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ことばのワナ : 一つの意味論的考察

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ことばのワナ : 一つの意味論的考察

著者 大志万 一徳

雑誌名 主流

号 27

ページ 118‑125

発行年 1965‑11‑03

権利 同志社英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016702

(2)

こ と ば の ワ ナ

一一一つの意味論的考察一一

士 山

我々の周囲には,学校でも,家庭でも,地域社会でも,又その他どの様な集団に おいても,環境に適応することの出来ない人の数は多い.なぜ,多くの人が環境に 適応することができないのであろうか.その原因はかならずしも一つではあり得な いが,彼らの理想、の性格が原因となっていることが多いように思われる.そして彼 らの理想の性格は彼らの言葉の使い方によって決定されるから,不適応の人々の理 想と言葉の使い方の特徴を見ょうとするのがこの小論の目的である.

環境に不適応の人の理想、とするものは,三つの点で高いように思われる.まず第 一に, {皮らの理想は漠然としているという意、味で高い.漠然としているので理解し にくい.理解しにくいので実現できない.理想が漠然としている人は,自分が理想 に到達したかどうかをきめる確かな方法がない.したがって,白分は失敗したと信 じこみ,自分の理想、は到達しにくいと確信するようになる.

S. 1.  Hayakawaは,その近著において,シカゴのあるスラム街再建のための会 議のことを書いている.シカゴ大学の H.A. Thelenに指導されたこの会議が成 功した秘決は,抽象的な討論をさけ, 最も低い抽象のレベノレ, たとえば街灯, 自 動車交通,子供のための遊び、場等の具体的な事実のレベルから討論を始めたことに ある. すなわち彼らの到達すべき目標は明確だった. これに対して, 同じシカゴ 大学の Richard Weaverは,他のどのような意志の伝達が確立される前にも,形 而上学的な一致がなければならないと主張する.彼は次のように言ったといわれ

る.

How can men who disagree  about what the world is  for agr aboutany 

(3)

2) 

of the minutiae  of  dailyconduct?このように高い抽象のレベルで理想を考えて いては,それが到達されたかどうかわかる人は何人いるだろうか.

我々がAからB, いわゆる一般に「失敗」といわれているものから

r

成功Jと いわれているものに移行しようとする時,重要な点は変化の点,すなわち我々がA を離れてBに入る点であろう.もしそのような点が認められなければ,我々は我々 の百的に到達した.

r

成功」をかち得た, と信ずることはできない.そして我々が

「成功」をかち得たと信じられるまで,我々はそれをかち得ていないと考える.い いかえれば,その時まで我々は「失敗」を経験し続ける.こういう状況の下では,

我々は欲求不満となり,最後には狂気とならざるを得ない.

理想の漠然としている人は,自分がある特定のことをなしとげたと考え,それに 勇気づけられて有頂点になることがあるかもしれないが,それ位のことでは満足し なくて,さらに先のものを求める. AからBへの

r

失敗」から「成功」への移行 の点としての,ひとつひとつの成果を認めずに,たえずもうひとつ先のものを脊の びして求めるために,最後にはいつもイライラした状態となり,個々の目的の達成 を新たな「失敗」と見るようになる.いろんな目的が達成されるJこ も か か わ ら ず

「成功」はやって来ない.

成功がやって来ない理由,すなわちそれは言葉の上のまぼろしにすぎないという ことは,きわめて明白であるにもかかわらず,たえず見逃がされている.理想が漠 然としている人が逃れようとしているのは,絶対的な失敗であり,彼が熱心に求め ているのは,絶対的な成功であるが,これらはいずれも彼の頭の中以外には存在し ない.

実際になしとげられるのは一連の相対的な成功である.

r

成功」という言葉が非 常に多くのことを意味することを知らない人は,皮肉なことに,自分は成功してい

るにもかかわらず,失望する.

