輪島港〔中村 裕〕
輪島港の「みなと文化」
輪島港〔中村 裕〕 目 次 第1章 輪島港の整備と利用の沿革... 38-1 1.奥能登の歴史的・地理的特色... 38-1 2.古世代の能登の港と輪島港... 38-2 3.中世の輪島港... 38-2 4.近世の輪島港... 38-4 5.近代の輪島港... 38-6 第2章 「みなと文化」の要素別概要... 38-12 1.船を用いた交易・交流活動によって運び伝えられ、育ってきた「みなと文化」... 38-12 (1)芸能(マダラ文化)... 38-12 (2)言語(海士言葉)... 38-13 (3)神社信仰(キリコ祭)... 38-13 (4)日和山と方角石... 38-14 (5)北前船の船絵馬... 38-15 (6)千石船の模型と板図... 38-16 (7)石造り鳥居... 38-16 (8)弁天池と辰悦丸... 38-17 2.交易による流通市場の形成によって育ってきた「みなと文化」... 38-17 (1)幕末期の輪島港の商品流通概観... 38-17 (2)輪島の豪商久保屋喜兵衛... 38-18 3.航路ネットワークを利用した地場産業の発達によって育ってきた「みなと文化」... 38-19 (1)白髪ソーメンと麦屋節... 38-19 (2)輪島塗椀講... 38-19 4.港を介して蓄積された経済力に基づき、 人々の生活の中で育ってきた「みなと文化」 ... 38-19 (1)輪島の遊廓街... 38-19 (2)海に係わった文学碑... 38-20 5.港を中心とする社会的・経済的営みの総体として形成されてきた「みなと文化」. 38-20 (1)昭和中期以降の港の整備... 38-20 (2)国営の整備工事の推進... 38-21 第3章 「みなと文化」の振興に関する地域の動きと未来への展望 (マリンタウン構想を中心として) ... 38-24
輪島港〔中村 裕〕 所在地:石川県輪島市 港の種類:港湾 港格:地方港湾・避難港 【位置図】 【現況写真】(金沢港湾・空港整備事務所)
第1章 輪島港の整備と利用の沿革
1.奥能登の歴史的・地理的特色 能登半島は、日本海の中央部に向かって100km突出した半島で、「陸の孤島」の 蔑さげすみに 甘んじてきた歴史は長かった。行政的にも古代のある時は越前国の一部であったり、越中 国に併合されたりという時代を経て、正確に立国したのは天平勝宝 9 年(757)であった と言われる。 まず、能登を論ずる時は、能登半島を地域的に3 つに分けて、県都金沢市に近い方から、 「口くち能登の と」、「中能登」、「奥能登」とするのが一般的であり、更に、通俗的にはこの半島の 首の部分である中能登を中心として先端部へ進むと、東北東から西南西にかけて鳳至ふ げ し丘陵 が走っており、その丘陵を挟んで北西海岸を「外そと浦うら」、南東海岸を「内浦うちうら」と呼んでおり、 同じ半島にありながら異質の風土を醸しながら、奥能登は旧鳳至ふ げ し郡と旧珠洲郡が位置を占 めて最果ての色濃い地域を作りだしている。そして、金沢市から鉄路七尾線で奥能登の玄 関口の穴水町に達するようになったのは昭和7 年、そこから半島を横断して輪島市へ延長 されたのは昭和 10 年、穴水町から東へと内浦海岸に沿って能登半島の東北端の旧飯田町 (現珠洲市)まで延長されたのは実に昭和 39 年であったので、全国的にも珍しく鉄道の 無い市が存在した時期があった。しかし、平成 13 年には穴水・輪島間の鉄道が廃線とな ったので、今度は輪島市が鉄道の無い市となり果てているのが現状である。 大同3 年(808)には、穴水・三井み い・大市おおいち(輪島の旧名)など6 つの宿駅は「以不要也」 という理由だけで廃止されたことが、日本書紀に見えることから考えて、昔から能登は盲 腸扱いされ、時には流刑の地にされてきた歴史は長く、常に他の地域の後塵こうじんを拝する地位 に甘んじなければならなかった。 また、能登の歴史は海との係わりで論じられることが多かったが、古世代の日本海文化 の華やかさの割には特に脚光を浴びたとは言い難く、出雲地方や越前方面、また、対岸の 渤海 ぼっかい 国への僅かな交流の痕跡はあったとしても、普く浸透するほどの展開は無かったと言 えるようだ。それは、能登半島には名だたる良港もなく、陸路も不便であるし、加えて深輪島港〔中村 裕〕 雪地という気候的な制約もあったので、関西を中心として開花した日本の文化がこの奥能 登まで波及するには大きな時差があったのである。その反面、一度奥能登へ入り込んだ文 化はそのままに停滞し、沈澱し、風化して意外な時と所に露呈することがあり、これが半 島の持つ最大の特徴であると論じられてもきたのである。 2.古世代の能登の港と輪島港 天平18 年(746)、大伴家持やかもちは越えっちゅうのかみ中 守 として伏木(富山県)に赴任した。その 2 年後 の天平20 年(748)に、その当時越中国であった能登を一巡したことがあり、その時に詠 まれた歌が万葉集に5 首載せられている。 “とぶさ立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾世神びそ” と言う旋頭せ ど う歌もその一首である。古代の能登は造船王国であったと言われ、「船木伐ると いふ」の部分がそれを端的に表している。この歌から察するに、古代の能登は美林の繁る 国であり、数多あ ま たの軍船が列をなして東北征伐に出港して行ったであろうその光景を彷彿さ せるものがあり、この事蹟が能登国の海運の先駆であったと思われる。 能登を海との係わりから眺めてみた場合、先ずは対馬暖流によってもたらされる海の幸 を挙げるのが一般的である。“あいの風”(北東風)や“下りの風”(南西風)の季節風など は能登の民衆にとっては「常世と こ よの国」の幸を運ぶ神風として捕らえられていたに違いない だろう。また、平安時代に成立した延喜式え ん ぎ し きに見られる古代の租税の公式ルートは、越中の 亘理津わ た り つ(伏木付近)~能登加島津(七尾付近)~加賀比楽湊(美川)~越前敦賀港~琵琶 湖~大津~京都へと運ばれたので、その間の中継地として、鳳至ふ げ し郡の郡衙ぐ ん がのあったと考え られる大屋おおやのしょう荘の港(後の輪島港)もすでに開かれていたであろうと考証されてきた。また、 鎌倉時代には関東や東北への航路も開かれており、十三と さ湊を本拠として東北地方の木材や 鮭などの物資を仕入れて、能登をめぐって越前三国に寄港し、更に南下して敦賀や小浜方 面に運搬や交易をしたと伝える廻船があったと言われる。なお、敦賀には延暦寺の経営す る澗まがおかれ、この澗まは北陸に点在する延暦寺領の年貢米の輸送に関与していたと言われ ており、延暦寺青蓮院領であった大屋湊(輪島港)への往来も十分考えられるのである。 3.中世の輪島港 輪島港に関する最も古い史料として深見村の亀井家所蔵の古文書がある。 “祖先は、郷土の豪族で郷主であった。それ故に当地方の村名を「親村」と呼び、或い は深見谷村と称された”とあり、また、元暦元年(1184)8 月 17 日、下坂伊豆守から当 時の親村役人仙右ェ門(亀井家の何代目から祖先)へ遣わされたお墨付きに、 “海上は百余里、七つ島・へぐら島を始め 36 島、並に大島・小島・松前の国境まで親 村支配被仰渡一途之道急度相守可者也” とあって、親村の海上支配権は非常に広大なもので、輪島沖の七つ島・へぐら島から北方 は北海道松前の国境までに及んで、海上百余里の間の支配権を任されていた仙右ェ門の豪 勢さは実に素晴らしいものがあったことが推測される資料であり、この親村の支配下にあ った輪島港は、その頃から大屋荘「親の湊」と呼ばれるようになったものと推察される一 資料として高く評価されている。 また、越前の内田家旧蔵の「廻船大法」には「三津七さんしんなな湊そう」をあげており、それには、
輪島港〔中村 裕〕 ○三津さんしんには、 ・伊勢の姉津-三重県津市 ・博多の宮津-福岡県博多 ・泉洲の洗津-大阪府堺港 ○七なな湊そうには、 ・越前-三国 ・加賀-本吉 イマ三馬なるべし ・能登-輪島 ヲヤ小屋なり ・越中-岩瀬 ・越後-今町 ナヲヤ直江なり ・出羽-秋田 ・奥洲-津軽十三の湊 を列記している。これは、天正9 年(1581)の写本なので、新旧の地名を取り混ぜて記さ れているが、能登では輪島港、もと「ヲヤ小屋なり」と表記して、古代の小屋郷、中世の 大屋荘の港であることを示しているのである。輪島漆器の木地き ぢの原木として重用なアスナ ロ(木名)の元祖と称される大木が現在、市内浦上町に現存する。この木は奥州よりもた らされたという伝承があり、この航路なしには考えられないのである。 また、お伽草子の一編に、“かかる所に国を申せばのとの国おやのみなとに住まひなす 人商人あきびとは見付け申して・・・”とあり、11 歳の玉つる女(人名)が能登国大屋湊に住む人 買いの手にかかって売られる物語や、幸こう若わか舞曲の「信田し だ」にも、“さだむるかたのなきま ま、あしにまかせて行くほどに能登国に聞こえたるおやのみなとに着かれけり、このみな とには夜盗よせくるべしとて・・・”などの記述があり、物語の主人公たる信田小太郎の 腰掛石なるものが輪島港の近くに現存しているのである。 時代は下って、慶長2 年(1597)に豊臣秀吉が伏見城作事用の杉材をたびたび東北から 送らせているが、この廻船業者の中に輪島の坂下某なる名前が出てくる。こうして見ると 輪島港は、日本海沿岸の諸港の中でも有力な海運業者がすでに中世期から存在していたこ とが分かり、当時から輪島の特産品であった白髪素麺などは遠く都へ送られて、貴族らの 贈答品として珍重されていたと言われており、熨斗の し鮑をはじめとする海産物も多く産出さ れた歴史もあるなど、農民、商人、 手工業者などの多数が寄り合って 発達した港町、それが大屋湊、親 の湊と呼ばれた輪島港なのである。 【中世の小屋(輪島)湊図】
