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中国・雲南省のプロテスタント・キリスト教につい ての一考察

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巻 67

号 1

ページ 79‑104

発行年 2005‑11‑05

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011222

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中国・雲南省のプロテスタント・

キリスト教についての一考察

A Study on Protestant Christianity in Yunnan Province of China  

原 誠

Makoto  Hara

Ⅰ はじめに

本論文は、2001年度の同志社大学学術奨励研究費の助成を受け、中国・雲南省や 南京の南京神学院での調査、また中国におけるプロテスタント伝道に関する文献を 収集している香港バプテスト大学の図書館での資料調査、さらに中国語文献からの 一部の翻訳などによって、中国・雲南省のプロテスタント・キリスト教についてま とめたものである。

日本におけるプロテスタント伝道は、琉球においては1832年にギュツラフによっ て、1846年にベッテルハイムによって、また1853年のペリー艦隊の来航の後、1859 年のヘボンらの来日によって開始された。しかし来日した宣教師の多くは、彼ら自 身の自主的な行動として来日したのではなく、それぞれに属していた海外伝道団体 の伝道計画によって日本に派遣されたのであり、そしてこれらの多くの海外伝道団 体は、宣教師の日本派遣以前に中国で伝道を行っていたのであった。宣教師たちは、

来日以前にすでに漢訳・刊行されていた、聖書を含む多くの伝道文書を携えて来日 した。したがって、日本伝道の開始以前に中国でどのような伝道がなされたかにつ いて的確な認識を持つことは、日本プロテスタント伝道史の背景を知る上で重要で ある。中国におけるプロテスタント伝道は、欧米による植民地政策の歴史と切り離 して考えることはできない。

また同時に筆者は北タイの少数山岳民族のキリスト者と過去20年の間、交流を続 けてきた。彼らは現在、北タイに居住しているが、歴史的にはもともと中国・雲南 省に居住しており、第2次世界大戦以後、ことに中国の成立以後いくつかの少数部

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族が雲南省を離れてビルマに、あるいはラオスに、そしてタイに移動してきたもの である。彼らは今日、生活している北タイでキリスト者となったものもいるが、多 くの場合タイに居住しはじめる以前のビルマで、あるいは中国・雲南省でキリスト 者となったのである 。そしてこの雲南省で宣教師が活動したのは、中国が開港した 沿海州からの伝道ばかりでなく、当時、イギリスの植民地であったビルマの側から もなされたのであった。

したがって、本稿では中国伝道の開始とその意味を検討しながら、どのような経 緯で中国の雲南省でプロテスタント伝道が開始されたのか、またそれはどのような 受容となったのか、その一端を明らかにしようとするものである。

Ⅱ 中国(清)におけるプロテスタント・キリスト教の伝道の開始

中国におけるプロテスタント伝道の歴史は、アヘン戦争を含めて欧米列強の中国 への進出の過程と深く関わっている。

中国のプロテスタント伝道は、1807年、ロンドン宣教会(The London Missionary Society)によって派遣されたロバート・モリソンによる広州での伝道に始まる。それ 

は、カトリックが大弾圧を受けた2年後のことであった。この時代は第1に清朝政府 は厳重な禁教政策を取っており、第2にマカオ在住のカトリック宣教師への妨害が なされ、第3にイギリス東インド会社の厳重な規定による活動制限がなされた時代 であった 。

この状況はアヘン戦争後の1842年に結ばれた南京条約によって新しい段階に入った ものの、この条約自体には、キリスト教伝道についての規定はなかった。1844年に清 とアメリカとの間に結ばれた望厦条約と清とフランスとの間で結ばれた黄 条約にお いて、広州、福州、厦門、寧波、上海が開港場として決定され、ここでプロテスタン ト・キリスト教の伝道が開始、すなわちキリスト教会の建設の権利を獲得することに なったのである 。

カトリックは 1810年に約 30人、85年には約 450人、96年には約 750人の宣教師を

1 例えば、西本陽一「北タイ・クリスチャン・ラフ族における民族関係の経験と自嘲の語り」『民族学研 究』第64巻第4号、2000年3月、を参照のこと。キリスト教宣教師は19世紀を通じてアジアのあらゆる 国で活動していたが、集団改宗がおこったのはフィリピン、ヴェトナム、そしてビルマと中国の山地で ある、と指摘している。

2 吉田寅「中国のキリスト教」『アジア・キリスト教の歴史』1991年、142ページ。矢沢利彦『中国とキリ スト教』近藤出版社、1972年、はプロテスタント伝道についてはまったく触れていない。

3 吉田寅、前撮論文、149ページ。

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派遣し、プロテスタントは1842年以前には10数人、58年には約80人、89年に は 約 1300人の宣教師を派遣して伝道活動を開始したが、その成果としての中国人キリス ト者は、カトリックで 1810年に 20万人前後、70年には約 40万人、96年には約 53 万人という数字になったのに対して、プロテスタントでは1840年以前においては 100人前後、93年の段階でも5万5千人と推定されている ように、 その成果は著し いものではなかった。

中国人がプロテスタントに入信する背景としては「一部の中国人は純粋な宗教的 動機というよりは、近代欧米文化に対する憧憬などから」であるとか、「清朝が欧米 と結んだ条約上の特権が中国人信徒に及ぶ場合があることも魅力」 であったと説明 されている。そして同時に「天津条約、北京条約によってキリスト教伝道が公認さ れ、教勢が発展するにつれ、民衆の間に反キリスト教的機運がたかまった。民衆が キリスト教を排撃しようとした原因は、教会が帝国主義勢力を背景にさまざまな特 権を行使しようとしたこと、また中国人キリスト教徒が、農村の旧来の風習をそこ ない、公共事業への参加を拒否したことなどがあげられる。また宣教師も中国の現 実を十分に把握せず、一方的な優越による布教を行ったことによって、キリスト教 の本質が理解されなかった」 というように、キリスト教は植民地主義、帝国主義と 軌をいつにして伝道された。その特徴は学校の設立による教育活動と医療によるも のであった。

Ⅲ 雲南省におけるプロテスタント伝道

中国におけるキリスト教伝道に関する文献はいくつかあるものの、当然のことな がらその主要対象は漢人への伝道である。そのような中で少数山岳民族に対してな された雲南省における伝道の経緯について記されたものは多くはない。その意味で は、銭寧(主編)、高力・郭 真明(副主編)『基 督 教 与 少 数 民 族 社 会 文 化 変 遷』

(1998年、雲南大学出版社)には、「付録1『基督教在雲南部分少数民族中伝搬的情 況』雲南一部少数民族の中におけるキリスト教の伝搬情況(1881年―1950年)」 と いう論文が収録されており、極めて貴重なものである。以下この記述を紹介する。

4 前掲論文、155‑156ページ。

5 前掲論文、156ページ。

6 前掲論文、156ページ。

7 この著作は、2002年度春学期まで同志社大学大学院神学研究科博士後期課程に在籍していた中国からの 留学生、 恩峰(シュエ・エンフゥン)氏に紹介され、また氏に翻訳の労をとってもらったものである。

記して謝意を表する。

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主編:銭寧

副主編:高力、郭 真明

「雲南一部少数民族の中におけるキリスト教の伝 搬情況」(1881―1950年)

( 恩峰 翻訳)(原誠 監訳)

[1] メオ(苗)地区におけるキリスト教の伝搬情況

1990年の人口統計によると、雲南に居住するメオ族は89万 6712人で、全国のメ オ族人口739万8035人の約14.91%を占めている。近代において、 (雲南の別称)

南地区のメオ族は主にカトリックの影響を強く受け、それに対し 東北のメオ族は プロテスタントの影響を強く受けた。

メオ族地区は雲南で最も早くプロテスタント(訳注①)が急速に発展を遂げた少数 民族地区である。早くも1883年には、英国の宣教師サリバン( 漢訳:索理仁 訳注

②)が上海から四川の宜賓を経て昭通地区に来て宣教活動を行った。その後、美道会

(Missionary Society of the Methodist Church in Canada)[後 に 循 道 公 会 Methodist Missionary Societyに 帰 属 の]昭 通 教 会 責 任 者 で 英 国 宣 教 師 索 理 仁(ポ ラ ー ド 