環境に適応することができない人の理想が高い第二の点は,理想、が高く評価され るということである.絶対的に成功するのでなければ完全に失敗するのであるからヂ 絶対的に成功することがこの上な〈重要になってくる.

r

失敗」すればおしまいと いうことになる.そして,このように「成功」と「失敗」がはっきり区別されると少

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120  こ と ば の ワ ナ

「失敗」のかわりは「成功」しかないことになり,結局「絶対的」成功のかわりは,

「絶対的 J失敗となる.

私のま日っているある生徒は,さる大学へ入学することを目標に二年の浪人生活の 後,首尾よく志望の大学の入試に合格したが,身体検査で,すぐにも適切な法を講 じなけれf:f,あと二ヶ月の生命も保証できないことがわかった.大学入学を唯一の

「絶対的」成功とみて,無理な勉強に熱中したからである.

環境に適応することができない人は,

r

成功」とか,

r

裕福」とか,

r

幸福」とか,

その他彼らの追求するどのような理想に対しても,アリストテレスの「同一視の

3) 

法則」の態度をとるように思われる. たとえば,彼らは「成功は成功だ」 とか,

「裕福は裕福だ」というように考える.したがって当然彼らは二者択一の形で考え る結果, どんなものも,

r

成功」か「失敗」か

r

裕福jか「貧困」か

r

幸福」か

「不幸」かのいずれかでなければならないことになる.そしてさらに進んで,どん なものも同時に「成功jで且つ「失散」ではあり得ないし,同時に「裕福jで且つ

「貧困」ではあり得ない等々と考えられるようになる.このような二者択一の考え 方にとらわれて,彼らはとめどもない混乱におちいる.

「成功は成功だ」という考え方は,心労と欲求不満の原因となる. さらに

r

成 功」が存在すると考えれば,二者択一式からして,他のすべては「失敗」だと思わ れて,一方は非常に大事にされ,他方はいみ嫌われる.こういうふうにして,理想 に非常に高い価値がおかれるようになる.そして,到達できないような高い理想が 長い間求め続けられれば,その達成が不可能なばかりか,人は混乱し途方に〈れる.

環境に適応することができない人の理想が高い第三の点は,彼らの理想が実現さ れる公算が非常に少ないということである.例を 39年 2~3 月の入学試験期におけ る福知山高校の大学受験者にとろう.昨年度の受験生の中には, 38年3月の卒業生 (1年浪人〉が63人, 37年3月の卒業生 (2年浪人〕が29人いるが, 39年3月卒の 現役のみを見ることにする.京都の4つの大学を例にとってみると, A大学は出願 者15名に対して合格者7名, B大学は出願者7名に合格者1名,

c

大学は41人の出 願者中6名の合格, D大学にいたっては,出願者30名に対して合格者はわずか1名 であった.この結果は,受験生の多くが自己の能力を冷静に判断できないでp 実現

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できそうにない高い理想を抱いていることを示している.

非現実的な高い理想を抱くものは何も受験生にかぎらず,映画スターにあこがれ るミーハ一族,代金の払えない自動車を運転している者等かず多い.

環境に適応することができない人が,実現の可能性のきわめて少ない高い目擦を かかげるのは,彼らの7リストテレス式発想法に原因があるように思われる.彼ら の「成功」と「失敗」についての考え方はあいまいであり二者択一的だから,彼ら が疑いなく成功するまで「失敗した」と考えがちである.結果として彼らは高い目 標をかかげざるを得ない.広告者はこの高きを求めようとする衝動に注目し,また テレビ番組製作者や通俗小説の作家はこれを刺激する.いいかえれば,月に到達し ようとするこの願いは 環境に適応することのできない人々の独特の傾向ではな〈

て,

t r

しろ我々の社会の性格を表わしている.不適応の人はそれを顕著に反映して いるにすぎないといえよう.

いままで不適応の人々のいだく理想の三つの特徴を見てきたが,これらの人々は

「失敗」の経験を〈り返す結果,いわゆる劣等感を持つようになる.劣等感はある 程度誰もが持っている感情であるが,不適応の人において,より顕著に見られる.