輪島港〔中村 裕〕 【小屋湊の信田小太郎(舞の本「志太」、 【中世能登半島の沿岸地図】 国立公文書館所蔵)】 4.近世の輪島港 江戸時代に入っての輪島港は輪島村であった河井、鳳至ふ げ し、海士あ ま、輪島崎の四地区の港で、 河原田川と鳳至ふ げ し川が合流して海に注ぐ河口部に発達した港であった。そして、海に向かっ て北西部に突き出た岬が輪島崎岬で、自然の岩礁が堤防の役割を果たし、多くの廻船が入 ってきたようだ。輪島崎村の澗 役うるまやくは3 貫 922 刄 2 分で、福浦港に次いで高く、能登名跡 志(昭和 3 年出版)には“湊は数百艘の船不絕、小屋の湊とて繁昌也”と記されており、 現在でも“トイヤシ”(問屋衆か?)と呼ばれている地区には 7 軒の船宿兼船問屋が建ち 並んでいたそうで、当然その近くの高台には 澗 改うるまあらた番所があり、眼を光らせていたと言わ れ、「輪島町絵図」にはそれらが明確に描写されているのである。 そもそも、輪島港は元来風待ち港(避難港)としての性格が強く、この港で活発な交易 をするよりも、各地に出掛けて海運業に従事する船主が圧倒的に多い港であったと言う。 近世初期には坂下某や端田某の名前が出てくるが、中でも著名なのは中期から後期に活躍 した久保屋喜兵衛であった。(後述) 延宝8 年(1680)の同代の遺言状に持ち船の記載があり、千石・七百石・六百石の 3 艘 を所有していたとあり、また、江戸時代後期には河井町市郎兵衛や、鳳至ふ げ し町忠左衛門など の名前が出てくるが、中でも忠左衛門は“浜屋”という家名で現存し、文化・文政期には 質屋も始め、加賀藩の御用銀納入者として、町の分限者であったと言われる。また、下北 半島の佐井町の豪商能登長左衛門(旧姓畠山)は寛永年間に輪島から移住して大成功した 人であり、同半島の脇野沢の旧家は能登半島出身者が多いと聞いており、恐山の常夜灯の
輪島港〔中村 裕〕 寄進者には鳳至ふ げ し町稲本屋名右衛門(塗り物商売)の名前もあると伝え、現在、鳳至ふ げ し町住吉 神社境内にも嘉永6 年(1853)6 月に常夜燈を寄進したものが立っている。 【奥津比咩神社に奉納 されている船絵馬】 【昭和の北前船「辰悦丸」】 【輪島港日和山】
輪島港〔中村 裕〕 【200 石以上廻船】 【遠隔地から入津した船主(嘉永 2 年)】 【敦賀からの入津品(嘉永 2 年)】 5.近代の輪島港 能登半島の先端に位置する輪島にとって、まず難関は、金沢までの距離の遠さであって、 この立地条件の悪さを如何に克服するかということが、輪島発展の最大の問題であった。 江戸時代から明治初期にかけての所謂、北前船時代には船という交通機関を使って、他の 地域と肩を並べてそれなりに交流できた。特産の白髪ソーメンや、輪島塗の搬出にも便利 であった。全国に輪島塗の名声を喧伝けんでんする機能を港が持っていた。江戸時代の交易は陸上 交通よりも海上交通の方が主体であったので、どこの港町も活気を呈していたであろう輪 島も例外ではなかった。中でも寛文12 年(1672)の西廻りの海運は能登半島の先端に位 置する輪島は、他と比較して優位の座を占めて経済活動が進められたことは確かである。 ところが、幕末から明治にかけては帆船から機械船に移行し、従来の買積船から賃積船へ と変わるにつれて、遠浅の輪島港は地理的な優位性を失い、昔の三津七さんしんなな湊そうの誇りは影を潜 めざるをえない時代になってきた。これが輪島の近代史の始まりであって、輪島港の改修
輪島港〔中村 裕〕 こそが最大の課題として浮上することとなった。そこで、大正時代の動きを概観すること とする。 大正2 年に輪島商工会が創立され、その役員会で輪島築港建議案を県会に提出すべく決 議されたのが嚆矢こ う しである。この築港運動に刺激されて外浦航路への県費補助運動も持ち上 がった年でもあった。思うに、帆船に代わって機械船が主流になると、港の良否によって 港町の繁栄が従来に比べて倍加される傾向があった。そこで、輪島でも内浦に向けて定期 船の就航を期すべく、汽船会社の設立を目論むこととなり、県会に対して運動が始められ た。その結果、1 万円の県費補助を受けて 5 万円の会社を興すこととなった。実際の外浦 航路は七尾の共益汽船会社と能登汽船会社の協同事業で、この年から七尾・輪島間を隔日 航海することとなり、その後、丸島回漕店に受け継がれて隔日航海から毎日航海となって いる。ところが、8 月 27 日の暴風により、珠洲郡真浦沖で遭難事故が起きたことが近因と なり、能登半島外浦に避難港の必要が叫ばれ出して、商工会を中心に輪島築港を具体化す べく、専門家に実地視察を乞い、住民に対しても与論を喚起する運動を始めることになっ た。それも県営で工事を遂行すべく、地元選出県議が積極的に動き回った年でもあったと 語り継がれている。 大正3 年には県費補助と、地元有力者の助成を網羅して新設会社を興し、3 月に開業の 運びとなったのが石川汽船である。