紀の初頭から一八二〇年代まで
著者 佐藤 円
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 49
ページ 31‑57
発行年 1997‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011254
はじめに
(1)〈ロ衆国東南部に居住していたインディアン、チェロキー族において一八世紀の末から本格化したいわゆる「文明(2)化」は、部族の政治、経済、文化といった様々な分野で急速に進展していった。一八三○年代の末、合衆国政府によって、本来の居住地からミシシッピ川以西に設定された代替地(現在のオクラホマ州北東部)へ強制移住させられるまでのわずか一世代ほどの間に、彼らが政治制度から生活様式まで大胆に同時代の日人文化を受容していったことは驚きに値する。彼らは議会を開設し、法律を制定して、「国家」としての体裁を整える一方、畑を開き、家畜を飼い、糸を紡ぎ、機を織り、なかには黒人奴隷を使った農園
チェロキー族における部族政府の組織化(佐藤)
チェロキー族における部族政府の組織化
’’八世紀の初頭から一八二○年代までIの経営に乗り出す者もいた。また宣教師たちの力を借りて教育の普及にも努め、部族民の一人セコイヤ(の①E・豈昌)が開発したチェロキー文字と英語を併記した新聞『チェロキー・フェニックス』(Q←の、・計の①、寺・自冒)の発行まで行った。一八二五年に部族自身が実施した国勢調査の数字から判断する限り、当時のチェロキー族は、周囲を取り巻(3)く白人社会に匹敵する「文明社〈云」をつくり上げていた。しかしながらこのチェロキー族において進展した「文明化」は、かつてチェロキー史研究の先学グレイス。S・ウッドワード(○38,.二・・口ゴロa)が評したような、(4)「未開の暗闇か『b文明の日の光のもとへ抜け出した」という性質のものではなかった。このような白人文明を絶対視する立場からチェロキー族に起こった変化を評価した場
佐藤円
二二
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合、この問題におけるチェロキー族側の主体性は完全に見落とされてしまう。彼らには、白人と接触するはるか以前から継承してきた固有の文化があったのであり、それをどのような部分にせよ放棄する場合には、彼らの側にそうしなければならない事情が存在していたのである。小論ではこの点について、特に政治分野の「文明化」の核となっていた部族政府の組織化という問題を中心に検討を加えていきたいと考えている。一般に、チェロキー族における部族政府の組織化は、一九世紀の初頭から混血を中心とする白人文化の受容に積極(5)的な族長たち(・ず】の烏の)の指導により着手され、一八二○年代の末、合衆国憲法をモデルとする独自の憲法の制定を伴って一応の完成を見るに至ったとされている。しかしこの政治の「文明化」は、一九世紀に入り突然開始されたものではなかった。それを準備する前史として、チェロキー族が本来保持していた固有の政治制度が、’八世紀の初頭以来拡大した白人社会との関係を調整する上で機能しにくくなっていたという状況が存在していたのである。この前史の検討なしに、チェロキー族において急速に進展した部族政府の組織化の性格を論じることはできない。すでに、一九世紀初期のチェロキー族における部族政府 法政史学第四十九号
の組織化の問題を、それ以前の歴史や部族固有の文化との関係の中で分析したものとしては、V・リチャード・パースィコ・ジュニア(ご・虫・冒己勺の円の】8》号・)の研究や、デュエイン・シャンペイン(ロロ四目○ケ四日でロ血目)の(6)研究が存在している。これらの研究に辻〈通していることは、チェロキー族の伝統的な政治文化が、白人の政治制度の導入によっても完全には損なわれなかったという点を強調している点である。小論においては、このような見解を参考にしつつ、一八世紀初頭から一八二○年代にかけて段階的に進行していったチェロキー族における部族政府の組織化と、それを引き起こした歴史状況について考察し、最後に彼らの政治の「文明化」そのものについても若干の評価を行いたい。
註(1)近年日本においても、「インディアン」という誤解に基づく呼称に代わって、アメリカ先住民(z四三の少日の『」8口)という呼称がかなり普及してきている。しかしこの呼称は、合衆国本土の先住民ばかりでなく、アラスカ先住民、ハワイ人などにも適用されるものである。従って小論においては、意味を明確にするため、使用しない。(2)小論において使用される「文明化」という用語は、小論
で取り扱う時代の価値観を反映したものであって、筆者のそれを反映するものではない。(3)この国勢調査は一八二五年に実施されたもので、部族民の人口のみならず、黒人奴隷の数、家畜の数、農機具の数、学校の数なども記録されている。(罫so電のbか。⑯‐冒量』ロロの]、』□畠・参照。またチェロキー族における「文明化」一般については、三』]]旨日の三8.口召]旨》ロミ・万⑯ののQ員三里・目、言・』三1円亀や・蚕」のロ弓閂‐の】ご厚の、、.$量》」gの日》Cs①「・許⑩河⑯『日の。38ミニ①ミミ河8厘三Pb『ごoの一○口□曰くの己逗卑の、、》」①忠》三」」」日日○・三・㈲・ロ、ロ]旨目已三&←の『四・○・口、の門》号・・量目ロの○面の門。【の①の旨弓司mpm屋○口“少、冒一】の←】C四]シロ巴‐『の厨○二ヶの句のQの日]○すの村・戸の①○のごmpm。ご田P菖肉さミー『ミミェョミ8コ國重。ご》⑤←(」ヨヨ))壱・s、I「g一三口ご目・ロロm・含ロ①○すの局。【の①z巴】・ロ函三】弓○局○二声の罰の□g‐]』Oへ》ニョの18コ④」p19c》題(」①、」)》9.mg‐&←・等を参照。(4)○日・の、一の①』の三○○g三四a『二宮①QS9oか①⑩の》ロ昌閂、昼。【○斤]昌・日口勺司の、、》ご宝も.②.(5)小論においては、ざ宮の、の訳語に「族長」を使用するが、この呼称は必ずしも部族を代表する唯一人の指導者を意味していない。アメリカ先住民社会の指導者に対してげごの、という呼称が用いられる場合、それは部族内の有力者一般に対する呼称であることが多い。チェロキー族
チェロキー族における部族政府の組織化(佐藤) 一九世紀に入り、部族政府の組織化が本格的に進展し始める以前のチェロキー族には、部族全体を統轄する強力な政治機構は存在していなかった。彼らの政治は、その広大な領土に散在する集落弓・ゴロ)において、それぞれ独自に行われていた。一八世紀初めの記録に見られるチェロキー族の集落の数は約六○で、アパラチア山脈南部を流れる幾筋かの川に沿って形成されていたオーヴァーヒル
(○ぐの島〕}])、ミドル(冨已」}の)、ヴァレー(ぐ巴]の])、
