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倉持俊一先生追悼(倉持先生の思い出)

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Academic year: 2021

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出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 62

ページ 113‑133

発行年 2004‑09‑30

URL http://hdl.handle.net/10114/10821

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本会顧問・法政大学名誉教授倉持俊一先生が、一年余のご闘病もむなしく、本年一月一九日午後一時四五分に膀胱ガンのため永眠なさいました。享年七六歳、あまりに早過ぎるご逝去でした。厳寒の繁忙期に集まっていただくのは恐縮だという、まことに倉持先生らしいご遺志により、告別式は一月二四Ⅱ上野寛永寺輪王殿にて近親者の方々のみで執り行われましたが、先生とお別れする機会を持ちたいとの声は強く、三月一四日アルカディア市ヶ谷にて倉持俊一先生とお別れする会が開かれました。当日は法政大学の関係者はもとより、東京大学西洋史の同窓生、小石川高校時代の教え子、信州大学・東京教育大時代の関係者、学会関係の方々など二五○人近くが参集し、在りし日の倉持先生を偲びました口ただ、関係者が多方面にわたる上に、限られた時間と人員で準備しましたため、本会関係者への連絡が不徹底でした。この紙上を借りまして、会員の皆様に深くお詫び申し上げます。以下に倉持俊一先生の略年譜と主要業績、そして本学を中心に関係各位から寄せていただいた惜別の辞を掲げ、本会として衷心からの哀悼の意を表します。(文責・後藤)

倉持俊一先生追悼

倉持俊一先生追悼

一九二七年六月一五日東京都に生まれる一九四五年三月東京府立第五中学校(旧制)卒業一九四五年二月都立高等学校文科(旧制)編入学一九四八年Ⅲ月東京大学文学部西洋史学科(旧制)人学一九五一年囚月東京大学文学部大学院(旧制)入学一九五一年四月都立小石川高等学校教諭(定時制課程)一九六○年一月信州大学文理学部専任講師一九六二年一一月同助教授一九六六年四月学部改組により信州大学人文学部助教授一九七○年四月東京教育大学文学部助教授一九七三年一○月日ソ歴史学シンポジウム組織委員会事務局長一九七六年四月法政大学文学部教授一九七九年一月日本歴史学協会国際交流特別委員会委員(~’九九二年一二月)一九八四年四月法政大学文学部長〈~’九八六年三月末) [倉持先生ご略歴](詳しくは「法政史学』第五○号に掲載)

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二○○四年一月一九日午後一時四五分永眠 一九九○年一○月日ソ歴史学シンポジウム組織委員会委員長一九九二年四月法政大学体育会ヨット部部長(~’九九八年三月末)’九九三年四月法政大学第一文化連盟会長(~’九九七年三月末)一九九五年四月法政大学大学院委員会議長(~’九九七年三月末)一九八八年三月三一日法政大学退職一九九八年四月桐朋学園短期大学部特任教授(~一一○○一年三月末)この間、ロシア史研究会、歴史学研究会、史学会、歴史学会

[主要著作(共著・共訳・論文については割愛】(訳)T・H・フォン・ウラエ箸「ロシア革命論」紀伊国屋書店、一九六九年。「レーニン」人類の知的遺産六五、講談社、一九八○年。(編著)「ロシア・ソ連」有斐閣新書、’九八○年。(共訳監修)『ソビエト連邦I、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ」世界の歴史教科書シリーズ、帝国書院、一九八一年。(編著)『等身大のソ連」有斐閣、一九八三年。「ソ連現代史I(増補第三版)」山川出版社、一九九六年。 法政史学第六十二号この間、ロシアなどで学会活動倉持さんは一九五六年二月にロシア史研究会を創立した発起人の一人で、最初の会務責任者でした。会の最初の住所は久堅町の倉持さんのお宅におかれました。私が翌年秋に入会したとき、大学二年生の私を受け入れてくださったのが倉持さんでした。当時は三○歳はじめで、小石川高校の世界史の教師をしておられました。その時のあたたかい人柄、緊張をほぐして励ましてくださる態度の印象は、終生かわることはありませんでした。倉持さんは二年ほど会務責任者をつとめられたあと、信州大学にポストをえて、五八年春東京を離れることになりました。倉持さんはロシア近代史がご専門で、欧米のロシア史学に関心を向けておられました。ウィッテのドイツ語の経済学の著作も、イギリ [特別寄稿](一一○○四年三月一四日の「倉持俊一先生とお別れする会」でご親友の和田春樹先生が述べられたお別れの言葉の原稿を、倉持先生の奥様から頂戴いたしましたので、ここに謹んで掲載させていただきます。)。 (共編)「世界歴史大系・ロシア史1~3』山川出版社、一九九四~’九九七年。倉持さんを見送る

和田春樹

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スの歴史家ベアズの回想も、倉持さんが私に見せてくださいました。ロシア史研究会はロシア革命五○周年記念論文集を準備することになり、そのための合同研究会を二度にわたって倉持さんの御殿場の別荘で開いていただきました。一九六六年と六七年であったと思います。あれは楽しい機会でした。私たちはみな若く、ロシア革命もなお最後の光を放っていました。倉持さんはこの論文集の巻頭に論文「ロシア革命の原因論をめぐって」を書かれました。西側の亡命史家のロシア革命論が彼らの革命体験とどのように結びついているか、彼らの見解が欧米の歴史学にどのような影響を与えたかを分析した、私たちの目をひらくすぐれた論文です。倉持さんの歴史学界へのさらなる貢献は、一九七三年から始まった日ソ歴史学シンポジウムの日本側事務局を担当され、実に一九年間にわたり、その中心になられたことです。倉持さんが事務局長、私はその補佐としてお助けしました。隔年に日本とソ連で交替で一○回のシンポジウムを開催しました。あちらは国家の事業ですが、こちらは歴史家のポケットマネーですから、倉持さんのご努力は大変なものです。倉持さんの引率で代表団は五回ソ連を訪問しました。私はいつも一緒でした。ブレジネフ時代の末期、ロシア人が悩んでいる困難な時に、ロシアの歴史家となんとか心をかよわせて、関係を維持することにつとめられました。一九八七年モスクワの第九回シンポジウムのさい、ついにペレストロイカとグラスノスチの雰囲気でソ連の歴史家が語り出すのを回の当たりにして、倉持さんが実に感慨深いと述懐されたのを思い

倉持俊一先生追悼 出します。この代表団で倉持さんと一緒にソ連をあちこち旅しました。モスクワのホテル・ナッィオナルのアール・ヌーヴォー風のガラスのはまった部屋で、倉持さんが歌う美しい声をはじめて聞きました。あの初冬のモスクワの夜のことは忘れません。山川出版社の世界歴史大系ロシア史全三巻は倉持さんの最後のお仕事となりました。田中陽児さん、倉持さん、私が共同編集肴で、倉持さんは第二巻、ピョートル大帝から世界大戦前夜までを責任編集されました。この巻は一九九四年に刊行され、私が責任をもった第三巻は九七年と遅れました。全巻が完結したとき、山の上ホテルで私たちは集まりました。倉持さんは七○歳になられたところで、奥様とロシアに旅行したと話しておられました。共同の仕事で会うのも、これが最後だということを三人とも意識していました。田中さんが二年前に亡くなられ、いま倉持さんも去られ、私が一人のこりました。さびしいかぎりです。倉持さんは研究においても、学界の活動でも、バランスの取れた、確実な姿勢をつらぬかれました。批判すべき点はゆるがせにされませんでした。いわば激動した二○世紀末に、そのようにしてロシア史研究のすじを守ってくださり、いつもみなを励まして助けてくださいました。ご病気だとうかがっており、お見舞いできませんでしたが、愛するご家族との交わりの中で安らかにこの世を去られた倉持さんはお幸せだったと思います。(東京大学名誉教授)