ところが海上交通の発展を目差してはいたが、築港の 遅れはその発展を妨げており、まだまだ安定した海上交通路とはなり得なかったのである。 大正4 年、石川県知事が交替して太田知事が就任した年で、同知事は 5 月に能登の視察 に廻られ、18 日に宇出津から輪島に到着。林町長の案内で、観音山から輪島港を眺められ、 次期町長の熊野熊次郎より築港構築案を聴取された話は有名で、今に伝えられている。 大正5 年、輪島では水産業にも力を入れ始め、県の補助もあって漁業組合では発動汽船 を進水した。それが舳倉へ ぐ ら丸で、輪島では初めての機械船で20 馬力、15 トン、建造費は 4 千円であったという。この年桜井代議士も来輪され、その歓迎会の席上でも築港の話題が 中心になったと言われている。このように地方民と代議士が親しく隔たりなく語り合った のは輪島の歴史で初めての快挙であり、いよいよ防波堤構築へ向けて拍車がかかった年で もあった。 大正6 年には輪島築港の先駆者の 1 人である熊野熊次郎氏が町長となるや、新任早々よ りその抱負の一端として町議会に諮って、港の測量費を計上させている。ところが、予て 病気療養中であった熊野町長は9 月に永眠されることとなり、町議会ではその功労に対し て表彰文を決議し、有志各位の尽力によって顕彰碑が建立され、現在は鴨ヶ浦に聳え建っ ている。 大正末期の動きとしては、「県下外浦海岸線の長さは、百有余里に達するが、港を作る ための形勝の宜しいのは輪島港以外に求められない。しかし、此の形勝を空しく造化の故 態に委せたままで何等の施設を加えないで、その利用を阻めるようでは輪島にとって大き な損失である」という理由で、輪島港構築の議が唱えられてからすでに数年経っているが、 大正中期を過ぎても容易にその機運を掴み得なかったので、輪島町では具体的計案を建て て県当局に諮った結果、県もその必須事業であることを認め、大正9 年と 10 年には細密 な調査や測量を行い、工費20 万円で大正 11 年度から 3 ヶ年継続事業として施行すべく県 会の議決を得ている。
輪島港〔中村 裕〕 この時の工事の概要は竜たつヶ崎礁を利用して北方に 60 度の廻旋角度を持った延長 180 間 の防波堤を築き、来襲する波浪を防ごうとするものであった。この防波堤によって抱擁さ れる海の面積は6 万 8 千坪で、最大時化し けの時には500 トン級 3 艘、300 トン級 4 艘、発動 機漁船13 艘を同時に安全繋留することができる計画であった。以上が大正 14 年度までに 完成するための第1 期工事であるが、将来的には更に防波堤の延伸、増設、陸上設備も必 要となるので、運動を継続することとなっていた。 輪島港は、港付近一帯に岩盤や岩礁があるために船舶の航行が阻止され、また、冬期の 偏西風は強い波浪を伴って港内に侵入し、船舶の繋留を不能として、港の利用に大きな支 障を来たしていた。そこで、県当局は暗礁除去をも計画し、昭和2 年の第 1 期工事に引き 続き、第2 期工事として第 2 堤防を昭和 5 年に完成させて、指定港の認定を受けている。 その後、鳳至ふ げ し浜・海士浜の岩壁造成工事や、第3 堤防造成の第 3 期工事などの完成を見た のは昭和11 年の事であった。大正 11 年に着工してから実に 15 年の歳月を閲けみしての輪島 港の完成であった。 【鳳来山之景(明治 31 年)】 【能登地誌略(明治 14 年)】
輪島港〔中村 裕〕
【二本マスト様式帆船(輪島川尻)大正初期】 【熊野熊次郎碑】
輪島港〔中村 裕〕
【北前船寄港地】
【第一堤防完成直後の港内(昭和 2 年)】 【第一堤防と岸壁造成が終わった直後の俯瞰 (昭和初期)】
輪島港〔中村 裕〕
【輪島港俯瞰(昭和 10 年代)】
輪島港〔中村 裕〕
第2章 「みなと文化」の要素的概要
1.船を用いた交易・交流活動によって運び伝えられ、育ってきた「みなと文化」 輪島の文化は古代より潮流による交流であったことは歴史的に証明されてきた。即ち、 往古よりこの親の湊が海路の主要基地として栄え、ために、大陸文化が九州や出雲から、 また、京畿文化が若狭湾を経由して移入され、北からは所口、伏木、酒田、松前から北前 船によって入ってきた歴史が強調されてきた。 (1)芸能(マダラ文化) 現在、輪島で日常的に唱われている芸能に「マダラ」がある。これは、処々の港町を中 心に歌い継がれてきた七・七・七・五調の合唱民謡である。この民謡を輪島では伝統的祝 い歌と捕らえて、宴席などで全員で唱和する習慣になっている。宴会の乾杯の後、頃合い を見計らって司会者からマダラの唱和が告げられると、全員自席に戻って「落ち着きマダ ラ」の大合唱が始まり、宴会の終了時には「締めマダラ」が唱和されて宴会のお開きとな る作法が昔から固定化されてきた。 このマダラの起源については①佛教の曼陀羅説、②肥前の馬ま渡だら島の舟歌説、③出雲大社 の神謡説など諸説があるが、いずれであったとしても、藩政期から発達した北前船の往来 が媒体であることは明白であり、北前船の寄港地には必ず「マダラ文化」が根付いている と言われている。