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東アジア関係史教育の変遷

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長崎大 学教 育 学 部社 会科 学論叢 68 29‑44(2006)

東アジア関係史教育の変遷

一遣唐使 を知 り、遣新羅使 を知 らないのはなぜか 一 鈴 木 理 恵

Thec hangeoft hee duc at i onaboutEas tAs i anRe l at i ons hi p

RieSUZUKI

は じめに

樺太 か ら日本列 島、南西諸 島、台湾 まで弓状 に伸 びた諸島のそれぞれの歴史 は、 シベ リ ア大陸、中国大陸や朝鮮半島に近い とい うことに規定 されて形成 されて きた。特 に長崎地 域 を含 む九州北部 は、大陸に近い ことか ら、中国や朝鮮半島 と密接 な関わ りを持 ち続 けて 現在 に至 っている 留学、仕事や観光で九州 を訪れる中国 ・韓 国の人び とは多い。海岸で は簡略体漢字やハ ングル文字が記 された漂着物 を見かける 韓国か らの電波 も受信で きる

中国や朝鮮半 島 との関係 を示唆す る遺跡や遺物 の発掘 に関す る報道 に触 れる機会 も少 な く ない。

韓国への親近感 は、地理的 に近い北部九州だけの現象 ではない。近年の韓流 ブームや粒 致問題 によって 日本人の朝鮮半 島に対す る興味関心 は高 まっている といえるだろ う しか し、朝鮮半 島の歴史や 日本列島 との関係 史 に関 しての知識 については どうだろうか。古代 朝鮮史研究者である井上秀雄氏 は次の ように書いている。

た とえば中国の古代 について、 われわれはかな りの程度、その事件や人物 について常 識的 に知 っている。 日本の歴史 と直接 にはまった く関係 ない部分 について さえそ うであ る。 にもかかわ らず、朝鮮古代史 をわれわれは必ず しもその ようには扱 ってこなかった。

(中略)朝鮮の歴史について、 日本人はい ったい どれだけ知 っているのだろうか。試みに 中学校 の社会科の教科書 を見て もらいたい。 日本 に地理的 にもっ とも近い国、 もっ とも 近い民族 である朝鮮 の歴史 についてあ ま りに も知 らなす ざる とい うことについて、その 知 らなす ぎること自体 についてす ら、 自覚 していないのではないか とい う苛立 ちを覚 え る 朝鮮 の人名や地名‑ の馴染みのな さは、そ う した 日本人の歴史感覚の蹴行性 の長い 長い積み重ねの病痕の ような ものではなかろ うか(1)。

実 は、 この文章 は1972年 に書かれた ものである に もかかわ らず、2005年現在 の状況 を 的確 に指摘 しているように感 じるのは筆者 だけだろ うか。 なぜ学校 では中国 との関係 史 に 比較 して朝鮮半 島 との関係史 を詳 しく教 えないのか、筆者 自身の経験 を通 して感 じて きた 疑問である 実際 に調査 を実施 した ところ、生徒 ・学生のなか に、対 中国関係史 に関す る 知識 に比較 して対朝鮮半島関係史 に関す る知識が乏 しい ことがわかった。

本稿 は、古代 における、対 中国関係史 に関す る知識 と、対朝鮮半島関係史 に関す る知識 の違いが生 じる原 因が どこにあるのか を明 らか にす ることを目的 とす る。 まず、10代後半 か ら20代前半 にかけての生徒 ・学生の知識 を分析 し、対 中国 と対朝鮮半島 とでの知識量 の

(2)

違 い を明 らか にす る そ して、 明治期 以来 の歴 史教 科書 の なか の、対 中国 と対 朝鮮 半島の 記 述 の あ り方 を分析 す る 国民 学校 以前 に関 して は初等教 育機 関の教 科 書 を、 昭和30年代 以 降 につ いて はお もに中学校教 科書 を分析対 象 とす る。

従 来 、歴 史教 科書 問題 との 関連 で朝 鮮 半 島 との関係 史が取 りあ げ られ る場合 、豊 臣秀吉 の朝鮮侵 略 、朝鮮 通信使 、植 民 地 時代 、 な どが対 象 とな る こ とが多 く、古代 に関 して は比 較 的少 ない(2)。古代 こそ、朝 鮮 半 島 と 日本列 島の諸 地域 の 間で活発 な交流 が な され てい た の だか ら、取 りあげる意義 は大 きい。

1 ア ンケー ト調査結 果か ら

長 崎県 下 の4大学 の学生 と1高等専 門学校 の生徒 を対 象 に して、 「東 ア ジア交流 史 に関す る ア ンケ ー ト調査」 を行 な った。調査 の 目的 は、学校 にお け る歴 史教 育 の あ り方 が東 ア ジ ア関係 史 につ い ての知識 や意識 を どの ように形 成 す るか、調べ る こ とにあ る 実施方法 と 対 象 人数 は以下 の通 りであ る

4大 学 合 計391名 (A大 学212名 ・B大 学123名

C大 学30名 ・D大 学26名 ) に対 して、

2005年6月 に実施 した。 いず れ も どち らか とい えば文系 学部 の学 生 で あ る A大学 とB大

て もらった。 C大学 とD大学 にお い て は、用紙 を配布 して各 自の空 い た時 間 に適宜記 入 し て もらい 回収 した。年齢構 成 は次 の とお りであ る。18歳33名 (8.4%)、19歳78名 (19.9%)、

20歳182名 (46.5%)、21歳68名 (17.4%)、22歳21名 (5.4%)、23歳 以 上9名 (2.3%) 高 校 時代 の歴 史科 日の選択 状 況 は、 日本史A83名 (21.2%)、 日本 史B156名 (39.9%)、世界 史A140名 (35,8%)、世界 史B174名 (44.5%)であ った。

高等 専 門学校 にお い て は、1‑ 3年 生 の全 生徒 にア ンケ ー ト用 紙 を配布 し、 空 い た時 間 に適 宜記 入 して もらい、298名 か ら回収 した (回収 率約6割)。2005年7月 に実施 した。学 年構 成 は、1年生95名 、2年生81名 、3年生122名 であ る この高専 で は1年生 で は歴 史授 業 が な く、2 ・3年生 で 「歴 史」 とい う科 目での授 業が行 なわれ る

ア ンケー ト調査 の概 要 は以下 の通 りで あ る

1)縄 文 時代 か ら平安 時代 にか けての 中国 (大陸)との関わ りに関す る知識 (記述式) 2)縄 文 時代 か ら平安 時代 にか けての朝鮮 半島 との関 わ りに関す る知識 (記述式)

3) 古代 にお け る 日本列 島 と中国 (大 陸)・朝鮮 半 島 との関 わ りにつ いての知識欲 (選択 式) 4)縄 文 時代 か ら平安 時代 にか けての 中国 (大陸)との関係 につ いての イ メー ジ (選択 式 )

