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面打ホウライ考

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面打ホウライ考

著者 宮本 圭造

出版者 法政大学能楽研究所

雑誌名 能楽研究 : 能楽研究所紀要

巻 39

ページ 1‑19

発行年 2015‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00011934

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『仮面譜』に十作・六作として名前が挙がっている十六名は、おおむね南北朝期から室町後期にかけて活躍した面打である。その時代は、能面の様式が形成されていく過渡期とも重なっており、後世、彼らが作ったと伝えられる面

は、「作」の面として、能楽師諸家の問で能面の規範作と見なされ、その写しが多数作られた。もっとも、彼らの履

歴については分からないことが多く、その実像は闇に包まれている。江戸中期にまとめられた「大野出目家伝書』「面打秘伝書」「仮面譜」等には、彼ら能面形成期の面打に関して具体的な記述も見られるが、そのほとんどは全く信頼に足らないものであり、僅かに世阿弥の「世子六十以後申楽談儀」の断片的な記事だけが、室町前期以前に活躍し

た面打についての唯一の手がかりとなっているのである。

本稿で取り上げる「ホウライ」もまた、具体的な事績が何一つ明らかになっていない面打の一人である。明和七年(一七七○)の「大野出目家伝書』は「凡三百九十年」ほど前、寛政九年二七九七)の『仮面譜」は「凡三百八十年」ほど前の面打として、「宝来」の名を挙げており、室町後期に活躍した人物と見られるが、その経歴については、大

面打ホウライ考

はじめに

宮本圭造

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テルヲヲルナリ

そのホウラィの素姓について、『萬聞書』は、「大和ノ国之人也。以レ作二茶第一而為二産業一、偶作し面者也」と記

す。茶笑を作るのが本職で、その片手間に能面を作った大和の住人、とするのである。この茶笑作者説は、後の『面打秘伝書』や「謡曲仮面抄」にも受け継がれており、前者には「宝来ハ茶道ニ達ス。又能筌ヲ作ルト云。大和ノ国ノ住人ナリ」、後者には「宝来ハ茶道ニモ達シタル人也」とある。また、ホウライが大和の住人であったことは、寛文 ホウライを十作・六作の一人として位置付けるのは、『大野出目家伝書』がその最初であるが、それと同様の扱いは既に江戸初期から行われている。すなわち、大蔵虎明『わらんべ草』が、「十作之外之上手」として、福来・増阿

ホウライ弥・春若・石尾・千草の五人とともに、「保来」の名を挙げているのは、その早い例といえよう。また、宝暦十一年(一七六二の『萬聞書』にも、「実作之外名人」として、孫次郎・福来・石翁兵衛・千種などと並んで「宝来」の名が見え、室町期の面打にホウライなる人物がいたことは、江戸期の能役者の間でも広く知られた事実であったようであ 和の住人とするもの、越前の福来の子とするものなど諸説あって、いまだ定説を見ない。しかるに、筆者は甲冑関係の資料を見ていく中で、面打「ホウライ」に繋がるのでは、と思われる情報を見出すことが出来た。本稿はそれらを紹介して、面打「ホウライ」の実像を明らかにしようと試みるものである。なお、「ホウライ」には「宝来」の字を宛てるのが通常であるが、江戸期の資料には「蓬莱」「保来」といった字を宛てたものもあり、「宝来」の用字が必ずしも本来ではなかった可能性が想定されることから、本稿では資料の引用箇所を除き、特に漢字を宛てずに「ホウライ」として論を進めることとする。

