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襄の寒梅と八重の寒梅 : 2編の寒梅の詩に関する疑 問を解く

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襄の寒梅と八重の寒梅 : 2編の寒梅の詩に関する疑 問を解く

著者 大越 哲仁

雑誌名 新島研究

号 108

ページ 61‑88

発行年 2017‑02‑28

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000217

(2)

―2 編の寒梅の詩に関する疑問を解く―

大 越 哲 仁

はじめに

本論で取り上げる新島襄が詠んだ寒梅の2編の漢詩は、次の2つである。

真理似寒梅 (真理は寒梅の似(ごと)し)

敢侵風雪開 (敢えて風雪を侵して開く)1)

庭上一寒梅 (庭上の一寒梅)

笑侵風雪開 (笑うて風雪を侵して開く)

不争又不力 (争わず又力(つと)めず)

自占百花魁 (自ずから占む百花の魁)2)

本論考では、前者を「真理似寒梅」、後者を「庭上一寒梅」と呼ぶことと するが、この2編は、広く知られて多くの人に愛誦されている詩である。た とえば、「真理似寒梅」は、住谷悦治同志社総長、上野直蔵同志社総長や土 井たか子衆議院議長が好んで揮毫した詩である。土井氏については、私も過 去、同志社校友会関係のパーティー会場で、氏の揮毫の場面を目撃したこと がある。

また、「庭上一寒梅」は、日本人の代表的な漢詩の一つに選ばれた上に3)

「椰子の実」の作曲で有名な大中寅二によって曲が付され、学校法人内の 様々な合唱団、聖歌隊によって歌い継がれている4)

一方、これらの詩が広く知られているのに対して、各詩に関する論考は意 外に少なく、小川与四郎氏の『新島襄の漢詩』や和田洋一氏の『新島襄』、

(3)

竹中正夫氏の『同志社時報』での論考、本井康博氏の『新島襄を語る』シリ ーズ、児玉昌己氏の「児玉研究室」等で論じられている程度である5)

そのためか、成立時期や成立事情についてはまだまだ不明な部分が多い。

私自身、この2編の詩については予てから何点か疑問があったので、その疑 問とそれに対する現時点の回答を述べたい。

1.「真理似寒梅」の詩について

疑問

1

新島の直筆とされる書に関する疑問

『新島先生書簡集』口絵の「真理似寒梅」の書

この漢詩の成立時期や成立事情をはじめて明確に記したのは、1984年刊 行の『新島襄全集』第5巻の解題である。そこには、この「句は、明治19

〔1886〕年に同志社普通学校へ入学し、同24〔1891〕年に卒業した深井英五 に、〔新島が〕色紙に揮毫して与えたもの」とあり、その時期は、「明治22

〔1889〕年冬、大磯での作と推定」される「庭上一寒梅」と「同じ頃の作で あろう」と綴られている6)

この『新島襄全集』第5巻の記述により、この詩は

①新島が色紙に揮毫して深井に渡したもの

②その時期は1889年頃 となった。

写真1 「先生遺墨 真理寒梅 深井英五氏所蔵」

(4)

その後、時期については、1993年刊行の同志社編『新島襄−その時代と 生涯』において、「1888年ころ」と修正されている7)。その正確な理由は不 明だが、想定される理由は後述したい。

ところで、実際に新島が書いた揮毫とされるものは、前頁の写真1の通り である。色紙の意味が、詩や絵を書くための方形の厚紙という意味であれ ば、それは色紙に書かれたのではなかった。

写真1は、1942年に刊行された『新島先生書簡集』の口絵である8)。 写真では読みづらいが、その下部にキャプションで「〔新島〕先生遺墨

[真理寒梅]、「深井英五氏所蔵」とある。このことから、1942年当時、この 書は深井英五が所有しており、彼はそれを掛け軸にしていたことが分かる。

この掛け軸は現在、神奈川県二宮町に在る徳富蘇峰記念館が所有してい る。同記念館に問い合わせたところ、本軸は「深井家から以前にご寄贈を受 けたもの」であり、深井家の「ご遺族よりと伝わって」いるが、経緯の詳細 は不明とのことである。

深井は敗戦直後の1945年10月に亡くなった。一方、徳富蘇峰記念館が竣 工したのは1969年だから9)、記念館オープンの後、深井の御遺族が同館に 寄贈したのであろう。なぜ同志社へ寄贈されなかったのかが気になる。

私が同記念館から掛け軸のカラーのデーターを購入させて頂き確認したと ころ、本紙は灰桜色、本紙を囲む中縁(中廻)は紋様入りの若芽色である。

同記念館によれば、本紙の寸法は、縦×横で16×31 cm、軸全体は103×

40.5 cmである。書は本紙に対して天地の余白がほとんど無いことから、新

島は半紙(縦八寸×横一尺一寸=縦24×横34 cm)に書き、その後に天地の 余白の一部が裁断されたのであろう。また、一文字(本紙の上にやや太く下 にやや細く貼られる最格上の裂)が無いので、簡易的な表装の掛け軸であ る。

同志社大学社史資料センターには、この筆蹟の「影本」(複写)が収蔵さ れている(目録番号0808)。縦18×横24 cmであって、実物そのままの大 きさではなく、8割程度に縮小されているので厳密には影本(そのまま写し 取ったもの)とは言えないし、天地に実物以上の余白があり、そのために色 紙のように見える。

(5)

この「影本」は、『新島襄 その時代と生涯』10)など同志社の様々な出版物 に掲載され、また、この書の書跡による「真理以寒梅」の詩は現在、同志社 大学今出川キャンパスのチャペル前の石碑や新島学園短期大学のキャンパス 内の石碑に刻字されている。

『新島先生記念集』口絵の「真理似寒梅」の書

しかし、私が過去から慣れ親しんでいた詩は、この掛け軸の書とは異なる 筆跡のものであった。

写真2がそれである。

写真2は、『新島先生書簡集』出版の2年前の1940年に刊行された『新島 先生記念集』の口絵の写真である11)。同年に刊行された森中章光著『新島先 生片鱗』の口絵にも、この詩の同じ書跡の石版が掲載されているほか12)、 1955年に刊行された神田哲雄著『新島襄の生涯』の口絵にも、「新島襄先生 の筆蹟」のキャプションとともにこの書跡の石版が掲載されている13)

写真1と写真2の筆蹟を比較してみると、詩の本文は筆致が非常に似てい るが、払いや点折などを注意深く比較すると両者は明らかに違う筆跡であ る。2文字目の「理」の「王」偏、5文字目の「梅」の偏と旁のバランスな どは違いが目立つ。

更に明白に異なるのは、署名の「襄」の字である。

写真2 『新島先生記念集』口絵

(6)

写真2では、「襄」の漢字の一、二画が卦算 冠(いわゆる「鍋蓋」)になっているのに対し て、写真1では、一〜三画が、横点−横点−縦 点、と点が三つに見える。

「襄」の漢字の一、二画が鍋蓋である写真2 の署名は、新島の署名として見慣れたものであ る。『新島襄全集』3巻の口絵にある新島の封 筒の署名の写真を写真3に掲げるが、この署名 と同一である。