劣等感が極端な段階まで進んでいなくても,彼らは一般にものごとに過敏になる.

彼らはひどく緊張している.彼らは見たりタ読んだり,自分にいわれたりすること に,突然誇張されたやり方で反応する.いいかえれば,彼らはあまりにも速し多 く反応しすぎるのである.彼らと話をしていれば,何かが彼らの気にさわりはしな いかと案じられて,一緒にいることが息苦しくなる.

こういう人は3 失敗などというものは全然、ないという単純な事実を知らない。失 敗というのは評価の問題であって,期待されるものと実際に得られるものとの間の 差である.それは,人が,しなければならないと自分自身に要求することと.実現 できることとの差である.それは期待が実現を上まわる時に感じられるものである.

もし理想なり目標なりが,それらがあまりにも漠然としているか,高〈評価されて いるか,あるいは3 非現実的であるかの意味で高すぎれば,人は失敗を経験する.

その結果は劣等感を持つようになる.

しかし,この不幸な発展iこ対して,人はかならずしも手をこまねいているわけで

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122  こと tま の ワ ナ

はない.彼らはこれを食い止めようとする.自分を邪魔していると思、われる人やも のに多少とも腹をたてる.もし,そうすることが許されるならば,自分の進歩をJ妨 害しているように思われる人を,直接的かあるいは間接的に攻撃しようとする.こ こで大切なのは,エネノレギーが,ますます多〈の憎悪とか攻撃とかの活動に使われク 効果的で生産的な仕事に使われることがだんだん少なくなるということであろう.

その上,敵の数と勢力は増加する.したがって,

. r

成功Jはだんだん遠のいていく.

このようにして生れた失敗感はp 遅かれ早かれ,退屈感へ移行し,最後には意気 消沈の状態におちいる.我々の社会では,他の人々との人間関係やマスコミの刺激 で,安閑と退屈しているわけにはいかない.このため,時に「成功」への試みが為 されるが,例によって成功怯逃げ続ける.そして,失敗感は深まり,ますます失意 の状態におち込んでい<. 

Wendell Johnsonは,この不適応の基本的な構造をI.F.  D.病と名づけた 彼 の説明を開こう.

Temay call  it (= the basic design ot  our common maladjustment) the IFD  disease: from idealism to  frustration to demoralization.  Probably no one of  us  entirelycapesit.  It is  of epidmicproportions.  Certainly anyone occupied  professionally with personal  problems  of  men and women‑and of  children‑

comes to realize it  as a sort of  standard base upon which are erected all  man. 

ner of specific  diculties and  semantic  ailments.  . . . In  my eXperiellCe, 110 

other ailment is  so common among ulliversity  studellts, for  example, as  what  1 have termed the 1FD diseas巴.

1t  is, moreover, a condition out of which there tend  to  develop the  various  types of  severe  ment1"alld  nervous discrders, the  lleuroses  and  psychoses  that五IIour "mental" hospitals with such a lush  growth of  delusion  and in

4) 

competellce. 

環境に適応することのできない人の示すもう一つの徴候はタどこが具合が悪いの か彼らにはいえないということである.また,非常によくしゃべるが,結局何をい

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っているのかわからない人がいる.彼らはひとしゃべりしてから,まだ何もいって いないことに自分自身が気づいて,また自分の感情を言葉に表わそうとするが,結 局何をいったのかわからないので,何もいわなかったと同じである.

ある問題が効果的に解決されるためには,それはかなり明瞭に述べられなければ ならないであろう.そして,問題がそのように述べられれば,それに対する解決の 糸口がつかまる.いいかえれば不適応の人々は,自分達の問題を明確に述べ,状況 を改善するためにはどのような方法がとられるべきかが言えてはじめて,正常への 第一歩を踏み出したものといえよう.経験のある科学者は,実験問題の解決に最も 重要な方法は,それを効果的に実験できるように問題を述べることだということを 知っている.それができれば,あとは助手でも測定できる.科学者の科学者たる所 以は,技術者が実験できるように,問題を述べ,質問ができるということである.

