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佐多稲子「灰色の午後」論 : 恥をさらすというこ と

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佐多稲子「灰色の午後」論 : 恥をさらすというこ

著者 北川 秋雄

雑誌名 同志社国文学

号 81

ページ 303‑313

発行年 2014‑11‑20

権利 同志社大学国文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014325

(2)

佐 多 稲 子

﹁ 灰 色 の 午 後

﹂ 論

恥 ︱

を さ ら す と い う こ と ︱

北 川 秋 雄

一︑

「灰 色の 午後

﹂は 一九 五九 年一

〇月 から 翌年 の二 月ま で﹃ 群像

﹄ に連 載さ れ︑ 同名 の単 行本 とし て︑ 一九 六〇 年三 月に 講談 社か ら刊 行さ れた

︒発 表当 時の 評価 を見 ると

︑平 野謙 は︑

﹁今 月の 小説

︵上

︶ 完

結し た二 長篇

で︑ 佐多 稲子 が自 身の 体験 を客 観的 に捉 える こと なく

︑時 代や 思想 との 関係 も描 かれ ずに

︑結 果と して デカ ダン ス小 説に 墜し てい ると 述べ てい る

︒阿 部知 二・ 平林 たい 子・ 亀 井勝 一郎

︑小 田切 進

︑江 藤淳

︑小 久保 実

︑中 村真 一郎

は私 小説 とみ なし て︑ 佐多 の自 己客 観化 不足 を指 摘し てい る︒ 小田 切に いた って は︑

︿自 己を 客観 化し きれ ない 中途 半端 なつ きだ しか たに は︑ 新し い自 己瞞 着と 敗北 を︑ もう 一度 重ね る恐 れが ない とは いえ ぬ﹀ とま で酷 評し てい る︒ 一方

︑十 返肇 は︑

︿社 会の 中の 私﹀ に自 覚的 で︑

思想 性が 確保 され てい ると して

︑数 子と 折江 の対 照的 な配 置の 仕方 に︑ 佐多 の自 己凝 視の 深さ を読 み取 って いる

︒草 部和 子も

︑佐 多の 自己 凝視 が徹 底し てい るこ とを 評価 した うえ で︑ 誠実 な人 間が

︑す さま じい 歴史 の進 行の なか では

︑時 とし て︑ 彷徨 や荒 廃の 時間 があ った とし ても 許さ れる ので はな いか と弁 護し てい る

︒ま た︑ 野間 宏 は︿ 思想 と肉 体︑ 作家 の創 造と 夫婦 の関 係と いう 問題 につ いて

︿夫 婦の 共犯 性と いう 新し い地 点に 追求 をす すめ たと いう 点か ら︑ この 作品 を高 く評 価す る︒

﹀と 述べ て︑ 新た に︿ 夫婦 の共 犯性

﹀に 着目 した

︒ 研究 とし ての

﹁灰 色の 午後

﹂論 は︑ 一九 八〇 年前 後か ら小 林裕 子︑ 長谷 川啓 によ って 提出 され た︒ 小林 は︑

﹁解 題﹃ 灰色 の午 後﹄ の虚 構性

﹂︑

﹁﹃ 灰色 の午 後﹄ につ いて

﹂に おい て︑ 佐多 の実 生活 上で は︑

﹁乳 房の 悲し み﹂ や﹁ 樹々 新緑

﹂を 執筆 する とい う気 迫に 満ち てい 佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三〇 三

(3)

た時 期で ある にも 関わ らず

︑そ の側 面は 捨象 され

︑折 江の 孤独 が過 度に 強調 され てい るこ とか ら︑ これ まで 自伝 的に 読ま れて 来た

﹁灰 色の 午後

﹂は

︑フ ィク ショ ンと して 読み 直す 必要 があ ると 指摘 した

︒ その 上で

︑日 本共 産党 を批 判す る立 場に 立っ て︑ 過去 の点 検に よる 自己 の全 体像 回復 を目 指し たも ので あり

︑自 身の 転向 を客 観化 しえ たと 評価 する

︒長 谷川 啓は

﹁﹃ 灰色 の午 後﹄ 論

夫婦 の共 犯の 風 景

﹂に おい て︑ 転向 問題 から もフ ェミ ニズ ムの 視点 から も︿ 妻 の座 から の夫 告発 の書

﹀と して

︿傑 出の 書﹀ であ ると 評価 する

︒一 方で

︑︿ 吉本 隆明 の批 判に 厳し く応 えた とこ ろで 終わ り︑ しか も狭 い倫 理性 に終 って いて

︑正 当派

︵人 間の 複雑 な陰 影を 解さ ぬ公 明正 大さ

︶宮 本百 合子 をモ デル とす る数 子の

︑惣 吉の 不倫 にま つわ る愚 かし い言 動を

︽私 たち の時 代の 善意 の抹 殺を 意味 する 事柄

︾と 断罪 する 論理 を越 えら れな いど ころ か︑ 同じ 地点 でと どま って いる 結果 にな って いる

﹀と 指摘 して いる

︒佐 多は

︑は たし て︑

﹁灰 色の 午後

﹂ にお いて

︑日 中戦 争勃 発期 の自 己客 観化 を目 指し てい たの であ ろう か︒ さら に夫 を︿ 告発

﹀す るこ とや 宮本 百合 子の

︿倫 理性

﹀を 追認 する こと にな って いる であ ろう か︑ 再検 討す る必 要が ある と思 う︒ 日本 共産 党の 第七 回党 大会 は︑ 一九 五八 年七 月二 一日 から 八月 一 日に 開催 され た︒ 最大 の議 題は 党章

︵綱 領と 規約 に相 当す る︶ 草案 であ った

︒春 日庄 次郎 らは 草案 に反 対し

︑敵 はア メリ カ帝 国主 義で

はな く︑ 日本 独占 資本 であ り︑ 当面 する 革命 は社 会主 義革 命で ある と主 張し た︒ 多数 派は 三分 の二 の賛 成を 得る こと が困 難と 判断 し︑ 綱領 部分 の採 決を 避け て︑ 次の 大会 で︿ 引き 続き 討議 すべ き草 案﹀ とし て残 すこ とに した

︒さ らに 五〇 年問 題の 討議 では

︑中 央分 裂の 責任 論に 集中 し︑ 極左 冒険 主義 の原 因と 責任 の追 及を 故意 に避 けた

︒ 八月 一日 に第 一回 中央 委員 会を 開催 し︑ 議長 に野 坂参 三︑ 書記 長に 宮本 顕治 が選 出さ れ︑ 旧主 流派 はほ とん ど役 職か ら外 され た︒ 結果 とし て旧 国際 派勝 利の 大会 とな り︑ 野坂