しかし、写真1の署名は違和感が残る。「襄」

の漢字の一〜三画が3つの点に見える署名の例 も有るが(たとえば「送歳休悲...」)の漢 詩、一画は横点、二画と三画は縦点という筆遣 いがほとんどであり、写真1のように横点−横 点−縦点と続くものは見当たらない。

なお、写真2は扇面に書かれているものだ が、写真だと肉筆なのか影本なのかは判別が付 かない。

蘇峰の賛付の「真理似寒梅」

今回調査したところ、写真2の「『新島先生記念集』の口絵の書のオリジ ナルもまた徳富蘇峰記念館が収蔵していたことが分かった14)

こちらも私が同館からカラーのデーターを購入して確認したところ、その 書は、筆跡を除いて文字の大きさも配列も(3文字×3行+1文字)、用紙の サイズも(縦16×横31 cm)、写真1の書とほとんど同じであった。

ただし、こちらの書は、縦106×横43 cmの白色の本紙の上部に貼り付け られて掛け軸となっており、本紙の真ん中から下には、蘇峰がこの詩に転句 と結句を付けて五言絶句とした詩を大書し、その左に賛が記されていた(以 下、本論では、この写真2のオリジナルの書を「蘇峰の賛付の書」と呼ぶこ ととする)。そして、蘇峰の筆蹟の一部が本紙からはみ出て中縁の上に掛か

写真3 新島署名

(7)

っていることより、蘇峰は表装された後の本紙に揮毫したことが分かる。

ちなみに蘇峰が五言絶句化して大書した「真理似寒梅」の詩全文は次の通 りである。

真理似寒梅 (真理は寒梅のごとし)

敢侵風雪開 (敢えて風雪を侵して開く)

人生精進業 (人生は精進の業)

渾自克艱来 (渾自艱に克って来る)

蘇峰は真理を人間の生き方と捉え、寒梅に精進を尽くす人生のあるべき姿 を見た。敢えて風雪を侵して開く寒梅の様は、渾身を尽くして艱苦に打ち勝 った姿そのものなのだと。

とかく真理や哲学について思い悩み鬱々としていた若き日の深井英五に

「学究たるの境地を超脱して人間学を志せ」との一生の指針を与えた蘇峰15)

ならではの転句と結句であった。

それでは蘇峰は賛で何を書いたのか。実は、彼は、極めて重要なことを書 いていた。それが次の漢文である。

前二句新嶋先生愛誦焉海内当有幾許数本也今夜静峯詞友需加後半二句作 五絶未知得先生之意與否但知續貂之譏不能免耳

昭和丙戌三月拾三 頑蘇八十四 これを読み下すと次のようになる。

前二句〔真理似寒梅、敢侵風雪開〕は新島先生愛誦のもの。海内〔天 下〕に幾つか数本有った。今夜、詞〔詩〕友・静峯の需〔求〕めにより 後半の二句を加え五言絶句を作る。未だ〔新島〕先生の意か否か知り得 ざる、但、續貂の誹りを免れ能わざるを知るのみ

ここにある「昭和丙戌(へいじゅつ、ひのえいぬ)」とは1946年のこと。

(8)

「静峯」とは蘇峰の当時の秘書である塩崎彦一のこと。「續〔続〕貂(ぞくち ょう)」とは、「狗尾續貂」の略で、立派なもののあとにつまらぬものを続 け、ふさわしくないことの意味である。

この賛で明らかになった注目すべき事実は次の通りである。

①「真理似寒梅」の詩は、新島が愛誦していた詩であった。すなわち、新 島が深井だけに伝えた詩ではなく、蘇峰や他の者も新島が口にしていた ことを知っていた詩であった。

②新島が揮毫した「真理似寒梅」の書は、1946年当時複数枚あり、その 内の一枚が蘇峰の賛が付された書であった。

③その掛け軸はおそらく、蘇峰が揮毫した当時の1946年3月に表装され たものであった。

蘇峰の賛付の「真理似寒梅」は新島の筆蹟によるもの

蘇峰は、新島の筆による「真理似寒梅」の書が複数あると述べているが、

それでは、いままで取り上げてきた写真1の書(『新島先生書簡集』口絵)

と写真2のオリジナルの書(「蘇峰の賛付の書」)は、いずれも新島が書いた ものであろうか。

まず、「蘇峰の賛付の書」は間違いなく新島の筆蹟による書である。

それは、128通にも上る書簡を新島から送られた蘇峰16)が賛を付して「裏 書き」していることからしていることから明らかである。さらにこの書籍は 既述の通り、『新島襄片鱗』にも石刷が掲載されており、『新島先生記念集』

が刊行された1940年当時、その筆蹟の石刷が扇面に描かれ、記念品として、

おそらく多くの校友に配られていたことであろうことからも知れる。

それでは、写真1の書はどうであろうか。

これについては、別人が新島の書を模写した可能性が極めて高い、という のが私の結論である。

その最大の理由は、この書が、文字の大きさも配列も、用いられた紙のサ イズも「蘇峰の賛付の書」とほぼ同じだが、完全に同じではなくて、署名の 筆蹟が異なるものだったからである。

もし、こちらの書も新島本人が書いたのであれば、それは、新島がその漢

(9)

詩の揮毫を複数人に配るように配慮して複数書いたことになる。そのような 例は実際にある。最晩年、大磯にあった新島は、1890年の新年の和歌「石 金も透れかしとてひと筋に 射る矢にこむる大丈夫の意地」を八重向けと、

新島の誕生日会にあわせて八重が自宅に招いた同志社の生徒向けに2枚(内 一枚は横田安止宛て)の3枚書いている17)

しかし、もしそうならば、署名も含めて同じ筆致で書くのが自然である。

署名だけ異なった字体で書くというのは普通考えられない。

また、仮に『新島先生書簡集』の口絵の書も新島の書蹟であったならば、

深井は新島から署名の字体が異なる書を2枚入手したことになる。

新島がそれを深井に渡したのであれば、それは深井からの強い依頼に答え たからであろう。しかし、後述する通り、管見に拠れば、深井自身の手記に は、新島に書を依頼したどころか、新島からこの書を得たことさえ一切書き 残していないのである。

しかし、それでは、別人の模写の可能性が極めて高いはずの書なのに、写 真1の口絵のキャプションによれば、それを深井英五が所蔵していたことに なっている。それは何故か。

推定できる理由は、蘇峰の賛付の新島の筆蹟による「真理似寒梅」はもと もと深井が所蔵していたもので、それを深井が蘇峰に寄贈し、寄贈の際に深 井はその模写版を作成して自分の手元に置いた、ということである。