5)縄 文 時代 か ら平安 時代 にか けての朝 鮮半 島 との関係 につ いての イ メー ジ (選択式 ) 6) 日本 の古代 国家 につい ての イメー ジ (選択式 )

これ らの質問項 目の なかで本稿 で は1)と2)を扱 う 1)と2)の質問 は以下 の通 りであ る

つ い て、 あ なたが持 ってい る知 識 は どの よ うな ものです か ? 思 いつ く単語 で もか まい ませ んか らで きるだ け具体 的 に簡潔 に書 いて くだ さい。

記述 式 だが 、 単語 を列記 す るだ けの 回答 が多 か った。 回答 単 語 数 を カウ ン トしたのが表 1で あ る この場合 、筆者 の主観 で取捨 選択 す る こ とを しないで、すべ ての単語 を数 えた。

文 章記 述 で の 回答 につ い て も単 語 を拾 った。 なか には中国や朝鮮 半 島 との 関係 を示 す単 語 とは思 われ ない もの もあ った。 したが って、 回答 単語 数 が多 いか ら とい って知識 が豊富 だ

(3)

東 ア ジア関係 史教 育 の変遷 31

とは一概 にいえない。 しか し、だいたいの傾 向 として とらえることは可能だろ う 表1を もとに、対 中国関係史 に関す る知識 と対朝鮮半 島関係 史に関す る知識 を比較 して、以下の ような諸点 を指摘 してお きたい。

1 中国 と朝鮮半島 との関係史に関する知識

大 学 生 高専 生 対 朝 鮮 半 島 大 学 生 高専 生

使 (45.1798) (315.052) (1779.7) (1475.8)

使 (413.717) (3194.5) (1492.5) (l3l4.4)

(21.832) (132.88) (1410.5) (1496.4) 漢 (153.23) (5.150) 白 村 江 の 戦 い (9.387) (8.267) .来 (1492.5) (2662.1) (9.375) (9.271) (l43l.0) (3.ll7) (6.241) (9.271)

40 21 15 1

(10.2) (7.0) (3.8) (0.3)

(器) (7.307) (4.120) 加 薙 .伽 邪 .任 那 (3.146) (61.94) (7T282) (7.237) (大 陸 ) 文 (3.121) (3.90)

484 323 163 93

合 計 単 語 数 (延 べ ) 1,248 741 合 計 単 語 数 (延 べ ) , 519 373 333 237 189 165 3.19 2.49 1.33 1.25 (合計単語数/全人数) (合計単語数/仝人数)

3.75 3.13 75 2.26 (註) ( )内 の数 字 は、 そ れ ぞ れ の単 語 の 回答 人数 が 、大 学 生391名 と高 専 生298名 に

占め る% を示 す 。 「回答 人数」 とは少 な くとも1単語 以 上 を書 い た人数 で あ る。

① 対 中国関係 史に関す る知識が、対朝鮮半島関係史 に関する知識 よ りも多 くなっている

② 対 中国関係史に関 しては 「遣唐使」 と 「遣隔使」が最 も多い。表1にはあが っていない が、「聖徳太子

「小野妹子

「鑑真」 など遣隔便や遣唐使か らの連想語 も少 な くなかった。

(彰 「稲作

「漢字

「青銅器」など中国大陸に源があ りなが らも朝鮮半島か らの渡来人によっ てもたらされたものが、調査対象者 においては中国 との関連で とらえられる傾 向が強い。

④ 「渡来人」が1‑ 2割程度 と少 ない。

(参 長崎県 には古代 における中国や朝鮮半島 との関係 を示す遺跡が少 なか らずあるにもかか わらず、回答 にはあ らわれない。

以上の諸点か ら、従来の歴史教育 に関 してふたっの問題点 を指摘 してお きたい。第一 に、

(4)

児童 ・生徒が暮 らす地域の視点ではな く、 日本列 島で覇権 を握 った支配者の視点 に立つ教科 書記述 中心 の ものであったことである 第二 に、 中国や朝鮮半 島か ら文化 ・技術が もたらさ れる際の経緯や人の営みではな く、結果 (教科書 中に重要語 としてゴチ ックで書かれた単語) を覚 えさせ ることに重点がおかれて きたことである これ らは重要 な問題点であるが、分析 は別稿でお こなうこととして、本稿 では上の(丑と(丑に注 目する

2 教科書 にみ る対外関係史記述

大学生や高専 生 は、対朝鮮半 島関係 史 に関す る知識 よ りも対 中国関係 史 に関す る知識 を 多 く知 っていた。その要 因のひとつは、教科書 において対 中国関係 史記述量のほうが多い と い うことがあげ られるだろう 現行 の中学校歴 史教科書8種類 (:う)のなかの、古代 に関する中 国関連記事 と朝鮮半島関連記事の量 を比較す る と、東京書籍では大差がないが他 の7社の も ので前者 の割合が高い。 こうした傾 向がいつ ごろか ら続いているのか を見 るために、明治期 か ら現行 の歴史教科書のなかの古代 に関する中国関連記事 と朝鮮半 島関連記事 をみてみるこ

とに したい。

明治期 か ら昭和21年 までの歴史教科書 は、海後宗 臣編 『日本教科書大系 近代 編

第18 巻 (歴史1)か ら第20巻 (歴史3) にお さめ られている ものを使用 した。 したが って初等教 育機 関 を対象 とした歴史教科書 を対象 とする。1946年 まで小学校 においては歴史が独立 した 科 目として設け られていたことと、1947年 に新制 中学校が発足するまで中等教育機 関への就 学義務が な く、 また進学率 も高 くなかったことがその理 由である

教科書発行 ・採択 に関 しては、明治初期 は白山であった ものが、同13年 に良否調査 、同14 年 に開 申制、 同16年 に認可制 、 同19年 に検定制度が導 入 され、 同37年 には国定教科書が発 行 された。国定歴 史教科書 は、1946(昭和21)年発行の 『くにのあゆみ』まで7種類が出さ れた。検定制度導入以前の歴史教科書 は天皇紀 による年代 史の体裁 をとり、史籍 に記 された l史実」を列記 した ものが多い。検定制度導 入の ころに項 目別編成 の歴史教科書があ らわれ る ものの、人物 による項 目立 てが多い。 国定教科書 もひきつづ き人物主義 をとっていたが、

第6期 に トピックによる項 目編成 になった。

昭和22年 の検 定制度復 活 と社会科新 設ののちに関 しては、 中学校 の歴 史教科書 を見るこ とにす る。 なかで も、シェアの高い東京書籍の教科書 を検討する

表2は、 明治期 か ら昭和21年 の教 科 書 、 昭和36 (1961)年 ・同46 (1971)年 ・同58 (1983)年 ・平成4 (1992)年、 とほほ10年 間ごとに検定 された中学校教科書 (東京書籍) について、朝鮮半 島関係 、中国関係 の記事 内容 をまとめた ものである ここに提示 した記事 以外 にもあるが、紙幅の関係で、出現頻度の低い ものは省略 した。特 に明治期 前半の 「史実」

