美諸島史把握の基礎的作業
著者 弓削 政己
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 38
ページ 1‑63
発行年 2012‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00007983
奄美諸島史近世の歴史叙述は、薩摩藩による黒糖専売制の収奪について多くを占めている。それは、一六○九(慶長一四年の島津氏侵攻以後、藩統治下の七割近くの年月を占めるため当然といえる。また、その叙述中に、藩「圧政」の論拠として一七○六(宝永三)年、藩は奄美諸島に対し系図差し出しを命じ、奄美諸島の古文書を取り上げ、焼き捨てたという「史実」が一八九一(明治二四)
年以降述べられている。この系図・古記録の焼き捨て論(「系図焼棄」論と称する)は、奄美諸島の市町村誌をみると、一九八五年発刊の『和泊町誌(歴史編屋までおおよそ一世紀にわたって連綿と続き、個人出版物にも はじめに
奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談』の背景
l奄美諸島史把握の基礎的作業I
弓削政己
奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談』の背景 1
述べられている。その結果として、「奄美の歴史が描けない」、「歴史を煙滅した」、「奄美諸島民の誇
りが失わされた」という理解が現在も根強くある。そのため、ここではその是非を検討しつつ、今日まで系図焼棄論が受け止められている背景につい
て明らかにしたい。
さて、この認識を最初に述べたのは、名瀬出身の都成植義が著した『奄美史談』である。それは、’九○○(明治三一一一)年に「鹿児島県大島郡教育会」が初めて孔版本として出版したため、広く知ら
(1) れるようになったと考えられる。この『奄美史談』は、奄美諸島史の歴史研究として、近代初期にまとまった最初の書であり、今日引き継ぐものは多い。また、この書の提起を受け止めていたら近代の歴史解釈で間違いを起こさなかっただろうと思われる点もあり、奄美諸島史研究にとって大きな役割を占めている。それだけに、逆の意味でも今日の段階から見て、修正したほうがよいと思われる点がある。それがここで取り上げ
る系図焼棄論である。この解釈に対する批判的検討が出始めたのは、ようやく八○年も過ぎて、しかも奄美諸島外部の研究者によってである。まず一九七一一一年、一一一木靖「喜界島と島津藩政」(「南日本文化」第六号鹿児島短期大学南日本文化研究所)が、「系図文書を取り上げることを目的にしたことは考え難い」、「増大する庶家等の整理統
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その後、本格的に批判検討を加えたのは、一九八八年の石上英一「古奄美諸島社会史料研究の予備的考察」s日本古代の国家と村落」塙書房)であった。石上は、喜界島の孝野家、大島の元家、笠利氏、嬉姓喜志統親方、松岡家文書、田畑家文書の系譜・家譜を例示し、「焼棄論」はあり得ないこと、’七○六(宝永一一一)年前の一六九五(元禄八)年にも系図差し出しがあったが、それは、与人層の身分特権に対処するためであるとして「いわゆる文書・系図差し出しの事例の目的や経緯を再検討することが必要とされている」と系図差し出しの一般的理解を戒めている。さらに踏み込んで系図が焼棄されたという理解が、研究者側の史料調査不足を招くという問題点も指摘した。また、二○○’一一年、「古奄美社会の一七世紀における近世的編成の前提」で、徳之島の「政家系図」を基に一六八八(貞享五)年六月には系図がつくられたと作成時期を示した(『日本律令制の展開」吉川弘文館)。二○○六年にも「元和九年大嶋置目の諸本の再検討」で不明文言がある「政家系図」史料を「義家系図」で補足した(『黎明館調査研究報告第旧集乞。同年の二○○六年、林匡は、「薩摩藩記録奉行市来家年について」で、都成植義が引用した一七○ 括の再編のため」と述べる。一九八三年、松下志朗『近世奄美の支配と構造』(第一書一男)は、系図焼き棄てについて、はっきりしないとしてその考えを留保しつつ、系図差し出しは、奄美諸島の「秩序の再編」のためと指摘すフ(》。
奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談」の背景
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今日知られている『奄美史談』以前の一八九一(明治一一四)年一二月の「緒言」のある「奄美史談全南海庵所蔵』(鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)も新たに見つかった。そこでは、系図を出ざない者には「答刑ヲ与へ槍奪」したとまで述べる。その点も視野において、なぜ都成がこのことを 六(宝永一一一)年の系図差し出しの「差図」の文一一一一口が、一六九七(元禄一○)年の鹿児島の火事により、藩が系図再集をした時の文言と似通っていること、また、一七○六年の系図差し立ては、奄美諸島だけではなく、藩内にもあった事を藩内史料で明らかにしたs鹿児島地域史研究』恥3)。
一方、奄美内部でも、二○○○年前後から批判的検討が出始め、市町村誌にもその視点が出始めて
{O』〉きた。しかし、今日まだ一般的認知はされていない状況である。そのため、筆者の以前からの問題意識とともに、奄美内外の研究者による系図焼棄論批判を念頭に置きながら以下のことを明らかにしたい。
第一に、奄美諸島における系図差し出しは、数回あったため、差し出しごとの性格を把握しつつ、結論から一一一一口うと、系図焼棄論について否定的見解を述べる。
第二に、都成植義が示した系図差し出し「申渡」の史料からは、ただちに系図が焼棄されたという
結論は導かれない。「申渡」は系図・古記録等の差し出しを命じ、かつ藩記録所で写したら、返却するという内容である。しかし、都成は返却されなかったとして根拠を示さずに、焼棄されたと主張し
た。
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主張したのかを検討する。第三に、今日まで、なぜこの考えが連綿として続いていたかという歴史的背景を検討しなければな
らない。そのうえで、今後の研究課題を述べてみたい。この第三の点は、単に系図の焼棄があったかどうかという議論に収數できない奄美諸島史研究の方法や認識に重要な問題を含んでいると言える。その意味する事は以下の点にあると考える。
まず、広く「史実」として受け止められていても、歴史学における重要な方法の一つである史料にもとづいて新たに検討しなおすという方法論の希薄さという点で課題を残す。それは、先学の歴史研究に対して史料不足ということで「批判的検討の弱さ」をも示す。しかし、一方このような歴史認識
や意識が強固なまで続いている中で、単に史実ではないと言うだけでは、現実に生きている人々の理
解は得られないであろうということである。重要な点は、そのような意識の成立要因や背景まで明らかにする必要があると考える。
以上のことは、困難な課題であることを理解しながらも検討することが必要であり、その上で、新たな歴史像が見えてくると考える。その点で、系図焼棄論は、近・現代の奄美諸島史とそこで生きていた方々の歴史と結びついている、現代と歴史学の関係を如実に示しているテーマの一例である。