その当時、書は表装していなかったとすれば、署名まで同じように真似る といずれが本物か深井でも容易に見分けが付かなくなる。だから、深井は、

模写版の方は字体の異なる文字にして、それが容易に複写版であることを分 かるようにした、と考えられないだろうか。

深井が蘇峰に新島の筆蹟の書を寄贈した時期は、おそらく、1940年の

『新島先生記念集』刊行〜1942年の『新島先生書簡集』の編集の前のことで あろう。だから深井は、その書簡集の口絵には複写版の写真を提供したので あろう。

『新島先生記念集』と『新島先生書簡集』はいずれも森中章光が編集して いるが、蘇峰の賛にあったとおり、新島の筆による「真理似寒梅」が当時複 数存在して、筆蹟が異なっていても深井が同じ新島の書であると言えば、森

(10)

中も納得せざるを得ないであろう。または、新島研究に生涯を懸けていた森 中であるから、その真相を承知したからかも知れない。

そのような書の複写を深井が本当に作成するであろうか、という疑問につ いては、深井は実際に新島の書簡の複写を作成したことがあることを指摘し たい。

それは1925年9月に深井が新島公義から託された新島の書簡を同志社に 寄贈する際のことだが、深井は新島の写本を作成して蘇峰に寄贈し、蘇峰か らお礼の手紙を受けている18)

そして、深井が新島の書簡を同志社に寄贈していたのにもかかわらず、深 井の遺族が、なぜその書を同志社に寄贈せずに徳富蘇峰記念に寄贈したのか という疑念も、晩年の蘇峰が保管していた資料の多くを引き継いだ徳富蘇峰 記念館にその本物があり、深井の手元にあるのは別人が複写したものである ことを遺族が承知していたとするならば、容易に理解できる。複写と分かっ ていて同志社に寄贈することは同志社に於いて錯誤を招く結果となる。複写 版を収めるのに相応しいところがあるとすれば、それは本物があるところし かない、そう考えるであろう。

真贋の見極め作業について

本論考をお読みの皆様は、いままで新島の筆跡として認識されていたもの について、確実な間違いということなら話は別だが、違う可能性が高いとい うことだけで騒ぎ立てるのはいかがなものか、とのご批判をお持ちかもしれ ない。確かに、文献が偽書か否かという根本的な問題は別として、およそ資 料が本物か複写(模写)かという問題は、その内容論に関する研究上はそれ ほど重要ではない。

しかし、その資料が文化財であれば、やはり真贋の見極めは必要かつ重要 な作業だと私は考える。その資料の閲覧や二次利用、複製や彫石に金銭的な 対価が生じる場合はなおさらである。特に、過去に「山本覚馬の長巻」の錯 誤問題で世間から厳しい批判を受けた同志社としては、その反省に立って、

真贋の見極めについては徹底的に行うべきであろう。

私は過去、蘇峰の元秘書(故佐藤重太郎氏)から、「神田の古書街では以

(11)

前よく蘇峰の揮毫の偽物が出て、中には見分けるのが困難なほど巧妙なもの があった」という証言を聞き、揮毫には贋物が付き物であり、まずもって真 贋の見極めが基礎的作業になることを学んだ。また、昨年、私が学芸員実習 を行った国登録博物館の駿府博物館は、収蔵する「宮本武蔵の書」や「藤原 定家の書」の展示を行わない方針を採っていた。真贋の見極めが済んでいな いから、と言う理由であった。

「真理似寒梅」の書について具体的に提言すれば、蘇峰の賛付の書こそが 新島の書に間違いないのであって、今後、新島の書蹟による「真理似寒梅」

の書を彫石や写真で用いたり、扇面に印刷して記念品として頒布する場合 は、こちらの方を用いるべきであるということである。

疑問

2

「真理似寒梅」は、深井が同志社の学生時代に新島から 直接手渡されたものか

定説では、上述の通り、1889(1888)年に同志社普通学校の学生だった深 井が新島から直接渡されたものである、とされる。確かに深井はアメリカの ブラウン夫人の奨学金を毎月新島から受け取っており、新島と接触する機会 は他の学生以上にあった。また、本井康博氏が実証的に研究されておられる とおり、1888年の4月には、深井は、新島から旅費と小遣いを渡されて梅 の名所である月ヶ瀬に旅行に行くように指示され、実際にそこへ行った事実 もある。本井氏は、その折にこの書を渡されたか、その前年の春に新島自身 が月ヶ瀬に行ったので、その際に作ったか、いずれかの可能性があると述べ ておられる19)。傾聴すべきご意見である。

しかし、それでも私が気になるのは、管見では、現在残されている深井の 文章のどこにも、この書を新島から直接渡されたことを記しているものが無 いことである。深井は、自叙伝『回顧七十年』で、同志社の学生時代に新島 に毎月会い、新島から「庭の果物を枝付きのまゝで手折ってくださったり、

休暇の旅行費を與へられたりしたこともある」と述べているが、肝腎の「真 理似寒梅」の揮毫を貰ったことは語っていないのである20)

さらに、上述の蘇峰の賛には、この書は「新嶋先生愛誦」とだけある。も し、定説のようにこの詩は深井だけが新島から貰ったのならば、蘇峰と深井

(12)

の密接な関係から、賛に深井の名とその由来を記しても良い。しかし、その ようなことは一切書いていないのである。

それでは深井は新島以外の誰から新島の書を入手することができたのか、

というと、たとえば、新島公義は深井に何点もの新島の書を寄託しているの で、あながち入手ルートが無いわけではなかった。

ところで、この詩の成立期について、『新島襄全集』5巻の「解題」で 1889年頃としたものを、『新島襄 その時代と生涯』のように「1888年こ ろ」と変更したのはどのような理由によるものであろうか。

その前に、「1888年ころ」とは、おおよその範囲を年単位で述べるのだか らずいぶん幅の広い範囲の特定であって、それは、厳密に言えば、1888年 を中心とする1、2年の範囲であろう。1年前後と考えても1887年〜1889年 の範囲となる。

深井は1886年秋に同志社普通学校に入学しており、新島が最後に京都を 離れたのは1889年の10月である。そのうち、寒梅の季節を含むのは1887 年、1888年、1889年の3年だが、1889年は新島夫妻が前年の12月中旬か ら3月末まで病気療養の為に神戸諏訪山和楽園の借家で過ごしており、寒梅 の咲く頃は京都に居なかった。そうなると、寒梅の季節を含むのは1887年 か1888年のいずれかとなり、新島から月ヶ瀬への旅行を勧められた1888年 が最も可能性が高い。仮に1887年でも「1888年ころ」の範囲とはいえる。

『新島襄 その時代と生涯』出版当時に同志社社史資料室長を務められた 河野仁昭氏は、2003年刊行の『同志社山脈 −113人のプロフィール−』で

「深井英五」を執筆されて、奨学金を手渡された深井に新島が「寮の友だち と食べるようにと、庭の柿を一枝折ってくれたこともあった。〔真理似寒梅 の〕色紙は深井がそのころ頼んでかいてもらったのであろう」とお書きにな ったが21)、時期や根拠を明確にされておられないのが残念である。