列記 タイプの教科書 には朝鮮半 島関係 の細かな記事が多い。表2か ら以下の諸点 を指摘で き る

① 明治期 の教科書 には、朝鮮半 島についての記事数が多 く、中国関係記事が少 ない。

② 戦後の教科書では、中国についての記事数が多 く、朝鮮半島関係記事が少 ない。

③ 戦前の対朝鮮半 島関係 史記述 には、征伐や朝貢 に関わるものが多い。

紙幅の関係で記述量 (文字数) については提示で きないが、明治期 か ら現行 の教科書 にお ける中国関係記述量 と朝鮮半 島関係記述量 を比較す る と、 明治期 国定教科書 第5期 までは 朝鮮半 島 に関わる記述量が多 く、 第6期 国定教 科書以 降現在 にいたるまで中国 に関わる記

(5)

乗 アジア関係史教育の変遷 33

述量が多 くなってい る。

① と② に関 しては、戦前 、特 に明治10年代 までの歴 史教科 書 は、記紀 に もとづ いた天 皇紀 に よる年代 史叙述 であ ったため、 7世紀 末 の新羅 に よる統 一 までの村朝鮮 半 島関係 史の記述 量 が多 か った。逆 に対 中国関係 記述 は遣 隔便 以 降か ら始 まるため に記述量 が少 なか った。 た だ し、 人物主義 をとった教科書 の場合 には、対 中国 と対 朝鮮 半 島のいずれの記事 も少 な くな る 第6期 国定教 科書 では項 目編成 を と り、後 述す る ように遣唐使 記述 にページを割 いたの で 中国関係記述が多 くなった。戦後 は、記紀 に よる神代 の記述 を排 し、考古学上 の成果 や 中 国側 の史料 に基づ いた記述 になったので、対 中国関係 史 に関わる記述が多 くな り、対朝鮮 半 島関係 史に関わる記述 は少 な くなった。

③ に関 しては、戦 前、朝鮮 半 島 は 日本 の征伐 の対 象 として記 述 され るか、 あるいは 日本 に 対 して貢 ぎ物 を奉 るべ き、 中国の学 問や文 化 ・技術 を 日本 に伝 えて 日本 の発 展 に貢献す るべ き存在 と して書 かれてい る。戟後 は、征伐 や朝 貢 な どとい った 日本 に とっての利用価値 を強 調す る記述 は削 られたが、朝鮮 半島 を中国文化 の 中継 地 とみ る視 点 は戦前 と変 わっていない のではないだろ うか。 ア ンケー ト調査結 果 にあ った ように 「稲 作

「漢字

「青 銅 器

な ど朝 鮮 半 島か らの渡 来 人 に よって もた らされた もので も、 中国 との関連 で とらえ られる傾 向が強 か った ことはそれ を示す。朝鮮 半 島の文化 ・技術 の特徴 や、渡 来 人が朝鮮 半 島か ら日本列 島 に渡 る経 緯 ・理 由が見 えない教科書 記述 になってい るのではないだろ うか。

2 明治 〜現行 の教科書 中の東 ア ジア関係 記辛

\\ 発行or検定年

記事 \ 治 治 治 治 治 治明 明 明 明 明 明 明 画 画8 1214162020212

62

73明 画437

4

明 大

3

正 和 刺 和 初9昭 昭 昭 昭9151821和 刺364昭 昭65

成 成

8

41 3

稲作の伝来 大 大(⊃ 大○ (⊃

金属器の伝来 大 ○ 大(⊃○

崇神朝、任那、来貢す ○ ○ ○ ○ ⊂)辛 垂仁朝、新羅王子来朝す

○ ○ ○

○ ○ ○J5'

神功皇后、三韓を征伐す

○ ○

○ ○ ⊂)○ ○ ○ ○

○ ○ ○ ( ⊃

新羅王、叛かぬ(を神功皇后に誓う貢献を欠かさぬ)こと ○ ⊂) ○ ○

○ ○ ○( ⊃ ⊂

)(

○ ○

百済、阿直岐を遣わす ○ (⊃0‑○

百済(などを持ち来る)朝鮮)より儒学伝来(王仁、論語○ ○ ○

○ ○○ ○ ○

○ ( ⊃ ○ ○ ○

○○ ○

三韓(朝鮮島)

人や 者の

あり(学問.

芸の

)

○ ○

○ (⊃(

⊃ ○

○ ○ (⊃○ (⊃○ ○

渡来人が廷 で る(記録や外交) (⊃ (⊃(⊃○ ○

仁徳朝、朝貢を絶った新羅を征す ○ ○

大和朝廷が任那との関係を深める ○ ○ ○ ○ ○

紫国磐井 (⊃○ ○

( ⊃

百済より仏教伝来(仏像.経論を献ず)○ ○

○ ○

○ 大○ (

○ ○ (

○ 大○ ○ ○ ○ ○ ○ 百済、易暦などの博士を貢ず ○ ○ ○ ○

(6世紀中ごろ)新羅、任那を滅す(大

和朝廷、朝鮮半島での勢力を失う) ○ ○ ○ ○

( ⊃

○ ○ ○

欽明朝、新羅を討つが、失敗

(

⊃○ ○

欽明朝、高麗を討つ ○○ ○ ○ ○ ○ 欽明天皇、新羅を征して任那を奪回するように皇太子に命じて死す ○

推古朝、任那を新羅から救う ○ ○

百済より暦.天文.地理などの書を伝来○ ○ ○ ○

(6)

聖徳太子、朝鮮に学んだ政治をおこな ○ ○

○ ○

○ ○ ○

渡来人が仏像をつくる ○ ○ ○

斉明‑天智朝、新羅、唐の力を借りて

百済を攻める(百済滅亡、援軍を派遣)○ ○

○ ○ ○ (

○ ○ ○ ○ ○

○ ○

○ ○ ○ ○

聖武朝、より庖癒が伝染す ○ ○

仁明朝に新羅来朝を禁ず ○ ○

宇多朝、新羅が入冠す ○ ○

稲作の伝来 大 大 ○ 大

金属器(青銅 .秩)の伝釆 ○ 大 ○ 大

中国歴史書に紀元前後の記述あり(

国王漠から印を授けられる) ○ (⊃○

○ ( ⊃

魂志倭人伝に邪馬台国の記述あり

○ ○ ○

応神天皇、呉へ使者を送る (⊃○ (⊃

5世紀、倭王による中国への使者派遣 ○ ○ ○ ○ ○

大陸文化の伝来(学問 .技芸の伝来) ○ ○ (⊃

雄略朝、呉人来聴 ○ ○ ○ ○

遠隔便派遣(小野妹子を派遣) ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

○ (

○ ○

○ ○

○ ○ ○ ○

聖徳太子、対等の外交を目指す(を送る) 国書 ○ (⊃

○ ○ ○ ○

○ ○

○ △ △

聖徳太子、中国にならつた政治をおこなう仲 国制度導入につとめる) ○ (⊃○ (⊃ ○

○ ○

遣唐使派遣

○ ○

○ (⊃○

○ ○ ○

中大兄皇子、唐にならつた国家づくり

○ ○

鑑真の来朝

○(

⊃○○ △

吉備真備の活躍 (⊃

○ ○ ○ ○ Q

帰国できなかった遣唐使(阿倍仲麻呂)