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倉持俊一先生が亡くなられたという突然の悲報を受けたとき、私は俄にそれを信じることができなかった。昨年二月に倉持さんの体調が余りよくないということを聞いていたが、今年の元日の年賀状には、名前の「倉持俊一」が何時ものように自筆でしっかりと書いてあったので、大分、快方に向かっているのではないかと思っていた。しかし、計報が確かであると知ってから、改めて、生前の倉持さんのことを偲び、残念な気持でいっぱいであっ

たC私が法政大学を定年退職するに当り、退職記念パーティーが平成七年一二月に催されたとき、閉会の辞を倉持さんにしていただいた。退職後も元気で過ごすように激励して貰ったことは昨日のように忘れることができない。倉持さんと史学科の同僚として過ごした二十年間については、「法政史学」五○号の倉持さんの退職記念号に記しているので、ここでは繰り返さないことにする。倉持さんについての私の率直な思い出は、聲の大きい「明るい、温かい、そして頼りがいのある人」であった。会議などで難かしい問題があっても、倉持さんがいると何とかまとめてくれるのではないかという安心感があった。それは人柄かも知れない。倉持さんが文学部長になったときのことである。その前年末の頃、国内留学中の倉持さんに学部長を頼もうという話が出たことがあっ 法政史学第六十二号倉持俊一先生を偲んで村上直 た。勿論、選挙の結果が出てからのことであるが「大学内にいろいろ難題があるが、倉持さんならきっとまとめてくれそうだ。もし、そういう結果が出たら村上さんは親しいので、辞退しないで引き受けてくれるように説得してもらいたい」ということだった。あとで倉持さんにそのことを話すと黙って笑っていた。結果的には選挙によって四月から学部長となり、多忙な大学生活を送るようになったのであるが、文学部では多くの人が倉持さんに期待することが大きかったといえるのである。倉持さんはいつも忙がしそうであり、教授室(五五年館前ピロティーニ階)の隅で、よくパンと牛乳で昼食をすませている姿が思い出される。入試の採点で遅くまで残っていた姿も目に浮かんでくる。その姿はいつも元気であり頼もしかった。平成九年一二月、倉持さんの記念講演と退職パーティーが行われたが、このときの終りの謝辞は、大好きな「雪山讃歌」を唱って返礼とした。倉持さんらしい感謝の表現であったが、このときの多くの出席者は、改めて倉持さんのロマンと情熱を感じさせる独唱であったことを記憶しているのではなかろうか。私の友人のH本史の研究者の中には、倉持さんのことを知っている人がかなりいる。ときには旧制府立第五中学校の二年先輩だったという人から「倉持君は元気でいるかい」と言われることもあった。また、私が東京都立大学の大学院で学んだときの恩師が、倉持さんの旧制高等学校のときの恩師であったという、共通する話もあり、昔を懐かしんだこともあった。こういう結びつきが、同僚という以外に特に親しみをもつことになっていたのかも ’一ハ

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倉持さんは私と同年の生まれで、一九九八年三月の法政大学退職も同時であった。前年一二月一一一一日の法政大学史学会大会講演(最終講義)も二人で短縮された時間を分け合った。それだけに私にとって「急逝」の寂しさがひとしお身にこたえる。倉持さんの就任は史学科に新風をもたらしたものであった。学科・学会の懇親会の結びに、自らピエロ役と称しながら、「フレーフレー法政」と音頭をとるような教員はそれまで居なかった。「君は進路を誤った、声楽家になればよかった」とある先生に言われたという豊かな声量の持ち主で、「法政おお我が母校・・・…」を良い校歌だと讃めていた。めりはりの利いた語り口は、趣味という「古 知れない。去る三月一四日、法政大学の近くにあるアルカディア市ケ谷で、倉持さんを偲ぶ会が行われた。多くの友人・同僚の他、大学の教え子やヨット部の部員が参加し、倉持さんの思い出を語り合ったよい会であった。この会場で、私は特に「倉持先生の思い出」を話す機会を与えていただいたが、遺影を見ていると、今でも倉持さんがどこかにおり、元気な姿で現われるのではないかと思われてならなかった。敬愛する倉持さんのご冥福を心からお祈りいたします。(法政大学名誉教授)

倉持俊一先生追悼 倉持さんを偲ぶ安岡昭男

倉持俊一先生が法政大学に赴任されたのは私より二年位後であった。私が赴任した時は未だ竹内直良先生が西洋史を担当されており、キリスト教史などを識ぜられていたが、その後任の倉持先生はロシア史というわけであるので、大きな転換だと感じたのを覚えている。倉持先生は、東京教育大学を最後まで勤められ、筑波移転には強く反対されていたということであった。直接お話をうかがうことはなかったけれども、反骨精神の持ち主と推測していたところである。 典落語の鑑賞」から体得されたものであろうか。’九八○年私の初めての著書『明治維新と領土問題』(教育社・日本歴史新書)を『週刊朝日』の書評で取り上げたのを、逸早く電話で知らせてくれたのが倉持さんであった。「大々的に」という一一一一口葉が耳朶に残っている□たしかに小欄ではなく、主な四本のひとつであった。その本も今は在庫切れで姿を消したままである。先頃、長野県松本市の「あがたの森」に、旧制高等学校記念館を訪れた。ヒマラヤ杉の木立とⅢ校舎の建物に、倉持さんの信州大学教官当時を想ったのだが、そのことを報告できなかったのも心残りである。ご冥福を祈る。

倉持先生を偲んで

(法政大学名誉教授)

伊藤玄三

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計りがたかった。 倉持先生は、ロシアが御専門であるので、研究会などで数回ロシアに出掛けられていた(その頃はソビエトである)。他の西洋史関係者からも先生の活躍はうかがうことがあったが、実に良く世話をされていたという。その後、法政大学史学会の御講演でゴルバチョフのペレストロイカのお話を聞くことができ、当時最新の動向をお教えいただいたことが印象的であった。近年は、この言葉を聞く機会も少なくなったが、世界動向の急変の様相が如実に表現されたものであり、それを身近の先生からうかがえたのは大いに参考となった。先生は、史学科の中では、どちらかといえば遠慮がちに意見をいわれていたように思われた。大学院も日本史学専攻であり、教員数も日本史が多かった関係もあってか、「皆さんの宜しいように…・・・」とよくいわれた。しかし、本心からの言葉であったのかどうかは未だにわからないo筑波移転反対の強固な御意見の持主が、どうして自分の御意見を明確に述べられなかったのか、小人には

しかし、一方では、先生は学生達とは良く接していたようである。第一校舎時代の五階の研究室では西洋史・中世史・考古学は屡々コンパをやっていたかと思う。但し、西洋史研究室のお酒はブランディなどの上等な品であったようである。一度倉持先生が考古学研究室の飲み会に来られたことがあり、その時ウオッカをコップに入れておすすめしたことがあった。ところが先生は、そのウオッカをコップ二杯勢いよくあおられた。既にその段階でかなりお飲みになっておられたようで、酒と水の区別がっかなかつ 法政史学第六十二号

