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同化と共生 : 中東欧諸国における亡命ロシア文化 序説

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同化と共生 : 中東欧諸国における亡命ロシア文化 序説

著者 諫早 勇一

雑誌名 言語文化

巻 9

号 1

ページ 97‑115

発行年 2006‑08‑25

権利 同志社大学言語文化学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011002

(2)

同化と共生

―中東欧諸国

1

における亡命ロシア文化序説―

諫 早 勇 一

0−1 「同化」という現象

亡命文化を論じるとき、「同化」という語がしばしば用いられる。たと えば、亡命者の子の世代は受入国に同化していった2(ロシア語を棄てて、

受入国の言語を自分の言語としていった)とか、ロシア語という言語を媒体 としない音楽家・画家のような芸術家たちは、言語を媒体とする作家などよ り、容易に同化できた(たとえば、フランスやアメリカの芸術家として名声 を確立していった3)といったように。

だが、亡命文化と「同化」との結びつきを考えるとき、「同化」という語 ははるかに多様な観点から捉えられるだろう。実際「同化」とは、かならず しも亡命文化全般に共通する概念とはかぎらない。逆に「同化」は、各国に おける亡命文化の差異を決定する重要な要因にもなる。中東欧諸国における 亡命文化のありようの違い(それは多く、各国における亡命者への待遇の違 いに起因している)を考察するとき、「共生」とその対立概念である「同化」

が果たした役割はけっして小さくない。

たとえば、チェコスロヴァキアのようにロシア人亡命者に積極的に援助を 与え、自国内にロシア語の教育機関をつくることを積極的に推し進めた国は、

亡命者との「共生」をめざした国といえるから、当然そこでは亡命文化の開 花が可能になる。これに対して、ポーランドのように、亡命者たちがロシア 人としてのアイデンティティを持ち続けることを快く思わずに、「同化」を 強いた国では亡命文化は色褪せたものになるだろう。「同化」と「共生」は、

中東欧諸国での亡命文化の質を左右する重要な要因の一つである。

『言語文化』9-1:97−114ページ 2006.

同志社大学言語文化学会©諫早勇一

(3)

思うに、そもそも「亡命者」とは、「同化」を拒否した人びとではないだ ろうか。かれらは完全に祖国を棄てたわけではない。いつか政治体制が変わ れば(ボリシェヴィキ政権さえ倒れれば)自分たちは祖国ロシアに帰れると、

かれらは固く信じていた。とすれば、かれらにとっていちばん大切なことは、

受入国にあってもロシア人4たるアイデンティティを失わないこと、具体的 にはロシア語を慈しみ、自分たちの文化(たとえユダヤ人であっても、亡命 者たちは自分たちの文化を「ロシア文化」と考えていた5)を継承するため に、子どもたちにもロシア語教育を施すことだったはずだ。「同化」が亡命 文化にとって危機的な意味をもつのは自明のことだろう。

0−2 「亡命」という現象

ロシアからの亡命というとき、われわれはロシアという明確な国境をも った国から、主体的に逃げ出すことを想像する。もちろん、政治的な理由な どから主体的にロシアを離れた亡命者も少なくなかった。しかし、なかには 白軍が敗れたために、黒海の港から船で逃れざるをえなかった兵士たちのよ うに、むしろ「難民」6と呼ばれたほうがふさわしい人々もいたし、さらには これまで住んでいた国がロシアでなくなったために、「亡命」を余儀なくさ れた人々もいた。

しばしば引かれるように、未来派の詩人だったセヴェリャーニンは、ロシ ア帝国の領土だったエストニアのエスト=トイラの別荘に暮らしていたとこ ろ、エストニアが独立国となったため、亡命者の列に加わることになる。晩 年になっても、彼が「ともあれ、私は亡命者(эмигрант)ではない。難 民(беженец)でもない。私は別荘の住人(дачник)にすぎない」7と述 べていたことはよく知られている。これは一つの極端なエピソードにすぎな いが、ポーランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ルーマニア(ベ ッサラビア)のように、ロシア革命後に独立した国々に住んでいたロシア人 は、似たような運命に出会うこととなる。亡命とは、かならずしも主体的な 現象とはいえない。そして、これら革命後にロシアから独立した国に住むロ シア人の多くは、国外に出るか、国内で少数民族として「同化」するかの選 択を迫られることになる。

(4)

さて、亡命の「第一波」と呼ばれる、ロシア革命とつづく内戦後の亡命者 は、中東欧諸国でどれくらいいたのだろうか。亡命者の人数に関しては、

(正確な統計の欠如、「亡命者」の定義の難しさなどから)資料によって大き な揺れがあるが、ここでは「非同化」難民(unassimilated  Russian  refugees)

と明示しているRaeffの統計を引いてみよう(比較のためにドイツ、フラン スの人数も引いた)8

表Ⅰ 非同化ロシア人難民の国別分布表9

1923年まではドイツが亡命ロシア文化の中心地であり、それ以降はフラン スが中心地になったという定説はこの表からも確認できるが、それより驚か されるのは、ポーランドに住む亡命ロシア人の数の多さだろう。1922年には フランスの2.5倍の数を誇って、ドイツにつぐ第2位の地位を占めているし、

1937年になっても、ドイツの倍近い数を有して、フランスにつぐ第2位の座 を守っている。それに対して、チェコスロヴァキアに住む亡命ロシア人の数 は、最盛期でさえポーランドの2割に満たず、ブルガリア、ユーゴスラヴィ アには一度も肩を並べていない。しかし、以後の論考で見るように、亡命ロ シア文化の繁栄という点では、チェコスロヴァキアはポーランドをはるかに

