著者 パイエ 由美子
雑誌名 同志社大学日本語・日本文化研究
号 14
ページ 29‑56
発行年 2016‑03
権利 同志社大学日本語・日本文化教育センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014440
要 旨
敗戦後に平和の武道として飛躍的に発展を遂げ、日本を代表する現代武道の一 つとなった合気道は、植芝盛平によって創始された武道である。その発展の時期 の背景にある合気道思想とはいかなるものであるのか。本稿では 1943(昭和 43)
年の合気神社創建以降の合気道思想について、創建以前の思想と比較しつつ明ら かにするものである。敗戦前後の混乱期における合気道の様相についても言及す る。
身体観・技法観、修行観、そしてその修行を行う際の心法という三つの観点に ついて解明し、出口王仁三郎の思想との関連性と共に合気道思想がどのように展 開していったのかを考察した。身体観で新たに展開されたのは①魂と身体との関 係性について述べる「魂魄」という言葉であった。②言霊のイキは、世界と、ひ いては宇宙と調和する道具として捉えられていた。修行観では、あまり変化はみ られず神社建立以前の思想が継承されていると考えられた。心法については、① 気に対する捉え方の変化がみられ、気の概念が合気道において重要なファクター として捉えられていた。この時期に植芝盛平の合気道の気のあり方が確立された と言える。②呼吸は、その行為そのものが意義付けられて、呼吸によって宇宙の 気を吸い込み、宇宙と同化することが説かれ、さらに呼吸の働きにみそぎの役割 も付加されていた。これらは出口王仁三郎の思想にはみられなかったものであり、
合気神社建立後にもたらされたものであると考えられ、植芝盛平自身の宗教的宇 宙観の創造がみられた。
キーワード 日本文化 武道 合気道
1 はじめに
本稿では、植芝盛平(1883-1969、以下植芝と略す)の合気道思想が合気神社創建1 を経て戦後にどのように継承されたのか、または変容したかを身体観・技法観、修行観、
そして心法の三点に分けて考察する。
植芝合気道思想(1943 年以降)−継承と展開−
Ueshiba s Aikido ideology: after 1943 -Its inheritance and development-
パイエ 由美子
合気道は、1945(昭和 20)年敗戦に伴って、それまでの皇武館道場(1931(昭和 6)年、
現東京都新宿区に落成)の活動の停止を余儀なくされたが、その頃の植芝は茨城県岩 間町に転居して岩間に野外道場を落成し、合気道の集中稽古に入っていた。皇武館道 場時代は、植芝が自らの武道理念を合気道の具体的な技法として現わすために模索し ていた時期であった。その後の合気神社建立と岩間での集中稽古を経て、合気道は完 成された。植芝のここに至るまでの信仰的深化と共に様々な精神的、肉体的鍛錬が結 実し、それらが理念や技法として具体的に現されて完成したと考えられる。したがって、
他の武道のようにその重要な思想的転換期を敗戦そのものと捉えるのではなく、合気 神社建立を境として捉える。この神社建立後の合気道思想は、敗戦後に名称を変更、
組織を改変し再出発した合気会から発信された機関誌を通して知ることができる。
ゆえに、本稿では、1950(昭和 25)年から、植芝が死去する 1969(昭和 44)年まで の期間に発信された合気会からの情報を中心にして、前述の三つの観点について明ら かにしたい。さらに、それによって、合気神社建立を境として、植芝合気道思想がど のように継承されたのか、またはどのように変容したのかを建立以前との比較によっ て考察する。
対象とする史料は、第一に、戦後財団法人合気会として再出発した合気会から機関 誌として発行された『合気道新聞』である。この新聞は現在でも変わることなく継続 されているが、本稿で対象となるのは、第一号(1959(昭和 34)年 4 月)から第百四 号(1969(昭和 44)年 3 月)までである。この新聞には、植芝の存命中は、わずかな 例外を除いては、第一面に大きな植芝の写真と共に植芝が門人に発したメッセージが 掲載されている。毎月十日に発行されて、開祖植芝の活動や言葉、合気会としての活 動報告、植芝吉祥丸(植芝の長男であり、後継者。以下吉祥丸と略す)や指導陣のコ メント、さらには新しい段位授与者氏名が掲載されている。
この新聞に寄せられた開祖の一文は、戦後植芝が思うままに自由に門人へのメッセー ジを述べたものであり、特有の難解な語彙や意味不明の箇所もそのままで、編集が加 えられているとも考えられない。また、この時期は合気会本部も東京に戻って、植芝 を中心とした演武会を国内外で行い、合気道が順調に発展していった時期であり、当 時行われた演武会において植芝が語った内容も収められている。したがって、これらは、
植芝から直接発せられたメッセージと捉えられ、合気神社建立を経て迎えた戦後の合 気道思想を知り得る適切な史料であると判断した。
考察の方法は、『合気道新聞』については、補足の表に示すように、『合気道新聞』
において植芝が発した内容を、身体観・技法観、修行観、心法の三つのカテゴリーに 分類し、植芝がどのようなテーマについて多く発信したのかをみた。植芝の言説は、
その時のひらめきで語られており、あまり論理的ではない。文脈をたどることが難しく、
さらには、大本2の教団用語や植芝自身による造語も多い。『合気道新聞』に寄せられ た寄稿文が、各号ごとに一つのテーマによって語られているわけではなく、その意と
することを読み取りにくい。したがって、あらかじめ前述したようなカテゴリーを設 定して枠を作り、その中に植芝の発した言葉を当てはめ、そこから全体の思想を考察 することとした。これによって、当該時期の合気道思想の全体像が明らかになると考 えた。上記の三つのカテゴリーは、それぞれに関連があり、個別に分類し考察するの は難しいと考えられたが、合気神社創建後の思想を整理する意味で、このような分類 は有益であったと考えられる。
第二の史料は、参考として使用する吉祥丸編の『合気神髄』3である。これには上記 の『合気道新聞』の前身であった『合気会報』(1950(昭和 25)年から 4 年間)におけ る植芝の言葉が含まれているからである。
さらに、補足として、終戦直後に新たに入門した弟子のインタビューや、白光真宏 会(植芝が死去する前の十年間にわたって交流を深めた五井昌久が創始した教団)か ら出版された『武産合気』4も適宜参考とする。
2 敗戦直後の合気道の様相
合気神社建立後の植芝合気道の思想に入る前に、敗戦直後の合気道はどのような状 況にあったのか、またどのように合気道は復活の道に至ったのかをみておきたい。
敗戦直後、武道は、アメリカ軍による占領が解ける 1952(昭和 27)年まで連合国最 高司令官総司令部(General Headquarters of the Supreme Commander for the Allied
Powers、以下GHQと略す)の意向を受けた旧文部省の指示により、その活動が禁止