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まず、長い引用になるが、「奄美史談」が論拠とした「大島政典録」という史料の元資料と考えられる一七○六(宝永三)年の「申渡」を『大島要文集」(東京大学史料編纂所蔵)から提示する。
|系図文書旧記持合候モノ、自分ノ氷ニテ系図文書且亦他ノ家ノ系図文書、或古写ノ類、或旧記
ノ類、知行古目録坪付等迄、不依何品書付御家ノ御系図、御家ノ儀二付、御由緒記候写シ、持合ニハ不残可差出候。系図文書乍持合、此節不差出召置、已後、右ノ系図文書ヲ家之證拠一一申立儀有之候共、用間敷候間、正文・写一一無構、惣テ差出シ候様ニ相心得可然事。|系図文書、此節差出候ハ、、於御記録所写相済候テョリ、可相返候。御物二被召上儀ニテハ無
之、必可被差下候間、内々致其心得、持合候モノ差出候様二而可然候。|系図文書、無之者ノ内ニモ、先祖差立家筋ノ由緒・家伝、於有之ハ、委細書付可差立候事。|寺社方ノ儀モ右同断。右之趣、所中不洩様一一申渡之、無滞差出候様、島中江申渡、書付取揃、御方付状二而可差越旨、御差図二而候。以上。
戌十月二十日堀甚左衛門(印) 都成植義の系図取り上げ、焼棄論について
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内容は次のようなものである。①自分や他の家の系図文書、旧記、あるいは古記録を写したもの、旧記の類、知行古目録坪付(琉球王府の「辞令書」や薩摩半初期文書の「知行目録」等)などのようなものでも、また、「御家ノ御
系図、御家ノ儀」すなわち、島津家の系図や記録などの由緒を記した写など、持っているものは残らず藩に差し出すように。
②今回、差し出さずに、以後、これらの系図文書を証拠にいろいろ申し立てても、取り上げない。③したがって、正文か、写しかということは、かまわないので、すべて差し出すように心得る事。④系図文書を今回差し出し、藩の記録所で写し終わったら、返却をする。藩が召し上げることはないので、そのことを理解して所持しているものを差し出すように。⑤系図文書がなくても、先祖の家筋の由緒・家伝がある者は、詳しく書き付けて差し出すように。 大島代官右之通被仰渡候問、奉得其意、右品々待合候者ハ、可差出候。尤問切中江右躰ノ物、無之候ハ、、其旨可有申渡候。以上。
宝永三年戌十一月十八日川上孫右衛門(印)
奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談』の背景 7
⑥寺社のほうも同様である。以上のことを島中に申し渡し、滞りなく差し出すようにし、書付を取り揃え、代官の「付状」を
もって差し出すこと。
(左}これを受けて、大島代官の川上孫右衛門が与人らに充てたのであろう。この中で、間切中に系図文書などがない場合は、ないということを申し出ることなど、系図・古記録等の差し出しを徹底している。都成は、この「申渡」の大枠を、現段階で未掌握の「大島政典録」からとして提示する。そしてこの「申渡」史料の前文で、根拠は提示されていないが「宝永三年、島民ガ所持セル系図及文書ヲ取揚ゲ、記録奉行一一於テ之ヲ焼棄シタリ、蓋シ本郡古代ノ事迦ヲ記シタル文書ナキハ之レガ為ナリ」と自分の結論を述べた。つまり、①一七○六(宝永一一一)年一○月二○日の藩取次役から大島代官宛、ついでそれを受けた十一月十八日付代官よりの系図差出の「申渡」史料を提示して、系図を焼き棄てたという。②そのことが、奄美諸島に古記類の文書がない理由であること、③その結果は、「系図及ビ文書ヲ取揚ゲテ種族ノ階級ヲ破」と主張する。都成の「階級ヲ破」という事の意味は、島の役人を「百
(3) 姓」とした事を示すと考える。その後の奄美諸島史に関するほとんどの諸本は、それ以上の検討をしないまま、系図焼棄論を前提に歴史を解釈していた。奄美諸島史における中心的な命題である系図差し出しについてのこのような
理解が一九○○年代まで奄美諸島の市町村誌に記載されている。
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琉球では、一六八九(康煕二八・元禄一一)年に、系図座が設置ざれ王府から家譜の提出が命じられ、士族と百姓の二大身分が確立してきた。その事は、いわゆる琉球支配下の奄美諸島の「古琉球」
時代は、もともと系図はなかったことを示している。それを一七一一一○(雍正八・享保一五)年「系図
座規模帳」は「覚一御当国往昔は氏名・名乗・系録無之、諸事之日記も取失」と、系図はなく、諾
(4) 事の日記も取失ったと述べている。薩摩藩統治下となった奄美諸島の系図等差し出しについては、奄美諸島与人自らの「訴訟」(お願い.訴え)やそれに類するものと藩命によるものこつに区分される。まず、藩命以外の系図差し出し
について触れる。 ただ、「名瀬市誌』上巻(一九六八年三月)は、「古文書隠滅策」(「とりあげ」政策)としつつ、島民への支配体制が確立し、島役人の土豪的意識、島津家との系列意識が不要になったための「文書隠滅」つまり、身分制との関係でとらえているという点では、他の町村誌とは違っている。しかし、「隠滅」という理解は残っている。
二島役人与人による系図差し出し「披露」、「訴訟」の理由
奄美諸島の系図焼棄論と『奄美史談」の背景 9
1、貞享五年、徳之島の「政家系図」と「義家系図」琉球王府から派遣された首里之主を始祖とする義家系図によると、「千時、貞享五辰六月大島慶左衛門殿御在島之殉、一類手広有之由、被聞召、系図御調、御家老衆新納又左衛門殿へ被為掛御目候処、珍敷類中広有之由、御褒美之御返礼慶左衛門殿ヨリ古仲方へ被下之二付、系図二添置者也」とある。義家、政家同文のこの史料によると、|族は有力者ということで、一六八八(貞享五、九月より元禄元年)に徳之島代官の大島慶左衛門が、系図を調べ家老へもお目にかけたところ、かなりの有力一
族という事で、返礼として褒美を古仲に下されたため、それを系図に添置いたとある。その後の系図記載について「但書」によると、虫喰と字形が確かでなく、子孫も多くなったので自分たちで書き加える事が難しくなったため、義家または政家は、一七一一一(正徳一一)年春から二年間、徳之島代官所勤務である附役の木上清左衛門に一七一三(正徳一二)年「相頼改置」いたとある。
この藩士の附役木上清左衛門へ依頼をするという事からして、藩が一七○六(宝永三)年に系図を差
し出させ焼棄したという状況は考えられない。しかも、この事例は、義家、政家に系図が一七○六(宝永一一一)年以後も歴代存在していたことを示す。さらに虫喰と出生が多人数となったため、明治九年五月に木場善兵衛に頼み「改之」とある。これからすると、系図の取り上げ・焼棄という事を「史
(5) 実」としては読み取れない状況を示していると一一一一口えよう。
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2、元禄四年、喜界島上国与人所有「文献」の藩主への「棒」、披露薩摩統治以後、一六九一(元禄四)年から一七○六(宝永三)年まで、与人は毎年上国を命じられていた。その後、経費の節減という表向きの理由で、上国は御慶事等の場合に行うと上国時期は不定
期になり、制限された。「金樽一流系図」によると、「元禄四年…郡志頭奉願御目見之事、捧所笥蔵之於文献三通。一通ハ御證文、一通ハ知行目録、一通ハ喜界島置目御条書也」とある。’六九一(元禄四)年、大島、喜界島、徳之島、沖永良部島から与人が上国した。喜界島からは川峰村居住の与人郡志頭であった。他島は史料上不明であるが、喜界島の郡志頭は、藩主への御目見を願った際、「笥蔵」する「文献一一一通」を「棒」げた。その三通は、「御證文」、慶長一八年の藩家老からの「知行目録」や元和九年の「喜界島置目条々」である。御證文というのは、琉球王からの辞令書かとも考えられる。