る。

、江戸期の面打名譜に見えるホウライ

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3面打ホウライ考

元年(一六六一)、出目満永の奥書がある「面名作者写シ本」(能楽研究所般若窟文庫蔵)にも既に見えるところであるが、その傍証は今のところ発見されておらず、ただちに信じるのは祷曙されよう。恐らくは、大和添上郡に宝来村(現奈良市宝来町)の地名があることに基づく後代の付会説かと思われる。その宝来村は、「庁中漫録』の「天和三癸亥年山城国・摂津・河内・大和国々河々為見分若御老中御越一件」に、生駒高山村(茶笑の産地)の某亭主の談として、「茶笑之根元ハ宝来村にて有之候、当村に甚之丞と申ものあり、宝来村へ至、茶笑の仕様見習、上手に成、太閤秀吉公へ差上ケ候処、御感心のあまり御茶莞師となり」とあるようにs奈良県の地名」。昭和五十六年。平凡社)、茶笑の生産地として知られていた。それとの関わりで、ホウライを大和の茶笑作者とする説が生まれたのであろう。「大野出目家伝書』『仮面譜』には、このホウライ茶莞作者説は採用されていない。そのことは、江戸期の能役者や面打の間に、ホウライの素姓に関する共通認識が存在しなかったこと、そして、ホウライの事績について、当時、何一つ確かな伝承が伝えられていなかったことを物語っているように思われる。「大野出目家伝書」が、ホウライの諒を「氏時」とするのも疑わしい。これは「大野出目家伝書』以外には見られない独自の伝承であるが、現在東京国立博物館に伝わる大癖見面の裏に、「宝来作」という出目洞水満昆による金泥の極め書きとともに、「氏時作」の刻銘があるのに基づく説のようである。なお、この面は、かつて忍藩主阿部家の所有であったらしい。というのは、江戸後期、阿部家の所蔵面が売却された際、その購入を検討した彦根藩から鑑定

の依頼を受けた喜多古能が、同藩の役人に送った書状(彦根城博物館蔵)の中に、「大癒見宝来作」として、この面のことと恩しき宝来作の大癖見面についての言及があるからである。そこには、「右裏二彫附御座候、右者宝来名乗二御座候哉、伝来二茂承伝不申、唯今迄見当リ茂不仕候問、難弁へ候二付、此段奉申上候」とあって、この面の裏には「宝来」の諄とされる刻銘があったようである。それがすなわち先に見た「氏時作」という刻銘であったと考えら

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れるのである。もっとも、喜多古能は、この「氏時作」の刻銘をホウライのものとは認め難いと判断して、最終的には「慈雲院歎、山田嘉右衛門杯――ても可有御座候哉」との極めを行っている。大癒見面の裏に見える「氏時」の刻銘

がホウライの謀である確証はどこにもなく、この喜多古能の判断は、正しいものであったといえよう。「仮面譜」成

立以前の稿本である「面之伝書」の段階では、古能も『大野出目家伝書』の記述に従って「宝来氏時」としているが、『仮面譜』の段階では単に「宝来」として、誼を外した形を採用している。喜多古能がこのような判断をしたのは、「氏時」とは異なる謀を刻むホウライ面の存在を、『仮面譜」編纂の段階で

知るに至ったからなのではなかろうか。すなわち、喜多古能が「仮面譜』を編纂するにあたって参照したと思われる、

深尾甚左衛門隆紀手沢本『大野出目家伝書』(能楽研究所蔵)の面打「宝来」の項には、「又ホウライタカチカト面ノうら二有之も有、右之氏時とハ別成か、尉女面多シ、ツョキ面ハまれ也、但し同人成共承ル」という書き込みがあり、

「ホウライタカチカ」と銘がある面の存在が記録されているのである。恐らく古能は、この情報に基づいて、「仮面譜』の段階で、謀「氏時」説を排したのであろう。

この「ホウライタカチカト面ノうら二有」面が、いずれの所蔵で、またどのような面であったのかは一切不明であ

る。しかしここで何より注目されるのは、右の書き込みによって、「タカチカ」の諒を持つホウライ姓の面打の存在

が明らかになったことであろう。そしてこのことは、面打ホウライの素姓解明に大きな手がかりを与えてくれるので

ある。現在までのところ、「ホウライタカチカ」と銘のある能面は報告されていない。しかしながら、「蓬莱高近」の刻銘

二、蓬莱高近・永近作の能面

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5而打ホウライ考

ならば、ここに具体的な作例を挙げることができる。後藤淑氏が『民間仮面史の基礎的研究』(平成七年。錦正社)で紹介されている山形県酒田市・伊藤家所蔵の老女面がそれである(写真1.2)。縦皿・1×横皿・8×高さ7.6センチメートル。後藤氏が「能面の老婆の姿だが、これと同じ能面はない。形式は能面が完成する直前の頃のものではなかろうか」と言うように、能面の完成された様式とは若干異なるところがあり、ややふくよかな表情をした老女面といった様相の面