その意味で、「マダラ文化」は汎日本海文化そのものであると言うことに なるようだ。 筆者の幼少時代の昭和初期、輪島崎地区には7 軒の船宿とも船問屋とも言われる建物が 軒を並べていた。だから、日本海を航行中に時化し けに遭遇すると、早速親の湊に逃げ込み避 難することになる。そして、数日間は船宿に逗留するのだが、水夫か こたちは夜な夜な徒然な るままにこの船宿で酒を飲み交わし、マダラなどの民謡を高歌放吟していたのだろうと想 像できるのである。 現在、このマダラは輪島塗の業者を中心にして歌い継がれている「輪島マダラ」と、漁 村を中心に歌われている「輪島崎マダラ・アノリ」の2 種類が伝承されているが、能登で は「七尾マダラ」もあり、この3 つを「能登のマダラ」と名付けて昭和 41 年に石川県は 無形民俗文化財に指定し、その継承と保存に力を入れているところである。また、このマ ダラには日本海の「心」が凝縮されているとされ、同時に日本海に活躍した先人達の「心」 が脈々と流れているとも言われているので、今後の町おこしの素材としても十分に機能し 得るものと期待するものが大きい。さらに、後者の「輪島崎マダラ・アノリ」の場合の「ア ノリ」とは「安乗り」と考えられており、海に直結した歌詞も幾つかあることから推測し て、神に捧げる奉納歌としての色彩が強く、毎年、1 月 10 日には神前で歌い初めの唱和が 行われ、その年の海上安全と大漁万足、住民の平安を祈念する行事として定着している事 とて、これこそ日本海の「心」を感得する有意義な行事であると考えられている。 【輪島マダラ歌詞】 松にひな鶴千歳の春は 岩屋清水に亀が住む輪島港〔中村 裕〕 めでためでたの若松様よ 枝も栄える葉も繁る 【輪島崎マダラ・アノリ歌詞】 祝い目出度い思うこと叶うに 末は鶴亀五葉の松 マダラ 新造目出度い八帆巻きあげて 思うた港へそよそよと 新造船アノリ 此処の座敷は目出度い座敷 鶴と亀とが舞をする 新築祝いアノリ また、祭礼などの行事に歌われる「伊勢音頭」なども、このアノリと同じく海からの伝 播と考えられ、歌詞は目出度い歌詞ばかりで、マダラの歌詞と重複するものが多く、七・ 七・七・五調である。 (2)言語(海士言葉) 輪島港に面している町内の1 つの海士町は、特異な文化と言語を今に伝えている。この 町内の発祥は永禄12 年(1569 年)に九州筑前国(現在の宗像市鐘崎)から渡ってきた歴 史を持ち、その後、慶安2 年(1649 年)に加賀藩主より 1 千歩の土地を拝領して開町し た町内で、人口2 千人余、400 戸を擁して、夏場は舳へ倉ぐら島へ季節移住をして潜り業に従事 していた歴史は長かった。このような出自歴を持っているので、風俗、習慣、言語などは 隣接町内と著しく異なり、特に言語は九州の訛りに近いと言われ、海からの文化の伝播を 立証する言語を持っているので特筆した。いくつかを列記すると、 ・若年の父 アニ ・同輩の汝 ワドモ ・老年の父 チャー ・卑族の汝 ナーダ ・若年の母 アネ ・沢山 エンザイ ・老年の母 アバ などで、輪島では「アマ言葉」と称しているが、最近では他町内との婚姻が進んでいるの で、この言語も徐々に消滅するものと思われる。 (3)神社信仰(キリコ祭) 古代日本人の固有信仰に従えば、海のはるか彼方には神の世界があり、祖霊の世界が存 在すると信じられてきた。いわゆる「常世と こ よの国」である。その世界から時あって、はるば ると神が渡ってくるものと期待もされてきた。そこで、海辺で定期的に神迎えの祭祀を営 むという古い信仰や習慣が能登各地に現存している。これが能登半島には色濃く残ってい る漂着神信仰や、渡来神信仰であると考えられるのである。能登一帯には 80 ヶ所以上の 伝統的なこれらの信仰行事がある。輪島港に面した4 つの町内の神社でも、必ず海辺や川
輪島港〔中村 裕〕 辺で祭祀が斎行されるのも、その表れであると考えられる。大きな柱松明を燃やして祖神 来迎の目じるしとする神事は毎歳盛大に行われるのも、やはり海への信仰に他ならないの である。 また、能登の祭礼の特徴として「キリコ」と呼ばれる大きなご神燈が神輿のお供として 担ぎ出される場合が多い。キリコとは切子燈籠をちぢめた呼び名で、本来的には神輿の進 む夜道を照らすあかりの役割を果たすものであるが、この「キリコ文化」は能登半島だけ のものとして行われるようになったのは江戸時代の文化・文政(1800 年代)頃だと言われ てきたもので、青森の「ネブタ」、秋田の「竿灯かんとう」などの日本海文化の一環としてのキリ コ文化を考える時、やはり海の文化の要素を十分に備えているようだ。それは、キリコの 形は何をイメージしているのだろうか。それは船ではないのか。帆船ではないのかという 見方もあり、能登人の船に対する敬虔けいけんな気持ちがキリコの造形に大きな影響を与えたので はなかろうかと考えられるからである。 