偶人の問題もこの点において実験室の問題とそう違わない.問題が解決される前 に,それは述べられなければならない.有益な答が得られるためには,適切な質問 がなされなければならない.我々は皆,答がほしいし,それを得れば,心やすらくヘ 環境に適応することのできない人がすることができないこと,そしてするようにな

らなければならないこと,それはどういう答を自分は必要とするかを明確に述べる ことであろう.いいかえれば,不適応の人は満足すべき答が得られるように質問す る能力が欠けているということである.彼らがこの能力を身につければ,問題はお のずから解決されるだろう.

漠然とした質問に対して正確な答のあるはずがない.質問の言葉が答の言葉針決 定する.我々のする質問が.我々の得る答を決定し,その答が生活の大部分を決定 する.質問の技術を身につけなければ,我々は個人的にも社会的にも誤まりを犯し がちである.そして質問の技術は,大部分言葉の技術といえよう.不適応の人の言 葉の混乱は3 彼の行動の他の面の混乱と無関係ではなくて,一方は他方と切りはな

して理解することはできない.

欲求不満で気遣いじみた理想家である環境不適応の人を見て,程度の差こそあれ,

我々のすべてに共通な問題の輪郭を見ることができる.IFD病は個人の病気という よりはむしろ個人に加えられる強い環境の力の反映である.この力が一般にいきわ

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124  こと』まのワナ

たっておれば,我々のすべてがある程度はその不幸な影響を受けやすい.我々はた えずそれにさらされているといえよう.

それでは,どういう種類の「病菌」が我々の身体に侵入して,混乱と欲求不満と 絶望とをひき起すのであろうか.答のカギ比不適応の人が自分の問題を述べたり,

すぐに効果的に答えられるように明瞭に質問したりすることができないという事実 に見出される.そして,このことは言葉の使用ということと不可分に結びついてい る.言葉の構造の中に,その言葉を使う人に有害な破壊的な要素があるということ である.我々の言葉の構造は, かなりの程度まで,すでに見たアリストテレスの

「法則」で述べることができる.

これらの問題を考えてくると,言葉の構造には,二つの意味があることに気付し 一方において,言葉の構造は我々の文化,社会,文明の構造を決定するのに役割を 演ずる.他方,それは個人がその文化構造を内面化する手段となる.したがって,

言葉の構造を研究すれば,我々は文明をより深く理解できると同時に,個人の生活 や個性をより深く洞察できるようになる.我々が言葉を使って生活しているという

ことは,たとえてみれば,人間が言葉という巨大な巣をはってフそれに自分たちが かかっているようなものであろう.我々に課せられた問題は,大部分,この象徴の 巣をときほぐすことである.

一般意味論は、この問題に関係がある.すでに見た個人の不適応の問題,すなわ ち,理想主義が欲求不満を生み,ついには混乱におちいるという不幸な連鎖反応は,

ただ単に不幸なではすまされない.そこで一般意味論はこの問題を解明し,その連 鎖反応、を断ち切ろうとするものである.

いろいろな呼び方ができょうが,今日の時代を我々は質問の時代と呼べよう.ど のようにして人聞が発展してきたかを考えれば、,質問をすることの重要性が明らか となる.一般意味論では,我々が言葉のワナから解放されるために,質問の技術が 組織的に研究されるのである.

j

1)  S. I. Hayakawa, Symbol, Status, and Personaluy CNew York:  Harcourt, Brace 

World, Inc., 1963), pp.  182‑187.  2)  S. I. Hayakawa, 0.ρ. cit., p.  185. 

3)  Stuart Chase, Power of IYords CNew Y ork: Harcourt, Brace and Company, 1954), 

(9)

pp. 140‑141. 

4)  Wendell Johnson, People  Quandaries(New York: Harper Brothers, 1946),  pp.  14‑15. 

参照

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