しかし、蘇峰の賛にあるとおり、もし、この詩が新島の愛誦した詩であれ ば、新島はかなり以前にこれを作り、折に触れて復唱していたと考えてもお かしくない。

以上、「真理似寒梅」が本当に新島から直接深井に手渡されたものか、そ うだとすればいつか、という問題については、現時点では、定説に関する疑

(13)

問のみを述べるに留まる。それ以上の解明は今後の研究課題とさせていただ きたい。

2.「庭上一寒梅」について

疑問

1

この詩はいつどこで読まれたのか 本井康博氏の先行研究

本井氏は、この詩は「新島が最後を迎えた神奈川県大磯(百足屋旅館)で 作られた、とするのが一般的」だが、問題は、大磯で「新島が永眠する以前 に梅が開花したかどうか」であり、作られた場所が大磯かどうかを含めて

「依然として謎は解け」ない22)、この「漢詩を詠んだ時期と場所は、伝承に 過ぎ」ない23)、と述べておられる。

また、本井氏は、この詩の初出のケースと思われるものが1890年3月に 刊行された『同志社文学会雑誌』であり、その詩の題は「庭園之梅」、結句 は「自在!百花魁」であったのに、1903年刊の『補正 新島襄先生伝』にお いては、結句は既に「自占!百花魁」に変わっている、と指摘しておられ る24)

私は、本井氏の先行研究を踏まえて、この詩の作られた時期と場所につい て考察して行きたい。

詩の分析から成立時期を考える①=病気療養中に詠んだ五絶

「庭上一寒梅」は五言絶句である。

しかし、日本の武士や高僧など歴史に名を残した男性が伝統的に好んで詠 んだ漢詩は五絶ではなく七言絶句である。

たとえば、蘇峰は1925年に「国民精神」の涵養を図るために「涵情養気 集」を編纂し、その中に弘文天皇、空海から菅原道真、夢窓疎石、伊達政 宗、頼襄、吉田松陰、西郷・木戸・大久保等の漢詩87首を掲載したが、そ の中で七言絶句は68首、五言絶句はわずかに2首であった25)。蘇峰に至っ ては、『蘇峰自伝』収録の漢詩502首のうち、ほとんどが七絶、五絶はわず かに5首、それも1928、9年に集中しており、その短い期間だけ、蘇峰は五

(14)

絶に対する詩想が沸いたように思われる。

新島においても、『全集』5巻に掲載されている51首(「真理似寒梅」は 除く)のほとんどが七絶、五絶はわずかに5首のみである。それも、五絶の 内の2首が海外脱出前の安中藩士としての修養時代の作である。

新島が帰国後に詠んだ五絶は3首である。

そのうちの1首が「庭上一寒梅」だが、ほかの2首については作成した時 期がはっきりしている。

そのうちの一つは1888年5月13日に「出遊記」に記した「病中懐古哲

〔病中に昔の賢人を思う〕」であり、東京での作である26)。4月22日、東京 にあった新島は、井上伯邸での明治専門学校設立に関する会合の最中に貧血 を起こして病気療養を強いられた。それから、ベルツ、難波一、橋本綱常等 の診察を受けつつ、「小生之病症ハ早ヤ心臓病ニ相違無之、早晩小生ハ此病 之為ニ斃るへきハ覚悟せねばならさる由」と土倉庄三郎に自分の病状を知ら せるに至るが27)、この詩はその頃の作である。

今人若流水 古哲去難帰 古今道一轍 須期再会時

ちなみに、古哲の例として新島は「アブラハム、モーゼ、ダビデ、預言者 輩、主基督、十二使徒...支那ノ孔丘、印度ノ釈氏」等を上げる28)

もう一つの五絶は、1889年12月19、20日に「漫遊記事」に記した「述 懐」であり29)、これも病気療養中に東京で作った詩である。前月末、前橋で 発病した新島は12月中旬に東京に戻り、ようやく回復に向かっていた。そ の頃、来訪してくれた旧友の吉田賢輔に手紙で書き送り、「韻字ノ相叶様、

又詩ト相成候様」に斧正を請うた詩であった30)

看山高巍々 観海濶洋々 味得造化妙 小心少発揚

以上のように、帰国後の新島は、大病後の療養中に「庭上一寒梅」以外の

(15)

ただ二つの五絶を詠んでいる。新島は療養中に七絶も詠んでいるが、それは 慷慨を述べる「志士の詩の風」31)のものであった。

一方、新島がこれらの五絶で思い謳うものは、一徹に求道に生きた「古 哲」(昔の聖人)や神の「造化の妙」である。七絶ばかり詠んだ蘇峰が、一 度五絶を詠んだ後に続いて五絶の詩想が沸いたように、漢詩を詠む者は、七 絶と五絶それぞれに込める思いを分けていたように思える。

新島に於いて、特に、「看山高巍々」の詩は重要である。新島は、この詩 について、「今朝早ク目覚種々自身之心術を反省仕候中、不図一詩を得」た という32)

その時新島は、南鍛冶町四番地(現、八重洲二丁目)の茂林館に滞在し、

ストーブの入った暖かい部屋にいた。今でも空気が澄む冬には東京から雪を 湛えた冬の富士が見えるが、新島は朝、凜とした冷気の中に美しい富士をみ て、自身の「心術」(こころだて、こころばえ)を反省した時、この詩を着 想したのであろう。

「庭上一寒梅」も、上の2首の系統に属するものである。その意味では、

これも病後の療養中に詠んだと考えて良いであろう。

詩の分析から成立時期を考える②=詩に含まれるヒント

詩の中には、詠んだ時期や場所を明示的に示したり、間接的に示したりす るものがある。間接的に示すものとはすなわちヒントである。

「庭上一寒梅」にも、実際に3つのヒントがある。

1つ目のヒントは、起句の「庭上一寒梅」と結句の「自在百花魁」、

2つ目のヒントは承句の「笑侵風雪開」、

3つ目のヒントは転句(不争又不力)である。

1つ目のヒント 起句と結句

1つ目のヒントのうちの起句「庭上一寒梅」は、文字通り、庭に咲く一本 の寒梅であって、庭という場所を特定していることから、新島が庭に咲いた 寒梅を観て詠んだと考えられる。それが事実であると強調する言葉こそ、本

(16)

井氏が明らかにされたオリジナルの結句「自在!百花魁」である。この結句の 中の「在」こそ、新島が眼の前で寒梅を見て、百花の魁としてそこに実在し ていたことを示す意味の「在」ではないだろうか。現在流布している結句で ある「自占!百花魁」の「占」では、新島の頭の中での「百花の中に占める寒 梅の地位」に関する当為を述べるのが主旨となり、いったいその寒梅は実在 していたものなのか、新島が頭の中で思い描いたものなのか、という点につ いてはなんら明瞭な答えは導き出せないのだが、「在」という文字によって、