この年の八月一○日の御目見は、藩主が江戸詰めであったので実現しなかった。代わりに本丸で佐
(6) 多豐州、王に御目見した。このばあいの古記録提出は、藩、王に御目見するための身分を明らかにするた
めの、「披露」の性格が考えられる。
11奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談』の背景
S、元禄八年、奄美諸島与人からの系図差し出し大和浜の「和家文書」によると、一五一一九(嘉靖八)年一一一月二五日、’五七一一(隆慶六)年正月一八日、一五七九(万暦七)年五月五日付の琉球王からの辞令書三点、また、薩摩藩家老名の一六一一一一(慶長一八)年九月一一四日付の「知行目録」一点、一六一一三(元和九)年閏八月一一五日付の「大島置目条々」|点の計五点を、一六九五(元禄八)年、大島代官伊地知五兵衛へ「差出」した。
-7) その後、文書一点ごとに以下の文一一一口が記載されている。
つまり、文書五点を和家は「訴訟」のため大島代官伊地知代官へ差し出し、勤務を終えた伊地知大 此本書之儀、依訴訟に中原伊兵衛殿へ御取次にて差上置候間、写如此に候以上大島先代官
伊地知五兵衛印元禄九年子九月十八日
屋喜内川地
一渡)士連佐渡知
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島先代官は中原伊平衛へ取次ぐ、つまり「差上置」いた。そして、差し上げ置いた写しを、和家の川
内と東問切渡連の与人職であった佐渡地へ一六九六(元禄九)年九月一八日付で返却したことを述べ
ところでこの与人が系図差し出しをして返却きれたのは、和家だけではなく、奄美諸島全体に返却されている。そのことが、一七二(正徳元)年八月、島役人が金・銀譽をしている歴史的経過を述
(8) べている文雲已の中にある。 ている。
(前略)島中ノ御捷書・御家老様御判物ノ御直書頂戴仕候、右由緒ノ儀ハ、大島ニテ右ノ子孫共
代々与人役無断絶相勤来候者共ヨリ御訴訟申上候趣二付、元禄八年亥五月大島御代官伊地知五兵
衛殿御差上置被成候、御家老様御判物之御書付、若御見合ニモ可罷成儀御座侯ハ、、五兵衛殿御取次ニテ差上置候写、所持仕居申候(後略)
正徳元卯沖永良部島与人平永山
八月日
喜界島与人 徳ノ島右同
真佐知 儀問
13奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談』の背景
この文書中に、若し、御徒書、御家老様御判物の御書付をよく検討し判断するのであれば、一六九五(元禄八)年に大島御代官伊地知五兵衛取次で差し出し置いた「写」を「所持仕居申候」、つまり奄美諸島の与人らは所持していると述べている。
以上の点で、一六九五(元禄八)年の系図差し出しの写しは、焼棄されていないことになる。
それでは、この年の系図差し出しの理由はなんであったのか。伊地知がこの系図差し出しと写しを返却したという文言の背景は、薩摩藩の奄美諸島民に対する身分編成があったためである。まず、一六一一三(元和九)年八月一一五日付で、藩は「大島置目条々」により琉球統治時代の位階制
を示す「鉢巻」を琉球から「ゆるし取る」ことを禁じた。その一一一年後の一六一一一五(寛永一一一)年から宗門手札改めが実施された。一六九五(元禄八)年の伊地知大島代官以前までに一○回の宗門手札改めが行われている。そのため、一○回のどの年代か不明だが、与人ら奄美諸島の役人は百姓身分として手札に記載された。その記述が一七一一一一一(享保八)年五月二六日付の大島間切与人一一一一人の訴中(「乍恐奉追訴候口上 大島与人麻呂父仁
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覚」)に、「其後初て手札御改被仰渡候節、手札裏二御奉公人と百姓之分ケ相替御座候段、遠島之所故無案内――て其殉御訴訟不申上、諸百姓一同之在郷之手札申受数年ほど過候て驚入仕為有之由申伝御座候」とある。つまり、「諸百姓」と同じ手札を申し受けたが、手札裏に「藩奉公人」と「百姓」と区別するということを、遠島のため内容が分からず「数年」を経て「百姓身分」となった事がわかり驚
いたというのである。
この文書とともに、一七二○(享保五)年と考えられる「案文」がある。与人や他の役人が金・銀讐を挿す事ができるようにという意向も含んだ由来調べの申上書である「口上書」の案文である。文
中に「一一拾五ヶ年前之亥年、御代官伊地知五兵衛様御取次ニテ」という文一一一一口がある。それは逆算すると前述した代官伊地知の系図・古記録取次いだ一六九五(元禄八)年から一一十五年後は、’七一一○年
(9) をさす。同年九月四日に徳之島からも金・銀譽に関する願書が藩へ出されている。その点からいって
も以下に提示する案文は、一七二○年のものとしてよい。
この案文は、最初の宗門手札改め以後、百姓身分となったことを知った年代について、「二、’一一拾年」後としている。’一一年後の一七一一三(享保八)年「乍恐奉追訴候口上覚」には「数年」と訂正されているが、与人層の動きがより詳しく述べられている。
其後多年間有之、初て手札表御取訳御座候段、遠島之故一同之在郷手札申受来漸一一、三拾年程過
15奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談」の背景
先の一七二一一一(享保八)年五月一一六日付と合わせて解釈をする。ここでは、①(一六二一一一・元和九年、琉球からの鉢巻を「停止」された以後)多年を経て宗門手札改めがあった事、②遠島であったため「一一、一一一○年」後、三年後に修正された「数年」後に百姓同一の「在郷手札」
であった事がわかり驚いた。③その変更を重要な事であるとして当時の代官へいろいろ訴えたが対応せず、代官は訴えを召し留
④上国の時に藩主へ御目見ができることは冥加至極であるが、内実は百姓と同じ様になり、先祖以来の「由緒」も取失った(鉢巻き停止)。 めた。 候て承伝驚入仕合御座候間、御取訳被下度候旨、段々御訴申上候得共、重立候御訴訟――て候間、此節も見合申上候様二は時々其節之御代官様より被召留置候。近年ハ私共役目之者被召登難有御目見被仰渡誠二以身二余冥加至極奉存候。然共内々二は百姓同輩二罷成、先祖以来之由緒も取失、別て嘆入奉存候二付、私共同役之内より二拾五ヶ年前之亥年、御代官伊地知五兵衛様御取次一一テ御訴申上候得共、終二は御取揚無御座候二付、百姓共究て同輩二存居申候二付、適々御用向一一付、下知仕候儀共も心得違二て畏兼申事も間々御座候。
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⑤「私ども同役(与人役)」の内より、二五年前の亥年(元禄八)年、大島代官、伊地知五兵衛の取り次ぎで訴えたが取り上げにならず、百姓と同輩となった。⑥そのため、(与人らの主張として)百姓が与人らの下知を心得違いをして敬意を払わないこともしばしばあるという。
つまり、一六九五(元禄八)年、伊地知代官取次ぎで、与人職を含め「百姓身分」とされた事への(、)「訴訟」(訴え・お願い)をした。その際、古記録文臺曰を差し出したという。つまり、先に引用した和家文書の「此本書之儀、依訴訟に中原伊兵衛殿へ御取次にて差上置候間、