倉持先生がお亡くなりになったということは、先生がお亡くなりになって大分経ってから知った。大分お会いしてなかったので、悲しさもさることながら、せめてもう一度わずかな時間でも雑談のひとときを過ごしたかったという感にとらわれた。現任の史学科教員の中では、倉持先生との史学科でのお付き合 たとか聞いたが、したたかに酔われたとの事であった。こちらは勢いよく飲まれたので、「先生はお強いなあ」と思ったのであったが、その後は大変だったらしい。足腰が立たなくなり、遂にタクシーで御自宅まで運ばれたとの事であった。大変申訳ないことをしたと思っている。先生は、定年になられた後は他の女子大学に客員教授としてお勤めになったが、詳しいことはうかがうことはなかった。その後、後藤先生に、お変りないだろうかと何かの折にたづねたら、「実は、一寸お悪いのです」とうかがって、驚いた。常日頃お元気な先生であり、校歌などを歌い、音頭をとられる時のお姿からは想像できないことであったからである。私とは六つ違いであるだけなのに、余りにも早く旅立たれたと思っている。あの世でもひょっとすると放歌高吟でもしておられるであろうか。

(法政大学名誉教授)

倉持先生の想い出

中野栄夫

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いは私がいちばん長い。それだけでなく、思い出もいろいろとある。というのも、私が史学科に着任してしばらくの間、私と倉持先生とは研究室をともにしていたからである。忘れもしない、現在のボァソナード・タワーの所に建っていた大学院棟の西陽があたる暑い部屋だった。それも一年で、研究室は大学院棟から第一校舎四階に移った。当時、史学科の陣容は東洋史の故河原正博先生、日本史では村上直・安岡昭男・伊藤玄三先生、それと西洋史の倉持先生とであった。そのうち、村上・安岡両先生は八○年館の研究室に入られ、それ以外の教員は、第一校舎の研究室に入った。右記のスタッフからおわかりのように、酒を飲むのは、私を除けば、倉持先生だけである。前にも記したが、倉持先生と酒を飲む場の取り合いを何度か経験したことがある。でも第一校舎も汚かった。定年近くなって、倉持先生は大学院議長を二年ほどお務めになった。その二年間、私は大学院史学専攻主任として大学院の会議に同席させていただいたことがある。また、大学院議長に就任早々の入学式に、大学院議長は総長の次に壇上に登らねばならないのであるが、倉持先生は海外に先約があり、どうしても出席できないというので、「副議長」であった私が代理で壇上に登ったことがある。そんなことも、走馬燈のように思い出される。倉持先生とは、親しくしていただいたが、良い思い出だけではない、今だからこそいえることを書かせていただく。それは倉持先生の大学院議長就任に関することである。というのは、私はそれに猛烈に反対したのである。というのも、つぎのような経緯があるから

倉持俊一先生追悼 先生、あんまり早すぎるじゃないですか。ついそう叫びたくなる。先生のご退職に際して拙い一文を草してから僅かに六年。あっという間に先生は逝ってしまわれた。その間三度ほどもお会いしたかどうか。つい日常の些事にかまけてお会いするチャンスを逃してしまった。外から見た法政大学さらには史学科に対する忌蝿 である。史学科の大学院は、日本史学専攻ということとなっていて、東洋史・西洋史の学生は受け入れていない。私などは、東洋史・西洋史も受け入れられるよう、日本史学専攻でなく、史学専攻に組織替えしたいと主張したのであるが、倉持先生の持論は、西洋史の学生が大学院に入っても就職先がないということで、西洋史(東洋史も)の学生を受け入れることに反対しておられたのである。そういった倉持先生が、こともあろうに大学院議長になるというので、私は反対した次第である。そういう経緯はあるが、先にも記したように、倉持先生が議長になってからは若干のお手伝いはさせてもらった。今だから話そうと一一一一口い出したら、きりがないのでこれだけにしておこう。倉持先生、どうか安らかにお休み下さいo(法政大学文学部教員)

倉持先生

山名弘史

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無いご意見をもっと伺いたかった。それよりも、あの扇落な調子で発せられる豊富な話題に耳を傾けたかった。思えば私がはっきり意識してお会いした最初の法政大学関係者が倉持先生であった。それから半年以上も経って、私は先生の同僚とならせていただいた。先生のお人柄やご業績については私が書くまでもないであろうⅡただ、私がなんとなく感じていた事をここに記しておき

たい。先生は定時制高校の講師から始めて数々の大学に勤められたが、そのいずれに於いても先生を慕う生徒、学生を育てられた。それは先生が熱血漢的なところをお持ちで、どこにいても全力で親身に指導に当たられたからであろう。しかし、私が法政に於いて兇させて頂いた限りでは、先生は別の一面をちゃんと持っておられたように思う。それは置かれた立場に於いて誠心誠意事に当たる一方で、それに完全に没入してしまわない「覚めた」ところを残しておられたことである。いわば稚気と理性の同居、バランスの妙と言うべきであろうか。これを変わり身の速さと見る向きもあるかもしれない口しかし、私には先生に計算づくの所があったとは思えない。先生は潔い方であった。もう一つだけ書いておこう。先生はご自身なかなか繊細で、だからこそ人をも傷つけまいとする方であった。世間知らずの私にやんわりと忠告をして下きり、恥じ入ることが再一一一あった。同僚であると言うよりは、やはり私にとっても先生であられた□惜しい。(法政大学文学部教員) 法政史学第六十二号

二○○四年は大学から急に「押し付け」(本人の印象)られたアメリカ東海岸細張で幕を開け、|月二日に帰国した後も連日の会議に追われていた。いつもと変わらぬ一日と思っていた一月二○日、倉持先生の奥様からいただいた電話に言葉を失った。倉持先生が前日に亡くなられた・・:。信じられない、信じたくない。「どうして::」という思いがこみあげてきた。|昨年暮れに体調を崩され、病院に行かれた結果、膀胱ガンが見つかったということは伺っていた。だが、初期のうちの発見ということで、ご本復を信じていた。二月の手術後しばらくして電話でお話しした時も、「薬の副作用がひどくて」と仰りながらもいつもと変わらぬ先生の口調とお声の張りに、こちらは勝手に安心して、「副作用はおつらいでしょうが一時の我慢ですから」と、今にして思えば無責任な気休めを申し上げてしまった。「こんな姿、見られたくないよ」という先生のお言葉を真に受けて、お見舞いにも伺わないまま自分の忙しさにかまけていた。何か変だなという思いを懐いたのは、術後の再発予防の化学療法であればそろそろ終わる頃と思って電話を差し上げた折、先生がご自宅に戻っていらして直接お話しできたのはよいが、またすぐに病院に戻られると伺った時だった。はたして、先生との電話を終えた直後に、奥様から「実は小さな転移巣が見つかって」と 倉持俊一先生の計報に接して