それが存在したことを強く物語るのである。

そして、この「庭上の一寒梅」を実際に新島が観て詠んだものであるとす ると、新島は寒梅が咲く場所と時期にあってこの詩を作ったことになる。

病気療養中に五絶の詩想が沸いていた新島が、その寒梅を観てこの詩を作 ったとすると、その場所と時期は、上述の1888年12月14日から1889年3 月30日まで滞在した神戸諏訪山の和楽園、そして、1889年12月27日から 逝去した1890年1月23日まで滞在していた大磯が考えられる。

2つ目のヒント 承句

2つ目は承句の「笑侵風雪開」である。

この句は、「真理似寒梅」の承句の「敢侵風雪開」と比較すると「侵風雪 開」(風雪を侵して開く)という4文字が共通である。

しかし、「真理似寒梅」の方は「敢えて」であり、この詩の方は「笑うて」

である。

「風雪を侵して開く」有り様が、「真理似寒梅」の方は、「敢えて」という、

寒く厳しい風雪に抗する強い意志の力強さを感じるのに対して、「庭上一寒 梅」では、「笑うて」という、風雪などを意に介さない、柔らかく明るい微 笑みのような春のような温かさを感じる。

「庭上一寒梅」の詩は実際の寒梅を観て詠んだと考えられるが、もしそう であれば、その寒梅は本当に「風雪を侵して開」いていたのであろうか。

新島が神戸諏訪山滞在前後に書いた書簡を読むと、神戸の「気候ハ京都よ りも少しく温和」33)、京都は「神戸より尚寒冷ニ有之候」34)、とあり、神戸は 京都より少し温暖であった。ちなみに、諏訪山は山頂が標高160メートル、

(17)

中腹が90メートルである35)

一方で、新島が大磯の気候について述べた書簡を見ると、「去〔12月〕廿 七日気候の温和なる大磯へ転寓致し候、当地ハ大分暖にして風さへ無くは実 に春日の如く、摂生に至極にして、神戸よりも暖〔か〕なりと存じ候」36)

「小生〔大磯で〕喜申候ハ暖かなる気候ニ御座候、本日なとハ日中ストウニ 火を入れ不申、障子ハ明け放し午前午后も少々運動いたし候ニ少しも寒きを 覚へ不申候」37)、「こゝ許には甚静にして来客一人もなく春の様にも被思不申 候」38)と、大磯は神戸よりも暖かで春のようである、との喜びを述べている。

実際にこのような暖かい気候の場所で咲く梅はまさに笑うように咲くはず なのであって、風雪を侵して開くわけではないであろう。

したがって、承句については、新島は「真理似寒梅」の承句をモチーフと することを主眼としたものの、実際には風雪が無い、春のような暖かさの中 でこの詩を詠んだであろう。それもあって「笑うて風雪を侵す」という春を 告げるような句になったと思われる。

3つ目のヒント 転句

3つ目のヒントは転句(不争又不力)である。

承知の通り、漢詩、特に短い四行で読む者に強い印象を与える絶句におい ては、転句のはたらきが重要である。転句は、起句と承句の流れに対して場 面転換を行うことで、最後の結句に強い印象を与える働きがある。たとえ ば、孟浩然の五絶「春眠不覚暁、処処聞啼鳥、夜来風雨声、花落知多少」に おける転句の効果を想起されたい。

しかし、この詩では、転句が、場面転換を行うという意味の「転句」にな っておらず、承句の「笑うて」をそのまま承けて「争わず、又、力めず」と 続く。そのため、この詩は、五言絶句の漢詩としては、悪く言えば平板で抑 揚変化が乏しいものとなっている。

その一方で、その構成から、この詩は、五絶の形態は採りつつも、そのル ールから解放された自由な詩となっており、このことは、新島がこの詩を詠 んだ時の気持ちがこだわりがなく自由で開放的であったことを伺わせる。

そして、そのように作られたからこそ、この詩が読み下されて曲が付され

(18)

ると、川路柳虹の「星の世界」や吉丸一昌作詞の「早春賦」のように、現代 においても歌い継がれている詩となっているようのであろう。

多忙の神戸と多作の大磯

ところで、詩を作品の一つとしてみると、神戸諏訪山と大磯とでは大変異 なることがある。

神戸に滞在した1888年12月中旬から1889年3月末は、病気療養中とは いえ、新島は極めて多忙であった。神戸に行く1ヶ月前の11月7日、新島 は全国主要な新聞・雑誌に「同志社大学設立の旨意」を発表し、いよいよ大 学設立運動を全国展開し始めていた。J. N. ハリスから多額の寄付の話が飛 び込んできたのこの時期であるし、会衆派と長老派の教会の合併問題も沸き 上がっていた。帝国憲法の発布と森有礼の刺殺もこの間に起こった。そのた め、新島は諏訪山では手紙の発信や来信、客の来訪、神戸の要人への訪問、

相談等々多忙であり、その多忙の故であろう、作成時期の分かっている詩や 和歌の作品をみると、この時期の作はゼロであった。

一方、1889年12月27日の16時半に気候暖かな大磯駅に到着した時39)、 山積する主要問題の大方は解決しており、新島は久しぶりにゆったりした気 持ちとなっていた。すなわち、教会合併問題は半年前の6月に新島の意向も あって合併しないことを決定しており、大学設立運動については、4ヶ月前 の9月に同志社学院を同志社普通学校に改組して同校の尋常科の上に高等科 を設置し、念願のリベラルアーツ・カレッジを開校していた。大学専門部に ついては、大磯に移動する当日(12月27日)の午前中に東京で会議を開 き、理財学部と化学部という大学専門部の枠組みも決定していた40)。前橋で 発病した病気については、東京に戻って漸次回復しており、それが故に新島 は京に帰らず、東京での募金活動の進展を見守るために、蘇峰の勧めで「持 久ノ策ヲナシ大磯ニ冬ヲ過コス」41)事にしたのであった。

事実、元日は春のような陽気だったが、来客は一人もなく甚だ静かであっ たので、新島は「朝より朝から詩なとを作り書き初をなし大ニ楽し」んでい る。

2日には蘇峰、小崎弘道、金森通倫が泊まりがけで来て大賑わいになった

(19)

が、3日に彼等が帰ると「火のきへたるか如」42)く、また静かな日を過ごす ようになった。

このように容体が悪化する1月11日の夜迄は、新島は大磯で静かで落ち 着いた日々を過ごした。そのため、当地では新島は多作であった。「送歳休 悲病羸」、「いしかねも」等、彼の代表作ともされる漢詩や和歌を新島は大磯 で詠んだ。

