得ず、したがって人畜の強弱、草木の栄枯、特にその常を得ず、春秋の好時節も、山 水の風光も、ことごとくみな平凡ならざるはない。吾人は幸いに天与特に厚かったのであるか、つとにその風光 明媚の国に生まれ、この雅致ある山光水色の中に成長するのは、あに天幸天福の莫大なるものではなかろうか。 しかるに吾人にして、もしわが国家としてこれを楽しむことを知らず、これを愛することを知らざるときは、和 歌の浦も松島も、富士も吉野も、ただ外国の一分地たるとなんらの違ったところはないのである。金銭その用を 得ざれば塵芥にひとしというもまた同一の道理であろう。
手帳学問
およそ天地の間の森羅万象は、一として人を利し、人を教えざるものはない。されば青年学生はいうも更なり。 何人も旅行をなし、あるいは野外運動をなさんとするときは、必ず手帳を携え、見るがまにまに聞くがまにまに、 これを筆記しておいて記憶に供えなければならぬ。その記録が積もって厚くなったときには、ついに一の大先生 をも作り出したのと同じことである。私はこれを称して手帳学問と名付けるのである。およそ現代の学問と称す るものは、一方には演繹的なる理論につきてこれを講じ、一方には帰納的なる経験によりてこれを究むるをもっ て通則としているけれども、昔はこれと違っていて、単に書を読みこれを講じ、いたずらに字句をせんさくする のをもって学問とし、ただ多くの書籍をさえ読めば、いかなることをもなし得べく、いかなる道理をも解し得べ しとなし、しかして書籍の選択のごときは、すこしも気付かないほどであった。スペンサー氏がいっていること 95がある。野蛮人の食物は、鳥獣の餌を食らうがごとく、善いものも悪いものも殻も糟も、これをあわせて食い、 ただ満腹さえすれば可なりとのみ思うていたのであるが、だんだん世の開化するに伴って、食物の養分を選びて 食らうの有様となった。これによって後世開け行くに従いて、人の胃腸がだんだん狭小になるのもまた当然のこ とである。書物を読むのもまたその通りである。昔は玉と石とが混渚して、これを選択することなく、ただ多く 読み多く講ずるのをもって目的としていたのであるけれども、今はようよう開化に趣き、社会の煩雑と共に、無 用の文や、不急の学は、これを講ずるのいとまがない。のみならず、有用のものの中でも特に適切なるものを選 びて、これを研究するときとなったと。しかしながら、吾人の滋養となるものは、ひとり選択したる書籍のみで はない。ニュートンがリンゴの墜下するのを見て物の重力を発見し、ダーウィンが人為によりて鳥獣の変化と、 植物の変化を企つるを見て、自然淘汰の理を発見したるがごとく、書物の外において、また滋養になるべき食を 求めねばならない。これは私のさきにいわゆる外界の経験をいうのである。これをあつめこれを記憶するには、 必ずこれを記録すべき手帳を供うることが肝要である。手帳の効用もまた大なりというべきである。
不便を知るは新発明の基なり
西洋人の説にいえることがある。世間ありとあらゆる万物は、一つとして不用のものあることなしと。ただ人々 の一方に不便を感ずることなきがゆえ、用あるものも不用として放棄せられているだけのことである。およそ事 物の新発明の起こるのは、旧物の不便を感じてその不用なるものと知り、これを便利有用の所に移すの結果に外 ならぬ。かの汽船の発明は、帆船櫓船に不便を感ずるところから起こり、汽車の発明は、人車馬車の不便から起 96哲窓茶話 こり、石油灯の不便を感じたる結果としてガス灯電気灯を工夫し、郵便の不便を感じたる影響として電信を工夫 し、その電信すらもまた不便なるがためについに電話器、蓄音器等の発明となった。これらはみな事物の不便を 感じたところから起こったのである。しかしてその新発明の品が世に現るるや、人は始めて郵便よりは電信、馬 車よりは汽車、帆船よりは汽船の方が、これを比較してよほど便利が広大であることを知るのは、あたかも人が 衣を着て暖かさを感じ、食を食らいてその味を感ずるのと同一である。しかるに人々は、それを着ざるれば凍え、 それを食らわざれば飢えるということは、同じくこれを前に感ずることがあっても新発明品の出ない前において、 事物の不便を感じないのはいかなるわけであろうか。けだし注意の足らざるがためである。ことばを換えてこれ をいわば、人々は従来のものに満足して、その不自由を感じないからであろう。今より十数年前、私のかつて欧 米を漫遊したるとき、イギリス、スコットランドよりエジンバラに達するの汽車は、十二時間を要することにな っていたが、これは毎停車場において汽缶に水を汲み入るるがため、多くの時を費やすによるものなれば、水は 常に軌道のそばなる高所の水槽に貯え置き、ゆくゆく水を汲み取るの法を工夫して取るのだということを聞いた。 また同時にアメリカにおいては、更に汽車の速力を増さんとし、その両輪を↓輪とするの企てもあったのである。 しかし一輪にしては転倒の恐れがあれば、これを防ぐために、上に抑えを置き、あたかも敷居と鴨居との間に汽 車を走らすようなことをもっぱら工夫中なりしというを聞いた。このことは今日に至るまで未だ発明されないが、 要するに西洋人の忍耐熱心は実に驚くべきものである。これもまた汽車につきてその不便を感じたる結果ではな ラ パ む カろうカ 97
人生の目的