ローワーP○コの同)の四つの地方に分布していた。当時のチェロキー族全体の人口がどのくらいであったのかにつ においても同様に、しばしば複数の有力者たちに対し、o宮の、という呼称が用いられている。(6)ご・因】○ず四局□勺の村の]○○》」円・》《国四局ごz旨の←の①pg1oのロー冒司『○ずの甸○丙の①祠。]]一]○巴○円、m臼田呉]○Pご旨尻目、の□・・己》のロミ・万⑯の三s目乏昌○百・・匹旱・巨亘&困量・空□曰くの司巴ごo崗弓のロロの、、①の勺司の、、)」召①一己己。①ロー]S》□巨目の○冨日園、己の》印〕O三宇烏、§こぎ言8(Q5百m①..□〕弓の昼昌(・『日(OSのヨョ①員のp日○百町罫のSの「・万①の》罫⑯QSO日g》s⑩Q冒召のpE》pミヨのQ⑯塁の菌ご{・己ロロ富国ご勺司の、、.」壱・伝統的な政治体制三
一 一
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いては、確実な記録が残っていないため正確には分からないが、おおよそ一万人から二万人であったと推定されている。それゆえ、一つの集落の人口は数百人程度であったということになるが、これらの中には一つの政治単位を構成するには人口が少なすぎる集落も含まれていたため、実際には三○から四○の有力な集落が核となって政治を行って(-)いたのではないかと考一えられている。政治単位を構成するのに充分な人口を有する集落の中心には、評議会を開催する施設としてカウンシル・ハウス(8口ロ・』ケ・ロの①)が設けられていた。カウンシル・ハウスは、集落の中で最も大きな建物で、’七七五年にその一つを訪れた博物学者のウィリアム・バートラム(三】」」旨日田日一日目)の記録によれば、内部には、|度に数百人も(2)の人間を収容できる宛二間があった。カウンシル・ハウスの外観は円錐形をしていたが、内側はチェロキー族を構成する七つの氏族を象徴して七角形に造られており、出席者は七つの壁に沿ってそれぞれが属する氏族ごとに分かれて着席することになっていた。そこで開催される評議会には、集落の住民が全員、老若男女の別なく出席することが認められており、意見を述べたい者は誰でも発言することが許(3)されていた。一八世紀初めのチェロキー族の各集落は、こ 法政史学第四十九号
のカウンシル・ハウスで開催される評議会を通じ、他の集落や他の部族との関係といった外交問題から、共同で行う農作業や宗教儀礼の手はずといった内政問題まで、それぞれの集落の統制が及ぶ地域で発生する公的な問題の処理を(4)行っていたのである。|方各集落の評議会において、出席者の意見をまとめる役割を担っていたのは、高齢の男性の族長たちであった。彼らは、宗教儀礼を司る神官たちと、チェロキー族を構成する七つの氏族を代表する族長たちから成っていたが、両者のうちより強い影響力を有していたのは前者の方であった。当時チェロキー族と接触を持ち始めていた白人たちの多くは、これらの族長たちのことを、ヨーロッパ人の王になぞらえて理解していたが、実際のところ彼らには、ヨーロッパ人の王たちが保持していたような絶対的な権力はなかった。あらゆる問題の決定には、集団全体の話し合いに(5)よるコンセンサスの形成が重視されていたのである。この点に関してジョージア植民地の建設者であるジェームズ・オグルソープCpgのの回・○ぬ]の言・巳の)は、ジョージア植民地周辺のインディアン諸部族を紹介する文章の中で以下のように述べている。「……彼らの王たちは、説得すること以上のことはでき
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ません。彼らの有している権限とは、長老たちや指揮官たちを召集して、彼らが適切と考える方策を邪魔されずに提議できるということだけです。彼らが演説を行った後、残りの全ての人々も自由に意見を述べることができます。そして、全会一致の結論に達するまで、全員で話し合いが続(6)けられます。(傍線部分は原文イタリック)」このように、集団の意思決定においてはコンセンサスの形成を重視していたチェロキー族であったが、その一方で、評議会で採用されつつある決定に不服がある者は、話し合いの場から退席することでコンセンサスの形成に参加しないことも許されていた。誰もこの退席者を非難することはできなかったし、無理やり多数派の決定に従わせることもできなかった。チェロキー族の伝統的な政治文化に詳しい人類学者のフレッド・ギァリング(国司のgoの日日、)が指摘しているように、チェロキー族には「多数決という(7)観念が実質的に存在していなかった」のである。このチェロキー族における強制力を伴わないコンセンサスの形成の仕方は、明らかに彼らの伝統的な行動規範を反映したものだった。そもそもチェロキー族の対人関係において最も価値を置かれていた点は、相手との意見の一致を見いだすことだった。そのために彼らは、他者と交際する
チェロキー族における部族政府の組織化(佐藤) 際には慎重に自己を規制し、できるかぎり争い事の原因を作らないような態度をとることが求められていた。そして、争いが起きそうになった場合には、感情的にならず、自ら引き下がることが好ましいと考えられていた。このような行動規範が集団による意思決定の場にも持ち込まれていたため、少数派が不満を表明する代わりに集団から雛(8)れ、別行動をとることが日疋認されていたのである。この対人関係における強制力の欠如という特徴は、チェロキー族の集落対集落の関係においても同様に見られた。いずれの集落も、自己の評議会で採択された決定を、他の集落に強制することはできなかった。時として幾つかの集落が、特定のリーダーシップの下で協調行動をとることもあったが、それはあくまで各集落の任意の決定に基づいた行動であり、その状態が恒常化することはなかった。またこれとは反対に、各集落が分裂した行動をとる事態もしばしば発生したが、多くの独立した集落が緩やかに連合しているだけの状態であった一八世紀初めのチェロキー族には、それを抑制する政治的な装置は存在していなかったのである。しかし、このように各集落の政治的独立が許容されている状態にありながら、チェロキー族は部族としての一体
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性を保持し続けていた。その基盤となっていたものが、言語をはじめとする文化の同質性であることは言うまでもないが、社会組織という視点から見た場合、氏族制度が果たしていた役割が特に重要であった。チェロキー族の部族民であれば誰であれ、必ず母系によって継承される七つの氏族集団のいずれかに所属しており、それぞれの集落には七つの氏族集団の構成員の全てが居住していた。そして、各集落内におけるそれぞれの氏族の人数は、族外婚によってそのバランスが維持されていた。この氏族に対する各自の帰属意識は、それぞれが居住する集落に対する帰属意識に劣らず強いものであったため、異なる集落の連帯感も、それぞれの集落が抱える同じ氏族の構成員同士の緊密な関係(9)によって補強されていたのである。
註(1)』口日の、シロ巴局『この國重・qS3⑩レョ①18百局『こ‐p百の》』oppmopmのロ司冒一・」①畠》で。←星一因ロの、の]」弓ぼ。『ロー←・P目許Q》①、○万①①の恥し、8厘s風○コ四房Sご)》□曰くの[‐巴ごo局Zのす門口、宍四℃円の、、》」$Pで己・巳Iの○一○四局旨○・○○○Q‐三PC門司・計①①の旨早目の(言。牝しめ言号&〔】ず§町‐冒町(旨{目、①ロコュ同コミ「○.曰⑯貝、ユ。「8』。、》□ので四1-口[】のロ一○用○の。、吋口でず望》ロ日この【巴ご○由○亘○四m。ご」①。》 法政史学第四十九号