Samuel Pollard、1864―1916)が1887年に昭通に宣教に来て、循道公会西南教区を 設立した。

1903年、英国の宣教師・党居仁(アデーム J.R.Adaeme)が、貴州安順のメオ族 地区での伝道に成功し、当地と周辺のメオ族から「メオ族の王」と奉られた。安順 から遠く離れた (雲南)・ (貴州)境界地域の多くのメオ族も安順へ赴き、キリ スト教に帰依した。雲南のメオ族が安順に行く道程の遠さに鑑みて、アデームは彼 らが昭通に赴き、ポラード牧師を訪ねるよう紹介した。アデームはポラード宛てに 一通の手紙を書いた。この簡単な紹介状が烏蒙山地区のメオ族の歴史を変えるもの になったのである。

1904年7月、アデームの手紙を携えた4人のメオ族が昭通にポラードを訪ねた。

ポラードは彼らを暖かく歓待し、「彼らに教義を伝え」、さらに帰ったらメオ族同胞 に昭通へ来て入信することを勧めるよう頼んだ。その後、メオ族は一団また一団と 踵を接するようにやって来た。彼らは穀物袋を背負い、山を越え、川を渡り、昭通 の循道公会へやって来た。昭通の伝道所で、ポラードは彼らに水と煮炊きの火、寝 る場所を用意し、そしてキリスト教の教義を授けたのである。雲南・貴州の多くの メオ族が1904年(龍の年)にキリスト教に帰依し、彼らはこの歴史を「龍年得道

(龍の年に道を得る)」と称した。

ポラードはメオの信徒の増加と、それに加えた昭通の 族土司・地主のメオ族信

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徒に対する迫害の問題に鑑みて、メオ族居住区に教会を建設することを決定した。

1905年春、ポラードは、 (雲南)・ (貴州)2省の境界の地である貴州省威寧 県石門 に教会を設立して教会堂を建設した。石門 において、ポラードらはメオ 語の制定と普及、教会学校の開設、病人の治療・救済、教義の宣布を通じてメオ族 の信徒を急速に増加させた。多くの信徒が100キロ以上の道程を歩いて礼拝に参加 し、かなり遠方の一部メオ族の集落でも全村・全村落で「信碇」を自称する者も出 てきた。ポラードの宣教事業はメオ族の間で、奇跡的な成功を収めたのである。

1907年、昭通美道会は「聖道公会」(United Methodist Church Mission)と名を改め、

1912年には「共和年会」を設立し、この下に苗疆、東粟、昭通、東川の4部を置い た。そのうち苗疆は石門 に置かれ、メオ族地区における宣教活動の責任を負い、

その部長には共和年会会長の任にもあったポラード自身が兼任した。

1915年9月16日、ポラードは石門 の腸チフス患者を救護して自らも感染し、回 復することなく他界した。享年51歳であった。

ポラードらの努力により、烏蒙山地区においてキリスト教を信仰するメオ族は、85 パーセントに達した(1)。

雲南メオ族地区における教会堂は以下のように分布していた。(訳注③)

雲南疆良: 耳溝、 姑煤煙、中寨、落屋 、銅廠溝、大苗寨、青樹林、 店子、核 桃湾、三家寨。

雲南塩津:生基坪、楊家湾、楊渓溝、洛鍋坪。

雲南昭通:麻窩当、王堆子。

雲南大関:天星場、大火地、 家湾、星火地、廠坪。

雲南永善:大坪子、十八坪、桶子廠、唐家坪、杉木林、老鷹岩、紅沙地、譚家坪、龍 門寨、三 椿、老棚子、猪脚湾、営盤堡。

雲南魯 :龍樹。

雲南威信:牛皮 、天池、能孔、墨黒、隔路、簸火、石甲子、児子 、文星、蔡 。 雲南陳雄:発達、李子 、天生橋、猪宗梅、放馬 、岩洞脚、杉木渓。

以上のこれらの 教 会 堂 は、す べ て 石 門 聯 区 の 直 接 管 轄 下 に あ っ た。内 地 会

(China Inland Mission)に移行されたものは、 北武定酒普山、環州、慕蓮、石井 、 禄豊大 、禄勧南 、 渦塘、崇明牧羊、富民柿花 、尋 大水塘などである(2)。

烏蒙山地区でメオ族が最も集中している威寧県は、キリスト教徒が一人もいない 情況から一躍、全人口に占めるキリスト教徒数の比率が全国最大の県となり、宜良

(2位)、武定県(4位)と永善県(11位)も上位に名を連ねた。(『中華帰主』1920 年の統計による)

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1923年、内地会宣教師・郭秀峰(ママ。中国名)が主導して武彦洒普山において

「キリスト教内地会浜北六族連合会」を発足させ、分布情況によって区分けをして、

武定洒普山メオ族総堂、禄勧撒老 黒イ族総堂、武定滔谷リス族総堂、武定阿谷幹 イ族総堂、尋 新哨白イ族総堂及び武定老把タイ族総堂の6総堂を建設し、各総堂 がそれぞれで近隣各県の少数民族における宣教活動の責任を担った。解放前夜まで に、洒普山メオ族総堂は、七つの分堂、27の支堂を建てて、メオ族信徒組1万人を 有した(3)。その他では50年代初頭、元謀県漢族総堂(元、 中 Bethel教会に所 属)も 北六族連合会に編入された。

数十年にわたる伝播と発展を経て、雲南メオ族地区において、キリスト教はかな りの規模と影響力を備えるようになった。メオ族の雲南における分布は非常に広範 囲にわたるため、メオ族地区における教会の分布はほとんど雲南全域に広がり、中 でも 東北と 北地区に最も集中している。

北地区においては、循道公会が16年にわたって (雲南)・ (貴州)・川(四 川)3省の聯区に設立した教会堂は50年代初頭までで121、信徒は5万人、学校の生 徒は2万余に達し、その大部分はメオ族地区に分布している。そのうち、 東北の メオ族地区に分布する教会堂が過半数以上で、照通地区だけで54、さらに尋 、馬 龍、 益(現在は曲靖市に属する)と宜威等の県にもいくつかの会堂がある。信徒 の数は3万人近くで、そのうちメオ族が80パーセント以上を占めている。

1900年に英国の牧師ウェスリー(漢名 衛斯里)が会沢県県城の楽豊街に会堂を建 て、学校を作り、文化と宗教知識を与え、曲靖地区のメオ族、白イ族、漢族への伝 道活動を開始した。1900年から50年までに8人の牧師が来て宣教に従事し、同様の 活動は1904年には宜威でも開始した。

ポラードは、1906年にメオ族の伝道師とともに照通を出発して、途中、曲靖国地 区会沢県と尋 のメオ族の集落を経て昆明に至り、途上のメオ族の調査をした後、

曲靖地区北部にいる 東北の準方言を話すメオ族に対して大規模な伝道活動を行う ことを決定した。1908年から17年のあいだに、オートスラリア国籍の内地会牧師・

郭秀峰を派遣し、メオ族伝道師・楊雅各らを率いて、尋 県の大水井、馬龍などの 地に教会堂を建てて伝道した。尋 県の教会堂は1913年に建設されたものである。

それからキリスト教は、会沢と尋 の二つの県から馬龍県、宜威県、曲靖県、陸良 県などのメオ族の集落およびその他の民族の地区に伝わった。中華人民共和国成立 以前までには、曲靖地区でキリスト教の教職・牧会職・聖職にあった人は、牧師1 名、会長4名、礼拝長2名、長老18名、伝道師36名、執事56名、信徒7000余名(一 説では、信徒3万名)となり、その大部分は大花メオと白イ族が大多数であった。

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内地会、循道公会、自立会 (Independent Lutheran Mission)、中華キリスト教会、安 息日会(Seventh-day  Missionary)、復興会、神召会(Pentecostal Assemblies of the World)およびイエス教などの教派が前後して曲靖地区で宣教を行った。循道公会は 

メオ族地区に教会堂を開設し、そのすべてに学校が附設されていた。聯区と教区に は完全な小学校が設置され、支堂には初級小学校が設置され、教職・牧師は、平日 は学校で授業をし、日曜には礼拝を執り行った。これらの教会学校は、メオ族の文 化的知識レベルの向上に一定の積極的効果をあげた(5)。