・春 日正 一ら と結 んで

︑宮 本・ 袴田 里見 らの グル ープ が実 権を 握る こと にな る︒ 同時 に旧 国際 派の 春日 庄次 郎・ 山田 六左 衛門

・亀 山幸 三ら は中 央少 数派 とな った

︒ 徳田 旧主 流派 と分 裂解 消を 急ぎ

︑従 来の 革命 戦略 につ いて 自己 批判 を欠 いて 党章 を強 制す る宮 本に

︑春 日庄 次郎 は反 発を 強め る︒ 八月 一八 日︑ 綱領 問題 小委 員会 が設 置さ れ︑ 野坂

・宮 本・ 袴田

・春 日正 一ら が少 数派 の神 山茂 夫・ 春日 庄次 郎・ 亀山 らを 抑え る形 で入 り︑ 地方 に対 する 統制 を強 化︑ 党章 反対 派の 排除 と抑 圧を 開始

︑反 対派 最強 の地 盤で ある 東京 都委 員会 を第 一の 標的 にし てい く︒ 春日 庄次 郎は 七月 の記 者会 見で 党幹 部を 批判 した 離党 理由 書を 発表

︑党 は

︿反 党分 派活 動を 開始 した

﹀と して

︑春 日庄 次郎

︑山 田六 左衛 門ら を除 名す る

「灰 色の 午後

﹂が 発表 され た一 九五 九年 は︑ 日米 安保 条約 改定 を

佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三〇 四

(4)

めぐ り国 内が 騒然 とし た年 であ った

︒三 月に 安保 改定 阻止 国民 会議 が︑ 社会 党・ 総評

・原 水協

・全 学連

・日 中友 好協 会な ど一 三四 団体 より 構成 され

︑共 産党 はオ ブザ ーバ ーと して 参加 した

︒社 会党 右派 は共 産党 の参 加に 反撥

︑六

〇年 一月 に社 会党 から 分裂 して 民主 社会 党を 結成 し︑ 安保 改定 には 是々 非々 の態 度で 臨む こと にな った

︒す でに

︑全 学連 主流 派は 六全 協で 穏健 化し た共 産党 に飽 き足 らず

︑除 名さ れた 学生 党員 達が ラデ ィカ ルな 革命 路線 を揚 げて

︑五 八年 一二 月に 共産 主義 者同 盟︵ ブン ト︶ を結 成し てい た︒ ブン トは

︑共 産党 の指 導下 にあ る全 学連 反主 流派 と対 立し なが ら︑ 先鋭 的な 直接 行動 に傾 斜し て行 った

︒学 生層 の離 反と 革新 陣営 から の疎 外に 対し て︑ 共産 党は

︑五 八年 一一 月︑ 第三 回中 央委 員会 総会 で﹁ 党生 活確 立と 党勢 拡大 の運 動﹂ を提 起し

︑一 九五 九年 一月 第四 回中 央委 員会 総会

︵第 七回 党大 会︶ で︑ 反米 帝国 主義

・反 植民 地化 の闘 争方 針を 打ち 出し た︒ さら に︿ 当面 の大 衆闘 争に 積極 的に とり くみ なが ら︑ その なか で党 勢拡 大を 独自 の課 題と して 目的 意識 的に 追求 する とい う基 本的 な方 針

﹀を 樹立 した

︒こ の時 期の

﹃ア カハ タ﹄ 講読 数の 伸び が 示す よう に︑ 宮本 顕治 主導 の共 産党 は党 勢拡 大に 力を 注い だ︒ 佐多 は︑ 一九 五八 年に 松川 事件 対策 協議 会副 会長 に就 任し

︑﹃ 佐多 稲子 作品 集﹄ 全一 五巻 を筑 摩書 房か ら刊 行︵

~一 九五 九年 一〇 月︶ して いる

︒一 九五 九年 には 広津 和郎 とと もに 松川 事件 の裁 判闘 争に 関わ

る活 動を しな がら

︑﹃ アカ ハタ

﹄短 編小 説の 審査 も担 当し てい る︒ 安保 条約 改定 を控 えて 緊迫 した 政治 状況 下︑ 佐多 の党 内位 置は 安定 して いた ので ある

︒し かし

︑六 全協 以降

︑全 学連 主流 派の 離反

︑共 産党 不信 の趨 勢を 象徴 する かの よう に︑ 吉本 隆明

・武 井昭 夫ら 若い 世代 によ る︑ 旧プ ロレ タリ ア文 学世 代に 対す る戦 争責 任問 題が 提起 され ても いた

「灰 色の 午後

﹂は

︑﹁ くれ なゐ

﹂・

﹁歯 車

﹂に 続く 時期 の佐 多の 実生 活を 題材 にし た小 説で ある

︒佐 多は エッ セイ

﹁作 品の 背景

﹂で

﹁灰 色の 午後

﹂を

︿書 いて いる とき の私 は︑ 私の 関係 する 政治 的な 面で の辛 い問 題を 一応 通り 過ぎ て︑ 心に 淀ん だも のは あり なが らそ れも 流し てい る︑ とい う状 態の 中に いた

﹀と 述べ てい る

︒さ らに

︑ エッ セイ

﹁作 家と いう もの

﹂に おい て︑ 丸岡 秀子 の﹃ 田村 俊子 と 私﹄ に触 れて

︑﹁ 灰色 の午 後﹂ 発表 後も

︑ま だ田 村俊 子の 実名 を上 げる には 心理 的な 抵抗 があ り︑ 田村 と窪 川鶴 次郎 の恋 愛事 件か ら実 に四

〇年 後の 時点 でも

︑強 い拘 りが ある こと を表 明し てい る

︒に も かか わら ず︑ 何故

︑安 保反 対運 動が 沸騰 する 時期 に︑ 日中 戦争 勃発 期の 実生 活を

﹁灰 色の 午後

﹂と して 小説 化し なけ れば なら なか った のか

︑さ らに

︿流 して いる

﹀と は言 え︑ 執筆 時点 の佐 多の

︿心 に淀 んだ もの

﹀と は何 かを

︑あ らた めて 問わ ねば なら ない

「灰 色の 午後

﹂は

︑一 九三 六年 大晦 日の 夜︑ 作家 仲間 の美 濃部 数 佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三〇 五

(5)