○ケm官①閂①一○豈四ユの、国巨9m。P己吊印〕ES⑩pの&①「百』。&‐SPの)口已ぐの『、】ご○帛弓のロロの、の①のb円のの、》」召9℃己・田「‐田、》句司のgoの日日、.、。⑯の&の§Qミミュ・「の・・ぬ員巳陣司巨?旨、の切さ、Q弓・汀⑯①軍〕三目冒罫の』』二(雪言2》シ曰の国○四ロレロ吾司○℃。]○四○四]しmmoQg】○口三の日。]Hのい》し曰の。○四ロシロ言○吋○℃○一○m]○四]PmmoC旨画。Pこつロ》ご己・宴ワなお、一八世紀中のチェロキー族の各集落の分布については、国のヰョレロ」の円の○口のH日一戸富□」、す]ず三]○口。{目』囚豈←の①ローゴー○のローロ同旨○ずの司○丙の①の①辱]の口】のロ←の》芝旨□巨閏〕の国・尻目、のQ・》○℃・己・弓・←①‐①Pが詳しい。(2)三日【ご目□・円のロの9..円ご己巴の&「二言ヨロミーヰロョ》COこの司勺□す〕]○g]○口の》」①、Pでで.$「1m①囚》○吋の、○吋冒し・三四mの]穴○ぐロロロ【、吾同旨ロ国・国。]]四口Q国司四ppqのq・mpq臼】ロ○一四一のQ》雪({』日日国ロゴ、ロョ。。(ず⑯陣)冒呑の。&‐①、冒与as。の〕□曰くの司巴ご○届zのす『四の丙四句『の、、》ロ・五・(3)〕・言勺宮豈で罰の旦少旧QEQ四・・&だ里①、「言(言の』ごQs⑩Sの「・詩①三畳。。》zの三目・烏ご曰くの『のご勺吋のの、)」①「Pで・のP(4)勺の『巴○○》』同.》《《固四弓々z旨の←の①ロ言’○のロ冒司『○ケの『○戸のの勺。]」陣OB○円囚四口目四一]。Pご己。①②.(5)○の四局ごm》○℃・○息・》己己・缶1台》しQ巴同.。□・a(・》□・←畠》(6)己局Q、員曰のヨロどけ三QmQ胸冒①。シ巨囚巨印一》」『患》ロ・一屋。(7)○の四口ロ四〔さ・日(・喜已・路.(8)(①(a.ご已已・の①IのP 一一二ハ
各集落が、それぞれの評議会を通じて独自にその集落の意思を決定し、他の集落の束縛を受けず自由に行動するというチェロキー族の伝統的な政治体制は、’八世紀を通して白人との関係が発展していくにつれて、次第に維持していくことが困難になっていった。特に軍事衝突が発生した場合や、領土の譲渡について話し合うといった場合、白人の側はチェロキー族を統一された一つの政治単位、つまり「国家」と見なしたため、混乱が生じ、結果的にチェロキー族の側が不利益を被る機会が多くなっていた。具体的には、特定の部族民や特定の集落の行動に対し、全く関係のない部族民や集落、そして時には部族全体が責任を負わされる事態が頻発するようになっていたのである。このような状況に対処するため、チェロキー族は、それぞれの集落を越えて部族全体を統轄する権威を創設する必要性を認(1)識するようになっていた。チェロキー族の政治における集権化の動きは、すでに一八世紀の初頭から見られたが、当初は、必要に応じて幾つかの集落が一時的な連合体を形成し、白人側との交渉に当 (9)Sa・》已己・『のI忠》罰の昼・具)・の目..□で.②ロー全. ●
||大族長職と部族評議会の創設
チェロキー族における部族政府の組織化(佐藤) たらせるための代表者を選出するという形のものだった。例えば、’七一二年にサウスカロライナ植民地の総督フランシス・ニコルソン(卑自日の二s。」の。□)が、境界線の画定や、交易の規制について話し合うために、チェロキー族の三七の集落の代表者をチャールズダウン(○百1の、‐3ゴロ)に招いた際、チェロキー族の代表者たちは一一コルソンの求めに応じて使節の中からロセタサトウ(三8mの白‐(2)のロ庁○コ)を代表に選出した。またこれ以外の例としては、一七一一一○年にアレグザンダー・カミング(し」の箇己のH(3)○口曰』ロ、)がイギリス国王との同盟を求めてチェロキー族を訪れた際、交渉のため集まった幾つかの集落の族長たちはカミングに強く勧められて、オーヴァーヒル地方の集(4)落、テリコ(弓の]]」。。)の族長モイトイ(三・]←・旨)を大族長(卑冒臼已]○ヶ堂)に選出した。カミングはモイトイのことをチェロキー族の「皇帝」と呼び、部族全体が一致して指名した代表者であるかのように扱おうとしたが、実際のところ、モイトイの選出は全ての集落の同意を得て行われたものではなかったし、彼の「皇帝」就任はあくま(5)で名目的なものにすぎなかった。これに対し、チェロキー族に部族全体を緩やかにせよ統轄する大族長が現れ始めるのは、’七五○年代になってか
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らのことであった。モイトイの大族長選出以後も、それぞれの集落の独自の決定に基づく白人との紛争が頻発しており、結果としてチェロキー族全体がその責任を追及される状態が恒常化していた。特に当時チェロキー族との毛皮交易をほぼ独占していたサウスカロライナ植民地は、植民地の辺境がチェロキー族の一部によって攻撃されると、その報復としてチェロキー族全体との交易を停止した。このことは、白人の交易人が持ち込む銃や弾薬に対する依存を強めていたチェロキー族にとって大きな打撃であった。このような事態を回避するためにも、各集落の自由な行動を規(6)制する権威が必要となっていたのである。しかし、この新しい権威をチェロキー族の政治的伝統に則り作り出そうとするならば、部族全体の同意を取りつけることが不可欠であり、容易な作業ではなかった。おそらくこの困難な任務を担うことができたのは、各集落の評議会における意見の取りまとめ役であり、集団のコンセンサスを形成する際に影響力を行使することに熟達していた高(7)齢の族長たちであったろうと考壹えられている。そしてそれを裏付けるように、一七五○年代の前半、チェロキー族全体を実質的に代表する大族長として外交交渉の表面に登場してきたのも、オーヴァーヒル地方の集落、エチョータ 法政史学第四十九号三八
(8)(因・可・一口)の神官であり、部族民から「最愛の人」(a夢の三○の一団の』。ご①□三四コ薑)という敬称で呼ばれていた高齢の族長オールド・ホップ(○亘国&)であった。オールド・ホップがどのような経緯で大族長に選出されたのかは不明であるが、元来エチョータが他の集落からマザータウン(三・言日日・ゴロ)と呼ばれ、宗教的に特別な地位にあったこと、また、それまで地理的な近さからサウスカロライナ植民地との外交交渉において常に主導権を握っていたローワー地方の諸集落が、クリーク族との戦争により一七五○年代初めにほぼ壊滅状態になったことなど(9)が背景になっていたJbのと考えられる。いずれにせよ、オールド・ホップの出現以来、それまでは必要に応じて幾つかの集落の有力な族長たちにより不定期で開催されていた部族評議会が、毎年定期的に宗教的な祭礼とともにエチョータで開催されるようになり、そこで部族全体に係る問題、特に植民地との紛争の処理などの外交問題が話し合われるようになった。言わばエチョータは、チェロキー「国家」の首都の機能を担うようになった(川)のである。全員参加によって集団の意思決定を行うというチェロキー族の政治的伝統に従うならば、このエチョータで開催