循道公会と内地会の外にも、 東北と 北地区のメオ族地区で活動を展開したも のには、キリスト教復臨安息日会 (Seventh-day Adventist Mission Board)と中華キリ スト教会などがある。そのうち安息日会は、禄勧、武定、禄豊、尋 、安寧や富民 などの地に教会堂17を建て、1700余人の信者がおり、その大多数はメオ族であった。

中華キリスト教会のこの地区のメオ族の活動は、 県柿花 を中心とし、近隣の武 定、禄勧と崇明などの地に4教会堂を建て、約500人の信徒を得た(6)。

[2]リス族、ヌー族地区におけるキリスト教の伝播情況

怒江地区は雲南省西北の隅、西はビルマ(訳注④)と国境を接し、北はわが国の チベットと隣り合わせ、現在は自治州となっている。行政上、蘭坪、濾水、碧江(7)、

福貢、貢山の5県を管轄し、リス、ヌー、トールン、チャシャン(チンポー族の支 系)など 22の少数民族が居住し、全人口は43万で、そのうちリス族が約20万人余 りで、これは全州の総人口の51.5パーセントを占め、怒江州の主要民族である。

キリスト教はおおよそ1913年に怒江地区に伝来した。

1913年前後、米国の宣教師・マッカーシー(漢訳:麦克 西)の主催するビルマ 八莫(バーモー)キリスト教内地会がビルマ籍宣教師・カレン族の青年宣教師バソ ウ(漢訳:巴叔または巴托、Rev.Bathow)を怒江に伝道のために派遣した。しかし バソウの伝道活動は成功を収めず、怒江キリスト教伝播史上の序曲としかならなか った。その後、絶え間なく国内・瀬外の宣教師が怒江地区に入り込んできた。例え ば英国の牧師・フローレンス(漢訳:傅能仁)が1919年に濾水に伝道に来て、1920 年には英国内地会の宣教師・楊志英が濾水に行き、その後、北上して碧江へ行って 伝道した。臨滄福音山キリスト教会のアーサー(漢訳:亜撤)らは1926年に濾水に 来て宣教した。1929年、米国神召会の牧師・馬導民(漢名)は蘭坪から貢山へ宣教 した。

1930年前後、多くの外国人宣教師が次々と怒江地区に入って伝道した。彼らはい ろいろな手段を講じて怒江地区で信徒を拡大し、教会堂を建設し、教義を宣べ伝え、

学校を興し、医療奉仕を展開し、怒江にキリスト教を根付かせ、かなり整った教会

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組織を打ち立てた。各教会組織はそれぞれ自分たちの活動範囲を持ち、次第に自ら の宣教基地を形成していった。

近代において、怒江地区におけるキリスト教の伝播、発展が比較的早かったのは、

濾水、貢山、福貢の3県である。以下、怒江5県の情況のそれぞれにつき概説する。

(1)濾水県

1、キリスト教の濾水への伝来

1926年、臨澹福音山キリスト教会のアーサーら7名が六庫地区の 蝗 、黒倉、

馬鹿塘などの集落に伝道に来たことによって濾水にキリスト教が入りはじめた。

アーサーらは、伝道の中でキリスト教の基本教義を伝えるだけでなく、その土地 の実際情況に基づいて伝道を行った。彼らは教えを信じたらリス文字を学ぶことが できる、嫁をもらうのに金を出す必要がなくなると教えた。当時のリス族の一般的 な民衆は、病気になっても医療による治療の法がなく、牛羊を屠り、豚を殺して鬼 神に捧げることに望みを託していた。その上、統治当局の圧迫は残酷で、生活は非 常に貧しく、勉強など考えられない有様だった。このような社会情況の下で、民衆 は宣教師のこのような教えを聴き、キリスト教に関心を持ち、キリスト教を信じは じめたのである。数年もしないうちに各村、各集落にキリスト教を信じる者が現れ た。

アーサーらの跡を継いで、龍陵、 川のキリスト教会も1929年、ジョーダン(漢 訳:約伯)ら9名を濾水に派遣して伝道を行った。濾水に来た最初の宣教師は白

(ホワイト)牧師(名前は不祥)と い う 米 国 人 で あ っ た。彼 は1929年、六 庫 地 区 の 蝗 、黒倉、馬鹿塘などの村で伝道をはじめ、馬鹿塘の村に家を建てて長期に わたって居住するつもりであったが、六庫の土司・段竹銘は彼がこの村に長くとど まって伝道することを許さなかった。段は彼に「貴方は外国人であり、われわれは 中国人ではない。貴方がわれわれの場所に家を建てて伝道することを許可できない」

と伝え、白牧師は拠点を作れぬままにそこを離れた。

2番目には、リス語と漢語を流暢に操る楊志英(A.Bcooke、ママ)というアメリ カ人が1929年にやって来て、大興行地托基村に来て、草葺きの家を建てて伝道した。

彼は1930年に濾水を離れて碧江理悟底村に移って伝道した。

3番目は楊志実(漢名)夫妻である。楊は上海キリスト教内地会の牧師で、英国籍 カナダ人で、妻もカナダ人であった。彼らは1930年に濾水に伝道のためにやって来 て大興地麻栗坪村に住んだ。かれらは1947年に称 村に転居するまで、ここに17年 間住み続けた。

4番目はピーターセン(畢徳森)というアメリカ人で、1936年に濾水に伝道のた

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めに来て楊志英と同居した。以上この数名の外国人牧師たちは、1951年に人民政府 によって国外退去させられた。

5番目は、赫牧師という英国人(名は不詳)である。聞くところではこの人は濾水 に来る前は軍医であって、宣教師ではなく洗礼も受けていなかった。濾水に来てか ら欧州付属一 が彼に洗礼を授け、以後、牧師と称した。この人は1936年に濾水を 離れ、保山に行き、伝聞によればその年に帰国して軍に加わった、とのことである。

濾水に来た外国人宣教師は、ほかにも阿一士、阿自士(夫妻)、阿一令、阿自令

(夫妻)、阿一屋らの数名がいる。彼らの濾水における活動期間が短かったために、

彼らの本名や国籍などすべてが不詳である。

2、濾水キリスト教会の組織

濾水にキリスト教が伝来してから2、3年後のある年、全県の信徒約200名が托基 村に集まり、ともに降誕祭を祝った。当時、龍稜県リス族の宣教師ジョーダン(約 伯)は、濾水で伝道しており、降誕節には信徒に全県のキリスト教会を組織する意 義について説き、礼拝にやって来た信徒を配置して、彼らが村に帰ったら、各自の 集落にある礼拝堂を所管する管事(密支 、音読ミシバ)と礼拝堂の礼拝長(瓦付 苦 、音読ワクフバ)を選出するように指示した。その後、それぞれの集落の信徒 たちは数人の密支 と瓦付苦 を選出した。次の年、托基村で降誕節を祝ったおり に、約伯は、各村が選出した名簿を集め、さらに降誕節の集会上、これらの人々を 聖職者として承認することを宣言した。1931年に全県の信徒は大興地麻栗坪材で降 誕節を祝った。この時にその村のリス族信徒のミトメイバ(漢訳 米多妹 )を会長 として、濾水県キリスト教会が正式に発足した。教会はその村の地名から、「麻栗坪 キリスト教会」と命名され、全県の教会活動を指導した。

教会の下に、信徒の居住する集落に礼拝堂を建てた。それぞれの礼拝堂はすべて 投票により、密支 を若干名、瓦付苦 1名を置き、その村落の信徒の宗教活動を 指導した。

密支 、瓦付苦 の選出に当たっては、馬(宣教師、牧師)は、信徒に選挙の条 件を説き、以下のような者は当選できない、と規定した。すなわち、年齢が20歳に 満たないもの、多妻のもの、洗礼を受けていないもの、家庭の構成員の全員が信徒 でないもの、信徒と団結和睦ができないもの、教えを遵守できないもの、などなど である。選挙時は侯補者の名簿を出さず、直接投票数の多寡によってその場で当選 者を宣言した。

聖職者の選挙は毎年一度行われ、毎回降誕節の前に行われた。前任の聖職者は連 続選任が可能であった。

教会会長の職務は、その教会の事務を管理すること、 即ち馬を各地に派遣して宣

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教し、各馬の宣教地域の区分けを行い、その教会の財産を掌管し、馬の生活手当て を支給し、馬の間で生じる問題や新しい信徒大衆の婚姻問題を解決すること、など である。ただし刑事的トラブルはその管理の範囲ではなかった。

