Eyes from the Void―Soseki In London
SHIBATA Shoji
Natsume Soseki went to England in 1900 and stayed in London until the end of 1902 with the intention of studying English literature. As is well known, Soseki’s life in London was not comfortable. Commodity prices, including tuition fees, there were far higher than in Japan, and English literature was not treated as an established academic field in English universities at that time. Therefore, Soseki could not find a proper college for his study and was forced to receive private lessons from Mr. Craig, a Shakespearean scholar. However, Craig’s method of teaching English literature was so arbitrary that Soseki was unable to assimilate it. Moreover, as Darwinism was predominant during this period, it was common for Asians like Soseki to be viewed with discriminatory eyes.
In such an environment, Soseki was forced to rethink his ideas of “Japan” and “Japanese.” A conspicuous tendency in Soseki’s works is the frequent references to allegorical Japanese figures in the description of protagonists. This tendency may be traced to Soseki’s experiences in London. Through life in this city, Soseki recognized that the Western world was largely unaware of Japan; as a result, he developed the strong conviction that Japan must become a modern and civilized country.
What was ironic is that Soseki recognized the absence of cultural accumulation of “Japan”
through his attempts to understand Japanese culture. Soseki’s unfamiliarity with Japanese culture was a result of the fact that his literary grounding had been formed mainly by assimilating Chinese classical literature rather than Japanese classics. This factor contributed to Soseki’s mental instability. However, Soseki’s experiences in London led him to turn a critical eye on Japan as an Eastern country, and this became the starting point of his creative activity upon returning to Japan.
が踏まえ
られ て い るだけ
で なく
、 そ こで 言及され
て い る在原行
平
( 業 平 の兄
) の 和歌 が 取り 込 まれて
い ること
が 見 出 さ れ
、 漱 石 の
『 源 氏』
理解 の深 さが う か が わ れ る と い う。
また 学 生 時 代 の 作 文
「 対 月 有感
」 で は
、
「桐壺
」 の巻 の一文が
その まま引用さ
れ て お り
、 や は り
『 源氏
』 へ の親 しみが
明 ら か で あると
され る。
( 5
) 東 北大 学図書館所蔵の
漱 石の 蔵書
「漱石文庫
」 中の 日本の
物 語関係
の 和 書として
は
、
『 源氏物
語』
『 雨 月物語』
及び 北 村 季 吟 に よ る
『 伊 勢 物 語 拾 穂 抄』
と世雄房日
性 による
『 太平記鈔
附音 義』
が見 られ る の みで あ る
。 な お こ れ ら の 内明 治二 六 年
(一 八 九 三
) 刊 行 の
『 雨月 物語
』 以 外 は いずれ
も 江 戸 時 代 に出 され た刊 本 で あ る
。
(6
) 澤吉博 大
「 夏 目漱石
『 心
』 における非日
常性
――その構造と文体」
(東 京大 学『比較
文学研
究
』八〇
号
、 二
〇〇二・
九)
。
(7
) h t t p : / / e n . w i k i p e d i a . o r g / w i k i / H u m a n _ h e i g h t によ る。
(8
) H・ス ペ ン サ ー『
社 会 学 之 原 理
』
( 乗 竹 孝 太 郎 訳・
外 山 正 一 閲