写如此に候以上、大島先代官伊地知五兵衛印」というのは、この「訴訟」の際に提出した古記録等の写しを伊地知が元禄九年九月十八日に、与人佐渡知らへ返却したという文書である。またこの「訴訟」の写しの古記録が奄美諸島の他の島役人へ返却された事は、前述した一七二(正徳元)年
八月の文書で明らかである。この元禄八年系図等差し出しの場合は、「私共同役之内」よりとあるから、奄美諸島の与人職が差(Ⅱ) し出した事になる。元禄八年当時の与人数ははっきりしないが、’一八から四二名以内と考えられる。知行目録、置目条々その他の古記録、特に辞令書は個人ごとにかつ何代にもわたるので枚数は多かったと考えられ、それらが、写しなどで返却されている。
17奄美諸島の系図焼棄論と『奄美史談」の背景
4享保六年の藩「指図」、享保一三年「規模帳」の系図等差し出し規制これまで、系図・古記録・文書差し出しは、代官の求めに応じた「披露」や公的役割として上国し
た時の身元確認のための「棒」による披露、奄美諸島全体の与人らの役職身分確保の「訴訟」のため
の差し出しという性格であった。しかし、以下は、逆に藩が系図、文書等の差し出しを規制するものである。奄美諸島全域から与人、「御奉公人」身分保持の願いは、最終的に一六九五(元禄八)年の「訴訟」でも覆らなかった。以後、この点での「訴訟」がなかったという事は、与人層が、「百姓」身分という理解を甘受した事(皿)になる。その中で、島内部の島役人層の行動について、一七一一一(享保一ハ)年に以下の指図がある。
一島与人ノ儀ハ別テ懇望二存候付、近年ハ鹿児島へ申越、才覚ヲ求致懇望島モ有之、不届ノ至候、右体ノ儀ハ為代官被遣置見合ヲ以申出候上、遂吟味相応ノ者へ申付事ニテ候処、鹿児島へ直二申越致懇望儀不宜事二候条、向後鹿児島へ申越才覚ヲ以致懇望候者へハ与人役申付間敷候条、
右ノ通可申越旨、弾正殿御指図ニテ候、已上、卯五月廿八日和田次兵衛
喜界島代官南雲順右衛門殿
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この規制の背景には、これまで役職が同一族で占められていた事や下からの推挙(実際は門閥から)で決められていた制度が崩されてきている事の反映がある。藩の奄美諸島民すべてを平百姓にするという身分編成政策に対応した島の役人層の行動があり、それに対する規制を示したものである。その際、「本琉球支配之節儀を、今以申上候儀」の者があるということは、そのための証明、根拠を提出していたと考えられる。その一つとして系図、辞令書等の古記録、文書を提出していたことが十
分考えられる。 一旧)規定があう●。 つまり、近年は与人職を求めて、鹿児島まできて懇望する島もある。不届きであるので、代官が吟味した上で藩へ申し出て、相応の人物を与人職に申付けること、また、今後は島から鹿児島へ来て懇望する行動を禁ずるという。さらに、これまでの規定・法令を含めた「大島規模帳」が、’七一一八(享保一一一一)年一二月一五日に出された。その中にも、「惣て当時筋目之申立可為無用候、本琉球支配之節儀を、今以申上候儀ハ、其遠慮可有之儀候、御蔵入一一成候てハ、皆百姓――て候間、役儀しらべ之節、可有其心得事」と同様な
s、郷士格取り立ての名字決定時、藩御記録所へ系図・由緒書等の差し出し一七二六(享保一一)年、大島の田畑佐文仁が田畑開墾の功績で代々外城衆中格(後、郷士格)と
19奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談』の背景
なった。以後、一七五二(宝暦一一)年、喜界島の澄江宮里が通事職の功績で一代郷士格、一七六一(宝暦一二年、徳之島の砂守嶺澄が砂糖黍増産の技術的貢献で代々郷士格となった。次に郷士格に取り立てられたのは、一七八一一一(天明一一一)年一一一月三日の東問切篠川村の實雄であった。芝姓が許可され、芝實雄として郷士格となった。この時の詳細な史料がある實雄の郷士格と名字決定の経過を例に取ると、まず、郷士格取立と名字を用いることが認められる。次に芝名字を用いたい旨申し出たら、名字については御記録所が吟味する事になっていた。その時、御記録所から「家之系図・由緒書差出候様」に仰渡され、長子の実統が御記録所へ持ち
登った。しかし、「系図等御当地(鹿児島)え持登不申」と、居住地の篠川から持参してきていな
かったため、経歴のあらましの申し立てでよいとされた。
このように、郷士格取立時の名字決定でも系図・由緒書等が必要であった。さらに、「若、家之系図御用等御座候ハバ、罷下り、来春便より差上度御座候」と実統が述べている事は、系図等が居住地
(M) にあることを示している。つまり、系図等が焼棄されたという「奄美史談』が述べる一七○一ハ(宝永三)年以後も、芝家は居住地の篠川村に、系図等を保有していることを示すものである。
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これまで系図等の差し出しについて、奄美諸島与人自らの「訴訟」(お願い.訴え)やそれに類するものについて述べてきた。そのことの背景について、ここで改めて整理をしておきたい。’六○九(慶長一四)年の奄美諸島・琉球侵攻以降、統治体制を整備してきた。その中に、与人の上国制度があった。それは一六九一(元禄四)年から一五年間は毎年であった。その際、藩へ系図・古記録等を「棒」げた。それは、上国与人の身元確認という性格であったと考える。さらに、一六一一一一一(元和九)年八月の琉球から「鉢巻」を「ゆるし取る」ことの禁止。また、宗門手札改めが一六一一一五(寛永一二)年以降に実施された。今のところどの年代の宗門手札改めかは不明であるが、与人ら奄美諸島の役人は百姓身分とされた。そのことを知ったのは、宗門手札改めがなされた「数年」後であった。それは「重立」たるため、しばしば再検討の「訴訟」を当時の代官へお願いしたが取り上げられず、一六九五(元禄八)年になって、前年までの大島代官であった伊地知五兵衛が取り上げた。その際に差し出した系図・古記録の写しが奄美諸島の与人に返却された。伊地知五兵衛への訴訟でも百姓身分は変更されなかった。この伊地知への訴訟が最終的な百姓身分変更の訴訟
であった。
その後、 三鉢巻、管、宗門手札改め、御目見、身分編成について
島役人が金・銀の管を挿していることや朝衣着用の由来についても調べが内々あり、’七皿
奄美諸島の系図焼棄論と『奄美史談」の背景
た○ 願った際に島役人は系図・古記録を差し出してきたが、与人らの要望は基本的に受け入れられなかつ このように藩は島役人を百姓身分に編成、金・銀讐や服装に対する規制がなされ、それらの変更を し上げた。しかし、結果は、大島へは同年一○月一二日付で、徳之島へは同年一○月一一一一日付で与人 られる「口上覚」の案文しか残っていないが、大島与人から金・銀答を従来通り着用できるように申 ついて申し上げている。また、’七二○(享保五)年九月四日には徳之島与人が、また、同年と考え 二(正徳元)年八月ごろ四島の与人が、従来通りの金・銀讐使用をできるように願い、その由来に
{旧)の金管、横目らの銀管を挿すことを錘示止し、真鐡の管をするように、また絹布着用の禁止がなされた。
それに対して前述の一七一一一一一(享保八)年五月二六日付「乍恐奉追訴候口上覚」で、大島与人一一一一人が従来通りの讐使用を願った。このような藩の身分編成政策にあって、与人はしばしば「訴訟」を行ってきた。しかし、宗門手札
改めに示された百姓身分については、藩内部の文書は不明であるが一七一一八(享保一三)年一一一月一五日「大島規模帳」にも反映され「御蔵入一一成侯てハ、皆百姓一一て候間」と島民に対して明文化され五日Z