各村落の密支 はその村落内の教会事務のみに責任を負い、瓦付苦 は礼拝の儀 式のみ、馬は宣教のみ司った。

3、教職・牧会者の育成

1931年、濾水キリスト教会の設立後に楊志実は、教会を強固にするため1934年に 聖書学習会を開いた。学習会は毎年一度開かれ3ケ月を1期とした。その目的は聖職 者の育成にあった。最初に学習に参加した者は約40名余りで、すべてリス族であっ た。これ以後、すべての教職・牧会者は交替で学習会に参加して3ケ月学習するこ とになった。教職・牧会者だけでなく、信徒大衆も自ら望んで学習に参加すること ができたが、宣教師の食費がその教会から支給されるのに対し、彼らの食費は自前 であった。

麻栗坪聖書学習会が開かれると、濾水、碧江県内の教職・牧会者が参加しただけ でなく、片馬、騰衝、永勝やビルマ密支 那の教職・牧会者まで勉強に来るように なった。彼らは皆学習した後、各自の集落の宣教師となった。学習に参加する人数 も回を重ねるごとに増加し、最も多い時では1期の受講者が150名余りに達した。そ の中には婦人や非聖職者の信徒もかなりいた。1947年にこの学習会は称 村に移り、

1950年に停止されるまで続いた。学習会は16年にわたって開かれ、馬である専任者 を50余名輩出し、うち濾水一県内で24名の馬が育成された。

学習会はまた、専門に婦人信徒学習会を設け、全3期(1期1ケ月)が開催された。

毎年2月中に開催され、各期の学習者は約30名、皆洗礼を受けた信徒であった。

学習期間中の毎土曜、受講者は学習会の近くの各村落にそれぞれ派遣され、彼ら が学んだ内容を大衆に説き、非信徒の大衆に対する信徒拡大の仕事をした。受講者 たちは途中で非信徒に引っ張られて放してもらえず、信じることによっていかによ いことがあるか、信じなければ将来いかなる災難に遭うか、などを語ることもあっ た。彼らは外に出て行って働いた情況を月曜に牧師に報告した。新たな信徒を獲得 できたものはすべて表彰されるため、学習者たちは毎土曜、各集落に行って宣伝活 動をすることに力を入れ、どうにかして新しい信者を獲得し、学習会から表彰され たがった。

濾水県の総人口は1949年で約2万人であったが、うちキリスト教徒は約4千人で あり、総人口の20%を占めていた。

(2)貢山県

貢山県に最初にキリスト教を伝えたのは、米国 (貴州)蔵(チベット)キリス

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ト教会牧師モース(漢訳 莫爾斯)である。

モースは1898年、米国オクラホマ州に生まれ、米国フィリップ大学神学院を卒業し、

「米国連合キリスト教会中華宣教会」に加盟し、1921年に中国へ派遣された。

モースは中国に来た後、まず四川巴塘一帯で伝道し、当地のチベット族の民衆の 断固たる反対に遭い、さらに殺害する、とまでいいふらされた。この状況のなかで 彼は茨開まで逃走した。モースは茨開で人を介して閃当の保長道を頼み、初めてガ イドとして厚普、茂当を経てビルマの 底に至り、その後アメリカへ戻った。伝聞 によればモースは1926年に「米国連合キリスト教会」から離脱して、自ら「 蔵キ リスト教会」を組織したという。

モースは1930年前後に再度中国に来て、その伝道の地域として 西北を選んだ。

彼は香港を経て上海に行き、上海で国民政府の証明書を手に入れ、証明書とその持 ってきた小聖書の上に蔣介石の写真を貼った。彼はまず維西県葉枝の土司の家に行 き、土司に教会堂を建てるために牛皮一枚ほどの大きさの土地を与えてくれるよう 申請した。土司の同意を得ると、彼は牛皮を何本かに割き、その皮ひもで土地を囲 んだ。その土地の面積は元の十数倍になり、土司を非常に怒らせた。彼は仕方なく 岩瓦の上の托巴労村に移り、土の家を建てて定住した。またある人の伝聞では、土 司の王家禄が彼の妻を強姦した。彼は土司が食べるようにとある料理を贈り、それ を食べた土司は話すことが出来なくなり、ただウンウン唸るだけだった、という。

ふたりの不仲から彼は托巴労村を離れざるを得なくなり、托巴労河の河畔に住んだ。

しかし彼はここで3年間過ごしただけで、突然の洪水に遭い、財産も聖書も洪水に 流されてしまった。彼は仕方なく岩瓦村に行き、当地の商人・楊紹宗家の三つの部 屋を借り、身を潜めた。

モースがしばらく岩瓦村の楊紹宗家に住んでいたころ、 維西の信徒であったリス 族の馬 、密支 、 女迪3人を貢山の普格勒山に派遣し、教会堂を建てさせた。

普格勒山は維西から貢山と福貢に通ずる路中、蝋早の下に位置し3県境の分かれ道 で、地勢的に非常に重要な地であった。1949年、徳欽土匪の叛乱のとき、普格勒山 の教会堂は焼失した。

貢山県で最初に信徒となったのは、丹朱の普阿朶一家、続いて茨開瓦雑 、普瓦 岩の全民族、丹当の喜蝋一家、瓜斯一家、茫孜の瓦計洛一家、米力波汪洛一家、茶 子木口の沙木衣一家等である。当地での信徒の拡大は迅速で、程なくして当地人口 の50%に達した。信徒は全てリス族でその他の民族はいなかった。この時期、モー スは維西から貢山に移ったが、それは大体1946年ころのことであった。

やがてモースは、また丹当に教会堂を建て、はじめは草堂であったが、それが壊 れたために3階の建物を建て、2年の年月を経て1946年に完成した。

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モースが草堂を建て始めたころ、相前後して波洛、瓦斗洛を馬に、喜蝋、刮斯を 密支 に昇格させたが、後に波洛は当地で最大の馬となり、その地位はモースを凌 ぐものとなった。

馬は説教、宣教の責任を負い、一人で幾つかの教会堂の責任を負うことが許され た。全県は数人の馬によって分担され、各々数教会の責任を負うとともに各地に伝 道に出かけ、新しい教会堂を建てることができた。蜜支は行政事務の責任を負い、

一つの教会に一人だけで、普段は信徒からの献げ物、つまり穀物、金、肉、油、布、

塩等を集め、馬の給金、対外経費、教会堂の維持費、信徒の救済費・救援物資の支 出、信徒の恋愛、婚姻などの管理をした。密支 はすべての収支について帳簿を公 開しなければならない。彼らは、馬が有給であるのに対し、無給であった。

波洛と瓦斗洛は1940年ころ、拉達果に伝道に行き、約1年で戻った後、碧江の里 吾底で1年聖書を学んだ。1942年、再度、拉達果に戻り、果拉鉢、力多、維尼など の村落で宣教した。翌年、瓦斗洛は怒江に戻ってから丹当で伝道中に川に落ちて死 んだ。1943年5月、波洛と比念美が独龍江に来て伝道し、独龍江からまっすぐ木刻

、迪九龍、徳穣崗などの地へ至った。徳穣崗で最初に信者になったのは阿開賽で、

続いて福穣切阿迪(彼は福貢から移ってきたリス族)で、この二人は後にともに大 馬となった。同年、波洛と比念美は丹当へ戻った。1945年に波洛と納達尼の二人が 独龍江へ来た。納達尼は三区の人で、リス族の馬であった。彼らはまたモースの紹 介状も携え、彼らをビルマの 馬底に行かせ、英国人に伝道の状況を報告させたが、

英国側の答えは、彼らが自由に伝道を行ってよいこと、英国人は一切かかわりを持 たない、ということであった。日本がビルマに侵入したため、 馬底の英国人はす べて逃げ去り、ただ当地政府の孔賢善冬翁(孔はイ族。冬翁はビルマ語で区長の意 味)に、独龍龍、迪九龍、洛龍、徳芒龍、列納龍(更に下れば 馬底)などこれら 一帯、区内のどの場所でも宣教を行ってもよい、3年に一度手続きをする、と指示し た。後にこの一帯の大衆はほとんどすべてが信徒となり、とくに強克渚(村名)の大衆 信者はきわめて敬虔で、降誕節に捧げられる金銭・穀物はとりわけ多く、さらにヤ ク1頭を屠った。ここの人々は無学(文盲)で、牧師は彼らに教学を教えた。ここ の生活は比較的豊かだったので、信徒の捧げた金銭や穀物の一部は波洛に送られ、