、 経 済 雑 誌社、
一 八 八 五
、 原著 は一 八七 六~九
六
)
。 ス ペ ンサ ーは アフリ
カ
、 ア ジア、
オ ー ス トラリア
な ど の 原 住民を
「 下 等 人 種
」 な いし
「原 始人
」 と 見な し
、 彼らの
「 性質ト開明人
種 ノ 小 児 ノ性質ト
ハ極メテ
相 類 似セルモ ノ」
で あ るとして
い る
。 ま た こ う し た
「 野蛮人
」 の精神作用
は
、 事 物 の 個別性
を 超え る こ とがで
きず
、 対象 の 分析から
未 来 へ の展望
へ と 至 る
「概括
的 ノ 思 想
」 をも つこ とがで
き な い と し て い る。
(9
) 富山太 佳 夫
『 ポパイの影に
』(
前出
)に よる。
(
10)小 森 陽 一
『 漱 石 を 読 み な お す
』
( ち く ま 新 書
、 一 九 九 五
)
。
(
11)
『 スタンダード
』 紙 の記 事については
、
『 漱石全集
』 第 十二巻
( 岩 波 書
店、
一 九 九 四
) の 清水 純孝・
桶 谷秀昭
に よる
「 注 解
」 における
引用を
参 照させ
て い た だ い た。
なお 訳文 は 拙 訳 に よ る
。
(
12) ボ ー ア 戦 争 に つ い て は岡 倉登 志『 ボ ー ア戦 争』
(山 川出 版社
、二
〇〇三
)、
『イ ギリス史
3
』
(前 出)
、
『 近代 イギ リス 史』
(前 出)
な ど を 参 照 し た。
(
13)毛利健
三
『 自由 貿 易 帝 国 主 義
』
( 東 京 大 学 出 版 会
、 一 九 七 八
)に よる
。
(
14)義和
団 事変 につ い て は 斎 藤 聖 二
『 北 清 事変 と 日 本 軍
』
( 芙 蓉 書房出版
、 二〇
〇六)
、小 林 一美
『 義 和 団 戦争 と明治
国 家』
(汲古
書 院
、一九八六)
、 三石善吉
『 中 国
、 一九
〇〇 年
―
―義 和 団 運 動 の光 芒』
(中 公新書、
一九 九六)な
ど を 参 照 した
。
(
15七でのもたれさ載掲に号日八一月年)こ〇〇九一誌』チンパ『は画戯のあ る。
同 誌 と 東 田 雅博
『 関係 のな かの中
国 と 日 本――
ヴィク
ト リ ア期のオ リエ ント幻想』(
山 川 出 版 社、一
九 九 八
)を 参 照 し た
。
てお り、
そ れ を 埋 め る ものが イ ン ド からの 約 六 千 万ポ ン ド をは じ めとす る植 民 地経営 に よ る 黒 字 で あ っ た
(
13)
。世界に冠たる「大
英帝国
」 の 経 済的な 基 盤 が
、植民 地 経 営 に依存 す る危 ういも の で ある こ と を 漱 石は見 抜 いて いたので
あ る
。また
「 天 子 蒙塵の 辱 を 受 け つ ゝ ある」と
記さ れ る よ う に、
義和団 鎮 圧後 の中国
( 清)
は 各国兵 士 に よ る北京で
の す さまじ い 略 奪
・ 陵 辱 行 為 が つづ いた上 に、
列強間 で の国土の分割が
企図さ れて い た
。義和団の抵
抗の持 続 や 各 国 間 の 利害の 対 立 な どのた め に
、 結局 分 割 領有 には至 ら な かっ たものの、
こ の 年 の九月に
締結された北京議定書
によっ て 中 国 は 四億 五 千 万両 とい う巨額 の 賠償 金 を 課 せ られ、また
北 京 や 天 津で の 外 国 の 駐 兵 が 認 め ら れ る こ と で
、 独 立 権 を 事 実 上 喪 失 し
、 列強の 植民 地 に近い状
態 に 置かれ る こ と になった
(
14)
。
二〇世紀を
迎 えた ロンド ンにおける漱
石 の眼 差しは
、 こ う し た 世界 の情勢を
的 確 に捉 え て い た
。 そ の状況は、東洋の片隅
に置か れて いた 日 本 が、西 洋 の 列 強諸国 と 同 一 の地平で
行 動 しうる 段 階 に 進 みつ つある こ とを 感じ取 ら せ たはず で あ る
。とくに
イ ギ リ ス は極東で
の ロ シアの 勢 力 拡 張に 歯 止 めがかけられ
る 唯 一の国 と し て、
日本 への 信 任 を高 め ざ る を えな かっ た
。 当 時 のイ ギ リ スの 戯 画にお い て も
、陸 軍 中 佐(
当時)柴
五郎 が連合 国 軍 を 束ねる 中 心 的な役 割 を 果 た し た 義 和 団 事件の 際に は
、従 来の ひ 弱で 矮 小 な サ ム ラ イのイメ
ー ジ とは異なる、
西洋人の先頭に立つ日
本サムライ の イ メー ジが描 か れた りし てい る
(
15)
。に
も か か わ ら ず ロ ン ド ン で暮 らす 漱石に は
、日本人の存在は
小さな も のとしか思
わ れず、
自 国 が文 明国家 と し て発展し
つ つあ る こ と を 実感する
こと は で き な かった
。またそ
うし た感 覚 が
、一 層世 界 に おける日本
の 位置 づ けに 対 し て 漱 石 を 敏感にする
こ とになる。
こ の循環の
な か で
、 漱 石 の 作家 とし ての 意識 せざる 基 底が 培 われ て いっ たの であ る
。
〔註〕
(1
) 『イ ギリス近代史』
( 村 岡 健次
・川 北稔編
、ミ ネルヴ
ァ書房
、一九八五)
、 世界歴史大
系『
イ ギリス史3
』
(村 岡健次・木
畑 洋一編、山川出版社、
一九九
一
) な ど に よる
。
(2
) 江 藤淳は『漱
石 と そ の 時 代』
(第二
部
、 新 潮選書
、 一 九 七〇
) で
、 ク レ イグを
「 どこに
も 属して
い ない 人物
」 と して 捉 え
、 そ の イ ギリ ス 人 社 会 にお け る 帰属度の
希 薄 さ に お い て
、 クレ イ グ が 漱 石 に 近似した位置
を 占 めて い た と い う 見 方 を 示 し て い る
。 ま た 出 口 保 夫 は
『 ロ ン ド ン の 夏 目 漱 石』