国名 1922年 1930年 1937年 ドイツ 250,000 90,000 45,000 フランス 70,000 175,000 110,000 ルーマニア 35,000 13,000 11,000 ユーゴスラヴィア 34,000 30,000 27,500 ブルガリア 31,000 22,000 15,700 エストニア 15,000 11,000 5,300 ラトヴィア 16,000 16,000 13,000 リトアニア 4,000 5,000 5,000 ポーランド 175,000 85,000 80,000 ハンガリー 3,000 5,000 4,000 チェコスロヴァキア 5,000 15,000 9,000

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凌ぐばかりか、ブルガリア、ユーゴスラヴィアにもけっして劣っていない。

つまり、亡命文化を支えるものは、かならずしも亡命者の数ではない。繰り 返すが、「同化」と「共生」こそ、亡命文化の質を左右するはるかに重要な 要素である。

1−1 チェコスロヴァキアと「ロシア行為」

表Ⅰからも明らかなように、1922年当時、チェコスロヴァキアに住む亡命 ロシア人は1万人にも達しなかった10。ところが、1930年にはその数は3倍 に増えているが(ドイツやポーランドに住む亡命者の数が激減しているのと 好対照をなす)、その理由は大統領マサリクの提唱で実現した「ロシア行為」

Ruská akce11(「ロシア援助行為」12とも呼ばれる)に求められる。

ボリシェヴィキ政権に否定的だったマサリクは、この政権は遠からずして 崩壊するだろうと考え、ボリシェヴィキ政権崩壊後にロシアで活躍すべき有為 の若者を育て、苦境にあった文化人を助けるために、チェコスロヴァキア在住 の亡命ロシア人の学者・学生に年金・奨学金を与えることを提唱した13。そし て、1922年5月「ロシア行為」と呼ばれる法案が採択され、以来数多くの亡 命ロシア人をチェコスロヴァキアに引き寄せ始める。1922年11月、160人と もいわれる文化人がソヴィエトから追放されてベルリンに到着するが14、そ のうちの何人か(主な人物としては、思想家のロスキイ、歴史家のキゼヴェ ッテル、経済学者のプロコポーヴィチらがいる15)は「ロシア行為」に惹か れて、すぐにチェコスロヴァキアに移住した。こうしてプラハは、しだいに パリ、ベルリンにつぐ亡命ロシアの学術の中心地としての地位を固めていく。

だが、プラハは学術の中心であると同時に、「ロシアのオクスフォード」16と 呼ばれる教育の中心地でもあった17。例証として、ここで時代はやや下るが 1932年のヨーロッパ諸国における亡命ロシア人学生数を示す統計を引いてみ よう。

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表Ⅱ 1932年の主なヨーロッパ諸国におけるロシア人学生数および援助額18

後の統計ではあるが、チェコスロヴァキアにおけるロシア人学生数は、当 時亡命文化の中心地だったフランスを上回り、ヨーロッパで抜きん出た地位 にある。しかも、受入国による援助額も他を圧している19。チェコスロヴァ キア政府が、亡命ロシア人学生の教育(いうまでもなく、それは自国への

「同化」をしいるためではなく、亡命ロシア人との「共生」を保証するため のものだった)に力を注いでいたことは、この表からもはっきり見てとれる だろう。

また、別の資料によれば、1921年から1931年の間に、約7,000人のロシア 人学生に援助が与えられ、1926年には130人の学者に月給が支払われていた という20。そして、チェコスロヴァキアには、ロシア人、ウクライナ人のた めにロシア法科大学、ロシア教育大学、ロシア農業協同大学、ウクライナ自 由大学、ウクライナ教育大学などいくつもの高等教育機関、自動車・トラク ター学校、鉄道学校などの専門学校も設立された21。中東欧諸国でチェコス ロヴァキアほど亡命ロシア文化の発展に援助を惜しまなかった国はない22

なお、先に述べたように、そもそも「ロシア行為」は、ボリシェヴィキ政 権が早晩崩壊するだろうとの見通しの下に制定された援助制度だったから、

当初は5年間(1921年から25年まで)の予定だったが、ボリシェヴィキ政権 が予想を超えて存続したために、援助は結局1945年まで四半世紀にもおよん だ23。そして、援助を受けた学生たちは、祖国ロシアに帰国することもなく、

卒業後はフランスなど国外に去ることが多かったので、援助の妥当性は疑問

国名 学生数 援助額(フラン)

フランス 2,006 21,500,000

ドイツ 200 1,500,000

チェコスロヴァキア 3,000 120,000,000 ユーゴスラヴィア 740 23,000,000 ブルガリア 350 2,000,000

ポーランド 100 150,000

(7)

視され、1920年代末からは援助額は削減されて、そのことがまた亡命者たち の出国を促したという24。表Ⅰで1930年以降、亡命者の数が減っているのは そんな事情を反映している。とくに1934年チェコスロヴァキアがソヴィエト 連邦を承認して以降、この国は亡命者にとってかつてほど暮らしやすい国で はなくなってしまう。亡命ロシアを代表する雑誌の一つだった『ロシアの意 志』Воля Россииが廃刊となる1932年は、チェコスロヴァキアにおける亡 命ロシア文化の栄光の終わりを象徴しているといえるだろう。