後藤篤子

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いう電話をいただき、少なからぬショックを受けた。私も五年前に入院・手術を経験しており、種々の本を読みかじって転移ガンが手強いことは承知していた。それでも、今は様々な新しい治療法もあり、ご年齢から考えてもさほど速くは進行しないはず、と思いこんでいた。九川頃に電話でお話しした際も、お声もn調もお元気そうで、ご自宅にお見舞いに伺える日も遠からずと思えた。電話でのお声が変わられたと感じたのは一一月に入った頃だった。中旬、先生がとても楽しみにしていらしたゼミ同窓旅行が再入院のため中止になったと聞いて案じてはいたが、それでもなお、必ずや小康を取り戻されてお会いできる日が来るものと信じていた。計報に接してこみあげてきた「どうして」という思いは、したがって、「先生、あんなに頑張っていらしたのに、どうして」という信じ難い気持ちと同時に、「どうして、無理にでもお見舞いに伺わなかったのか」という自分の愚かしさに対する痛恨の気持ちでもあった。自分の狭い経験にのみ照らして結果的に無責任な気休めを先生や奥様に申し上げてしまったこと、ご闘病生活が始まって以後ついに一度もお会いしないままであったことは、本当に悔やんでも悔やみきれない。ただ、先生が最期まで痛みに苦しまれることなく、ご家族との語らいの中で息を引き取られたことを、せめてもの慰めとするしかない。ガンを宣告された時、死は怖れるものではなく、この世の労苦から解放されてあの世でなつかしい知友に会えるのだからと、ショックを受けていた奥様を気遣われたという倉持先生。ご闘病、本当にお疲れざまでした。どうか安らかに、あの世でのご友人と

倉持俊一先生追悼 先生が法政大学をご退職なされたのは一九九八年三月である。九六年四月に着任した私は二年間、先生と同じ学科に在籍した。大学院時代の授業での思い出については「法政史学」第五○号に記しておいたので、ここでは私が着任してからの思い出を書いておきたい。とはいっても、年齢が二五歳も違うので、先生との関係は大人と子供のようなものでもある。また教わった先生でもあったので、同じ学科の教員とはいっても立場としては随分と異なる位置にあった。そんな中で思い出といえば、芥川龍男先生の退職記念の再出発の祝賀会で責任者をつとめた先生をお手伝いし、外濠通りにある家の光会館レインボーホールで懇親会を開催した事くらいしか思い浮かばない。この懇親会を手伝ってくれた学生にも、忙しいなかで、ご馳走や飲み物がちゃんと手当されるように気を遣っていらっしゃったのが印象に残っている。先生は現職の時、ヨット部の部長をしておいでになったが、この役を、退職を機に経営学部の中桐宏文先生にお譲りになったようである。中桐先生も今は退職なさってしまったが、現職であっ の語らいをお楽しみください。

倉持俊一先生の思い出

(法政大学文学部教員)

澤登寛聡

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日本近現代史研究を始めてから、新聞雑誌の計報欄を何より先に見る習慣が身に付いた。故人や遺族が何か史料を残しているのではないかと期待するからである。また、どんな追悼記事が書かれているのかに興味を持つからである。追悼記事もまた歴史の一こまを物語る文章なのである。故人や関係者には申し訳なく思う。野暮な習慣を身に付けたものである。仕方がないと開き直って自分を支えているのも野暮である。けれども、そんな私にさえ、倉 た当時、倉持先生から受け継がれたヨット部の話を楽しそうに聞かせてくださった□倉持先生もきっとヨット部の部長時代は楽しかったのだろうなとおもった事を覚えている。先生は法政大学のご退職と同時に、大学院の講義も終わりになさり、大学へお出でになる機会がめっきり少なくなってしまった。こんなわけで私が、退職されてからの先生にお会いしたのは、数度に過ぎなかった。お会いするといつもニコッとして相好をくずされ、次に何か一一一一一一口三一一一一口、声をかけていただいた。だが、数年前頃だったと思うが、体調があまり思わしくないという話を伺った。そんなわけで実は内心、心配していたのであるが、ご逝去は誠に残念というほかはない。心からご冥福をお祈りする次第であるQ合掌(法政大学文学部教員) 法政史学第六十二号惜別の辞長井純市 持先生の計報記事は、痛惜の念より他に何も感じさせなかった。私も研究者だから、先生の歴史の中に登場するさまざまな人々の視点を総合して先生の歴史を描くべく想像力を働かせようとも思うし、その一方、死を表す数字に一を加えるのみであるという感覚を働かせようとも思う。しかし、今の私には、私が大学院生であったときの月に映った先生の人物像を、拙い一枚のデッサンとしてしか描くことができない。当時、バブル経済のさなか、ニューズウィークを読んでいたら、米国の研究者によるレーニンの評伝が新たに刊行されたという記事と寸評が載っていた。数日後にその本を購入する予定でいたところ、書名を失念してしまった。たまたま、キャンパスで出合った先生に、失礼とは思いながら、書名を尋ねたところ、私は不勉強でその本の名を知らない。すまないなあという返事が返ってきた。そして、盛りを過ぎた夏の夕日をうけながら、大学院の友人と二人でいた私に、これからどこかへ行くのかいと尋ねたので、私は、にやにやしながら、悪いことをしますと答えた。すかさず先生は、飲み屋に行くんだろうと笑いだし、そのまま、擦れ違うように別れた。粋である。野暮でないということは素敵である。東京の本郷の地で長く暮らされた先生の歴史を羨望の念と共に思い州す。お別れの会は、私を米川哲夫先生(ロシア文学)、西川正雄先生(ドイツ史)に引き合わせてくださった。私にも、ささやかだが、誇るべき歴史があったのである。これを、先生の小粋なはからいとして歴史にとどめようと思う。

(12)

倉持先生は、研究者、教育者、大学(行政)人として多くの仕事を成されたが、ここでは研究者としての倉持先生について書かせていただきたいと思う。倉持先生と親子に近い年齢差がある私は、小学校入学時に「戦後が終った」といわれ、大学時代にはベトナム反戦とチェコ事件に遭遇する世代である。六八年当時のこれらの出来事は、未来の希望は米国にはなく、かといってソ連にもないという思いをわれわれに残した。Ⅱ本人研究者が結集した共同研究「ロシア革命の研究」(中央公論社)が出版されたのは、ちょうどその頃であり、先生は論文「ロシア革命の原因論をめぐって」を世に問われた。ここで先生が分析されたのは米国のロシア革命研究で、革命原因についてはそれぞれの国民の状況に応じて無数の解釈があり、われわれにとっては、現在二九六七年)の日本人の視点が前提であると結論付けられた。その後必要に駆られ、先生の初期の論文「ストルイピン改革に関する一考察」(「歴史学研究』一六○号)、また米国の研究 先生は歴史として語られる世界に移り住み、私はなお歴史を語る世界に居続ける。私が、歴史を語るとき先生を欠かせない人として描いたら、野暮ですか。先生。

(法政大学文学部教員)

倉持俊一先生追悼 倉持先生追悼加納格 者フォンⅡラウエの仕事を翻訳された「ロシア革命論』(紀伊国屋書店)も手にした。これらの御業績、また「ロシア史研究』などに掲載された近代化に関する御考察から考えると、先生は、ロシアと西欧を「近代化」を基軸に理解しようとされていたと思う。「歴史学研究」論文では、戦後日本歴史学の関心に沿って「二つの道」論、ストルイピン改革の地主的性格といった点に触れられているが、何時にシュタインⅡハルデンベルグ改革がもった瑞々しい資本主義精神、人道主義的「香気」がそこには欠如していると指摘されていた。先生のこの姿勢は、ロストウ流の「近代化」論から区別してフォンⅡラウエの議論を日本で紹介されたという点にも表れていたように思う。後に、先生が取り組まれた日ソ歴史学シンポジウムのお手伝いをするようになり、一九八七年にはモスクワで開かれた第八回シンポにご一緒した。このシンポは、ペレストロイカのさなかに開かれ、ソ連側の報告は従来の教条的内容とは異なり、スターリン主義を真っ向から批判し、ソ連側を含む参加者の多くに感動を与えるものとなった。この時、先唯がソ連も普通の川になったといわれていたことが思い出される。これは、イデオロギーが先に立つのではなく、事実に基づいて共通の価値観で論じあうことがやっと可能となったと感慨されたのだと思う。このソ連も今はない。現在のモスクワでは、ホテルの屋化から地上近くまで「われわれに必要なのは強いロシアである」というよく知られた演説の一句と共にストルイピンの巨大な肖像写真が掲げられている。フォンⅡラウエ流の「近代化論」とは異なる資

