『源氏物語』と『平家物語』の五節舞とその周辺
著者 武藤 美枝子
著者別名 MUTO Mieko
その他のタイトル Gosechi‑no‑mai in The Tale of Genji and in The Tale of the Heike together with other topics relating to the Gosechi event
ページ 1‑339
発行年 2019‑03‑24
学位授与番号 32675甲第446号
学位授与年月日 2019‑03‑24
学位名 博士(学術)
学位授与機関 法政大学 (Hosei University)
URL http://doi.org/10.15002/00021760
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博士学位論文
論文内容の要旨および審査結果の要旨
氏名 武藤 美枝子 学位の種類 博士(学術)
学位記番号 第686号
学位授与の日付 2019年 3月24日
学位授与の要件 本学学位規則第5条第1項(1)該当者(甲) 論文審査委員 主査 教授 スティーヴン・G・ネルソン
副査 教授 小秋元 段 副査 兼任講師 春名 宏昭
『源氏物語』と『平家物語』の五節舞とその周辺
1.はじめに
武藤美枝子氏提出の学位請求論文「『源氏物語』と『平家物語』の五節舞とその周辺」
は、同氏が法政大学大学院人文科学研究科(日本文学専攻国際日本学インスティテュー ト)博士後期課程に在学中の2008年から2017年まで(休学期間あり)の間に、特にポ ーランドにおける日本語教師のボランティア活動から2014年8月に帰国してから行っ た研究を書き上げたものである。休学前に発表した、平安時代や『源氏物語』の舞楽に 関する和文論文1篇と英文論文2篇(含査読付き論文1篇)とは主題的に異なるが、物 語世界における舞とそれを取り巻く環境の描写を、史実に照らし合わせて考証を行う方 法論は共通であるといえる。既発表論文で本論文と直接関わるのは『国際日本学論叢』
15号掲載の1篇のみである。
本研究の基本構成は、次に記すように、序章、第一部(2章)、第二部(3章)、第三 部(2章)、および終章から成る。
序章
(1)五節について (2)豊明節会 (3)五節舞を中心とした豊明節会の日程
(4)五節舞とはどんな舞だったのか (5)舞姫の現実
(6)舞姫献上者たちとその負担の大きさ (7)五節の終焉
第一部 『源氏物語』五節の舞姫の考証 第1章 少女巻の五節
はじめに
2 第1節 太政大臣光源氏の献上
(1)光源氏の舞姫は公卿分か殿上分か (2)大臣の献上とは 第2節 童女・下仕
第3節 舞姫
第4節 舞姫たちの宮仕
(1)宮仕 (2)尚侍と御匣殿の可能性 第5節 少女巻の舞姫献上者たちと政治的意図
(1)少女巻の舞姫献上者たち (2)その後の冷泉後宮から見た少女巻の献上者 おわりに
第2章 少女巻の夕霧と五節 はじめに
第1節 「殿上に還る」 夕霧はなぜ六位で昇殿できたのか
(1)蔵人の可能性 (2)蔵人所と昇殿 (3)その他の可能性 第2節 五節の参内に夕霧は何を着たのか
おわりに
第二部 『平家物語』と五節 第1章 忠盛の昇殿と五節 はじめに
第1節 忠盛の昇殿の悲願
(1)受領忠盛 (2)昇殿への長い道のり (3)昇殿の喜びを詠んだ忠盛の和 歌
(4)内裏昇殿への悲願 忠盛の舞姫献上
第2節 「殿上闇討」 忠盛の内裏昇殿と長承元年の五節
(1)得長寿院の寄進と見返り (2)闇討ちと背景 (3)「白薄様」
おわりに
第2章 仁安3年(1168年)の五節をめぐる解官劇 はじめに
第1節 内大臣源雅通と大納言藤原師長の解官事件
(1)事件の概要 (2)事件の終息と背景 第2節 平頼盛・保盛の場合
(1)事件の概要 (2)保盛の五節の献上 (3)頼盛の連座