1−2 ブルガリアとユーゴスラヴィア

25

チェコスロヴァキアへの亡命者が、いわば「乞われて」この国にやってき たのに対し、ブルガリア、ユーゴスラヴィアへの亡命者は最初なかば強引に この国を訪れる。

1919年4月、黒海からの最初の大量脱出が始まった。フランス軍の指揮の 下15,000人とも20,000人ともいわれる難民がオデッサから出国したのだ26。 ついで1920年1月、デニーキン軍の敗北の後に、さらに大量の難民がロシア を離れる。かれらはルーマニア27、ブルガリア、ユーゴスラヴィアにも向か ったが28、もっとも多くの人びとが留まったのは、当時連合国が支配していた コンスタンチノープル(25,000人がこの地に逗留した)とその周辺だった29。 そして、同年11月ウランゲリ軍が敗れて、白軍は壊滅するが、そのときは約 15万人もの難民30が、126隻の船でクリミアを離れてコンスタンチノープル に向かったという31。こうして、コンスタンチノープルとその周辺に集結し た大量の難民を、どの国に引き受けてもらうかというやっかいな問題が生ま れた32

1920年にベオグラードの人口が11万人、1921年にソフィアの人口が15万人 を数えるだけだったバルカンの国々にとって33、受け入れを要請された亡命 ロシア人の数はあまりにも膨大だったが、結局譲歩に譲歩を重ねて、1921年 末にはブルガリアに約35,000人、ユーゴスラヴィアに約42,500人の亡命ロシ ア人が移住することになる34。おそらく、その背後にはこれらの諸国と帝政 ロシアとの伝統的な友好関係があったのだろう35。だが、当初亡命者たちと の関係は、奇妙な「共生」関係だった。なぜなら、いつかまた反ソヴィエト

(8)

軍事行動を起こしたいと願うウランゲリ軍は、ロシア軍のそのままの維持を 望んで、武装解除に反対していたのだから36。その後、国内政治の変化にと もなって、亡命者と受入国の関係は多少変化するが、基本的にはこれらの 国々は亡命者との「共生」に好意的だった37

教育を例にとってみよう。先に述べたように、ロシア語で学べる高等教育 機関の充実という点では、チェコスロヴァキアが他国を圧していたが(これ に対して、たとえばユーゴスラヴィアでは、ロシア人学生はベオグラード、

ザグレブなど現地の大学に進学するのがふつうだった38)、初等・中等教育 に関するかぎり、この両国はチェコスロヴァキアに少しも劣っていない。た とえば、ステパノフによれば、「ロシア人の児童・生徒に対する援助の点で は」、ユーゴスラヴィアは「学生に対するチェコスロヴァキアの援助とほぼ 同じ役割を果たして」39おり、ヨーロッパ諸国のロシア語学校で学ぶ児童・

生徒の半数以上がユーゴスラヴィアにいたという40。そして、1920年代はじ め、ユーゴスラヴィアには5,000人から6,000人の児童・生徒(その30%近く は孤児だった)がおり、ブルガリアにも約2,400人の児童・生徒がいた41。ま た、ブルガリアには、ソフィア、ヴァルナなどにロシア語のギムナジウムも設 立され、なかでもコンスタンチノープルのギムナジウムが移転してできた42シュ ーメンのギムナジウムは、作家のガイト・ガズダーノフが学んだことでも知 られているが、300人の生徒を抱え、国内最大のロシア語ギムナジウムだっ た43

さて、ユーゴスラヴィアについて論じるとき、スレムスキ・カルロヴツィ のセルビア正教会についても触れないわけにはいかない。革命後聖職者の亡 命はあまり多くなかったとされるが、亡命した聖職者の多くはこの地の正教 会を頼ることになる44。そして、1922年より大主教アントニイが、この地で 亡命ロシア正教会を統括することとなるが、やがてベルリンからパリに移っ て西ヨーロッパを管轄した大主教エヴロギイの権威に押され、その力はバル カン半島内にとどまってしまう45。その後、ユーゴスラヴィアといえば保守 派の牙城のようにいわれて、多くの亡命ロシア人がプーシキンの誕生日を

「ロシア文化の日」として祝うようになっても、この地では(聖ウラジーミ ルがキリスト教を受け入れた)7月28日を「ロシア人の民族意識の日」とし

(9)

て祝いつづけた46

以上のように、ユーゴスラヴィア、ブルガリアでは、全般的に亡命者への 態度は好意的で、教育制度や亡命者への支援体制も充実し、亡命文化が花咲 く土壌は整っていたが、結局期待されたほどの文化的成果は残せなかった。

そして、その理由の一つもやはり「同化」に求められる。Raeffによれば、

亡命ロシア人男性が受入国の女性と結婚する例は少なかったが、例外が言 語・宗教の近いユーゴスラヴィアとブルガリアだったという47。つまり、こ の両国では結婚によっていわば自然に「同化」が進んだと考えられる。表Ⅰ に見られた30年代の人口減少は、国外流出だけでなくこうした「同化」の結 果でもあった。

1−3 ポーランド

これまで論じてきた三つのスラヴ諸国に比較すると、亡命ロシア人にとっ てポーランドの位置ははなはだしく異なっている。すでに表Ⅰで見たように、

ソヴィエトと国境を接するポーランドには1922年の時点でドイツにつぐ数の 亡命ロシア人が居住していたが、その内実は多様だ。時代を追って眺めると、

まず1918年のポーランドの独立以前からこの地に暮らし、独立後もこの地を 離れることのできなかった(離れようとしなかった)少数民族としてのロシ ア人たちがいる。ついで、内戦中の1920年2月末、赤軍に追われて逃げてき たブレドフ率いる白軍の兵士たちとその家族たち(まだ戦いをつづけたいと 望む兵士たちはクリミアに戻ったが、望まない兵士たちは抑留者収容所に入 れられた)、さらには1920年のソヴィエト・ポーランド戦争による赤軍の捕 虜たちがいた(その多くは和平協定後帰国するが、帰国を望まなかった人も いた)48。最後に、1921年東部国境が閉鎖された後も、ソヴィエト国内の飢 饉などのために大量に押し寄せた難民たちがいる49