である。而裏は鉋目をほとんど残さず、きれいにはつられていて、目の裏の部分は、目尻の先を鋭角にした楕円状の、木の葉のような形状に彫られており、眼穴から目尻の先に向かって横一本の線が入っているのが特徴となっている。額の裏のところに「蓬莱/高近作」と刻銘があるが、この刻銘について、後藤氏は「蓬莱の意味は未詳。高近という作者も未詳」とするにとどまっている。しかしながら、文字の並びから一一一一口っても、「蓬莱」が「高近」の諒と対を成す姓であるの

は、まず間違いないであろう。すなわち、この老女面は蓬莱高近という人物によって作られた面ということになる。制作

写真2 写真1

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年代など、詳しいことは分からないが、この面とともに伊藤家に所蔵されている鬼面・尉面。若い女面の三面はいずれも能面の様式が確立する以前、中世の作と考えられ、またこの老女面も同じく類型化以前の様相を示していることから、戦国期を下らぬ頃の作と見て差し支えないであろう。そして、この面の作者「蓬莱高近」が、深尾甚左衛門手沢本『大野出目家伝書』の書き込みに見える「ホウライタカチカ」と同一人物である可能性も、きわめて高いといっ

てよいであろう。問題となるのは、一方が漢字表記であり、他方が片仮名表記となっている点であるが、後述のように、蓬莱作の面には、漢字で刻銘したものと、片仮名で刻銘したものとの両様あったらしいから、「蓬莱高近」の刻

銘と「ホウライタカチカ」の刻銘とが併用されていたとしても不自然ではない。深尾甚左衛門がもともと面の刻銘に「蓬莱高近」とあったのを、『大野出目家伝書」に書き込みを行う際、片仮名に改めたという可能性は、特に想定しな

くてもよいと思われる。ともあれ、深尾が目にした能面に「ホウライタカチカ」の作銘があったということは、蓬莱高近作の面が中央の能界にも伝わっていた可能性を示唆している。さらに、この面打が「蓬莱」姓を名乗っている事実は、六作の一人とされる「宝来」の素姓を考える上でも、きわめて注目されるのである。なお、「蓬莱」姓の面打には、もう一人、蓬莱永近という人物もいたらしい。同じく後藤氏が『中世仮面の歴史的・民俗学的研究」(昭和六十二年。多賀出版)に、徳島県美馬郡中山路八幡神社の若い男面として紹介されているの(ママ)が、その蓬莱永近作の面である(現願勝寺蔵)。面裏に「蓬来民部承永近」「大永一一年一二月吉日」と刻銘がある(写真3.4)。縦別・0×横u・0×高さ6.5センチメートル。現状の彩色は後代に塗り重ねられたもので、もとの彩色層の上に下地を施し、その上から白色系の彩色をかなり部厚く塗っている。そのため、瞼の輪郭が暖味になっており、本来の表情を損ねているのが惜しい。おそらく江戸後期頃の補彩だろう。額には墨で眉を描いているが、これも後代の所為らしく、眼球の部分も後から大きく割り貫かれている。ともに、この面が後世、神楽面として用いられて

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n打ホウライ考

いたらしいことを物語るものである。ともあれ、この面は蓬莱永近なる人物の作であって、「大永二年」という制作年代が明記されているのも大変貴重である。先の蓬莱高近の刻銘と比較すると、それぞれの文字の字体に非常によく似ているところがある一方で、「蓬莱」「蓬来」の用字の違いなど、相違点も散見する。蓬莱永近作の若い男面の而裏は、所々に縦の鉋月を残しているが、先の老女面はほとんど鑿跡を残さないなど、作風にも若干の相違があり、現段階では、蓬莱永近と高近とは別人とするのが妥当ではないかと思われる。しかし、Ⅲの裏の部分を木の葉型に彫

る点や、鼻の裏の部分を、頂上がなだらかな弧を描く二等辺三角形に彫る点など、両者はきわめて似通った作風を示して

おり、同一人物ではないとしても、親子兄弟といった、きわ

めて近しい関係の人物の作であるのは間違いないと思われる。この蓬莱永近の作と思われる面が、岡山の林原美術館にも伝わっている。「宝曲」の名で呼ばれている曲見の面で、備前池田家伝来而の一つである(写真5.6)。「宝Ⅲ」の名は、「宝来」作の曲見の意らしく、而裏の額の部分に「ホウライ