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私がいつ倉持先生のお名前を存じ上げることになったのか、定かではない。私が一九六○年代の学生時代に中国近現代史を学び始めた頃、先生は江口朴郎先生門下のロシア現代史研究者として活躍され、私が先輩や指導を受けた中国研究者の諸先生から「倉持さん」の名を聞いていたのかとも思うⅦ六○年代から七○年代にかけては、中国文革時期でもあり、過渡期論やプロレタリア独裁論から国家の「廃絶」論、レーニン全集や毛沢東選集のテキストクリティークなど、仲間内の議論や論争にそれなりの関心を持っていた時期である。中ソ論争での「平和共存」「修正主義」論などをめぐって、日本のソビエト学研究者との交流も行なわれ、ソ連史研究での諸成果も目にしていた。ただ先生が信州大学から東京教育大学に移られた頃、私は教育大大学院を修了していて、大学院生協議会などの一員として筑波大学移転反対闘争でご一緒した機会はなかったと思う。やはり歴史家として、また教育者としての倉持先生と接するの 本主義化がぎしぎしと音を立てながら進行していく現代ロシアを先生は、どのように考えられていたのだろうか。一度ご意見をうかがいたいと思いつつ、機会は永遠に過ぎてしまった。この問題は、われわれの世代の課題とせねばならないと考えるのである。(法政大学文学部教員) 法政史学第六十二号倉持先生との出会い栃木利夫 は、一九七八年、私が法政大学に移籍してからであった。入試問題作成では、その出題の質的向上に成果をあげられた。当時は手採点で、採点場にうず高く積まれた答案の狭間で、先生が熱心に作業をされる姿を、多くの同僚が記憶している。日本とソ連と相互に開催された日ソ歴史学シンポジウムでは、事務局長として運営の中枢にあたられ、対外折衝や会議の成功に尽力された。ソ連現代史研究では世界歴史大系や現代史シリーズでの名著「ソ連現代史」を出され、研究成果の批判的科学的検討ではソビエト革命時期の「二重政権消滅」論の是非をめぐる論争での問題提起などをされた。日常的には「暖かく包み込む」お人柄ではあるが、学問的真理や生き方には筋を通す「こだわりの人」であった。そこから多くのすぐれた研究者を育てられたのである。ただ一言お詫びしたいのは、過日お元気でご活躍の頃、講義を終えられた先生が、教授室の蛇口の水で手の白墨粉を洗い落とし、顔を拭われていた時に私が声を掛けての「冗談」を、その後も長く話題とされた。いま私がその「首を洗う心境」の日々である。「暖かく広い」心をもって接していただいた先生に、改めてお礼とお詫びを述べながら日々迫られる課題に応えていきたいと思う。あの笑顔とお声を思い浮かべながら。感謝感謝である。

(法政大学文学部教員)

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倉持先生にはずいぶんと親しく御薫陶をいただいたように思う。だが、実際には入試関係以外にお仕事で御一緒させていただいたことはない。入試の仕事というのは際限なく続く上に神経も使うので、印象が強いということもあるかもしれない。しかしこれほど強く人の心をつかむのはやはり倉持先生のお人柄のゆえであろう。明るく、若々しく、時にずばりときついことを仰っても、嫌な印象を残さない方であった。倉持先生に初めてお目にかかったのは、私が法政大学第一教養部に着任したその時であった。当時の教養部は人事に専門学部の介入を嫌い、オートノミーを強く意識していたように思う。そんな頃に、もう二十年も前のことだから時効であろうと思うが、私は倉持先生のお世話で教養部に職を得た。その頃私は非常勤講師をしていたわけでもなく、法政大学がどこにあるのかすら定かではなかった。倉持先生からのお話も人を介してのことであり、着任が決まったとき初めてお顔を拝見することとなった。そんな状況で、専任の職を得てひたすら感謝する私に先生は、「感謝なんかしなくていいよ。ただ十年もしてあなたが、あの時倉持の誘いに乗らなければ自分の研究者としての人生はもう少し何とかなっていたはずだと思った時、僕を恨むのだけはやめてくれ」と仰った。恐ろしくもののよくわかる方であったと思う。当時の私には奇妙なことを仰る方だとしか思えなかったが、十年もしないうちにこ

倉持俊一先生追悼 倉持先生を偲ぶ中村純 の言葉を身にしみて思い出す仕儀となった。もちろんそれは倉持先生を恨まねばならないようなことではなかったが・・・…。時は移り、倉持先生は私が第一教養部長を務めていたときに御退職なされた。御一緒させていただいていた仕事は、当時では法政の中でも「二を争う優良チームと評価されていたように思うが、今や見る影もない。ただでさえ労多くして報われることの少ない仕事を御自分が淡々とこなされるばかりでなく、共に働く私共に口うるさく説教をするなどということは決してせずに、しかし何故かしっかりやらればという気持ちにさせることのできる方であった。文学部史学科の同僚として働いたことはない私はただ推測するばかりであるが、きっとよい先生であられたであろう。学生たちの心に強い印象を残した先生であったに違いない。倉持先生のようになろうなどとは望むべくもないが、そんな稀有な方がおられたということはいつまでも心にとどめておきたい。御冥福を祈ります。(法政大学文学部教員)

私は倉持先生が本学文学部在職中は第一教養部におり、また私の法政への赴任後二年にして定年退職されたので、先生と接することはさほど多くはなかったが、それでも法政大学史学会のおりや、指定校推薦入試の面接などのおりには同席することもあり、 倉持先生の想い出

小川雅史

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会話を交わしたこともあった。なんといっても話題の中心は、長野県Ⅱ信州であった。それというのも、先生はかつて信州大学人文学部(信州大学は長野県内各地に学部があるが、人文学部は松本市に所在)に在職しておられ、一方私は諏訪の出身であって、松本とは目と鼻の先ほどのところが郷里であったからである。松本は、すでに崩壊したとも言われて久しい、いわゆる「信州教育」の一つの拠点の地であるが、長野県関係の著名な研究者、教育者をめぐって、「○○は知っているか」といろんな名前が挙げられ、私も久しぶりに懐かしい郷士の「偉人」話に花が咲いた。というのも私はすでに信州を離れて三十年近くなっていたからである。それでも信州大学人文学部の前身である旧制松本高等学校記念館にある仁井川陞旧蔵資料についてはかねて気になっていたのでしばしば話題にしたことがある。仁丼田陞の不朽の偉業である「唐令拾遺」は、日唐文化交流研究のための基本研究である。同じくⅡ唐比較研究のために必須の吐魯番文書研究は昨年までのベルリンでの一年余にわたる在外研究の結果、研究への糸口がつかめたが、仁井田陞旧蔵資料の調査はまだ果たせていない。倉持先生は時代を問わず、こうした広い視野での研究を大いに期待しておられ、是非しっかり調査するようにと勧めてくれた。Ⅱ頃の不勉強を差じるとともに、生前のお約束を早く果たさなければならない。その後改めて先生の墓前にご報告したいと思う。安らかにお休み下さい。(法政大学文学部教員) 法政史学第六十二号