の存在

(

⊃○

○ ( ⊃ (

○ ○

○ ○

唐にならつた律令(制度法律)つくり

○ (

○ ○

○ ○

唐にならつた都つくり ○ (⊃○

○ ○ ○ ○

○ ○

唐にならつた貨幣つくり

○ ○ ○ ○

唐文化の影響の強い奈良時代の文化入唐僧撮 澄 ,空海)の活躍(天平文化) ○ ○■E5(⊃○ ((⊃⊃(

⊃ ○ ( ⊃ ○ ○

÷ ○

○ (

○ ○

○ (○ ⊂)○ ○⊃(⊃⊂)

(註)(1)大 陸」「外国」海の向かふ朝鮮半島や支那本土」 か らはいって きた とい う説明になっ ている場合。

(2)△ ‑本文中には記述がないが、註や図説などにある場合。

3 遣唐使 および遣新羅使 に関する教科書記述

先述 した ように、大学生 と高専生 を対 象に した調査 で、対 中国関係史 に関する知識 として

「遣唐使

道幅

便」

の割合が比較的高かった。その要因のひとつ として、表3にまとめたよ

小学校以来の教科書 に現 われることか ら、遣唐使 を知 らない人はほ とんどいないだろうと 考 えられる それに対 して遣新羅俺 や遣潮海便が派遣 されていたことを知 る人は少 ないので はないだろうか。遣唐使 は必ず歴史教科書 に現 われるのに、遣新羅便や退潮海使 はなぜ書か れないのだろうか。理 由のひとつ として、遣唐使 の歴史的役割の大 きさがあげ られるだろう

確 かに遣唐使 の規模 は他 の道外使節 に比べて大 きかった し、六国史 に出る記事 の量 も多い。

しか し、遣新羅便 の意義 も見過 ごせ ない。特 に7世紀後半の天武 ・持続朝 の約30年 間、唐

(7)

東 アジア関係 史教育の変遷 35

との国交が絶 えていた時期 に新羅 との交渉は頻繁だった。 当該期 は、律令 国家形成期 にあた る 律 令 を導入す るにあたって、 日本の実情 に即 して中国律令 を修正 したことは周知の通 り だが、その際 に参考 に したのが新羅の制度であったことが指摘 されている(4)。 また、遣唐使

た。新羅 との交渉は 日本の律令 国家形成 に重要 な役割 を果 た したことが うかがわれる。

表3 小学校 ・中学校 ・高校の歴史教科書のなかの遣唐使記述

出版社 .ペ一一ジ 記. 事

小学校東京書籍新編新 しい社』6

p32‑p33 2聖 武 天 皇 と奈 良 の 大 仏 【大 陸 の 文 化 を学 ぶ 】

聖武天皇 は、中国 (磨)‑使者 (遣唐使)や留学生 を送 り、皇帝 中心の政治の しくみや文化 を学 ばせ ま したo/遣唐 便 たちは、あ ら海 を乗 りこえ、 ときにあ らしにあ うな ど、命がけの航海 を しなが らも、中国の政治や文化 を学 び、 臼 香‑ と持 ち帰 りま した○

*TF̲倉院宝物 の写真 あ りO 【鑑真の乗】 (コラム)の中に 「遣唐使船」 の図あ り

J学校大 阪書籍 2貴 族 の 政 治 と く ら し 【世 界 に つ な が る文 化 と鑑 真 】

東大寺 の止倉院 には聖武大畠の持 ち物や宝物 な どが数多 く残 されてい ます口そのなかには、 イン ドや西 アジアでつ く られ、遣唐使が小国か ら持 ち帰 つた と考 え られる もの もあ ります。 この ころの中国は、 シルクロー ド (絹の道) を通

小学社会』 6 じて、西 アジアや ヨーロッパ との交流が さかんで した○そのため、 日本 も中国 を通 じて、広 く世界の文化 とつなが り 年上 を もつてい ま したo/朝廷が天恩 中心 の政治 を進め ようとしていた ころ、遣唐使 や留学生 .僧が、命がけで海 をわた p24‑‑p25 り、中国の進 んだ文化や学問 .技術 を学 んで きま した○ 中国か らも、鑑真の ような僧や技術者が来 日しま した○

「シル クロー‑ドと遣唐使 の行路」 の問、「復元 された遣唐使船」、正倉院お よび宝物、鑑真像 の写真 あ りo 【苦難 を の りこえて 日本 にわたって きた鑑真】のコラムあ り

小学校光村 図書 2大 陸 文 化 に 学 ん だ 時 代 と 日本 風 の 文 化 ま え が き部 分

(見開 き2ペー ジに荒れた海のなかで傾 く 「遣唐使船の様 1‑(想像 図)」 あ り) あ らしの海 をこ ぎ進 むこの船 には、

中国 (精、唐)へ向か う使節の‑一行が乗 っていますo/ 7世紀の初 め、聖徳太子 は、初めて階に使節 を送 りました○

その後、朝廷 は、中国に造指億 や遣唐使 をたびたび送 りま した○ しか し、その旅 はあ らしによって船が しず んだ り、

目的地か ら遠 くはなれた土地 に流れ者いた りと、たいへ ん危険 な目にあ うことが多かつたのですo大陸 に着 いて も、

都の長安 までの長い陸路の旅が待 ってい ま した○出発か らとう着 までは、2、3か月 もの 日数がかか った もの と思 わ

社会』 6 れ ます○使節 たちは、何 を求めて中国 をめ ざ したので しょうか○

p26‑p27 遣 唐 使 の は る か な旅 】

p34‑p35 朝廷 は、 7咽 己か ら9Lu:紀の終わ りごろまでの間に、20回あ ま りも道幅便や遣唐使 を中岡‑送 りま したo Lか し、fM の航海は、 とちゆうで難破す るなど、危険の多い もので し○/ 中国へ は、使節 のほかに留学生や僧 なども送 られ ま したoかれ らは、中国の政治の仕組みや法律 、仏教 の教 えを学 び、 さらに、 さまざまな学問や文化、技術 を E]本‑ も た らしま した○

* 「難破 した遣唐使船の様子「当時のアジアの迫 と遣唐使 の行路」 の図、「鑑真像お よび倉院宝物の写真 あ り

命が けで海 をこえた鑑真】の コラムあ り

中学校教 育出版 81杜紀 には、朝廷 は、唐 にたびたび使 いを送 ったo造船や航海の技術 が未熟であったため、阿倍仲麻 呂の ように、船23古 代 国 家 の 発 展 【遣 唐 使 】