てきた。しかし、一方、’七一一○(享保五)年と一七二一一一(享保八)年の与人の「訴訟」、「申上」の文書に、藩主に対する「御目見」の事が記載されている。百姓身分とぎれた与人に対して藩主への「御目
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見」が近世を通じて実施されている事は、特異な事例である。以下、この御目見について触れる。
奄美諸島から上国した与人は、藩主へ献上物を持参し御目見し、返礼として藩主から品物を賜っている。「笠利氏家譜」によれば、一六九二(元禄五)年に上国した与人為壽は、同年九月四日に、取次、家老、組頭衆、御用人ら「列席」の下、藩主綱貴に御目見し、白紙百帖を拝領している。’八二一一一(文政六)年の事例でも、徳之島の与人道統らが島津重豪の「御慶事」で上国を命じられ、九月九日に「御三家、其外御役人様方御目見、引次、大島・喜界島・徳之島・沖永良部島与人、順々御目見
(肥)被仰付」、拝領物もあった。このように、奄美諸島の与人は、藩主への御目見と拝領物があった。しかし、同じ島蝋で例えば黒島からの御慶事上国の場合、郷士身分の庄屋職は上国を許されているが「御目見等無之」と先例規定(、)があり、士身分でありながら庄屋は御目見はできなかった。七島では郡司は御目見している。その点では、奄美諸島の場合、士身分でないにもかかわらず与人職は御目見ができた点が異なっている。奄
美諸島では、上国制度が実施されて以来の「御目見」が、百姓身分とされても継続されてきた。それは、奄美内部の惣百姓化という身分編成との関係で、藩が「御目見」の政策を取っていたと考えられる。奄美諸島の与人は、百姓身分になり、そのうえ金・銀讐が着用できないと奄美諸島内部で統治上の指示がうまく行かず、また、対面が保たれないので替については元に戻す事を訴えていた。その時の訴えに、御祝儀・御慶事で上国の際「御目見」について、与人は「誠二以冥加至極」と感
23奄美諸島の系図焼棄論と『奄美史談」の背景
奄美諸島の与人の系図には、「御領国中一統系図改被仰付」、つまり藩命による系図改Ⅱ差し立てがあり、「喜志統親方系譜」は、以下のように記載している。 謝している。つまり、この御目見は島内で与人の権威を持たせるものであった。このような状況の反映があって、百姓身分でも御目見が可能だったと考えられる。|般に藩主への御目見は、家臣にとって栄誉なことであった。例えば、藩内出水郷士、伊藤四郎左衛門の一七四五(延享二)年七月二九日の文書には、藩主への御目見を願っている。その結果、御目見を許されている。「右は我等迄四代引続御目見被仰付別て難有次第奉存候」と御目見は四代続くこととなったが、その家系として今後いろいろ言わず「諸事入念」、変わらずに進上物もいたして「油断有之間敷候」と述べている。郷士で郷の最高位の「あつかい」職である伊藤家が御目見するこ
(旧)とができるという事を非常に栄誉なことと受け止めているほどである。
四藩命による奄美諸島全体への系図・文書差し出し
○元禄六年、同十年、宝永四年、御領国中一統系図改被仰渡、古来之文書系図自家其外琉球以来之人々代官伊地知五兵衛取次差上之故、古系図無之、惣而大和御記緑所江納置処也
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元禄六年の大島代官は村田半(伴)助であったが、死去により元禄七年五月から喜界島代官伊地知五兵衛が大島代官を兼任、翌年元禄八年に大島代官専任となっている。〈⑱)また、元禄八年が、前掲の「和家文室曰」や「大島要文集」の差し出し年代と一致している。「元禄六」(元禄八の誤)年の大島代官伊地知への系図差し出しを、藩命と理解しているのは、元禄八年には奄美諸島全域の与人の系図差し出しがあり、それを大島代官伊地知が取次ぎをしたことによると考えられる。そのため、現在明確にできる藩命は、一六九七(元禄一○)年と一七○六(宝永三)年である。 時、大親嫡一八年である。 藩命により一一一回にわたる系図改があったと言うが、元禄六年については、前掲、石上英一「古奄美諸島社会史料研究の予備的考察」が指摘するように元禄八年の誤りであろう。原史料不明であるが、坂口徳太郎『奄美大島史』引用の「前島家系図」は、「元禄八年亥五月、伊地知五兵衛殿大島代官之時、大親嫡家明白御シラベ之節、御取次ヲ以テ鹿府江差上」とあるように、代官伊地知の記載は元禄
1、鹿児島の火災と元禄一○年の系図差出奄美諸島の与人が「百姓」身分を覆すために、大島代官伊地知へ系図を差し出したのは、前島家は
25奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談」の背景
一六九五(元禄八)年五月であった。他の与人もこの頃に差し出したと考えられる。ところが、翌年の一六九六(元禄九)年四月二四日に鹿児島は大火となった。その結果、武士屋敷
五四か所の八五四軒、町屋敷一一一三か所の五五○軒が焼失した。そして、系図・古記録を納めている
記録所は、「|御文書者少々出候、大事成御書付者御番所二有之候間、皆共一一出し申候、御領国中家
改二付系図文書出置候人々、此節皆共二焼失申候、横山之系図も右通出置焼失申候」という状況であった。「御文書」つまり島津家の文書は取り出したが、藩内の家改で系図文書を差し出し置いた(釦)人々のものは、すべて焼失した。このことは、元禄八年五月ごろに藩へ差し出した奄美諸島の与人の系図、古記録も火事で消滅した
ことを示している。
そのために、藩は記録奉行に命じて、再度系図等の再編集に着手した。それが一六九七(元禄一○)年の「喜志統親方系譜」にある「御領国中一統系図改被仰渡」である。
藩命を受け、「御記録奉行肥後二(仁)右衛門、市来源右衛門外城廻被仰付、系図・文書・古書付相改預之、於御記録所写調」た。二手に分かれ、肥後は一一一月一一六日鹿児島を出立、薩州地域を分担し
{皿)八月一八日に帰着した。市来は日・隅を廻り、九月一一一ハ日に帰った。この再編集について奄美諸島での具体的動向は、今のところ不明である。藩内の一例をあげると、肥後記録奉行の場合、大口では「御記録奉行肥後二右衛門殿、諸外城被為廻、寺師氏之古目録差出
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2、宝永三年、藩への系図差し出し令この差し出し令が、都成植義『奄美史談』の系図焼棄認識の根拠となった。先に詳述したように、「新・古に構わず、また藩の系図や記録の写などすべて差し出し」、「正文・写構わず差し出し」、「系図無所持の者も新たに書きつけて差し出し」、「差し出した系図文書は写し終わったら返却する」、「差し出さない系図・文書を基に種々申し立てても、取り上げない」、そして「代官の付状」をもっての差し出しであった。この一七○六(宝永三)年の系図・文書差出も、奄美諸島だけではなく藩内全体の動きであったこ 候」とあるように、七月一五日差し出した。寺師家は「|義久公御袖判領分目録二通、天正廿年十二月十九日、|知行目録一通、慶長十九年六月廿七日、一加増知行名寄帳一冊、一坪付一冊、但用紙八枚、内一通ハ切紙、一同一冊、但用紙七枚」を渡した。そして寺師家は、「後代之證拠二成事一一候、|〃)寺師氏記録帳二可書載候」とその事を家の記録帳に記載している。御記録奉行見習、市来源右衛門の場合は、六月二五日、都城御記録方町客屋に来て、系図・文書を見分し、市来の印の「受取御出」の上、品々を受け取った。都城御記録方も「留帳いたし、持主之印形取付」て、その「留帳」を保管した。その後、市来らは外城の見分をした。その系図は、「新・古