子と 川辺 折江

︑二 人の 友達 で折 江の 夫惣 吉の 主治 医で もあ る吉 本和 歌が

︑三 人連 れ立 って 浅草 見物 をす る場 面か ら始 まり

︑一 九三 八年 一二 月暮

︑川 辺夫 婦が 銀座 のド イツ レス トラ ンで 会食 する 場面 で閉 じら れる

︒プ ロレ タリ ア文 学運 動に 参加 して 来た 川辺 夫婦 が逮 捕さ れ︑ 出獄 後に 文学 組織

・党 の壊 滅に 遭遇 し︑ 権力 との 戦い を個 人レ ベル でし か展 開出 来な くな った 時期 を小 説時 間と して いる

︒夫 婦間 の亀 裂と 性的 妥協

︑そ の結 果と して 戦時 体制 に組 み込 まれ てい く過 程が

︑ヒ ロイ ン折 江を 中心 に描 かれ てい る︒ 惣吉 の気 配か ら︑ 先年 体験 した 夫婦 間の 危機 の再 燃で はな い︑ 何か 別の もの があ ると いう 折江 の直 感か ら物 語が 始ま る︒ 全編 二三 章中

︑第 四章 で折 江は

︑惣 吉の 相手 が年 上の 女性 で︑ それ が和 歌で はな いか と感 じて いる こと が仄 めか され

︑第 一九 章で

︑そ の事 実が 判明 する

︒し かも 数年 前に 離婚 騒動 を経 験し てい る川 辺夫 婦は

︑今 回の 事件 発覚 後︑ また して も結 婚生 活を 続け ると いう 顛末 にな って いる

︒折 江︵ 佐多

︶は 三三 歳︑ 惣吉

︵窪 川︶ は三 四歳

︑数 子︵ 百合 子︶ と和 歌︵ 田村

︶は 三八 歳で

︑和 歌以 外は モデ ルの 実年 齢に 設定 され てい る︒ 和歌 の境 涯及 び職 業は 架空 で

︑年 齢に 到っ ては 一五 歳も 若く 設定 され てい て︑ 窪 川と 田村 の年 齢差 を超 えた 情事 につ いて

︑佐 多の 当時 受け た衝 撃の 大き さが 感じ られ る︒ 登場 人物 につ いて は︑ 佐多 の従 来の 政治 的私 小説 同様

︑ほ ぼ実 在の モデ ルが 特定 出来 る︒ すで に小 林裕 子が 言及

して いる が

︑そ の他 に︑ 川辺 夫婦 の長 男亮 吉は 健造

︑次 女節 子は 達 枝︑ 第四 章の

︿夫 婦ど ちら も仕 事を して ゆく 苦し さを 書い た﹀ 小説

︑ 第七 章の 折江 の公 判

︑樫 村と 宮田 良子 の越 境記 事

︑コ ーヒ ー店 の出 店計 画

︑第 一四 章の 岸子 と藤 原の 執筆 停止

︑第 一六 章の 美濃 部の 郷 里の 不幸 によ る数 子の 東京 不在

︑第 一七 章の

︿二 年半 前に 中途 半ぱ に終 つて いた ある 作品 のつ づき

﹀に つい て︑ 事実 と対 応し てい る︒ 二︑ 一九 三六 年か ら三 八年 の折 江の 生活 は︑ 佐多 の実 時間 を数 年先 取 りし てい ると いう 小林 裕子 の指 摘が ある が

︑そ れは 折江 に限 った も ので はな い︒ 佐多 は一 九五 一年

︑宮 本百 合子 の死 の二 ヶ月 後に 発表 した

﹁百 合子 さん につ いて

﹂で

︑︿ 当時 の合 法と 非合 法の 両面 を通 じて 共に 歩い た︑ いわ ば唯 一の 人間 とし て私 自身 の責 任を 今改 めて 感じ てい る︒ この 責任 の感 じは

︑﹁ 十二 年の 手紙

﹂の 時期 の後 半に おけ る私 自身 の恥 の感 情に よつ て一 層︑ 複雑 にな る︒

﹀︿ 私自 身の 当 時の 泥ん こに まみ れた よう な生 活は

︑百 合子 さん にと つて は︑ 触れ るの も厭 なお もい をさ せた にち がい ない

︒百 合子 さん は︑ はね かえ る泥 の一 つで さえ

︑そ れが 泥と わか れば さつ と潔 癖に 飛び のく 人で あつ たか ら︒

﹀と 述べ てい る︒ すで に早 く︑ 本多 秋五

や平 野謙

の指 摘す る如 く︑

﹁灰 色の 午後

﹂は

︑百 合子 の存 在を 抜き にし て語 るこ

佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三〇 六

(6)

とが 出来 ない

︒ 数子 は折 江夫 婦が 先年 の夫 婦の 危機 を乗 り越 えて

︑立 ち直 りを 見 せて いる と思 って おり

︑︿ 今夏

﹀よ うや く三 年余 りに なっ て接 見禁 止が 解か れた 夫へ の面 会を 日課 にし てい た︒

︿今 年始 め﹀ に数 子が 実家 を出 て独 りで 住ん でい る家 も︑ 巣鴨 刑務 所に 近い 場所 にあ った

︿数 子は 現在 の状 態の 中で

︑も つと も威 儀正 しく 暮ら そう とし てい た︒ 内容 的に

︑ち りひ とつ 立て まい とし てい るよ うに 見え た︒ はね かえ つて きた 泥な ど早 速水 で洗 い流 そう とし てい るよ うで さえ あつ た