『中学社会 が難破 して 日本 に帰 れず、唐 で 雀 を終 えた人 もあつたが、遣唐使 は、進 んだ唐の制度や文化 を口本 に伝 えたo また、

史 未来 をみつ 唐 の倍の鑑真 の ように、苦難のす え口本 に渡来 し、仏教 の発展 につ くした人 もあったO

めて』p41

*

遣唐使船 (復原)」写真 あ りO「遣唐使船 の航路」の図が載せ られ 「朝鮮 の新羅や、中国東部の潮海 との間に も、

使節が行 き来 したo」 との説明あ りO

『中学社会学校大阪書籍

史的分野』p21 1編 3日本 の 古 代 国 家 の 形 成 【大 化 の 改 新 】

帽に代 わった強大 な唐 に対 しては、 H本 は、唐 の制度の優 れた ところを とり入れて、唐 に対抗す る国力 を高め ようと しましたoそ こで遣唐使 を送 って国交 を結ぶ とともに、階の時代か ら留学 していた人々を帰国 させ、唐の制度 を もと に国づ くりを実現 しようとしましたo

*

遣唐使船」 (復元)の写真が載せ られr荒海 をわたる とい う危険が ともない ましたが、外 国 との交流が、H本の 発展 に大 きな影響 をあたえ ました∩」 との説明あ り

*

鑑真像」 の写真が載せ られ、「唐 の僧鑑真 はR本 の政府 に招 かれ、遣唐使船 に乗 って苦難の末 に来 RL、寺院 や僧 の制度 を整 えま したOJ との説明あ り(

高校山川出版社 1部 第2葺 律 令 国 家 の 形 成 【遣 唐 使 】

7世紀か ら8世紀 にかけて、中国では唐の帝国が広大 な領域 をほこ り、西 アジアなどとの交流 によって国際色豊かな 文化 を発展 させ ていたo束 アジアの諸国はそれぞれ唐 と通交 し、その結果 、東 アジアの広い地域が、唐 を中心 とす る 共通の文化圏 を形成す るようになったo/朝廷 は、8世紀 にはいる と、ほぼ20年 に1度 の同数で、大規模 な遣唐使 を派

詳説 日本史』

B p47 遺 したo遣唐使の渡航 は、航海や造船 の技術が未熟 な うえ、大海 を横断す る航路 をとったこともあって、 きわめで危険であっ頁三「二示 し、吉備真備や玄肪 ら遣唐使 に したが つた留学隼や学 問僧 たちは、数多 くの困難 をの りこえ、唐 の 文物 を日本 に伝 えるうえに大 きな役割 をはた したo

*

「8世紀 中 ごろの東 ア ジア と日唐交通路」 の地図が載せ られ、「遣唐使 の航路 は、は じめ北路 をとつたが、新羅 と (註日 1)小 学校 と中学校 の教科書 に関 してはシェアの高 い3社 の もの (中学校教科書で最 も高い シェアを占める東京書籍の遣唐使記述 につ

いては表4を参照)、高校 の教科書 に関 しては最 もシェアの高い1社 の もの について見た0′J学校教科書 は、平成16年検定 ・同17 年発行o高校教科 書は、1997年検定、2004年発行。

(2)斜線/ は段落が えを示すO下線 は引用者によるO

(8)

過去の歴史教科書での遣唐使お よび遣新羅使の扱いはどうだったのだろうか。表2と表4 によると、「遣唐使

ということばは明治10年代か らすでに現われるが、「遣新羅便」は見出 されない。 まず、歴史教科書 中の遣唐使記述の変遷 をまとめると、次のようになる

4 遣唐使および新羅 との関係史に関する記述

明治14年 『新編 日本略 史』 明治16年 『小学国史記事本末』 明治20年 『校正 日本小史』

明治21年 『小学校用 日本歴史』巻之上 明治37年 『小学 日本歴史』 一 大正9年 『尋常小学国史』上巻 昭和18年 『初等科 国史』上 昭和21年 『くにのあゆみ』

昭和36年 『新 しい社会』 2 昭和46年 『新 しい社会 歴 史的分野』

昭和58年 『改訂新 しい社会 歴史』 平成4年 『新 しい社会 歴史』

14

午 也

【自推四年】 斉明天皇七年】

便 ヲ唐 二道ハス、大使二人、副使二人、学生沙門等之ニ従 ヒ、凡二百 是 ヨリ先 キ、百済、新羅 ノ侵 ス所 ト為 四十人余、船二隻二乗 シテ往 ク、‑船薩摩竹 門島ニ至 リ覆没ス、死ス リ、国殆 ト亡 7、其 臣鬼室福信 、散卒

ル者百余人 ヲ衆 メ、入テ王城 ヲ保 シ、恢複 ヲ囲ル、

【自推五年】 遂二位 ヲ遣ハ シ、援兵 ヲ乞 7、此ニ於

復便 ヲ唐 二道ハス、大使副使 各一人、大錦上高向玄理 ヲ以 テ、遣唐押 テ、将ニ兵 ヲ遣ハ シ、百済 ヲ技ハ ン ト 便 トス、玄理病 テ唐 ニ卒ス、八省 ヲ置 キ、百官 ヲ走 ムル、多 ク玄理 ノ ス、帝親 カラ筑紫二幸ス

考定 ニ出ル ト云、秋遣唐使帰ル 天智天皇元年】

天平七年】 三月、唐新羅 卜共こ高麗 ヲ伐 ツ、高麗

遣唐大使多治比広成唐 ヨリ帰 ル、学生吉備真備及 ヒ僧玄坊等、便 ト倶 急 ヲ告 ク、兵 ヲ発 シテ之 ヲ援 7、五月、

ニ帰 ル 大将軍阿曇比羅夫 ヲ遣ハ シ、百済 ノ王

宝亀元年】 子豊埠 ヲ立 テ百済王 トス

是歳遣唐留学生阿部仲麿、唐 こ卒ス、仲麿、性聡敏、読書 ヲ好 ム、年 天智天皇二年】

十六、留学生ニ択ハル、庸 二在 テ、姓名 ヲ朝衡 ト改 メ秘書監二幸 ル、 三月、新羅 ヲ伐チ、其二城 ヲ抜 ク、八 後帰朝セ ン ト欲 ス、海上風 二通 ヒ∴安南ニ漂泊ス、終ニ復唐 こ至 ル、 月、唐新羅 上白ー済二人ル、我軍利 アラ 是ニ至テ卒ス、仲麿 、唐 ニ在ル五十余年、身栄貴 ト錐 トモ、帰 ヲ恩 フ ス、百済 ノ軍人ニ潰ユ、豊嘩高麗ニ走 テ己マス、嘗 テ月 ヲ望 ミ、和歌 ヲ作 ル、後世伝へテ以 テ絶唱 トス 北軍尋テ帰 ル、唐遂ニ百済 ヲ滅ス