以上のヒントや事実を考えると、「庭上一寒梅」を詠んだ場所は大磯であ る可能性が高い。神戸ではとてもこの五絶を作る余裕はなかったであろう。

あとは、新島滞在中に大磯で寒梅が咲いていたことを確認する調査が残る だけである。

疑問

2

新島滞在中に大磯で寒梅は咲いていたのか

この調査のために、私は2016年、新島の召天記念日である1月23日に開 花した梅を求めて大磯町の中心地を猟渉した。

大磯は、江戸時代は東海道の八番目の宿場町であり、街道を挟んで本陣や 旅籠、寺や神社などが軒を並べていた。

大磯宿を通る東海道は、宿場を三分の二ほど歩いたところで、やや右に折 れて小田原方面に向かう。その街道が折れる手前の右側(北側)に江戸時代 から百足屋があった。

一方、新島の暮らした愛松園は、新島が暮らす少し前に百足屋の主人宮代 謙吉が購入した家で、百足屋本館の裏庭の門から通りを挟んだ北、愛宕山中 腹の愛宕神社の参道の東側にあった43)

そして、新島が暮らした頃の大磯の中心地は、百足屋から東海道を東京

(東)へ500メートル程戻った所にある地福寺辺り迄と京(西)へ200メー トル程進んだ所にある鴫立庵(江戸時代から続く俳諧道場)辺り迄であっ た。

現地調査の結果を述べると、まず訪れた鴫立庵には一本の紅梅が七分咲き の鮮やかな紅色の花を咲かせていた(写真4)。庵の係の方に伺うと、大磯 の梅の咲く時期は2月だが、庭の紅梅は年末から花が咲いている、地福寺も

(20)

未だ咲いていないと思う、ということであった。地福寺とは、大磯の梅の名 所であり、境内の前庭に、樹齢100〜200年の梅の古木約20本が植えられて いる44)。なお、その庭の西側に島崎藤村の墓所がある。

そこで私は、その地福寺を訪れたが、そのほとんどが白梅であり、まだま だ蕾の状態であった。

次に百足屋の正面があった場所にある「新嶋襄先生終焉之地」碑の公園に 行くと、小ぶりの白梅の木があったが、これも蕾であった。この木はおそら く、寒梅を白梅と考えた同志社関係者が植えたのであろう。

そして、愛松園の跡地に行くと、その跡地に現在住む方は梅の木を植えて はおられなかったが、参道の向かい側の家の庭には、塀越しに紅梅の花が咲 いていた。また、愛宕山の回りを歩き回ると、民家の庭で美しく咲く紅梅の 花を見つけた。

以上の調査結果をまとめると、大磯には紅梅と白梅があったが、白梅は同 志社関係者が植えた新島の「終焉之地」碑公園と地福寺にあり、すべて蕾。

一方、紅梅は鴫立庵のほかにも幾本もあったが、皆七、八分咲きであった。

特に鴫立庵の紅梅は年末から咲いているとのことであった。そして、一般の 方が自宅の庭に植えている木は、私が確認出来た限り、すべて紅梅であっ

写真4 鴫立庵の紅梅

(21)

た。

地球温暖化によって梅の開花時期が早まっているはずだから現状で咲いて いても新島の時代は咲いていないのではないか、という疑問があるとは思 う。しかし、気象庁が40年以上の観測データをもとに公表した内容による と、梅の開花日は全国で50年あたり5.4日、九州地方においては0.3日早ま っており、地域によってその変化は異なっている45)。新島が大磯に滞在した 1890年は今から約130年前であるから、全国平均で単純計算すると現在よ りも14日ほど開花が遅かったことになるが、温暖な九州での値で計算すれ ば0.8日程度である。別の研究として、開花日と花芽の低温感応期間(11月 下旬〜12月中旬)の平均気温との間には統計的に有意な対応関係があり、

温暖な冬は開花日を早まらせるのではなく、それを遅らせる影響が生じる可 能性も指摘されている46)。いずれにしても、鴫立庵の紅梅は年末から咲いて いたのであるから、新島滞在中に寒梅が咲いていたのは間違いない。したが って、新島は大磯滞在中に紅梅の寒梅を実際に見て、この詩を詠んだと結論 づけることが可能である。新島の詩の「庭上の一寒梅」という詩から、その 場所は、白梅の多い地福寺では無かったであろう。

新島が暮らした愛松園は、元は民家であり、地元の方の嗜好として庭に紅 梅が一本植えられていた可能性もあるし、また、愛松園は、百足屋の北側の

「後庭中に」47)あったから、ぐるりの中に一本の紅梅が植えられてあった可能 性もある。

新島が「庭上一寒梅」を詠んだのは188912月か18901月か

それでは、大磯で新島がこの詩を詠んだのは、1889年12月か1890年の1 月か、いずれであろうか。

新島は一切記録を残していないが、前述の通り、『新島襄全集』5巻の解 題では、「明治22〔1889〕年冬、大磯での作」、すなわち、1889年12月と推 定されている。しかし、新島が大磯入りしたのは12月27日、体調が悪化し たのが1月11日だから、その間に詠んだとした場合、12月は4日間、1月 は11日間である。その中で、期間の短い12月と推定する理由は何であろう か。

(22)

おそらく寒梅が季語としては冬だからであろう。一方、「寒梅」でなく

「梅」は、(初)春の季語である。

しかし、新年に寒梅を詠むケースもある。たとえば蘇峰は、昭和5年の新 年作の詩では寒梅を詠んでいる。次の詩がそれである48)

...自分臥草萊 修史成何日 難奈衰朽催 衰朽何須嘆 天地長悠哉 獨対南窓起 寒梅数点開...

「庭上一寒梅」の結句「自占百花魁」を見ても、この詩は新春に相応しく、

私としては1890年1月の作であろうと考えている。

なお、蘇峰の詩を詠むと、蘇峰は新島の「真理似寒梅」を想起して詠んだ ように思われる。敗戦直後の1948年の早春、政治家の小坂善太郎が伊豆山 の晩晴草堂に蘇峰を訪ねたところ、庭には寒梅が咲き、応接した部屋には蘇 峰の雄渾な筆で「真理似寒梅」の扁額が飾ってあって、その部屋にも寒梅の 香が立ちこめていたという。そして、晩晴草堂の庭に咲く寒梅は紅梅であっ た49)

3.新島が詠んだ寒梅は紅梅である

「庭上一寒梅」と「真理似寒梅」とはそれぞれ紅梅か白梅か

前章で私は、新島が大磯で「庭上一寒梅」に詠った寒梅は紅梅であると指 摘した。

このことに対しては、自分のイメージでは白梅である、と考える方も多い であろう。かく言う私も当初、寒梅は白梅であると考えていた。しかし大磯 で調べた結果、新島滞在中に開花していたのは白梅ではなく紅梅であったた めに、三現主義(現場、現物、現実)に則り、紅梅であると考えを変えた。

しかし、それでは、「真理似寒梅」の方はどうであろうか?こちらは白梅 でいいのではないか、という意見もあると思う。

しかし、結論からいうと、こちらも紅梅であると思われる。それは、そう

(23)