図1チェロキー族の政治機構(18世紀中)
PrincipalChief
チェロキー族における部族政府の組織化(佐藤)
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ChiefsChiefsChiefs
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される部族評議会へは、全部族民が出席することが原則であった。しかし、チェロキー族の諸集落は広い領土の各地に散在しており、部族民全てを一つの集落に招集することは実行不可能であった。このため各集落は、その解決策として、それぞれ数人の族長をその集落の代表者として選出し、部族評議会へ派遣する方法を採用するようになっていった(図1参照)。この代議制の出現により、従来話し合いに参加するこ とで自らが属する集団の意思決定に直接影響力を行使することができた一般の部族民は、集落を越えた政治の場において、自己の権利を少数の族長たちに委譲することになったのである。しかしその一方で、局地的な問題の処理については、依然としてそれぞれの集落の評議会が裁量権を維持していた。そこでは住民の直接参加による意思決定が継続していたのであり、その決定に対し部族評議会が干渉することはできなかった。つまり、新たに創設された部族評議会の権限が及ぶ範囲は、外交問題の処理などあくまで部(Ⅱ)族全体の利害に係る領域に限定されていたのである。しかしながらこの部族評議会は、基本的に各集落の評議会をモデルとして、創設された機関であった。そのため、その議事運営において重視されていたことは、やはり部族民全体のコンセンサスを形成していくということであった。しかしこれは、各集落の評議会におけるコンセンサスの形成に比べると、以下の二つの理由により、はるかに困難な作業であった。その第一は、部族評議会へ出席する代表者たちは、部族民全体から見るとごく一部の人々であったため、たとえその場である種のコンセンサスが形成されたとしても、それを部族評議会に出席していない他の部族民に承認させることは容易でなかったこと、そして第二
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に、部族評議会を開催する主たる目的が、各集落の自由な行動を規制して白人との関係を調整することにあったため、無理にコンセンサスを形成しようとして、いずれかの集落の離反を招いてしまうわけにはいかなかったからである。コンセンサスの重視と、強制力の欠如というチェロキー族の政治的伝統が、部族全体を強力に統轄する必要に(皿)迫られた時に、大きな障害となっていたのである。
註(1)句円のgoの四同旨四量目ロの罰』、の。崗言の○ず閂○戸の①、冨一の四m四口■ロ、←mpCの】ロ四○旨、、坤弓ロの妄【のの○℃○一口Hロ』四口》○四句の①局一○の一旦のロ。。』》ご』ロミ】]]】自己句のローopmpg]○ずロ○口]]】○戸》のgの.ご属の『ロ再己○m】ロHpop○ずの門○戸の①Ppg岸oCpo厨○口]‐冒司の》どの日』三m。已凹目百mご←具】○口》国巨司の②巨○命し日の己○四国国岳ロ。]。、旨・団巳(巴冒.」舌(」@つ])・已己・cml①①。(2)』pHロの皿壹[○○口の】・履豈{昌一可○局一丘の○すのH○戸のの》ご』ロ」弩討レコ目巳罰のb・「{ミヨ⑩口§⑩p屋ミレョ⑩且の§国言。(・空.○ずの門○戸の①国の口冨四の国○○宮・門の耳旨一のgの」・亨」①缶・己・豊一二・・日ご囚a.。□・皇。.ご己.、①‐9.(3)アレグザンダー・カミング(8.]$Cl』ゴロ)はスコットランド出身の下級貴族の冒険家で、当時フランス側との接近を噂されていたチェロキー族をイギリス側に引き戻すことによって国王の信任を得ることを目論み、私的な訪問 法政史学第四十九号
であるにもかかわらず正式な国王の使節を装いチェロキー族と交渉を行った。彼はこの訪問の帰途、七人のチェロキー族の族長たちを答礼の使節としてロンドンへ引率したが、その際イギリス本国とチェロキー族の間で初の条約が締結された。詳しくは、一三]]】田口○・m←の①』の》日葬①O言3,許⑯〔¥・巳。&曰面目目のこ》』・宮司・国}巴局)勺ローmヶ自己ゴ・を参照。(4)テリコの名称は、史料によって弓の二8.○『の四一日の]}】。。》日の]}ごロ・》弓のqのロロ。》弓四三の冒呂など様々であるが、小論では最も一般的な弓の]旨○で統一する。またテリコの位置は、現在のテネシー州南東部モンロー郡テリコプレインズ(日の二8国日ロ、)三○日。①8口□ご》弓のごロのmの①の)にあたる。ぐ云因○Nの日四・、・・厨尽七mg罫⑯s①「・言のの・・」Q巨己何83①田富(①日出○コミロミのミヨの○言、○万①⑩』ベロ回。。》』○声ロ句・国]口】門》句■す]耐ずの円》』@の、ヨロロ・」PoIE『》旨○○口の]》○℃・皇・も.、諾・を参照。(5)三』}日ロレ・ロロロ臼ご凹旨》ロ琴の田守切(レョ①ユ8.甸司○員(①『牝自マロコ切忌(。。(。〔ざも忌口{(の。曰(。、○厘&ず①「コトP、bロ』pの香(P」。Cl」忠P口已ぐの門田ご○虎zo1す。、門。」】ロロ句門の、、》ごcP己己・舌I②」》opP日已P、どの》○℃・日&..□.、m》○のP且口中も「(⑯②(切口。&ミロ、、(。「助》ご已・、ロー霊》三○・口の『》。b・口(・》□・酉、》二○○日ご色a》○℃・畳・》弓・gl塞・(6)□四ぐ昼国・○○円【局凹PR夢①(〕宮司○計①①国司○員(9%〔す。-画(2ロョロ、ミミ冒巳》」『念‐『①、.□日ぐの司巴ごo由○斤]ロケ・‐ 四○
日凹勺司①、m・」①①PC可囚で←の可、」‐□一○の口ゴロ四℃。①恩のp冒旦ミロコ(・可の》ごロ・霊‐、②。また、’七世紀前半にチェロキー族とサウスカロライナ植民地の毛皮交易が発展するに従って、チェロキー族が植民地から流入する交易品に対する依存を強めていく過程については、』○ヶロ勺冨]]】ご因BBL団§の『毎頁g出口&旦・・伊ロ[と》旱員の§QbS{・『目ミヨニのC言「・許①』こ&・画昌弓冒皿二①陣弓匂禺①Q、の具固宮司○℃のロョnd員Q2】勺のppm『]ご凹已四m冒一の□曰くの『、】一]句司のの、『ころ・を参照。(7)○のP『旨四虞弓臣のm】、の。崗夢の○ずの円○斤の①の一旦の》ご己で。」②」I」の因。(8)エチョータの名称は、史料により回ロケ・苗・opog》○ず○一・》固&・←の①》○吋の巴因go国など様々であるが、小論では団呂・厨に統一する。またエチョークの位置は、現在のテネシー州モンロー郡のリトルテネシー川(巨三の日のロロの、の①の國弓のH)沿いにあたるが、その遺構は一九七○年代末に完成したダム湖に水没している。罰・田の日P8・目・》二」葛I」色》三○・口の『》○℃.&・》己.、田・を参照。(9)○○円丙閂mPob・a(.、○ずロロの門口》○の四ppm『、ユ①巴のロゴ&}ごミュ・可のも.①、》団の昼》」旧ロ[と&囚。。&・冨已←の1.(皿)○す四日で口囚ロの》○℃・a(・》ロ・畠》○の日日四℃1①の(のP。&。「Q、、弓。、②】で己西のIC画・(u)○の日日、)、ユの②(のロゴ&二口「ユ○の》ロロ・畠ICJ・(皿)&←a・》で□・霊I召.