98 人のこの世にあるのは、おのおのその目的がなくてはならない。もし人にして更になんらの目的もないとせん か、その生存すべき理由が分からないのである。すでに生存する以上は、必ず一の目的なかるべからずである。 されば知識も身体も、全くこの目的を達するための道具であって、法律も宗教もこの目的を達するの方便たるに 過ぎないのである。しかしてこの目的はその種類が一様ではないけれども、要するに幸福の二字に外ならぬであ ろう。されどその幸福は仁のために身を殺して幸福とするものもあるべく。道のために困厄して幸福とするもの もあるべく。あるいは百万の剣芒に当たるをもって幸福とするものもあるべけれども、通常人の幸福として希望 するところのものは、愉快と強健と長寿との三つであって、憂欝と病苦と短命とは、何人も好まぬところであろ う。しかしてその長寿は強健よりきたり、愉快もまた強健より得られるものであれば、人は体育を重んじなくて はならない。体育がすでになるとはいえども、知徳がこれに伴うて備わらざるときは、禽獣も同様であれば、体 育と徳育と知育との三つのものは同時にこれを発達せしめざるべからざるものである。されば数千年の前におい て孔子の﹁身体髪膚、これを父母に受く、あえて殴傷せざるは孝の始めなり、身を立て道を行い、名を後世に揚 げて、もって父母の名をあらわすは、孝の終わりである﹂といわれているが、業にすでに徳育、知育、体育の三 つを兼ねたるものではなかろうか。古今その目的を同じうせること、ほとんど符節を合わすがごときものがある。哲窓茶話
目的を達するの方便
人にはすでに目的があるとすれば、これを達せんには、必ず適当なる方便を選んで、秩序的にその域に進むこ とを考えなくてはならない。例えば旅行をするがごときものである。飢ゆれば食らい、疲るれば休らい、日が暮 るれば宿を取らなくてはならない。もしもこれに反して、↓足飛びに目的の終点にばかり着目して、更にその他 を顧みることなく、軽挙妄進するときには、到底その目的の地に達することあたわざるのみではない。ついには 中途にしてことを廃し、かえって後悔漸塊に堪えざるものあるに至るであろう。かの臨終の間際に至って己がこ れまでの所為を悔い、死後の汚名が気に懸かって、安心することを得ず、恐擢戦懐、号泣しつつ死につくものの ごときは、畢寛みなその方便たる秩序を失いしが故である。決してその人の目的ではない。故に人たるものは、 すべからく平生の行為を慎み、業務に励んで、いつ死んでも仰いでは天に恥じず、うつぶしては地に恥じず、ま た人にも恥じず、朝に道を聞かば、夕べに死んでも可なりといえるがごとく、泰然として瞑目するように、平生 から確固たる目的を定めて、これに適当なる方便を選ぶことが肝要である。花より団子
東京の人は、陽春胎蕩のころとなれば、老若男女、いずれもおのおのさきを競いて、墨堤の花見に杖をひかざ るものはない。これはほかでもない、年中塵芥の中に疲労している身心を、花の間の新鮮なる空気にさらし、欄 漫紅白の美に慰め、その爽快と強健とを得んがためであろう。しかるにある一部の人に至りては、花よりも団子 99といえる諺を直ちに実行し、まず団子屋に入り集い、花を見て積日の憂欝を散ぜんとするよりも、かえって団子 を食うて多日の餓をいやさんとするもののごとき有様で、ついには胃病のもとを作るに至るものがある。これは 決して花見の目的ではなかろう。全くその目的を誤りたるものといわねばならぬ。東都に遊学せる学生は、つと に地方なる閑静の地に生まれ、新鮮清澄なる空気中に長じて、神身常に爽健であれば、気慨勃々として自ら奮い、 男子志を立てて郷関を出づ、業もし成らずんば死すとも帰らずと大唱しつつ、門出せる当初は、いかにも勇まし く雄壮なる男子として、多くの人々より嘱望せらるることなれども、これらの遊子がはるばる上りきたれるこの 地は、人家稠密して紅塵万丈の有様で、空気の常に腐敗していることはまた地方の比ではない。いわんや寄宿舎 等におりて、学窓の下にて日夕苦学するにおいてをや。これ折角遠大なる希望を抱き、隣里郷党より多くの望み を属せられながら、肺病、胃病等にかかり、業未だ半ばならざるに、顔色憔埣して不治の病を得て帰るの不幸者 あるゆえんである。これあにその人の目的ならむや、本意ならんや。身体の壮健なるはひとり学をなすの重要条 件なるのみならず、君に忠を尽くして、親に孝を尽くさんとするもの、これを人情に訴うるも、これを事物に訴 うるも、一として重要なる原動力たらざるはない。さればこそシナ人も古き昔に健康は幸福の母といい、西洋人 も活発なる精神は、健康の身体に宿るといいしゆえんである。これ私が常に学生諸君に休暇のとき、野外運動を 促して、積日の欝を散じ、苦学の疲労を医し、神身を強健にせんことを切望しておかざるゆえんである。そもそ も運動の効用は、食物の消化を助け、血液の循環をよくし、精神を活発にし、気風を爽快にし、勇気勃々として、 後日の勉強を助くるために、大なる効力を有するものである。されば学生たるものは、これが目的を誤ってはな らぬ。 100
哲窓茶話
儒学を修めざるべからず
それ儒学は、千数百年の前、わが国に伝わってからこのかた日本の国と共に成長し、日本の国と共に発達し、 今では一種の国学となり、吾人が身を修め家をととのうることから、国を治め、天下を平らかにするに至るまで の骨髄となっている。故に人心を維持し、国体を保存するには、一日も欠くべからざるものである。しかるに今 の学者は、おおむねいえらく、漢学は古の学問である、儒学は世渡りに迂闊なる学問である、今の人間の勉強す べき学問ではない、文明の男子の学ぶべき学問ではない、いやしくも学に志あるものは西洋新奇の実用科学に及 ぶものはないと。ああ、その考えの愚かなるはもとよりこれを哀れむべきであるが、またもってこの学の衰微を 思うべきである。各人にして果たしてこのごとくならば、各自の人心を維持し、また一国の独立を保存すること は、思いもよらないのである。嘆かわしいことである。学者なるものはよろしくここに注意し、この文を講じ、 この学を興し、東洋の哲理をして発揮せしめなくてはならない。これひとり儒学の忠臣たるのみではない。また 実にわが国の功臣というべきである。哲学祭の起因
