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詩人の心と詩家の事

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(1)

李白と杜甫とには相

がある。杜甫の詩の多くは、時

地點・背景が詳しく ・ の詩は詩史と稱せられ、すでに宋代において基本 べられていて、後世、これによって彼

品の に彼の作

年は完 ている。もちろんそれは している。一方、李白は後世、詩仙と稱され

るが、もし我々がその詩を時空表現という に彼の詩の風格と容を指してい

ば、その詩もまた仙人と同じで、多くは 點から見たなら 體 な時 や空

を超越している。彼はふつう

體 な時 いので、宋代以來、學 と地點を明示しな

たちはその作品の

年を困

ていた。たとえば李白は「亂離を經し後、天恩にて夜 と感じ

され、 に流

を憶ひ、懷ひを書して、江

の韋太守良宰に

(「經亂離後天恩流夜 る」

憶舊 書懷

江 韋太守良宰」、以下「

良宰」と 韋 稱する)という詩で、安祿山の反亂

に幽州に赴 き、安祿山が反亂を

李白の重 いる。後人はこれに基づいて、李白が幽州に北上したことを (1) こす危險性があると察知したと語って の な政治活動の一つと見なした。しかしながら、他 料を總合して考察すると、李白の語っていることと、

な時 ・空

はまったく一

しない。これは一種の

て考察したいと思う。 想像であり眞正なる事實ではない。以下、このことについ

一 李白の幽州北上の時

考察

李白のこのたびの北上と關係する作品を細かに讀んでゆき、その行

の始まりと

と、彼の北上の時 わり、北上し南に歸る路線を推理する が ら見ると、李白の北上の經路は、おそらく宋 り出せる。李白のこの時期の作品か

詩人の心と詩家の事

李白「十到幽州」解

!

球 寺尾 剛 譯

(2)

貝 滄幽であったと考えられる。これは

な交

あり、 路で

は1000キロ

くである。『

と、安祿山が反亂を 書』による こしたとき、幽州で旗揚げしてから

河を渡るまでわずかに七日であったが、一般の

少なくとも一 人の場合、

はかかった。李白の場合、

り すがら應酬した 覽したりしているので、宋州から幽州までは、さらに時 を したと思われる。李白は魏州、

たり來たりしており、かなり長時 州、邯鄲などでは行っ 私は詩の中から季 している。おそらく魏州からは直接幽州に赴いたと思われる。 逗留して、作品も多く殘 の特 この を配列してみた。 に基づいて〈表1〉のように作品 兵のことが言 料は不確かなものである。その邯鄲での詩には、出

され、また春と

の景色が

これらの 料から推理すればおそらく天寶十載のことである。しかし、 かれており、史

料だけでは

體 な時 と場 ことはできない。これだけでは李白が幽州に到 について確定する した時

明らかにするすべはない。しかし、我々はまた、李白が歸 を

した時から、彼が幽州へ赴いた時

李白は北から歸ってきた際、再び魏州を を推論することができる。

している。「

韋良宰」詩で、彼はこのことを回して「驅馬

!」(「馬

詩人の心と詩家の事(査・寺尾)

"秋 春

春 秋 秋 秋 時

〈表1〉

幽州 幽州 魏州

#$

邯鄲 邯鄲 滑州 宋

%

地點

「幽州胡馬客歌」、「鄒衍谷」、「

&崔度

自薊北門行」 禮部員外國輔之子」、「出 '度故人 「行行且

獵篇」 「魏郡別蘇明府因北

」 「 #

$明府

「 (聿」

臨 縣令

)弟」 「自廣 至邯鄲登 *乘醉走馬六十里

%樓覽古書懷」 「邯鄲南亭

才人嫁爲厮 +妓」、「邯鄲 ,卒 邯鄲洪波臺置酒 -」、「登

+發兵」 「發白馬」 「留

.于十一兄逖裴十二 塞垣」 詩題

「雖居燕支山、不

朔 /

0」「幽燕沙

/地」「燕山 /1大如席」「孟

緊」 風沙 「胡馬秋肥宜白

鞭拂 2」「金 /揮鳴鞘」 「美人誇

玉」 34、淇水流碧 「

芬」「桑柘 5邑樹桃李、垂陰亦流

67雲」 「揚鞭動柳色、寫 生」「深 8春風 9翳 :2」「帳飮 /;酲」「凌晨向燕京」

<:燕趙、時將

薊門

「天狼正可射」 「蕭條

=里外」 「悲吟雨

爾裘上霜」 /動林木」「拂 詩句

(3)

を驅りて貴

を とぐ」)