チェロキー族における部族政府の紺織化(佐藤) 一八世紀の後半に入ると、チェロキー族と彼らを取り巻く白人社会との関係は、それまでとは比較にならないほど緊張したものへと転換していった。すでに一七五四年には北のオハイオ川流域で、北アメリカにおける覇権をめぐり長年争ってきたイギリスとフランスの間に、その決戦となるフレンチ.アンド・インディアン戦争が勃発していたが、翌一七五五年には、チェロキー族もこの白人同士の争いに巻き込まれることになったのである。それ以後チェロキー族は、途中何度かの中断をまじえながら、一七九四年に合衆国との間で最終的な講和が成立するまでのおよそ四○年間、フランス人、イギリス人、アメリカ人を相手に戦争状態を継続した。この長期にわたる戦争の時代に、本来部族民全体の意思をまとめ上げ、白人社会との関係を調整する目的で創設された部族評議会が、その機能を全く果たし得ないことが明らかになっていった。そしてその徴候は、早くもフレンチ.アンド・インディアン戦争に対する部族の対応の中に現われていた。イギリスとフランスの両国は、戦争が拡大するに従って、チェロキー族に協力を要請してきていた。これに対し 三戦争と部族の分裂
四
一
チェロキー族の部族評議会は、当初大族長オ1ルド・ホップ及びその他の有力な族長たちのリーダーシップの下、交易を通してより関係が深かったイギリス側に協力しするという方針を決定した。しかし一七五八年九月に、敵対するインディアンの頭皮に報奨金を約束されていたヴァージニア奥地のイギリス人が、同盟者であるはずのチェロキー族の戦士二四人を殺害する事件が発生すると、部族民のイギリス人に対する感情はにわかに悪化した。この事態を受けて大族長オールド・ホップ以下ほとんどの族長たちは、フランスとの関係を修復してイギリスに報復することを改めて決定したが、オールド・ホップに次ぐ実力者であったア(1)タクラクラ(し言百」]禺巨」]四)と彼に同調する一部の族長たちはこの決定に従わず、イギリスとの同盟関係を維持し、戦士団を率いてフランス人に対する攻撃を継続した。結果的には、この親英的な少数派による分派行動によってもイギリスとの戦争は回避されず、翌一七五九年の春から一七六一年の夏まで断続的に激しい戦闘がチェロキー領内で繰り広げられた。この戦争の期間中イギリス側は徹底した焦土作戦を展開し、チェロキー族は多大な人的、物的損(2)害を被った。この一連の出来事は、当初イギリスと同盟するという方 法政史学第四十九号
針で部族をまとめることができた部族評議会が、一七五九年の戦士殺害事件の処理にあたっては、部族全体のコンセンサスの形成に失敗したということを示している。特に多数派の決定に不服な人々のリーダーが有力な族長であるような場合、部族評議会はほとんど反対派の行動を規制する手段を持ちえなかった。イギリス側の記録によれば、オールド・ホップはアタクラクラに死の脅迫をもってフランスに対する攻撃を停止するよう求めたようであるが、それによっても反対派の分派行動は止まなかった。そして戦争終結後の講和交渉においては、イギリスとの友好関係を維持していたアタクラクラが部族の代表さえ務めていた。このような部族評議会の統制力のなさが、これ以後も白人との関係が緊張を増していくに従って、チェロキー族をさらに(3)混乱した状況へと追いやっていった。’七六一年にイギリスとの講和が成立すると、独立戦争が勃発するまでの一時期、チェロキー族はイギリス植民地との間で比較的平穏な関係を維持することができた。その背景には、’七六一一一年の国王宣言によってイギリス本国がアパラチア山脈以東の土地を「当分の間」インディアン諸部族に保留し、植民地人にインディアンの土地への侵入を(4)禁止したという事情あったことは間違いない。しかしこの 四二
表1チェロキー族の領土割譲条約、1721年~1835年 条約締結年二
チェロキー族における部族政府の組織化(佐藤)
出典:CharlesCRoyce,71/zeCheroheeMzUZoノzq/ノノ2.2α/2s,AI(linePublishingCo.,
1975,p、526,“Tableshowingapproximatelytheareainsquare、milesand acrescedcdtotheUnitedStatesbythevarioustreaticswiththeChcrokee Nation.,'及びWilliamGMcLoughlin,C/IIeroheeRe"αsce"CCZ'2Z/ZeノVbuノ ノilGpu6ZZc,1)rincetonUnivcrsilyPrcss,I886p、29,“Chronorogy()fTrcaties withtheChcrokce,’721-1835.,,を合成して作成。
宣言が植民地人によってほとんど無視され、チェロキー領に対する不法侵入も頻発していたことから判断すると、そのこと以上にチェロキー族の側が、’七六八年から一七七三年までの間に四つの条約を締結して、約一一○五三万エーカー(約八万三○○○平(5)方キロ)もの領土を植民地側へ譲り渡していたことが重要であった(表1、地図1参照)。この領土の割譲がチェロキー族の諸集落とイギリス人入植地との間に
四三
番号 条約締結年月 条約締結の相手 害||譲面積(エーカー)
12345678901 1
12345678901211111111222
1721年 1755年11月 1768年10月 1770年10月 1772年10月 1773年6月 1775年3月 1777年5月 1777年6月
1783年5月 1785年11月 1791年7月 1798年10月 1804年10月 1805年10月 1805年10月 1806年1月 1816年3月 1816年9月 1817年7月 1819年2月 1835年12月
サウスカロライナ植民地 サウスカロライナ植民地 イギリス政府
イギリス政府 ヴァージニア植民地 イギリス政府
トランシルヴァニア会社 サウスカロライナ植民地
ジョージア植民地 ヴァージニア植民地 ノースカロライナ植民地 ジョージア邦
合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府 合衆国政府
000000000000000000000020008004604860204222447400800630849458471522
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1
地図1 チェロキー族の領土の縮小(1721年~1835年)
法政史学第四十九号
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'11典:WilliamG・McLoughlin,Cherokcel(e、‐
ascenceintheNewRcpublic,Princeton UniversityPress,1986,p、28,“Cherokee LandCessionsJ721-l835.”より作成。
一一一一一現在の州境
1721年のチェロキー族の領土 1785i領土の割譲範囲とその年号