(4)平頼盛について (5)保盛献上の五節 (6)保盛・頼盛解官の真の理由 おわりに
3 第3章 『平家物語』の時代の五節の献上者たち はじめに
第1節 献上者の負担の増大 舞姫の参入と童女御覧を巡る攻防 第2節 『平家物語』の時代の献上者たちの考察 元永元年〜寿永4年 第3節 『平家物語』の時代の舞姫献上者たちとは
(1)公卿 (2)受領 おわりに
第三部 五節と女性たち
第1章 五節舞姫を献上した女性たち はじめに
第1節 中宮穏子の舞姫献上 天慶元年(938年)
第2節 資子内親王の献上 天元元年(978年)
第3節 永延2年(988年)の「皇太后」の献上 第4節 永延元年(987年)の献上者 遵子 第5節 太皇太后昌子の献上 永祚元年(989年)
第6節 定子の舞姫献上 献上年の問題
第7節 中宮彰子の献上 長保2年(1000年)
第8節 寛仁2年(1018年)の一品宮の献上 敦康親王か脩子内親王か おわりに
第2章 五節の忌と女性たち はじめに
第1節 妊婦 第2節 月事 おわりに 終章 補注
【補注1】第一部 第1章 中納言の娘が女御となった例 【補注2】第一部 第2章 夕霧と大学について
【補注3】第二部 第3章 『平家物語』の時代の舞姫たち 【補注4】第三部 穢による五節の停止 延喜15年(915年)
【補注5】舞師の禄の内容
参考資料 舞姫献上者の負担──元暦元年の九条家の例 別表 『平家物語』の時代の五節献上者一覧
参考文献
以下、全体を「本論文」と呼ぶことにする。
4 2.本論文各部の概要と評価
毎年 11 月に行われていた新嘗祭(代始めは大嘗祭)の最終日に、天皇は群臣に宴を 賜った。この宴、 豊 明とよのあかり節会では 4 人(大嘗祭は 5 人)の少女が五節舞ごせちのまいを舞ったので、
少女を五節の舞姫、また宴会行事そのものを五節と呼んだ。本論文は、文学作品に現れ た五節とそれを取り巻く環境の描写を、史実との整合性を確認しつつ、考証を行う試み となっている。対象は『源氏物語』と『平家物語』の描く時代(平安中期〜院政期)で ある。なお、五節の執行に、舞姫を始め多くの人々が関わっていたが、本論文は舞姫と いうよりもむしろ五節の舞姫を献上した人々に焦点が当てられている。舞姫献上を取り 巻く状況、特にその政治的・経済的側面は、時代とともに移り変わっていくので、以下 の概要・評価の理解のために、まずはその変遷について触れておく。
五節の舞姫を献上する人々にとって、その経済的負担はたいへん重いものであった。
10 世紀初頭の醍醐朝頃までは、舞姫が天皇と共寝して後宮に入り、キサキ(后・妃)
となる道が開かれていたので、公卿たちは費用も顧みず、競って自身の娘を舞姫として 差し出した。しかし、時代が下り舞姫の後宮入りがなくなると、公卿たちは舞姫献上を 回避するようになり、舞姫調達は難しくなっていった。そこで、昇進の代償として、新 たに参議あるいは中納言に任じられた者が舞姫献上を命じられるようになり、また、稀 にではあるが、公卿からの献上の不足を補うために、后の位にある女性が舞姫を献上す る例もあった。また、平家興亡の平安院政期(12 世紀)に至って、五節舞姫献上のう ちの2名分は、知行国からの収益で富を蓄えた受領ずりよう(諸国の長官)に割り当てられるよ うになり、その場合、新任者よりも一層の蓄財が見込まれる重任や遷任した者に命じら れることが多かった。なお、こうした舞姫献上に関わる政治的・経済的状況の変遷は先 行研究(服藤早苗 2015 『平安王朝の五節舞姫・童女』等)ですでに明らかにされてい るところも多いが、本論文はそれを確認するとともに、限定した範囲ではあるが、細部 において徹底的な考証を行っている。
以下、本論文の各章の概要とその評価について述べていく。概要に関しては、逐一明 示しないが、本論文とその要旨から適宜引用する。
序章
・概要