学生唐 二人ル】 三韓 ノ叛服】

我邦 ノ漠土二通ズルハ、蓋 シ神功后 ノ時 ヲ始 トス、其後我西辺 ノ姦民 斉明帝 ノ トキ、唐叉百済 ヲ滅ス、七年、

伴 テ倭王 ト称 シ、往 テ彼 ノ封爵 ヲ受 ケ其贈遣 ヲ貧 リシコ トア リ、推古 帝親 カラ朝倉宮二幸 シ、諸畢 ヲ督 シテ 帝 ノ トキ、始テ小野妹子 ヲ隔二道ハ シ、其後往来漸 ク繁 ク、鴻艦館及 之 ヲ救 7、会 々崩ス、天智帝遣詔 ヲ奉

16 ヒ遣唐使 ヲ置 ケ リ、大智帝以来、政律典礼皆唐制ニ模傍 シ、又土民 ヲ シ、益 々兵 ヲ発 シテ救援 シ、又百済 ノ シテ入唐留学セシム、業 ヲ成ス者多シ、文武帝 ノ トキ、僧道昭始テ禅 質子豊ニ命 シテ王 トナシ、帰 テ恢復 ヲ 学 ヲ伝へ、聖武帝 ノ トキ、安部仲麿遂ニ彼 レニ仕 テ左補欠こ至ル、其 閲 ラシム、豊敗 レ百済仝 ク亡 ブ、是ニ

後吉備真備僧玄肪 ト共ニ唐 二リ、真備帰 テ右大 臣ニ拝 ス、桓武帝 ノ 於テ1滴1始テ帰ル、高麗モ亦尋テ亡ブ、

トキ、僧最澄比叡 山 ヲ創 メ、嵯峨帝 ノ トキ、僧空海高野 山 ヲ開 ク、皆 元明帝 ノ トキ、高麗帰化 ノ民 ヲ武蔵ニ 唐 二人 リ教 ヲ伝へ シ者 ナ リ、其他才芸 ヲ以 テ名 ヲ彼地ニ播 メシ者亦 多 移 シ聖武帝 ノ トキ、又新羅 ノ人 ヲ武蔵 シ、宇多帝 ノ トキニ至 リ、菅原道真奏 シテ遣唐使及 ヒ留学生 ヲ罷 ム、 こ置 ク、今 ノ高麗郡新羅郡是ナ リ、仁 蓋 シ近時唐 国凋弊 シ、文華稽 ゝ衰へ、且 ツ海路険悪ニシテ、往 々覆没ノ患 アル ヲ以テナ リ、而 レ トモ僧徒 ノ往来 スル者後世二重 ルマテ絶エ 明帝承利 九年、新羅 ノ朝貢 旧制ニ遵ハザル ヲ以テ、詔 シテ之 ヲ倖 ム、神功 ノ

ズ、嵯峨帝 ノ廃太子高岳親王モ亦僧 トナ リ唐 二人 リ、遂ニ酉域 ニ赴テ 征韓 ヨリ、JL/'ヾ百四十余年ナ リ 豪ス ト云 フ

天智 ノ中興 大ニ制度 ヲ走 ム】 蝦夷粛憤 三韓 ヲ伐 ツ】

是 ヨリ先こ、支那ハ、惰亡 ビテ、李淵 トイフ者、帝 トナ リ、国号 ヲ唐 時二、三韓モ亦乱 レテ、数年戦争lLマ ト改 ム、此後、屡 々使 臣ヲ遣 ル、 コレヲ遣唐使 トイ7、唐 ノ使 臣モ、 ズ、新羅、唐 ノ兵 ヲ借 リテ、百済 ヲ伐 亦時々来ル、其他 、常 ニ留学生 ヲ送 リ、学術 ヲ学バ シメ、其久 シキ交 、百済援 兵ヲ乞 7、斉明帝、親 シク 通二田 リテ、凡 ソ彼 ノ制度法律文学芸術等 、百般 ノ事業 ヲ俊へ伝へザ 救ハ ン トシテ、西征 シ、筑紫 ノ朝倉 ノ

ル コ ト無 シ 宮 ニ至 リテ崩 ズ、太子兵 ヲ遣 リテ、唐

20 道鏡ノ騎借】 ノ兵 ト戟 ヒテ、利 アラズ、百済遂ニ亡

平城 ノ朝こ、学士 ノ庸 二留学セル者多 シ、就 中、阿倍 ノ仲麻 呂吉備 ノ ブ、是 ヨリ先二、三韓征伐 ノ軍、屡々 真備二人、才学 ノ名最モ唐 ニ顕ハル、皆玄宗帝李隆基 ノ世ニ当ル、仲 起 リテ、久 シク止 ム時ナカリシガ、此

テI= 麻 呂ハ、唐 二死 シ、真備ハ帰朝 シ、後、右大 臣ニ至 リ、文学 ヲ興 シ、 時 ヨリ略 や止 ム

朝政 ヲ輔 ク、年八十三二シテ寛 ズ 広 嗣 ノ乱 聖 武 、 仏 ヲ信 ズ 】

都 ヲ平安 ニ走ム 蝦夷大 ニ平グ】 新羅屡 々入貢 ス、病癖 、始 メテ、新羅 僧 ノ最澄 トイ7着、嘗 テ入唐 シテ、天台 ノ教 ヲ受ケ、帰 リテ、近江 ノ ヨリ伝染 シ、国人大二死 ス

比叡 山ニ延暦寺 ヲ開ク、 ....空海嘗テ唐 ニ至 リ、真言 ヲ伝へ、帰 寛平 ノ治】

リテコレヲ弘 メ、其宗 ノ祖 トナル、弘法大 師 ト称 ス 是 ヨリ先 こ、仁明 ノ朝こ、新羅 ノ来朝

寛平 ノ治】 ヲ禁 ジテ ヨリ、三韓 ノ往来絶エ

宇多 ノ朝ニ至 リテ、遣唐使 ヲ廃 ス、初 メ、推古 ノ世こ、支那二通ゼ シ

(9)

東 アジア関係史教育の変遷 37

大 化 ノ新 政 】 大 化 ノ新 政 】

是 ヨリ先 キ三韓及 ビ隔唐 ト交通 シ、彼国ノ文学技芸 ヲ輸入シテヨリ、 是 ヨリ先キ三韓及 ビ隔唐 ト交通 シ、彼 我邦 ノ人智漸 ク開発 シ、随テ新 ヲ好 ミ旧株 ヲ塵 フノ情俄ニ興 リ、社会 国ノ文学技芸 ヲ輸入シテ ヨリ、我邦 ノ ノ形勢亦古代 ノ如 クナラズ、質朴簡易 ノ風一変 シテ華美繁重ニ遷 ラン 人智漸 ク開発 シ、随テ新 ヲ好 ミ旧様 ヲ

トス 堅 フノ情俄ニ興 リ、社会 ノ形勢亦古代

遣 唐 使 及 ビ留 学 生 】 ノ如 クナラズ、質朴簡易 ノ風 ‑一変 シテ 大化中興ノ後、朝廷大ニ唐制 ヲ採 リ用70是ニ於テ屡々大便 ヲ発達 シ、 華美繁重ニ遷 ラン トス○