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1819年から1835年の チェロキー族の領土物理的な距離をつくりだし、両者の紛争を一時的にせよ回避させていたのである。しかし、広大な領土の割譲を内容とする一方的にチェロキー族にとって不利な条約が締結されるにあたっては、部族民にそれを受け入れるコンセンサスが形成されていなければならなかった。おそらくこの時期の部族民は、前述のイギリスとの戦争による疲弊から十分に立ち直っていなかった。そのため、部族評議会やそれを束ねていた族長たちの領土の割譲による平和の維持という決定を受け入れていたものと考えら(6)れる。しかしながら、このよう 四四
な部族評議会による一時しのぎの政策はまもなく破綻し、’七七五年三月には再度部族評議会の統制力の無さを示す出来事が発生した。それは、当時の大族長オコノストータ(○8口・の一・白)及びその他の有力な族長たちが、土地投機業者リチャード・ヘンダーソン(国・冨己国の己のH‐の。□)の率いるトランシルヴァーーァ会社(言の弓同目の】}ぐ口‐己四○・日冨昌)との間で、ケンタッキー川とカンバーランド川にはさまれた約一七三○万エーカー(約七万平方キ(7)ロ)もの広大な領土を、一一○○○ポンドの現金及び銃や弾薬など一万ポンド相当の品物と引換えに譲渡するという内容の条約を締結したことであった(表l、地図1参照)。この領土の譲渡に対しては、オーヴァーヒル地方の集落マ(8)ラコ(三四]ロロ口・)の若手の族長であるドラッギング・カヌー(、国、四目四○口目。①)が強く反対していた。それにもかかわらず、他の族長たちは翻意せず強引に条約を締結してしまった。このためドラッギング・カヌーは条約会議の席から退出し、それ以後あからさまな分派行動を採り始(9)めた。さらにこの領土の割譲に加え、翌月勃発したアメリカ独立戦争において、国王派と愛国派の双方がチェロキー族に協力を要請してくると、部族評議会には部族民のコンセン
チェロキー族における部族政府の組織化(佐藤) サスを形成し、統一した部族の方針を打ち出す能力がないことが一層明白になった。当初国王派と愛国派の要請に対し部族評議会は、大族長オコノストータ以下その他の有力な族長たちのリーダーシップの下、中立を維持する努力を続けていた。しかし一七七六年五月に、独立戦争をインディアンの土地に不法侵入してくる白人を撃退する絶好の機会と捉えていたショーニー族、デラウェア族、モホーク族などの諸部族から成る使節団がエチョータの部族評議会を訪れ、国王派に同盟して戦うことを勧告すると、前述の領土の譲渡に不満を募らせていたドラッギング・カヌーをリーダーとする若手の族長たちがそれに応じ、大族長らの意向を無視して戦士団を率いて愛国派との戦いに出発していった。このような若手の族長たちの離反に対し、高齢の(Ⅲ)族長たちは全く統制力を発揮することができなかった。「国の各地から集まってきた若い戦士たちのほとんどは、(ドラッギング・カヌ「のl佐藤付記)例に倣いました。……しかしながら、このような手段を嫌っており、前回の戦争が彼らの国にもたらした災禍を記憶している主要な族長たちは、血気盛んな若い人々の無謀さに反対する代わりに、意気消沈して静かに座っていました」とこの時(川)の部族評議〈室の様子を国王派の記録は伝》えている。
四五
ドラッギング・カヌーと彼に率いられた戦士団によるヴァージニア、カロライナの辺境地方に対する攻撃は、六月に開始された。またこれに対する愛国派の報復もすぐに始まり、ローワー、ミドル、ヴァレーの各地方の集落は、ジョージア、ヴァージニア、カロライナ方面から侵入した数千人の兵士によって破壊された。|方オーヴァIヒル地方の集落の住民は、愛国派の進軍に怯え、集落を棄てて逃亡したため、愛国派は戦わずしてこの地方を占領した。この間ドラッギング・カヌーと彼を支持する部族民たちは、愛国派によって破壊され、占領された集落に戻ることを諦め、一七七七年には他の部族民とは分離して、チカモーガ(皿)(○亘8日、口、口)地方に移住し、新たな集落を建設し始めた。そしてその後も国王派の援助を受けつつ、愛国派と(旧)の戦争を継続した。ここに至りチェロキー族は、部族評議会を中心とする講和派と、ドラッギング・カヌーを中心とする主戦派とに大きく分裂することとなり、部族評議会は名目的に部族を代表しているだけの存在に弱体化してしまった。主戦派による白人入植地への攻撃が継続する中、白人側の報復攻撃にさらされた各地方の集落は、必ずしもエチョータの部族評議会に諮らずに、独自の判断で新たな領土の割譲を提案 法政史学第四十九号
し、講和を結ぶという行動に出始めた。実際に一七七七年から一七九一年の間チェロキー族は、独立後の周辺諸州及び合衆国政府との間で五つの領土割譲条約を締結し、約一(M)一一一○○万エーカー(約五万二六○○平方キロ)の領士を喪失している(表l、地図1参照)。しかしこれらの条約によって譲渡された土地に居住していた部族民たちは行き場を失い、その多くがチカモーガ地方へ移住したため、主戦派の勢力が却って補強され、戦争を長引かせる結果となった。またこれに加え、一七八八年六月エチョータに近い(旧)オーヴァーヒル地方の集落チロウィー(○二ヶ・肴の①)において、当時大族長職にあったオールド・タツセル(○丘弓開の①])以下数人の講和派の族長たちが、休戦交渉を行うと称して訪れていた辺境地方の民兵軍によって暗殺されるという事件が発生した。そしてそれを知ったエチョータの住民が、民兵による攻撃を恐れて集落を放棄したため、部族評議会はその指導者と開催地を一挙に失うこととなり、その後合衆国との戦争が終結するまでの間、事実上開催不能となってしまった。部族評議会における決定に強制力が欠如しており、不服のある者は集団から離脱し、別行動をとることも是認されるというチェロキー族の政治的伝統が、白人社会との関係が危機的な状況を迎える中で、っ
四1-
ノ、
いに本来それに対処するために創設された部族評議会自体(冊)を崩壊に追いやったのである。
註(1)アタクラクラについて、]四目】の、○・【の]}『》虞zogこの勺の同、○口の旨○すの局。汚のの国]の一○『『酌し一一四戸口]]口穴昌一P3へ『○ミコロ(&〔】訂、・か①の陣員肘の.②‐](』①畠)己ロロー②」・が詳しい。(2)○の閂旨四℃「(⑩の(のpコロョロ「ユ。「の》弓・$l田》三○○二-三日28・ロ言・》己已・gl『①.なお戦争の経過について詳しくは、○・昊『:『○℃・己・・o冨亘の円⑪←‐」m・を参照。(3)○○円丙田口.(さ・9(..□で.」mPmヨーロS》【の』]】》○℃・口(..□己。」P囚」ImP(4)屋弓すの可司○○一回目巴】。□。{」「g》ご旨国のロ司豈の←の①]○○日ロ】四mのHa・》□・日ョ①貝②ミェョ①1日百田亘。q》②夢のg・・し己已]の一○ロー○のご旨ご‐OHC{扇》」の③Pbで.←『-9.(5)○す四円]の、○・因。『◎のご日可の○ずの旬○戸の①三四画○口。{百日‐mpm》弓ので『旨一の』の□・》シ]&口の勺巨す]】、亘口、○○・・」ヨロロ・pmPB■す]の、ケ○三二口、四℃□oH-p曰四←の]】一声のP『の口桿pmCEm局の日日}のmmpQm9のの○の□のg一○三のご已一のQの一旦①のワ]ご口且opm可の巴】のの三二夢の○ずの『○戸ののz口丘・ロ・より計算(以下因・]8.○℃・曼・・日四ケ]の.と略す)。(6)他方人類学者のフレッド・ギアリングや社会学者のデュエイン・シャンペインは、一七六○年代から一七七○年代