序章では、まず五節の舞姫献上に関わる先行研究を概観し、本論文の主たる目的を述 べる。次に五節、豊明節会、新嘗祭・大嘗祭の日程、舞の実態と舞姫たちの過酷な現実 を紹介し、元暦元年(1184 年)に九条兼実の嫡男、良通が舞姫献上をした際の詳細な 記録(『玉葉』)に触れながら献上者の経済的な負担の大きさを示す。最後に朝廷の年中 行事の衰退に伴って15世紀を境に五節が行われなくなったことを述べる。
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・評価
本論文の理解に必要な事柄について簡潔に述べている。なお、18 世紀以降に復興さ れ、現在でも行われている五節舞にはほとんど言及しないが、本論文の目的からすれば 差し支えないものと考える。
第一部 『源氏物語』五節の舞姫の考証 第1章 少女巻の五節
・概要
『源氏物語』に登場する五節を概観した後、第1節「太政大臣光源氏の献上」では少 女巻に描かれる、33 歳の光源氏の舞姫献上を取り上げる。藤原実資が実子でない舞姫 を献上した実例(『小右記』)と比較し、光源氏の舞姫献上(舞姫は源氏の乳母子、惟光 の娘)が公卿分の献上であり、また太政大臣昇任ゆえの献上ではなかったかと推測する。
第2節「童女・下仕」では、舞姫に随行する童女・下 仕しもつかえなどの選定、衣裳などの準備 に光源氏が余裕で対処していることが、史実とはかなり対照的であり、物語上の演出で あろうと指摘する。第3節「舞姫」では、藤原実資などの舞姫献上の実例を参考に、惟 光娘の舞の教習や内裏参入の様子について述べる。
第4節「舞姫たちの宮仕」では、特に盛大に行われる五節については『紫式部日記』
の寛弘 5 年(1008 年)の五節に関わる描写にヒントがあるとしつつ、少女巻の五節で は、例外的にすべての舞姫が宮仕することになる特別なものであったことについて考察 し、作者が過去の舞姫たちの後宮入りの事例を利用していることを示す。冷泉後宮の状 況を概観し、舞姫たちが帝の妻妾となる可能性、あるいはそうでなくても上臈女官の役 職(尚司・御匣殿)を得て宮中出仕をする可能性について、史実に関わる先行研究を参 考にしながら考証する。
第5節「少女巻の舞姫献上者たちと政治的意図」では、光源氏以外の舞姫献上者、す なわち按察大納言、左衛門督、および源氏の腹心良清、並びにそれぞれの娘たちについ て、想定された人物像を具体的に論じる。10世紀中頃から11世紀初頭の補任記録を調 査した結果、按察大納言は正三位以上、左衛門督は任官時の本官が(権)中納言で従三 位以上が当時の原則であり、したがって舞姫となる娘が冷泉帝の第一皇子となる男子を 産めば外戚として権力の座に着く可能性が十分にあること、また、史実においても、「物 語の事実」(光源氏の娘、明石女御の例)においても、少女巻の按察大納言の場合のよ うに娘が外腹(劣り腹)であってもキサキ候補になり得ることを論証する。良清の舞姫 献上については、見返りとして参議(公卿)への昇進の可能性を論じるが、少女巻以降、
良清の消息は語られることはないので、推測の域を出ない。
第1章全体の結論は次の通り。少女巻の舞姫献上は、過去の舞姫たちの後宮入りの事 象を利用して、秘密の息子冷泉帝の子孫繁栄と、元服したばかりの嫡子夕霧の将来を安
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泰なものとするべく、用意周到に仕組まれた光源氏の計略であり、按察大納言と左衛門 督の野心を利用して、冷泉帝には子孫繁栄をもたらすと同時に、嫡子夕霧にとって最大 の対抗勢力となりうる内大臣への権力集中を抑えるという、光源氏の政界構想が読み取 れるものであるとする。一方、光源氏の舞姫として二条院に来させることにより、惟光 娘と夕霧との出会いの場が用意される。要するに、五節は少女巻で、『源氏物語』の政 治背景に奥行きを与えるとともに、物語の展開になくてはならない演出として巧妙に利 用されている、と結ぶ。