︒﹀ とさ れて いる

︒︿ はね かえ つて きた 泥﹀ の表 現は

︑﹁ 百合 子さ んに つい て﹂ の先 掲の 記述 と重 なっ てい る

︒数 子は 惣吉 の今 回の 所 業に つい て︑ 折江 夫婦 だけ の問 題で はな く︿ 私た ちす べて にか ゝわ るこ とな のよ

︒私 たち の時 代の 善意 の抹 殺を 意味 する 事柄

﹀す なわ ち︑ 革命 運動 陣営 全体 の名 誉を 汚す 許す べか らざ る行 為だ と述 べ︑

︿け がら わし さに 堪え がた いよ うに 視線

﹀を 折江 に向 ける

︒ とこ ろで

︑数 子の 潔癖 さを 象徴 する かの よう なこ の言 葉は

︑佐 多 の創 作で はな い︒ 一九 三八 年九 月二 九日 付の 顕治 宛書 簡に は︑

︿私 がこ のよ うに 苦し いの だっ て︑ その 人そ の時 代の 善意 の大 抹殺 だか らで す︒

﹀と あり

︑実 際に 百合 子の 発し た言 葉で あっ た

︒ま た一 九 四三 年一 一月 一八 日付 の顕 治宛 書簡 には

︑︿ 特に 私は 十三 年︵ 昭 和: 北川 注︶ の下 らな い事 件の とき は御 主人 から 全く 非友 人的 な扱

われ かた をし まし た︒ その 人柄 の底 を見 せら れま した

︒あ のと き細 君は 目白 の家 の二 階で

︑何 と慟 哭し たで しょ う︒ そし て︑ 身を しぼ るよ うな 声で

﹁わ たし は不 幸に なり たく ない

︒正 しい こと から でも 不幸 には なり たく ない

﹂と 泣き なが ら云 いま した

︒﹀ とあ る

︒︿ 御主 人か ら全 く非 友人 的な 扱わ れ方

﹀と は︑ 惣吉 の和 歌と の口 裏合 わせ と対 応し てい る︒ 百合 子は 田村 事件 につ いて

︿下 らな い事 件﹀ と評 して いる が︑ 数子 も和 歌事 件を

︿何 の足 しに もな らぬ こと

﹀︿ 馬鹿 らし い﹀

︿く だら ない

﹀と 述べ てい る

︒百 合子 の家 で佐 多が 慟哭 し たこ とも

︑数 子の 家に おけ る折 江の 姿と 対応 して いる

︒折 江は 一〇 月に 入っ て︑ 離婚 のた めに 転居 する 家を 見に 行っ た帰 りに

︑そ の場 所か ら近 い数 子の 家へ 足を 向け る︒ 数子 の完 璧な 拒否 に出 会う 第二

〇章 の場 面で ある が︑

︿数 子に しか 自分 の心 の寄 せ場 がな かつ たか ら︑ たど りつ くよ うに して

﹀や って きた 折江 は︑ 孤独 の中 に突 き落 とさ れる 形と なる

︒ とこ ろが

︑百 合子 の日 記・ 手紙 から 田村 事件 後も 日常 的な 交流 が︑ 一九 四一 年一 一月 頃ま では 持続 して いた こと が窺 える

︒た とえ ば︑ 一九 三八 年一

〇月 二三 日付 の顕 治宛 書簡 では

︑︿ 良人 を弁 護す る気

︑ 合理 化す る気 は持 たず

︑し かも

︑離 れら れな い情 愛を 感じ てい る妻 君の

︑僻 ませ ず︑ 立ち 直ら せよ うと する 骨折 は︑ 実に 力一 杯で す

︒﹀ とあ る︒ 一九 三八 年一

〇月 二八 日付 の顕 治宛 書簡 では

︑︿ 戸塚 の細 佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三〇 七

(7)

君﹀ は︿ 唯一 の親 友﹀

︑︿ 私生 活に つい て話 しを

︑ど っち かと いう と これ 迄余 りし なか った

﹀が

︑︿ この 間は 底の 底ま で吐 露し まし た﹀ とあ る︒ 一九 四一 年一 一月 三日 付の 顕治 宛書 簡で は︑ 佐多 の文 芸銃 後運 動四 国巡 回講 演中

︑百 合子 が脳 溢血 で倒 れた 佐多 の祖 母を 見舞 った こと が記 され てい る

︒さ らに

︑田 村俊 子事 件当 初︑ 書簡 に見 る 百合 子は

︑窪 川に は厳 しく

︑稲 子に は優 しい

︒ しか し︑ 一九 四四 年一 月二 四日 付の 顕治 宛書 簡に は︿ 私に は何 一 つ出 来る こと はな い︒ それ はそ うで しょ う?

何も 分ら ない よう に 暮し たの だか ら︑ この 二三 年⁝

﹀と ある

︒さ らに

︑一 九四 三年 一 一月 一八 日付 の顕 治宛 書簡 では

︑︿

﹁く れな い﹂ のと きは 作者 に信 望 とで もい うも のが 在り まし た︒ 現在 はそ れは なく なり まし た︒

﹀︿ 馬 鹿な こと

︵男 の側

︶に しろ

︑あ のと きは 一つ 通っ たも のが あり

︑女 の側 に真 摯な 向上 の欲 望が あり まし た︒ 今は 女の ひと の中 にも ひど いす さみ があ り︑ それ を癒 し立 て直 すの は実 に大 事業 です

︒﹀

︿酸 鼻 とい う感 じが いた しま す︒

﹀と

︑佐 多を 酷評 して いる

︒一 九四 一年 頃か ら疎 遠に なり

︑一 九四 四年 には 佐多 の方 から 交流 を絶 って いた よう であ る︒

﹁灰 色の 午後

﹂は 数子 につ いて も︑ 百合 子の 実像 を数 年早 めた 形で 先取 りし てお り︑ 数子 に拒 絶さ れた 折江 の孤 独を 際立 たせ てい るこ とが わか る︒

三︑ 第八 章に は︑ 折江 が惣 吉に 対し て性 的に 迫り

︑惣 吉が あや し宥 め て︑ 逃げ る場 面が ある

︒第 一〇 章に は︑ 折江 が猜 疑心 と激 情に 駆ら れて

︑深 夜︑ 惣吉 の下 宿に 彼の 所在 を確 めに 行く 場面 があ る︒ 第一 八章 には

︑数 子が ピエ ロの 役回 りを 演じ るこ とに なる のを 知り なが ら真 相解 明を 依頼 し︑ 彼女 が帰 って 行っ た後

︑惣 吉は 折江 を誘 い︑ 折江 もそ れに 応じ る夫 婦の 情痴 場面 があ る︒ 第二 一章 には

︑折 江が

︿閨 房の 中だ けに 通用 する 言辞

﹀を 口に して

︑惣 吉を 誘う 周知 の場 面が ある

「 ︒ ほら

︑お 前だ つて

﹂ 見破 られ る官 能の たし かな 証拠 に︑ 羞じ はそ の中 には ぐら か して 折江 は埋 没し てい つた

︒そ の間 にひ らめ くお もい は︑ 今は もう 共犯 の意 識で あつ た︒ あゝ 共犯 だ︑ 共犯 だ︑ どこ かで そう 叫ぶ 彼女 の悲 痛な 泣き 声 は︑ 官能 の泣 き声 の中 にひ とつ にな つて 妖し い勝 利を 挙げ てい た︒ しか しそ の時

︑折 江の 魂の 中に 保た れて いた 大切 なも のは

︑ ぱち んと 音を 立て ゝく だけ 散つ てい た

︒ この 時︑ 砕け 散っ た︿ 折江 の魂 の中 に保 たれ てい た大 切な もの

﹀ とは

︑夫 の背 信を 許さ ぬ高 潔さ

︑情 欲に 溺れ ぬと いう 矜持

︑さ らに

佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三〇 八

(8)