このように多様で数多い亡命者・難民50をかかえ、さらに1921年9月末の 時点で2,700万人の人口のうち525万人がロシア語を話すといわれるほど51、 ロシアとの関係が深かったポーランドだが、南スラヴの国々とは異なり、こ の国には伝統的に根強い反ロシア感情があり52、そのことが亡命者・難民へ の待遇とも密接につながっていた53

(10)

たとえば、ロシア人難民の権利を比較したボチャロフは、比較的待遇のよ かった国として、フランス、スイス、チェコスロヴァキア、ドイツ、ユーゴ スラヴィアを挙げているのに対し、「ほとんど無権利状態」に置かれた国と して、ルーマニア、中国、ポーランドを挙げている54。彼によれば、ポーラ ンドには難民の権利を守る亡命組織はほとんどなく、仕事を見つける可能性 もかぎられていて55、難民たちの権利は地方行政機関の恣意に委ねられてい たという56。また、Raeffによれば、難民たちはすでにこの国に住んでいた少 数民族としてのロシア人と混じり合うことによって身を守っていたが57、職 を見つけることのできた学者や専門家は「同化」を強いられたという58。ポ ーランドにおいて、亡命ロシア人のおかれた立場はきわめて厳しいものだっ た。

同じことは教育に関してもいえる。イッポリートフによれば、ポーランド 政府は「ポーランドにロシア人はいない」という前提の下にポーランド化政 策を推し進めたので、民族教育には否定的だった。それゆえ、1922年の時点 で、ポーランドにはおよそ35の中等ロシア語学校と17の初等ロシア語学校が あったにもかかわらず、1924年にはそれぞれ15と6にまで減少したという59。 もちろん、それぞれの国が自国内での民族教育をどう捉えるかは、歴史的な 事情もあって一概には論じられないし、とりわけ過去の歴史を顧みるとき、

亡命ロシア人に対するポーランド政府の対処を責めることはできない。だが、

亡命ロシア文化の開花という点からは、ポーランド政府のとった「同化」政 策が大きな障害になったことは否定できないだろう。

1−4 バルト諸国

エストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト諸国も、ポーランドと同じ く革命後の1918年、あいついでロシアからの独立を果たした国々だった。そ して、ここには従来から少数民族としてのロシア人が存在しており、亡命ロ シア人たちは多くの場合、かれら同様受入国に「同化」していく。個々の国 を順に眺めてみよう。

1919年11月、内戦で敗れたユデーニチの軍勢はエストニアに敗走し、そこ で多数抑留されるが、兵士たちの多くはやがてこの国を離れる60。このよう

(11)

にソヴィエトと国境を接したエストニアには、しばしば亡命者・難民が流入 したが61、出ていく人数も多く、全体としてその数はけっして多くない。

Gladによれば、1923年の時点でエストニアでは、ロシア人が全人口の8,2%

(91,109人)を占めていたが、うち亡命者は16,422人だけだったという62。こ の数字にも見られるように、以前から居住する少数民族としてのロシア人63 に比べて、亡命者の数が圧倒的に少ないことはバルト諸国に共通する特徴と いえるだろう。

エストニアは、バルト諸国のなかでは比較的亡命ロシア人に好意的な国だ った64。そして、この国では少数民族に対して母国語による教育が認められ ていたので、1923年にはロシア語による12の中等教育機関と93の初等教育機 関があったという。ただ、チェコスロヴァキアなどとは異なり、中等教育は有 償だったので、生徒の多くは学校に通いながら働かなければならなかった65。と はいえ、全体としてエストニアでは、以下の二国ほど亡命ロシア人が「同化」

を強制されることはなかったといえるだろう。

ラトヴィアは、エストニアに比べればはるかに多くのロシア人人口を有し、

1930年時点でその数は全人口の12%(233,366人)を占めていたが、その大 多数は文盲の農民だった66。ロシア人のほかにもドイツ人、ユダヤ人、ポー ランド人、リトアニア人、エストニア人など多くの少数民族を抱えていたラ トヴィアでは、教育の場で少数民族にその言語の使用を認めていた67し、初 等教育は義務教育で無償だったので、1924年までロシア語学校は増加の傾向 にあったが、やがて亡命ロシア人に対する当初の好意的な態度が学校の「ロ シア化」への恐れに変わると、ロシア語学校の権利は制限されはじめる。そ して、中等教育機関ではロシア人だけでなく、他民族の生徒も教えるように なったという68

さらに、しだいにナショナリスティックな傾向を強めたラトヴィア政府は、

1932年ラトヴィア語を唯一の国語と定め、ロシア語教育をますます制限する ようになる69。したがって、1930年代のラトヴィアはポーランド同様、亡命 者に「同化」を強いた国といえるだろう70

最後にリトアニアだが、ここは従来からバルト諸国のなかでもっともロシ ア人人口が少なく、第一次大戦終了時には人口の2.7%、約55,000人を数える

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だけであり71、亡命ロシア文化としても、とくに見るべきものはない72。リ トアニアでは少数民族にも配慮した教育が行われていたが、実際にはロシア 語学校の数は少なく、1922年の段階で、全部で1,700ある学校のうちロシア 語学校はたった6つしかなかったという73。そして、スメトナ政権の下に、