ら歸ってきた時の べている。詩の中で、自ら幽州か 景を

べているが、いつ

見てとれない。わずかに、もとの ってきたかは を って が、確定できるに ってきたこと 詩の頭に「太 宣州において二首の詩の中でこのことに觸れている。一つは 李白は幽州に赴いて後は、すぐに宣州に歸っている。彼は ぎない。

、明星玉女峰。

相逢。」(「太 仙下西嶽、陶令忽 の三 、明星玉女峰。仙を

たばかりの時の作品であり、幽州から魏州へ、さらに とある。これは明らかに宣州に歸ってき令忽ちに相ひ逢ふ。」) ねて西嶽を下り、陶

ら宣 山か

に到ったと想像できる。かなりの時

を る。もう一首では「懷恩欲報 した思われ 、投佩向北燕。」(「恩を懷きて とに報いんと欲し、佩を投じて北燕に向かふ。」)

『 べている。

刺史考』によると、天寶十二載には宇文氏が宣

勤めている。後任の趙氏の在職期 太守を の宣 から推理すると、宇文氏

太守であった期

の下限はは天寶十三載四

が初めて彼に會い詩を獻上し得たのは、天寶十一載の秋・ で、李白

から天寶十三載四

の 文氏の在職二年目の時に 流についての詩は二首あり、二首とも秋の作であるので、宇 に限られる。李白とその人物との交 いない。

の詩の中で、 幽州から歸ってきてから、「危

惜頽光、金波忽三圓。」(「危 とは、おそらく三ヶ 頽光を惜しみ、金波忽ちに三圓なり。」)と語っている。「三圓」

から三ヶ のことである。そうであるならば、秋 さかのぼることになるので、李白の宣

歸 くともその年の六 は遲 ということになる。天寶十一載の六

は宇文氏はまだ任に で いていないので、天寶十二載の六

この分析によれば、彼の一年あまりの北上の た。 いうこととせざるを得ない。この分析によって〈表2〉を作っ と

載 は、天寶十

から天寶十二載の六

の ない。彼が幽州に滯在した時 の活動は天寶十載の末から天寶十二載の春までとせざるを得 とするしかない。彼の幽州で

は天寶十一載の

で、

春には 年の

山を經由して宣

の一點に關しては確定 に歸って來ている。少なくとも後 である。

二 李白北

當初の動機

以上の李白北

の時

北上の動機は必ずしも「探營」(〔譯 赴いた際には安祿山の反亂を予知するのは困であり、彼の 分析に基づいて、私は、彼が幽州に

な動きを探索すること)ではなかったと考える。 (3) !〕安祿山軍の陣營の不穩 中國詩文論叢第二十四集

72

(4)

『 治 あるとの指摘は、 鑑』の關係史料の記載によると、安祿山に叛意が

楊國忠と安祿山との衝 として楊國忠が言い出したことである。 (5)

なってから始まる。李林甫は天寶十一載十一 は、李林甫の死後、楊國忠が宰相に

數日後に楊國忠は宰相になっている。それ以 に死去、その 安祿山と密接な關係を持っており、自分が は、楊國忠は

まず、安祿山の機を取っていさえしている。安祿山とて、 格するのも惜し 楊國忠を

き もうとしており、彼等はともに李林甫反對の 盟を結

している。天寶十二載に至っても、依然兩

は 盟關係を結んでいる (6)。この時點において、楊國忠は安祿山に叛意があったことを知るはずもないし、そのような話を言い出すはずもない。このような

況が變

するのは、楊國忠の

えてからである。時は天寶十二載五 勢が重きを加 の後、『

治 鑑』は

詩人の心と詩家の事(査・寺尾) 天寶十二載秋 天寶十二載九

九日 天寶十二載六

天寶十二載

天寶十二載春 時

〈表2〉

縣 宣

長江邊宣

鵲 山

(4) 魏州貴

地點

溪南 山下有 石上寄何 星潭可以卜筑余泊 官昌 」 「

亭寄崔侍御」 「宣

九日聞崔四侍御與宇文

時登 亭余

山不同此賞醉后寄崔侍御」 「宣

宇文太守

!"崔侍御」 「江上答崔宣 」 「韋良宰」 詩題

「沙帶秋

明、水搖

#山碧」 「登髙素秋

、下

$%山郭」一作「髙

素秋日」 「九日茱萸熟、插鬢傷早白」 「白

&白鷺鮮、

'如 '唳 (」「懷恩欲報

、投佩向北燕」「良圖

)

*、別 +繞旌旃」「蹉

,復來歸、憂恨坐相煎。無風

失計長江邉。危 -破浪、

.惜頽光、金波忽三圓。」「彈劒拂秋

/」 「謬忝燕臺召、而陪郭隗踪」「

洲 0仙下西嶽、陶令忽相逢」「樹繞蘆 、山鳴鵲

鐘」 「驅馬 1貴 」 詩句

(5)