(河出書房
新 社、
一九 八 二
) で クレ イグが
そ の 一 員を なす
「ロ ン ド ンにおける
ア イ ル ラン ド人
」 が
、
「 一 種 の 被 圧 迫 民族 で あ っ て
、 文 化的 は誇 り高 い民 族 と し て の 自 尊 心 を持 ち な がら、
政 治
、 経 済 的 には劣
等 感 を い だく とい う、
曲折 した 感性の
持 主が多」
く、
その 点 で
「 彼 ら は 社会 的弱者
な ので あ る
」 と 述べて
い る。
(3
)
・ H ベ ル ク ソ ン
『 意識と
生 命』
(渡 辺義教
訳
、 中央 公 論社 世界 の 名著 5 3
『ベル
ク ソ ン
』一九六九、所収、
原 講 演 は 一 九一一)。
(4
) 島内 景二に
よ れ ば、
た と え ば漱 石 が 明治 二 九 年
( 一 八 九 六
) に 作 っ た俳
句「涼しさの闇を来るなり須磨の浦」は、『源氏物語』の「須磨」の巻
たオ ラ ン ダ 系 移 民 の ボ ー ア 人たち と
、 ア フリ カ 南 部 の 支配権 を め ぐっ て 衝 突 し た戦い で あり
、一八八〇
年 に 始ま っ た 第 一次 ボーア 戦 争 で は 翌年イ ギ リスはボー
ア 人に 敗 れ
、 彼 ら が 設 立し た トラ ン ス ヴ ァ ー ル 共 和国の 独 立を 承認 す ると い う結 末を 迎 え た。
第 二 次 ボーア戦争
は トランスヴ
ァ ール共 和 国 内 で 発 見 さ れ た 金の鉱脈を 目 指 し て 大量に押し寄せた
イ ギ リス人が、
ボ ーア人政府による
待 遇の 不平等 に 対する 不満を 募らせ た こ と が引き 金 と な っ て
、 一 八 九九年から
一 九〇二 年 にか け て 戦われ た
。十年を超
え る長期 間 に わたる戦
闘の 末にイギ
リス が 勝 利を得、トランスヴァー
ル 共 和 国 は、
ダ イ ヤ モ ンド鉱山
を も つ オ レ ン ジ 自 由国ととも
に 大英帝国に 併合 され るこ とにな っ た
。 し か し第 一 次 戦争で は 屈辱的な敗戦を
味 わわ され
、 第 二次戦争 でもボー
ア 軍 の攻 勢に 押されつ
づける時期
が ある など、
イ ギリ ス の威信 は 大き く損なわれ
た
。 また 金 や ダ イ ヤモ ンド と い っ た 資源 への欲 望 を 実 現させ る こ と を目的 と した 戦争に お いて
、非人 道 的 な 焦 土作戦や
強制収 容 所で の民間ボーア
人 へ の劣悪 な 待遇が お こ なわ れ た こ と な ど で
、 イ ギ リ ス は 国 際 的 な 批 判 を 受 け るこ と に な った
(
12)
。そしてこの戦争に兵力を割くために、義和団鎮圧のた
めの北 京へ の 派兵が 困 難 と なり
、 満 州で 勢力を 拡 げ つ つある ロ シ ア を 抑えるた
めに も 日本との連携
が 不可欠とな
っ た。この状況下 でイ ギ リ スは従 来 の「
栄 光 あ る 孤立
」政策 を 捨 て て 一 九
〇 二年 に 日英 同 盟 に踏み切
らざるを
えなく な るが
、 こ うし た 世 界 を支配し た帝国 と し て の威信 が 揺 ら ぎつつ あ った 時代に
、 漱 石 はその 首 都
で日 々を送っ
てい たの で あ る
。 漱石は明治三
三年(一九〇
〇)一
〇 月二八 日 に ド ーヴァー海
峡 を渡っ て ロ ン ドンに到着
し た際に
、 南 ア フ リ カから 帰 還し て くる 兵士 たちを歓迎
す る群衆に遭遇し、
その様 子 を 一
〇日二九
日の
「日 記
」 に「
倫敦市中
ニ歩 行 ス 方 角 モ何 モ分 ラズ 且南 阿ヨ リ帰 ル義 勇 兵歓迎ノ為
メ 非 常 ノ 雑 沓ニ テ困却セリ
」 と記して
い る
。前月 に ト ランス ヴ ァ ー ル共和国の
首 都 プ レ ト リ ア が 陥 落 し
、イギ リ ス の 優 勢が決 定 的 に なっ て い た た めに、兵士たちの帰還は熱
狂的な 出 迎 えを 受 け た の で あ る
。 漱 石 は雑踏 の 意 味 を認 識 しな が らも
、こ の 時点で はま だ
「義勇 兵
」 を 送った イ ギリ スの事情を
十 分には 掴ん でい な か っ た と 思 われるが、
翌 年 四 月に 書 か れた『
倫 敦 消 息』
で は、
世 界 の情 勢に対 し て 次のような
冷 静 な 観察 が 末尾に記されて いる。
魯西 亜 と 日 本 は争 は ん と し て は 争 は ん と しつ ゝ あ る。
支那 は 天子蒙塵の辱を受けつ
ゝ あ る。
英国はトランスヴ
ハールの
金 剛 石を掘 り 出 し て軍 費 の 穴 を 填めん と し つ ゝ ある。
イ ギ リ ス の 南 ア フ リ カ と の 貿 易 額 は そ の 後 の 展 開 に お い て も
「軍 費 の 穴 を 填 め
」 る ほ ど には到 底 至 ら なか っ た が
、 一九世 紀 か ら二〇世紀
に かけ て
、 イギリスが
本 国 の 貿易 赤 字 を 植 民地経営
に よ っ て補 っ て い た こと は 事 実 で あ る
。 二
〇 世 紀初 頭 に お い ては イ ギリ ス の 貿 易 収 支 は 一億 五 千 万 ポ ン ド を 超え る 膨 大 な 赤 字 に 陥 っ
に 満 州の占領
を企 て
、 一九〇
〇 年一
〇月に は そ れ を達成し
た。
こ れ以 降日本は日清
戦争 以 来 の朝 鮮をめぐる
交 渉だ け で な く
、満州 での動向に対し
て 神経 を 注 ぎつつロシアと
渡 り合う こ とになる
。 日 露 戦争 に至る 前 段階 をなす こ うし た流れ を 背 景 とし て、
漱石 が 読んだ
『 ス タ ンダー ド
』紙 の「 満州 問題
」の 論評 は書 かれて い る
。 実際の 経 緯とし て は 三 年後 の明治三七
年
(一九
〇 四