され、合気道もその例外ではなかった、ということが一般的にも、合気道界全体にお いても共通する認識である。
合気道関係の論考においても、敗戦の混乱の中「武道も正課体育では禁止」5や「戦 後はいやおうなく- 一旦は - 断絶する」6、さらには植芝の戦前よりの弟子であった塩 田剛三も「植芝先生の財団法人は取り上げられ活動停止になった。植芝道場は一度つ ぶれたわけです」7等、合気道も含む武道全体が禁止の対象であったかのように記され ている。
このような戦後の混乱の中、合気道は柔道、剣道に先駆けて、1948(昭和 23)年に 財団法人合気会として旧文部省より認可を受けている。柔道の復活は 1950(昭和 25)年、
さらに剣道の場合は 1952(昭和 27)年まで待たねばならなかった。このように戦後の 比較的早い時期に再活動を始められた理由も含めて、敗戦前後の合気道の状況をみて おくこととする。
植芝の武道が正式に「合気道」と呼称されるきっかけとなったのは、当時合気武道 と呼称していたのが、終戦前の 1942(昭和 17)年に大日本武徳会(以下「武徳会」と 略す)への包括を余儀なくされて、その際に新たな名称が必要であったからである。
武徳会とは、1895(明治 28)年に設立された武道統括団体であり、支部組織を従え た大々的な全国組織であった。もともとは武道振興を目的とした民間団体であったが、
戦時総力戦体制下で軍の圧力のもと国家体制に組み込まれていき、1942(昭和 17)年 からは武道を統括する政府の外郭団体となったものである。
吉祥丸は、武徳会に統括されて正式に「合気道」と呼称されるようになったいきさ つについて、植芝の言葉として以下のように述べている。
「大日本武徳会への統合にあたっては断固として「合気の道」の独自性を主張し、従来の「皇 武館合気武道」なる名称ではたんなる一流一派とみなされかねぬゆえ、このときはじめて合 気道を「合気道」と正式に呼称する旨をおおやけにした」8
また、1955(昭和 30)年初版の『合気道』においても「武徳会内に合気道部が創設 された」9として、合気道は柔道や剣道と並ぶ一つの武道としてその意志が尊重され、
合気道部主導の議論で、正式に合気道となったとしている。
一方、当時皇武会の総務担当で、武徳会に派遣された平井稔は、当時の武徳会での 議論について以下のように述べている。
「一口に総合武道といっても各流派があり、従来の流派とのあつれきを少なくするため、あ たりさわりのない名称を付けることになりました。(中略)総合武道として、合気道という ものを作ったらいいんじゃないかということになった」10
このように、他の流派との摩擦を避けた「あたりさわりのない名称」ということで「合 気道」となったとしている。
実際は、武徳会の当時の機関誌『武徳』によると、「柔道ニ属スル合気、空手、等」
というように柔道の一部として統合されていた11。さらに、合気道という名称について も、当時の武徳会の柔道部会において「合気武道の武の一字をそのままにしておくべ きや取除くやの問題」が議論されたという議事録が残されており、柔道部主体の会合 で話し合われた結果、合気道という名称になったと考えられる12。これにより、当時の 武道界における合気道の位置も推察できよう。
この時期の合気道は、植芝を信奉する人々によって設立された財団法人皇武会が母 体となり、陸海軍の高官、華族、財界人と太いパイプを有し、「しかるべき紹介者のな い者は、よほど熱心な一徹者でもないかぎり入門はむずかしい」13武道であった。当時 の武道界においては、かなり異質の存在であったと言えるが、戦時総力戦体制下にお いては合気道も例外ではなく、柔道部内の一武道として武徳会に組み込まれていった のである。
1945(昭和 20)年の降伏文書調印とともに、連合国による日本占領が始まり、米 国対日占領政策の策定が本格化し、「超国家主義的ないし軍国主義的団体および機関 は解散され禁止される」14等の占領下の根本的な方針が明確化された。このような方
針を具体的に実行する機関であったGHQと民間情報教育局(Civil Information and Education Section、以下CIEと略す)の意向を反映し、旧文部省は多くの措置を取った。
1945(昭和 20)年 10 月にGHQによって「日本ノ教育制度ノ行政ニ関スル覚書」が出 され、第一に「軍国主義的、並ニ極端ナル国家主義的観念ノ普及ハコレヲ禁止シ、凡 ユル軍国主義的教育及ビ訓練ハ之ヲ中止セラルベシ」という軍事教育訓練の禁止が打 ち出された15。これを受けて旧文部省は、11 月に「終戦ニ伴ウ体錬科教授要項ノ取扱 ニ関スル件」という通牒を出し、具体的に体錬科の科目であった武道 - 剣道、柔道、薙刀、
教練 - の学校における正課としての教育を禁止した。さらに、正課外活動においても 校友会等の編成は禁止され、学校および付属施設内においても上記武道の実施は禁止 された。このように学校教育における武道活動は徹底して禁止される中、1946(昭和 21)年 11 月には、武徳会も「超国家主義的団体」としてGHQにより解散指令を受けた。
一方、社会教育の面では「社会体育の実施に関する件」(1946 年 8 月 26 日、発体 95 号)
が旧文部省から出され、「近時低下した国民体位の向上を図り、明朗闊達な気風を喚起 して、勤労意欲を旺盛にするために、社会体育の普及奨励をすることは、目下の要務」
であり、各種の運動種目が奨励された16。また、それと同時に「剣道、柔道、弓道の取 扱いについて」では、以下のように記されている。
1.銃剣道、射撃が戦時中特に軍事的要求により発達したので、昭和二十年十月二十五日附健 乙第四十七号厚生省健民局長通牒により禁止したが、今後一層之が徹底を図り遺憾なきを 期すること。
2.剣道、柔道、弓道等を総括した名称として従来武道なる言葉を使用して居たが文字自体に 軍事的乃至的意味を持つているので、今後は現に実施されている剣道、柔道、弓道に対し ては武道なる言葉を使用することなく、単に剣道、柔道、弓道等と其れ自体の名称を使用 するやうになすこと。
3.剣道は戦時中刀剣を兵器として如何に効果的に使用すべきかを訓練するに利用された事実 があるので、軍国的色調を一切急速に払拭せんとする今日、公私の組織ある団体に於て、
従来の形態、内容による剣道を積極的に指導、奨励をなさざるを可とすること。而して剣 道が将来他の純粋スポーツと同様の方向に進められるやう充分なる研究努力をなすこと。
4.柔道、弓道はその本来の目的たる人格の滋養、身体の鍛錬を図ることを主眼とし、個人の 趣味、嗜好に俟ち、一層明朗健全なるスポーツとしての面目を発揮するやう充分なる努力 をなすこと17。
上記にあるように、剣道については従来の形態、内容の指導は不可であるが、柔道、
弓道については、「人格滋養と身体鍛錬の手段である健全なるスポーツ」としては容認 されていた。山本(2004)もこの点については、「社会体育としての武道は容認されて おり、その禁止か容認の措置は地方軍政部の意向によって差異があった」18としている。