チェロキー族における部族政府の組織化(休藤) にかけて部族評議会を束ねていた人物の多くが、大族長に就任していたオコノストータ(○8pom8目)を始め戦士出身の族長たちであったために、部族評議会の統率力が強化されていたと指摘している。○の日ご頤、風①の(のロ。&雪「ロ「ユ○、の】で己・ccIB②》○す四日ご画、ロの》○℃・日(・》ご己・mC-『Pなお、オコノストータについては、』四日のの。【の]]】》《一○8コ。、一・頁.》』93巳QS①可・許⑯、盲巳のの》』‐」(」召の)》目・田』‐田、・が詳しい。(7)罰・言の》C七・皇.》弓昌}の。より計算。(8)別名ビッグアイランド(四m庁]:g)。テネシー州モンロー郡のリトル・テネシー川とテリコ川(日の臣8困冒の門)の合流点付近にあたるが、現在その遺構は、ダム湖に水没している。三・・口の学○℃・畳・》己.□g・を参照。(9)○のP『旨四も風のの(のロ。&ミミュ。、の》巳・」S》三○○g二国&》○℃・巳&・・で己・mmlろ》国・困四旨popQ固く四口の)宴Z○冒す]の勺のHmopの旨○ずの門○戸の①国】の一○qmD円四mm目、○四口。P二』○s。&&〔寿司・許の、詳員宮.ロー」(]①。)己・弓⑪‐屋P(川)○の日日四、ユ田(のロ。&一「ロ、「(。『の.□□・Bm1」&》一二○○g二『P『Q・○℃・の((・・で己・cCICm・(Ⅱ)Cロ○一のQ日○の四ユロ、》、風①巴のロ。Q一「ロ、。。、の》で」&・(皿)現在のテネシー州チャタヌーガから、テネシー、ジョージア、アラバマの三つの州の境界線が交差する付近までのテネシー川流域にあたる。因・函の日goご・三・》二・ざ‐②」一三・・コの『》○℃・巳辱・》□・田「・を参照。
四七
独立戦争に巻き込まれて以来チェロキー族は、講和派と主戦派という二つの政治勢力に分裂したままの状態が長らく続いていたが、一七九四年に合衆国に対する軍事的敗北が決定的となり、講和が成立すると、両派を隔てていた路線上の対立点は失われ、一応の政治的統一を取り戻すこととなった。しかし戦争中に醸成された両派の対立感情は完全には解消されず、合衆国との交渉の際など、必要に応じて再び招集されるようになった部族評議会においては、旧講和派の族長たちと旧主戦派の族長たちの問で主導権争いが繰り広げられていた。また部族評議会自体も、旧講和派の居住する集落と旧主戦派の居住する集落で交互に開催せ(1)ざるを得ない状況にあった。 四部族政府の組織化 (旧)二○○ニダ「四局g○℃.。g・・ご己・田‐」&》○ず田口□四m□の。○℃.。←(・』で己。「のI「P(u)団・】8》○℃・畳・》弓呂」の.より計算。(旧)現在のテネシー州プラント郡チロウィー湖(○三二・‐ョの①伊昊の.四・口ご←8目ご》弓の目の、の①の)付近。因○NのBPCb・口(・もご・]全‐」全》三・・口の『》○℃.§・右・田@・を参照。(旧)三○○』三四門9つ○℃・ロ(・・で己・ミー」S》○す四日で四mロの》○℃.。R・句己已・『ロー『。 法政史学第四十九号
しかしこのような政治的に安定を欠いた状態は、合衆国政府や急速に人口を増加させていた周囲の白人社会との関係を調整する上で障害となっていた。戦争が終結した以後もアメリカ人によるチェロキー領への不法侵入は継続しており、合衆国政府はそれを追認するために、繰り返しチェロキー族に対し領土の割譲を求めていた。そしてその交渉の際に、チェロキー族の指導者間あった派閥対立がしばしば利用されたのである。合衆国の交渉担当者は、表向きにはチェロキー族の部族評議会に対し、領土の割譲の代償として多額の金品の贈与や年金の支払いを提示して説得を試みていた。しかし同時に裏では、割譲に反対している族長たちと対立している一派の買収に努め、部族評議会の正式な承諾が得られない場合でも、彼らの署名によって領土の割譲を取り決めた条約を成立させていたのである。この結果チェロキー族は、’七九八年から一八○六年にかけて締結された五つの条約により、再度約一○六六万エーカー(2)(約四万三○○○平方キロ)もの領土を失うこととなった(表l、地図2参照)。特にこの内、’八○五年一○月と一八○六年一月に相次いで行われた大規模な領士の割譲は、旧主戦派の実力者ダブルヘッド(Dog]①宮の&)を筆頭に、当時大族長職に 四八
あったブラック・フォックス(、}ロ呂甸・×)をも含む有力な族長たちが買収された結果締結された条約に基づくものであった。これに対し、旧講和派を中心とする条約の締結に係らなかった族長たちは、一八○七年八月ダブルヘッドを暗殺するとともに、翌一八○八年二月に開催された部族評議会において、大族長ブラック・フォックスの解任とダブルヘッドの支持者であった族長二名の除名を行った。この政変を経て、ようやくチェロキー族は、戦争中から続いていた族長間の派閥対立を解消し、部族の政治的な(3)|体性を回復することができたのである。本来強制力の欠如が政治的伝統であったチェロキー族において、このような強行手段が採用された背景には、急激な領土の縮小に対する強い危機感が存在していた。しかしこの危機感こそが部族評議会における新たなコンセンサスの基盤を提供し、それ以後のチェロキー族を、部族の政治組織の改革へと向かわせる原動力となっていたのである。さらに、それまでは単に○・口目痔とか、一.言の国の呂日のロロ三三日。。円のし、mの白ケ}の亀などと、様々な呼称で呼ばれていた部族評議会が、この頃から正式には国民評議会(言のzPpop巴○・口百口])と呼ばれるようになり、名実ともにチェロキー「国家」を代表する政治機関として各種
チェロキー族における部族政府の組織化(佐藤) の改革を立案し、具体化する機能を果たすようになっていった。また一八○八年以降、徐々に国民評議会における決定は、混血の族長らにより英語で成文化され始め、部族(4)の政治に法治主義が浸透していった。政変の翌年の一八○九年九月には、国民評議会において新たに国民委員会(gのzpは○局]O・目白]言の)の創設が決定され、その委員として一三人の族長が選出された。この委員会の任務は、国民評議会が開催されていない期間に、それに代わって主に外交問題について審議することであった。ただしそこで決定された事項については、あくまで国民評議会の承認を得て効力を発すると決められていたため、この委員会に独立した外交権が付与されていたわけではなかった。年々合衆国との交渉の機会は増大しており、その都度多くの集落の代表者を招集して国民評議会を開催し、そこにおけるコンセンサスを形成して部族の方針を決定するという従来のやり方では、対応しきれなくなっていた。そこでこのような少人数で構成された特別な審議機関を国民評議会の下部に設置して、より効率的に外交問題の処理にあたらせることになったのである。その後一八一七年五月に開催された国民評議会においては、国民委員会を常設化すること、委員の任期を二年とすること、外交