頻ニ留学生 ヲ差ハ ス○其初 メ吉士長丹 ヲ使 トスル時、学生 ノ随 フ者僧 俗合 シテ百二十一人ナ リo河内ノ人道照ハ唐僧玄非 ヲ師 トシ、因明 ノ 学 ヲ受 クo印度論理 ノ法始 メテ我邦ニ伝 レリ○次デ阿連麻 呂ヲ大便 ト ス○高向玄理等数十人亦随ヘ リ○是 ヨリシテ支那 ノ学術文章漸 ク我邦 ニ行 レ、律令詔疏漢文 ヲ用 フルニ至ル○文武帝 ノ時二葉田真人 ヲ通庸 執節使 トナシ、高橋笠間ヲ大便 トシテ、副使以下数十人ヲ唐二道ハス

真人学 ヲ好 ミ能 ク女 ヲ属 リ、進退度アリ、庸二在ルコ ト二年ナ リシガ、

唐廷其容儀温雅ナルヲ称セ リo元正帝 ノ時ニ大伴願守 ヲ大便 トナシ、

大判官一人、少判官二人、大録事二人、少録事二人、井こ留学生安倍 仲麻呂、吉備真備、僧玄肪己下凡テ五百五十七人 ヲ唐 二道ハスo留学 ノ徒最モ多 シo仲麻呂学問該博ナ リ、唐朝ニ仕へ、姓名 ヲ改 メテ朝衡

21

ト日70官秘書監ニ任 ジ、後ニ散騎常侍 トナリ、甚 ダ寵任セラルo唐 ニ在ル五十余年こシテ卒スo真備庸二往テ学ブコ ト十八年、聖武帝 ノ 時ニ帰朝ス○精 ク経 史二通 ジ、兼テ衆芸 ヲ綜ベ、陰陽、.暦、算等熟達 セザル所ナシo朝廷之 ヲ重 ンジ大学助ニ拝 シ、学生 ヲ教授 セシム、後

ニ右大臣 トナ レリo真備 ノ大学ニ在ル、五経、三史、明法、算術、音 韻、籍某 ノ六科二分チテ授業セ リ ト云 70朝廷始 メテ留学生 ヲ置キテ ヨリ是ニ至 リ百三十余年ナ リ○我邦 ノ文学是こ於テ盛 ナリ トス○/

謙帝 ノ時こ、藤原浦河 ヲ大便 ト為 シ、大伴古麻呂ヲ副使 トシテ、留学 生数十人 ヲ附シテ庸二遣ハス活河等庸 二在テ元会二速 7、唐主玄宗 蓬莱宮ニ御 シテ朝賀 ヲ受 クo活河等 ヲ西畔ノ第二位 トシ、吐蕃 ノ下ニ 列 シ、新羅使 ヲシテ東畔ノ第一位 トシ、大食国ノ上ニ列セ シムo古麻 呂肯ゼズシテ日ク、新羅古 ヨリ我邦ニ朝貢セ リ、而ルニ今反テ東畔 ノ 上位ニ置 ク、理固 ヨリ当ラズ ト、言色共ニ腐 シ、乃チ新羅便 ヲ引テ吐 蕃 ノ下ニ就 カシメ、古麻呂等 ヲ進 メテ大食国ノ上ニ列セシムo桓武 ノ 時こ、藤原葛野麻 呂巳下数十人 ヲ唐二道ハ ス○僧空海、最澄等亦入唐 スo其後、宇多天皇ニ至 リ、菅原道真 ノ議ニ囚 リテ遣唐使留学生 ヲ止 ム、此 ノ時唐政既ニ裏へ屡 々戦乱 ア リ、使 スル者戎ハ賊二道 ヒ身ヲ亡 ス コ トアル ヲ以テナリ

最 澄 空 海 大 ニ仏 法 ヲ弘 ム】

最澄ハ近江 ノ人ナ リ、七歳ニシテ学 ヲ受 ク、十二歳ニシテ僧 トナ リ、

博 ク経論 ヲ学 ビ、遂ニ遣唐使ニ従 ヒ入唐 シテ天台山ノ通達 ヲ師 トシ、

天台 ノ教義 ヲ授 カルO ‑ .空海ハ讃岐ノ人、幼ニシテ、穎悟 ナ リo 延暦 ノ未ニ遣唐使 ニ随 ヒ唐二人 リ、僧慧果ニ従 ヒ、密教 ヲ受 ク、居 ル

コ ト三歳ニシテ帰 リ、遍 ク諸国 ヲ巡 リ、衆生 ヲ教化スo

聖 武 天 皇 】 天 智 天 皇 と藤 原 鎌 足 】

このころには、唐国 との交通 しげ くな りて、世の中、ます ます、開け、 これ よ りさき、三韓 には、たびたび、

は じめて、歴 史、地理などの書物 もで きた り、都 も、これ までは、た 騒あ りて、朝廷 より兵 をさしむけたま

37 いてい、御代 ごとに、かはるならひにて、粗末 な りLが、 この都 は、 ひしことも、少からざりきo しかるに、

唐 の都 にならひて、 りつばなもの とな り、 これよ り、七代七十余年の この時にいた りて、新羅 は、支那の唐

間、代代、 ここにましましきo この間を奈良の朝 といふo 国の助 をか りて、百済などを亡 し、つ

‑J と ひに、わが国よ りはなれたるな りo

伝教大師は近江の人な りoその名を最澄 といふ○早 く、延暦寺 を比叡山にたて Lが、桓武天皇の仰せ を受け、延暦二十三年、唐 に入 りて仏

E 教 を学 び、翌年、帰 りて、天台宗 を、わが国に、つたへた りo これ よ

り、この宗わが国にひろまれ りo後 に、最澄 は、朝廷 よ り、伝教大師 をいふお くり名を賜 は りた り○/最澄 と同 じ頃、また、空海 といふ名 高 き僧あ りき○空海は讃岐の人な り○最澄 と同 じ年 に、唐 に渡 り、留

学すること三年の後、帰 りて、わが国に真言宗 をひろめ、 ことに、嵯峨天皇の御信任 を得て、は じめて、高野山を開 き、金剛峯寺 をたてた o

聖 武 天 皇 】 天 智 天 皇 と藤 原 鎌 足 】

奈良時代の中にて最 も盛な りLは、第四十五代聖武天皇の御代 な りo 此の頃支那は唐の代 にて、勢甚だ盛 な 9 此の頃は唐 との交通 しげ く、世の中大いに開けた りしかば、都 も唐の りLが、新羅 は其の助 をか りて百済 を

..一 風 にならひて りつばなるものとな り、宮殿 などの建物 は壁 を白 く、柱を赤 くぬ り、屋根 には瓦 をふ き、人人の風俗 もすべてはなやかにな り ほろぽきんとせ しかば、百済の人人すくひを朝廷 にこ‑ り○皇太子すなはち