でないと辻褄が合わないからである。

日本の伝統文学に於ける寒梅

日本で伝統的に詠まれた寒梅もしくは冬の梅は、白梅である。

古今和歌集に次の詩がある50)

梅の花それともみえず久方のあまぎる雪のなべてふれれば

題しらず よみ人知らず

花の色は雪にまじりてみえずとも香をだに匂へ人の知るべく

小野篁

(雪のうちの梅の花をよめる)

梅の香のふりおける雪にまがひせば誰かことごとわきて折らまし 紀貫之

これらはすべて、白梅が真っ白い雪に埋もれて白梅と雪の見分けが付かな いことをモチーフにとした詩である。

『新島襄の漢詩』で、著者の小川与四郎が、この「庭上一寒梅」の詩との 類似性を指摘した次の徳川斉昭の詩はどうであろうか51)

弘道館中千樹梅 清香馥郁十分開 好文豈是無威武 雪裏[裡]占春天下魁

この詩においても、過去に雪の下で天下の魁として開花した梅が、今満開 であると謳っていることから、白梅を指していると思われる。

ところが、新島は「真理似寒梅」でも「庭上一寒梅」でも、風雪に見紛う のではなく、風雪を侵して見事に咲いている梅の花を謳っているのであるか ら、これは紅梅を指しているのである。

(24)

赤はキリストの真理を表す色

真理の色を表す色について考えても、紅梅であることが例証される。

真理とは混じりけのない純粋なものと考えると、真理の色とは白色がイメ ージできる。新島は純粋な人物であるから白こそ相応しい、そのようなイメ ージから、新島の詠んだ寒梅は白梅だ、そう考える人が多いであろう。

しかし、それでは、新島にとって真理とは何色であろうか。

新島は真理に関して次のように述べる。

「キリストノ目的ハ世人ノ目的ヲ以テ比スベカラス 真理ノ国ヲ立、真 理ヲ以人ヲ自由トシ、以人ヲ救フニアリ 吾揚ラレナハ予万人ヲ引クヘ シ」52)

新島は、信頼できる揺るぎのない神の愛や救いを真理と考え、その真理を 得るためにキリストがその生き様や言動を通して示した救いの道・救いの教 えを真理の証と理解していたように思われる53)。その意味でも、新島にとっ て真理の色とはキリストが人類のために流した血と神の愛の色であろう。そ れは赤にほかならない。

襄の寒梅と八重の寒梅

ところで、梅は紅梅が早咲きで白梅が遅咲きと言うことではなく、早咲き か遅咲きかは梅の種類による。その中でも早く咲くのは、花弁が多数ある八 重梅の寒紅梅である。北野天満宮では、早咲きの寒紅梅は、毎年12月中旬 につぼみがふくらみ始め、正月明けには開花するという54)

そうすると、ひょっとすると新島は、大磯で八重梅の寒紅梅の咲いている のを見て、その花を妻の八重の姿になぞらえて詩を詠んだ、と考えることは 想像に過ぎるであろうか。

大磯で妻の八重に「仙台はぎの腹はすいてもひもじふないを学び、お前様

〔八重のこと〕御出かなくても〔自分は〕さむしふないと申居候」55)と書き送 って彼女に会いたい気持ちを我慢した新島であるから、寒紅梅を見て、「そ れは八重梅である」と土地の人に聞いたら、八重のことを思うのは自然であ

(25)

る。

そして、もしそうだとすると、「庭上一寒梅」の詩の意味は、新島が妻の 八重に対して、あなたはこういう人なのですよ、というメッセージを込めた 詩なのかも知れない。

会津武士の娘として生まれた八重は、兄の覚馬から砲術を学び、戊辰戦争 の鶴ヶ城での籠城戦では、最新のライフルであるスペンサー銃で薩摩藩の砲 隊長・大山彌介(大山巌)を狙撃して緒戦に勝利し、籠城戦を長期戦に持ち 込むという会津側で最大の功績を挙げている。京都では、誰よりも先にキリ スト教を学び、襄と婚約したことで就職先の新英学校・女紅場を首になって も気にせず、京都で最初のキリスト教式の結婚式を挙げる。

その後も京都の町で洋装をし靴を履いて同志社英学校の生徒達を驚かせ、

新島と二人乗りの俥で京の街を走り回る、そんな常に時代の先端をゆく八重 であった。

襄は「八重さん、笑って風雪を侵して開く八重梅のように、お前様は、競 ったり力んだりしなくとも、おのずからすべての女性の中で魁のような人な のですよ」、そういう思いを詩に込めたのではないか。

そうではなかったとしても、八重としては、新島の「庭上一寒梅」の詩に そのような意味を感じとったのではないだろうか。

八重は夫の逝去から立ち直るのに三年かかったが、その後、日清・日露両 戦争に篤志看護婦として従軍して看護婦の地位を高め、皇族以外の女性で初 めて受勲する。そして、茶道では、従来男性社会だった茶道界のトップの一 人となって今日の女流茶人全盛の茶道界の流れをつくる。まさに百花の魁の ように生きた女性であった。

本井氏によれば、米寿を迎えた八重を祝って、新島の教え子であった半月 湯浅吉郎が、次の和歌を詠んだという56)

めずらしと誰か見ざらん世の中の春にさきだつ梅の初花

湯浅半月も、「庭上一寒梅」に新島の八重への思いを感じ取ったのであろ うと私は思うのである。

(26)

1)『新島襄全集』5巻(同朋舎出版、1984年)(解題)p.563.

2)同書p.496.

3)たとえば、公益社団法人関西詩吟文化協会による、奈良時代から昭和までに日本 人が詠んだ代表的な漢詩253編の一つに選ばれている。同協会ホームページ・

「日本 の 漢 詩 一 覧」http : //www.kangin.or.jp/what_kanshi_f.html(2016年9月16日 調査)

4)譜面は『同志社歌集』(同志社大学出版部、1969年刊。以降幾度も版が改められ ている)に収録。

5)小川与四郎『新島襄の漢詩 行動による詩人の影を拾う』(同志社新島研究会、

1979年)。和田洋一『(人と思想シリーズ=第2期)新島襄』(日本基督教団出版 局、1973年)。竹中正夫「寒梅のふるさと」『同志社時報』82号(学校法人同志 社、1987年)、同「新島襄のこころ−イメージを通して−(3)寒梅の詩」『同志 社時報』90号(同、1990年)。本井康博『新島襄を語る(四)敢えて風雪を侵し て』(思文閣出版、2007年)、同『新島襄を語る(五)元祖リベラリスト』(同、

2008年)。児 玉 昌 己「児 玉 研 究 室 新 島 襄 の 寒 梅 の 色 紙」(2008年2月8日、

http : //masami-kodama.jugem.jp/?eid=1060(2016年9月16日 調 査)。ほ か に、近 年の『同志社時報』では、表2の「新島襄の言葉」のコーナーで、「庭上一寒梅」

(128号、2009年)と「真理似寒梅」(132号、2011年)が取り上げられてい る

(前者は平松讓二氏、後者は工藤尚子氏による)。

6)前掲『新島襄全集』5巻、p.563.