記している。「安祿山以李林甫狡猾踰己、故畏

之。

忠爲相、祿山 楊國 之蔑如也。由是有隙。國忠

言祿山有反

上不聽。」(〔譯 、 ていたので彼を畏れ 〕「安祿山は李林甫が自分以上に狡猾であると思っ 從していた。楊國忠が宰相になるに

安祿山は彼を蔑 んで、

した。それで二人の

意ありと と。この史料から見ると、楊國忠が安祿山に叛なかった。」) はしばしば安祿山には叛意があると言ったが、玄宗皇は聴きいれ には龜裂が生じた。楊國忠 發するのは、早くて天寶十二載五

ある。天寶十三載に至って兩 の後のことで の衝 は表面

反のうわさはいっそう多くなる。この年安祿山は入 し、安祿山謀 ざわざ玄宗に釋明して素早く幽州に引き し、わ 李白北 うことができる。 至って、はじめて安祿山謀反という話は廣がり始めた、と言 している。ここに (7)

の時 から見て、天寶十二載五

は北から南に歸ってきている。それ以 の時點では、彼

には、彼は

から離れており、安祿山が謀反を企てているかも知れないという疑念を

くのは不可能である。彼の北上はそれ以

その動機とは何だったのか。もし彼の行動を他の詩人たち の動機があったはずである。 とであり、當然、安祿山の樣子を探索するためではない。別 のこ の活動と關

彼の北上は、高 してみたなら、その動機も容易に見當がつく。

の士人たちの一つの趨勢であった。開元年 い活路を見い出そうとしたためである。これもまた天寶末年 や岑參らと同じく、生きていくための新し

甫は自らの政治 の末から、李林 地位を 固にするため、極力、

取の

に富む

士科階

を攻 し、玄宗皇の打ち立ててきた

から外されてしまっている。士人が仕官の『河岳 いに阻まれることになった。天寶後期に至っては、かなりの 制度を破壞した。これによって才能ある士人の仕官のは大 (8)

に !靈集』

ばれている詩人である李白・高

でにかなりの名聲があったが、仕官ののほうでは ・岑參などは、當時す

しかし かった。 "が出な

#世の氣象や文才によって士を

$するという價値

%の

&入は、一方で、文人たちの

に「

には布衣なるも

'

には相爲り」という理想を

かせ、

とつと階 (常の「循格式」(こつ )を上げていく方法)の仕官を

考えを生み出した。以 *しとしない、という ちが、文人は才能の力によって階 にも陳子昂や張九齡といった人物た

るのだと言うことを、幾度も明らかにしてきた。一 )を飛び越えることができ

+に名を ,す、一

-で天に昇る、という考え方は、彼等の世代におい 中國詩文論叢第二十四集

74

(6)

てはかなり現實

職を受けることを な理想であった。彼等の多くは、小役人の

まず、ある

はあまり滿足しなかった。例えば、高 は縣尉のような低い官職に

たとき、「拜 は封丘縣の尉であっ 拜 官長心欲碎、鞭撻黎庶令人悲。」(「官の長きを

」)しましむ。と すれば心は碎かれんと欲す、黎庶を鞭撻すれば人をして悲

いている。彼等は常に新しく刺激

の な仕官

人制度の制を受けない を求めていた。これには、非常に實力のある、正規の役

力 に る必

があった。以

行した方法には、 流 王府の文學集團に加わるという

しかし、玄宗皇 た。例えば王維は名聲を揚げるのにその方法を用いていた。 があっ の 王に對する押さえつけは極めて嚴しく、

期のような

王の宮邸に

るといった文學

在しなかった。そこで彼等は邊塞の 境はもはや存 府に目を向けた。邊塞 (9)

府中の、屬員の品階と昇

の方法、あるいは實際の待

は、

常の

の役人制度とは

爭での必 なるところがあった。それは戰 性に基づいて、將帥自らが

ことである。とりわけ天寶年 り振りできるという の後期には、玄宗皇

の將軍を重用し、邊塞のリーダーも人事 は邊境 の 用においてかなり 力を有していた。當時、最も有名な

人いた。河北の安祿山、隴右の哥舒翰、安西の高仙 府のリーダーは三

である

である。たとえば天寶八載 にぶつかった文人たちは、彼等に身を投じるようになったの まさにこれらのことによって、天寶の後は、長安・洛陽で壁

、岑參は高仙

大理 府に赴き、

事 監察御史にり、安西

寶九載には、高 !官に充てられている。天 は幽州に赴き、安祿山の

る。「酬祕書弟 僚と交流してい 寄 下

"公序」(「祕書の弟に酬い、

ねて

の 下

"は、すなわち安祿山の重公に寄すの序」)