イ丁

た り○弘 法 大 師 天皇 を奉.が、天皇間 もな く行宮 に崩 じた まひ しじて九州 にお もむ きた まひ し

(10)

神童のほまれあ りし上 に、 ます ます学問にはげみ、遂 に桓武天皇の御 十八代天智天皇 これな りo天皇兵 を出

代 に、唐 に渡 りて仏教 を学び、三年 の後かヘ りて、我が国に真言宗 を して百済 をす くは したまひ しに、我が

伝‑ た り 麗 もまた唐 にほろぼされ、新羅 ひとり単利 をう しなひ、百済は程 な くほろび労す るこ との不利 なるを見 たまひ、遂威 をふ るふ に至 り、 これ よ り朝鮮 は全に之 を引上 げ しめたまへ りoついで高は此の後 もなほ交 を絶 たぎ りきoしかば、天皇 はなが く我が軍 を海外 にく我が国 よ りはなれた り○ され ど唐 と

1

8 遣唐使 と防人】 大化 の まつ りごと】

天武天皇の ころか ら、半 島 .大陸の形勢 もお ちついて、国々の間が ら この ころ半 島では、新羅の勢が ます ま は、 よほ どした しくなって来 ま したoわが国は、唐へ遣唐使 を送って す強 く、大陸では、唐 の最 も盛 んな時 威風 を示 し、唐の使節 もまた、たびたび来朝 し、新羅 も、前 どほ りみ 代 であ りま した○ しか も、 この両国が んで、遣唐使 を出 した回数 も、この ころがいちばん多かつたや うですo ので、わが国は、わざわざ兵 を送って、

/遣唐使 の一行 は、留学生 を加‑ て、五百人以上の人数であ りましたo 百済 をたす けたのであ りますが、やが 難波か ら船 を出 して、博多 に寄 り、束支那海 を横 ぎつて大陸‑向かひ て、百済 も高句麗 も、相ついでほろび

ますo当時の船 は.、外海の荒波 を乗 りきるのに、決 して十分 ではあ り て しまひま した○わが国にのがれて来つい保護 を受 け ま した○/か くて新羅た、た くさんの百済人は、みな、てあ ませ んで した○ しば しば吹 き流 された り、 くつがへつた り、 まった く

命が けの航海であ りましたoそれで も、海外へのびようとす るわが国

民 は、 よ くこの困難 に打 ちかち、その務め をはた したのであ りますo や唐 は、いつわが国へ攻め寄せ るかわ /使節が唐‑行つてのふるまひ も、 まことに りつばであ りま した○唐 か らない形勢 とな りました○

の国王が、使節の礼儀正 しいの に感心 して、 日本の国が らをはめた話 遣唐使 と防人】

もあ ります○ また、わが国の面削 こかかはるや うな扱 ひを受 けたため、 わが国は、唐‑遣唐使 を送って威風 を 相手 を手 きび しくや りこめた使節 もあ りますo留学生の中で も、名高 示 し、唐 の使節 もまた、たびたび来朝 い阿倍仲麻 呂は、わづか十六歳で支那へ渡 り、その名 を唐 にとどろか し、新羅 も、前 どは りみつ ぎ物 をたて しま したo帰 りに船が吹 き流 されて、なつか しい奈良 をふたたび見る まつ りま した(,

ことがで きず、つ ひに大陸で一生 を終 りま した0 ...このや う に、奈良の御代御代 には、東亜の国々が した しく交つて、共栄の喜 び を分つてゐ ましたo

天皇 は また、新 しい仏教 を興 して平安京】 、Lu:の中に役だつや つに したい とお 考‑ にな りま したoそ こで、最澄 と空海 とをお選びにな り、唐‑渡つ

て仏教 を研 究 して来 るや う、お命 じにな りましたo どこまで も国のためになる、新 しい仏教 を興 さうといふ意気 に もえて、二人は、熱心 に 唐 で勉強 しま した0 .‑ 支那では、 この ころ唐がお とろへ始めた ので、大陸 との交通 も前 ほ ど盛 んでな くなって来 ましたが、 しか も 尊 い御 身を以て、支那 ばか りか、遠 くマラ イ方面 までおでかけになつ たお方があ ります〔)それは、桓武天皇の御孫真如親王で、親王 は、は じめ空海か ら仏教 をお まなびにな り、第7日 六代清和天皇の御代 には、

磨‑渡って、その研究 をお深めにな りま したo

太宰府 】

道真 は .. .朝廷 に仕‑ てか らも、国史の本 を作った り、遣唐使 を やめることを奏.卜した り、なかなかす ぐれた意見 を示 しま したo特 に 遣唐使 については、 この ころ、唐 がすっか りみだれてゐ ましたので、

支那の ことを研究す ることは、 まった くむだなことだ と見て とつたか らですo

2

1

大 陸の ようす】 大宝律令 】

か う してゐる間に、支那では隔が ほろびて唐 がお こ り、‑そ う盛 んな 朝鮮半島では、新羅の勢 ひが、 ます ま 国 とな りま したoわが国では、ひ きつき遣唐使 を送 って、唐 と国の す強 く、唐 と力 をあはせて、百済 をほ 交 は りをつづ けてゐま したので、そのや うす はす ぐにつたへ られ まし ろば しま したので狛 剤 ま、わが国に た○ これ を見聞 きした人人の間には、わが国 も、唐 の政治の しくみな たすけ を求めて きましたoわが国は、

どを見な らつて、国の中をととの‑ なければならない といふ考へがお 兵 を出 して、百済 をもう一度 もりたて

こつて きま したo ようとしましたが、唐の勢ひが強 くて、

改新 の政治】 うま く行 きませ んで したo この間に、

中人兄皇子が皇太子 とな られ、鎌足や、支那 に勉強 に行って、帰 って 中大兄皇子が位 におつ きにな りましたo きた人人などを、重 くお用 ひになって、古いならは しを、 とりのぞ き、 これ を、天智天皇 と申 しますo/天皇 新 しい政治 をおは じめにな りま したo は朝鮮 の ことよ りも、政治のたてなほ

El 遣唐使】 Lをな しとげることの方が、 もつ と大

百済の ことで、一時あ らそった、わが国 と唐 とは、またぢ きに仲 よ く せつである、 とお考へ にな り、兵 をおな りま したO もとのや うにわが国か ら、唐‑遣唐使が行 き、唐 か らも 引 きあげにな りましたo ここでわが国 使 ひが きましたo/新羅 とも前通 りつ きあ ひが行 はれ ま したo遣唐使 は、朝鮮半 島か らすっか り手 を引 くこ の,は四せ きの船 に分れて乗 り、難波 (.一行 は留学生 を加‑て、五百人 をこえることもあ りましたo これ ら今の大阪)の港 を出て、筑前の博 とになったのですo遣唐使】

多 によ り、乗支那海 を横 ぎつて大陸‑向か ひますoその ころの船で外 新羅 とも前通 りつきあひが行はれました○

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