このように学校教育においては、前述の武道は禁止されていたものの、社会体育に おいては、柔道、弓道は容認されており、特に、禁止措置の対象ではなかった合気道 や空手は、どちらにおいても禁止されていたわけではなかった。しかし、法令上は禁 止ではなかったとはいえ、吉祥丸が終戦直後の状況について「進駐軍指令や軍国主義 の反動により、武道は何でもかんでもだめだ、という日本内外の風当りの強さも想像 以上に厳しいものがありました」19と述べているように、武道全体に対して共通する好 ましくない感情が持たれていたと考えられ、合気道の活動も困難な状況であったと言 える。
吉祥丸や皇武会関係者も戦後のできるだけ早い時期に合気道復興を果たしたいと考 えていたが、皇武館道場も 1945(昭和 20)年の東京大空襲による焼失は免れたものの、
屋根は欠損していた。さらに、道場は焼け出された人々のための避難所と化し、「当初、
二十世帯という約束でしたが、(中略)道場はあっという間に四十世帯、八十人、多い ときは百人近い人々で埋まって」20いたという状態であった。
吉祥丸は、この時期は道場のある東京と両親の住む岩間の往復を繰り返していたが、
次第に周囲から「ごく内輪でもいいから定期的に稽古したい、なんとかして合気道を 再出発させることはできないか」21等の声を聞き、藤田欣哉22や西勝造23らと共に合 気道再開に向けて案を練り始めていた。吉祥丸は、戦前に財団法人として認可されて いた皇武会24の名称や組織を改新することで、戦後の復活を図ろうと考えていた。こ の当時のことを認可を受けるために「連日、文部省に粘りづよくお百度を踏んだ」25と 述べている。
1946(昭和 21)年 11 月 1 日に、「今般本会其組ヲ変更ス可ク現行寄附行為ノ一部ヲ 別紙ノ通リ変更シ度候間御認可相成度此段必要書類相添へ及申請候也」と当時の文部 大臣田中耕太郎に寄附行為変更理由書を提出している。変更する条項として、名称を 皇武会から合気会とすること、総則に使用されている「皇武」という名称をすべて「合 気」に改めること、さらに会長、副会長の辞任、および役員の変更が記載されている。
以下に申請された寄附行為変更理由書を記しておく。
終戦ニ伴ヒ当財団法人皇武会ハ諸般ノ状勢ニ鑑ミ其ノ目的トセル合気武道ノ武術錬成普及ヨ リ其ノ真ノ目的トセル武道ノ根源タル合気精神即チ内在的愛気ノ発露ヲ日常生活ノ各種各層 ニ直結シ之ガ活用ヲ計リ以テ単ニ之ノ武術ヲ護身的体育ノ方向程度ニ止ムルノミナラズ真ニ 社会ノ平和ト福祉ニ貢献スル有為ナル人材ノ養成ニ一段ノ努力ヲ進ム可ク在来当会ヲ支援サ レタル数多ノ陸海軍人諸氏ノ指導援助断チ以テ合気道本来ノ使命ニ一段ト推進ヲ期シ度ク此 処ニ皇武会ノ名称モ合気会ト改稿シ役員ノ全面的変更ヲ為ス必要ヲ痛感スル次第ナリ猶寄附 行為変更理由ニ付テハ別紙ノ通リナレバ何卒細部御検討賜度候26
上記に示すように植芝の「合気の精神は愛気の発露」という理念を盛り込み、また「護
身的体育」や「社会の平和と福祉に貢献する人材の養成」といった当時の教育理念も 含め、さらには「陸海軍人諸氏」との決別の決意も述べられている。「名誉会長竹下勇氏、
副会長林桂氏辞任」と続けられ、名誉会長以下の役員に多く含まれていた軍関係者を 一新し、新しく実業家中心の役員27を選出している。
このように吉祥丸以下当時の皇武会関係者は、戦後ただちにその組織を一新し、名 称変更をする措置を取ってこの時期を乗り越えようとした。これらの措置は、戦後武 徳会がその存続をかけて行った措置と共通するものである。
武徳会は、GHQによる解散指令が発せられる以前に自主解散を予定していたが、そ れが認められず、結局GHQ指令による解散に追い込まれた。山本(2004)は、その 理由について、武徳会が行おうとした組織改革姿勢 − 政府の外郭団体改め、補助金を 中止し、まったくの民間団体となり、軍関係者、官僚を武徳会役員から排除し、民主 的な選挙、または推薦により役員を選出すると決定したが、それらが徹底されなかっ た - に問題があったこと、およびGHQによる「大日本武徳会」という名称変更要求 を聞き入れなかったことを挙げている28。
「旧体制の温存化が最大限にはかられた」29改革であったため、結局、解散指令(1946 年 10 月 31 日に解散指令発出が決定されて、11 月 9 日、GHQは武徳会の解散を命 令)30を受けて、武徳会の資産は没収され、会長以下、多くの役員も公職追放の処分を 受ける厳しい結果となったのである。この処分は、本部役員(会長、副会長、理事長、
理事、部会長)、支部役員(支部長、副支部長、理事長、理事、部会長)、支所長まで 含む大々的なもの31であったが、合気道は前述したように、武徳会において柔道の一 部という位置であったことが幸いして、処分の対象者はいなかった。
皇武会が寄附行為変更理由書を提出したのは、1946(昭和 21)年 11 月 1 日であるが、
GHQが出した武徳会への要求を、皇武会では積極的に受け入れる姿勢を示し、寄附行 為変更の認可が下りやすいようにしたと考えられる。特に、名誉会長であった竹下勇
(海軍大将)と副会長であった林桂(陸軍中将)が公職追放の対象者に含まれていたた め32、何よりも皇武会と合気道の存続をかけて、早急に組織を一新する必要に迫られた と考えられる。
また、柔道や剣道という伝統的武道が活動を停止している間に、合気道復活の下準 備を行って、混乱期が過ぎた後にいち早く再稼働ができるよう、という吉祥丸の願い もあったと思われる。
これらの措置が功を奏し、「1948(昭和 23)年、ついに待望の認可がおり」33て、同 年 6 月 8 日付で財団法人合気会登記完了届を文部大臣森戸辰男に提出している34。 以上述べてきた戦後の諸事情に対する迅速な対応の結果が、他の武道に先駆けて、
合気道が正式に財団法人合気会として復活した理由であると考えられる。さらには、
終戦直後に植芝が岩間に存在し、本部も岩間におかれていたことも幸いしたと考えら れる。東京においては、たとえ禁止対象外であったにせよ、武道を公然と大々的に行
うのは憚られたであろうから、岩間が本拠地であったことは合気道にとって好都合で あった。近隣の武道好きの青年が参集し、稽古しやすい環境であったと考えられる。
また、復員したかつての弟子が地元で「支部道場をひらき、あるいは再開して」35、 植芝や吉祥丸を招請し始めたことも、戦後の合気道の全国的発展につながっていると 思われる。地方支部による植芝や吉祥丸の招請は、1953(昭和 28)年に、本部が東京 に戻されるまで続き、地方組織の基礎固めがなされ、それが東京への本部移転へとつ ながったのである。
この間に、1950(昭和 25)年、合気会機関誌『合気会報』も創刊され、本格的に合 気道が再興していくこととなる。この『合気会報』は現在の『合気道新聞』の前身である。
次章からこの新聞における植芝の寄稿文を中心にして、合気神社創建を境とした合気 道思想を明らかにしていくこととする。