・評価
『源氏物語』少女巻の五節舞姫献上に政治的な意味を読み取っていることに、本論文 の最も大きな意義があると思われる。諸制度への理解、記録の精査に加えて、必要な時 には本文の問題や写本間の異同の問題にも十分な配慮が払われており、説得力がある。
なお、左衛門督が「その人ならぬ」舞姫を奉って咎めがあったという表現が本文にあ るが、「その人ならぬ」の解釈には定説がない。公卿たちが外戚の地位を狙って冷泉後 宮に入れようとする舞姫の年齢が例年より高いことも述べられているので、本論文では、
当時の女性読者がこの表現から想像するであろう事態として、月事という推測をしてい るところに着眼点の独自性を感じる。
第2章 少女巻の夕霧と五節
・概要
第1節「「殿上に還る」 夕霧はなぜ六位で昇殿できたのか」では、少女巻における光 源氏の息子、夕霧を取り上げる。この年の春、12 歳で元服して六位に叙せられた夕霧 は、六位の着る浅葱あ さ ぎの袍ほうを嫌って参内することを避けるが、五節の際には特別に直衣の う しな どでの参内が許され、夕霧が喜んで宮中を歩き回る様子が描かれる。夕霧は元服後「殿 上に還」ったという表現が本文にあり、昇殿が許されたことが明示されているが、六位 は本来、昇殿は許されない。例外には六位蔵人があるが、蔵人は青色の袍が着用できる ので、浅葱色を着なければならないことはない。そこで『蔵人補任』の記録、『枕草子』
などの記述を検討し、他の可能性(蔵人所の雑色・所衆、侍従、内舎人)を探り、夕霧 の官職は断定し難いものの、大学での勉学と両立しやすい点で非蔵人の身分で昇殿した と結論付ける。第2節「五節の参内に夕霧は何を着たのか」では、夕霧が無文の青色の 袍に洒落た下 襲したがさねを着けて参内したと推測する。
・評価
夕霧が六位で昇殿できた理由について、古注釈でも現行の刊本でもこれまでほとんど 不問に付された問題であるが、わずかに示されている、「蔵人に任ぜられたうえで、昇 殿を許されたのであろうか」という玉上(1965)の見解を否定し、多くの可能性を探っ た上に独自の説を導き出していることを高く評価したい。また、『源氏物語』が書かれ た時代でも、古注釈の多くが書かれた中世でも、つまり蔵人所がまだ機能していた時代
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に、夕霧が六位で「殿上に還った」という表現に何の説明も注釈も必要なかった、とい う指摘も、消えてしまった常識を知る必要性を示す意味で示唆的である。
第二部 『平家物語』と五節 第1章 忠盛の昇進と五節
・概要
平家が歴史の表舞台に登場し、そして消えていった12世紀、五節舞は諒闇による停 止を除けばほぼ毎年行われた。『平家物語』には、あたかも平家の栄枯盛衰を象徴する ように、巻第一の冒頭近く、忠盛が内昇殿を許されて初めて迎えた五節での出来事が描 かれ(「殿上闇討」)、また巻第五の末尾近く、清盛の主張によって異例の形で福原で行 われた治承4年(1180年)の五節が描かれる(「五節之沙汰」)。第1章では、忠盛の昇 殿(まずは院昇殿、次は内昇殿)への願望と関わりの深い2回の五節を取り上げて考証 を行っている。すなわち天治元年(1124年)、忠盛が舞姫を献上して昇殿を望んだが叶 えられなかった五節と、「殿上闇討」の舞台となった長承元年(1132年)の五節とであ る。(後者は『平家物語』諸本の多くではその前年のこととされている)。
第1節「忠盛の昇殿の悲願」では、まず、忠盛の国司歴を記録類で概観し、永久5年
(1117年)以降途切れることなく国守を歴任していたこと、そして忠盛が備前守だった 時に鳥羽院に得長寿院の造進の成 功じようごうによって内昇殿とともに但馬守への遷任.......