倉持俊一先生は不思議な魅力に満ちた先生であった。日頃の学生に対する名講義ぶりもさることながら、教室を離れても、学生たちの挙動や反応を、いつも微笑とともに見つめておられた。先生のまわりにはいつも学生が集っていた。皆先生の武勇伝を聞きたがった。先生も学生達との時間を大切にしておられ、若い学生の話を楽しげに聞いておられた。先生のまわりには「大人の余裕」とでもいう雰囲気がただよい、その先生を慕って、多くの同級生が西洋史の門を叩いた。先生はことのほかお酒がお好きで、第一校舎の研究室には高級ブランデーが秘蔵されていたらしい。あるとき考古学の学生が不謹慎にも酒盛りをしていると、赤い顔をされた倉持先生が笑いながら部屋に入ってこられたことがあった。すかさずコップをお渡ししたものの、そのとき開けていたお酒はなんとウオッカ。出来すぎのような話ではあるが、先生は喉が渇いておられたのか、中身を確かめられずに、透明な液体を一気に飲み干された。|向はおののいたが、先生も驚かれた。「水かと思った」先生は笑いながら言い訳されたが、一同も笑いをこらえることができなかった。こうした豪放なところも先生の魅力のひとつだったが、先生の講義は重厚かつ繊細だった。西洋史概説、特殊講義、大学院の外国史と三年にわたってお世話になったが、先生はあのよく通る声 倉持先生の余裕 一一一一ハ

小倉淳一

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倉持先生が信州大学から東京教育大学文学部阿洋史学科にご着任された昭和囚六年当時、いわゆる「大学紛争」は収束に向かっていましたが、その残津はまだくすぶっており、私たちも、さまざまに旧折した感情を抱きつつ、今となっては、赤面せざるをえないようなイデオロギツシュな議論をしたり、デスペレートな振る舞いをしたりしていました。 で歴史学のエッセンスをご教授くださった。ノートを読み上げながら、解説を加えながら、学生たちに投げかける一瞥は深くかつ鋭いものだった。教育実習で母校の高校に戻った折に、社会科の恩師から「法政には倉持俊一先生とおっしゃるロシア史の大家がいらっしゃるだろう。君は習っているか」と言われ、ひそかに嬉しく、また心強く感じた。倉持先生は史学科学生にとって、文字通り精神的な文柱だったのではなかろうか。Ⅱ本史専攻であろうと外N史専攻であろうと、先堆の講義やⅡ常のふれあいから、そして先生の背中から、多くの学生が学んできた筈である。私にとって忘れられない先生がお亡くなりになってしまったことは本当に残念であるが、先生の余裕ある笑みと学生を射抜くような真っすぐな視線は、私の中にいつまでも残っていて消えない。〈法政大学文学部教員)

倉持俊一先生追悼 「古き良き」東京教育大学時代から加藤一郎 そんな殺伐とした雰朋気の中で、東京教育大学にご着任された先生は、それこそ全身全霊で、私たちに接してくださいました。今の大学では、あまり見かけない光景になってしまったのですが、当時の大学では、講義や演習の行なわれる大学「昼の部」以外に、それが終了するとかならず、酒瓶のならぶ大学「夜の部」がありました。そして、先生は、大学「昼の部」では貴重な研究成果をご講義され、私どもの教育・指導にあたられたことはもちろんのこと、洲とタバコのにおい、存臭い鰐声の飛び交う大学「夜の部」にも、かならず顔を出してくだきり、深夜、ひいては朝まで、私たちに付き合ってくださいました。さらに、その「夜の部」の終了後にも、私たちが、大学の近くにあった先生のご自宅にまで、「夜討ち朝駆け」をかけることもしばしばであったのですが、そんな時も、いやな顔一つなさらず、奥様ともども暖かく、私たち、狼雑な学生集川を迎えいれてくださいました。先生が川制筒校の寮歌を心から愛されていたことはよく知られていますが、大学「夜の部」の席上で、先生が、「これから寮歌を歌います」と話し出され、そのあと、絶妙のタイミングで、「銀座かんかん娘」を熱唱される光景は、三○年以上たった今でも、私たちのⅡに焼きついています。倉持先生が、全身全溌で私たちに接してくだきり、ご迷惑なこともあったかもしれませんが、私たちがそのご好意に甘えることができたのも、先生の非常に温厚なお人柄のためであったと思います。少々硬い表現を使わせていただければ、先生は、当時流行していたきわめて偏狭なイデオロギーで物事を判断するのではなく、多面的で、きわめて常識的なものの見方をするように私たち

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「ちっとも研究室に来てくれませんね。コーヒーくらいご馳走しますよ。」と言われても、最後まで御邪魔することはありませんでした。教室、研究室以外でしたら、どんなによくお会いして話をしたことでしょうか。西洋史クラスで神楽坂へ行き、「俊ちゃん、俊ちゃん」と言いながら、先生と楽しくお酒を飲んだことは何度 に教えてくだきり、そのような姿勢を先生は、ご自分のお人柄で体現しておられました。先生は「歴史学とは何の役にも立たない人畜無害な学問なのだよ」と何回も諭してくださいましたし、私が大学の教員になったときにも、「学内政治にかかわってはいけないよ」、「学生に酒をつがせるようになってはいけないよ」と諭してくださいました。そして、今、私も、先生の受け売りをして、学生たちに、「歴史学とは何の役にも立たない人畜無害な学問なのだよ」と語っておりますし、宴席では、何とか重い腰を上げて、学生諸君に「酒をついで」皿るように心がけております。先生、私たちは、今、先生が東京教育大学にご着任されたときの年齢を、すでに、かなり上川ってしまいました。しかし、大学時代に先生から受けたお教えは、今でも、私たちの身の処し方、それこそ日常生活にまで強い影響を与えています。本当にありがとうございました。どうか、安らかにお休みください。

(文教大学教員、元法政大学兼任講師) 法政史学第六十二号

倉持先生の思い出寺部富士子 もありました。先生はそんな時いつも、専門分野の話から離れて信州の話、ご自分の学生時代のこと、そしてご家族のこと等、とても楽しく話をして下さいました。また「アインッヴァイドライ」で歌い出す旧制高校の校歌や雪山賛歌等、美声もダンス付きで披露して下さいました。その中で私が一番覚えているのは、「君達、飲むのはビールにしなさい。ビールなら酔う前にトイレに行きますから。」私は折に触れその言葉を思い出し、未だに実行しております(最近、やや焼酎に移行中ですが……)。また、その席での度を過ごしたおふざけには、「君達、からかうのはやめなさい。君達のお父さんの年代ですよ」といつも苦笑されていたことを思い出します。卒業してから先生の偉大な業績を知る度に思うのです、誰一人として先生の講義のすばらしさが分からなかった私達年代をお許し下さい。特に出席率の悪かった私は最初の頃の授業で、先生が他の生徒に「皆さん、真木さんを知ってますか?このままだと出席が足りないのですが」と心配して下さっていた時も、教室の外で授業が終わるのを待っていたぐらいで、本当に態度の悪い生徒でした。卒論がなかなか書けず、「もう一年頑張ります」と言う私に、「一月余分にあげるから頼むから卒業して下さい」と一一一一口われてしまいました。同じクラスの阿部さんが言うには、ある時「君たちの入学時の成績を調べさせて貰ったが、皆、好成績で入っているのに何故なのか」と嘆かれていたそうです。阿部さん曰く、「先生にとっては当時、かなり別の意味でのカルチャーショックだったのではないかしら。」バレンタインの翌日、息子よりチョコレートが多かったと嬉し