) 二月に 開 戦し た 日 露戦争は、主に旅順
、 奉天、遼陽、沙河といっ
た 清の地 域 を 舞台 とし て戦 われ、「魯
国 新聞
」の論評
の予 想とは 違 っ て 朝 鮮が 主たる戦場と
な る こ とは な か っ た
。 し かし このエッ
セイ で漱 石が、朝鮮
が 日露間の
軍 事 的衝突 に よ っ て
「 善 い 迷 惑
」を蒙らさ れ る と い う 見 通 し を 表 明 し て い る こ と は 見 逃 せ な い
。 漱 石 が 中 国
・ 朝 鮮 などア ジ ア諸 国に対 し て 侮 蔑的 であ っ た という 見 方は 根 強くあ る が
、 作品や 評 論
、 講演など
で の 表現を 見 る限 り、その評 価に逆 行 す る 形跡が多く見
出さ れ る
。こ こで も 漱石 は
「吾輩 は 先 第一に支那
事 件の処を読む
のだ
」 と 記 す ほどの強い関
心 を 義 和 団 事変収 束 後 の 清に抱 い て お り
、 さ ら に 日 本とロ シア と の 衝 突 に よ っ て 朝鮮が戦場となる
こ とを憂 慮 し て いる の で ある。
こう し た 関心 や憂 慮は も ち ろん 日本 とい う 自 国に も向 け ら れ て おり
、 明 治 三 四 年
( 一九
〇 一)一 月二 二 日のヴ ィ ク ト リ ア 女 王 の 逝去に遭
遇 し た 際に は
、 あ らた めて 日 本 の現状 と 行 く 末に思 い を 馳せる 記述 を 日記 で お こ な っ て い る
。 一 月二 五日の 項 には「
西 洋 人 ハ 日本 ノ進歩 ニ 驚ク 驚クハ 今 迄軽 蔑シ テ 居 ツタ 者ガ生 意 気 ナ コ トヲ シ タ リ 云 タリス ルノ デ 驚クナ リ 大 部 分ノ者 は 驚 キ モセネ バ 知
リモ セ ヌ ナリ 一 向
interest
ヲ以テ居
ラ ヌ 者多キナリ
」 といった、
イ ギリ ス 人 の 日 本への 無 関 心 ぶ り が 記 さ れ
、彼ら に む き にな って 日 本 を 知らしめよう
とするよりも
「黙ツテセツ
く
トヤルベシ」と いう、諦めの
言葉 で こ の 日 の記述 が 閉 じ られて い る。こ うした日 本の〈無名
〉 ぶりが
、『吾 輩は猫で
あ る
』 の「
名前 は ま だ無 い」
猫で あ る
「 吾 輩
」 の 輪 郭 に 投 げ 込 ま れ て い る こ と は 明 ら か で
、 こ こか らも こ の 作 品 にお ける〈
人 間―
猫〉の 位 階性 の寓意 が 知 ら れ る。また
二日 後の 一月 二七 日の 項に は「
夜下宿ノ
三 階 ニテツ ク
ぐ
日本 ノ前途ヲ考フ/日本ハ
真面目 ナ ラザ ルベカ ラ ズ日本人
ノ 眼ハヨリ
大ナ ラザル ベ カラ ズ
」
(
/は 行 換え)とい
う 戒め を お そ らくは 半 ば 自 分に 向 け て 書 き 付 けて いるの で ある
。 漱 石 が
「 日本 ノ 前 途 ヲ考
」 え て
、
「 日本 ハ 真 面 目 ナラ ザ ル ベ カ ラズ
」 と 日記 に 記 すように、
確 か に 当時の日本はロ
シ ア と の 緊 張 を高め て いく難し
い局面にあっ
た。
『倫 敦 消 息
』に 述 べ ら れた
「満 州 問 題
」は前 年 の秋から
持続し て いるもの
で あ り、新聞に
も たび た び 登場し て いる
。ま たこ の問 題はイギリスとも無縁
ではなく、
先に 触れた よ うに ロ シ アに対抗する
べく
、 日 本は日 英 同盟に至る イギリ ス と の 連携を 強 化 す る こ と に な る
。同 時 に日 本 との連 携 は イ ギ リス側から
の 要請 で も あ っ た。すな
わ ち イギ リスは 一 八九 九 年に南 ア フリ カ で 勃発 した 第二 次 ボー ア 戦争に 兵 力 を 注ぎ込ん
で いる状 況 に あ り、義 和 団 事 件の際 に も 十 分な数の兵を
北京に 送る こと が で き な かっ たの で ある
。 ボー ア戦 争 は イギリス
が 一 七世 紀頃 か ら ケー プ植 民 地 に入 植し
五 国際関
係 のな か の 日本 すなわち
、こ の「
尤も 不 愉 快」(『
文学論』「序
」
)な二 年余 のロンドン
生活 で 受 け 取り つ づ けた疎外
感と距離感
に よっ て
、 漱 石は自 己 を 相 対化しつつ現実を総体的
に 捉えるメタレ
ベルの眼差 しを 獲 得 す る に至 っ た と い え よ う
。 対 象 を 把握 す る 条 件 が 距 離 で ある 以上、なじみにく
さの感覚
によっ て 現 実 世 界 という生
活の環 境が観 察の 対 象へと変ず
る 経 験 を 漱 石 は したので
あ る
。 そ の 眼 差 しは 当 然
、 社 会 的
・ 政 治 的 な事象 に も 向 けられ る こ と になる。
ロ ン ド ンの 漱石は 現 地での見
聞に 加え て
、熱心 に新聞に眼
を 通し て
、 様々な 出 来 事 に感 応 し
、 そ れ ら を 通 して 日 本 の あり 方 に考え を め ぐら して い る
。
『 倫 敦消息』
はそ の 様 相を よく伝 え て い る文章で
ある。
病床にあ る正岡子規
に 宛 て た 体 裁を とっ て 書 かれ た こ の エ ッ セ イの冒 頭 で は
「 こちらへ来
て からどう云
ふ もの かい やに 人間 が真面 目 にな つ てね
。色 々な事 を 見た り聞た り する につけ て日本 の将来 と 云 ふ 問 題がしきり
に 頭 の 中に 起 る」と記さ
れ
、下宿 で の 日常 が叙 述 さ れ た後
、新 聞 で 気に なっ た記事 に つい て 紹介 さ れている。
西洋の新
聞 は 実にで が あ る
。始 から 仕舞ま で 残らず 読め ば 五六 時間はか
ゝ る だらう。
吾輩 は先第 一 に支那事件
の 処を 読 む の だ。
今日のには魯国新聞の
日本に対
する論評があ
る、
若し戦争を