写真4 写真3

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/ナカチカ作」と刻銘がある。この刻銘は漢字ではなく、片仮名で刻まれているが、先の蓬莱永近と同一人物と見てよいであろう。蓬莱永近作の若い男面と「宝曲」との間には、部分的に縦の鉋目を残した鑿跡や、目の裏の木の葉型の割り方、鼻の裏の彫り方など、多くの共通点が見出されるからである。さらに、中村保雄「古面の美』(平成元年。鰻々堂)に紹介されているホウライ作の尉面も、同じ作者のものとしてよいであろう。この面はいまだ実見の機会を得ないが、面裏の額部分に「ホウライ作」と刻銘があり、その字体は曲見の「ホウラィ/ナヵチヵ作」と酷似する。写真で見る限り、裏の彫りにも、先に指摘した特徴が当てはまるようである。そして、これに深尾本『大野出目家伝書』に「ホウライタカチカト面ノうら一一有之」とある面を加えると、都合五面の「ホウライ」「蓬莱」作の面の存在が確認されることになる。それらの面を刻銘に基づいて整理すると、次のようになろう。

①「ホウライナカチ力作」と刻銘のあるもの②「ホウライ作」と刻銘のあるもの

写真6 写真5

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9面打ホウライ考

右の五面のうち、③は深尾本「大野出目家伝書』の情報に基づくものであり、実際にどのような刻銘であったのかは不明であるが、仮に『大野出目家伝書」の書き込みの通り、「ホウライタカチカ」と銘が刻まれていたとすると、ホウライ作の面には、蓬莱永近の作と、蓬莱高近の作とがあり、それぞれに片仮名で刻銘をするものと、漢字で刻銘するものとの両様あったことになる。こうした刻銘の差異が意識的に使い分けられたものなのか、それとも特に大き

な意味がないのかは不明である。制作年時の相違に拠るのかも知れないし、あるいはまた別の理由に拠るのかも知れ

ない。片仮名書きの(四。⑤の面が、いずれも能面として用いられたものであったのに対し、漢字書きの④⑤は、ともに地方に伝来した面で、神楽面として用いられた可能性も想定され、そうした伝来の差異が、刻銘の表記と関わって

いることも考えられるが、そう断定するには、伝存例があまりに少なく、早急に結論を出すのは控えるべきであろう。

ともあれ、これらの伝存作品から、蓬莱姓の面打として、蓬莱永近・蓬莱高近という人物がいたことが明らかになる。そして、④に見える大永二年の年記により、蓬莱永近が十六世紀前半に活動した面打であったことも知られる。蓬莱高近も、おそらくこれとほぼ同時代に活動した面打と見てよいであろう。『仮面譜』は面打「宝来」を、寛政九

