「平和の使徒」としての加藤友三郎 : その歴史的 評価
著者 麻田 貞雄
雑誌名 同志社法學
巻 63
号 3
ページ 1737‑1755
発行年 2011‑09‑30
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013829
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二七九( )
「 平 和 の 使 徒 」 と し て の 加 藤 友 三 郎
―
そ の 歴 史 的 評 価
麻 田 貞 雄
はじめに
加藤友三郎生誕一五〇年祭で、元帥の偉業についてお話する機会が与えられたことを光栄に思います。 加藤をめぐる評価の変遷は、帝国海軍の興亡の歴史と固く結びついています。 加藤は日本海軍の歴史を通じてもっとも偉大なリーダーでした。いうまでもなく、彼が一躍国を挙げての英雄になったのは、一九〇五年の日本海海戦において、東郷平八郎司令長官の名参謀長としてであります。しかし、加藤の偉大さは、海軍のリーダーたるにとどまらず、一九二一
。すまめ占 アテス・ルラミドし﹁てツそ。たしまー﹂マにを位地るあ誉名的ン際国、てしとありにでとこたし揮発を前腕たし出傑 -二年のワシントン日軍縮会議で二本の首席全権とて政治・外交面し
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﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎( )同志社法学 六三巻三号二八〇
呉にある﹁大和ミュージアム﹂の館長(戸高一成氏)が、加藤友三郎は﹁日本を二度救った﹂と、うまい表現を使っています。日本海海戦の勝利で日本を救った、そしてワシントン会議で思い切った軍縮にふみきって、日本を財政破綻から救ったというのです。 二年ちょっと前に、加藤の二度目の銅像が広島に建てられたとき、彼は﹁平和、国際協力、軍縮﹂を象徴する人物とされました。しかし、歴史家の目からみると、日本海海戦の英雄を今日﹁平和主義者﹂に祭り上げてしまうのは、今一つシックリと来ないのですね。 今日のお話の中心テーマは、加藤は徹底した﹁現実主義者﹂であったからこそ、﹁平和の使者﹂たりえた、という逆説です。すなわち、彼はリアリストであったがゆえに、ワシントン会議では国力の限界に即して軍縮を受け入れ、﹁平和の使徒﹂として崇められるようになった、というのであります。
﹁八・八艦隊計画﹂の推進者としての加藤
今日、加藤の平和への貢献を賞賛してやまない人々が、往々にして見逃すポイントですが、一九一五年八月、加藤が海軍大臣に就任するや、大海軍建造の先頭に立ちました。彼は、﹁八・八艦隊﹂と呼ばれる、アメリカを対象とする膨大な大艦隊計画を引き継ぎ、その建造に心身ともに打ち込んだのでした。 ところが、加藤が直面したのは、アメリカとの建艦競争の激化です。アメリカでは一九一六年以降﹁世界のどの国にもひけをとらない大海軍﹂を建設し始めており、加藤は外交調査会において﹁太平洋は全然彼(アメリカ)の湖水となってしまうだろう﹂とまで警告する事態になります。 一七三八
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二八一( ) すでに加藤は一九一九年二月、議会の予算小委員会で、こう述べています―﹁あの大強国・大金持ちのアメリカが、その無限の財力を持って拡張しようとするのに、競争致そうという意思はもっていない。また仮にもった処が及ばないということは分かり切った話である﹂。加藤は観念的な平和主義ではなく、冷徹なリアリズムに立脚し、﹁八・八艦隊計画﹂から海軍軍縮に秘密のうちに﹁改宗﹂することになります。 ようやく一九二〇年になって、﹁八・八艦隊計画﹂の予算が認められましたが、このときまでに加藤はそれがペーパー・プランに終わると結論を下していました。一九二一年度の国家予算のうち海軍予算は実に三〇パーセント以上も占め、それは明らかに日本の財政能力を超えていました。そこで﹁八・八艦隊計画﹂を御破算にするという、割りの悪い役割が彼に回ってきたのです。皮肉にも、加藤は一貫して﹁八・八艦隊計画﹂の最たる推進役であったからこそ、彼はこの計画が財政上実行不可能だと断じる資格があったといえるでしょう。そこにみられるのは、冷徹な現実主義ですが、加藤にとって幸運なことに、それが﹁平和﹂への道につながったのです。そして、彼にとってまことにタイミングよろしく、一九二一年七月アメリカからワシントン会議への招請が届いたのです。加藤にとって、それはまさに﹁天佑﹂でした。