高 僚たちが

高 #であるということを書いたものである。天寶十二載の秋、

は 府に入り掌書記の職を得ている。天寶十載、安西

$

度使の高仙

が入 するが、その際、杜甫は「高

%&

詩を作って獻上している。天寶十四載二 '馬行」

(、哥舒翰が入

た際には、杜甫はまたもや「投 し 府に投 )哥舒開府二十韻」(「哥舒開 らわかるように、當時の詩壇の中心人物の多くが )という詩を獻上している。このことかす、二十韻」)

はいささか 李白も當然そうであった。ただ、李白の立場は他の詩人と うと努力していたのである。 府に入ろ なっていた。玄宗皇

の優

贊と提携を得る必 ることはできなかった。そこで彼は最も實力のある人物の賞 名聲はすでに大きく、もはや他の人のように原點から出發す によって、李白の があったのである。李白から言えば、こ

詩人の心と詩家の事(査・寺尾)

(7)

の方法は、彼の性格にも符合していたし、實現可能な話でもあった。實際に、彼の側にもこうする必

天寶三載、彼は賀知章と同じく、歸隱の志をもって があったのである。

れる。この時彼は「賜金放 を離 」(「金を賜り放

と「御 せられ」た人物)

歌手」という榮

を得ており、

え、生活に逼 を離れたとはい は、その賜った金も使い果たし、榮 するようなことはなかった。しかし六年後に

の魅力も(引力)

え去っていたようである。同時に彼もすでに五十

を ぎ、

日は待ってはくれないと深く感じていたし、政治

業を な大事

し げたいという思いも、一

彼は つのっていた。當初、

關係の人物の推

を得て一氣に

ており、直接、最も ていた。だが、今や彼はすでに天下に名を知られた人物となっ に昇ろうと考え た。この時、安祿山の 勢のある人物に職を求めることができ

力も頂點に

していた

白は當然、彼を最初の目標とした。彼は北 。自信家の李

「 當初の頃の詩

何七 官昌 」(「何七

官昌

に る」)において、北

動機を書いている

。すなわち「砂

建奇勳」(「砂

史 を建てん」)、邊境地帶で勳功を建てたい、ということである。 にて奇勳 の記載によって相關關係の

州に北上していたとき、安祿山と接觸するのはかなり困で 況を見てみると、彼が幽 あったと思われる。天寶十載八

と十一年三

回にわたる大規 、安祿山は二

!な

"丹討伐戰を發動している

戰爭は失敗に 。この二回の #

$わり、そのような

寶十一載十二 も李白という才子と接見する氣はなかったであろう。また天 況下では、當然ながら彼 には、安祿山は長安にいた

には河北の最高指 。李白は北上の後 %

&

いたのであろう。樂天 北方で長期にわたって滯在したのは、おそらく機會を待って 'に會うすべもなかったのである。彼が 心を な李白は、この時すでに安祿山が惡 (いていたことなど知るよしもなかったに

白のように玄宗皇 )いない。李 中では當然 *と密接な關係のある詩人は、安祿山軍の 來て、興が失せては歸って行ったのであった。 +,されない。だから李白も、興に乘じてやって

三 詩 家としての思惟と李白の北上の事に對 する敍

との矛盾

李白が「

韋良宰」の詩の中でいう「十

言 到幽州」という -には特定の含意が含まれているに

一 )いない。安祿山は十 九日に反亂を發動している。李白がこの詩の中で十

言っているのは、 と

.ち彼の行なった

/府探索の危險性と

の緊 0勢

さを示している。もしこの年の十

を指しているので 中國詩文論叢第二十四集

76

(8)

詩人の心と詩家の事(査・寺尾) 十二載春 天寶十一載 天寶十載 天寶十載春

〈表3〉李白と安祿山の活動

び安祿山謀反の傳聞對照表

幽州より

山に至る。

、幽州に至る。 春、

在り。 、魏州に に北 。 十宋

發。 より出 李白

長安に在り。

、安祿山・哥舒翰・封常

、 に入

す。 三、安祿山、蕃

の 十萬を發し、 騎二 丹を て去秋の恥を ち、以

がんと欲す。 八、安祿山、三

を將いて以て の兵六萬

丹を討つ。 きを見、頗る せざりしを以て、上の春秋高 (祿山)自ら曩時に太子を拜

莊・掌書記高 輕んずるの心有り。孔目官嚴 武備の墮馳するを見、中國を に懼る。又た

さんことを勸む。 爲に圖讖を解き、之に亂を作 、因りて之が 安祿山

春、楊國忠、人をして安祿山に

しむ。祿山、阿布思の部 き、李林甫、阿布思と反を謀ると誣ひ の れる をして闕に詣り林甫、阿布思と

して父子と爲ると誣

せしむ。 (十一)庚申、楊國忠を以て右相

文部

書と爲す。 祿山

に三鎭を

領し、賞刑己より出だし、日に

ます驕恣なり。

是の時、楊國忠御史中丞爲り。方に恩を承け事を用う。祿山、殿階を登

するに、國忠常に之を扶掖す。 安祿山・楊國忠の關係

(9)