年から遡ること三百八十年余、すなわち十五世紀前半の人物とする。それとはおよそ一世紀のずれがあるが、『仮面

譜」をはじめ、江戸期の面打に関する名譜が、柱々にして室町期に活躍した面打の年代を古く設定していることをも

考慮に入れるなら、「仮面譜』や『面打秘伝書』などに名前が見える面打「宝来」が、蓬莱永近や蓬莱高近のことを

⑤④③「蓬莱」「高近作」と刻銘のあるもの 「蓬来」「永近」と刻銘のあるもの 「ホウライタカチカ」と刻銘のあるもの

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指している可能性はかなり高いといってよいであろう。

そこで注目したいのは、寛文十一年(’六七二の年数書がある『面之書』の諸本の中に、「十作外之上作」として、

「ほうらいなかちか」の名を挙げる伝本があることである。すなわち、大倉三忠氏蔵の『面之書』に、

翁ノ面上作一弥勒’一公羽之作

とあるほか、岡康文写

十作外之上手 「ほうらいなかちか」

十作外之上作

一千種-あやかし

一水原文蔵

一慈雲院一蛙之面

一南都興福寺ノ知恩坊

一千種あや一一一一二井寺之僧日光一翁之面水原越前、水平寺僧西蓮

一蛙之面本願寺下南都興福寺知恩坊 一ハ慈雲云院 岡康文写の

本願寺下問少進二有之 水原文蔵 一一あやか蕾●し 翁ノ面上作一ほうらいlかびかちか作

『仮面名目」(岡家蔵)にも、 一三井寺僧日光一翁之面一越前永平寺之僧西蓮

本願寺下間少進二在之

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11面打ホウライ考

以上の如く、能役者の間で知られていた「ホウライ」作の面は、その多くが「ホウライナヵチカ」「ホウライタヵ

チカ」のように、仮名書きの刻銘を伴うものであった。そのために、「ホウライ」にどのような漢字を宛てるべきか、後世に確かな伝承が伝わらなかった可能性が考えられる。寛文十一年の『面之書』が、平仮名書きでその名を挙げるのに対し、大蔵虎明の『わらんべ草」には「保来」、喜多古能の「仮面譜』には「宝来」とあって、表記が一定しないことも、その宛字の不安定さを物語っていよう。一方で、「ホウライ」を「蓬莱」と記載した例も、若干ではあるが確認できる。例えば、貞享三年(一六八六)の大蔵大夫筆『面之書」(伊達家旧蔵。現能楽研究所蔵)は、「実作」と

して太子・弘法・弥勒・日光・夜叉・文蔵・龍右衛門・尺鶴・増阿弥・氷見・小牛・福来・石王兵衛・千種・徳若・春若・越知・三光の名を列挙した後、「是右奥ハ中作」として「蓬莱」と「越前打」とを挙げている。この「蓬莱」がホウライのことであり、江戸期の資料の中で、面打ホウライの名前を正しく記載した数少ない事例として注目され

る。もっとも、それが先に紹介したような「蓬来永近」「蓬莱高近」刻銘の面の存在を知った上での処置なのかは、 一ほうらいなか少らか作

とあり、それぞれ、最後の行に「ほうらいなかちか」と見える。そのすぐ前の箇所に「弥勒翁之作」とあるのと対応させると、「ほうらい」という面打が「なかちか」という面を作ったとも解せられる記事であるが、おそらく、この「ほうらいなかちか」は蓬莱永近であって、「なかちか」が諄であることが分からなくなってしまったために、右のような書き方となったのであろう。また、その「ほうらい」にも「なかちか」にも、特に漢字が宛てられていないところを見ると、「ホウライ/ナカチカ作」と仮名書きの刻銘がある面の存在を踏まえて、この記事が書かれてい 一弥勒一ほうらいとあり、それぞれ、

いところを見ると、「ホウラ

るように思われるのである。

以上の如く、能役者の間《

チカ」のように、仮名書き( 公羽之作

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これまで見てきたように、江戸期の面打の名譜が伝えるホウライという面打は、十六世紀前半に活躍した蓬莱永

近・蓬莱高近を指している可能性が高いように思われる。その蓬莱の事蹟について、能楽資料の側からは、これ以上

明らかにすることは出来ないが、甲冑師関係の資料に、蓬莱の事蹟解明につながる情報がいくつか見出されるので、

ここに紹介することにしたい。

そもそも筆者が面打蓬莱と甲冑師との関係に思い至ったのは、甲冑研究者の小田満博氏が所蔵される「蓬莱永近」作の面頬の情報を、たまたまインターネット上で発見したからであった。ただちに、徳島県美馬郡中山路八幡神社の

若い男面に「蓬来民部承永近」の刻銘があることが想起され、両者が同一人物ではないかと考えたのである。小田氏

が所蔵される面頬は、頬と顎の部分に梅の枝の浮彫をあしらい、耳の部分には花紋の透かし彫りを施した、実に装飾的なもので(写真7)、これは蓬莱派の面頬の特徴でもあるという。裏面は全面に朱漆を施すが、両耳の部分のみ四角

く朱漆を施さずに残し、そこに「蓬莱」「永近作」と刻銘がある(写真8.9)。その書体は、若い男面の刻銘と酷似しており、両者が同一人物であるのはまず間違いないであろう。