はコ ミュ ニス トと して の反 体制 姿勢 であ ろう

︒︿ 共犯

﹀と は︑ 和歌 や数 子に 対す る夫 の背 信行 為に 加担 する こと を指 す︒ さら に︑ 第二 三章 に示 され るよ うに

︑夫 婦そ ろっ て武 漢三 鎮陥 落の 祝賀 提灯 行列 を見 物し て︑ 皇居 で振 られ る天 皇の 提灯 に歓 喜す る群 衆と 一体 化し て戦 時体 制に 組み 込ま れ︑ 侵略 戦争 に加 担す るこ とを 表わ す︒ ここ に夫 婦間 の頽 廃・ 妥協 が︑ 戦時 体制 加担 を呼 び込 むと いう

﹁灰 色の 午後

﹂に おけ る戦 争屈 服契 機説 が示 され る︒ 佐多 は一 九四 八年 に発 表し た﹁ 道

﹂に おい て︑ ヒロ イン が雑 誌社 の誘 いで 中国 戦線 慰問 に 行く 際︑ それ を止 めな かっ た夫 の姿 を点 描し てい る︒

﹃佐 多稲 子全 集 第四 巻﹄ の﹁ あと がき

﹂で は︿ 私の 戦時 体制 に協 力し た行 為と

︑ そこ にお もむ かせ た窪 川﹀ とい うよ うに 夫の 加害 責任 に言 及し てい る

︒さ らに

﹁年 譜の 行間 ($ )﹂ では

︑︿ 夫婦 の間 に信 頼が 失わ れ︑ 緊密 な関 係が 崩れ

︑退 廃的 にな って いく と︑ 社会 に対 する 自分 の生 き方

︑態 度︑ 思想 的な こと まで

︑退 廃の 色合 いを 持つ よう にな る﹀ とし て︑

︿夫 婦の 狎れ 合い

﹀が 自ら の戦 時下 屈服 の主 たる 契機 であ ると 述べ てい る

︒﹁ 灰色 の午 後﹂ では

︑戦 争に 傾れ 込む 時局 と︑ そ れに 抵抗 して 来た 人々 及び 折江 の後 退し てい く様 が︑ 第二

・五

・ 七・ 一一

・一 四・ 一五

・一 六・ 二〇

・二 三章 と︑ 幾度 も繰 り返 して 書か れて いる

︒こ の点 から も﹁ 灰色 の午 後﹂ は︑ 一見 して

﹁あ る夜 の客'

﹂と とも に︑ 吉本 隆明 らに よる 戦争 責任 追及 に答 えよ うと した

小説 であ ると いえ る︒ しか し︑

﹁灰 色の 午後

﹂に は川 辺・ 樫村

・伊 原・ 美濃 部の 四組 の 男女 が出 て来 る︒ 最終 章に は︑ まず 伊原 の死 が語 られ る︒ 伊原 は会 社勤 めの 傍ら

︑プ ロレ タリ ア文 学運 動に 参加 した 経歴 を持 ちな がら

︑ 運動 壊滅 後︑ 惣吉 に兄 事し

︑文 学の 表舞 台を 目指 して 活動 を模 索し てい た人 物で ある

︒川 辺家 に同 居し なが ら出 版社 に通 勤し てい た万 津子 に恋 して 結婚

︑子 供が 生ま れた 矢先

︑無 理が 祟っ て肺 結核 のた めに 死ぬ

︒志 半ば での 死で ある

︒続 けて

︑恵 子の 死が 重ね られ る︒ 樫村 は地 下潜 伏中 に検 挙さ れ︑ 転向 して 出獄 後︑ 新劇 の演 出家 とし て活 動し てい たが

︑突 如と して 女優 とソ 連に 逃避 行す る︒ それ は革 命運 動の さら なる 展開 を夢 見て のこ とで はあ ろう が︑ 肺疾 を抱 える 恵子 にと って は︑ 同行 拒否 を宣 告さ れた こと にな る︒ その よう な状 態で 死な ねば なら ない 恵子 の孤 独が 浮か び上 って くる

︒美 濃部 夫婦 も心 の絆 は磐 石で ある かに みえ るが

︑美 濃部 が官 憲の 手中 にあ る限 り︑ 獄中 死の 危険 と常 に背 中合 わせ であ る︒ この よう に伊 原・ 杉 本・ 美濃 部三 組の 男女 の不 遇な 形を 示す こと によ って

︑信 頼す る仲 間内 から 孤立 した 折江 が︑ たと え官 能に 突き 動か され

︑眼 前の 退廃 の極 みの 惣吉 に縋 りつ いた とし ても

︑一 概に は責 めら れな いと いう 読み を誘 うこ とに もな って いる

︒ 折江

・惣 吉の 共犯 によ って

︑一 転し て被 害者 とな った 和歌 も孤 独 佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三〇 九

(9)

から 抜け られ ない

︒和 歌は

︿こ れか らあ とね

︒私

︑と き〴 〵あ なた たち の家 へ︑ 御飯 でも よば れに 来ち やい けな い︒ 駄目

? そん なこ とで もな けり や︑ 私︑ とつ ても 淋し くて やり きれ ない*

﹀と 述べ る︒ 平野 謙が

︿肺 腑の 言﹀ と評 する もの であ るが+

︑佐 多は この よう な和 歌を 描く こと で︑ 恋敵 であ った 田村 俊子 の寂 しさ をも 汲み 取っ てい る︒ 時あ たか も︑ 平野 謙が

﹁﹃ 群像

﹄十 五周 年に よせ て,

﹂で

︑現 下 の中 間小 説の 盛況 と純 文学 の衰 退を 言上 げし たこ とを 発端 に︑ いわ ゆる

︿純 文学 論争

﹀が 喧し い折 であ った

︒佐 多は

︑﹁ 灰色 の午 後﹂ の後 の中 間小 説﹁ 振り むい たあ なた-

﹂で

︑一 夫一 婦制 に疑 問を 呈す る男 性や

︑妻 子あ る男 性と の恋 に悩 み︑ 身を 持ち 崩す 職業 婦人 の姿 を描 いて いる

︒ま た﹁ 夜と 昼.