いにしえから釈莫といい、法会ととなえて、儒者は孔子を祭り、仏者は釈迦を祭るは、これみな追遠の情をの べ、慕徳の意を現すために行うものである。しかるに千古の哲学者にして、未だこれを祭るもののないのは、文 01 明の一大欠点である。ひとり哲学祭のない道理はないのである。私は先年すでにこの祭祀を起こし、もって年々 1いささか追遠供養をなしきたっている。これはひとり哲学者その人を祭るのみにあらずして、また哲学そのもの を祭るゆえんである。しかして私は哲学祭の戸主となすべき者を定めて、東洋哲学者と西洋哲学者との二つに大 別し、東洋にありては、更にこれをインドとシナとに分かち、釈迦と孔子との二聖人をもって、あらゆる哲学者 を代表せしめ、西洋にありては、これを古代と近世とに分かち、ソクラテス、カントの二聖人をもってこれを代 表せしめるのである。今その年代、年齢等を考うるに、釈迦はヤソ紀元前一〇二七年に生まれ、九四九年に死す、 その寿七十八︵日本算にすれば一を加う、以下三聖の寿また同じ︶、さすれば大正五年をさること二千八百六十六 年。孔子は紀元前五五一年に生まれ、四七九年に死す、その寿七十二、大正五年をさること二千三百九十六年。 ソクラテスは紀元前四六九年に生まれ、三九九年に死す、その寿七十、大正五年をさること二千三百十六年。カ ントはヤソ紀元後一七二四年に生まれ、一八〇四年に死す、その寿八十、大正五年をさることわずかに百十四年 である。これによってこれをみるに、紀元前六年は四聖の平均紀元一年にして、年齢を同一と仮定して計算すれ ば三百日となる。それであるから、一年のうちで三百日目、すなわち十月二十七日をもってこの祭式を行うこと にした。
東洋のカントは果たしてだれか
哲学者を選ぶには、あるいは古代にあってはアリストテレス氏をとり、あるいは近世にあってはスペンサー氏 をとるものもあるけれど、私は特に孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四聖を選ぶのである。四聖はいずれも哲 学の中間に起こりて、前歴史を統一し、また後歴史を開成したるものであるからして、中興の主とすべきである。 102今この四聖を比較してみると、はなはだ相似たるものがある。すなわち釈迦の門派には達識ある馬鳴、竜樹があ り、孔子の門派には、大賢孟子・曾子があって、その孟子は竜樹に比すべく、曾子は馬鳴に比ぶべく、またソク ラテスの門派にはアリストテレス、プラトンがあり、近世カントの門派にはフィヒテ、へーゲルがあって、いず れも曾子、孟子、馬鳴、竜樹に比すべく、霊心敏腕なるものである。吾人は右の四聖の祭祀を興し、この儀式を 挙ぐるに当たり、これを記念として、朝夕その情を抱き、この学を研究し、その一部一部を補いつつ、もって後 の学者を待たんとするのである。西洋哲学は、今日大いに発達しているけれども、なお新説の起こらんとするも のがある。しかるに東洋にありては、未だ発達せざるものの多きにかかわらず、更にこれを興そうとするものが ない。こんなことではならぬ。更に進んで東西両哲学を合体折衷するものがなくてはならぬ。思うにこの学者の 出るや、位置といい、時期といい、日本の現今以後をおいて他に求むべからざるものであれば、吾人この学を研 究するものは、大いに努めなくてはならないのである。
唯我独尊は説法の根基なり
哲窓茶話 釈迦は今からほとんど三千年前、インドにおいて、時の大王浄梵︹飯︺王の夫人、摩耶の腹に出でたるものにて、 その生まれ出つるや否や、現に行くこと七歩するに、光明顕耀して、あまねく十方を照らす、四顧し終わりてひ とり天上を指し、言を発して、天上天下唯我独尊といえりと伝えられている。ああ、誠に絶世の英傑、人天の師 たることは、すでにこの一語のうちにみえている。むべなるかな、やや長ずるに及んで百味の飲食妻子春属はい 皿 うに及ばず、万乗の王位をすら捨ててしまって、跡を檀特の深山に潜め、難行苦行十二年を重ね︵十九にて出家し、三十にして成道せり︶、出でて小乗、大乗の教えを説き、一切の衆生済度に従事せられたことは。しかしてそ の法を説くや、徹頭徹尾、唯我独尊を根基としたるは、全くその自ら信ずるの深きによるとはいうものの、また その人が真に唯我独尊の人であって、自ら顧みて恥じるところなきによるのである。爾来何千年の後、何億の人 をして傾羨せしめ、尊崇せしめたものは、けだし偶然ではないのである。吾人は口では釈迦も人なり、われも人 なりとはいうものの、実はその万↓にも及ばないのであって、吾人の口にはなんとしても、唯我独尊の語を発す べからざることを悟るであろう。しかるにややもすれば、わずかに理化の書をひもとき、この高大無辺の真理に 向かって、批評を試みんとするものがある。浅薄愚痴の至りではなかろうか。そもそも理化の学は、有形世界の 一部分を研究するものなれば、その分子元素に至れば、それでもはやとまりである。これを一歩進めて説かんに は、ぜひとも仏法の真理、すなわち釈迦の哲学によらなければならぬ。ああ、実に釈迦は一大豪傑である、一大 学者である、一大道徳家であるのに、今の釈迦を説くもの、釈迦の道を伝うるものは肝腎な釈迦の人物、釈迦の 道徳真理をつまびらかにせず、ただ僧侶は念珠を持ち、法衣をつけ、経文を読請する職人のごとく、はなはだし きはいたずらにお世辞の道具となりて、唯々諾々人にいれらんことのみを求め、人もまたそのお世辞の上手下手 をもって、僧侶の価値を定めんとするもののごとき有様である。なんぞ唯我独尊のことばを省みて超然たらざる や。予輩はまことに慨嘆に堪えないことである。