ワシントン会議の首席全権として
ワシントン会議の首席全権を選ぶにあたり、原敬首相は彼がもっとも信頼する、そして閣僚のうち一番強力な人物、加藤友三郎を任命しました。彼を任命した理由は、軍縮に猛反対する海軍の強硬派を抑えうる人物は、加藤友三郎をおいて他にいないと考えたからです。つまり、加藤は海軍大将で海軍大臣でありながら、海軍部内をコンロールするとい
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﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎( )同志社法学 六三巻三号二八二
う点で、変則的な形ですが、文民統制、シヴィリアン・コントロールを代行することになります。 一部の批判的な人々はこの点を理解できず、平和のための軍縮会議の首席全権として海軍大臣を送り込むのは時代錯誤だと非難しましたが、大多数の人は加藤の任命に賛成しました。 ワシントン会議に臨んだ加藤の外観に、ここで触れておく必要があります。威風堂々とはまったく逆で、やせ細り虚弱という風貌でした。かつて日露戦争後のポーツマス講和会議における小村寿太郎全権よりも貧相に見えました。あるアメリカのジャーナリストは、加藤は﹁昔読んだH.G.ウェルズのサイエンス・フィクションの挿絵にあった火星人﹂を思い起こさせると書きました。 しかし、このような貧相な外観とは裏腹に、加藤は希に見る強力な指導者でした。ワシントン会議で彼を補佐した山梨勝之進大佐は、次のように述べています。﹁加藤全権は、鉄の神経と沈着冷静で知られ、彼の頭脳はカミソリのように鋭く、どのような問題でもただちにその核心を捉える﹂。会議ではめったに発言しないが、いったん発言すれば、ポイントをつき結論だけを短く述べたとも言われます。伊藤正徳という海軍に詳しいジャーナリストは、ワシントンで加藤に会っていましたが、こう記しています。﹁加藤は細かい点や退屈な手続きにとらわれることはなく、重要な問題の核心をつかむ。そして、大局的で先見の明ある見解をとり、妥協的解決に向かう﹂。いま一人のジャーナリストは﹁加藤は実戦の経験に豊かであるのみならず、政治的な経験も豊かにもっている。彼は国防に完璧な知識があるが、大局的に物事を見ることができる。彼のメンタリティーは主としてシヴィリアンのそれであり、帝国海軍における唯一の海軍政治家である﹂。 事実、加藤は海軍全体を強力にコントロールするカリスマ的指導者であり、圧倒的な名声を欲しいままにして、挑戦を許さぬ権威の持ち主でありました。政策決定の権限をすべて自分の手に集中し、部下の反対意見を退け、自らの全責 一七四〇
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二八三( ) 任で決定を下す、というのが彼の政策決定のスタイルでした。これは日本では非常に珍しいタイプのリーダーシップで、政治学では、﹁合理的政策決定﹂と呼ばれるものです。
アメリカにおける加藤の評判
会議前から、加藤はアメリカ海軍の間で非常に良い評判を得ていました。東京駐在のアメリカ海軍武官の報告では、次のように述べています。﹁加藤はずば抜けてもっとも有能な閣僚である。彼は無口で控え目だが、鋭い判断力をもち、公正でリベラルな紳士であり、心が広い人物だと思われる﹂。海軍情報部長が海軍作戦部長クーンツにあてた報告があります。﹁加藤は、首相の次にもっとも強力な人物で、海軍士官あるいは海軍随員の筆頭としてではなく、内閣の閣僚として会議に臨むであろう﹂。もう一通の駐在武官報告では、加藤の政策決定のスタイルを見事に伝えています。﹁加藤海軍大臣の最たる強みは、決断の人であるということで、最も重要な局面において本国の政府に諮ることなく、全責任を負うことを躊躇しないということである﹂。ワシントン会議で加藤を知るようになったプラット大佐は、﹁私はいつも、加藤を世界でもっともすぐれた政治家の一人だと考えてきた﹂と述べています。このような観察は、驚くほど正確に会議における加藤の行動を言い当てており、それがアメリカにおける加藤の評判をますます高め、会議における加藤の成功をもたらす重要な要因になったと言えるでしょう。 加藤全権自身、アメリカの世論に訴え、日本の立場を良くしようと世論操作に意を用いました。彼がワシントンに出発する前に、部下の山梨大佐が加藤に、アメリカにおける世論の重要性を説いています。﹁大臣、あなたは無愛想なので、あなたぐらい新聞記者に評判の悪い人はない。しかし、アメリカは新聞記者と御婦人によって世論が左右されるような