蓬莱の作になる面頬には、他に飯田一雄氏所蔵の鉄地黒漆塗据文面頬もある。飯田氏の著書『甲冑面もののふの仮装』(平成三年。刀剣春秋新聞社)に図版入りで紹介されるもので、右の蓬莱永近作の面頬と同じく、表面に梅枝の

浮彫をあしらい、裏面の耳の部分に「蓬莱」「代三百疋」と刻銘がある。その「蓬莱」の書体は、やはり若い男面と

きわめてよく似ており、同一人物の作の可能性も想定される。一方で、「蓬」の字は、「蓬莱/高近作」の老女面の刻 今一つはっきりしないのである。

三、面頬師蓬莱との関係

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13而打ホウライ考

銘とも酷似しており、あるいは蓬莱高近の作であるとも考えられるが、いずれにせよ、これが蓬莱派の面頬師の作であるのは間違いない。その他、『明珍家頬当秘図」(京都大学図書館蔵)など、様々な面頬の図を収めた江戸期の文献資料にも、蓬莱永近作の面頬の同が挙がっており、蓬莱永近が而頬師として数多くの面頬を残していたことが知られるのである。飯田一雄氏「甲胃而もののふの仮装』が指摘するように、面頬の中には能面の型を用いたものが散見する。筆者も以前、ニューヨークのメトロポリタン美術館で翁而そのままの姿を

写真7

「1rI

F-

写真9 写真8

(15)

した総面頬に出会ったことがあるが、面頬が武士の顔を保護する一種の仮面であり、また鋳造に際して木型が作成ざれたことを思えば、面頬師がその余技として、能面の制作にも携わっていたというのは十分に考えられる}」とであろ

う。近江の面打・井関家はもともと鞍打の家系で、能面制作の傍ら、鞍打として活動したことが知られているし、大

野出目家の祖・出目是閑も、「出目由緒書」(東北大学付属図書館蔵)に、「天正中京都二住居仕、大閤秀吉公鎧師二御座侯処、御面打二相成」とあるように、もともと甲冑師であったと伝える。そうした事例からも、面頬師の蓬莱が能

面制作に従事していた可能性はきわめて高いといえよう。その蓬莱永近の事蹟について、甲冑関係の資料はどのように伝えているのであろうか。まず、享保十二年(一七二

七一浬議燗護源加護識Ⅱ即久[蓬莱太郎旱永近(永禄比・或h蓬莱民部藤原永近とあり字

ホウライ

然ではない。 これによれば、蓬莱は加賀を拠点とする甲冑師の家系であり、永禄頃に蓬莱永近なる人物がいるという。この永近が能面をも残している蓬莱永近その人であることは、右に「或ハ蓬莱民部藤原永近とあり」とあって、その名乗りが、先に取り上げた若い男面の刻銘「蓬来民部承永近」と近似することからも、確実といえよう。その若い男面は大永二年(一五二二)の作で、永禄(一五五八~七○)とは若干の開きがあるが、永近が永禄初年頃の没とすれば、決して不自

また、享保四年写「明珍家系図」(内閣文庫蔵。『位階表』に合綴)には、次のようにある。

成国[次郎大夫。延徳ノ比。星冑多シ。中作。義久子。蓬莱先祖]

成国[平大夫。相州酒川二住ス。天文ノ比。成国子。後ノ成国卜云。星冑多シ。中作] 国近[蓬莱三郎]等也」

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15面打ホウライ考

国近[平蔵。其父師トモニ不詳。然トモ支流ハ慥ナリ。上手]

国久[蓬莱次郎。国近子。加州上州二住ス]

永近[平内。加州金沢二住ス。永禄ノ比。上作]