釈教をもって単に知力の宗教となすべからず
釈迦は更にこの変化極まりないところの娑婆世界は、これを生死の苦海となし、難行苦行、実践躬行によりて 104浬築、常往の彼岸に達することをもって目的となすのであるから、仏教家たるものは、よろしく精神をここに凝 らし、心をここに注がねばならぬ。しかるに浅はかなる考えの世の人は、ユダヤ教、ヤソ教をもって、単に意力 の宗教となし、釈教をもって単に知力の宗教とのみなすがごときは、その一を知って未だその二を知らざるもの というべきである。深く意を注いで釈迦の一代を研究するに、その大意力、大知力、大勇力を兼備することを知 る。さればこそこの大道徳、大宗教をも成就したるなれ。けだし仏教が知力に傾き、ヤソ教が意力に偏したるも ののごときは、だんだんその時勢によりてしからざるを得ざるをもって、かくなったのである。未来の仏教は、 また未来の時勢によりて活動しなくてはならない。
利己利他教
哲窓茶話 孔子は名を丘、その字は仲尼といって、魯の昌平郷の人である。その父母が尼丘山の神霊に祈って孔子を生ん だ。故にその名をこれにとって丘と付けたのである。孔子は一世の豪傑であれば、ひとり学者、道徳家として知 られたるのみならず、また政治家としても、宗教家としても、その時代に貴ばれたことは疑うことはできない。 しかして孔子ののちに、荘子が出で、筍子が出で、また楊朱、墨謬の輩も出でて、おのおの一家の学識をたてた のではあるが、みな孔子の学の反動に過ぎない。もしも孔子がなかりしならば、それらの学の世に出でんことは おぼつかなかったのである。孔子の時世は、春秋戦国と称して恐ろしき戦乱殺毅の時代であったから、人々浅ま しき利欲の巷に迷う者多きを見て、孔子は慨然として奮起し大いに仁義の大道を示し、身を殺して仁をなすとま ㎜ でいうて、これを救わんとし、主として博愛を唱えられたのである。さればこれを他愛主義と認め、楊子はその自愛の説をもってこれに抗し、墨子はその兼愛の説を唱えて撃ちたれども、孔子自身は、決して利他に偏したる 06 にあらず。自利と利他と、平等と差別とをもって道を立てたるものである。また孔子は、世人が理論にのみ偏し ー たることを憂え、言に訥にして、行いに敏ならんことを欲すといい、またわれいうことなからんことを欲すなど というて、これを制したるも、孔子自身が理論に明らかであったことは、晩年喜んで読まれた易の、章編三たび 絶ちたるを見ても知ることができる。しかして孔子の学は、曾子、子思、孟子に伝わり、孟子に至りては孔子を 賞賛して聖の時なるものなりといい、またよくいうて楊墨をふせぐものは聖人の徒なりなど、声をからして異端 に当たり、大いに孔学を明らかにしたのである。のち唐宋の時代に至りて、この学ますます隆盛を究め、今日ま で東洋の宗学として、特にわが国学として伝わりたるは、歴史上にまれ、実際上にまれ、ありがたきことといわ ねばならぬ。しかるに世人がただに孔子の書を請するのみにて、自ら孔子の道を学びたりとなすがごときは、こ れ全く孔学の衰微といわざるを得ない。徳川の世、一時孔学は盛んなりしも、主として字句のせんさくにとどま り、これを実行に現すことを務むるものの少なかったことは、孔子を知るものの少ない証拠である。
同権の裏には異権なかるべからず
墨子の兼ね愛するという説は、人もわれも、人の子もわが子も、同じように愛するという、平等↓方の説であ る。この説を誤解するときは、財産も共有にすべし、妻子も共有にすべしというとんでもないことに至り、夫婦 は名分を定めず、子を育つるには政府の費用をもって育つるというに至るべく、これ全く社会主義の唱うるとこ ろと同様になる。近世フランスにおいては、この平等説が起こって、天下は一人の天下ではない、天下の天下であるとの主義をとりて、大革命を企てはなはだしきは、一酒店の亭主まで、殿内に進入して、天子に窮迫したる ことさえありて、大いに上下の権衡を乱した次第である。しかしこれは政府の権力があまりに強くして、人民を 圧制し過ぎたるにより、その反動として起こったのである。さればこの平等説をもってすべてのことを貫徹せし めんとするのは、大なる誤りといわざるを得ない。なんとなれば、理論上平等はやや可なるに似てはおるけれど も、実際上において大いに不可なるものがあるからである。すべてものは原因上よりみれば、平等であるけれど、 結果上よりみれば差別であるからである。仮に全国中のものがことごとく平等同権の説を唱うるとせんか、屑屋 も総理大臣たるべく、乞食も大蔵大臣たるべく、下埠も貴嬢、奴僕も大将たるべしというに至らん。かくのごと きはこれ平等主義の誤解であって、もしもこれが実行されんか、その国の一大変たる、実に恐るべきものがある であろう。よって平等同権を論ずるものは、その裏面に差別異権を相伴うて立てなければならない。墨子のわが 父も人の父も同じく愛すべしというは、平等一方の説であって、孔子が平等の裏にも差別を供えて、親は同じく 親であっても、人の親とわが親とは差別があって、同じでないとなせるにしかないのである。
なんぞ皮相をもって人を評せん