この国でも1920年代末からナショナリスティックな傾向が強まって、就労も 制限されるようになると74、多くの亡命者たちはこの国を棄てて、他の国に 移っていく75。例外的に、専門知識をもった学者はカウナス大学などに職を 得ることができたが、リトアニア語を覚え、リトアニア語で講義をするとい う条件がつけられた76。ここでも、亡命者たちには「同化」という枷がつけ られていたといえるだろう。

2 結び

以上、中東欧諸国における亡命ロシア文化を「同化」と「共生」をキーワ ードに概観してきたが、最後にルーマニアにも一言しておこう。すでにボチ ャロフの言を引いて紹介したように、この国も亡命者が「ほとんど無権利状 態」に置かれた国の一つだった。1918年ベッサラビアがルーマニアに併合さ れたため、多数のロシア人77が「亡命」を余儀なくされたが、その多くは農 民であり、亡命ロシア文化に関与していたとはいえない。さらに、1919年以 降、ルーマニア政府はロシア人難民の入国そのものを禁じてしまった78。結 局、Raeffのことばを借りれば、ルーマニアでは、ポーランド同様「政治」

によって少数民族の権利が制限され、亡命文化が開花できなかったといえる だろう79

さて、中東欧諸国における亡命ロシア文化を論じるとき、このように受入 国の「政治」に触れないわけにはいかない。しかし、本論は国際政治に関す る論考ではないので、「政治」については最小限の論述にとどめたいが、ま ず注目しなければならないのは、1920年代後半からのナショナリズムと独裁 主義の高揚だろう。Raeffは述べる。「ブルガリアで起きたのと同様に8 0、 1920年代後半にポーランド、リトアニア、ラトヴィアで顕著になったブルジ ョア・ナショナリズムと政治的独裁主義の台頭は、亡命者の状況をいっそう 困難にした。多くの人びとは、プラハ、ベルリン、パリといった亡命ロシア

(13)

のダイナミックな中心地をめざして去っていった」81と。しかし、これら革 命後独立した諸国において、かつての隷属への反発からナショナリズムが高 揚することは、ある意味で当然かもしれない。革命後まもなく、ポーランド において亡命者たちが、反ソヴィエト政権の樹立を掲げてポーランド政府に 連帯を求めたが、ポーランド政府は亡命者への不信を隠さなかった。なぜな ら、ポーランドから見れば、亡命者とは帝政ロシアの復古をめざすもの、す なわちかつての大ロシア(ポーランドは独立国ではなく、その一部にすぎな かった)を夢見るものであり、独立国ポーランドにとってかならずしも好ま しい存在ではなかったからだ82。「共生」とは、亡命者にとって簡単に手に 入る条件ではなかった。

これに対して、すでに述べたように、ユーゴスラヴィア、ブルガリアなど 伝統的な帝政ロシアとの友好関係から亡命者に寛容だった国々もある。さら に、これらの国々では優秀な人材として亡命者を歓迎した側面もあった。た とえば、教育水準がまだ低かったユーゴスラヴィアでは、高度な知識をもつ 技師、軍人、科学者、教育者などが求められたという83。専門的な知識をも つ亡命者にとって、「亡命」はかならずしも悲惨なものとはかぎらなかった。

だが、こうした諸国においてさえ、亡命者が招かれざる客だったことは忘 れてはならない84。これらの諸国は貧しく(とくにブルガリアは戦後補償に 苦しんでいた85)、大量の亡命者を受け入れる経済的余裕はなかったからだ。

この点、中東欧諸国は、安価な外国人労働力を積極的に導入しようとしたフ ランス86などとは事情が異なっている。中東欧諸国におけるロシア人亡命者 を考えるとき、「政治」だけでなく、「経済」も無視することはできない。

最後に「同化」についてまとめておこう。これまで「同化」を亡命文化と の関連で眺めてきたが、亡命者の生活という視点で考えるとき、「同化」は 一概に不利な条件とはいえない。「同化」は亡命文化の開花を妨げるという 面ではたしかにマイナスであっても、亡命者の生活を向上させるという面で は、プラスの要素も無視できないからだ。イッポリートフはいう。「同化は しばしば物質的な幸福をつかむ手段に一つとなり、亡命者の社会的地位を高 める手段の一つとなった」87と。ロシアに帰る希望がとだえ、受入国で生活 しようと決意した亡命者にとって、その国の人と結婚し、その国の宗教に改

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宗すること、たとえ同国人と結婚したとしても、少なくとも子どもには受入 国の言語を学ばせ、受入国の宗教になじませること88、それは自然な選択だ ったはずだ。「同化」と「共生」は、亡命ロシア文化をめぐる議論のキーワ ードであるばかりでなく、亡命者自身の眼前に据えられたアクチュアルな課 題だったともいえるだろう。

本研究は科学研究費補助金基盤研究B(課題番号15310171、平成15年度−

平成18年度)「スラヴ世界における文化の越境と交錯」(研究代表者 諫早勇 一)の助成を得た。

1 本稿ではバルト諸国、ルーマニアなどにも言及するため、あえて「スラヴ」と いう語は用いなかった。なお、ここではオーストリア、ハンガリーなどは(亡命 ロシア文化という意味では重要ではないので)あつかわれていないから、この語 はかなり恣意的に用いられている。

Cf. Raeff, M. Russia Abroad: A Cultural History of the Russian Emigration 1919-1939.

Oxford: Oxford UP, 1990, p. 6.