一羽)二無構」すべて提出させて見分し、必要なものを選んで鹿児島へ運んだ。
27奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談」の背景
S、宝永三年系図差し出しに対応した奄美諸島
宝永三年の差し出しについては、前述したように、「系図文書がなくても“先祖の家筋の由緒・家
伝がある者は“詳しく書き付けて差し出すように」というものでもあり、それに対応して奄美諸島では翌年、多くの系図・古記録の差し出しがなされたものと考える。前掲石上英一「古奄美諸島社会史料研究の予備的考察」が、「宝永四年亥ノ四月十五日」に、志戸 とは、前掲の林匡「薩摩藩記録奉行市来家年について」や先田光演「五領内と奄美に出された系図差出令」急藩政時代の奄美支配政策』私家版)の事例で明らかである。藩は、。今度御記録所編集二付一年御鯛状を以被仰渡置候通、諸士其外下々二至迄致所持候者
(割〉’二月中二可差出旨組分御書付有」とあるように、藩内への系図等の差し出しを命じた。ここでは新たな事例を一点提示する。
鹿児島の「大重家万書附覚」によれば「一宝永三年戌七月、従御記録所御組取二付、系図井文書御改有之」ということで、系図・文書を渡している。御記録所筆者丸野六兵衛が請取、写した後の一一弱)七○七(宝、水四)年一一月朔日、返下されている。ただ、奄美諸島については、元禄の系図写しの返却史料はあるが、宝永三年差し出し系図の返却の仕組みがどうであったかについては、現在のところ史料上明確でない。
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えられる。 これによると、宝永年鑑(宝永三年と考えられる)、奄美諸島四島(与論島は沖永良部島に含む)に「系図御糺」があった。芝家の事跡を表した系図も「御記録所御帳」に委しく記載されているというのである。つまり、宝永三年差出の系図は、焼棄されたのではなく御記録所に保管されていたと考 芝家が一七八三(天明一一一)年に郷士格に取り立てられ、名字決定に際し、御記録所が吟味する事になった。しかし、「家之系図・由緒書」は居住地の篠川村にあるため、そのあらましの文書を提出し(妬)た事は、先に述べた。そのときの御記録奉行の「御噺」を実統が残している。 一通」と討する。 桶間切志戸桶村本筆子の岡里(印)と同本筆子、三好(印)が、「辞令書」一通と「系図」一通を、屋喜内間切須古村の元家の新垣、越来と伊栄波の一一一名連署で「宝永四年亥正月十一一一日」に「知行目録一通」と「系図一通」を差し出した写しが存在している事を詳述しているので、新たに芝家文書を検 御座 宝永年鑑之次節、四島共二系図御糺有之、私共先祖與々瀬留より代々与人役相続、琉球御支配之剛全条申上候通、[]勤功一一実久方永々被下候趣、御記録所御帳二委ク相知候由、御噺二て
29奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談』の背景
しかし、系図焼棄論や煙滅策が成立しないといっても、それならなぜ、今日までその認識が続いているのかということももう一つの検討する重要な柱である。それは、基本的には、歴史研究がそれを
前提としてきた事がある。とともに、それを受け入れる近世や近代の奄美諸島史の存在にも目を向けなければならない。そのためにまず、『奄美史談』と著者の都成植義について触れておきたい。 また、芝実統は、「若、家之系図御用等御座候ハバ、罷下り、来春便より差上度御座候」と居住地に写しがあると述べている。
以上、系図・古記録差し出しについて、事例ごとに、また「奄美諸島、系図一覧表(稿こを作成して検討を加えてきた。その結果、系図焼棄論は成立しない事を明らかにした。つまり、奄美諸島の系図・古記録差し出しは、基本的には、藩の身分編成過程で実施されたものである。①そして、個別奄美諸島の島役人に対しては、「百姓」身分とするものであった。そのため従来の島役人(与人層)
が、藩に変更を求めた願い、訴えの根拠や役職の願いからの差し出しである。②また、藩内全体の系図差し出しに対応したものという二つの目的・性格に区分されるものであった。
五「奄美史談』について
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1、『奄美史談』刊行についてこれまで一般に知られている『奄美史談」は、’九○○(明治三一一一)年、鹿児島県大島郡教育会で孔版本として公になった書であり、「大島史料集(奄美史談)第1集』という題名であった。以後、この書が人々の手によって刊行されていくのである。その孔版本の書は、現在、国立教育政策研究所
や鹿児島県立鹿児島図書館に所蔵されている。ついで、孔版本として一九一五(大正四)年、当時の鹿児島高等農林学校小出教授が「奄美史談』を謄写、末尾に「大島農学校得業生、濱田静氏の周旋によりて謄写せしむ」とある。これが鹿児島大学付属図書館所蔵本である。一九○一一一(明治一一一六)年夏かその前後、昇曙夢(『大奄美史』を戦後に著した)が、名瀬で「原稿」を借りた。それを昇曙夢の弟が写し、これが手元にあるという(「奄美史談』孔版本を発刊した永井龍一の「序」の「昭和八年盛夏鎌倉にて昇曙夢」)。永井龍一は、一九○九(明治四二)年か翌年、その(奄美史談)「原稿」を「数日間拝借」した。
その後、’九一六(大正五)年夏、大島の「古仁屋・名瀬」を転々し、郷士資料の収集をしていた。その時、「奄美史談の遺稿の保存せられたるを聞いてこれを借りた」と一一一一口う。なお、永井龍一は竹島純と一緒に、伊波普猷を最初に大島に招へいしたり、兄の亀彦とともに「南島雑話」をはじめ、多く
の郷土史料を発刊した教育者である。
奄美諸島の系図焼棄論と『奄美史談』の背景
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永井は、’九一九(大正八)年春、『奄美史談』の原稿を古仁屋小学校に置き忘れて名瀬の小学校に赴任し、「後日奄美大島築城支部よりその写本を公にせられしに気附きて偶然思い出し、逓てて原本を古仁屋より取り返し、遺族に納めて粗忽を陳謝したこともある」。そして、「遺子鋼三君に相諮りその許諾を得て今回『南島普及文学』と併せて刊行することにしたのである」(昭和八年八月下流の
「南峰先生の遺稿刊行に就て」より)。なお、奄美大島築城支部より発行されたものが、鹿児島県大島郡教育会『大島史料集(奄美史談)第1集」ではないかと推察する。これが、’九三一一一(昭和八)年九月の「奄美史談附南島語及文学』(版権所有者鹿児島県大島郡名瀬町伊津部都成鋼一一一発行兼印刷山元徳二)である。これを底本として、一九六四(昭和三九}年三月に「奄美史談・徳之島事情』(名瀬市史編纂委員会)が発刊され、今日一般に知られている書である。
ところが、近年、鹿児島県歴史資料センター黎明館により、新たに一八九一(明治二四)年一二月「緒言」のある都成植義「奄美史談全南海庵所蔵』の筆写本の存在が明らかになった。それは、一八九六(明治二九)年一一一月五日付で「鹿児島県下大隅国大島郡名瀬金久村第七十九国立銀行大島支店ニテ写之石井達宗記ス」とあるように、一八九六年にさらに写されたものである。この書の存在により、『奄美史談』は、一八九一(明治二四)年の筆写本とそれ以後の内容と構成上の区分が必要になった。この二種の書の構成上の区分を明確にした論考に、二○○五年の内倉昭文
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2、明治二四年版と明治一一一一一一年版にみる歴史認識と系図焼棄記述の異同