四九
チェロキー族の政治機構(Ca
図2 800-1820) きなかった。チェロキー族は、’八一二年戦争中に発生し 強圧的な領土割譲要求に対し、充分には対抗することがで しかしながらこのような改革をもってしても、合衆国の の権限が拡大した(図2参昭①。 (5) り支給される年金の管理も委託されることが決められ、そ 問題の処理に加え、割譲された領土の代償として合衆国よ 法政史学第四十九号 PrincipalChief
SecondPrincipalChief
対し、充分には対抗することがで朕は、’八一二年戦争中に発生したクリーク族と合衆国の戦争に巻き込まれ、合衆国側
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八一六年から》士灘鉦
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五○
(6)キロ)の領土を喪失した(表1、地図1参照)。特にこの内一八一六年七月に締結された条約は、再度合衆国側による一部の族長たちの買収が行われた結果成立したものだった。これに対し国民評議会は、一八一七年九月に条約の締結に係った族長たちの解任を決定するとともに、翌一八一八年二月には、国民評議会の承認を受けずに部族の土地(7)を売却した者は死罪に処すという決議を行った。この決議は、国民評議会の決定に反する一部の族長たちによる背信行為を強力に規制する意図を持つものであったが、同時に国民評議会に部族の政治権力を集中させる改革の一端を示すものだった。大旨らに同年一二月国民評議会は、前年の不正な手段によって締結された条約の破棄を直接申し入れるため、使節団をワシントンへ派遣した。しかしこの使節団は、却って合衆国政府から新たな領土の割譲を学校建設資金の提供と引換えに要求され、結果的には翌一八一九年二月、強制移住以前では最後となる領土割譲条約の締結に追い込まれて(8)しまった。しかし、条約の締結後ワシントンを去るにあたり使節団は合衆国大統領へ書簡を送り、その中で「……我々は、合衆国政府がその悪質な市民から完全に我々を保護すること、ごbにはこれ以上の領土の割譲を我々に要求
しないことを望みます。なぜなら我々は、わが国の安泰と利便のためには、現在の国土を保持し続けることが必要で(9)あると固く信じているからです」と述べ、くう後は領土を割譲する意思がないことを合衆国政府に対し明確に宣言した。一八二○年代に入るとチェロキー族は、外圧に対抗し得る強力な部族政府の組織化に本格的に取り組み始めた。その手始めに、一八二○年一○月に国民委員会と国民評議会が合同で開催した議員総会(弓汀の○目の3]○・自口])において、部族の政治機構を大きく手直しする一連の立法が行われた。その結果成立した体制は、概略以下のようなものであった。立法府は、国民委員会と国民評議会の二院により構成される。国民委員会の任務は、法案を作成することと国庫を管理することであり、その定員は一三名である。ただし国民委員会における全ての決定は、国民評議会の承認を得ないかぎり効力を持たないこと、またその委員は国民評議会が選出するものとする。一方国民評議会の主な任務は、国民委員会の活動を監督することと、そこで立案された法律を制定することである。その評議員は、新たに部族の領土を八つの行政区に分割し、そのそれぞれから四名ずつの計一一三名を毎年部族民の選挙によって選出する。国民委員会と国民評議会は、合同で議員総会を、毎年
チェロキー族における部族政府の組織化(佐藤) 一○月に新たに首都に指定されたニュータウン(zの三(Ⅲ)弓・ゴロ)において開催する。この議員総〈壱において大族長と副大族長が選出され、行政府を構成するが、彼らに問題がある場合には、任期の途中でも議員総会の決議によって罷免することができる。さらに新設の八つの行政区のそれぞれに裁判所を設置し、部族民の訴訟を処理することとす(Ⅲ)る(図3参昭①。この一連の改革で最も注目すべき点は、国民評議会に出席する評議員の数を大幅に削減したことである。それまでは多くの集落から、それぞれを代表する数人の族長たちが国民評議会へ派遣されてきていたため、国民評議会の出席者は、二○○人から一一一○○人に上っていた。それを八つの行政区から四名ずつ選出される一一三名に削減することによって、国民評議会における意思決定の簡素化が図られたのである。これは、各種の改革に伴う国民評議会における審議事項の増大を反映した変更であった。またそれまではそれぞれの集落ごとに評議員の選出を行ってきたのに対し、この時以降人工的に区分けされた八つの行政区を基準に選出するようになった。この結果チェロキー族の各集落は、長らく保持してきた政治の基礎単位としての性格を失うことになったのである。
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チェロキー族の政治機構(1820-1828)
図3 役人とは、国民委員会の委員および国民評議会の評議員は 土の割譲について交渉するために派遣されてくる合衆国の 一方、’八一三年一○月に開催された議員総会では、領 法政史学第四十九号
PrincipalChief SecondPrincipalChief
唖莎
だった。た。このよう (旧) めに、翌年の七月に憲法制定会議を開催するというものうになってい 総会において行われた。それは、部族の憲法を起草するた案してくるよ かし何にも増して重要な決定が、’八二六年一一月の議員することを提 限を有する機関に格上げされたことなどが挙げられる。し族全体で移住 (川) の新領土へ部ないことが決められ、国民委員会が国民評議会と同等の権
尋ら 廷② 廷⑭
シッピ川以西で決議された法案は、もう一方の承認を得ない限り成立し 得されたミシ員総会において、国民委員会と国民評議会のどちらか一方 入によって獲こと、そしてその翌年の一八一一三年一○月に開催された議 ルイジアナ購置されることが決まり、司法制度の一層の充実が図られた だけでなく、一三年一一月の議員総会において、首都に最高裁判所が設 譲を要求するこの時期の諸改革で他に注目できるものとしては、一八 は、領土の割ど、部族の基本方針が再確認された。 (旧) きないこと、そして議員総会のみが立法権を有することなと合衆国政府 ける立法がない限りそれらの共有財産を処分することがで○年代に入る の『ご)であること、また大族長、副大族長は議員総会におした。一八二 (皿) から支払われる年金は部族民の共有財産(ご号]】・胃・▼いことを決議 いても一連の立法が行われ、チェロキー族の領土や合衆国|切会見しな と同じ目的で、一八二五年六月に開催された議員総会にお ちの意思をまとめ上げておく必要があったのである。これ な圧力に対抗するためにチェロキー族は、部族の指導者た五一
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