なければ、明らかに意味のない言

の當初の目 は彼がいつ幽州へ北上したかを知っているし、おそらく李白 である。しかし、韋良宰 何年かの句の意味は、 涼幾度改」(「炎涼幾度か改む」)の一句があるのである(こ も知っていたことであろう。だから詩中に「炎 を知らない人から見れば、あたかも彼が安祿山が反亂を 。しかし、背景ごした、と理解できる)

こ えるのである。彼は幽州北上の時 した年に幽州へ行ったのかのように理解することも十分あり

らせば このような誇張の言をなしているのである。これは條理に照 を二年うしろにずらして、

できないのであろう。 な思惟の形式からでしか、このような現象を解釋することは る話ではない。我々は李白という詩人の性格と特殊 中國詩文論叢第二十四集

78

十三載 十三載春 天寶十二載

宣州に在り。

三丁酉朔、祿山辭して范陽に歸る。 正己亥、安祿山入

す。 五、阿布思、囘 の破る

と爲り、安祿山、其の部

誘ひて之を を 山の す。是れ由り祿 兵天下に

ぶ莫し。

(祿山)楊國忠が奏して之を留めんことを

晝夜に一たび更らしめ、 に乘り河に沿うて下る。船夫をして繩板を執り岸側に立ち、十五里ごと れ、疾驅して關を出で、船 行し、日に數百里、郡縣を

らず。是れより祿山反すと言ふ ぐれども船を下 有れば、上、皆な

して 由りて人皆な其の將に反せんと知るも、敢へて言ふ る。是れに

無し。 、山祿。むしを召さ之上、と。ん」らざ來ら命を聞き 、ん國忠、祿山必ず反せと必ず言ひ、且つ曰はく、「陛下試に之を召せ。

に ち至る。庚子、上 忠の疾むに至れ國り。 曰は寵泣きて此てし擢、く、下陛に見え、りな人臣は本と胡「。

賜を憐み賞 る。臣が死することと無からん」と。上、之爲日 萬。是れに由りて

せんことを知り、。ずか聽、上も、上に言ふ太子も亦た祿山が必ず反 まず。入る能は忠の言國信す。山を親祿す 安祿山、李林甫が狡猾なること己に踰ゆるを以て、故に之に畏

國忠が相と爲るに す。楊 び、祿山、之を

有り。國忠 ること蔑如たり。是れに由りて隙 しば言ふ、祿山反

に安祿山を排せんと欲し、奏して翰を以て河西度使を 有りと。楊國忠厚く哥舒翰と結び、共

ねしむ。

(10)

詩人は永王の亂に

座し、夜

に流され、

中で赦

れた。この詩は彼が赦 さ されて江

人と出會ったのであるから、感 たものである。このような時に、韋良宰という古くからの友 に歸ってきて後に書かれ た。その最も烈な感 も自ずから深いものがあっ とは、自分がかつての「御

から一介の流罪犯に 歌手」

た。韋良宰が名を ありふれた縣令から、一州の長官にまでなっていたことであっ ちぶれたこと、そして一方で、相手が した とは な原因は、彼が動亂の中で、李白 く の なか、 擇をしたからである。韋良宰は永王の亂のさ 陵太守に任じられていたが、永王の管

の範圍 あったにもかかわらず、永王の脅 に

に屈せず、

王の影 陵一州を永 から守ったのである

の永王の亂のさなかにおける の接見と賞贊を受けたのである。韋良宰に比べ、李白は自ら 。このことによって、彼は肅宗

擇の ら慚愧と後 りに對して、當然なが ことに重點を置いた。彼は親友に對して、自分がいちずに を感じており、自分の不幸と無念を彼に訴える

に忠 心を持っていたと訴えており、同時に

は超人 勢に對して な 最も長い抒 察力があったと訴えている。この作品は李白の

詩であり、災

の人々に對して自分の人格イメージをあらためて示す必が を經た後にあって、詩人は、世 あると感じていたのである。「十

が、二つの !到幽州」というこの一句 については、詩人が事後にあって故意に作り出した、一種の 大詩人として、李白が氣付かなかったはずはない。このこと "なった意味を生み出してしまうことに、一人の

#糊たる語境(〔譯

$〕曖昧なる言

しかない。この詩の幽州北上についての敍 %であると解釋するの境地)