3 Raeffは「カンディンスキー、シャガール、ストラヴィンスキーのような秀でた 作曲家や芸術家たちは、たちまちドイツ、フランス、そして世界的な舞台の一部 となった」、かれらの作品は「厳密に言えば、亡命ロシアには属さなかった」と 述べている。Ibid., p. 103.

4 ここでは「亡命ロシア」という語を用いているが、実際には亡命「ロシア人」

は多民族的であり、そこには少なからぬユダヤ人、ウクライナ人、アルメニア人、

グ ル ジ ア 人 、 ロ シ ア 系 ド イ ツ 人 、 カ ル ム イ ク 人 な ど も 含 ま れ て い た 。См.

Будницкий, О.В. Материалы по истории российскогоеврейства в эмигрантских архивах. История и культура российского и восточноевропейскогоеврейства: новыеисточники, новыеподходы. М.:

Домеврейскойкниги, 2004, С. 206.

5 См. Демидова, О.Р.Евреи в культурерусскойэмиграции: проблема идентичности. Тамже, С. 199.

6 「難民」と「亡命者」の相違(1920年代初めには、「難民」と「亡命者」は意識 して区別されていたが、内戦が終わり、1921年からは「難民」という語は用いら

(15)

れなくなって、ソヴィエト・ロシアの国外にとどまったすべてのロシア人が「亡命 者」と呼ばれるようになった)については、拙稿「文集『道標転換』と雑誌『道標 転換』― 帰国運動とのかかわりから」、『言語文化』第7巻第2号、2004年、

278ページ参照。なお、国際法上はそれ以降も「難民」の語が一般的に用いられ、

1922年のジュネーブ会議では、難民とは「ロシア生まれで、他の国籍を持たない」

人と定義され、1926年のジュネーブ国際協定では、「ソヴィエト連邦の庇護を受 けず、他の国籍も取得していないロシア生まれのあらゆる人物」と定義されたとい う。См. Бочаров, З.С.  ( сост.  )Русскиебеженцы: Проблемы расселения, возвращенияна Родину, урегулированияправовогоположения (  1920- 1930-егоды ). М.: Росспэн, 2004, С. 5.

7  1939年秋の発言。なお、セヴェリャーニンは1941年にエストニアで没している。

См. Соколов, А.Г.Судьбырусскойлитературнойэмиграции 1920-хгодов.

М.: ИздательствоМосковскогоуниверситета, 1991, С. 79.

8 これに対して、亡命歴史家のピョートル・コヴァレフスキイは、ポーランドや バルト諸国、ベッサラビアなどに住んでいたロシア人をすべて亡命者に数えてい るため、ロシア人亡命者の数を1千万と見積もっている。Cf. Glad, J. Russia Abroad: Writers, History, Politics. Tenafly, Washington, D.C.: Hermitage & Birchbark, 1999, pp. 105-106.

9 Raeff, p. 203.

10  そこには第一次大戦における戦争捕虜も少なくなかった。См. Суомела, Ю.

Зарубежная Россия: Идейно-политическиевзгляды русскойэмиграции настраницахрусскойевропейской прессы в 1918-1940 гг. ( Переводс финскогоЛ.В. Суни. ) СПб.: Коло, 2004, С. 55.

11 Cf.  Glad,  p.  174.  なお、これについては拙稿「ナボコフとプラハ」、『言語文化』

第4巻第4号、2002年3月、683ページでも触れている。

12  これについては阿部賢一「「亡命」という選択肢―ニコライ・テルレツキーの

『履歴書』をめぐって―」、『スラヴ研究』No.52、102ページにも詳しく触れられ ている。なお、阿部氏は「ロシア援助計画」と訳している。

13  著名人の未亡人にも受給資格があったので、作家ナボコフの母(政治家・ジャ ーナリストのナボコフの妻)もこの年金を頼って1923年10月チェコスロヴァキア に移住している。Cf. Boyd, B. Vladimir Nabokov: The Russian Years. Princeton:

Princeton UP, 1990, p. 220.

14 См.Публицистикарусскогозарубежья ( 1920-1945 ). Сборникстатей. М.:

Союзполиграфпром, 1999, С. 27.

15 См. Лосский, Б.К«изгнаниюлюдеймыслив 1922 году». Пархомовский, М. (сост. )ЕвреивкультурерусскогоЗарубежья. Вып. 1. 1919-1939гг. Ие- русалим, 1992, С. 286-287.

(16)

16  Glad, p. 174.

17  Cf. Raeff, p. 64.

18 Шулепова, Э.А.Проблемы адаптациироссийскойэмиграции ( Первая волна ). Культурноенаследиероссийскойэмиграции 1917-1940. Кн. 1. М.:

Наследие, 1994, С. 174.

19  ただ、シュレーポワの表によれば、ベルギーはチェコスロヴァキアを50倍近く 上回る援助を、250人の学生のために注いでいたという。См. Там же. なお、イ ッポリートフによれば、ベルギーには3つのロシア語寄宿学校があり、それらの学校 の費用は国費でまかなわれていたという。См. Ипполитов, С.С.Российская эмиграцияиЕвропа: несостоявшийсяальянс. М.: ИздательствоИпполитова, 2004, С. 306.

20 См. Махаткова, Р.Помощьроссийскойэмиграциив Чехословакии и русские материалы в коллекциях Центральногогосударственного архива Праги. Зарубежная Россия 1917-1939 гг. Сборникстатей. СПб.:

ЕвропейскийДом, 2000, С. 421.

21 См. Там же, С.  421-422.ほかの国には、ロシア語学校はあっても、ロシア語で 学べる高等教育機関はほとんどなかったので、たとえば、フィンランドのロシア語学 校の卒業生もチェコスロヴァキアの大学に進学したという。См. Степанов, Н.Ю.