哲窓茶話 彫刻師を父とし、産婆を母とせる、ソクラテスは、その容貌は見苦しき方であって、頭の髪は少壮のときから はげ、突き出た眼、低い鼻、口は大きくして、唇は厚く、腹はもっとも肥満している。加うるに氏は性質素朴を 好み、常にはだしで露頭であって、夏冬同一の着物を着し、実に見る影もない田舎翁の姿であったのである。し 07 1 かれども氏が飲食を節制することと、運動をよくすることとは、今に至るまで、古代哲学の泰斗として、尊崇せらるるだけの哲学を完成するに堪うるだけの健康を保たしめたのである。また氏の道徳品行は、万世ののちにお 08 いてとってもって模範となすべきものが多い。今の世の人には、人を評するのにその容貌の美醜、粧飾の善悪を ー もってして、その学業徳行を顧みざる者がある。なんぞソクラテスを見て暫死せないのであるか。
文武の功は一のみ
戦国騒乱のときにあたりて、有形上の軍事に力を尽くすのも、異説百端の中において、無形上の文事に心を尽 くすのも、その理その功は同一である。学問はそのものが、もとより無形であるといえども、その世間人事に関 するの大なることは、何人もすでに知るところである。さればかのナポレオンが有形の武略をもって欧州の大陸 を一統したるも、カントがその無形の学問をもって、近世哲学を一統したるも、その功績は同じといわなければ ならぬ。故にナポレオンをもって一世の豪傑となさば、カントもまた一世の豪傑となさざるを得ないのである。 西洋哲学は、カント以前にありては、あるいは唯物論を唱うるものがあるかと思えば、あるいは唯心論を唱うる ものがあり、あるいはまた虚無論を唱うるものがあり、ほとんどその定まるところを知らなかったのであるが、 カントはひとたび出でて、四方の異説を排除し、これ統合分解して、その長短を劃酌折衷し、そして純然たる↓ 個の批判哲学を大成したのである。これを例えてみれば、一個の果物があって、人々これについてその一部分一 部分を味わっておりしを、カントはたちまち鋭刀をもってこれを割き、もってその全体の真味を味わったという ようなわけであるから、これを近世哲学史上の一大功績といわざるを得ないのである。のちの学者が、純正なる 哲学の光を得て、その真理の道を照らし得るものは、全くカントの恩恵といわねばならぬ。その事業は決してナポレオンのにはないのである。
わが国独立の学を起こすべし
哲窓茶話 ここに私は丁重に孔子、釈迦、ソクラテス、カント、四聖の肖像を掲げ、四聖を祭るにあたりて、実に葱塊に 堪えないものがある。それはなんであるか。その徳行に至りては、凡俗のわれわれがなんぞ聖人に比するを得ん、 これは恥ずべくして恥ずべきことではない。その学またもとより大賢に比すべからず、これまた恥ずべくして恥 ずべきにあらず。気風功業四聖に及ぼざることは、人すでにこれを許している、これまた恥ずべきにあらず。し からば吾人の悪塊するところは果たしてなんであるか。曰く、吾人が四聖に恥ずるというのは、あえて吾人の恥 をいうのではなくして、日本全国を代表してこれを恥ずるのである。思うに吾人の祭れる四聖は、みな遠き外国 の人ばかりである。わが国人にしてこれと同じく祭るべきの人なきを恥ずるのである。わが国においても昔から 学者がないのではないけれども、今これと同じく祭るべき人を得ないことは、実に悪塊せざるを得ないのである。 わが国は昔から武をもってしては、神功皇后の三韓征伐における、北条時宗の元冠掃蕩における、豊臣秀吉の朝 鮮征伐における等、実に枚挙にいとまあらざるものがあるけれども、文章をもって外人の耳目を刺衝したるもの は、未だかつてないのである。あに恥ずべきことではなかろうか。しかれども時すでに去れり、既往はとがめた ところで致し方がない。よろしく将来を待って、右四聖と同様、否これに勝るべき人の出できたらんことをこそ 望むべきである。およそ古今の歴史を閲するに、始め盛んなるものは末に衰え、始め衰うるものの末に盛んにな ㎜ るは、勢いの免れざるもののごとし。外国にありても昔盛んであった、ギリシア、ローマが近世に至って衰え、これに代わって英独︹イギリス、ドイツ︺が現今に盛んなるがごとき、みなこの盛衰の理に基づくものである。 わが国は古来文事大いに劣っていて、かつて盛んにして、外国まで響きたることなければ、向後において大学者、 大発明家の起こるべきは、天運循環の規則である。吾人は誠意専心この道の輔翼となりて、これが素地を作らな ければならないのである。思うに英独諸国の世界に重きをなすものはひとり商工のみにあらず、また金力、兵力 のみに非ず、イギリス風、ドイツ風と称する一種の学風をもって重きをなせるものである。わが日本にありても、 他日大いに鳴らんとするには、決して商工農のみあらず、理学、哲学共に日本風を組織しもって鳴らざるべから ざるのである。従来のごとく、西洋の学問を修めるばかりをもって目的とするがごときことでなく、将来はよろ しくわが国独立の学問を起こし、吾人が今日この四聖を祭るがごとく、西洋の各国において、東洋なるわが国人 を戸主となして、わが国学を羨慕せしむるようになることを務めなければならない。わが日本が小国をもって大 東洋の表に屹立せんことは、あたかも非常非凡なる小英国が、欧州大陸の権力を占めたるがごとくならなければ ならぬのである。
四聖を祭る文