せ ねば なら ん 時 には
、日 本へ 攻め 寄 せ るの は 得 策 で ない から 朝 鮮
で雌 雄 を 決 す る が よ か ら う と い ふ 主 意 で あ る
。 朝 鮮 こ そ 善 い 迷 惑だと思つた
。 引用 の前 に新聞の
名前 が 挙 げられて
い る よう に、漱 石 が こ こで 眼を 通 し て い るのは
『 ス タ ンダー ド
』 紙で あ り
、 こ こ で 扱 わ れ て いるの は その 一九〇 一 年四 月九日の記
事
「満州問題
」で あ る。
こ の記事 で はロ シ ア 側の意向
とし て
、 日 本が満州における
ロシア の 振舞に対して
不快を 募 ら せて 武 力 に 訴 え る事態 に な っ た場合
、 戦 闘が朝鮮半
島 におい て な さ れる こ と になるという
見通し が 示さ れ
、 そ の 戦闘におい
て こ そ
「「ア ジ アのイギリス」
〔 日本〕
と 我が 国
〔ロシ ア
〕の いずれ が 極 東 の最強 国 で あ るかが 決せ ら れ る で あ ろ う」
と 述 べ ら れて い る
(
11)
。
ここ で 論 評されて
いる「
支 那事件」
と は
、清が一
九世紀 後 半か ら西洋列強
と 日本による
帝 国主義 的 な侵 攻に 晒 さ れ つ づける状況 下で
、 義 和 拳 と 称 さ れ る 武 術 の 修 練 者 た ち の 結 社 で あ る義 和 団 が 起 こ し た 鉄道の 破 壊な どによ る 排 外 的な 叛乱 を、
欧米諸 国 及び日 本による連合軍が鎮圧す
る に至った「義
和 団 事変」
な いし
「北清 事変」
を 指 し て い る
。 攻 撃 の 対 象 が 清 国 人を 含む 国 内 のキリ ス ト 教徒たち
に向 けられ た た め に、彼らは北
京の各国公
使 館に籠 城 し て身 を守り援軍を待
っ た が
、 義 和団が北京に入り込んでから
約 二 ヵ月後の
一 九
〇〇年 八 月 に
、到着 し た 連 合軍 が 義 和 団 を 斥け
、 北 京 を 占領 するに 至 っ た
。連合 軍への派兵のう
ち
、 中心的 な 比重 を 占め た のがロ シアと 日 本 で あり、とく
に ロシアは
こ の 事件を 機 会
間と 戦つて
之 これ
を剿 滅
そうめつ
せねば な らぬ
」と「白
君」
に語らせ
る漱 石 の 意識が 日 露戦 争を 踏 まえて いる こ と は 否 定し難 い
。
「 いくら 人間 だつ て
、 さ う いつ迄 も 栄へ る事も あ るま い。ま あ 気を 永く猫の時 節を 待 つ が よ から う」と い う見 通 しに し て も
、 西 洋 諸 国が支 配力 をもつ時代から、日
本 の よ うな東 洋 の国 が世界を動か
す時代に移 行するこ
と へ の 願 望 の 表 明 と受け 取 るこ とがで き る の で あ る
。
重 要 な のは、
こ の 作 品 がイ ギ リ ス留 学中 の 経 験 を 核 と し て い る だ け で な く、
現 実 にロ ンドン 滞 在中 の漱石 が
、あ たかも猫
が人 間 世界 を 眺 めるような眼差しによっ
て 周囲の人
び と や その生 活を観 察し て い る こ と で ある
。
『 文 学 論
』
「序」に
も
、 ロンドン
で 暮 ら して い た 当 時 の 自 分 を
「 狼 群 に 伍 す る 一 匹 の む く 犬
」 に 見 立 て る 表現が 見られ るが、
白 い 肌 と高い 背 丈を もつ、
自 分 と は異質 な 人 び と の 織 り な す世 界で
、漱 石は「
狼」
に 相対した「む
く犬」
の よ うな違 和 感や 距離感を感
じ つつ、
そ の 様 相 を 様々に書き
留 めて い る。
西 洋 ハ 万 事ガ大袈裟
ダ
、水マキ、
引 越車、
車
、ロ ーラー 西洋人は感
情 を 支 配する 事 を 知 らぬ日本
人は 之を 知 る 西洋人 は自 慢す る事を 憚 らな い日 本人 は謙遜す
る一 方より見れば
日 本 人は ヒポクリ
ットで あ る同 時に 日本 人は 感情 にか ら る べき 物で はな い謙遜は
美徳で あ ると いふ 一種の理想に
支配 され つ ゝ あ る といふ 事 が 分 る西洋 人 は之を 重 んぜざ る 事が分る
西洋人は往来
で kissシタリ
男女妙な真似を
する其代り衣服や 言語 動作のあ
る点や食卓抔で
は い や に六づか
しい日本人は之
に 反す 西洋 で は 人 を そ ら さぬ様 人 の機 嫌を損 ぜ ぬ様 にする の が交 際 の主眼で
あ る 夫故に 己 れ の 不愉快 な 感 じ 人に不 愉 快 に 見える 顔 色 抔 は仕そうもな
き 筈 なり即 ち 感情 をかくす事も余程発達
せね ばな らぬ 訳なが ら 日本 人の様 に 発達し て 居 ら ん。
(「断 片
」
) い ず れも 明治三四
年 の
「断片」
に 記 された観
察だが
、 揶揄や批 評 を 交えつつ、
総 じ て 他者 に 向 けた表現を抑
制 し が ち な 日 本人 と 対照 的に、感情を相手に「
大 袈 裟」に表現する「西洋人
」 の振舞 い の 様相 が捉え ら れている。そ
の一 方 で
、
「 断片
」の別 の 箇所 で は 日 本人 で あ る 自 分に つい て「我々
はポツ ト デの 田舎者のアンポ ンタ ンの山家猿の
チン チクリン
の土 気 色 の不 可思 議ナ 人 間 デア ル から西 洋 人か ら馬鹿 に され るは尤 だ
」 と 突 き 放 し た よ うな評価が 記さ れて い る。鏡に映った
自身の矮小
な 姿 を みずから嘲笑す
る 記 述に も見られ
る、
こ の 自 己 相 対化の眼
差 し は 飼 い 主の 苦沙弥先生 をは じ め とする周囲の人間た
ち を 皮 肉に描 き つつ、自身の猫とし ての 劣位 性を忘 れ る こ とのな い
『吾輩は猫
で ある
』の「
吾 輩」
の それ と 直 結 す るも の で あ る だろ う