一部は経費として留保した。多くの信徒が洗礼を受け、洗礼を受けた者は教則を遵 守すること、馬の指導に従うことを誓約した。1946年2月、波洛は病のため、茂当 で他界した。

独龍江で最初にキリスト教徒になったのは、茂伯納一家と迪麻達一家であった。

1949年独龍江の信徒は約200人いた。1950年にここで地震が起こったが、信徒の数 は500人以上に増加していた。そのうち馬に昇格したのは達包勒(洗礼名イリヤ)

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らであり、密支 に昇格したのは茂迪、茂肯果らがいたが、信徒のすべては下江

(今の第四郷)地区内におり、上江地区(今の一、二、三郷より上)には信徒はいな かった。キリスト教徒は毎週3回活動を行い、毎年三大祝祭(復活祭、感謝祭、降 誕節)を守った。毎週の活動は水、土、日曜で、すべて各教会堂で各自に活動した。

貢山怒江両岸の信徒が通常活動する場所は、丹当、丹朱、永拉幹であった。大きな 集会はこの三地で一年一地、交替で開かれ、小さな集会は分散集中させ、三地を各々 一つの集合点とした。

貢山独龍江南岸の信徒の日常活動地点は、茂当、徳理当、馬庫、達色と、1年ごと に場所を変えた。

モースは教会堂に無線を設置し、昆明、香港とも連絡をとった。抗日戦争の期間、

彼は無線を通じて米軍とも連絡をとり、当時の貢山設置局の権力も彼には及ばなか った。彼は貢山に10余畝の土地を持っていた。抗戦時、彼は機会を利用して商売し てかなりの金を稼いだ。1942年、モースの子は米軍と連絡をとり、貢山に無線局を 設置して情況を報道し、気象を伝え、パイロットの保護の責を負う、と自称して、

ずっと解放直前まで辞めなかった。

モースの息子、ユージン(漢訳 莫約精)、ヨブ(漢訳 莫約伯)、ヨセフ(漢訳 莫 約瑟)も貢山に来て宣教活動に従事し、その妻もともに貢山に来た。

解放前夜、 モースはその権利を丹朱の斯 華に委譲した。斯 華は徳欽土匪の叛 乱のときにはビルマへ避難していた。モースは1951年に昆明で捕らえられ、程なく して国外追放された。

1950年の中央派遣団2分団怒江グループの調査によれば、貢山全県の全キリスト 教徒は341戸、男女1489人で、全県人口の10%前後を占め、多くがリス族であった。

そのうち、第1区では51戸、男女219人、全区人口の6%強、第2区では200戸、男 女885人、全人口の22%、第3区では90戸、男女385人、仝区人口の15%前後を占 めている。教会堂は7。党打、漢求、司哥、葉名、力頭地、普文楼と永拉にあり、そ のうち普文楼(チベット兵により焼き討ちにされている)が最も重要なものであっ た(8)。

(3)福貢県

1920年前後、以前に維西の米国宣教師が建てた教会堂の中で養成されて宣教師の 資格を得た維西白済の人・阿夫子(ナシ族)は、米国の牧師から派遣されて、福貢 県の上 等の村で伝道活動を展開した。

1930年、米国の神召会(Pentecostal Assemblies of the World)の牧師馬導民(また は馬道民とする。漢名)は妻子と通訳・胆呉(維西白済のリス族)を伴い、徒歩で維西 から上 伝道にやってきた。馬導民の宣教に動かされ、上 村一帯の民衆は次々と

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入信した。馬導民はまた、上 にキリスト教の組織「神召会」を建て、古泉村の阿 正の家奴・此阿妹を馬(伝道師)とし、上 村の肯阿念を密支 (村教会の管事)

とした。

神召会が建てられてから馬導民は肯阿念兄弟の助けを受け、銀180元の貸借料で 亜馬尼坡に土地を借り、高い金で材料を購入して、1年の時間をかけて8間の萱葺き の建物一棟を建てた。1931年末、馬導民は上 村から亜馬尼坡へ移り住んだ。それ 以降、馬導民は亜馬尼坡を伝道拠点とし、貧困な信徒に古着や中古品を施し、主体 的に障害・疾病のある信者のために祈り、薬を与え、彼らの鶏や卵を高価で買い取 り、小恩小恵の手段で民心を篭絡し、彼らからの信任を得た。その後、彼は上 村 の 付迪、恒付欠ら10数名の聖書が少し解る青年信徒を、福貢全県の各地に派遣し て伝道させて信徒を拡大した。それにより入信者も日々増加し、教会の勢力も年々 拡大し、1930年から1947年までで信徒は6000余人に拡大した。信者は全県に広が り、当地の民族教師・牧会者35名が育成された。 竹底、達普洛、施底等の地には 数百人から数千人を収容する教会堂が17、相前後して建ち、 鳥衣 底の村民・納 官尼(リス族、1983年病没)が当時の福貢県最大の現地牧師であった。

全県の信徒数は1949年の調査では3070人、1960年7月の調査では3437人であっ た。福貢県の全人口は18,000人余、信徒は全人口の20%以上を占めている。信徒は 子供・青年が多く、老人は少ない。全県中で第1区に一番信徒数が多かった。1950 年7月の調査では、全県には37の教会堂があり、県庁所在地の第1地区に12、第2 地区に4、第3地区に6、第4地区に7で、このうちあるものは解放後に増えている

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前後して福貢に宣教に入った国内・海外の牧師は以下のとおりである。

馬導民(米国人)は、1930年に福貢に入り、前後して、亜鹿尼王子(亜馬尼山嶺)、

古泉、勒墨得朶などの地に住んだ。その妻・馬吉心(漢訳)も馬導民にしたがって 福貢に入り、4人の子女、ラノー(男、 諾)、ミール(男、面峨)、ジュリー(女、

久麗)、イイー(女、義怡)がいた。1943年に一家はビルマに転居し、1947年、一 家で帰国したが、再びビルマに帰り、馬導民は単身、再度、福貢に入って伝道し、

1948年にビルマに移動し、明勒 に住んだ。

傅牧師(名は不詳の米国人)は、1932年に妻と息子一人を伴って、福貢で伝道し た。1934年に騰衝を経て帰国した。

王牧師(名は不詳、米国人)は、1932年、妻・王陽美麗(伝道師)と息子一人を 伴って福貢真に来て、亜馬尼王子に住み、数年後帰国して病没した。その妻子は 1949年に福貢を離れ、ビルマを経由して帰国した。

蓋文英(米国人女性牧師であるとともに、馬導民の家庭教師)は、1943年に馬導

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民一家とともに福貢を離れた。青華、麦定理(ともに漢名)両名を米国女性牧師と して任命し、1937年、福貢に入って伝道し、1943年に帰国した。

紹徳英(英国女性牧師)は、1937年に青華、麦定理に随行して福貢に入って伝道 し、1943年に帰国した。

阿杜 ( 麻、女牧師、国籍不明)は、古泉で伝道したが、1年足らずで帰国し た。

楊雨楼は、漢族で昆明の大板橋の人で1929年に馬導民に派遣されて、維西から福 貢に潜入して情況の探索を行った。以後長年にわたって外国人宣教師である馬導民 の助手を勤め、福貢に居住して伝道にあたった。1950年にビルマに逃亡した。

(4)碧江県

外国人宣教師は、1913年より何回もリス族宣教師を派遣して碧江県でキリスト教 を伝えたが大きな成果はなく、入信者は少なかった。1919年、英国牧師・傅能仁が 碧江仁に来て伝道した。

1921年、米国籍牧師・白文化(貝文華)は、伝龍陵から碧江第一区に来て、2、3 日留まり、すぐに帰ってしまった、と言われている。その後、龍陵木庫坡村のリス 族・他他 が濾水を経て、碧江第一区の大老村に伝道に来た。最初に信者になった のはリス族で、名を伯雑といった。聞くところでは伯雑は非常に貧しくて食べる塩 もなく、他他 が一塊の塩を与えたことから気持ちが通じた、という。また他他 は、信仰すれば死んだ後「天に登る」ことができ、病気になっても薬がいらず、神 に祈りさえすれば病が癒えると教え、こうして伯雑を入信させたのである。