【キリコ】 (4)日和山と方角石 昭和 47 年に東京大学教授、故南波松太郎先生によって、輪島港の日和山の確認と方角 石が発見されたのは一大快挙であった。 輪島は古来、能登の政治・経済・文化の中心地であり、源平ゆかりの地でもあった。ま た、有名な「おけさ節」の“佐渡は四十九里波の上”と歌われる四十九里の起点とも目さ れていた。「能登名跡志」(安永6 年、太田道兼著)には“輪島港には夏期数百艘の船が絶 えず・・・”と記されている通り、日和山の灯明台には夏中明かりが点って繁昌していた ものと思われる。その灯明台は現在では、新式の竜ヶ崎灯台に変身して昔を想像させる存 在になっている。発見された方角石には享和4 年(1804)の印刻があり、日本で最も古い 年号入りの方角石として市の文化財に指定されている。
輪島港〔中村 裕〕 【方角石】 (5)北前船の船絵馬 寛文年間に東廻りや西廻りの航路が開かれてからは、東西の物資が船によって運ばれる 北前船が盛んに日本海を航行することになった証として、市内の神社には沢山の船絵馬が 奉納されている。紙面の都合で詳細な論述はできないが、先ず、広江八幡神社の船絵馬(市 指定文化財)を筆頭にして、 ・輪島前さき神社 六面 ・鵜入八幡神社 二十七面 ・光神社 二十六面 ・奥津比咩ひ め神社 十面 が現存している。 【北前船の船絵馬】
輪島港〔中村 裕〕 (6)千石船の模型と板図(市指定文化財) 市内、奥津比咩ひ め神社のご神船として陳列されている安政期の北前船を十分の一に正確に 写し出している模型であり、造船技術史上の価値で最も優れているとの評価を得ている模 型である。また、千石船の板図(設計図)は全国的に初めての発見と言われ、これも十分 の一の縮尺で正確に画かれている。一面は弁徳丸とあり、文化文政期のもので、他の一面 の船名は不明ながら、嘉永・安政のものと考えられ、日本造船史研究上必須の資料である と言われている。 【千石船の板図】 【千石船の模型】 (7)石造り鳥居 市内住吉神社の鳥居は御影石製で、輪島で最も古い石造り鳥居(文指定文化財)と言わ れる。建立年代は享保 2 年(1717)、願主は鳳至ふ げ し町久保屋喜兵衛、石大工は大阪の江戸屋 儀兵衛となっている。重い石材を 11 箇に分解して、北前船で大阪から運んだものと言わ れ、組み立てるのに米の空俵に砂をつめて積み重ねて踏台としたと語り継がれている石島 居である。 【住吉神社】 【石造り鳥居】
輪島港〔中村 裕〕 (8)弁天池と辰悦丸 輪島港の北端に小祠の弁天神社が鎮座している。言わずと知れた海上安全の守護神とし て船問屋の信仰を集めていた小宮である。その傍らに「弁天池」なる天然池がある。言い 伝えでは入港した北前船の飲料水の汲水池であったと伝える。約四畳間ほどの池である。 この池で眼を洗ったり、その石苔を服用したと伝えている神泉であって、その存在故に昭 和61 年 5 月には淡路島で建造された「昭和の北前船辰悦丸」が県下で唯一港、輪島港に 寄港した際の大イベントの会場となった場所でもあった。その時に建てられた記念碑の材 料は昔の北前船の帆柱が使用されて、意味深いものとなっている。 【昭和の北前船「辰悦丸」】 【辰悦丸寄港之碑】 2.交易による流通市場の形成によって育ってきた「みなと文化」 (1)幕末期の輪島港の商品流通概観 北前船という船の呼び名は、学術的には弁財船と言うべきもののようで、北陸方面から 通ってくる船という意味から付けられた呼び名である。そして、大阪と蝦夷え ぞを結んで、日 本海や瀬戸内海に活躍した廻船(商船)を総称して呼び親しんでいたのである。輪島では 千石船とも呼んでいたようで、大阪が天下の台所としての地位を確立するにつれて、日本 海沿岸の商品も当然大阪に流れ込むことになり、特に東北からのご城米を積み込んで送る 必要もあった。この西廻り航路を開いたのは河村瑞賢であって、寛文年間(1670~)のこ とだと伝えられる。これに促されて、一般の海運も急速に発達するようになっていったと 伝えられている。 嘉永2 年(1849)の「浦口銭取立書上申帳」によれば、同年に輪島港へ入ってきた商品 や、その積み出し港が分かり、口銭徴収品目数125、船数は延べ 75 艘となっている。 まず、輪島へ入ってきた商品のうち、口銭の多いものは、小麦、漆、米、蝋燭、菜種油 である。小麦は勿論輪島素麺の原料である、新潟、寺泊からが多く、近在の伏戸、大野、 時国、小田屋からも入ってくる。菜種油は素麺作りにも使用されるもので、敦賀や三国か らも入ってきている。米は秋田米、庄内米、越後米が多く御国米としては岩瀬・滑川・魚 津・水橋の御蔵米や町蔵米が約1300 石も入津している。輪島塗関係用品では、漆は新潟、 今町からのものが多く、その他の用品はほとんど敦賀からのものである。嘉永6 年(1853)