。
の記述を見て
も、漱 石 が 日 本人 で あるこ とや その身体
的な条件に よ っ て と くに周 囲 のイ ギ リ ス人 に差 別的な 扱い を受けた
こともう かがえ な い。
し か し正 装 し た姿につい
て
「 a handsomeJap」と言 われ、「難
有 いんだか失敬
なんだか分ら
ない
」(『倫
敦 消 息
』
) 思い を 抱 か さ れたりもす
る こ と も あ り
、
〈日本人〉と
し て の同一 性に否定的
に 振り返らされ
が ち で あ った 日々に お いて
、 漱石 が こ う し た言 説を喚 起 し て いなかっ
たと はいえな
いだ ろ う
。事 実『
文 学論』に
至 る 考察 を 積 み重ね て いた頃の書簡
( 菅 虎雄宛、一九〇 一・
二
・ 一 六
)で は
「 近 頃 は 文 学 書 抔 読 ま な い 心 理 学 の 本や ら 進 化論の 本 や ら やたら に読む
」と記 さ れ て おり、こ
の 理 論を漱 石 が 吸収 して い た こ と は 疑 い な い。
処女 作 の
『吾輩は
猫 で ある』は漱石
が内在させ
て いた進化論的 な意識をよく
う か がわせて
いる作品
で ある
。端的にその「七」章 の
「 吾輩
」が木 登 りを話題に
す るくだり
では
、人 間にもそ
の名手 がい る こ とに ついて
「 猿の 末 孫
ばっそん
たる人 間
」という表
現 によっ て
、 進化論 的な考え方の
取 り 込 みが示さ
れて いる。
こ の作品 で
「吾 輩」
という 一 人称の語り
手 が「
猫
」 に託されて
いる理由
につい て は、
小森 陽 一 が指 摘 す る
(
10) よ う に
、母親が四十
二 歳という高
齢 時 に 八人 兄 弟の 末 っ子と し て 生 ま れ
、 当 初捨て 子 扱 い され た漱石 自身 の事 情が 反映さ れ て い る と考 える ことも で きるが
、 同 時 に 見逃す こ と ができ な いのは
、 少な くとも
「 一」
章にお い て は
〈人 間―
猫〉
という位階性
が明瞭 に 示されて
い る こ と で あ る。当初
独立した一 つ の 作品と し て書かれた「
一
」 章におい
て
、 人間は 好 き勝手に猫
族の生活を
荒 らし回 る
「 我 儘」
で
「 不 人 情」な存在と
し て 規 定 さ れて い る
。
「 筋向の 白 君
」 が四匹 の 子 猫 を 生 ん だ 際 に も
、 家 の 書 生 が 彼ら をすべ て池に 捨 てて し ま う と いう 処遇を与えたのだっ
た
。 それ ゆ え
「 白 君」
は
「 人 間 と 戦 つて
之 これ
を剿滅
そうめつ
せね ばなら ぬ
」 と「吾 輩」
に 訴 え
、 彼も それ に同 感 す る の で あ る。
そ し て
「 人間」
の 天 下が永 続 しない こ とが希 求 さ れ
、「いくら人間だつ
て
、さういつ 迄も栄へる
事 もある ま い。
まあ気 を 永 く 猫の時 節 を 待 つがよから う」
と い う 見 通しが 語 ら れ て い る
。 この人 間 が猫 に 否 応 な く超 越 する 力 関係 は
、明 ら かに
〈 西洋
― 日本
〉のそれ
を 写 し取っ て いる
。 も とも と ス ウ ィフトの『ガリバ ー旅行記』にヒン
トを得 て いる と見なされる
こ の作品 には、イ
ギ リ ス とい う異 国 で イギ リス人 と いう 異 質 な 民 族と ともに 二 年余 を 過 ご した漱 石 の 経験が反
映 さ れて いると 考 えられ る
。 と くに「社 会進化論
」 的 な図 式 に おい て
、 進化 の 頂 点とし て の西洋人
との対 比のなか
で
〈 人間以 下
〉 の 位置に置かれ
が ち な ア ジ ア
、アフリ
カ 人は、犬や
猫 の 比 喩 が 与 え られて も おか しくな い 存 在 で あ った。
そ し て 一 九世紀以
降の帝国主
義 の流 れのな か で
、 現実に ア ジア
、 アフリ カ 諸 国 は西洋 諸 国 の 暴力的 な 侵 略 を蒙り
、その 多くが 植民 地化 の 道 を 辿 りつつあった。
日本はその運命
を 回 避 する ためにみずから帝国主義国となる
こ とを 選 ぶ こ と になる が
、 明 治 時 代 に お け るその 集 大 成 とも い う べ き日 露 戦 争が持 続 中 の 時期に
『 吾輩 は猫 であ る』
は執筆 さ れ てい る。
そ の 照 応 関係 に つ いて は別の 場 所で 詳 し く 眺 め た いが
、
「 人
によって
自 己 の日本 人 と し て の姿を再認
識させられて
いる
。 多く 引 用 されるように、明
治三四年
( 一 九〇 一)一月五日の「日記」
には「
往 来 ニ テ向フ カ ラ 脊 ノ 低 キ 妙 ナ キ タ ナ キ 奴 ガ 来 タト思 ヘ バ 我 姿 ノ鏡 ニ ウツ リ シ ナ リ、我 々 ノ黄 ナルハ当
地ニ 来 テ 始 メ テ成 程 ト合点 ス ルナ リ」と 記 され
、『倫 敦 消 息
』(
一 九
〇 一
)にも 同 内 容の記 述 が あ るが
、こ こ で は 文字 通 り「 鏡」
に 映 った 像によ っ て
、 身 体 的な 異 質 性 な いし 劣位性 と いう 形 で 自 己 の民 族的 同一 性に 顔 を突 き合 わ さ せ ら れている。
漱石 の身 長 は 一六
〇セ ン チ 弱で あり
、 当時の 日 本 人 と し て も小 柄 で あ っ た。
同時代のイギリス人も現
在ほど長身
で は な か ったが
、 一 九 世紀後半の男
性の 平均身長
は 一 七 三セン チ 程 度 で あ り、漱 石 とは十センチ以上の差があっ
た
( 7
。ま)
た夏目鏡子に宛
て た明 治 三三年 一
〇 月 二三日 付 の 書 簡 で は「当地
ニ来テ観レ
バ 男女共 色 白 ク服装 モ 立 派 ニテ日 本 人ハ 成程黄 色 ニ観 エ候女 抔 ハ ク ダラヌ下女 ノ如キ者デモ