1927年、白文化は再び、碧江の理悟地村に伝道に来た。この村で最初に信徒とな ったのは、秋伯家(リス族)である。秋伯家が信者になったのは、以下のような理由が ある。彼は信仰に入る前、よく病気になり、病気になるたびに鶏や牛を殺して鬼神 を祭り、家中の財産を全て売り払ってしまった。しかし病は癒えず、もはやどうし ようもなく死後の準備に棺桶を買った。この時、白文化が来て彼に信仰を持てばよ くなると言い、かつ彼に薬を飲ませた。それから病が癒えて、秋伯家は入信したの である。その後、白文化はまた彼を伴って下関に行った。秋伯家は外が碧江より良 いのを見て、さらにキリスト教に対する信仰を堅くした。

その後、碧江県で入信する人々は次第に増加し、1928年、29年が最も急速な拡大 を見せ、最隆盛となる。全県中でリス族の信徒が最も多い。

1921年に白文化が碧江へ来てから1949年に至るまで、碧江に来て伝道した外国人 牧師は計6名である。即ち、白文化、楊志英、楊思恵、阿徳 及びもう一人の名 の判らない女性牧師である。

キリスト教が碧江に伝わってから、 当地の住民の生活や風俗習慣に多大な変化が

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生じた。信仰を持たないリス族およびヌー族は、酒を命のごとくに愛していた。生 産される穀物はもともと食べるにも事欠くのに、その多くが酒を造るのに費やされ るため、食べる穀物はさらに足りなかった。酒に酔うと口論も頻繁になる。それが 信仰を持つようになると、穀物が酒づくりに使われなくなるため、穀物は以前より 豊かになり、生活も楽になった。さらにリス族は喫煙が好きだったが、信徒はたば こを吸わないので、いささかの倹約になった。

キリスト教が碧江県の民衆の風俗習慣に与えた最大の影響は婚姻である。非信徒 の婚姻の場合、婿側は嫁側に数頭の牛を与えなければならない。あるものは牛がな いため、嫁側に借りになっていたり、またはまわりから借りて嫁側に渡したりする。

しかし、後でそれを返すことができず、このためにある人は非常に貧困だった。信 徒の場合の条件は、男20歳、女18歳で、教士が紹介者となり、双方の希望により教 会で式をあげればよかった。婿側は嫁側に財産を渡す必要もなかった。信徒は結婚 すると離婚は許されず、どちらかが破棄することも許されなかった。結婚の自由だ けはあったが離婚の自由はなかったのである。信仰の関係で売買式の婚姻が変わり、

離婚あるいは畜妾などの行為がなくなった。

非信徒は病を得ると、鶏や牛を殺して鬼神を祭り、ある時は家財を売り尽くして しまっても病は癒えなかった。信徒は主に神に祈り、病勢を減少させることができ たのである。

理悟地の村民は、信仰を持つ前は貧困だったため、強奪、殺人事件が頻繁に起こ っていた。信徒になると、戒律により殺人、強奪、飲酒が許されないために、村の 経済状況と悪い習慣の様相が改められた。

(5)蘭坪県

1929年、英国宣教師・傅培徳(漢名)は蘭坪に入って伝道した。1931年、彼はそ の妻・傅美恩および6人の中国人男女の雇い人を維西から蘭坪の永安県に移した。2 年後、永安と金項街(県政府所在地)で相前後して10人がキリスト教に入信した。

彼らのうち4人は目が不自由で、2人は脚が不自由、3人が孤児で1人が国民党の逃 亡兵であった。このようであったため、傅培徳は自分の住居内の一室を教室として 1932年、キリスト教五旬節会(Pentecostal Missionary Union)をはじめた。

1935年、傅培徳は蘭坪県の政府所在地に一軒の商店用の土地を買い、正式に教会 堂(福音堂と名付ける)を建て、 同年、維西教会から一人の英国人牧師を招聴して、

彼に協力して当地の宣教師を育成した。この牧師は胡明徳といい、漢語と漢文に精 通していた。

1937年、傅培徳は英国から蘭坪に帰るとき、英国からさらに4名の中・青年女性 宣教師を連れて来て、彼の宣教を手伝わせた。この4人の女性宣教師は、海先生、

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洪先生、黙先生、孔先生と呼ばれた。傅培徳と胡明徳は彼女たちに一定期間の訓練 をした後、数人の中国人信徒を付き添いにつけ、それぞれ、常盤、通 などの地の 伝道に派遣した。傅培徳は当時まだ若く、精力も旺盛で雄心勃勃として、一心に五 旬節会を蘭坪全県に拡大しようと考えていた。しかし、彼とその他の宣教師が大変 な力を注いだにもかかわらず効果は依然甚だ小さく、10数年でも蘭坪県の全信徒数 はようやく30数人に過ぎず、そのうち金頂地区が20数人を占め、残りは常盤地区岩 頭村のごく数人の信徒であった。

1940年2月10日夜、金頂街の教会が大火に遭って焼失した。

1946年、傅培徳の妻と長女が永安で前後して病死した。

1947年、傅培徳は麗江から飛行機で昆明に行き、その後帰国した。

蘭坪県はペー族の居住区で、仏教とその他の多神教が広く信じられ、万物に霊が あると考えられ、観音菩薩、老子道君と多くの天神地鬼が礼拝されていた。これら の信仰がキリスト教の蘭坪における伝播に大きな制約となった。

[3]ラフ族、ワ族地区におけるキリスト教の伝播情況

瀾滄県はラフ族の居住区の一つである。キリスト教の瀾滄県ラフ族などの少数民 族のなかにおける伝道は、ラフ族がもともとの宗教信仰からキリスト教に転向した 典型である。そのため瀾滄県におけるキリスト教の伝道の状況について専門的に概 説したい。

民国初年、双江のラフ族の李老大(李大有)と李老二(李楊明)(訳注⑤)は景棟 に来て、そこで宣教していた米国カリフォルニア州から来たバプテストの伝道師・

永偉理(訳注⑥)(W.M.Young)を知り、その導きの下、キリスト教を信じるよう になった。

この二人は入信後、すぐ瀾滄県の糯福に伝道に派遣されていささか信徒を拡大し た。1920年前後に永偉理は上海から昆明への道をとり、さらに瀾滄に至った。また 李老大は昆明に彼を迎えに行った。永偉理は孟連に着くと孟連の宣撫(訳注⑦)か ら宣撫司の向かいの土地を買い取って教会堂を建てようとしたが、孟連宣撫はキリ スト教が小乗仏教の地位を脅かすことを恐れて、永偉理に孟連の土地を買うことを 許さず、彼に孟連から離れた場所に行って教会を建てて伝道させた。後に永偉理は 1千キャート(または1千ドルとも言われる)の代価で孟連宣撫から糯福の「1枚の 牛皮大」の土地を求め、宣撫は喜んで承諾した。永偉理は糯福に着くと、牛の皮を 細かく裂いてひもにし、それでたっぷり糯福の後ろの山一つ分を囲い、宣撫がこの 時になってようやく騙されたと知ったが、どうすることもできなかった。

当時の糯福はひどい荒地で5、6戸のラフ族が住むだけであった。永偉理が土地を

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買った後、糯福に教会堂を建て、その後さらに学校も建て、人口も徐々に増加して きた。

永偉理が糯福に建てた教会堂は、美しく堂々としており、当地の土司や官庁の役 所よりも立派であった。教会には病院が設置され、学校を開き、文字を作り、教 職・信徒を訓練した。すべて訓練を受けた者は撤拉、波管等の職位を委ねられ、各集 落に分かれて派遣され、教会堂を運営し、宣教を行い、キリスト教を迅速に糯福、

東回等の地のラフ族の集落に広め、バプテストの糯福総会も設立された。続いて双 江県にも広がり、糯福バプテスト総会双江支会を設立した。永偉理は1930年頃に帰 国して休暇に入り、その長男である永亨楽(漢字名)が瀾滄県糯福教会の牧師とな り、次男永文生(漢名)が双江猛猛教会の牧師を担当した。永亨楽は西盟新廠に人 をやって銀鉱石を盗み出し、それをラングーンに持って行って化学試験をさせたこ とが、李暁村、彭光栄らに検挙されたことから瀾滄県政府に報告され、1934年、中 国政府は永偉理、永亨楽を即刻国外退去とし、二度と中国へ来ることを許さなかっ た。1935年に永亨楽は未定界の班善 で牧師をした。 永文生葉、1930年ころに米 国に帰国して結婚した。