なお、次章に入る前に、本稿においてしばしば言及される霊、体、魂、心という言 葉の意味するところを明確にしておきたい。合気神社建立前の合気道思想36において 明らかであったように、植芝がこれらの言葉を使用する時、その土台には大本の出口 王仁三郎(以下王仁三郎と略す)37の思想がある。したがって、これらの言葉の意味す るところを王仁三郎の言説から確認しておく。
大本の三大学則では、「霊とは即ち神也。吾人の霊魂亦之に属す」38としており、つまり、
霊、魂、霊魂いずれも神39を示すものであると言える。また、「霊魂即ち真心が肉体を 守護すれば」40と説いている箇所もあり、王仁三郎は真心と表現しているが、霊魂は心 と同一のものを指すと考えられる。したがって、霊とは(神、魂、霊魂、心)を意味 すると考えられる。また体については、「即ち物体にして化学に所謂元素之れなり」41 とあり、元素とは物体の最小要素であり、人間の肉体を構成する要素でもある。したがっ て、体とは(肉体、身体、物質)を意味すると言えるであろう。
3 身体観・技法観
ここでは、『合気道新聞』(第一号から第百四号)を中心にして、植芝が発した内容 を門人へのメッセージとして拾い上げ、それらを検討する。そして、合気神社建立以 前の植芝の思想と比較し、身体観・技法観がどのように継承されているか、または変 容しているかを考察する。
まず、本題に入る前に、神社建立以前の植芝の身体観の概略を振り返っておきたい。
その特徴は、第一に、自らの身体は神、または天皇よりいただいたものであり、自 らのものではない。したがってたとえ指一本でも傷つけてはならない、というもので あった。さらに、身体は「神の生宮」や「生きた城」等とされており、非常に価値あ るものとして捉えられていた。このような自身の身体を、常に安全な場所に置いて傷 つけないという理念が、「体の変化」という合気道の特徴的な身体の使い方の背景となっ ていた。
次にみられたのが、王仁三郎の言霊宇宙観を背景にした言霊の思想であり、イキの 働きである。さらに、力について述べられており、それは、合気道において使用する 力を、王仁三郎の説く天帝より人間に与えられた八つの力として捉えているのがみら れた。
このように、神社建立以前の植芝の身体観は王仁三郎の思想によって裏打ちされて いたと言え、時には直接的に王仁三郎の言説を追い、または間接的に王仁三郎の教え を組み込み、自らの武道思想を形成していったことが窺える。
それでは、このような植芝の身体観は、神社建立の後、どのように継承、または変 容したのであろうか。
自らの身体は自らのものではなく、神、あるいは天皇から下されたものである、ゆ えに決して損ねてはならない、という身体観は、王仁三郎の「神より来る武」という 思想の踏襲と、植芝自身の、武道家として身体を尊重する考え方によるものであった。
この神武の思想は神社建立後も継承されていると考えられるが、特徴的であった自ら の身体は自らのものではないゆえ、傷つけてはならないという身体観は消えている。
これは、神社建立に至る過程で起こった植芝の神秘体験によって、より一層心の優位 性と先導性を確信したからではなかろうか。さらに、戦前のような「生きた城を作る」、
「肉体に美しい精神の国を建設する」、さらに「神の生き宮」という肉体に価値をおく という表現はみられず、「魄0の上に造主の魂0を表わす(傍点、筆者)」としているのみ である。身体については、以下に記すように魂魄という言葉を使って、魂の優位性を 説き、魄はモノとして捉えられている。
自己の肉体はモノだから魄である。それではだめだ。魄力はいきづまるからである。つまっ ているからである。(中略)魂の気で、自己の肉体を自在に使わなければならない。(第八十号)
普遍愛と合気の精神を充分に身霊に育成して、過去の魄の武道を土台にして、その上に魂の たて直しを行い真に魄の土台の上に魂の光りを放つよう精進してほしい。(第二十二号)
このように、これまでの魄に重きを置いた武道ではなく、これまでの魄を土台にし た上で、魂の立直しをすることを説いている。また『武産合気』においても、以下の ように述べられている。
「今迄の世界は魄(物)の世界であったのが、今では魂本当の精神の世界にふりかえられて(中 略)日本精神に復帰する世の中になったということです。その案内者に出て来たのが合気で す。」42
「この世の立替え立直し」が戦前の大本の中心の教えであったが、ここには、前半の
「立替え」の部分が終了し、残された「立直し」の部分を担うのが合気道である、とい う植芝の戦後の理念があると考えられる。例えば、前述のような「魂本当の精神の世 界にふりかえられた」や「夜はすでに明けたのであり」(第六十五号)、また、「仏者の いう「みろくの玄光」を浴びつつも、天地の経綸の主体であります人類、まだ心に眠 りさめやらず」(第六十五号)というような、この世界の立替え(転換)が終了したと する言説がみられる。さらには、精神が中心となる世界へと変化を遂げたにもかかわ らず、人間はまだ目覚めていない、という指摘もみられる。これまでの魄(物質、身体)
中心の世界が魂(精神)中心の世界に振り替えられたため、その世界にふさわしいよ う魂の立直しが必要であり、そのための合気道であり、王仁三郎の教えを背景に、そ れを自らの言葉でさらに発展させ、合気道の使命と結びつけているのがみてとれる。
その他には、具体的な身体の動かし方を○や△という図形を使って説いており、こ れは神社建立前の皇武館道場時代においては、まったくみられなかった点である。例 えば「○は精神の安静と魂を養う。技は○によって円熟し、万の技を生む」や「△三 角体は破れざる丈夫の姿勢」という解説である。また、合気道は「体を△に象り○を 中心に気により△□の変化を気結び生結びを身体に現わし、生出しつつ気魂力を養正 し、皆空の心と体を造り出す精妙なる道である」(第十二号)と解説している。これら の○や□の図形は、王仁三郎の『大本言霊学』43にも「○水也、□火也」というように 天地の気の解説に使用されており、王仁三郎の宇宙観が土台にあることが窺われる。
さらに、松、竹、梅の教えとして、「梅は三角、松は四角を意味」し、「三角はいったいに、
不敗の体勢」である(第七十九号)としている。松、竹、梅の教えは大本の開祖出口 なおの教えに使われた表現であり、王仁三郎もしばしば引用し、自身の教えを説く際 に使用している言葉である。三角形を使用した体勢の解説は、財団法人合気会設立の 立役者の一人であった西勝造(1884 − 1959)が確立した西式健康法44のシンボルとし て使用していたものでもある。植芝は、この西勝造のシンボルも参考にした可能性も なくはない。
また、以前の身体観には王仁三郎の言霊の宇宙観及びイキの働きを背景とする身体 観がみられたが、これらは継承されて、さらに発展し、神社建立後の合気道思想の中 心的思想となっている。この変わらずに説かれている言霊については、『大本七十年史』
に以下のようにわかりやすく解説されている。