中 々 別嬪 之有候小生如キ
ア バ タ 面ハ一人モ無
之 候」
と記され
、自身の「
アバタ面
」が イ ギリ ス で は 珍 しい存在
で あ る こと に言 及さ れ て いる
。漱石 は 三歳 頃にか か っ た 疱瘡(
天 然痘
) が原因で
顔の とくに 左 側 に 痘痕が残
ったこ と は
、 よく 知られて
い る
。 処 女 作の
『 吾 輩は猫 で ある』(一九〇五
~〇六)に
も
、猫 の
「 吾 輩」の飼
い 主 で あ る苦沙弥
が、
鏡を に ら みな がら
、顔 の 痘 痕 がめだたない角度
を 研 究 し たりす る 場 面 が出 て くる よ うに、漱石 自身 こ の 特 徴 を気に し て い た ようで
、写 真を 撮 る 際も 痕跡が写ら ないよ うな工 夫を して いた とい わ れ る。
天然 痘は江 戸時代から
明治時代
にか けて は罹患が
一般的な病気 であ り、
明治天皇
も幼時期に
患 っ て いるが、
明治一八年
(一八 八 五)に 種 痘 規 則が制 定 され
、種痘 が義 務 付られ る こ と になった。
イ ギ リスにおい
て は一 八世紀後
半に ジェン ナ ーが 開発し た 天然痘 ワクチ ン の普 及によ っ て
、 一九世紀前
半 には急 速に 罹 患者が減少 して い っ た
。 二
〇 世 紀 が 始 ま ろ う と す る 時 代 に 天 然 痘 の 痕 跡 を 顔 に残 して い る 漱石 は
、 いわ ば 先 進 国 に あ っ て 文 明的 な 後進性 を 晒 して い る よ う な も の で あ り
、 進 化 論 的 な 人 間 観 が 支 配 的 に な って いた 西 洋 世 界 に身を 置 く 上 で は 喜 ば し く ない条 件 で あ った。
ダーウィ
ン の 提唱 し た 進 化 論は
、教 会 側 から の否定を受け
なが らも一九世紀
を 通 し て 影 響圏を拡
げ て い き
、 またフラ
ンスの 生 物 学者ラ マ ルクの影響下
で 同 時代に「社会
進化 論」に基づく
著述活 動 を 精力的にお
こ なっ て い っ た ハーバート
・ ス ペ ンサー も
、別系 統ながら「
ダ ー ウ ィ ニ ズ ム
」の担 い手と し て 日 本 で も 早くか ら 知 られて い た
。 なかで も 人 間 の 進 化 の 過 程 を 地 球 上 の 民 族間の 差 違 に 見よう とする ス ペンサーの理
論におい
ては、
アフ リ カ やアジア、
オー スト ラリア の 原住 民が白 人 種と の対比 の な か で
〈 未 開
〉の 民 族とされ
、 そ こ に 人 類 の
〈 原始的
〉 な 姿 を 探 る と い う 方向性 が取 られて い た(
『社会学之
原 理』)
( 8
。)
ここで は進化論という科 学的な言説は完
全 に西洋人種
を そ れ以外の人種に優越する
民族 と し て 差別化する道
具とし て 機 能 し て いる。
漱 石 がロ ン ド ンで 生 活 して いた 時 期 に は
、イギ リ ス で はス ペ ン サーの社会
進 化論はす
で に 下 火になっ
て おり
( 9
、日記や書簡)
で
賀は ド イ ツの 森 の 美 し さ に 感嘆しながらも、
「 唯 一つ物 足 ら な い やう な心 地がし た のは、我が
国 なら ば あ の森 の下には必
ず 赤 い 鳥 居 か
、 石の灯籠
が 見え て
、 神 社 があ る筈と 思 ふ所に、
そ れ がな い」
こと が挙 げ ら れ て いる の で あ る
。 芳賀 にと って は、西洋で
出 会う自然や
文 化の 異 質 さ は
、自 国の 固有文化
の美点に
振り返らせる契機
で あ り、
またそ こ に遡行し
て いく文脈
を 多 様に 携え て い たのに対し
て
、 漱 石 は あえて そ うし た 文 脈 を求 めない 位 置 で思索と
表 現を貫い
てい く こ とにな っ た。そ れが や が て 漱 石独 特の
「個 人 主 義」の基底
を なす ものとな
る。そ の立 場を明確に
自 覚する こ とになる
のは留 学 生活の 後 半に 至 っ た 頃で あ った が
、も と も と 漱 石 が 芳 賀 の よ う に 素 朴 な 次 元で
「 民 族 精 神
」に 依 拠 す る こと の で き な い 人 間 で あ る こと は
、 行 き の 船 中 で綴 られた 英 文 の
「断 片」か ら もはっ き り と うかが わ れる
。こ こ で漱石は、大海
を進ん で いく 船 の甲板に身
を 横たえた自
身 の描出 から始 ま って
、船 中 に数多 い宣教 師 たち の、キリス
ト 教の神を絶 対化す る 布教 的な 言説への
違和 感を表 明 し、
信仰の 相 対性につい て次 のよ うに 論 じ てい る
。
信仰があ
ると ころ には宗教があり
、 幸 福 と安息 と 救 済がある。
物神崇拝
もキリス
ト教 と同 等 で ある。信
仰が ある限り
、すべて は正 しいのだ。信
仰が 伴 わ なければ
、 キ リス ト教 にせ よ仏教
、 回 教 に せ よ、宗教
は賢い人間が
幻 想 の跳梁と空論の力
に耽溺す るべ く 巧 みに 作り 出さ れ た 発 明 物以 上の もので は ない
。 人 び と
をし てそ れぞ れの知 性 の 発 達 段階 に応 じ て、そ の 眼に善 で あり 真 で ある と映 るも のを すべ から く信 ぜ し めよ。
そ うすれば
そこ に満足 と 幸 福 が見 出され る で あ ろ う 。
(拙訳
) 漱石 は決 し て キリ スト 教 と仏教や
回 教を競 わ せ て は お らず
、す べて の 宗 教 を 個 人 の 信 仰 の 対 象 と し て 並 列 化 して い る
。
「 人 び と をし て そ れ ぞ れの知性
の発達 段 階に 応じ て、
その 眼に善 で あり 真 であ ると 映る も の をす べから く 信ぜしめよ