米国バプテストの教会堂、撒拉、信徒の分布情況は、1950年前後においては、以 下のとおりである。

1、鎮辺地区

鎮辺地区の糯福教会は1921年に設立された鎮辺地区最大の教会である。2番目 は孟力孟力教会(ともに米国バプテストのラングーン分会の指導の下にある)であり、

各地(滄源、双江、耿馬、緬寧などの県を含む)の教会を指導した。当地区のその 他の所には小教会堂が14あり、糯福、上面荘、下面荘、瓦楚結、南片、南弄、馬里、

白白、香荘、南掌、愛里寨、香掌、瓦地に分布している。1950年時点で、撤拉は3 人、信徒は約1000人いた。

2、東回地区

合わせて六つの教会堂があり、1400人余りの信徒がおり、東崗村、回龍村、 底 村に分布している。東崗村の教会堂の一つは難利大寨にある。班利には名を 耶と いう一人の撤拉がおり、90余戸のラフ族信徒がおり、教会勢力がかなり大きく、信 仰も深く、毎週1回礼拝が持たれた。大東崗にはラフ族20戸の信徒がいる。

3、上允地区

四つの教会堂があり、信徒は1000人余り。うち糯 村には信徒140家族、蛮根に 33家族、那 に51家族いた。

4、富邦地区

郎にバプテストの教会が一つあり、全村落約20戸がすべて信徒で、またすべて

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ラフ族である。教会堂は1938年もしくは1939年に建てられた。

5、文東地区埠区

八つの教会堂があり、大蛮堆、小蛮堆、多依樹、旧苦、蛮糯、平掌、東瓦、大草 樹にあって、全信徒2100余人がいる。大・小蛮堆の信徒は100余戸(総戸数200戸 余り)、平掌の信徒は50戸(総戸数約100戸)、大車樹の信徒は40余戸である。

6、永安地区(木 地区)

教会堂は四つで、達迭、哈普 、大拉 、小拉 にある。達迭の教会には47戸

(男女各101人)の信徒がいる。哈普 教会は1948年に建てられ、30戸あまりの信 徒がいた。大拉 教会の信徒は85戸(男178人、女193人)で、全集落が信徒であ った。小拉 教会の信徒は87戸(男190人、女219人)で、全集落が信徒であった。

上述の大まかな統計から、永偉理父子が1921年に糯福教会を建ててから、瀾滄に おける伝道活動は成功を収め、伝道地域は瀾滄において拡大しただけでなく、双江、

滄源、孟連、西盟、耿馬、緬寧などの県へも拡大したことが見て取れる。1921年か ら35年の15年間で、各地の大小教会学校は100余りに達し、300名余名の撤拉を訓 練し、信徒は2万余に達した。また1934年の瀾滄県政府の調査によれば、当時の瀾 滄県には「入信した信徒約3万余人」とある(11)。

[4]チンポー族地区におけるキリスト教の伝搬情況

最初に雲南チンポー族地区に伝道に行き、成果を収めたのは、ビルマ・バプテス ト教会の孟力巴 教会のカチン族伝道師ダーマオドン(徳毛冬)であった。彼は1907 年に瑞麗県登 寨に伝道に来て教会を建て、雲南チンポー族地区で最初の伝道拠点 を築いた。その後、多くの宣教師が絶え間なくビルマから雲南に入り、バプテスト は雲南チンポー族居住地区で迅速な発展を遂げた。

1921年、フランス国籍宣教師・徳仁康が登 に伝道に来て、次の年、教会の小学 校を開いた。1928年、英国籍宣教師イングランド(英格蘭)とイングランラム(英 格郎朗栂)も登 等の地に来て伝道し、登 寨の「大董薩」(12)にキリスト教を受 容させることに成功した。その後キリスト教は瑞麗県で迅速に発展し、信徒は約 2000人(うち成人が1000人余り)、全県のチンポー族人口の約24%を占めた。

1914年ころ、ビルマの孟力巴 教会学校のカチン族卒業生ザオドゥビェン(早堵便)

が 川県チンポー族地区に伝道に来たが、大きな成果は得られなかった。1916年、

ビルマ英国軍傭兵中に入信した 川塁良のチンポー族司拉・宗崩が帰国する折、八 莫総会は二人の伝道師を派遣して彼と同道させ、塁良に行って伝道活動をさせた。

1960年の段階で、塁良には既に129人の信徒がいた。

1920年、ビルマ・キリスト教会牧師ミドンノ(米洞糯)が 川広宋寨に伝道のた

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めにやって来て、さらにそこに 川県最初の教会堂を建て、同時に孟力巴 教会の米 国人牧師スラサンリユー(司拉 冊陸)も何度も 川チンポー族地区に来て伝道して おり、1925年、拱山寨に教会を建てて、宗崩を「按手して」牧師に「立て」、滾湯干 も司拉山弄、 開諾、勒康蓋(女)を伝道師とした。拱山にはもともと集落がなく、

まず司拉山弄と司拉山の二人がここに家を建てて住み、集落を起こすことを提起し て、続々と信徒数十戸が移り住み、集落ができたのである。その後、拱山は発展し て雲南チンポー族地区におけるキリスト教の活動の中心となった。司拉山弄は著名 なチンポー族宣教師で、 川県広仙寨の人である。宏州副州長、雲南省政治協商会 議副主席を勤め、1980年広山で病没した。

拱山分会は、ビルマ・バプテスト八莫総会に属し、その下に20の教会を管轄する。

即ち、

川県:邦湾、蛮 、弄目、当長戈、塁良

瑞麗県:戸片、邦達、高麗、俄盈、弄賢、 南、登 西県:広董

盈江県:石蛋、木孔、南遮、当各、 集、孟力季、克邦

である。4県には信徒650戸がおり、信徒数は約3000人。教会学校は拱山、高麗、

高湾に各1校ずつある(13)。

[5]大理地区におけるキリスト教の伝播情況 1、大理におけるキリスト教内地会の伝播

1881年、キリスト教内地会宣教師が、上海からビルマを経て雲南の的的謄衝撃に 入り、保山を経て大理での伝道がはじまった。初めに大理に来た英国宣教師が住ん だのは宿屋だったが、後に大理衛市上街吉祥巷東排の許姓の住宅内を賃貸して住宅 と伝道所にした。初期には信徒はおらず、ただ少数の興味本位の人々がこれら外国 宣教師と話したり、一枚刷りの福音トラクト(また勧世文ともいう。中国語。上海 の木版印刷)を閲読したりしていた。日が経つにつれ、一部の大理人に宣教師のと ころに雑談に行く者も出てきた。宣教師は茶館を利用して茶を飲んでいる人々に教 義を教え、路上でトラクトを配り、科挙の試験の時になると宣教師も試験場の門の 前でトラクトを配った。

後に上海内地会は、英国宣教師・花果香夫婦を大理に派遣し、依然、吉祥巷の許 姓の住宅内に居住したが、その後、蒼坪街下の宋姓の住宅内(城 廟の附近)に引 っ越した。彼らの住宅内には簡単な小礼拝堂があった。花果香夫妻はある時は中国 清代の男女の衣装を身にまとい、人となりは謙虚で温和であったため当地の人士は 次第に知り合いになるにつれ、雑談に行き、道を語る者も出てきた。彼らには大理

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にいる間に一人の男の子が生まれ、「花大理」と名付けた。

花果香の後、内地会はさらに英国人宣教師張先生(名は不詳)を大理に伝道に派 遣した。彼は蒼坪街の宋姓の屋敷に留まった。1895年、大理に羊子症(俗名オデキ 病)がはやったことがあったが、効き目のある薬がなかったために多くの人々が死 亡した。1896年、張先生は大理の名士から朝陽巷(屠羊巷)の道の西側にある趙姓 の差し押さえになった西北東3方の瓦屋の住まい(趙姓の者は羊子症のため、一家 全員死亡)を買い、後にさらに道の東の菜園を買った。朝陽巷の住宅の東棟で礼拝 を行ったが、礼拝に参加する人が次第に増えた。大部分は好奇心からの野次馬であ ったが、中には少数ながら道を慕う友もいた。児童のための日曜学校を開き、日曜 学校の画がもらえるため、子供たちが来て参加した。