ての一つの再創 &は、事實に對し '、一つの

() 般の人から見れば不可思議かも知れないが、樂天 想像なのである。これは一

(〔原文〕

「天眞」)な詩人からすれば、これもまた自然なことなのである。なぜなら彼はすでに詩家の思惟の世界に入っており、この思惟はすでに完

に現實 時空の制

*から ない。創作 詩人は故意に昔からの友人に對して嘘を言っているわけでは +離している。

,に驅り立てられて一氣に吹き出してきた言

%なのである。彼は詩家の想像によって、

うであった」ということにして敍 るのであり、「こうであるべきだ」ということを「事實はこ -去を回想してい 矛盾している。李白は幽州から る。たとえば幽州北上の動機に關して、李白の當時の發言は この一種矛盾した現象は李白の詩の中に少なからず見られ &したのである。

て北の .ってきたとき、友人に對し /の印象を

&べているが、その時の發言と「

0韋良宰」

詩人の心と詩家の事(査・寺尾)

(11)

の發言とは

なっている。たとえば「

溪南 山下有

可以卜 星潭

余泊石上寄何

官昌 」(「

溪の南、

山の下に

潭有り、以て卜 星 すべし、余、舟を石上に泊し、何

官昌 の詩で「期倶卜 に寄す」) 、結 金液」(「期するは倶に卜

を結んで金液を

とらん」)

べているが、北上の

白は何昌 には、李 もなりたくはない、理想は「砂 に對して、書生などにはなりたくないし、隱士に

を る。しかし歸ってきてからの詩では、いっしょに隱居して丹 建奇勳」であると言ってい ろうと しているわけである。この時、彼は一年

砂 、

で功績を建てると相手に豪語していたことを完

に してもこのことに言 彼は北方から江南に歸ったとき、さらに、良友の崔氏に對 ているのである。 れ

している。その「江上答崔宣

上にて崔宣 」(「江 同じ意氣 つまりは自分が戰國時代の士人郭隗とに應じたもの、)し」 に答う」)の詩で、北上は「燕臺召」(「燕臺のお召 失意の蘇秦と世 みであると語っていたが、失敗して後は、自分を この段階で て人の王恭になぞらえている。彼はすでに を後

し始めている。林

の隱士の自由には

ばないと

く感じているのである

。ところがまた、「

宇文太守

崔侍御」(「宣

の宇文太守に

ねて崔侍御に

す」)の詩では、「懷恩欲報、投佩向北燕。」(「恩を懷きてに報いんと欲し、佩を投じて北燕に向かふ。」)と言い

てこの 、依然とし !

を極めて刺激

"なすばらしい經

#であるとして

立てている。彼は自分の弓 $り

%や馬

%が

&常でない腕

境の胡人からも賞贊を で、邊 のうちに歸ってきたのである。この作品の中で、彼は幽州の 同樣、他人の妬みを買ったと感じ、その結果、やむなく失意 誇っている。しかし、彼はこのような自分の才能が、文才と 'ち得、軍中の指揮をも預かったと、

の失敗の原因は、彼の能力にあるのではなく、「

(〔譯 (雲將」

)〕高位の將、あるいは大男の將)や「剿

*兒」(〔譯

といったこでは國家を滅ぼす危險な輩の意) )〕こ 玄宗皇 言している。詩人がこのような發言をするのには、おそらく +中にある、と明 ,が蕃將胡兵に對して

-信していたことを批

性を察知していたとは、 圖が含まれていると思われるが、しかし、安祿山反亂の危險 する意 わかるように、李白の幽州北上の一事については、その く言っていない。以上のことから

後との記 と

が 受けられる。たとえば永王の 似たような矛盾の現象は、李白の詩の中には少なからず見 く矛盾しているのである。

當初は自ら「歸時儻佩 .府に入った事件についても、

/金印」(「歸りし時、もし

/金の印を佩 中國詩文論叢第二十四集

80

(12)

せしなば」、「別

赴 に談笑して胡沙を靜めん」、「永王東 とか、「爲君談笑靜胡沙」」詩)(「君が爲

ていた。彼は興味津々で永王の 歌十一首」詩)などと言っ しかし、彼は「 府に入っていったのである。

韋良宰」の詩では、「

脅上樓船」(「

どの「忠臣」に向かっては、彼は自らの政治上の と語っている。韋良宰のようなひとかせられて樓船に上る」) 脅 今日から見れば、李白の詩の中のこの種の矛盾は、不 する必があったのである。 白を表明

な人格 實

缺 に は詩人の樂天 立場から言えば、これもまた極めて自然なことである。それ いと言えるかも知れない。しかし、詩家の のたびごとの創作活動は、みな對象や にして複雜な個性を反映している。詩人のそ