輪島港〔中村 裕〕 の国産品奨励策に対して、どうしても他国から入津しなければならない品を十村が書き上 げて 郡こおり奉行に申請しているものの中に、奥郡の米、麦、漆、朱、金粉、銀箔、吉野紙、き せ物布、木賊と く さ、鮫皮の十品があげられている。輪島地場産業の必需品であったことが分か るのである。 一方、慶応元年(1865)の「他国出口銭取立帳」を見ると、輪島から他国へ送り出され た商品と送り主と送り先が明白で、146 件中 120 件が輪島漆器の家具櫃であって、この月 の家具櫃の大(20 人前)だけを集計すると 624 箇もあり、金額総額は約 2500 両となって おり、輪島塗産業の隆昌が伺い知られるのである。 輪島漆器は塗師職の人々が客から注文をとって製造し、販売するものなので、賃積みで 何人かが共同で積み込みをしていたようである。このように輪島港は大規模船主による遠 隔地交易と合わせて、小規模船主による近距離交易、いわゆる地廻り交易も活発に行われ ていて、地場産業の発達に大きな役割を果たしていたことが分かるのである。次の表は輪 島塗製品の送り先一覧表である。 敦賀 31 大野・宮腰 11 伏木 9 三国 9 岩瀬 7 庄内 6 今町 5 松前 5 糸魚川5 箱館 3 但馬 2 氷見 2 滑川 2 魚津 2 泊 2 柏崎 2 新潟 2 安宅 1 酒田 1 小木 1 吉浦 1 長岡 1 高月 1 船見 1 水橋 1 田鶴浜1 所口 1 赤間ヶ関 1 佐渡 1 雲州 1 (2)輪島の豪商久保屋喜兵衛 輪島の俗謡に “アイよ吹け吹け上りの船は 荷役すませて風を待つ” “お前上るか私は下る 親の湊でまた逢おう” “新造作って松前下る 上る中身は昆布・鯟” などが残っており、当時の輪島港の賑わいが目に浮かぶようである。 輪島には、久保屋喜兵衛という能登きっての船問屋があった。久保屋は代々喜兵衛を名 乗り、4 代目の喜兵衛は海運業を始め、5 隻の北前船を所有していたと言われる。大阪に 出張所も設けて香料や紅花などの染料や呉服もの、紙類などや各地の産物を取り扱って、 薬種問屋も開業していたと言われる。中でも、7 代目喜兵衛の商業活動は最も華やかだっ たようで、会津ローソクの売買では、天下の銭屋五兵衛を相手に堂々と正論をつらぬいて、 藩の奉行衆を驚かせたと伝えられている。また、天保年間(1830~)は全国的に天災が続 発した頃で、輪島でも大洪水・地震・津波などの被害で悲惨を極めたと言われた時に、率 先してお粥を炊き出して被災民を救済した篤志家として住民の信頼を集めた大人物であっ たと伝えられている。その上、久保屋家は代々風雅の道を愛した家柄で、8 代目は俳号を 朱竹、9 代目は守朴、10 代目は紫竹と号して、沢山の俳句作品を残している。
輪島港〔中村 裕〕 3.航路ネットワークを利用した地場産業の発達によって育ってきた「みなと文化」 (1)白髪素麺と麦屋節 “輪島麦屋は七軒ななやけ八軒や や け 中の麦屋に市いちが立つ” 輪島の産業の先駆けをなすのは鍛冶屋と素麺業で、天正15 年(1587)には素麺御印が 出されていることから、すでに素麺座が組織されて、製造・販売を独占していたと言われ ている。これは輪島特産だった「白髪素麺」の製造で、輪島には 70 軒余りの業者が存在 していたと言われている。この材料となる小麦の搬入、製品の搬出などは当然、港の存在 があってのことで、海との係わりの産業・文化として特筆されてきた。この産業の労働力 として近隣の集落から沢山の娘たちが働きに来ていたと言われ、その労働の過酷さを歌っ たのが麦屋節であった。 “輪島名所と呼ばれてきたが 何が名所や麦ひきや”(輪島市民俗文化財) (2)輪島塗椀講 素麺屋に続いて起こったのが輪島漆器業である。この産業の隆昌には3 つの力点があっ た。先ず1 つは、門前町に建っている総持寺の存在である。全国に 1 万 5 千の末寺を持ち、 そこから毎年1 千人の僧侶が交替で集まってくる習わしで、これらの僧に連れ立って全国 に販路を広げたと言われる。2 つには北前船という海の路があったことが、大量販売を可 能にしたこと、3 つには、「椀講」と言う販売方法が異状なほどに受けて販売が促進された と言うことである。椀講とは一種の頼たの母子も し講で一定の年会費を積み立てることによって20 人前の朱塗り本膳・四つ椀・平椀などの輪島塗一式が揃えられるという方法で、注文を受 けた製品はすべて北前船で積み出したものだそうである。 【大正時代末期から昭和初期頃の漆器の納品風景】 4.港を介して蓄積された経済力に基づき、人々の生活の中で育ってきた「みなと文化」 (1)輪島の遊廓街 全国どこの港町でも遊里の存在は一般的であって、輪島でも例外ではないのである。筆 者の幼少時代には、輪島市街地の東方に「免許地」と呼ばれた一角があった。北前船時代