後学円了ら謹んで四聖の尊像を講堂に掲げ、﹃大学﹄﹃中庸﹄﹃論語﹄﹃易経﹄﹃法華経﹄﹃浄土三部経﹄﹃ソクラテ ス伝記﹄﹃純理批判哲学﹄各一部をその前に供し、仰いで尊容を拝し、傭して遺教を思い、もって先聖、釈迦、孔 子、ソクラテス、カントの四大家を祭る。釈迦はインド哲学を代表し、孔子はシナ哲学を代表し、ソクラテスは ギリシア哲学を代表し、カントは近世哲学を代表す。故に四聖その人を祭るは、哲学そのものを祭るゆえんなり。 110哲窓茶話 それ哲学は一種の別世界にして、その中に天地あり、日月あり、風雨あり、山海あり。釈迦の知はそのいわゆる 日月なり。孔子の徳はそのいわゆる雨露なり。ソクラテスの識はそのいわゆる山岳なり。カントの学はそのいわ ゆる海洋なり。その知はわれを照らし、その徳はわれを潤し、その識はわれを護し、その学はわれを擁し、わが 父となり、わが母となり、君主となり、師友となり、日夜われを愛育撫養せり。ここをもって不肖円了ら、幸い に哲学界の一人となるを得たり。我が輩あにその恩を報謝せざるべけんや。四聖の寿、これを合算すれば三百歳 となる。一歳を一日に配すれば、三百日となる。もし一月一日より起算して、その日数を尋究するときは、十月 二十七日を得べし。これ本日すなわち十月二十七日をもって、祭儀を行うゆえんなり。四聖の順序は、釈迦を第 一に位し、カントを最後に置く。しばらく年代の前後に従うのみ。今ここに祭日を定めて、祭典を挙ぐるは、そ の意四聖の余徳を追慕し、師伝の厚恩を感謝するにあるも、また他に期するところなきにあらず。 我が輩すでに先聖の撫育によりて、一個の成童となるを得たれば、これよりわが先聖に対する義務として、更 に後進の子弟を啓導して、この哲学界裏に誘入し、これをして別天地の風雲山海の間に迫遙泳浴せしめざるべか らず。これ不肖円了らが本年より、年々哲学祭を設けて、その学の将来、ますます振起発達せんことを祈るの微 意にして、すなわち四聖その人を祭るのみならず、哲学そのものを祭るゆえんなり。某年某月某日。
ヤソは宗教家なるも学者にあらず
吾人が四聖の中に、ヤソを加えないわけは、四聖は全く哲学者としてこれを選びたるものであるからである。 m もしも宗教家としてこれを選びたらんには、ヤソもまたもとより大家として数えざるを得ないのである。釈迦の教えは、ときとしてはあるいは宗教を説くこともあるが、またときとしてはあるいは哲学を説きたるもある。い わゆる八万四千の法文につきてこれをみれば、自らこれを知ることができる。孔子の教えは、ときとしてはある いは道徳を説くこともあるが、またときとしてはあるいは哲学を説いている。すなわち易だの中庸だののごとき は、その哲学的真理のひそむところのものである。これ純然たる哲学者として、これを選びたるゆえんである。 しかるにヤソにありては、わずかにその歴史として﹃バイブル﹄が一部にあるのみにて、しかもその﹃バイブル﹄ は哲学としてはみるに足らない。それであるから、ヤソを哲学者として選ぶことはできない。しかし宗教家とし てのヤソは、その賛称すべき価値あるこというまでもなく、欧米諸大陸において、今に至るまで、赫々たる光明 の下に、帰依崇拝するものの多きを見てもこれを知るべきである。したがってその人物もまた英雄といわざるを 得ないのである。
人知はよく神を造る
宇宙の間にありて、最も霊妙不可思議なるものは人間の知恵である。人知は一瞬間に千里に達する電信をも作 り、一躍して空に走るの飛行機をも作り、その他あらゆる諸器械をも作ると同じく、草木をも人畜をも作ること ができ、また神をも仏をも作るべきものである。世界に多数の信者をもっているヤソ教の神というものも、また 人知をもって造ったところの製造物に外ならないのである。ヤソはその生まれない前からして、すでに前の予言 者からして予言あって、その言葉に曰く、まさに神の子生まるべしと。よってすべての人々は何時神の子が生ま れるのであろうかと待ってる折りふし、東の方にちがった星が現れたのを見て、万民はいよいよもって瑞兆とな 112哲窓茶話 し、東方に行って神の子を求めた。たまたま馬槽の中に産み落としたるひとりの男子あり。もって神の子となし たるものにて、その教育のごときはいかにこれをなせしや明らかならむれども、長ずるに及んで彼自ら信ずるこ と誠に篤く、ついに多数の信徒を得、二千年の今日なお幾億の信徒を得て崇拝せらるるがごとき、これ通常人間 のよくすべきことではない。全くかの予三口と、異星の出現とによりて、人民がこれを信仰するの厚かったのと、 ヤソ自身の信仰の深かったとによりてついに神の子とし、また神となすに至ったものである。これ私がヤソの神 は、人知の製造物であるというゆえんであって、また人間の知恵は神をも仏をも作るべしというゆえんである。 のちの世に神を作らんと欲するものも、また前に確信するに足るべきよき予言をおいて、四方八方からこれを神 として教育するようにしたならば、神を作ることもまた決してむずかしいことはないであろう。けだし自他の信 仰は、その一原因として欠くことはできないのである。
祈ること果たして理あるか
昔の人は神や仏やに祈るということを盛んにしたもので、あるいは病の癒えんことを祈り、あるいは富貴にな りたいといって祈り、はなはだしきは人の死生をさえ祈ることもあったのである。孔子の父母が尼丘山の霊に祈 りて、孔子を生み、楠正成の母が毘沙門に祈りて、正成を生みたるがごとき、その他由井正雪、大塩平八郎等の ごとき、みなその父母が神仏に祈りて得たるものなりと伝えられておる。また歴史の示すところによれば日本武 尊の妃は、身をもって海神に祈りて、波濤をしてつめたまい、北条時宗は風神に祈りて、元冠を皆殺しにし、ま 田 た平重盛は熊野社に祈りてついに死したりと伝えられておる。祈るということは、果たして道理のあるものであろうか。吾人哲学を修むるところのものは、よろしく研究すべき問題である。思うに病気のために祈るものは、 運動、謹慎、安心、食事等のことによりて、あるいは病気の癒ゆることもあるべく、また富貴を祈るものは、そ れがために節倹力行の効を積むが故にその目的を達すべく、生死を祈るものも、またこれに類するの事情がある に相違ない。しかしてその祈り子が賢かったり、また他に異なるのは、全くその養育と、またその教訓の懇篤に して丁重なると、その境遇と遺伝とによるものである。これを要するに、祈りてその効のあるのは、全くその神 仏を信ずることが深いのと、自分の熱心なるとに基づくのであって、帰するところは、精神の力が天地を感動す るより生ずるのである。