境や動機の影

とりわけ 個々の思惟という點から言えば、それぞれみな獨立している。 けている。そして、そのたびごとの創作活動というものは、 を受

な意識の比較

惟の い詩人にとっては、その思 體はいつもその場の感

しば事實の制 の必性から出ており、しば を き破ってしまうものである。詩と

の關係は完 史と

には對應しない。詩は

思惟の

史家の實 物であり、

ではない。詩は史實のいささかの客

特 映させることはできる。その意味では、詩は を反

史の證明であ ることができる。しかし、詩は結局のところ

それは、 史ではない。

として特定の

史時期の人々の思想と感

するものであり、敍事というものは感 を反映 たものである。だからこそ先人は「詩に を表す必性から出 のである。從って、 詁なし」と言った

な意識の比較

い。 は、詩の中のことと詩人自身のこととは、決して對等ではな い詩人にとって 究 はいろいろな方面の

い。そうしてこそはじめて詩家の心と詩人の個性の 料を總合しなければならな

出すことができるのである。 貌を見

(1)その詩にのようにある。「十

!到幽州、戈

"

王棄北 #羅星。君

$、

%地借長鯨。呼

語、却欲棲蓬瀛。彎弧懼天狼、挾矢不敢張。攬涕 &走百川、燕然可摧傾。心知不得

天哭昭王。無人貴駿骨、綠耳空 '金臺、呼

(2)『舊 (驤。」 )書』「

*丹傳」に「天寶十載…八

!、以幽州・雲中・

+盧之

,數萬人、就

-水南

(3) *丹衙與之戰。」とある。

.の王琦は李白の幽州への北上の時

その /を天寶十載とする。

な理由は『

治 露の意をわにしていると記載しているからである。『 0鑑』がこの年にすでに安祿山が謀反

治 0

鑑』がこの年に謀反の意を持っていたと記すのは、本年に安

詩人の心と詩家の事(査・寺尾)

(13)

祿山が三

の い。當時の を得たからであって、これも推斷の域を出な 史 たわけで、外部の人 謀反の意圖を持っていたとしても、極めて祕密裏に處してい 境の中で、たとえ安祿山がこの年にすでに はるか幽州から が知ることは不可能である。まして、

く離れていた李白が知ることは一

であり、當然、「北上して探檢する( 不可能

(4)鵲 あったはずもない。 を探る)」考えなど はおそらく鵲頭

を指す。今の安徽省銅陵縣の大

鐵板洲のこと。江中の砂洲で、東晉以來、

の重 地方の長江上 な驛站。そのことからわかるように李白はおそらく

山から直接南下し、襄州を經て長江に出て、西から東へ行き、宣

には以 (5)太子の李亨もこのような言い方をしているが、それは一つ に入ったのである。

動亂以 り、今一つには楊國忠の發言を信じたからである。しかし、 安祿山が太子を拜さなかった一件があったからであ における彼の安祿山への反感は楊國忠ほどには

(6)『 なかった。 く 治 鑑』はこの一年を

のように記す。「楊國忠使人

安祿山、誣李林甫與阿布思謀反、祿山使阿布思部

誣 詣闕、

李林甫與阿布思

(7)『 爲父子。」 治 鑑』は

且曰、『陛下試召之、必不來。』上使召之、祿山聞命 のように記す。「是時楊國忠言祿山必反、

子、見上於 至。庚 宮、泣曰、『臣本胡人、陛下寵

至此、爲國 忠

疾、臣死無日矣。』上憐之、賞賜

萬、由是

丁酉朔、「三祿山辭歸范陽、上解御衣以賜之、祿山受之 國忠之言不能入矣。太子亦知祿山必反、言於上、上不聽。」 親信祿山、

!

喜。

板立於岸側、晝夜 "楊國忠奏留之、疾驅出關。乘船沿河而下、令船夫執繩

#行、日數百里、

祿山反 $郡縣不下船。自是有言 、上皆

%&、由是人皆知其將反、無敢言

(8)『 。」

治 鑑』(卷二一五)は

凡才 のように記す。「李林甫爲相、

'功業出己右

(爲上 厚、勢位將逼己

蜜有口『 甘李林甫世謂之。陰陷言而、以善陽與之或、士之忌文學尤 、必百計去之。

(9)例えば『 腹有劍。』」 , 治 鑑』に

ある。「 のような安祿山の掌書記の記載が )、雍奴人、本名不危、頗有辭學、

齧不能豈而死、事大舉、當危高『曰、常歎、志不得 +*貧困河朔、

,根求活 -。』祿山引置

.府、出入臥。」意を得ない

が のは何も中 .府に入る

( /以後だけのことでないことがよくわかる。

0)例えば『

治 鑑』の天寶十三載二の記載に

ある。「己丑、安祿山奏、『臣 のように 部將士討奚・

羅等、勳效甚多、乞不拘常格、超 1丹・九姓・同 加賞、仍好寫

授之。』於是除將軍 身付臣軍 五百餘人、中

2將 より安祿山の人固心掌握の 二千餘人。」これは 3について

時に同邊帥の 4べた部分であるが、

5人 力の大きさをも反映している。『

鑑』の同年の記

4に、また

論部將功、敕以隴右十將・特 のようにある。「哥舒翰亦爲其 6・火拔州

7督・燕山郡

8火拔 中國詩文論叢第二十四集 82

(14)