宇宙の大元霊神は唯一絶対の神であり、「主神」または「主の神」ともとなえる。大元霊の はたらきは火(霊)と水(体)とにわかれ、その本体を火水(神―霊)といい、水火のはた らき(用)を水火(息―生命力のあらわれ)という。イキによって言霊を生じ、言霊によっ てさらに霊の動き、はたらきがあらわれる。霊のはたらき、すなわち言霊である45。 このような言霊についての概念を基に、王仁三郎は 1919(大正 8)年以降、さまざ
まな所へ教団役員や信者と共に出向き、言霊の実習を行っていた。その実習方法とは「臍 下丹田から力いっぱいの声で、天津のりと、大祓のりとを奏上し、ついで「アー、オー、
ウー、エー、イー」と七五声の言霊をとなえあげるもの」46であったという。植芝も、
このような王仁三郎の言霊観を受けて、神社建立前の合気道においては掛声として言 霊を実習していたと言える。
では、言霊の働きについては、当該期にどのように継承されているのであろうか。
『合気道新聞』においては、これまでと同様の王仁三郎の世界観を背景にしつつも植芝 なりに解釈し、自身の言葉によってその世界観を説き、さらに、それを発展させてい るのがみてとれる。例えば、「宇宙組織の魂のヒビキというのはコトダマのことである。
すーうーゆーむ。」(第百四号)というように、言霊を魂の響きと言い換え、宇宙組織 というこれまでに使用されていなかった言葉を使い説いている。この宇宙組織の魂の ヒビキ(つまり言霊)によって、宇宙を自己の心身に吸収し、宇宙と同化し、その延 長が世界の人々と和することであるとしている。
また、言霊の働きがイキとして大宇宙と調和すると説いていたこれまでの言霊観と 基本的には同様であるが、ここにおいては、言霊の働きを発展させ、直接世界の和合 へとつなげており、合気道を通して世界の和合を目指す敗戦後の植芝合気道思想の特 徴がみられると考えられる。
このように、合気神社を建立し、岩間における集中稽古を経た時期には、植芝自身 の信仰と、合気道の理念と技法が結び付き、現代武道合気道を確立しており、自らの 確信を持って合気道の思想について門人に説いていることがわかる。
また、神社建立以前であった皇武館道場時代においては、植芝は技法解説書に大本 の教団用語をそのまま使って、合気道の思想を説くことはあまりしていなかった。し かし、『合気道新聞』という自らが積極的に発信できる場を持った植芝は、当然のこと ながらより自由にその思うところを語っている。第二次大本事件後47には、使用する ことが憚られたであろう大本の専門語彙を躊躇することなく『合気道新聞』に使用し ているのがみてとれる。戦後においては、自由に、むしろ積極的に王仁三郎や大本の 教えを基にして、信念を持って自身の合気道に対する身体観や世界観を門人に説いて いる。
例えば、合気道における掛声として挙げられていた言霊は、合気神社建立の後には、
それが「武の結びの第一歩は雄叫び」とし、王仁三郎が言霊について述べる際に使用 していた言葉をそのまま使用している。
さらには、王仁三郎の代表的な著作である『霊界物語』48における言霊の解釈をそ のまま述べている箇所もみられる。例えば「合気の発戒は、天の浮橋である。天の浮 橋という言葉は、「ア」は自らということ、「メ」は廻るということ、、、」(第五十三号)
や「イクムスビ、タルムスビ、タマツメムスビ」(七十九号)や「五十音、七十五声の 音のひびきの中に技は生まれてくる」(第十九号)というような『霊界物語』で使用さ
れている言葉で合気道の技法や理念について説いており、したがって、『霊界物語』に なじみがない者にとっては、非常に難解なものとなっている。これは、神社建立前に はみられなかったことである。
特に、「天の浮橋に立たねばならない」と植芝はしばしば『合気道新聞』や『武産合 気』に説いているが、その意味は、王仁三郎によると、「天の浮橋也とは、幽遠微妙の 神理と神界の経綸を一大真人を通て,人界へ顕示し給う其機関」49のことである。つまり、
神界の経綸を真人という人間を通して、この地上の人間界へ顕現させる働きを指すと 考えられる。したがって、植芝は、合気道の修行を通して、この真人になり、さらに その真人が「神の経綸を人界へ顕示」する役割を担うことを「天の浮橋に立たねばな らぬ」と表現しているのではなかろうか。
次に、第三番目に神社建立前に説かれていた「力」のあり方については、合気道に おける衝突することのない力と、力むことのない柔らかい力の使い方であり、王仁三 郎の示す「天帝から与えられた八力」として捉えられていた。神社建立後には、この ような力のあり方や使い方について説かれていることはみられない。
以上みてきたように、合気神社建立を境にした合気道の身体観の中で、継承されて いると考えられるのは、言霊の働きについてだけであるといえる。この点は、植芝が『合 気道新聞』発刊の言葉を寄せた第一号(1960(昭和 35)年 4 月 10 日号)の最後に、「次 回よりは最も合気に必要なる言霊を説き其の実行を教え」と述べて、合気道にとって 言霊が最も重要であるとしていたことがみてとれる。
王仁三郎は 1919(大正 8)年の『神霊界』に、言霊の活用の実地について「机の上 や書物の上で、言霊の効用を説いた人は、今迄に沢山現れて居りますが、是を弥弥実 地に活用することを知ったのは、大本が初めであります。(中略)始めて実用時代が到 来したのでありますから」50と一日も早い言霊の学習と実習を信徒に説いている。した がって、植芝が『合気道新聞』において言霊の重要性を説いてその実行を教える、と 述べているのは、王仁三郎の教えの踏襲であると考えられる。
しかし、第二号以降の『合気道新聞』には、植芝の予告したような言霊の実行の教 えは述べられておらず、「五十音、七十五声の音のひびきの中に技は生まれてくる」と しているのみである。その一方で、王仁三郎の言霊宇宙観によるイキが気の働きと結 びつけられ、戦後の合気道の重要なファクターとなっていることが認められる。(この 点については心法において論じる)
4 修行観
神社建立前の修行観の中心であった霊と体の一致の修行は、人間の中に存在すると される神(の分霊)と、その容れ物である身体の統一を目的とし、「神人合一」を目指 すとも言えるものであった。そのための具体的な修行方法としてみられたのが、従来 の武道にみられるような型の反復による練磨ではなく、型を土台にして、常に新しく
自ら技法を生み出していかなければならない、というものであった。
それでは、これらの修行観は神社建立後にどのように継承または変容しているので あろうか。
それは、修行の目標は「神人合一」(第五十七号)であるとしており、この面では、
建立前と変化はみられない。ただ、言葉の使い方として、神人合一よりも、宇宙との一致、
宇宙との同化を同様の意味で使用している箇所が多くみられる。また、修行方法として、
常に新たな技を生みだしていかなければならないという点にも変化はない。
・練磨精進するときは宇宙と気結びが出来、いかほどでも無限に技が出るようになるもの。(第 三号)
・合気は五体の響きによって生きているのである。宇宙の響きと緒結びして、千変万化の業 を生み出している。(第九号)