7)『新島襄−その時代と生涯』(学校法人同志社(初版1993年)、本論執筆者が確認 したのは、同書1995年版p.147.

8)森中章光編纂『新島先生書簡集【非売品】』(同志社校友会、1942年)

9)『晩晴』14号(蘇峰先生報徳会、1975年)表2.

10)『新島襄 その時代と生涯』(学校法人同志社、1993年。改版は1995, 1997年)

11)『新島先生記念集』(同志社校友会、1940年)

12)森中章光著『新島先生片鱗』(洗心会、1940年)。ただし、同書の口絵の寒梅の 詩は、『新島先生記念集』の写真のように3文字×3行+1文字ではなく、一行5 文字×2行に直されている。

13)神田哲雄著『新島襄の生涯』((前橋市)社会教育者連盟、1955年)

14)徳富蘇峰記念館に2つの「真理似寒梅」の詩があることを最初に指摘されたのは 松村七五郎氏である。(松村七五郎「徳富蘇峰記念館に二つの『真理似寒梅 敢 侵風雪開 新島襄』の色紙が」『同志社タイムズ』2008年4月15日(同志社タ

(27)

イムス社、2008年)

15)蘇峰宛て1945年1月22付深井英五書翰、『(近代日本史料選書7-3 徳富蘇峰関 係文書』(山川出版社、1987年)p.481.

16)伊藤彌彦編『新島襄全集を読む』(晃洋書房、2002年)p.71.

17)『新島襄全集』4巻(同朋舎出版、1989年)pp.332-333.

18)蘇峰宛て1925年9月19付深井英五書翰、前掲『近代日本史料選書7-3 徳富蘇 峰関係文書』p.457.

19)本井前掲『新島襄を語る(五)元祖リベラリスト』pp.18-22.

20)深井英五『回顧七十年』(岩波書店、1941年)、p.24.

21)同志社山脈編集委員会編『同志社山脈−113人のプロフィール−』(晃洋書房、

2003年)p.190.

22)本井前掲『新島襄を語る(四)敢えて風雪を侵して』pp.72-73.

23)本井康博『新島襄を語る(六)魂の指定席』(思文閣出版、2009年)p.39.

24)本井前掲『新島襄を語る(五)元祖リベラリスト』pp.13-14.

25)徳富蘇峰「涵情養気集」(『国民小訓』(民友社、1914年)と合本)。なお、その 五絶の一つは弘文天皇の詩。もう一つは新島も好んだ勝海舟の「芙蓉聳碧旻〔天 の意〕、対此須養眞、擾擾遂何事、時危思偉人」である。

26)前掲『新島襄全集』5巻、p.306.

27)土倉庄三郎宛1888年5月11日付新島書簡、『新島襄全集』3巻(同朋舎出版、

1987年)、p.568.

28)新島公義宛1888年5月13日付新島書簡、同書、p.572.

29)前掲『新島襄全集』5巻、p.404.

30)吉田賢輔宛1889年12月20付新島書簡、前掲『新島襄全集』4巻,p.277.

31)小川前掲書p.8.

32)注30)吉田賢輔宛新島書簡中の文言。前掲『新島襄全集』4巻,p.277.

33)須田逸平宛1889年1月付新島書簡、同書、p.30.

34)仲村栄助宛1889年3月31日付新島書簡、同書、p.85.

35)「Wakerプ ラ ス 兵 庫 県」ホ ー ム ペ ー ジhttp : //www.walkerplus.com/spot/ar0728s 64066/(2016/9/24調査)

36)松尾音次郎宛1889年12月30日付新島書簡、前掲『新島襄全集』4巻、p.299.

37)徳富蘇峰宛1889年12月30日付新島書簡、同書、p.304.

38)八重宛て1890年1月1日付新島書簡、同書、p.315.

39)当時、新橋駅から神戸行きの汽車は一日4本。新島は新橋14 : 30発(大磯16 : 38分発)の汽車に乗り込んだと考えられる。井上鐵堂『改正〔1889年7月1日〕

(28)

現行 汽車時刻表』(中森弘進堂、1889年)

40)前掲『新島襄全集』5巻、p.481.

41)同書、p.400.

42)前掲『新島襄全集』4巻、p.321.

43)詳細は拙稿「新島襄と百足屋と愛松園 −最晩年の新島が大磯で暮らした場所は どこか−」『新島研究』107号(同志社大学同志社社史資料センター、2016年)

参照。

44)大磯の観光情報サイト・isotabi.com・地福寺http : //www.town.oiso.kanagawa.jp/iso- tabi/look/jisya/jifukuji.html(2016/9/25調査)

45)清水庸・大政謙次「温暖化影響のいま−生態系と農林水産業へのインパクト[第 6回]温 暖 化 の 生 物 季 節 へ の 影 響」『遺 伝』67巻(日 本 遺 伝 学 会、2013年)

pp.710-711.

46)同書、p.710.

47)一囊一䊅道人『大磯名勝誌・相州大山記』(天籟書屋、1889年)p.43.

48)徳富蘇峰『蘇峰自伝』(中央公論社、1935年)p.708.

49)小坂善太郎「寒梅の香り」『晩晴』1巻(財団法人蘇峰先生彰徳会、1967年).

p.15. 晩晴草堂の庭の寒梅が紅梅であった根拠は、蘇峰の義理の娘・芳枝の詩に

「亡き父の哀歓なほ知る。梅か愛ぐしき紅に寒をふくらむ。」とあるからである。

(前掲『晩晴』1巻、p.37.)新島の詠んだ寒梅が紅梅であったことを示す重要な 傍証である。

50)いずれも、出典・三浦圭三『総合古今和歌集進講』(啓文社書店、1929年)

51)小川前掲書、p.88.

52)『新島全集』2巻(同朋舎出版、1983年)、p.328.

53)拙稿「新島襄のキリスト論〜「キリストの真理の証し」と復活論を中心として〜」

『新島研究』第101号(同志社大学同志社社史資料センター、2010年)、p.137.

54)北野天満宮・春を告げる「天神さんの梅開き」http : //www.kitanotenmangu.or.jp/

highlight.php(2016/9/25調査)

55)前掲『新島襄全集』4巻、p.321.

56)本 井 康 博『新 島 襄 を 語 る(七)ハ ン サ ム に 生 き る』(思 文 閣 出 版、2010年)、

p.174.

なお、本論考では、引用文も含めて、年月日の数字表記は全て算用数字に統一して いる。

(29)

追記

2017年1月23日に再度大磯入りしたところ、愛松園跡周辺の民家の庭先では八重 紅梅が満開だった。本年は開花が早いのか、庭先に三部咲の白梅がある家もあった。

愛松園跡地にある民家の庭にも三分咲の白梅を発見したが、それは明らかに新島の 住んだ時代の後に植えられたものであった。

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