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﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎( )同志社法学 六三巻三号二八四
国柄だから、よほど注意してやる必要がありますよ﹂。国内では新聞記者に対して無愛想を一枚看板に掲げる加藤は、﹁おれには新聞記者の御機嫌をとろうなんて気はないんだ﹂と答えたものの、実際にワシントンでは、この無口な海軍大将は愛想を振りまいて新聞記者にサービスしました。その結果、彼自身驚いたでしょうが、﹁チャーミング・アドミラル﹂(魅力的な大将)という褒め言葉をもらったというエピソードもあります。しかし、ただ愛想よくしただけではなく、加藤は記者からの鋭い質問に対しても率直で誠実に答えたので、アメリカの新聞記者の絶賛を博したのです。 よく知られているように、ワシントン会議の開会冒頭、アメリカのヒューズ国務長官が思い切った軍縮案、﹁爆弾提案﹂として知られるものを投げかけました。加藤はそれがアメリカ人だけではなく世界の世論に強くアピールすると、ただちに見抜きました。それは主力艦の比率として、アメリカ一〇、イギリス一〇、日本六を提案したのですが、加藤は、ほとんど直感的にこの比率を﹁原則的に﹂受け入れました。アメリカ世論を敵に回すようなことになれば、日本は﹁ひどい目﹂に合うと考えたからです。日本の反対のために軍縮が失敗に終わり、アメリカとの競争のエスカレーションになれば、日米の格差はますます広がり、日本は財政破綻に陥るというのです。この点についても、加藤は冷徹な現実主義者でした。 ここでは、会議における交渉について語る必要はありません。問題の核心は、アメリカに対して六割か、あるいは七割の比率にするか、ということでした。はじめから加藤は六割を受諾する腹でした。日本の国力の限界をわきまえ、アメリカとの協調を何よりも優先させたからです。 この決定に対して猛反対を唱えたのが、もう一人の加藤、加藤寛治中将・海軍首席随員でした。マハン流の海上権力論、つまり大海軍主義を唱える加藤寛治は、日本の﹁国防の安全﹂にとって七割の勢力が絶対に必要だと主張します。そして、アメリカが日本を六割に抑えようとするのは、﹁極東における海軍の優越を日本から奪い、そのかわりにアメ 一七四二
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二八五( ) リカの覇権を確立することをねらっているからである﹂という論陣を張ります。 よく知られているように、二人の加藤の相克は実に激烈なものでした。七割比率を絶対に譲ろうとしない﹁頑迷寛治﹂を従わせようと、友三郎は夜を徹しても激論したものです。あまりも激しく寛治を叱ったある夜、﹁ひょっとしたら寛治は憤慨して切腹するのではないか﹂と心配して、後で寛治の部屋をそっと覗いてみたこともあります。そんな親心も知らず、寛治は日記にこう記しています―﹁加藤全権のcrafty (悪賢いこと)知る。彼とともに事を為す能はざるの人物なり﹂。﹁彼到底大人物にあらず﹂。 どちらの加藤のほうが craftyであったのかは明らかです。加藤寛治は友三郎の裏をかくといった越権行為にまで出て、大加藤の決定に逆らおうとします。しかし、友三郎には歯が立たず、結局カリスマ的な加藤友三郎によって口を封じられてしまいます。 加藤友三郎が下した決定がいかに重要であったかは、それが一九〇七年以来の日本海軍の三本の柱を一挙に葬ってしまったことに照らせば明らかです。すなわち、﹁八・八艦隊計画﹂、対米七割の要求、そしてアメリカを仮想敵国とする帝国国防方針、これをすべて友三郎はご破算にしたのです。 ワシントンで加藤は海軍問題だけではなく、幣原喜重郎全権が会議開会後まもなく病気になってしまったので、中国問題、シベリアからの撤兵などの外交問題までも、加藤が手がけることになりました。夜を徹して加藤寛治と激論し、自分の専門でもない極東の外交問題について翌日の交渉について準備するというのは、すでに大腸がんに侵されていた加藤にとって、あまりにも過酷な労働でした。﹁ワシントンでは自分は死ぬかと思った﹂と彼は帰国後、かつての上司斎藤実に漏らしています。