文事あるものは武備あり
私が孔子、釈迦、ソクラテス、カントの四聖を選んで、これを尊崇するゆえんのものは、単に学者としてこれ を尊崇せるにあらず、人物としても、知者としても、知徳完備の人としても大いにすぐれたところがあるからで ある。その知なり、行いなり、今に残されておる高恩は、実に感侃すべきものがあるではないか。右の四聖の学 と知と行とは、仮にこの人々をもって政治界に立たしむれば、立派なる政治家たるべく、もって軍人たらしめば、 あっぱれなる軍人たるや疑いなきところである。近世ドイツ国において哲学者として有名なるハルトマンは、そ の父が軍人なれば自分も若いときからその道に志し、あっぱれなる軍人となりて、美名を天下に輝かさんとする の覚悟であったが、惜しむべし彼は足に不自由の点あって、体格が不合格であったために、宿昔の望みもとても 達することは出来ないと断念し、よってこれより更に文海に遊泳し、学事をもって世に立たんことを期し、それ 114哲窓茶話 からのちは全く著述にのみ従事したということである。 先年、鳥尾小弥太、浜尾新の両氏がドイツに至りし際、井上哲次郎氏の紹介を得て氏を訪いたるときも、鳥尾 氏はその容貌の堂々たる、またその眼光の桐々として人を射るの風采は、一見してその識徳武勇あるに驚いたと いうことである。
空海の勇は太閤の勇をしのぐ
わが国真言宗の開祖として、最も尊敬せらるる弘法大師も、今日はただ宗教家として、道徳家として尊崇せら るるのみであるけれども、もしも大師をして保元平治の世、源平争闘の時代などに生まれしめたならば、彼の知 や、彼の勇は必ず軍人ともなりて、あっぱれ大英雄、大忠臣の名を成して、人から仰がれたかも知れないのであ る。しかるに大師のときは、あたかも天下太平に属したれば、知をもってや、勇をもっては、功を成し名を遂ぐ るの場所がなかったのである。 さきに某の貴顕は紀州高野山に詣で、空海の遺業の高大なるを見て、驚き評して曰く、太閤秀吉の築造なりと て古今の大事業と称せられているところの大阪城も、この空海の開きたる高野山の工事にはとても比することは できないと言ったということである。さもあるべきことである。仙薬なんぞ蓬莱に求めん
健康ということが人間にとって最大の幸福であることは、すでに人の知るところであるが、これを求めんがた 115めに、飲食運動を要することもまたすでに人の注意するところである。しかれどもなお別に仙術とも名付くべき ものがある。これを修めて不死の境界に入るのもまたよいではないか。 何人も毎朝床を出でて盟漱するときに、裸体となりて全身を水に浴びるか、もしも全身を水浴することができ ないものは、手拭を冷水に浸し、これにて全身を拭い、もって排泄物を洗除し、皮膚の毛穴を開くがよい。その 皮膚を強くし、その気管を健全にすることによって感冒や肺病などにかかる憂えがないであろう。 また毎朝太陽に向かい、しばらく呼吸して新鮮の空気を吸うも、あるいは毎朝一時間ほどずつ屋外散歩するの も、または屋外に出で大きな声を出すのも、みな寿命の洗濯になり、仙境に入るべき秘伝である。仙薬は必ずし も蓬莱に求めるには及ばない。これ予が実験するところであるから、特に諸君に勧めたいと思っている。
無風流の中に風流を学ぶべし
古来風流を目的として、世人の間に行われたる詩や歌などの文学は、今日実業の世の中にありては、無用の長 物であるに似たれども、ときにあるいは一詩を賦して、胸中の奇を吐き、また一歌を詠じて満腔の不平を訴え、 あるいは憂えを慰め、欝を散ずるなど、その効能は誠に少なくない。いわんや、これらはみな老後の無上なる快 楽事たるにおいてをやである。 ことに少壮のときに学び得たることを、年老いて復習し、これをなにかに応用する等は、非常に快楽を覚ゆる ものである。古語にも幼にして学ぶものは、日の出の光のごとく、老いて学ぶものはろうそくの明かりのごとし といってあるがごとく、とりわけてこの詩なり歌なりは、少壮のときにこれを修むることはやすいけれども、老 116哲窓茶話 いて学ぶことは決してやすきことでないのである。しかれども普通実用の学をのちにして、もっぱらこの風流的 不急の詩歌にのみふけることは不可である。かくては専門学科を妨ぐること多くして害になる。
人間いかにして禍福の間に身を処すべきか
昔シナに塞翁といえる人があった。一日名馬を得て喜んでおったところが、ある日その馬が逃げ出したれば、 翁は大いに力を落としていた。しかるに図らずもその馬は、また別に他の名馬を伴うて帰りたれば、翁は大いに 喜び、父子で同じく乗って楽しんでいたうちに、その子が馬から落ちて傷つきたれば、翁はまた大いに嘆いた。 されどその子は負傷のために、兵役に出ることを免れしかば、翁はまた大いに喜んだということで、今に至るま で世の人、人事の不如意なるをかこちて﹁人間万事塞翁馬﹂といっている。人はよろしくこれに鑑み、不幸が至 らばかえってのちの幸福を楽しみて、阻喪することなく、幸福が至らばまたのちの不幸をおもんぱかりて油断し てはならぬ。 またあるとき長寿のものがあった。ある人がこれについて長生きの術を問いしに、その人答えて、わがこれま での経験にては、ただ務めて事物の極端に走ることを避け、常にその心をして安くならしめるのみで、別に長寿 の術を知らずと答えたそうであるが、さることもあるであろう。今日は革命の時にあらず