歸仁爲驃騎大將軍、河源軍使王思禮加特

、臨 太守 如

討 ・

副使范陽魯炅・皋

府 督渾惟明竝加雲麾將軍、隴右討 副使郭乂爲左

林軍。…翰又奏嚴挺之之子武爲

度 河東呂湮爲支度 官、

, 封丘尉高

爲掌書記、安邑曲

將。」これらはみな、當時の 爲別 府指 の 人

( 物語るものである。 力の重さを )また『

治 鑑』に以下のような記

「五 がある。天寶九載 、乙卯、賜安祿山

東 郡王。

「八 將帥封王自此始。」 、丁巳、以安祿山

河北 采訪處置使。」この年十一

安祿山は入

する。「上命有司先爲第於昭應。」「上自幸

!

春宮以待之。」とある。

親仁坊、敕令但窮壯麗、不限財力。」「甲辰、祿山生日、上 "年の春「上命有司爲安祿山治第於

#

貴妃賜衣

$・寶

%・酒饌甚厚。」「安祿山求

河東 度。二

丙辰、以河東 、 度使韓休珉爲左

( 林將軍、以祿山代之。」

&)「 '何七 官昌 (」詩は以下の

夜分。 り。「有時忽惆悵、匡坐至 羞作濟南生、九十誦古文。不然拂劍、沙 明空嘯咤、思欲解世紛。心隨長風去、吹散萬里雲。

陌 )收奇勳。老死阡

*、何因揚

+芬。夫子今管樂、才冠三軍。

( 豈將沮溺群。」 ,與同出處、

-)『 治 鑑』「天寶十載(九

)」に 山將三 .のように記す。「安祿 兵六萬、以討

/丹。」この年の三

を發動している。「三 、安祿山は戰爭 、安祿山發蕃

01騎二十萬

欲以 /丹、

2去秋之恥。」とある。 (

3)『 治 天寶十一載十二 鑑』(卷二一六)は、安祿山と哥舒翰の不和の事を

( 以後と記す。

4)李白「天長

使鄂州刺史韋公德政

( 5」に見える。

6)「江上答崔宣

7」に以下のようにある。「太

8三 玉女峰。 9:、明星

;仙下西嶽、陶令忽相逢。問我將何事、湍波

貂裘非季子、鶴 <幾重。

入 =似王恭。謬忝燕臺召、而陪郭隗蹤。水流知

>、雲去或從龍。樹繞蘆洲

、山鳴鵲

?鐘。

( 長台嶺蔭松。」 @期如可訪、

A)詩に言う。「昔攀六龍飛、今作百煉鉛。懷恩欲報

向北燕。彎弓綠弦開、滿 B、投佩 回旋 不憚堅。閒騎駿馬獵、一射兩虎穿。 C流光、轉背

D雙鳶。胡

E三 F息、 知五兵權。鎗鎗

G

雲將、却掩我之妍。多逢剿

H兒、先

志竟誰壯宣。蹉 IJ生鞭。據鞍空矍鑠、 K復來歸、憂恨坐相煎。」

〔譯

付記〕本稿は復旦大学教授・査屏球氏が二〇〇五年五

十七日(金)に早稻田大學 二 た L山キャンパスにおいて開催され 宋文學特別

M演會の席上で「詩人之心與詩家之事

白・十 ││李 到幽州・解」(

譯・寺尾)と題して發表された

M

演の原稿を、今回さらに加筆訂正して寄稿されたものの

である(タイトルは N譯 M演時と同じ)。なお、

M演時に

として氏が語られた御言 置き Oをここに

PQして

い。 N譯しておきた

詩人の心と詩家の事(査・寺尾)

(15)

早稻田大學は私が訪れてみたいと思っていた大學であります。こちらには私がひたすら

がいらっしゃいました。松浦先生の し續けている松浦友久先生 作の多くは中國語に

譯されております。たとえば『詩語の

『李白 相』『李白傳記論』

究』『李白

││詩と心象』などは私も大いに

ましたし、今も、私は學生たちに重 發され の御 な參考書として先生 とについて討論し、松浦先生への 書を紹介しております。本日は、みなさんと李白のこ

思います。 の氣持ちを表したいと 中國詩文論叢第二十四集

84

参照

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