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﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎( )同志社法学 六三巻三号二八六
加藤伝言とその国防観
今日、﹁平和の使徒﹂加藤友三郎の名声は、﹁加藤伝言﹂といわれるメッセージに大きく依存しています。それは会議中に、自分の片腕と頼む海軍次官井出謙治にあてた長文の﹁伝言﹂で、それを信頼する部下の堀悌吉中佐に託して一足早く東京に戻らせて井出に届けさせたものです。六割比率を受け入れた理由と、国防に対する基本的な方針を伝える重要な文書です。 この伝言の冒頭で加藤は﹁自分を先天的に支配せしものは、日米関係を改善することにあった。この観点から最終的な決定をくだした﹂と述べています。つまり、戦略的な必要がどれほど重要であろうと、広い政治的な考慮を優先させたのです。﹁外交的手段によってアメリカとの戦争を回避すること、これが国防の本義である﹂。のちほど頻繁に引用される有名な言葉ですが、﹁国防は軍部の専有物にあらず﹂と喝破しています。そして、総力戦の時代に入ったからには、﹁単に軍事的要因だけではなく、経済的、産業的、外交的要因によって国防を強めねばならない﹂。いずれにせよ、アメリカとの戦争は不可能である。戦争するには、まず金が要る。その金はどこから手にいれるかといえば、アメリカから借りるほかない。その﹁アメリカを相手に戦争できるわけがない﹂。 こうみてくると、加藤が冷徹な現実主義者であったことが、ふたたび浮き上がります。そして、彼にとって幸いなことに、このリアリズムが平和主義と一致したのです。 堀中佐は﹁加藤伝言﹂を井出次官に届けました。ところが井出は、もし﹁加藤伝言﹂が洩れれば、海軍にとって厄介なことになると考え、堀にそれを焼き捨てるよう命じました。その理由は、あまりにもあけすけな﹁加藤伝言﹂は、海軍の組織的な利益(海軍の拡張)に反するものであり、海軍部内から強い抵抗を招くと恐れたからでしょう。しかし、 一七四四
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二八七( ) 歴史家にとって幸いなことに、﹁加藤伝言﹂は海軍省の金庫の奥深く秘密に保存され、ようやく日本の敗戦後になって日の目を見ることになります。 この﹁加藤伝言﹂をどう解釈するか、歴史家の間で意見が分かれています。一説によれば、もし﹁加藤伝言﹂が海軍の指導者の間に広く知らされていたら、その後の海軍の政策を抑制しえたであろう、と言われます。すなわち、アメリカとの戦争に導くような危険なコースを避けたであろう、というのです。後に見ますように、これはかなり当を得た見方です。もう一つの説は、﹁加藤伝言﹂に示される国防観は、一九二〇年代、三〇年代を通じて海軍の﹁正統的﹂な見解になったというものです。この解釈の問題点は、後述のようにワシントン会議以後、海軍の﹁主流﹂は加藤寛治とその部下によって占められるようになったということです。
ワシントン会議以後の加藤友三郎の評判
一九二二年三月に帰国した加藤友三郎は、ワシントン会議での実績によって、天下の英雄として大歓迎を受けます。国民の大多数は、危険な建艦競争にストップをかけ、財政破綻を未然に防ぎ、国際的孤立を避け、日米関係を好転させたとして加藤を褒めそやしました。東郷元帥を含む海軍上層部も、加藤の尽力に感謝しました。 しかし、加藤友三郎の反対勢力も無視することはできませんでした。すでにワシントン会議にあって、加藤寛治の行動は不穏な様相を呈していました。日本が六割比率を受け入れた日、寛治は悔し涙を浮かべて﹁アメリカとの戦争が今日から始まった。かならず仕返しをしてみせる﹂と怒鳴りちらしていました。しかし、友三郎は﹁自分の目が黒いうちは、寛治に勝手な真似はさせない﹂と語っており、﹁頑迷寛治﹂といえども、あえて友三郎の決定にそむこうとはしま
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﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎( )同志社法学 六三巻三号二八八