を得たと
「殿上闇討」が語るのが、忠盛の父正盛が一時期但馬守であった事実との混同・創作で あろうことを示す。次に、忠盛が昇殿の喜びを詠んだ和歌、「うれしとも中中なればい はし水 神ぞしるらんおもふこころは」(『玉葉和歌集』)について、先行研究に揺れが見 られるものの、忠盛の石清水臨時祭での舞人としての記録等を精査して、これが保安元 年(1120 年)の、院(白河院)への昇殿の喜びを表したものである可能性が高いとす る。天治元年(1124 年)、忠盛が舞姫を献上しても昇殿が叶わなかった件については、
同時代に舞姫献上が昇殿に繋がった例を検証し、忠盛の失望が特に大きかったであろう 理由を明らかにするとともに、昇殿を望んだ和歌2首(『忠盛集』)および失望の和歌(『金 葉和歌集』)や、『今鏡』が伝える説話に関連付けてその背景を探る。
第2節「「殿上闇討」 忠盛の内裏昇殿と長承元年の五節」では、得長寿院の造進の見 返りとして忠盛が漸く内昇殿を得たことを取り上げる。忠盛の昇殿への殿上人の風当た りは強く、五節の淵酔えんずいで忠盛に恥辱を加えようとの策略がめぐらされたが、忠盛は転機 によりそれを切り抜け、かえって鳥羽院に褒められる結果となった、と『平家物語』「殿 上闇討」は語る。これについて、当時の貴族日記などにそうした企ての存在が確認でき ないのは当然であるとしながらも、「殿上闇討」に語られる諸要素──忠盛がちらっと 見せる刀、忠盛と郎等家貞つまり武家の主従の絆、五節の淵酔で歌われる今様「白薄様」、 忠盛が揶揄される歌「伊勢平氏はすがめなりけり」など──について、先行研究に批判
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を加えながら考証する。その結果、「殿上闇討」そのものが、『平家物語』が生成されて いく13世紀当時の五節の淵酔の芸能を取り込む形で、語りの場で聴衆を惹き付ける物 語として創作されたものであると結論付ける。
・評価
興味深い論が展開されている。忠盛の帯剣の件に関して、武官の装束(武官束帯)で あれば問題にならなかったはずだという指摘には、装束の諸制度に関する知識が活かさ れている。また「白薄様」について、西川(2002)への批判が当を得ていると思われる。
他の先行研究にもある指摘だが、「白薄様」の五節での始まりについて史実に辿り着き たいのであれば、13 世紀以降の説話的な逸話よりも同時代の一次史料で論ずべきもの である。
第2章 仁安3年(1168年)の五節をめぐる解官劇
・概要
華やかなイベントである五節も時として政治抗争に利用された。仁安3年(1168年、
高倉天皇の大嘗祭)の五節では、左右大将と平頼盛・保盛父子が解官される事件があっ た。第1節「内大臣源雅通と大納言藤原師長の解官事件」では、当時蔵人頭であった平 信範が『兵範記』に残した記録を起点に、内大臣・右大将の源雅通と大納言・左大将の 藤原師長が、関白基房の五節の帳台試へ ちようだいのこころみ
の臨席の随行を忌避したために官を解かれた 事件を検証する。基房の関白の権威への挑戦として基房を立腹させたが、結局、雅通も 師長もわずかひと月もたたないうちに復任した。第2節「平頼盛・保盛の場合」では、
これとは全く様相を異にする同年の五節の頼盛・保盛父子の解任を詳しく考証する。こ の解任は第一に五節の不参が後白河の怒りに触れたためとされ、すべての官職から一年 にわたる追放となった。しかし、保盛はこの年の舞姫献上者であり、多くの献上者たち からは敬遠される舞姫参入の儀礼も童女御覧も勤めており、保盛の舞姫も最後の豊明節 会の舞まで役目を完遂しているので、頼盛保盛父子に格別の失態は見当たらない。つま り解官された側に落ち度があったわけではなく、事件は頼盛の知行国尾張を奪還して近 臣に与えようとした後白河院の策謀であったのではないか、と推測する。
・評価
仁安3年(1168年)の五節の話は『平家物語』にはなく、この章は本論文題目の「と その周辺」に含まれる話題といえよう。しかし、『平家物語』でも描かれるように、平 家において特異な立場にいた頼盛を理解するのに役立つ。
第3章 『平家物語』の時代の五節の献上者たち
・概要
平家興亡の時代の舞姫献上者たちを調査し、先行研究の不備を補い、献上者たちの『平 家物語』との関わりについて考証を行う。その前提として、第1節「献上者の負担の増 大 舞姫の参入と童女御覧を巡る攻防」では、すでに序章で触れた、元暦元年(1184