﹂で は︑ 夫に 以前 から 恋人 がい たこ と を理 由に 離婚 した 女性 が︑ 既婚 者で ある 義弟 と不 倫関 係に 陥り

︑親 族の 人間 関係 を乱 すこ とも 辞さ ずに 密会 を繰 り返 すよ うな

︑愛 欲に 溺れ る男 女の 姿を

︑肯 定的 に描 いて いる

︒佐 多が

﹁灰 色の 午後

﹂を 書く こと によ って

︑倫 理的 で高 潔で あっ た百 合子 のか つて の批 判を 超え る地 点に 出た こと を示 して いよ う/

︒ 先述 した よう に︑ 数子 は同 時期 の百 合子 より 峻厳 であ るよ うに 設 定さ れて いる

︒吉 本隆 明ら によ る戦 争責 任追 及に 促さ れる 形で

︑戦 時下 の自 分が 孤立 に陥 った こと は百 合子 に︑ 戦争 協力 は窪 川に 責任 の一 端が ある と考 える 地平 に︑ 佐多 が一 歩踏 み出 した とい うこ とで

あろ う︒ 花田 清輝 は︑

﹁腹 話術 師と その 人形 佐

多稲 子論0

﹂に お いて

︿﹃ 泡沫 の記 録﹄ が︑ いち おう

︑﹁ 戦争 責任 と個 人的 良心 をも っ とも 鋭く かか わら せた 問題 作﹂ のよ うな 外観 をと って いる にせ よ︑ そこ で批 判さ れて いる のは

︑か の女 自身 では なく

︑か えっ てか の女 の批 判者 のほ うだ とい った よう な気 がす る﹀ と述 べて いる

︒さ らに 澤地 久枝 は﹁ 試さ れる1

﹂に おい て︑

︿佐 多さ んは

︑ほ んと うに 戦争 責任 とい うも のを 感じ てい ると おっ しゃ りな がら

︑実 はど こか で︑ でも わた しに はわ たし の言 い分 があ ると いう もの を死 ぬま でお 持ち であ った よう な気 がし ます

︒﹀ と述 べて いる

︒花 田や 澤地 の指 摘は

﹁灰 色の 午後

﹂に おい ても 当て はま る︒ 恥を 曝す とは

︑晒 すこ とで もあ る︒ 自己 暴露 の悲 哀と いう 日本 自 然主 義の 伝統 に則 した 私小 説の 方法 に拠 りな がら

︑夫 婦の 危機

↓仲 間内 から の拒 絶↓ 孤立

↓夫 婦の 狎れ 合い

↓戦 時協 力︑ とい う図 式の もと に︑ 佐多 は戦 時協 力が

︑決 して 自分 一個 の責 任に 帰す るも ので はな いこ とを 確認 し︑ 自己 の恥 を雪 ごう とし たの であ る︒ さら に︑ 戦時 下非 転向 を貫 いた 宮本 夫婦 の前 に恥 を曝 した 佐多 は︑ 戦後 のこ の時 期︑ 小説 創作 行為 によ って

︑宮 本夫 婦の 如き 一義 的な 道以 外は

︑ 共産 主義 者・ 文学 者と して

︑果 たし て無 価値 であ るの かを 問お うと した ので はな いか と思 う︒

﹁灰 色の 午後

﹂執 筆は

︑佐 多が 宮本 夫婦 に対 する コン プレ ック スを 払拭 し︑ 新た な地 平に 出る ため の必 須の

佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三一

(10)