この両書の基本理解は同一である。まず、一六○九年以前の琉球統治時代は「無為ニシテ治マリ、
葛天民ノ民ノ如クナリシト云う」と、中国神話上の帝王の葛天民の時代のようであると、琉球統治時代を肯定的に評価した。
薩摩藩統治に対しては、黒糖生産やその他の藩の施策に対する記述は、例えば、島民の余剰の黒糖
私売を許さず、藩との取引しかできない近世末の砂糖惣買入制度について、本田代官が認識する「是人君民ノ利ヲ貧ルー似タリ」と文一一一一口を引用して藩政を批判し、史料で語らせる手法を用いている。
近代の項になると、正当にも一八七三(明治六)年、近世の惣買入制度と同じような取り決めを、県は大島商社と大島の島役人との間に結ばせた。これに反対し自由売買を唱える島民たちに対して、「鴫呼彼等ハ実二仁義ニ勇ナル士也」と評価する。しかも、その「仁者」を後世に伝える者がいない
ので、「臆、故二髪二特筆大書シテ後世一一遺スモノ也」として、その運動について『奄美史談」に枚数を割いている。こうして明治一一一一一一年版も含め、明治二四年「序」の基本認識は、「古書ハ焼段セラレ珍器ハ奪取セラレ、才アリ智アルモ、害ヲ読ミ文ヲ講ジ之ヲ琢磨スルノ道ナク、唯酷吏二為二駆使セラレ、愚益々 「黎明館所蔵『奄美史談』(写本)をめぐる一考察」s黎明館調査研究報告第旧集壱がある。
33奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談lの背景
愚ヲ加へ殆ンド牛馬ト判ツコトナキニ至しり」というものである。そして、系図・文書の取り上げについて、一八九一(明治二四)年叙述は、「髪二於テ先代ノ遺物
ヲ蔵スレバ代官来リテ之ヲ嬢ミ、二、’一一系図ヲ出サ、ルモノアレバ答刑ヲ与へ槍奪シ去ル」と薩摩藩・代官へ対し厳しい表現をしている。この文言は一九○○(明治三一一一)年版にはない。さらに、もう一点の違いは、二四年版にあった下人解放運動の記述が、後の書では削除されてい
る。しかし、理由は不明である。都成植義の二書の『奄美史談』の基調は、系図取上げの修正や下人問題の削除はあるが、全体として、反薩摩藩・親琉球意識が濃厚である。その主張の大きな機軸として、この系図「焼棄」があり、都成は、「種族ノ階級ヲ破り」「心意上ノ束縛ヲ与へ」「其品位ヲ損シタリ」とまで心情を吐露する。
S、奄美諸島史の歴史認識と意識の背景都成は、系図取上・焼棄論に見られる認識をなぜ、また、反薩摩藩・親琉球論の基調から述べたの(汐)か。現在、それを明らかにする資料は見つかっていない。一つは、当時の史料の少なさの反映として、また、歴史上の伝承や史料解釈上の結論を前提としていると考えられるが、他方、明治二四年版『奄美史談』叙述当時の仕事上の環境が、その認識や意識
を促進させたと推察される。
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都成は、『奄美史談・徳之島事情』(名瀬市史編纂委員会)によると、一八八六(明治一九)年二
月、鹿児島県巡査、大島警察署詰から、一八八八(明治一一二年七月から名瀬簡易小学訓導兼名瀬尋
常小学教員などを経て、最後は名瀬尋常小学校長簡易小学校長となり、一八九○(明治二三)年六月
依願退職、同年七月から鹿児島始審裁判所雇・大島治安裁判所詰、ついで一八九四(明治二七)年一
月裁判所書記補大島区裁判所書記、さらに、補鹿児島地方裁判所書記、補鹿児島区裁判所書記・監督
書記、補大島区裁判所書記・監督書記を経て、一九一四(大正三)年四月に監督書記を依願退職し、名瀬村長に就任した経歴を持つ。この最初の『奄美史談』の序文のある一八九一(明治二四)年一一一月は、鹿児島始審裁判所雇・大
島治安裁判所詰であった。都成が裁判所勤務の頃は、砂糖をめぐる近代初期の奄美諸島における商社の専売制が終わり、新たな自由売買になった時期である。この時期はまた、商人たちが、黒糖やその代金回収で島民に対して
裁判を起こしていた時期である。その裁判は、台風による砂糖減産に端を発し、商人側は、これまでの島民が砂糖で返済する「糖借証書」から貨幣で返す「金借証書」という新契約証書の書き換えを実施した。その新契約書変更だけで、島民は新たな借金をしないにもかかわらず負債が大幅に増加した。例えば三年間に黒糖を一部返済し、借金をしないでも、三倍近くの負債となるものであった。当初は島民側が勝訴していったが、
35奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談」の背景
一八九○(明治一一一一一)年には島民の敗訴が続き、大審院の差し戻し判決で一八九一(明治一一四)年九月か、大坂控訴院で最終的に敗訴していた。
またこの時期は、各島個別性が強い中で、一八八八(明治一二)年四月頃、ほとんどの奄美諸島の
島民が連帯して名瀬の大正寺へ集まり、「高利負債償却」「農事改良方法」「節倹法」という三方法運
動を起こしていた時代であった。都成はこの時期に裁判所勤務であった。そして、裁判の経緯や島民敗訴後の負債処理の状況を実見できていた時代である。このような状況が都成植義に影響を及ぼしていたことは考えられる。というよりは意識していたと考える。
というのは、都成以前の吉満義志信編集『徳之島事情」は、この三方法運動を述べているにもかかわらず、都成植義は、『奄美史談」で一言も触れていないことに示される。それは、都成が裁判所書記でこの裁判を十分知っていたと考えられるだけに、三方法運動については記述しにくい立場にあったのではないか。また、島民の運動を無視していたからではなく、三方法運動以前の一八七一一一(明治七)年から一八八○(明治一三)年の砂糖を自由に売買する運動、黒糖自由売買運動(勝手世運動)については、詳述している。この時代はまた、奄美諸島の地方自治行政は、奄美内部の国・県税の歳入と村税で地方行政運営をする「独立経済」または「分離経済」といわれる制度であり、一八八八(明治二一)年四月から実施
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「奄美史談』の系図焼棄論は、その後の書に大きな影響を及ぼした。
まず、奄美・鹿児島では、’八九五(明治二八)年一一一月、吉満義志信「徳之島事情」は、その「歴史叙述の項」に系図焼却論を全く触れられていない。その理由は、この書が大島郡教育会から『奄美(羽}史談』孔版本として出された、いわば公にされる以前の書であることと関係するだろう。しかし、『奄美史談」孔版本以後の一九○五(明治三八)年八月の西俣謙龍「喜界島教育資料」は、「旧家の系譜記録の如は藩時代詰役より没収せられ、或は借用の名義にて其侭返還されきるが如き不幸に遭遇したるが為めに、今回の調査に際し蒐集の便を失し必要なる史料を欲くは誠に遺憾に堪へざ(釦)るなり」と、藩による系図記録の没収・未返旦起という理解で、西俣に一定の影響を与えた。その後、一九一七(大正六)年一○月、鹿児島市の奄美社(経営者、沖永良部島出身)から坂井友〈劃)直『徳之島小史』が発刊され、『奄美史談』の系図焼棄論が引用されてきた。さらに、坂口徳太郎は、一九一八(大正七)年八月脱稿の『奄美大島史』を一九二一(大正一○)年六月、鹿児島の一一一州堂書店から出版し『奄美史談』を引用した。坂口は、名瀬の大島中学校赴任を (鍋)芸これていた時代であり、島民の生活、経済状態を圧迫していた時代であった。
六、系図焼棄論の継承背景と「変化」「展開」
37奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談』の背景
終え、鹿児島県第一師範学校教諭時期であった。一九一一一三(昭和八)年六月には鹿児島県立大島中学校が『奄美大島郷土史概説」を出し系図焼棄論をのべる。これは学校教育との関係で広く「史実」として認識されるものとなったと考える。ただ、西俣、坂口や大鳥中学校本は、『奄美史談』の述べる
ような藩の政策意図についてまでは触れていない。
その後、琉球では、奄美諸島を講演した伊波普猷が、一九二一(大正一○)年「『渡琉日記』を紹介す」で、『奄美史談』を前提としたうえで、藩の意図は、薩摩による「琉球と大島諸島との精神的(犯}連鎖を断切る」ためであると、さらにその意味を付け加えた。東京では、東京市麹町の岡書院から、茂野幽考が一九二七(昭和二)年九月に「奄美大島民族誌」を著し、系図差し出しについて『奄美史談』の評価を軸にして伊波普猷の指摘を追認している。
これらの「史実」は、東京にいる奄美諸島出身の学生にも受け継がれていった。その影響が強かったことを示すのが、大阪の奄美諸島出身の実業家の「賛助」を受け、一九三五(昭和一○)年八月、
中央大学奄美学友会発行の『奄美大島歴史物語』であった。法学部在籍の永長信雄によるもので、以下のように述べる。①「琉球と大島との精神的連絡を絶ち島民の民族的自覚を傷つけるために」「島民の家柄先祖等取調べの上再び差出人に返し下すと偽り之を焼き捨てた」。ために、「生命の糸口たる系図を奪われ、奴隷的に酷使ざれ類例のない蔑恥を加へられたのである」。
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④「大島を復興させる根底」は、「その民族性にある」。その背景は「歴史であって、特に郷土史」
であると主張する。⑤とともに、「過去の歴史と自分の立場」の打破のよりどころをどこに求めたのか。「自序」で「天、大島を見捨てず。事勢は一転して御維新となった。蕊に三百年間の悲しい暗い生活から解放き
れた」と明治維新と天皇制に求め、「結論」で「国防の第一線にあって、奄美大島要塞を守る吾々廿五万島民の皇国に奉ずる大なる義務である」と、明治維新と天皇制に求めた。また、「日本国防の一
線を担う」奄美諸島という事で、日本と同一の立場を強調して奄美諸島の発展の精神的拠り所とし ②藩政の「飽くことを知らぬ圧迫は自づと大島島民の心をゆがめて」「他人を警戒する性質を植え付け、すべての人間を小利巧にして遂にそれが所謂『島人根性』となって伝統された」。③昭和恐慌の中で「蘇鉄地獄と云われた疲弊せる大島の振興計画」があり、奄美諸島民は名瀬港の修理、産物の増加、大島紬の振興発展を期している。また、「若き青年は出郷して勉学奮発して居
つまり、今日の段階では「史実」とは言えないが、まがりなりにも薩摩藩への抵抗を表明する「系
図焼棄論」が、近代日本の論理に融合する結果となった。このようにして、「系図取上・焼棄論」は、島民の精神的あり方と結びついて「理想郷士の建設」 た。
 ̄ る
○
39奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談」の背景
さらに、昇曙夢が、一九四九(昭和二四)年一二月、奄美社から『大奄美史」を発行した。著名な
昇曙夢の書であり、奄美諸島の日本とのつながり、「豊富な文化財」とともに、「郷土意識を高め」「明るい希望の生活に向け直したい一心」ということで書かれた。この書は、当時の米軍統治下という時代背景もあって、奄美諸島の理解に大きな影響を与えた。この書に「系図取上・焼棄論」が述べられたため、その論は、一層広範囲に奄美歴史の前提として流布されていったと把握できる。
史料を検討し、これまで、奄美諸島の歴史の中で、系図差し出しを個別ごとにその目的と性格を検
討し、系図焼棄論は成立しないことを述べてきた。また、この考えがなぜ生じてきたか、歴史体験、歴史史料解釈の問題とともに、著者の当時の社会的環境にもその原因の一つにあるのではないかと推定ではあるが提起した。
さらに、その考えの肯定的流布の過程や時代背景とともに、近年の系図焼棄論に対する批判的検討の研究史を示してきた。
た。
に収數させていった。そして、その論は奄美諸島内部、鹿児島、沖縄、東京、大阪と流布していつ組
おわりに
その意図は、今日まで残っている奄美諸島史理解に対する原因を探るためである。それは、単に系図焼棄はなかったといってすまされない「史実」である。なぜなら、近世、近現代で言えば、東京、関西、鹿児島、三池、長崎という場所や軍隊という組織で、奄美諸島の人々は、さまざまな「歴史体験」を持っているからである。奄美諸島史の歴史研究は、このような今日的課題を意識しながら検討しなければ「納得しない」あるいは「理解されない」課題が他にもある。そのため、改めてこの様な
検討姿勢が必要だと考えたからである。以上を前提に、今後の系図史料の検討課題として、以下の事が考えられる。奄美諸島系図そのものに即していえば、藩直轄支配であるため「和型系図」様式であるが、|方、和家文書に「琉球家譜」様式が一点残っている理由、系図作成で大島の笠利氏系図・田畑家系図のよ
うな嫡家、支流別系図と、支流を含めてまとめた徳之島系図作成の理由、源氏や為朝伝説出自系譜及び薩摩役人出自系譜の系譜論、琉球出自系譜と新興者系譜の作成年代や記述内容の吟味など、史料批
判を前提にしながら、奄美諸島史を一層豊富にしていく作業が必要である。また、何よりも藩政の中(鋼)での身分編成、社会構成の歴史研究を視野に入れて展開していくことが課題であろう。
【註】(1)鹿児島県大島郡教育会『大島史料集第1集奄美史談』(謄写版)、国立教育政策研究所蔵へ鹿児島県立図
41奄美諸島の系図焼棄論と「奄美史談」の背景
書館蔵二九○○)、鹿児島県私立大島郡教育会、つまり有志の会か。(2)現代でも藩政批判の重要な論拠とされた「系図焼棄」論に対する批判的検討は、「薩摩藩の収奪を薄めてい
る」と椰楡される類の問題ではない。系図・古記録差し出しによる奄美諸島史の身分制の歴史像把握とい
う視点が、その後の藩の政策に対して様々な角度から検討を可能にするものと考える。
その点では、奄美諸島内研究者の系図に関する研究動向については、二○○○年以後は変わってきてい
る。まず、一九八○年、筆者は「家譜研究の現状と課題」(奄美郷士研究会第一六六回例会)で、系図焼棄
論への疑問を意図し、焼棄論の文献の系譜を紹介、奄美史の研究課題として提示した。一九八八年の『与
論町誌』は、理由は不明であるが触れていない。
ついで、二○○○年、筆者は「一系図差出と刀狩」(『喜界島誌」第五章藩政時代(1))で、焼棄論否
定の立場から、郡家「金樽一流系図」が、’八二七(文政一○)年正月、同家が世々蔵する「文書」が火
災にあったため、鹿児島へ上国していた具志頭が、鹿児島記録所で自家系図を写し喜界島へ帰島した事例
を示した。つまり、一七○六(宝永三)年の系図差出以後も、自己系図は家に保有されていたが、自家の
火事で焼失したので、藩に保管されていた系図を写した、つまり焼却されていない事例を提示した・
二○○七年、山下文武「七系図差出令」(『瀬戸内町誌(歴史編)』第一章政治)は、和家文書・元家文
書を例にとり、系図は鹿児島の大火のために消失されたのであり、元禄一○年の奄美への系図差出も火事
による「再録編成」と指摘する。この火災が『奄美史談』によって「焼き捨てられた」と誤り伝えられた
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