国通つ作近)[蓬莱三郎。憲国弟子。上作。頬上手]ここには、甲冑師として著名な明珍家の分脈支流としてまず、相模・上野で活動する蓬莱の一族についての記述が

あり、さらにその支流として、加賀に住む蓬莱の一派の系図が挙がっている。蓬莱高近の名は、ここにはないが、加

賀蓬莱は「近」字を代々襲っていたようであるから、その一族と見て間違いないであろう。

この『明珍家系図」によると、蓬莱永近は加賀金沢の住であるというP永近が加賀の甲冑師であったことは、『本

朝武林原始」にも明記されており、その他の文献にも異説を見ないから、一応信頼してよさそうである。能面関係の

資料は、「宝来」を「大和ノ国ノ住人」とするものが多いが、その信瀝性は低いと言わねばなるまい。蓬莱永近が加

賀で活動していたことを具体的に示す資料は、今のところ見当たらないが、隣国の能登七尾府中の大地主神社に「蓬莱出雲守国近作」の山王廿一社神楽鈴が現存し、北陸における蓬莱の活動の痕跡を辿ることが出来る。米原正義氏「戦国武士と文芸の研究』(昭和五十一年。桜楓社)によれば、蓬莱国近は「駿河の刀鍛冶で、のち春田鍛冶となって能州に居住し、巫女鈴を造った」人物として、『能登志徴』巻一下羽咋郡子浦村条にその名が見えるほか、正徹の高 (中略)国近一国久一永近一 成近[八郎。上州白井二住ス。元亀・天文ノ比。成国子。星冑多シ。上作]成重[蓬莱大郎。上州八幡二住ス。天文・永禄ノ比。成近子上作冑ナリ。義弘ニ似タリ。細工見事ナリ。コマカナル星冑多シ・筋星希ナリ。世上ニニラ山ト云ハコレナリ]

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これまで述べてきたことをまとめると、次のようになる。

①江戸期の面打名譜に名前が見える「宝来」は、正しくは「蓬莱」であると考えられる。

②「蓬莱」を姓とする面打として、蓬莱永近・高近が確認される。③蓬莱永近の活動期は十六世紀前半で、蓬莱は面頬の制作を本職とする甲冑師であった。

④蓬莱永近の一族は能登・加賀を拠点に活動し、神楽鈴の制作にも携わっていた。以上で、面打「ホウライ」の実像はかなり具体的に明らかになってきたのではないかと思うが、ここであらためて

考察しておかねばならないのは、そのホウライ作の面が、能面の歴史において、どのような位置づけにあるのか、と

いうことである。室町・戦国期に活躍した面打の多くは確実な真作と呼びうるものが非常に少ない。そこから能面作 弟招月庵正広の歌集「松下集」にも、「国近と云者」が、能登に下向した正広に渡唐天神絵像の賛を求めた由が見えるという。この蓬莱国近が、先の「明珍家系図」に加賀蓬莱の祖として見える蓬莱国近と同人であることは想像に難くない。蓬莱国近をもと駿河の刀鍛冶とする点や、彼を能登の住人とする点など、いくつか伝承に揺れが見られるが、国近が北陸を拠点とする職人であったという点では一致する。その国近が制作した大地主神社の神楽鈴には「永正十三年四月吉日」の奉納銘があるが、国近の次の世代と目される蓬莱永近が大永二年作の能面を残していることとも、年代的に符合する。なお、米原氏も指摘するように、『石川県銘文集成中世金石文編」八七号に、延徳四年二四九三五月十一日、蓬莱掃部国近作の稲荷大明神神楽鈴(京都市蜷川家蔵)が紹介されている。これらの資料によって、加賀あるいは能登を拠点とする蓬莱一族の活動期も、ある程度、特定することが可能なのである。

おわりに

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17面打ホウライ考

家としての個性を明らかにし、その作風を云々することは困難を極めるが、二、一一一面とはいえ、確実な作品が知られるホウライの例は、まことに稀有なケースであるといえる。加えて、ホウライが活躍した十六世紀前半は、能面の様

式が次第に整いつつある過渡的状況にあった。従って、能面の様式がいつ頃確立したのかを知る上でも、ホウライ作

の面は、すこぶる貴重な材料たりうると思われるのである。

まず、後世において、ホウライという面打がどのように評価されていたかを確認しておく。『大野出目家伝書」は、

「宝来」について、「尉ノ類、あやかしノ類、女面ニモ作有、其外何レニモ作多シ」と記しており、ホウライが尉・怪

士・女面など、多様な種類の面を作った面打とされている。このことは、現存の蓬莱永近・蓬莱高近作の面が、老女

面。若い男面・尉面・女面と、多岐にわたっている点とも符合する。とりわけ、ホウライの作面として注目されるの

は女面の系統であり、出目仲満志の『謡曲仮面抄』(能楽研究所観世新九郎家文庫蔵)に「蓬莱女宝来打始シニ依テ名付也。故二宝来女ト書ガ本字ナリ」とあるように、作者の名を冠して「蓬莱女」(宝来女)と呼ばれる型を創作した