作業 であ った ので ある

︒ 注

① 平野 謙﹁ 今月 の小 説︵ 上︶

﹂︵

﹃毎 日新 聞﹄ 一九 六〇 年一 月二 八日

② 阿部 知二

・平 林た い子

・亀 井勝 一郎

﹁創 作合 評﹂

︵﹃ 群像

﹄一 九六

〇年 三月

︶︒ 阿部 と平 林は 小説 の結 末に つい て︑ 中途 半端 な終 り方 だと 述べ てい る︒ 佐多 も﹁ あと がき

﹂︵

﹁時 と人 と私 のこ と( 17) 人

を偲 び︑ 年 譜に おも う﹂

︵﹃ 佐多 稲子 全集

第一 八巻

﹄ 講談 社一 九七 九年 六月

︶に おい て︑

︿書 きあ ぐね た末 の逃 げで 終っ てい る﹀ と述 べて いる

③ 小田 切進

﹁暗 い日 々と 暗い 生活 戦

後の 転向 問題 を通 過し てい ない

︵﹃ 日本 読書 新聞

﹄一 九六

〇年 四月 一八 日︶

④ 江藤 淳﹁ 時代 の圧 力と 愛情 生活 佐

多稲 子著

﹃灰 色の 午後

﹄﹂

︵﹃ 週 刊朝 日﹄ 一九 六〇 年四 月二 四日

⑤ 小久 保実

﹁文 芸時 評﹂

︵﹃ 近代 文学

﹄一 九六

〇年 三月

⑥ 中村 真一 郎﹁ 佐多 稲子 の抒 情

﹃灰 色の 午後

﹄を 読ん で﹂

︵﹃ 文学 界﹄ 一九 六〇 年七 月︶

⑦ 十返 肇﹁ 誠実 な自 己凝 視

佐多 稲子 著﹃ 灰色 の午 後﹄

﹂︵

﹃日 本経 済 新聞

﹄一 九六

〇年 五月 二日

⑧ 草部 和子

﹁書 評 佐多 稲子 著﹃ 灰色 の午 後﹄

﹂︵

﹃ア カハ タ﹄ 一九 六〇 年五 月一 二日

⑨ 野間 宏﹁ 著者 を語 る

﹃灰 色の 午後

﹄の 佐多 稲子 さん

﹂︵

﹃朝 日新 聞﹄ 一九 六〇 年四 月一 五日

⑩ 小林 裕子

﹁解 題﹃ 灰色 の午 後﹄ の虚 構性

﹂︵

﹃佐 多稲 子全 集 第一

〇 巻﹄ 講談 社 一九 七八 年九 月︶

⑪ 小林 裕子

﹁﹃ 灰色 の午 後﹄ につ いて

﹂︵

﹃独 立文 学 八号

﹄一 九八 五年

七月

⑫ 長谷 川啓

﹁﹃ 灰色 の午 後﹄ 論

夫婦 の共 犯の 風景

︵﹃ 日本 の文 学 第六 集﹄ 有精 堂 一九 八九 年一 二月

⑬ 兵本 達吉

﹃日 本共 産党 の戦 後秘 史﹄

︵扶 桑社

二〇

〇五 年九 月︶ 二四 二頁 を参 照し た︒

⑭ 小熊 英二

﹃︿ 民主

﹀と

︿愛 国﹀

﹄︵ 新曜 社 二〇

〇二 年一

〇月

︶五

〇三 頁を 参照 した

﹃日 本共 産党 の五 十年

増補 版﹄

︵新 日本 出版 社 一九 七八 年三 月︶ 一 六四 頁︒ 後に 宮本 顕治 と袂 を分 かっ た志 賀義 雄で さえ

︑﹃ 赤旗

﹄講 読数 につ いて

︑︿ 六全 協以 後︑ 次第 に︑ その 拡大 に努 力が 集中 され た︒

﹀︿ ま た他 の機 関紙 誌も 発行 部数 が増 大し

︑紙 代回 収も 確実 とな って

︑党 財政 はそ の収 入に よっ て優 にま かな われ るよ うに なっ た︒

﹀︿ 宮本 が機 関紙 拡 大に 努力 した 功績 は大 きい

︒﹀

︵﹁ 機関 紙の 役割

﹂﹃ 日本 のこ え﹄ 一九 七四 年五 月六 日︶ と述 べて いる

⑯ たと えば

︑吉 本隆 明﹁ 前世 代の 詩人 たち 壺

井︑ 岡本 の評 価に つい て﹂

︵﹃ 詩学

﹄一 九五 五年 一一 月︶

︑﹁

﹃民 主主 義文 学﹄ 批判 二

段階 転 向論

﹂︵

﹃荒 地詩 集一 九五 六﹄ 一九 五六 年四 月︶

︑﹃ 芸術 的抵 抗と 挫折

︵勁 草書 房 一九 五八 年四 月︶ など

﹃婦 人公 論﹄ 一九 三六 年一 月~ 五月

︑﹃ 中央 公論

﹄一 九三 八年 八月

﹃ア カハ タ﹄ 一九 五八 年一

〇月 一日

~一 九五 九年 四月 一一 日︒

﹁歯 車﹂ につ いて は︑ 拙稿

﹁佐 多稲 子﹃ 歯車

非合 法時 代︿ 正史

﹀と して の 制約

﹂︵

﹃昭 和文 学研 究 第六 二集

﹄二

〇一 一年 三月

︶参 照の こと

﹃東 京新 聞﹄ 一九 六八 年七 月八 日

﹃中 央公 論﹄ 一九 七三 年四 月

㉑ 雑誌 初出 のも のは

︑第 一四 章が 重複 して いて

︑結 びは 第二 二章 とな っ てい るの で本 稿で は訂 正し た︒ 佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三一 一

(11)

㉒ 和歌 の職 業が 医者 とい う設 定に つい て︑ 病気 が癒 えた 患者 は医 者の 手 を離 れる よう に︑ 転向 で傷 つい た惣 吉は 心の 傷が 癒え れば 和歌 の元 を離 れる メタ ファ ーに なっ てい ると いう 長谷 川啓 の指 摘が ある