17 わが国維新革命の時にあたり、いわゆる志士と称するものは、一剣家を忘れ、妻子を捨てて奔走したるもので、 1その風なお今日に残りて、これを学ぶものがある。壮士的気取りの人はすなわちこれなれども、またなんぞ思わ 18 ざるのはなはだしきやである。思うに今日は革命の時ではない。維新は時季すでに過ぎたり。壮士必要の時では ー ないのである。前途に横たわれる大事業大難路は、すべからく着実忍耐、奮発精励に待つところがなくてはなら ない。革命の時にありては、工にまれ、商にまれ、一撞千金を得たるものも多かったのであるが、今日および将 来の世間にありては、西諺にいわゆる正直は政策の最上なりとの言葉のごとく、品行と信用とをもって、秩序的 に一銭、二銭を蓄うるの心掛けがなくてはならないのである。 従来東洋人は老ゆれば子に養わるるを目的とすれども、西洋人は老いて子に養わるることは、かえって恥ずべ きこととして、壮年の時に自ら務め蓄え、子の世話にならざるよう覚悟しておる。けだし子の親を養うは子の義 務なれども、親の壮時に自ら老後の計いをなすも、また親の義務である。親たり子たるもの、よろしく壮士的の 軽挙をやめ、独立にして着実に勉強をなすの方法をとらねばならぬ。
古今の兵制
兵をもって鳴り、軍をもって聞こゆるドイッにありては、国民の気風を呼び起こし、その勇壮を鼓舞するため、 兵の必要を知らしめ、国家の大切を思わしむるため、毎朝隊をそろえ列を整えて、市中を行軍するとは実に盛ん なりというべきである。英仏︹イギリス、フランス︺の盛んなるも、また多くこれに劣らないであろう。 わが国は古来勇をもって知られ、各人もまた武をもって栄えとしたるも、近時に至ってはあるいは兵役に出つ るを嫌うものあるは、そもそもなんの心であろうか。しかして昔はよし兵を好みて学ぶものも、匹夫の勇、虎狼の勇多く、 制となり、 がごとし。 個人的に先陣を争う等のことであったが、現代の軍法は決してさることを許さない。今日は団体の兵 百方の駆け引き、進退、その指揮その指揮によりて行動すること、あたかも手足を意に従いて動かす 実に勇ましきことである。
哲学の応用
哲窓茶話 地震、津波等の天災については、ここに一つの問題がある。すなわち金満家は金を出して罹災者を救助し、医 者は手術をもって負傷者を治療し、宗教家は供養して死者を弔慰し、労力者は大工、米屋等みな応分のことをな すに、ひとり哲学者のみはなにをもってこの惨澹たるものを救い、この薄命なるものを助け得るであろうか。こ とばを換えていわば、哲学はかかる場合になんによって、世を益し人を利するのであろうかということである。 かかる大切の場合において、果たして金円のごとく、医薬のごとく、また労力のごとく、これを救うの効能が ないといわば、哲学は禍害に際してはすこしも益のないものともいわれるようなものである。 かの大地震のごときは、実に名状すべからざる天災の一にして、あるいは家を倒し、あるいは人畜を殺し、あ るいは財宝を焼き、あるいは田をつぶし、畑を埋めなどして、誠にいうべからざるの大惨事であるから、損害を 受けた人々は一同失望落胆して、途方にくれ、ために野に出でても耕す所なく、家に入りても織るものなく、昼 は萱からず、夜は縄なわず、なにごとをするにも更に手も着かず、荘々としてなすところを知らないのである。 もしもこれをその失望のままにまかせて打ち捨てて、過ぎ去らんか。その不利益損失は、かえって震害以上であ 19 1 るのであろう。されど何人かがこれを慰安し、これを奨励するのでなければ、災民はただ 然として自失し、無為にして日を過ぐるのみであろう。 20 この時に当たりて哲学者たるものは、進んで災民の惨境に入り、天変の逃るべからざること、地妖の予知すべ ー からざることを説き、過去のことは是非もないが、現世のことはいやしくも打ち捨ててはならぬ。未来のことに ついては計画せざるべからざることを諭し、吉凶禍福は循環するものであることを納得せしめ、このたびの災害 に、かえって将来の幸福を準備するよう、慰諭し奨励すべきである。これ哲学の効用であって、また哲学者の本 領であろうと思う。
吉凶は循環
昔、痘瘡が大いに流行し、ひとたびこれに感染したものは、紅顔の少年たちまちにして白骨となり、艶麗の美 人もたちまちにして粗凹の醜婦となったのである。されば天は長く人をして痘瘡に苦しましむることをなさず、 種痘の法を発明せしめて、天下の宿禍を一掃し、今日はほとんどこの病を知るものもないようになったのである。 しかるにまたコレラ、ジフテリア等のごとき、昔にはなかった病気が流行する。されどジフテリアのごときは、 血清注射の法が発明せられて、また恐るるに足らざることとなった。これによってこれをみるに、天は必ずしも 凶をのみ下すをもって務めとなすものではない。例えば先年水害のため堤防をつぶし、人家を流し、人畜を殺し、 田園を埋めたる等の災いにより、官ではこれがために幾年かの租税を免除したる土地に、その翌年翌々年とも引 き続きて豊作があるなど、天運の循環は実にこのごときものである。もとより↓凶のために失望すべきものでは ない。哲窓茶話 また紀元前の昔にあってイタリアのポンペイにおける地震の変動のごときは、一市ことごとく土中に埋没し、 家は建てながら地獄世界の家となり、人は生きながら地獄世界の人となり、聞くも酸鼻の至りであるが、その後 二千数百年の今日に至りて、この地を発掘して、人畜の乾燥したるもの、または材木の腐朽したるもの、あるい は種々の器物等を得て、大いに考古学者の参考となり、学問上の材料となるがごとき、これまたさきの不幸が、 かえってのちに利益を得しむるものというべきであろう。