・すべて武を行ずるものは、自己の体内から武を生み出すことができ、自己の道を開くこと ができなくてはいけない。(第十一号)
このように、型のような固定された技をつねに行うのではなく、無限に技を生みだ さなければいけないとしており、建立前と同様のことを説いている。
それでは、神社建立後では、どのような修行観が新たにみられるのであろうか。実は、
修行観として分類できるものは、あまり多くはなかったが、まず、第一にみられたのは、
「森羅万象をよく眺め、自らを知る」ということである。
・悟るということは自分の中にあるので、自分の腹中をよく眺め、自分というものはどこか ら出てきたものであるか、また自分は何事をなすべきか、よく自分を知るということが自 分に課せられた天の使命」(第十五号)
・森羅万象は武道における大なる教えであります、これをみのがしてはいけない。(第十八号)
・万有万心の条理は一元より発す。宇宙の真象を把握せよ。(第十二号)
・全宇宙と己とは同じものであるということを知らなくてはいけない。(第十九号)
・宇宙の現象は、みな宇宙の真理なのである。(第六十九号)
このように、植芝が繰り返し説いていることは、まず、自分というものを知ること、
そして、宇宙万有をよく眺め、そこから真理を学ぶということである。森羅万象をよ く見れば、一切のものが一元のものから生まれ出でたことが理解できる。したがって、
全宇宙も我も、一元から生まれた同一のものであることを知らなければならない、と している。さらに、合気道修行者に望むこととして、以下のように述べている。
わたしが合気道修行者に望むことは、どういうことかというと、この世の有様を始終よく眺
め、また人々の話をよくきいて、良きところを自分のものに取りいれ、それを土台にし、自 分の門をひらいていかなくてはなりません。(中略)武道を修行するものは、宇宙の真象を 腹中に胎蔵してしまうことが大切。(第十七号)
天地万有、総ての事象をよく眺め(そこに絶対者の意図を見て)、すべてから学び、
進歩していかなければならないとしている。また「宇宙の真象を腹中に胎蔵してしまう」
や「天の運行を腹中に胎蔵して、宇宙と同化して」(第九号)とあるように、宇宙を自 身の腹中に収めること、つまり、宇宙と同化することを説いている。「真の武道には相 手もない、敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることなのです。宇宙 の中心に帰一することなのです」51という神社建立後の植芝が到達した境地を示してい る。さらに、植芝が数回にわたって白光真宏会で講話した折に、「私は宇宙と一つなの です」52と述べたように、合気道修行者にも自身と同様のものになることを望んでいる のがわかる。
5 心法
最後に、神社建立後における植芝合気道の心法について検討する。まず、以前の心 法を振り返ってみると、第一に、すべては心の動きでなして、心が元であり、心が身 体に優先して動く、というものであった。この植芝の心のあり方の背景には、王仁三 郎の「霊主体従」という『霊界物語』の中心的思想があった。さらに、心が主体となっ た、心により導かれる身体との一致を説いていた。
第二には、合気道は和合のために行う、という心法がみられた。この点も王仁三郎 による「神より来る武」や「戈を止ましむる武」という理念を具体的な武道の目的と して現したものであると考えられた。
第三には気の問題がみられた。以前は、『兵法家伝書』等に示される伝統的武道にみ られる気の捉え方と、王仁三郎の教えを背景とした言霊と気の結びつきという捉え方 がみられ、両方の混在があり、植芝自身による確たる気についての心法ではなかった と考えられる。
気については、前述したが、『兵法家伝書』53においても心気は密接な関係で捉えら れており、さらに、前林(2006)も『近世日本武芸思想の研究』54において、気を心法 の一つと捉えていることもあり、本稿では、気は心が元となった働きとして、心法と 捉えて考察する。さらに、呼吸についても「呼吸と気は昔から関係が深いものと考え られてきた」55ゆえ、気と不可分なものとして捉え、同様に心法において検討すること とする。
それでは、始めに、上記の三点が神社建立後にどのように継承、または変容された かをみていこう。
まず、気についての概念が変化したことが、前述の「すべては心の動きでなす」と
いう心のあり方と、気の働きについての捉え方を変容させていると言える。
植芝は、『合気道新聞』に門人へ行うべき鍛錬として以下の三つを説いている。
一、己の心を、宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。
二、己の肉体そのものを、宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。
三、心と肉体を一つにむすぶ気を、宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。(第六号)
これら三つを同時に行うことが必要であるとしている。さらに、この鍛錬の効果は、
「この世のすべての不合理、不明朗な問題を、ことごとく解決し、全世界を一大平和境 と化す」(第六号)と述べている。つまり、己の心と肉体を宇宙万物と調和させ、さら に心と肉体を結ぶという気も、同様に宇宙万有と調和させる鍛錬が必要だと説かれて いる。ここにおいて気の存在が明確に認められている。つまり、合気神社の建立の後に、
気の鍛錬というものを明確に打ち出しているといえよう。
神社の建立前に重要とされたことは、心と体と力の合致であった。力とは体と心の 合致であり、力の発動には、これら三者が同時に働くことが肝要であるとしていた。
前述したように、心は、霊と捉えることができ、したがって霊と体と力という三者で あり、これは、「神は霊・力・体の三元をもって万有一切を創造した」とする王仁三郎 の定めた大本の三大学則と同様である。つまり、合気神社を建立する以前には、大本 の三大学則を合気道思想の重要事項として取り入れていたわけである。したがって、
心と体(肉体)を結ぶ気の存在については何も触れられていなかった。しかし、建立 後においては、気の存在が心と体(肉体)を結ぶ新たなる重要なファクターとして捉 えられている。
はじめて宇宙の神髄を掴んだ時、人間は「心」と「肉体」と、それをむすぶ「気」の三つが 完全に一致して、しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟った。(第六号)
このように、王仁三郎の述べていた「心・力・体」という三者が、「心・気・体」と いう三者に変化しており、「力」から「気」への移行がみられる。植芝は、「もしも気 の妙用が正しく活用されなければ、その人間の心も、肉体も不健全になるばかりでなく、
やがては世界が乱れ、全宇宙が混乱するもとともなる」として、「心」と「肉体」と「気」
という三者を正しく宇宙活動と調和させることが、いかに重要であるかを説いている。