«Земгор»и«Согор»вделеорганизациирусскихшкол,помощидетями молодежи вэмиграции в начале 1920-хгодов. Русскаяэмиграцияв Европев 1920-1930-егг. Вып. 2, СПб.: Алетейя, 2005, С. 113.

22 なお、チェコスロヴァキアにはウクライナからの難民も多かったので、この国 ではしばしばロシアとウクライナは区別されて論じられていた。したがって、い わゆる「ロシア行為」も正式には「ロシアおよびウクライナの亡命者に関する行 為」だった。См. Тамже, С. 420.

23 Копршивова, А.Ликвидацияроссийскойэмиграции после 1945 г.

ЗарубежнаяРоссия, С. 430.

24  Cf. Raeff, p. 39.

25  当初はセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国と称し、1929年にユー ゴスラヴィアと改名されたが、慣例に従ってこの国をユーゴスラヴィアと呼ぶ。

26 См. Йованович, М.Обзорпереселениярусскихбеженцев на Балканы.

Миронова, Е.М. ( ред. )Русскийисход. СПб.: Алетейя, 2004, С. 167.

27  陸路ルーマニアに向かった難民は、凍ったドニエプル川上で銃撃に会い、

13,000人の難民のうち無事ルーマニアに到着したのは、わずか1,800人だったとい う。См. Тамже, С. 169-170.

28 ブルガリアには6,000人から8,000人、ユーゴスラヴィアには7,000人から8,000 人 の ロ シ ア 人 難 民 が 訪 れ た と い う 。См. Миронова, Е.М . Проект

(17)

«Русскийисход»ИВИРАН. ПроблемыисторииРусскогозарубежья. Вып.

1, М.: Наука, 2005, С. 431.

29 См. Йованович, С. 170.

30  うち10万が軍人で、5万が民間人だったが、そこには3万人の女性と7千人の 子供も含まれていたという。Cf. Glad, p. 151.

31 См. Йованович, С. 171.

32  コンスタンチノープルとその周辺に住む難民たちの生活環境は劣悪で、長期の 滞在にはとうてい耐えられなかった。См. Миронова,Проект, С. 432.

33 См. Йованович, С. 174.

34 См. Тамже, С. 189.

35 См. Миронова.Предисловие. Русскийисход, С. 7.また、ユーゴスラヴィア のアレクサンダル国王は、ロシア王室とも血縁を持ち、ロシア人に好意的だった といわれる。См. Тесемников, В.А.Белградкакодинизнаучныхцентров российскогозарубежья. КультурноеНаследие,кн. 1, С. 326.

36 См.Русскийисход, С. 8.

37  ユーゴスラヴィアに関していえば、入国に際してビザ・パスポートの問題に悩 まされることがなく、年金の支給にもロシアでの勤務が換算されたという。См.

Тесемников, С.  328-329.また、ブルガリアにはスラヴ協会をはじめ、亡命者の支援 組織がたくさんあったという。Каназирска, М. «Русскаямысль»в Болгарии (1921г.). Культурноенаследие, Кн. 2, С. 58.

38 См. Ипполитов, С. 307.

39 Степанов, Н.Ю.Средниеучебныезаведениярусскойэмиграциивначале 1920-хгодов:эвакуацияиразмещение. Русскийисход, С. 285.

40 См. Тамже.

41 См. Там же, С. 282.なお、同じステパノフの別の論文によれば、1921年初めに ユーゴスラヴィアに滞在していた6歳から18歳までの子どもの数は4,713人だった という。См. Степанов, Н.Ю.Православныеосновыобразованиярусских детейвэмиграциив Югославии. ПроблемыисторииРусскогозарубежья.

Вып. 1,С. 45.

42  コンスタンチノープルのギムナジウムが移転してできたギムナジウムとしては、

チェコスロヴァキアのモラフスカー・トシェボヴァーのギムナジウムも有名だ。

これについては、阿部氏の前掲論文でも触れられている。阿部賢一前掲論文、

102ページ参照。また、ロシア語の文献としては、Копрживова-Буколова, А.

Русскаяреальнаягимназияв МоравскойТржебове. Культурноенаследие, Кн. 1, С. 377-382がある。

43 См. Орлова, О.Газданов. М.: Молодаягвардия, 2003, С. 66-67.

44  См. Энеева, Н.Т.Судьбы Русской Православной Церкви в годы

(18)

Гражданскойвойны ( 1918-1920-егг. ) иистокиюрисдикционногораскола.

Русскихисход, С. 312.

45  Cf. Raeff, p. 124.

46  Cf. Ibid., p. 94.

47  Ibid., p. 25.

48 См. Симонова, Т.М.Российская диаспорав Польшев 1920-1924 гг.

Национальны диаспоры в России изарубежомв XIX-XX вв. Сборник статей. М.: ИРИРАН, 2001, С. 170-173.

49 См. Тамже, С. 173-174. なお、1920年10月12日の和平協定締結以前の居住者と、

それ以降の居住者では権利に相違があったという。См. Ипполитов, С. 43-44.

50 雑誌『ロシアの本』第5号(1921年5月:ベルリン)に掲載された「ワルシャ ワからの手紙」では、「ポーランドには真の意味の亡命者はいない」。いるのは「ソヴ ィエトから放り出された難民だけだ」と述べられている。Письмо из Варшавы.

Русскаякнига, No−5, 1921.5, С. 17.