ことが知られている。この「蓬莱女」(宝来女)は増女の類面で、現三井文庫蔵の伝宝来作の宝来女が有名であるが、

面裏の彫りには本稿で見てきたような蓬莱の特徴がまったく見られず、これを蓬莱女の基準作と見なし、蓬莱の作風

を云々するのには適当ではなかろう。蓬莱女の基準作として、私がむしろ注目したいのは、鎮仙会所蔵の増女である。

この増女には、一般的な増女に見られる強い意志のようなものはあまり感じられず、寂しさすら漂わせる独特の面で

あるが、その面裏には、次のような朱漆銘が書かれている(写真Ⅲ.Ⅱ)。

享保十七壬子

二月出来 本面宝来作

出目甫閑直二写之

(19)

18

右の朱漆銘は、鳥取瀞池田家旧蔵面にしばしば見られるものと同種で、この面が鳥取藩の旧蔵であったことを物語って

いる。その朱漆銘によると、この面は出目爾閑の作で、喜多家にある「宝来作」の本面の写しであるという。残念ながら、その本面の方は現在行方が知れないが、右に「直一一写之」とあることから、喜多家の本而の忠実な写しと見て差し支えな

いであろう。特筆すべきは、この面の面裏に、先に指摘した蓬莱永近作の而裏と共通する特徴が見出されることである。全体に堅の鉋Ⅲが見られる点、眼穴のⅡ尻にあたる部分が

尖った木の葉型に彫られている点、面裏全体が黒漆で塗られ

ている点、などがその共通点であり、この面が「直写し」の面であることを踏まえるならば、面裏にも本面の特徴が精確

に写されている可能性はかなり高いといってよいのではなか

ろうか。そしてこれらの特徴は、喜多家がかつて所蔵してい

た本面が蓬莱永近の真作であったことを示唆するとともに、 本而喜多十太夫家ニアリ

増女

緯鶴

i璽毫鯛国塵鐙檸睾皇

賎望j色濃)

写真1] 写真10

(20)

19面打ホウライ考

その忠実な写しである鏡仙会所蔵の増女が、蓬莱によって創出されたという蓬莱女の面影を最もよく伝える貴重な作

例たることを示しているのである。

注目すべきは、この増女が、すでに能面の女面として、非常に高い完成度を誇っていることであろう。林原美術館

蔵の「宝曲」と呼ばれている曲見面もそうであり、蓬莱の時代に、女面の様式が次第に完成されつつあったことを、

これらの面は如実に物語っている。中山路八幡神社の若い男面、酒田市・伊藤家蔵の老女面も、現在の能面の様式か

らは明確な分類が難しい点もあるが、すでにいかにも能面らしい繊細な表現がなされており、蓬莱という面打が能面

の様式形成にきわめて大きな役割を果たした可能性を示している。その蓬莱が面頬の制作を本職とする甲冑師であったという点も、能面の制作背景を考える上で興味深い問題を提示しており、そうした観点からあらためて能面の形成

史を捉え直す試みが今後求められようが、それについては全てこれからの課題とし、ひとまずホウライについての考

察を終えることにしたい。

(付記)

面頬の作者である蓬莱永近が、同時に能面をも打っていたとする本稿の趣旨については、すでに、筆者の教示によるとして、見市泰男氏が「能面考(六)」(『観世』平成十二年六月号)で発表されている。しかし、その後、いくつかの新しい材料を見出したので、今回あらためて論文にまとめさせていただいた。従って、本稿の冒頭に、宝来の事蹟について何一つ明らかになっていない、としたのは、「見市氏の論稿が発表される以前は」、という限定付きであることを断っておきたい。本稿に掲載した写真のうち、願勝寺蔵の若い男面、小田満博氏蔵の面頬の写真は、ともに見市氏の提供によるものである。末筆ながら、記して感謝申し上げる。なお、本稿は科学研究費補助金基盤(B)「能・狂言面の創出と派生に関する学際的研究」(課題番号23320056,2011~2014年度、研究代表者・大谷節子)による研究成果の一部である。

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