︒︵

﹁妻 の官 能 の覚 醒

不倫 小説

﹃灰 色の 午後

﹄の 光景

﹂﹃ 日本 文学 誌要

四二 号﹄ 法政 大学 国文 学会

一九 九〇 年三 月︶

㉓ 小林 裕子 は注

⑪の 論文 にお いて

︑︿ 美濃 部と 数子 夫妻 は宮 本顕 治と 百 合子

︑吉 本和 歌は 田村

︵佐 藤︶ 俊子

︑伊 原夫 妻は 筧清

︵映 画評 論家

︶と 光子

︵後 に宮 木喜 久雄 夫人

︶︑ 樫村 と恵 子夫 妻は 杉本 良吉 と杉 山智 恵子

︑ 宮田 良子 は岡 田嘉 子︑ 柳井 は柳 瀬正 夢︑ 藤原 は中 野重 治︑ 常子 は窪 川鶴 次郎 の妹 梅子

﹀︑ 上海 で戦 死し た︿ 新劇 俳優

﹀は 新築 地劇 場の 友田 恭助 と特 定し てい る︒

﹃群 像﹄ 一九 五九 年一

〇月

︒こ の小 説は

﹁く れな ゐ﹂

︵﹃ 婦人 公論

﹄一 九三 六年 一~ 五月

︶で ある

㉕ 一九 三七 年五 月に 懲役 二年 執行 猶予 三年 の判 決︒

㉖ 一九 三八 年一 月五 日の

﹃朝 日新 聞﹄ には

︑新 協劇 団演 出家 杉本 良吉 と 女優 岡田 嘉子 が︑ 一月 三日 カラ フト

︿半 田沢

﹀の 日ソ 国境 に︑ 国境 警備 官の

︿慰 問﹀ と称 して 赴き

︑派 出所 慰問 のあ と︑ 国境 を越 えた とあ る︒ また

︑強 制訊 問の 結果 引き 出さ れた 岡田 嘉子 の証 言に 基き

︑杉 本が 一九 三九 年一

〇月 二〇 日に 処刑 され たと いう 事実 が明 らか にな った のは

︑一 九九 二年 のこ とで ある

︒︵

﹃朝 日新 聞﹄ 六月 三〇 日︶

㉗ 宮本 百合 子日 記に は︑ 一九 三八 年一 月三 日︿ 五銭 のコ ーヒ ー店 を出 し たら とい うプ ラン を立 てて いる

﹀︵

﹃宮 本百 合子 全集

第二 四巻

﹄新 日本 出版 社 一九 八〇 年七 月 七六 九頁

︶と ある

「灰 色の 午後

﹂第 一四 章に

︿数 子は

︑や はり リス トに 挙が つて いる と いう 藤原 と連 れ立 つて 内務 省警 保局 へ事 実の 有無 を確 めに

﹀と ある が︑ 宮本 百合 子日 記一 九三 八年 一月 一七 日に は︿ 警保 局図 書課 に禁 止に つい

てき きに ゆく

︑中 野と

︒﹀

︵﹃ 宮本 百合 子全 集 第二 四巻

﹄新 日本 出版 社 一九 八〇 年七 月 七七 七頁

︶と ある

㉙ 百合 子は 一九 三七 年三 月二 六日 から 四月 一五 日に かけ て︑ 顕治 の父 捨 吉の 病気 見舞 中に

︑顕 治の 叔父 の急 逝に 遭遇 して いる

︒︵ 宮本 百合 子日 記﹃ 宮本 百合 子全 集 第二 四巻

﹄新 日本 出版 社 一九 八〇 年七 月︶

﹃群 像﹄ 一九 六〇 年一 月︒ この 小説 は﹁ 晩夏

﹂︵

﹃中 央公 論﹄ 一九 三八 年八 月︶ であ る︒

㉛ 注⑩ に同 じ︒

﹃展 望﹄ 一九 五一 年三 月

㉝ 本多 秋五

﹁佐 多稲 子﹃ 灰色 の午 後﹄

﹂︵

﹃東 京新 聞 夕刊

﹄一 九六

〇年 四月 一三 日︶

㉞ 平野 謙﹁ 作家 と作 品 佐多 稲子

﹂︵

﹃日 本文 学全 集四 七 佐多 稲子 集﹄ 集英 社 一九 六七 年一 一月

四三 四頁

﹃群 像﹄ 一九 六〇 年一 月︒

︿数 子は この 夏︑ よう やく 三年 余り にな って 接見 禁止 の解 かれ た夫

﹀と ある が︑

﹁年 譜﹂

﹃宮 本百 合子 全集

別冊

︵新 日本 出版 社 一九 八一 年一 二月

︶五 八頁 では

︑一 九三 六年 六月 二四 日に

︿一 年二 ヶ月 ぶり に面 会﹀ とあ る︒

㊱ 一九 四五 年八 月一 八日 付顕 治宛 て書 簡で

︑﹁ 玉音 放送

﹂に 接し て︿ 作 家と して 一点 愧じ ざる 生活 を過 した こと を感 謝い たし ます

﹀︵

﹃宮 本百 合 子全 集 第二 二巻

﹄新 日本 出版 社 一九 八一 年一 月 六三 九頁

︶と 書き 付け た百 合子 の自 負︑ 潔癖 さと 呼応 して いる

﹃群 像﹄ 一九 六〇 年二 月

﹃宮 本百 合子 全集

第一 九巻

﹄︵ 新日 本出 版社

一九 七九 年二 月︶ 四五 二頁

︒こ れは

﹃十 二年 の手 紙 上﹄

︵筑 摩書 房 一九 五〇 年六 月︶ に︑ 九月 二七 日付 書簡 とし て掲 載さ れて いる

︒佐 多が

︑百 合子 から 直接 聞い たか

︑こ の書 簡に 拠っ たか は特 定で きな い︒

佐多 稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三一 二

(12)

﹃宮 本百 合子 全集

第二 二巻

﹄︵ 新日 本出 版社

一九 八一 年一 月︶ 二五 二頁

︒た だし

︑﹃ 十二 年の 手紙

﹄に は未 収録

㊵ 注㊲ に同 じ︒

㊶ 注㊲ に同 じ︒

﹃宮 本百 合子 全集

第一 九巻

﹄︵ 新日 本出 版社

一九 七九 年二 月︶ 四七 七頁

﹃宮 本百 合子 全集

第二 一巻

﹄︵ 新日 本出 版社

一九 八〇 年三 月︶ 五一 五頁

﹃宮 本百 合子 全集

第二 二巻

﹄︵ 新日 本出 版社

一九 八一 年一 月︶ 三〇 八頁

㊺ 注㊹ に同 じ︒ 二五 二頁

︒こ の記 述を 含む 書簡 に初 めて 注目 した のは

︑ 長谷 川啓

﹁女 の時 間・ 女の 友情

二つ の庭

﹄と

﹃獄 中へ の手 紙﹄ を めぐ って

︵法 政大 学国 文学 学会

﹃日 本文 学誌 要 六〇 号﹄ 一九 九 九年 七月

︶で ある

︒長 谷川 は︑ この 書簡 から 戦時 下の 佐多 の男 性関 係に 纏わ る失 踪事 件の 探索 を試 みて いる

㊻ 注㊲ に同 じ︒

㊼ 注㊲ に同 じ︒ 宮本 百合 子に も一 九三 七年 四月 八日 の日 記で

︑顕 治を 求 める 官能 の高 ぶり を吐 露し た記 述が ある

︒︿ 何も 彼も 忘れ てし まう よう な感 覚に 浸り こみ たい 渇望 の彼 方に

︑激 しい 感覚 の欲 求の ある のを 感じ る︒ 手の ひら

︑顎

︑頬

︑胸 すべ ての 皮膚 が︑ 求め てい るも のが ある

︒﹀

︿何 でも よい

︑す べて を忘 れる よう な感 覚と いう ので はな く︑ 只一 つの 肉体 がい るの であ った

﹀︵

﹃宮 本百 合子 全集

第二 四巻

﹄新 日本 出版 社 一九 八〇 年七 月 七二 五頁

︶と 記し てい る︒ しか し︑

︿情 痴﹀ を小 説化 する こと はな かっ た︒ 本多 秋五 は︑

﹁知 られ ざる 作家

﹂︵

﹃読 書人

﹄一 九 五八 年八 月二 五日

︶に おい て︑ 百合 子に も情 痴を 含め た深 い人 間観 があ った こと

︑そ れが

︑戦 後︿ きび しい 人格 主義 美学 に支 配﹀ され た人 物の

よう に見 なさ れて しま った こと を指 摘し てい る︒

﹃芸 術﹄ 一九 四八 年五 月︒

﹁私 の東 京地 図﹂ の最 終章

㊾ 講談 社 一九 七八 年三 月

「年 譜の 行間 (

$) 窪川 から 佐多 に﹂

︵﹃ 別冊 婦人 公論

﹄一 九八 三年 四月 二〇 日︶ '

﹃群 像﹄ 一九 五八 年一

〇月

* 注㊲ に同 じ︒ + 注① に同 じ︒ , 平野 謙﹁

﹃群 像﹄ 十五 周年 によ せて

﹂︵

﹃朝 日新 聞﹄ 一九 六一 年九 月一 三日

︶ -

﹃週 刊現 代﹄ 一九 六〇 年七 月~ 六一 年四 月 .

﹃主 婦の 友﹄ 一九 六二 年一 月~ 一九 六三 年六 月 / 長谷 川啓 は︑

﹁女 の時 間・ 女の 友情

二つ の庭

﹄と

﹃獄 中へ の手 紙﹄ をめ ぐっ て

﹂に おい て︑ 佐多 が一 九六 三年 の﹁ 松川 事件 確定 の 後﹂ にお いて

︑百 合子 の正 当論 の限 界性 を指 摘し たこ とに 注目 して

︑戦 争協 力と いう

︿マ イナ スの 経験 をプ ラス に転 化し

﹀︑

︿百 合子 を越 える 地 平に 到達 して いっ たの では なか ろう か﹀ と述 べて いる

︒拙 稿は

︑そ れを

﹁﹁ 灰色 の午 後﹂ 執筆 時点 に見 てい る︒ 0 花田 清輝

﹁腹 話術 師と その 人形 佐

多稲 子論

﹂︵

﹃群 像﹄ 一九 六一 年 八月

︶ 1 澤地 久枝

﹁試 され る﹂

︵﹃ 新日 本文 学﹄ 二〇

〇四 年九

・一

〇月 合併 号︶ 佐多

稲子

﹁灰 色の 午後

﹂論

三一 三

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