輪島港〔中村 裕〕 には大変繁昌したであろうと思われる遊廓街の現代的呼び名であって、公認の赤線地区な のである。北前船の水夫か こたちの最大の慰安場所の存在であった。 (2)海に係わった文学碑 著名な文人達の来訪はその時々に歌や句の碑文として残っているが、その中でも海に係 わるものだけを抄出すると、 ①大伴家持の歌碑 天正 20 年(748 年)に国守として能登を巡行して、輪島付近で詠んだと考えられる万 葉集の歌碑。 “沖の島い行き渡りて潜かづくちふ 鰒 あわび 珠もが包みて遣やらむ” ②昭和天皇御製碑 同天皇は、昭和33 年に行幸啓された時の記念碑であって、 “かづきして 鮑あわびとりけり沖つ辺の 舳へ倉ぐら島より来たるあまらは” ③大谷句佛の句碑 句佛師は東本願寺の管長であり、昭和3 年に来輪された本名大谷光演師である。 “念佛の味をも能登の干 鮑あわび” これらの3 つの句歌は奇しくも「あわび」を題材として詠まれているのが共通項であっ て、それほど輪島はあわび貝という特産物を全国に移出していたことの証左として特筆し たい。これらも、輪島の持つ「海の食文化」なのである。 【昭和天皇御製碑】 【大谷句佛の句碑】 5.港を中心とする社会的・経済的営みの総体として形成されてきた「みなと文化」 (1)昭和中期以降の港の整備 輪島は、昔から物資の輸送中継港の他に沿岸漁業の基地として漁港的色彩も強く、特に 近年では漁業専管水域200 海里時代を迎えて日本海の漁場開発が進み、能登半島の沖合に ある大和礁・北大和礁・白山瀬が脚光を浴びてきた。それと並行して、水産物の生産・流 通・加工などの近代化推進、更には県内外からの大型船の受入増加による水揚げの増大や
輪島港〔中村 裕〕 地元漁船の増大・大型化などに対処する必要に迫られてきた。因みに、平成の現在、港内 には無慮400 隻もの漁船が蝟集いしゅうする港となって沿岸で採れる新鮮な魚介類を「輪島朝市」 に供給し、輪島の観光の一助となっている。 それらのために、昭和28 年より第 1 次整備工事が始まり、第 1 防波堤の延長工事によ って、昭和40 年度には計画通り完遂された。防波堤 183m、防砂堤 100m の建設となった のである。 【昭和中期の輪島港】 (2)国営の整備工事の推進 そんな中で、昭和26 年 9 月には、避難港の指定を受けることとなった。それは、全国 36 港の 1 つに指定されたということで、そのためにも機能的な船溜まりの拡張の必要に迫 られて、昭和28 年から 40 年にかけて国の第 1 期直轄事業として防波堤や防砂堤を築造、 更には避難泊地(避難水域)拡大の見知から、沖合に防波堤たる第4 防波堤が着工された。 これは、国の第2 期直轄事業として昭和 53 年から着手したもので、「作業基地造成及び資 材搬入用作業橋の架橋」(みなと橋)を始めとして、昭和56 年からは第 1 堤防の外側沖合 に第4防波堤を現地着工することとなった。全体の計画は1,350m の長さで、現在 1,170m が 完 了 し て い る 。 残 り 180m 完成の暁には、避 難船(100 トン~300 ト ン)7 隻が同時に避難で きる港になると言う。 この第4 防波場は、能 登半島沖を通過する船舶 の安全を確保するために、 冬期波浪の主方向である 北北西の波浪を遮り、背 後に船舶が避難できる広 大で静穏な水域が生み出 されると考えられ、次章 【輪島港鳥瞰写真】
輪島港〔中村 裕〕 で述べる「輪島港マリンタウン構想」はこの静穏域の利用の1 つであると言われる。
【輪島港平面図】
【輪島避難港起工式挨拶文(昭和 26 年 9 月)】
輪島港〔中村 裕〕
輪島港〔中村 裕〕
第3章 「みなと文化」の振興に関する地域の動きと未来への展望
(マリンタウン構想を中心として)
この事業は輪島港の繁栄と共に歩んできた輪島を、現代において更に発展させ、海・港 を中心とした魅力ある町づくりを目指して、石川県と輪島市が共同で事業を行っているも ので、平成になって間もなく土地利用計画を策定、平成7 年に埋立免許を取得し、既成中 心市街地の約6 分の 1 に及ぶ 18.7ha の埋立造成を進めており、平成 21 年度に竣工を予定 していると言う。 具体的な施設整備としては、大型客船対応の岸壁の建設を目玉としていて、輪島にとっ ては全く新しい機能を備えることを目論むものであり、また、水に親しむことのできる階 段状の親水護岸と、その背後に広がる広大な港湾緑地、「輪島朝市」の玄関口に位置する観 光交流施設なども計画されている。その上、西側の埋立地は先行整備区域として平成 15 年の能登空港開港に合わせて多目的広場として整備しており、「輪島市民祭」、「農林漁業祭」、 「かに祭」など様々なイベントが開催されている現在である。 「みなとまちづくり」を目指すこの「輪島港マリンタウンプロジェクト」の推進のため に、平成19 年 2 月には「輪島港マリンタウン活性化協議会」も発足したことでもあり、 この協議会を中心にして、 ・大型客船の寄港の実現 ・輪島港の利用・活用の推進 を目標として、観光都市・輪島塗産業の拡大・漁業振興の一層の飛躍をこいねがうもの である。 【マリンタウンプロジェクト鳥瞰図】輪島港〔中村 裕〕
【マリンタウンプロジェクト位置図】
輪島港〔中村 裕〕
【鴨ヶ浦海岸から見た第四防波堤の遠景】