また、「気のありかたが生きる身の中心」や「気の置き処によって大変な相違が生じて きます」さらに、「いつも我々は気を通して魂を磨く」とあるように、気の働きの様々 な面が説かれており、以前の「すべて心でなす」という理念から気を中心にするとい う理念への変容がみられるといえる。
それでは、植芝の説く「心と肉体を結ぶ気の一致と宇宙万有の調和」とは、どのよ
うな働きをいうのであろうか。それは呼吸の働きであると考えられる。
弓を気一杯に引っ張ると同じに真空の気を一杯に五体に吸い込み清らかにならなければなり ません。清らかになれば真空の気がいちはやく五体の細胞より入って五臓六腑に食入り、光 と愛と想になって、技と力を生み、光る合気は己の力や技の生み出しではなく、宇宙の結び の生み出しであります。(第三号)
ここでは、まず、真空の気(宇宙に充満しているとしている)を体中に吸い込み身 体を清めて、五体に入った真空の気は光と愛と想となり、技と力を生み、さらに、(身 体において)宇宙と結ばれた気を放つのである。
呼吸の微妙な変化が五体に深く喰い込み、喰い入ることによって、五体はその働きを、活発 にし、千変万化神変の働きを示すことができる。(中略)呼吸の微妙な変化は、真空の気に 波動を生じさせる。(中略)呼吸の凝結が、心身に漲ると、己が意識的にせんとも、自然に 呼吸が宇宙に同化し、円く宇宙に拡がって行くのが感じられる。(第八号)
深く宇宙に充満している気を吸い込むことにより、自身の身体が変化し、同時にそ の呼吸は宇宙にも影響を与える。自らと宇宙が互いに共鳴し合うことによって、自ら が意識しなくとも、呼吸が自然に宇宙に同化される。このような呼吸法によって、宇 宙と同化することを説いているのである。
神社建立前における呼吸とは、王仁三郎の言霊の宇宙観を土台にして、声と合致し、
言霊となり、「全身剣と化す」とされたように身体技法として捉えられたものであった。
しかし、神社建立後は『合気道新聞』にみられるように、呼吸は「我々の呼吸(イキ)
がすべてのことなす」(第七十三号)とされている。呼吸という行為そのものが非常に 重要視されて、気と結びつけられているのである。
呼吸法とは「特定の心身の状態へ至るために意識的に方法化された呼吸の仕方」56 であり、「東洋の修行法にみられる瞑想の訓練が、多くの場合、まず呼吸法の訓練から 始まる」57とされているように、様々な呼吸法を通じ、呼吸をコントロールして、心身 の潜在能力を高めていくものである。
植芝は「宇宙は呼吸している。私達も宇宙を自分で呼吸している。宇宙をこしらえ ているともいえる」(第百二号)と述べており、宇宙と自身とが呼吸という行為を通じ て一つであるということを説いている。さらに、邪気を払う役目についても述べている。
おのが呼吸の働きは、ことごとく天地万有につらなっている。つまり己の心の響きを、五音、
五感、五臓、五体の順序に自己の玉の緒の動きを、ことごとく天地に響かせ、つらぬくよう にしなければならない。(中略)魂の糸筋のむすびによってすべてのことが世界に通じるよ
うになる。その根元は明らかである。この明らかな根元をもって、己の呼吸や自己の魂の動 きによって、この世の邪気を払わなくてはならない。(第二十三号)
吉祥丸によると、「開祖は若いころからすすんでこれを(みそぎのこと、筆者注)お こなってきていたが、川面凡児氏の禊についてとくに熱心に打ち込んでいた」58として いるが、川面凡児(1862 年-1929 年)は呼吸法についても説いており、植芝の説く呼 吸法とも共通する部分がみられる。
「鼻より空気に通じて宇宙根本大本体神の稜威を伊吹ひ込み、腹内より全身の細胞内に吸ひ 込みて、充満充実すること三分五分及至十分間ほどにして」59
このように、吸気によって宇宙に充満する気を吸い込み、それを身体に漲らせると いう点に於いては共通しており、植芝は川面凡児の呼吸法も参考にしたと考えられる。
しかし、川面凡児の呼吸法には「邪気を払う」という側面がみられず、根本的には植 芝のそれとは異なっている。
また、身体に吸い込まれて漲った気は、呼気としてはき出され、それは宇宙に拡がっ ていく。「はくイキはクウスイとなって、空に昇って満天に拡がっていきます」(第 七十九号)というように、呼気によって、天に拡がり宇宙とつながっていくとして、
はく息の重要性を示している。
さらに、「息を吸い込む折には只ひくのではなく、全部己の腹中に吸収する。そして 一元の神の気をはくのです。それが社会の上になれば、自分の宇宙にすべて吸収して また社会を神の気で浄めるということになります。」60や「合気はある意味で、剣を使 う代りに、自分のいきの誠をもって、悪魔を祓い消すのである」61というように、宇宙 の気を吸い込み自身の腹中に修め、それを今度は一元の神の気としてはき出し、この 世を浄めるという呼吸の祓いの役割もみられる。
このように植芝は、自己と世界の浄化や、邪気を払う役目、さらには宇宙との一体 化をもたらす方法として呼吸の鍛錬を捉えているのがみられる。
湯浅(1986)は、気とは「単なる日常ふつうの意識によって認知される作用ではなく、
呼吸法や瞑想による心身の訓練を通じて、意識(心)がしだいに感じることのできる ようになる新しい作用」としているが、植芝も前述のような呼吸を意識的に行ずるこ とによって新たなファクターとしての気を認知することを促していると考えられよう。
さらに、心と身体を結ぶ働きをする気を鍛錬することの重要性も説いているがみられ る。
このような気についての概念や、呼吸の捉え方は、王仁三郎の思想にはみられなかっ た視座であり、この点においても合気神社建立以降に植芝なりの宇宙観の創造がみら れるといえる。
次に、神社建立の前から「合気道は和合のために行う」と言われていたものは継承 されて、合気道の心法の核の一つとなっている。特に「正勝吾勝勝速日」62という言葉 によって植芝が新たに創造した宇宙観が示されている。以下に示すように、合気道の「戦 わない」という理念を説く時に、植芝はしばしばこの言葉を引用している。
・自己にあたえられたる天の使命を遂行するこれ合気にして、日本にては正に勝ち、吾に打 勝つの意義なり。(第十二号)
・人類愛善、万有愛護の大精神具現に皆様と共に邁進したいのであります。この最高の技が 合気であります。戦はずして勝つのが合気であります。まさ勝あ勝(正勝吾勝のこと、筆 者注)与えられた自己の使命に打ち勝つのであります。(第四十五号)
・正勝は屈せぬこと、吾勝はたゆまぬこと、勝速日は勝利光栄をいう。(第五十四号)
この言葉の意味するところは、「人に勝たんが為ならず、争に勝たんためならず、戦 わずして勝にあらず、自己の使用に与えられたる天の使命に打克つことである」(第 二十三号)としており、この言葉によって合気道の無抵抗主義が標榜されていると考 えられる。さらにこの無抵抗主義は、「合気道は全人類を和す道」、「宇宙を和合する武 道」、という世界平和を目指す理念へと発展しているのがみられる。