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年)九条兼実の嫡男、良通が舞姫献上をした際の詳細な記録(『玉葉』)を再び取り上げ、
一の谷の合戦で平家が大敗した後の政情不定な宮廷での五節献上の顛末を、装束の調達 など経済的な負担を中心に紹介する。第2節「『平家物語』の時代の献上者たちの考察 元永元年〜寿永4年」は、1118年から1185年までの詳細な考察となっており、また本 論文末尾の別表「『平家物語』の時代の五節献上者一覧」に基本データが典拠史料名と ともに示されている。第3節「『平家物語』の時代の舞姫献上者たちとは」では調査の 結果をまとめている。すなわち、公卿分は平安中期から続く傾向で、まず新参議、新中 納言に任じられるのが通例であり、一方、受領分は新任者よりも一層の蓄財が見込まれ る重任や遷任した者に命じられることが多いことを示す。
・評価
大部に及ぶ献上者の考察部分には、『平家物語』を読む上でも有用な情報が多く、ま た献上者たちの変化を眺めるだけでも政治情勢の変遷がイメージできて興味深い。例を 1 つ挙げるとすると、平家の隆盛期にある仁安元年(1166 年)の大嘗会の五節では、5 人の舞姫のうち3人までを清盛の子息たち(重盛、宗盛、知盛)が献上し、平家の財力・
権力を誇示する有様が想像される。なお、服藤 2015『平安王朝の五節舞姫・童女』巻 末に919年〜1186年の五節舞姫献上者一覧があるが、本論文掲載の1118年〜1185年分 と照らし合わせてみると、服藤作成の一覧で訂正・補記が必要な個所は30ほどに登る。
服藤作成の一覧の全面的な見直しが必要になったといえよう。
第三部 五節と女性たち
第1章 五節舞姫を献上した女性たち
・概要
記録に残る女性の舞姫献上者は8名で、当代の妻后、内裏に君臨した母后、内裏外で 暮らす太皇太后、そして准后内親王たちと、立場は色々だったが、全員が「后」の位に あった。男性官人たちにとっては、舞姫献上は自身の官人人生において必要不可欠であ ったが、后たちは昇進とは無関係である。女性の舞姫献上は、息子の治世の安泰を願う 母の献上であったり(中宮穏子)、中宮の威厳を誇示するかのような幼い少女の献上で あったり(中宮彰子)、それぞれが置かれた立場を取り巻く時代の要請を受容して献上 を担ったといえよう。各例の検証の結果、先行研究で皇太后遵子とされていた永延2年
(988年)の献上者は詮子であり、遵子は前年(987年)に中宮として献上していたとし、
正暦4年(993年)のこととされる『枕草子』の中宮定子の献上は翌正暦5年(994年)
のことであった可能性が大きく、また寛仁2年(1018)年の献上者である「一品宮」は、
一次史料における呼称の徹底的な調査により、敦康親王(男性)ではなく、脩子内親王
(女性)であったと結論付ける。
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・評価
調査の範囲が広く、各種の史料、当時の文学作品に関して蓄えてきた豊富な知識を総 動員して考察を行っている。先行研究で揺れのある場合は、概ね少数意見を支持する結 果となったのが興味深い。特筆するべきものとして、『栄花物語』における1 年ほどの 年号のずれの存在(遵子の献上)、前田本『枕草子』の注記への無批判な態度で定説が 形成されている危うさ(中宮定子の献上)、翻刻や読み下しの誤りで史実が不明瞭にな る例(中宮彰子の献上)の指摘が挙げられる。
第2章 五節の忌と女性たち
・概要
本来神事である五節は、服喪中の者、何らかの穢に触れた者の参加は不可能だった。
懐妊中の后も宮中を退出し、月事の女性は曹司に下がった。五節の舞姫たちも、おそら く月事の心配を避けるために、低年齢化が進んだと考えられる。『枕草子』が伝える中 宮定子の舞姫も数えで12歳であった。
・評価
女性だからこそ敏感に読み取ることができる話題を提供し、科学的な検討も含めて考 証している。欲をいえば本論文第一部第1章第5節で取り扱った「その人ならぬ」舞姫 の問題を再度取り上げ、論じ切る姿勢がほしかった。
補注
各章で論じ切れなかったことや、周辺的な事柄に関する付論を 5 つ提供している。