51  Cf. Glad, p. 185.

52 Cf. Raeff, p. 22.

53  ただ、ポーランドの場合、基本的な立場は反ソヴィエト、反ロシアだったから、ロシ ア人以外の亡命者、たとえばウクライナ人、グルジア人、タタール人などの亡命者に対 しては逆に好意的だった。См. Симонова, Т.М.Концепция«прометеизма»и политикаПольшивотношенииэмиграцииизРоссии (1920-1930). Проблемы историиРусскогозарубежья. Вып. 1,С. 266-290.

54 См. Бочаров, С. 37.

55 См. Тамже, С. 43.

56 См. Там же, С.  37. ミローノワによれば、難民を援助する組織はあることはあ ったが、その責務を果たしていなかったという。См. Миронова,Проект, С.

429-430.

57 Cf.  Raeff,  p.  17.  なお、亡命者としての制約を避けるために、ポーランド人とし て身分登録する例もあったという。См. Исмагулова, Т.Д.Русскаяэмиграция в Польше (ВладимирБранд ― поэтивоин«русской Варшавы»). Зару- бежнаяРоссия, С. 346.

58  Cf. Raeff., p. 41.

59 См. Ипполитов, С.  304-305.なお、初等教育に関しては、その後も2か国語教 育が許されたという。См. Тамже, С. 305.

60 Cf. Glad, p. 199.

61  ククシキナによれば、エストニアとソヴィエトとの国境は事実上開いていたと いう。См. Кукушкина, И.А.Путьсоциалистов-революционероввэмигра- цию (1918-1922). Русскийисход, С. 80.

(19)

62 Cf. Glad, p. 199.

63  エストニアに住むロシア人には、比較的旧教徒が多かったとされている。Cf.

Glad, p. 199. Pachmuss, T. Russian Literature in the Baltic between the World Wars.

Columbus: Slavica Publishers, 1988, p. 17.

64  とはいっても、難民の援助団体は十分責務を果たしていなかったし、難民たち の権利はかなり制限されていたから、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアな どに比べれば、難民は恵まれた環境にはなかった。См. Миронова,Проект, С.

429-430.

65 См. Ипполитов, С. 305. なお、ステパノフによれば、エストニアではロシア語 学校で学ぶ生徒の6%しか寄宿舎に無償で入ることができなかったのに対し、ユ ーゴスラヴィアでは約73%、チェコスロヴァキアでは90%近い生徒が無償で寄宿 舎に入ることができたという。См. Степанов,Русскийисход,С. 288.

66 Cf. Glad, p. 195. なお、1914年時点で、すでに231,000人のロシア人がラトヴィア に住んでいたというから、亡命者の数はここでもけっして多くはなかった。また、

このほかに全人口の4.8%(93,479人)がユダヤ人で、その多くは第一言語として ロシア語を話したという。Cf. Ibid.

67 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫編『新版世界各国史20 ポーランド・ウクライ ナ・バルト史』、山川出版社、1998年、291ページ参照。

68 См. Ипполитов, С. 306.

69  Cf. Glad, p. 197.

70 ただ、バルト諸国におけるロシア亡命文学について論じたPachmussは、「少数民 族としてのロシア人は自由と文化的な自立を享受していたので、ラトヴィアにお けるロシア人の文化生活は活気に満ちた実り多いものだった」と述べている。

Pachmuss, p. 36.

71 Cf. Glad, p. 207. なお、その後10,000人の亡命者が流入したという。

72  Cf.  Ibid.  ラトヴィアでは亡命ロシア文化が開花していたと主張するPachmussも、

リトアニアに関しては「エストニア、ラトヴィア、フィンランドに比べると、リ トアニアにおけるロシア人の文化生活は、はるかに活動的でなかった」と述べ、

その理由の一つをリトアニア人の多くがカトリック教徒で、ロシア正教の信者と 交流がなかったことに求めている。Cf. Pachmuss, p. 46.

73 См. Ипполитов, С. 306. そして、中等教育機関はカウナス(コヴノ)のギムナ ジウムだけだった。См. Тамже.

74  Cf. Raeff, p. 40.

75 Cf. Ibid., p. 22.

76  Cf. Ibid., p. 40. なお、カウナス大学に招かれた学者にはヤーシチェンコ、カルサ ーヴィンらがいた。Cf. Ibid.

77 1920年の時点で、およそ75万人がロシア人およびウクライナ人だったという。

(20)

Cf. Glad, p. 209.

78 См. Йованович, С. 167.

79  Cf. Raeff, pp. 40-41.

80  ブルガリアでも1920年代後半から30年代はじめにかけてナショナリズムが台頭 し、多くの亡命者がこの国を離れたという。Cf. Ibid., p. 20.

81 Ibid.,  p.  22.  ポーランドのピウスツキ、ラトヴィアのウルマニス、リトアニアの スメトナらの政権を念頭に置いているのだろう。

82  Cf. Glad, p. 187.

83 См. Тесемников, С. 327-328.

84 См. Миронова, Е.М.Дипломатическаяподдержкаформированияколонии русскихбеженцевв Королевствесербов, хорватов исловенцев (1917- 1922). Русскийисход, С. 201.

85 См. Каназирска, С. 58.

86 См. Суомела, С. 243.

87 Ипполитов, С.  273.イッポリートフは、事業を始めたり、農地を手に入れたり すると、現地の人との付き合いも広がり、それが「同化」の第一歩になったとも 述べている。См. Тамже, С. 131-132.

88 См. Тамже, С. 273.

Assimilation and Coexistence – Introduction to Russian Emigré Culture in Central and Eastern European Countries.

Yuichi I

SAHAYA

Key words: Russian emigration, assimilation, coexistence

Бе

参照

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