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倉持先生に初めてお目にかかったのは、先生が法政大学に赴任された時のことです。大学二年生であった私は、その頃是非ともロシア史を勉強したいと思っていたので、先生がロシア史のご専門であるのを聞いてとても嬉しく、先生が輝いて見えました。その翌年先生のゼミに入り、先生のお人柄に直接ふれることになりました。先生の授業での興味深いお話や、難しい英文読解で学生がどんなに間違えても辛抱強くご指導下さる姿勢もさることながら、率先してコンパを開き歌や伽りで盛り上げて下さるお姿を見て、私ばかりでなく多くの学生が先生の熱烈なファンとなりました。ファンには倉持ゼミ以外の学生もたくさんおり、倉持ゼミのコンパには見たこともない飛び入りの学生が加わることがよくありました。時に先生は、学生に挑発的な議論を投げかけ、それに そうなお顔をされていた先生、ロシアから帰っていらっしゃった時、ロシアの列車内の食堂であまりの油の悪さに食べられるものがありませんでしたと話されていた先生、どんな時もいつもにこやかな顔で語られておられました。とにかく優しい先生でした。昨年の末頃、何故か、急に先生にお会いしたい、ゆっくりとお話がしたいと思い、春になったらお伺いしようと思っていました矢先の計報でした。ご冥福をお祈り致します。合掌、礼拝。

二九七五年度卒業生)

倉持俊一先生追悼 倉持先生の思い出

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学生がどう反応するか試すようなことがありました。学生が言葉を返せず黙ってしまうと、かえって不機嫌になるのでした。その一方で、ぽつんと取り残されているような学生にも必ずお声をかけて下さいました。このように、授業でもコンパでも先生はその場の中心となりながらも、常に細かく周附を気遣って下さったのです。そのお姿は私にとって、教師としてまた研究群としての、到底真似できないお手本となりました。今でも私は術義の準備をする時、無意識のうちに、ここは先生ならばどのように教えられるだろうかと考えてしまいます。学生と接する時も、熱心かつ率直なアドヴァイスを下さった先生を思い出して、少しでも近づきたいと思うのですが、とても難しいことです。大学卒業後、私は大学院に進みました。先生の反対をおしてのことでしたが、現在何とか私が研究を続けられるのは、先生がいろいろ助けて下さったおかげに他なりません。先生のご恩に少しでも報いたい。そのためには今度こそ良い仕事をしなければ先生に顔向けできない。そう思って先生にお会いする機会を伸ばしていたさなか、ご病気の知らせを聞きました。お見舞いを断っておられたのでご川復を待っていたのですが、残念ながらかないませんでした。もっと早くおⅡにかかればよかった、もっといろいろなお話を伺いたかったと悔やまれるばかりです。謙んでご冥福をお祈りいたします。二九七八年度卒業生、法政大学兼任講師)

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この度、倉持俊一先生の計報に触れ、深い悲しみを感ずるとともに、深く哀悼の意を表します。私が、倉持先生と出会ったのは、大学二年の専門科目「西洋史概説」の講義が初めてとなります。当時の講義内容は確か「欧米中心の世界史観の見直し」という講義だったと思います。私は高校時代まで旧来の世界史を学んで受験もしてきた者ですから、すっかり「月からウロコが落ちた」気分になり、「こういう事を教えてくれる先生ならついて行こう」と思ったことを思い出します。倉持先生の講義で思い出すのは、厳しい講義中の姿勢です。他の講義の時には「私語」が非常に多いのですが、倉持先生の講義の時は、まったく私語が無く、静まり返っていました。たまに私語をする学生がいると、「おい、そこうるさい、聞く気がないなら出て行きなさい」と怒鳴っていたことを思い出します。ゼミでの思い州ですが、私が学生時代に印象に残った講義は、倉持先生の講義だけです(他の先生方申し訳ありません)から、当然のごとく倉持ゼミに入り、印象深いのは、夏のゼミ合宿です。一一一年の時は河口湖の民宿で行ったのですが、二階でゼミを行い、休憩時間に、学生の誰かが「灰皿無いかな」とつぶやいたら、やおら先生が階下に走ったので、どうしたのかと思っていたら、先生が灰Ⅲを調達してきたのです。この時は本当にびっくりしまし 法政史学第六十二号倉持俊一先生を偲んで金子良作 た。「大学の教授でこんな事をする先生がいるのか」と信じられない面持ちになったことを思い出します。四年のときは越後中里の民宿、ゼミ後のコンパで、お酒が好きで、「フーテンの寅さん」が好きな先生は歌を歌ったり、六大学野球が好きでスライディングを宴会場で披露していただいたことが、昨日のことのように思い出されます。倉持先生には、私は、学生には講義に厳しく、それを離れれば、ざっくばらんで、人情味あつく、気さくな先生という印象をもっておりますが、他の教え子の方はまた別の印象を持っているかも知れません。就職後は、あまり先生の研究室も訪ねず、不義理をしてしまいました。卒業後二十二年、ついにこの日が来てしまったという感が強く、いまだに倉持先生が亡くなられたことが信じられません。今年の正月に年賀状をいただき、その後間もなく計報に接し、今年いただいた年賀状を遺品として額に納めさせていただき、これからも倉持先生を偲ばせていただきたいと思います。倉持先生のご冥福をお祈りいたします。二九八一年度卒業生、法政大学職員)

二○○四年一月一九日、倉持先生が逝ってしまわれた。先生がご病気であることは承知していたものの、お体に障ってはいけな 倉持俊一先生を偲んで

佐藤

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いと考え、お見舞いに伺うことは控えていた。しかし懸念していた予感がついに現実のものとなり、このような文章を書くことになろうとは、まことに残念で、悲しい.私が倉持先生に初めてお目にかかったのは、おそらく一九八○年四月の大学入学時のことであった。しかし当時の私は中国近代史を専攻しようと考えていたため、ロシア史がご専門である先生の存在を強く意識することはなかった。それゆえ翌年二年に進級し、先生が担当されていた史学科必修科Ⅱの西洋史概説を受講した際の衝撃は大きかった。その講義において先生は、西洋史概説という科目設定をはるかに越えて、欧米やアジア、そして日本の様々な歴史論や文明論に言及されながら、世界史の認識的枠組について批判的に論じられた。それはまさに「歴史とは何か」を問うものであった。それまで歴史を単に過去の出来事を記録した「物語」のようなものとしてしか捉えていなかった幼稚な私は、講義の内容に圧倒された。そしてすぐに、せっかく歴史を学ぶなら、先生のもとで学びたいと思うようになった。ただし問題があった。先生のゼミに入れていただくためには、東洋史から西洋史に転向しなければならなかったのである。しかし第二外国語では中国語を学んでおり、あとは苦手な英語しか使えず、それを使って研究できる西洋史と一言えば、当時の無知な私にはイギリス史かアメリカ史しか思いつかなかった。ところがイギリスには全く関心がなく、またベトナム戦争の時代に育った私にとってアメリカは嫌悪の対象でしかなかった。それゆえこの選択には心底困った。それでも、ついには嫌いでも関心があるだけましなアメリカ史を選び、