この理念の展開には、その基礎として「万有愛護」や「人類愛善」、「天地万有は一 家の如く」というような戦前の王仁三郎の運動理念の踏襲もあるとみられるが、戦後 植芝と交流のあった五井昌久(1916 年− 1980 年)の思想的影響もあると考えるのが自 然であろう。
王仁三郎は 1925(大正 14)年に、「人類は本来兄弟同胞であり、一心同体である。
この本義に立帰らんとすることは、万人霊性深奥の要求であり、又人類最高の理想で ある」63という趣旨で人類愛善会を設立し、この趣旨は現在の大本に引き継がれている。
また、王仁三郎は、敗戦の年の 12 月に大阪朝日新聞のインタビューを受け、12 月 30 日付の同新聞において以下のように発言している。
「自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。(中略)いま日本は軍備はすっかりなくなっ たが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は全世界の 軍備が撤廃した時にはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。」
このような王仁三郎の意志が、敗戦後の植芝の平和主義の背景にあることは明らか である。さらに、吉祥丸は、戦後植芝と交流のあった人物について「戦後はほかに数 人の霊能者ともゆききしていたが、晩年の約十年間は五井昌久氏ともっとも胸襟をひ らきあっていたのではなかろうか」64、と述べているように、五井昌久が植芝の晩年に もっとも影響をあたえた人物であると考えられる。五井昌久とは、『鎮魂行法論』にお
いて津城(1990)が、大本系の鎮魂行法家の一人として挙げている白光真宏会の創始 者である。五井昌久は植芝との交流について以下のように述べている。
翁(植芝のこと、筆者注)と私とは非常に親しい仲で、肉体的にはそう度々お会いすること はできなかったが、霊的には常に交流しあっていて、私の会の人たちが伺うと、心から懐か しがられ、私と一緒に写した写真をみせては、「五井先生はいつも私と一緒にいらっしゃる」
と例の鋭い眼が、にこやかな柔和そのものの眼になってしまわれる、という話であった。65
また、植芝が五井昌久について述べている箇所は以下である。
・「私のことを真実知っているのは五井先生だけだ。」と高橋君などによく話されていたとい う。66
・「即ち人類に与えられた、神のみもとに至るための万界にかけられた大橋です。これが五 井先生のお役目です。それは天界と人間の和合の橋であり、天地にかけられた大橋なので す。(中略)合気はこの道の案内者なのです。」67
このように、両者が認め合っているのが理解できよう。さらに、植芝の口述筆記と して有名な『武産合気』は、白光真宏会の高橋英雄がその都度岩間道場や合気会本部 道場に赴き、植芝の口述を筆記したものである。これは、1958(昭和 33)年から 1961
(昭和 36)年の間、32 回にわたって『白光誌』(会の機関誌)に掲載されたものを編集 したものである。この間に、植芝は白光真宏会の会員に講話を行ったり、当時会の本 部があった市川(千葉県)において演武を行ったりという交流があった。
五井昌久の教えは、「世界平和の祈り」が中心であり、「世界人類が平和であります ように」という白いステッカーを町中で見かけるが、その発行元がこの白光真宏会で ある。岩間の合気神社境内にも、植芝家の墓所においても「世界人類が平和でありま すように」と大きく書かれたピースポールが立てられているのが見られる。五井昌久 は「個人の平安と世界人類の完全平和が一つにつながってなされるという方法を願い、
生まれたのが世界平和の祈り」68であるとして、この祈り言による平和運動を展開して いる。この五井昌久の理念も、植芝は合気道の理念として組み入れたと考えられる。
次に神社建立後の合気道の心法の中心とも言える「愛の現れが合気道である」とい う理念(第三号)である。この理念は、「武道の根源は神の愛」と悟ったという植芝の 1925(大正 14)年の第一回目神秘体験69が元になっていると考えられる。植芝の説く ところによると、宇宙万有は「気と気の交流の結果生じたものであるから、「世界の気」、
「宇宙の気」を調整しなければ、やがて邪気を発して、もろもろの災いが起こる」70こ とになる。この宇宙の気を正しく整え、森羅万象を護り育てていく宇宙、または神の 愛の力を己のものとすることが合気道の使命なのである。
また、合気道の極意として、己を宇宙と一致させることを説いているが、その方法は、
宇宙の心を己の心とすることであり、その宇宙の心とは「宇宙のすみずみまでにおよ ぶ偉大なる愛である」(第二号)としている。つまり、愛の心が合気道の極意というこ とである。合気道は「愛で世の中を吸収、和合させ、いかなるものができても、これ を和合してゆくのである。(中略)怒ってくればこれを和するのであり」71、戦うこと はあり得ないのである。
この合気道の極意については、植芝の弟子であった望月稔(以下、望月と略す)の 逸話によっても窺うことができる。望月はヨーロッパにおいて長期にわたり、合気道 普及に貢献してきた人物である。その望月がヨーロッパから帰国した折に、自分はヨー ロッパにおいて様々な人と試合を行って、合気道の技のみではとても勝てないことが 分かった。合気道も今後世界的に発展して行くのに従い、もっと技の範囲を広げ、ど んな相手にも勝てるようにしなければならない、と伝えた。これに対して植芝は怒っ て以下のように答えたという。
「お前の考えは間違っとる。強くなくてはいかん。しかしそれだけではいかんのじゃ、勝っ たり負けたりというようなことをいう時代ではなくなっているんではないのか、大愛の時代 が来ているのじゃよ、お前はまだそれがわからんのか。」72
「愛は争わない」、「愛には敵がいない」のであり、何者かと争う心は既に宇宙の調和 を乱しているものであり、それは合気道ではないのである。植芝が武道の根源は神の 愛と悟ってから、その悟りを具体的に理念や技法として合気道に組み入れるまでに時 間を要しているが、望月の逸話は 1952(昭和 27)年頃のことであり、この時期にはこ の植芝の悟りが合気道の中心的心法として確立していたと考えられる。
また、植芝は合気という言葉を、技法的意味を示す言葉としては使用していないこ とが分る。
合気は総べての生きとし生きるものの愛の働きをしめしたものにほかならない。此の愛の働 きが宇宙を形造るものであって、宇宙の総ての物を清浄にする。実にこの働きが宇宙万物を 護り育て、これを発展せしめるのである。(第二号)
上記のように、合気という言葉を技法的意味を示すものではなく、宇宙万有を創造し、
清浄にし、さらにそれを護り育てていく愛の働きとして捉えている。植芝は常常従来 の武道家が口にする「合気」と自身が語る「合気」とは、その意味するところが本質 的に異なると述べている所以である。
さらに、植芝は、日本の武道とスポーツも異なるものと一線を画しており、スポー ツは魄(身体)のみの競いであり、一方、日本の武道とは、上記にもあるようにその