3.本論文に対する総合的評価
以上、各章の評価の項で述べてきたように、本論文の目立った特徴は関係諸史料・文 学作品に、調査が広範囲に及んでいることである。参照している史料・文学作品は多数 であり、また先行研究への批判は当を得ている場合が多く、全編を通してさまざまな個 所に、先行研究の誤りや見過ごしを正す重要な指摘があるので、速やかに公開すること に大きな意義があると思われる。
本論文執筆者の基本姿勢は、歴史を踏まえて物語を読むことである。物語の成立当時 の、本来の「読み」に近づくために、平安時代の文化・制度・政治・慣習を理解し、物 語の現実感覚を多面的に捉えようとしている。この方法を用いることにより、恋愛をテ ーマとした長編の作り物語と考えられがちな『源氏物語』の一場面に、登場人物の大き な政治的意図を読み取ることができ、またそれが如何に歴史に則った内容になっている かの証明に成功している。一方、軍記物語として概ね歴史を語るものと一般的に認識さ れている『平家物語』の一場面が、語りの場で聴衆を惹き付けるために、史実が如何に 創造的に作り直されているかを証明することもできている。こうしたところを高く評価
11 したい。
ところで、本論文が『源氏物語』を論じる際、「准拠」や「引用」という表現を意図 的に避けているようである。例えば、少女巻の五節舞姫献上者の一人、左衛門督につい て、「紫式部の脳裏に寛弘年間の当時の左衛門督の[藤原]公任のイメージがあっても 不思議はない」と述べており、『源氏物語』研究でよく目にする「准拠」や「モデル」
といった表現を使用していない。
少女巻では、五節の翌年の春(「二月の二十日あまり」)、冷泉帝の朱雀院への行幸が あり、擬文章生の夕霧に「放島の試み」(いわば参考資料持ち込み不可の漢詩作成試験)
が行われる。この「放島の試み」が本論文の数個所で言及されているのだが、同日の行 幸の音楽演奏場面の本文が、自由な創作を加えながらも、醍醐天皇第四皇子、式部卿源 重明の日記『吏部王記』の天暦2年(948年)3月9日の記事を引用していることには、
本論文は触れない。この引用の存在は、古注釈『河海抄』(1360年成立)等にすでに指 摘されており、また同様に「放島の試み」そのものが康保3年(965年)10月23日の、
村上天皇が朱雀院に行幸し、文人に漢詩を作らせて、池頭で擬文章生を試みた史実に基 づいているであろうことも古くから指摘されている。歴史を踏まえて物語を読むのであ れば、もう一つの重要な側面として、准拠や引用と、古注釈なども含めて、それらを研 究してきた膨大な研究成果とを受け止める努力も必要ではないか。少なくとも作者の創 作方法を明らかにするためには必要な作業であると考える。
『平家物語』の扱いに関しては、諸本の考察がやや不十分に思われる。語り本の代表、
覚一本の他に、延慶本や『源平盛衰記』を部分的に検討しているが、これで十分である か、疑問が残る。また、一歩引いて、五節舞姫献上が大きな文化史・政治史的な流れを どう映しているかを考えてもよかったかもしれない。平安院政期になり、収入の原資が 限られていた公卿に対して、経済的な力を持った受領層が台頭し、政治の中枢へと新出 することが五節献上者の変遷からも読み取れるが、これがどんな意味を持つか。
上記の通り、本論文の調査は広範囲に及んでいるが、特に問題にならない限り写本等 を用いていない。主な調査対象がデータベース、編纂物、活字化された史料・作品であ ることから、さまざまな事象に関して網羅していない可能性があり、また使っている翻 刻、読み下し、活字本等の信憑性も問題にならないとも限らない。しかし、調査の範囲 の広さからして、実際問題として許容範囲と判断するほかない。
なお、本論文に誤字・脱字・表現の不統一が少々残っているが、これも許容範囲と判 断する。学位論文公開に向けて、適宜修正を求める。誤写等の可能性を示す崩し字の例
(脚注に挙げた写真)は、指導教員の忠告にもかかわらず、判読できる大きさになって いないのが残念である。
12 4.審査小委員会の結論
審査小委員会は、武藤美枝子氏提出学位申請論文「『源氏物語』と『平家物語』の五 節舞とその周辺」を、上記のように評価し、本論文提出者が博士(学術)の学位を授与 されるに十分な資格を有するとの結論に達した。
以上