倉持俊一先生追悼 ”車椅子ということも考えたのですが……どうぞ皆さんだけで行ってらして下さい。“奥様からのそのお電話は、昨年(二○○三年)||月、ささやかながらも余りにも恵まれていた私達の西洋史ゼミ同窓紀行、その第五章への砒発前々Ⅱのことでした。あの時点で私達の誰もが(きっと奥様も)、季節も先生のご体調も良くなられた春先の旅立ちを信じて疑いませんでした。まさか、それが幻に終わってしまうなどということが、|体誰に想像出来たでしょうか…。倉持先生の退職記念パーティ二九九八年)で再会した私達の間で、卒業後も公私に渡りお世話頂いている、せめてものご恩返しに、ご夫妻に温泉旅行をという話が、ごく自然に盛り上がりま それが研究者としての私の人生を決めたのである。倉持先生にはその後も卒業論文のテーマについて、或いは大学院進学について相談に乗っていただき、猷校での非常勤講師の仕事までお世話いただいた。この一言い尽くせないご恩に何も報いることができないままお別れしたことは、不徳の致すところとは言え、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。せめてこれからは教員として、少しずつでも先生にしていただいたことを、n分の学生たちに返していきたいと考えている。(一九八三年度卒業生、大妻女子大学教員、法政大学兼任講師)

幻の第五章~恩師ご夫妻とともに~川沼穂積

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した。そしてその想いが、翌秋から毎年秋に一回、慰安と感謝と感動にあふれた至福の旅の始まりへと結実したのです。今ここにそのすべてを記すことは叶いませんが……第一章は、倉持先生が信州大学教官として一○年余りを過ごされた所縁の岳都松本で、宿も御自ら手配頂き、浅間温泉にて、あのゼミ合宿の夜のように、深更まで語らい酌み交わすことができました。さらに翌日は市内観光のガイドまでして頂くという感激……第二章は会津・猪苗代・裏磐梯、今でも鮮やかに想い出されるのは、晩秋の五色沼のほぼ二時間の散策路が、倉持先生の詩情溢れる旧制高等学校各寮歌の独唱で満たされたこと。その朗々とした歌声は私達の耳の奥底に永遠に鳴り響いて、決して止むことはないでしょう……第三章は、後藤篤子先生にも寸暇を割いてご参加頂き、豊田市美術館鑑賞と明治村……第四章は小布施・善光寺。そして、この第囚章から帰られた冬に、心配をかけるからというお心遣いから、殆どどなたにもお告げにならなかった、あのご闘病生活が始まろうとは、思いもよりませんでした。二月中旬のご人院以来、絶対に見舞い無用とおっしゃられ、我慢に我慢をして初めてお伺いしたのがⅢ月。日中は奥様、夕刻からはご長男の俊哉さんが付き添っていらっしゃいました。退院まで今少し時間がかかりそうとのことでしたが、お顔が見られて、お話が出来て、予定より長引いているのではという危倶はありましたが、一日でも早いご退院をと祈りながら病室を辞しました。結局、ご退院は七月初旬となってしまわれましたが、夏には例年通り御殿場の別荘でお過ごしとのこと(ただ、週一回は都内ま 法政史学第六十二号

での通院というご不便がおありだったそうですが)。そして、秋口には旅行の打ち合わせのお電話が直接先生と出来るようになり、浅慮にも、お身体の快方と第五章の実現を確信するまでに到っていたのです。冒頭の、あのお電話があるまでは:….。〃先生がいらっしゃれないのであれば、当然私達だけで行くわけには参りません。延期ということにさせて下さい。〃一一月に入り体調を崩され、無理かもしれませんと奥様に早めのお電話を頂きながら、キャンセル料承知で勝手に間際までお待ちしていた私達ですから、当然の決断でありました。にもかかわらず倉持先生は、病床で感慨深げに奥様にこうおっしゃって下さったそうです。〃教師冥利に尽きるなあ..…・〃そして、年の瀬に、第五章での再会のお約束にお伺いした折は、体力川復にと鰻重を完食なされていらした倉持先生。お正月には小石川のお宅で過ごされ、生後*ヶ月のお孫さんとお顔を寄せ合った写真を撮られた翌一九日、本当に最後の最後まで、誰にも家族にさえも迷惑をかけずに静かに安らかに永眠されたそうです。(時が経てば経つほど、看護婦さんたちからも敬愛されていたという、そのお人柄が偲ばれて偲ばれてなりません。)まさかの計報に矢も盾も止まらず、ご霊前に駆けつけた私に奥様が見せて下さいましたのは、倉持先生のご闘病とともにあったという手帳の一一月一五Hの欄l田沼、旅行lと書かれた、その懐かしいご筆跡でした。二九八七年度卒業生)

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今年一月二七日の夜に「史学科学生学会」の後輩からの電話で私は倉持先生の計報を知った。先生の「がん」と病状は聞いてはいたが、突然の計報に、ショックでその晩はよく眠れなかった。先生との最初の出会いは、実は本であった。法政入学直前の三月に、偶然先生の『ロシア・ソ連」を読んだのである。新入生ガイダンスで実際にお会いした先生は、饒舌で大衆的な感じがした。好印象は持ったが、ここまで好きになる先生とは当時思わなかった。学生学会運営の面では本当にお世話になった。資金面でのご助一一一一口、学術大会での講師依頼等、先生の支援なしに学生学会の盛会はあり得なかったと思う。講師依頼では、先生とあまり親交のなかった先生、他大学の先生にも依頼して頂き、私達は貴重な経験をさせて頂いた。ご退官時に、私達は「退官を祝う会」を催した。しかし、私にとって先生は、何よりも「歴史」を教えてくれた「師」であった。当時私はn分の育ち方から、「共産党」と「社会主義」の問題を抱えていた。問題の解決を歴史の調べに求めたが、先生は私の「誤解」や問題解決のためのご指摘をしてくださった。『代々木は最後は勝てると思ってる。」『あの世界は来ない。」同じく社会主義を理想としても、先生はよくご自分の考えを述べられた、「歴史学」を学び、ロシア革命の特殊性を知り、ソ連解体に立ち会い、

倉持俊一先生追悼 倉持先生の思い出菊地肇 先生が述べられた事が多少でも分かるようになって、自分の「信仰」が未来の全てを語れるものでないことも理解できた。そして何より先生と肌が合った(と思っている)ことが嬉しかった。歌好きな所、豪快だが繊細な所、ユーモアのセンス、そして不器用だが人を大事にする先生の姿勢が私は好きであった。この七月に先生のお宅にお伺いして、先生のご本を頂くことができた。実は先生と生前からお約束していたことで、この機会を楽しみにしていた。しかし、先生のお部屋に入り、実際に蔵書を見せて頂いた時、この部屋の物を少しでも動かすことが輝られた。先生が「ロシア革命」や「人類の未来」を想い、格闘していた場所かと思うと、ここにある物を私のような者が動かすことが何か不純な気がしたのである。本は結局頂いてしまったが、その巾にはやはり先生の格闘の跡があった。思えば私はあまりにも先生に苦労をかけた教え子であった。進路や就職でもご迷惑を掛けてしまった。先生亡き今、私は自分の人生を支える大きなものを失った感じで、只悲しいばかりである。二九九一年度卒業生)

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倉持俊一先化遺影

参照

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