1901年、内地会の英国宣教師・馬錫齢が大理に伝道に来て、朝陽巷の福音堂(伝 道所)に住んだ。1904年、英国宣教師・アンシェンサン(安選三)、ガイジス(蓋吉 士)、カナダの医師・ライホーエン(頼宏恩)らが大理に伝道のために来て、馬錫齢 夫妻は順寧に開拓伝道に派遣され、ガイジスは病を得てほどなく帰国した。当時の 信徒数は少なく、3年で5、6人の受洗入会者しかいなかった。

1907年、アンシェンサンは駐昆明の英国領事館の力と地方官吏の助けを借りて、

周輔廷から大理北門の金箔街(大水溝下)にあった元の剣川会館の一所を買い受け、

前後両棟を内地会の会所および福音堂(後に福音医院と改める)とした。それから後、

内地会の会所が増え、宣教師も増えた。

1912年下半期、内地会はカナダの宣教師・韓純中夫妻を大理に宣教に派遣した。

同時期、英国の女性宣教師・謝、丁、胡の3名も前後して大理に宣教に来ていた。

韓純中夫妻はライホーエン医師の跡を継ぎ、北門福音堂に小さな薬局を設け、害虫 薬、目薬、外用薬を売り、韓純中がある時は簡単な外科手術をすることもあった。

これが大理地方における西洋医学の始めである。外国の宣教師で牧師の資格のある 者を総称して牧師と呼ぶことを始めたのは韓純中からである。

1914年に韓純中は一つの礼拝堂を建て、名を「中華キリスト教礼拝堂」と定めた。

これが 西で最初に建てられた礼拝堂であり、 西最大の礼拝堂である。200余人 を収容できる。1958年8月、大理聖公会と大理キリスト教会が合併して「大理キリ スト教合一会礼拝堂」となった。

1914年から1915年にかけて、女性伝道師・謝は鳳儀と弥渡の両所に相前後してキ リスト教内地会を設立し、謝、丁、胡の3女性宣教師が交替でこの両地で伝道を行 った。

1916年、韓純中はまた北門の大水溝下(金箔街)南排恩福堂の李逢吉、李徳斎な どの宅地のそれぞれ一部を買い、また楊恒臣頁が空き地一つを提供したので小学校を

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建て、「明誠両等小学校」と名付け、韓純中は校長となった。これは1922年に廃止 された。

1919年、韓純中が帰国休暇中に上海内地会は英国牧師・傅博能仁を大理に派遣し て教務を管理させた。1年後、傅態仁は騰衝、保山への伝道に派遣された。

傅能仁が大理を離れた後、内地会は米国牧師・楊恩恵を大理盤に派遣して、1〜2 年間教務の主事をさせた。韓純中が「偽満州」から大理に帰ると、楊恩恵は瀾滄江、

怒江リス族地区の麻地坪一帯の伝道に派遣された。

1926年3月16日(旧暦2月22日)、大理に激しい地震が起きた。全県の多くの家 屋が倒壊し、多くの死傷者が出た。地震は前後1ケ月続き、大小数百回の震動があ った。その夜、城内至る所で出火し、町中の価値ある文物はことごとく灰燼に帰し た。その損害は甚だしく、礼拝堂の壁や塀は倒壊し、屋根は西に傾いた。韓純中、

普照恩二人の外国人牧師は4月に大理を離れ、上海総会へ行き、約3ケ月後、相前後 して大理に戻った。

同年4月、大理の信徒は「大理キリスト教震災救済会」を作り、全国各地の教会 に募金・救済を募り、総額 幣(訳注:貴州省内の流通貨幣)4700余元を得た。韓 純中、普照恩が大理に戻ると、これと連合して「大理キリスト教震災救済委員会」

を組織し、救済と米の放出の責を負った。

1926年、韓純中は自ら礼拝堂の復興を手がけ、2ケ月を経て完成した。

1927年4月、韓純中、赫徳禄の二人は国共合作の決裂による時局の変化に直面し た。さらに全国のキリスト教徒が教会自立運動を発動して、各地の教会が次々と呼 応する中で、韓、赫両人のような内地会の者は上海の総会に帰った。大理の信徒は 自由に「大理キリスト教教務臨時執行委員会」を組織し、略則を制定し、教会の自 治を実行した。

1928年7月に大理教会と内地会の双方は、協議して「大理キリスト教公会」を設 立し、大理教会はこれによって、自立、自伝の基礎ができた。

1929年に大理教会は 源の李進泉を牧師として招聘した。これが大理教会におけ る初めての中国人牧師である。

1930年、内地会は米国人牧師・楊志英を大理に派遣して、内地会 西地区の教務 主事とし、内地会会所に住まわせた。2〜3年後、内地会は英国牧師・梁錫生を大理 に派遣し、会務の主事にあて、楊志英は怒江麻地坪一帯の宣教に派遣された。梁錫 生は 源、巍山の両地に教会を建て、弥渡教会の仕事も兼任した。

1931年、下関下村分教会が設立された。

1934年から1940年まで、内地会はオーストラリアの牧師・馬耀華、可美司の二人 を相前後して大理に派遣し、会務の主事をさせた。 馬は大理に3、4年間居住して、

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可は大理に4、5年いた。 二人は大理における伝道の仕事に一定の協力をした。

1942年に河南開封の内地会の福音病院は、日本軍が開封を占領して医療工作が妨 げられたため、一部の医薬品と医療関係者を大理に疎開させて「福音病院」を設立 し、 カナダの女性医師・美徳純を院長に任じた。3年後には看護学校を作り、 永 恩女史が校長となり、学生は10数名であったが、奉仕をしながら勉強した。病院に は外来、入院の2部があった。

1944年に内地会総会は、監督(代表)を派遣して、 西地区の外国人宣教師と大 理教会の長老・執事および信徒を招集して連合会議を開き、内地会と大理キリスト 教会の業務権限の分担を協議した。

1946年に内地会は、英国の牧師・趙立徳夫妻を大理へ伝道に派遣し、趙夫妻は大 理教会の仕事に一定の協力をした後、1950年に帰国した。

1947年、内地会はカナダの牧師・毛文熙を大理へ宣教に派遣し、毛夫妻ははじ め鄧川で伝道したが、1年後に帰国・休暇の後、再び来華して大理に住み、1960年 帰国した。

2、キリスト教復臨安息日会の大理での伝播

1932年、キリスト教復臨安息日会が下関で分会を設立した相前後して大理に宣教 に来た安息日会の宣教師は、米国のミラー(米楽爾)、懐徳恩、そして中国の劉桓一、

徳勝、胡某らである。分会は大理に7年の間設置され、伝道と『時光月報』の販 売をするほかに「安息日会」のためにその他の教会の信徒を論難詰問し、教会と教 会間の互いの反目、相互攻撃、不和などの現象を生み出した。大理の安息日会の信 者は僅か7、8名に過ぎなかった。

3、聖公会の大理における伝播

1938年に武昌の華中大学と広東の嶺南大学が大理・喜洲へ引っ越した。この2校 が聖公会の経営する学校であったため、教職員・学生の多くが聖公会信者であり、

日曜の宗教活動ももともと学校内で行われていた。一部の聖公会信者は自宅で会合 を持っていたが、1945年に華中大学が撤退して武昌に戻ると、会を司る人がいなく なり、大理教会から喜洲に来て主日礼拝を執行してくれるように求めた。大理教会 は喜洲聖公会の要請に応えて、毎日曜ごとに人を喜洲に派遣して説教を担当した。

1948年に喜洲教会は正式に大理教会に加入し、大理教会の分会となった。

1939年、華中大学の蔡詠春教授は、魚布口の周星之の家を借りて住居とした。

1940年に呉盛徳夫妻(福建人、かつて南洋で宣教)が大理に来て、周星之の住宅に

「大理中華聖公会」を設立した。呉盛徳夫妻が牧師に任じられ、幼稚園、孤児7、8 人の小さな孤児院を経営した。

1946年6月、大理北門街東排の趙姓の土地及び公地各一所を買い取り、校舎、住

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