」 とい う考え 方 は、
後 に 漱 石が 文 学 作 品 の評 価・批 評 にお い て 取 ろうと する姿 勢 の先 触 れと いう べきも の で あ り、彼 が 価値 の多様 性 を認めつつ
、 最終 的 に は 自身の個
人 と し て の判断に
則 ろ うとする人間
で あ る こ とを物 語っ て い るだろう
。
四
相対化され
る漱石 しか しな が ら
、宗 教 と 信 仰 の 関 係 に つ い て 述 べら れ た こ う した 考察が
、文学 研究の 主 体
、 ひ い て は 西 洋 文化に対峙
し うる主体と し ての自己確立
に ま で高めら
れ るに は、まだ
時間 を要し た
。適当 な下 宿 を 求 め て 各 所 を 転 々 と し て い た 明 治三三 年
( 一 九〇〇
) か ら三四 年
( 一 九〇一
) にか け て の 漱石 は
、 こ れ ま で と くに強 く意 識し たことのな
かった自身の〈
日本 人〉とし
て の 姿に振 り 返らさ れ、
し か もそ れが否定
的な形 を 取る こ と に 違 和感 を 覚 え ざる を え なか った。
そ れ は 当 然 な が ら
、 第 一 に 漱 石 が 周 囲の イ ギリ ス 人 と 異 質 な存在 で ある こ と が身体的な
次 元 で 明 白だからで
あ り、そ れ
一国 の歴史 は 人間の歴史で
、人 間の 歴史はあら
ゆ る能力の
活動 を 含 ん で ゐるのだから
政治 に 軍 事に宗教
に経 済に 各方 面にわ た つて 一 望 し た ら
何 ど
う云 ふ 頼
母 たの
もしい回 顧 が出来ない
と も 限 るまい が、とく
に余の密
接 の 関係 ある 部 門
、即ち 文学 で 云 ふ と、殆 ん ど過 去か ら得 るインス
ピレ ーシ ョンの乏
し き に苦 し む と云ふ 有 様で あ る
。 人 は 源 氏 物 語 や 近 松 や 西 鶴を 挙 げ て 吾 等 の 過 去 を 飾 るに足る天
才 の発 揮と見
認 みと
めるか も 知 れ ないが、余
に は到底そ んな己惚
うぬぼれ
は起せ な い。
(「
東 洋 美 術 図 譜
」)
そして そ れ に つづ け て
、 自 分に 創作の 活力を もた ら し て く れ る ものが
、
「わ が祖先 のも た らし た 過去で なくつて
、 却 て 異 人 種 の 海の向 ふ か ら 持つ て 来 て く れた思 想 で あ る」と 記され て いる。
す で に 英 文 学 の 研究か ら 離 れ
、職業 作 家 と し て 活 動 して いたこ の 時 期におい
て も
、自国 の古 典 文 学 に興味 が ないと 明 言 さ れて い る の で あ り
、 であ れ ば 英 文 学 者 と し ての 道 を 歩 ん でい たイ ギ リ ス留 学 時代の漱石
の な か に
、 自国 の古典 文 学 へ の関心が作
動 し て いたと は一 層考え難
い
。いい か え れば、ロンド
ン で 漱石は自
分 が 一個の
〈日 本 人〉で ある こ と に 覚 醒させ ら れ な がら
、 そ の 内 実を空 白 の 形 で 受け 取らざる
をえなか
っ た
。そ れが彼 の 立 ち位置を曖
昧にし、
内面の 危 うさをもた
ら すこ とにな っ た の で ある。
こうし た 事 情 は 漱 石 や 藤代 禎 輔 と 同じ時 期 に ド イ ツに 留 学 し
、 文 献 学を 学んだ 国 文 学 者 の芳 賀矢一 と 対照 をなし て いる だ ろ う
。 芳賀は江戸
時 代 か ら 国 学を 講じ て きた 家 に生 まれ
、東 京帝 国 大 学
で国文 学 を専攻 す ると ともに
、 イギ リス人 教 師バ ジル・
チ ェンバ レン の影 響など か ら西 洋の文 献 研究 の方法 に 興 味 を も ち
、 留 学 先 の ド イツ で も 文 献 学を学ん
でい る。ドイツ文
献学 を国文 学 研究 に 融合 さ せ るこ とが芳 賀 の 方 法と な る が
、 具体 的 に は 古 典 文 学 に は らま れて いる日本人固有の
精神性を探り
出す こ と が目指さ
れ
、 そ の系 譜を文学史とし
て 定着させる
こ とが 中心 的な仕事となった。
そ の 死後 に ま と め ら れ た『
日 本 文 献 学』
( 富 山 房
、一 九 二 八)
で は「
文学史 は
、文献 学 の 主 要なる 部 分で あり、
他 の も のは、
皆 そ の準備に過
ぎ ない」こ
と が 力説され
、「
文 献 に徴して
国民 を 知 る のが、最も
確 実なる方法に
し て
、即 ち
、 国学の 基 礎 も
、全くこ
ゝ に置か れ た の で あ る
」 と 述 べられ て い る
。 芳賀 にと っ て は、
大 学で 専攻した日
本 古典文学とド
イ ツ 文献学 の方法は決
し て 抵 触 す るもの で は な く
、 む し ろ 古代からの作品の 堆積 に対し て 模 索 され て い た、
江 戸 時代の国
学とは別個の近代
的 な方法として
、西洋 の 文献 学は積 極的 に 取り込まれ
る べき 対 象 で あっ た。同 時 にそ れ は あく ま で も 方 法的 な 指 針 とし て 尊重 され
、 日本文学に息づい
て い る精 神 や その表現を相
対 化 する装置と
し て は機能 し て い な い。
芳賀 は そ の研 究内 容や 時代 背景 か ら
、神 道を 軸とする
「 民 族精神」を
称 揚する評
論を 多く書 い て い るが、そ
こ に 散 見さ れ る 外 国 体験 の記述に
おい て も
、 日 本の文化
や生 活を卑 下するような表現は
な く
、 逆に 外 国 との 出 会 い で 日 本の美点を認 識 す る挿 話が少 な くな い。そ う し た評論の一
つ で ある『
日本人
』
(文 会堂、一九一
二)
に含ま れ るドイツ
留 学 時代 の追 憶 で も、
芳