せんでした。ところが、友三郎の政策決定は、きわめて個人化され、彼のパーソナリティーに大きく依存するものでした。したがって、友三郎の強力な存在が失われると、その決定は挑戦を受ける運命にありました。長期的にみると、友三郎がワシントンで行った決定は、日本海軍に根を下ろすことはなかったといえます。 一九二二年六月、加藤はワシントン会議での功績を認められて首相に任命されます。ワシントンで彼を極限まで駆り立てたのと同じ義務感から、彼は首相と海軍大臣を兼務します。ところが、ワシントンで酷使した健康が急速に衰え、﹁蝋燭の燃え粕﹂とよばれるほど衰弱しました。 この空白に躍り出たのが、いまや軍令部の次長に昇進した加藤寛治でした。彼の狙いは、友三郎がワシントンで行った決定を覆すことでした。寛治と彼の黒幕の部下、末次信正が策動して実現したのが、一九二三年二月の帝國国防方針の改訂です。死の床に横たわる友三郎には、もはやそれを食い止める余力はなく、黙認せざるを得ませんでした。国防方針の改定では、加藤友三郎の基本方針、つまり、いかなることがあってもアメリカとは戦争しない、という方針を否定して、アメリカとの戦争が不可避であるとの思想を打ち出していました。 アメリカやイギリスの指導者たちは、こうした舞台裏の出来事にまったく気づいていませんでした。当時、英米の政治家の間で、友三郎の評判はきわめて―おそらく日本でよりも―高いものでした。ワシントン会議でイギリス全権だったバルフォーは、駐日大使エリオットに、こう書き送っています。﹁加藤の首相任命を歓迎する。なぜなら、極東の国際政治における彼の影響力は、平和と国際協力に向けられるだろうから。彼は優れて実際的で、賢明で、近代的な考えをもつ政治家だ﹂。ここでも友三郎の現実主義が高く評価されているのです。アメリカのプラット提督(後ほど海軍作戦部長の要職につく人物ですが)は、ワシントン会議で身近に加藤友三郎を観察した結果、﹁加藤は英米と密接に協力する政策をとるだろう。彼が首相に任命されたことは、日本がこの方向に進むことを示している﹂と記しました。 一七四六
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二八九( ) 加藤友三郎の逝去と悲劇的展開 加藤友三郎に大きな期待を抱く英米の指導者にとって、一九二三年八月、彼が六三歳で病死したのは大きな打撃でした。重要なことに、彼らは、加藤の死が日米関係におよぼす影響を―多くの日本人よりも―鋭く感じ取っていました。先にふれたプラット提督は、さっそく丁重なお悔みの手紙を野村吉三郎少将に送っています(野村はワシントン会議で加藤の副官として仕えていました)。﹁日本がもっとも偉大な人物を失ったというだけにはとどまりません。我々アメリカ人もまた、アメリカをよく理解してくれた衷心からの友を失ってしまったと思います。私はワシントン会議を通じて、自分がお会いする光栄を得た人物のうちで、加藤男爵がもっとも立派で偉大そして丁重な紳士の一人だと心から信じ込むようになりました。そして日本の国政が彼の手にあるかぎり、日米間に平和友好的に解決しえない誤解は生じない、と考えたのです﹂。 プラット提督は、加藤友三郎がワシントン会議で確立してきた対米協調の政策を、はたして彼の後継者たちが守っていくかどうか懸念すべき理由がありました。すでに見ましたように、友三郎の決定があまりにも個人化されたものであったために、彼が舞台を去ると、部下の反抗分子によって切り崩されていく運命にありました。加藤の死によって﹁沢庵の重し﹂が取れ、早くもワシントン軍縮体制にヒビが入りました。 太平洋戦争ののち、友三郎の薫陶を受けた部下、山梨大将はこう述べました。﹁もし加藤元帥がもう数年長生きしていたならば、日本はアメリカとの戦争に突入するようなことはなかっただろう﹂。 各新聞の追悼記事では、ワシントン会議における加藤の政治的手腕を絶賛していました。読売新聞は﹁加藤は一介の
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﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎( )同志社法学 六三巻三号二九〇
海軍軍人として身を処し、政治に参加するような野心を示さなかったけれども、大隈内閣以来、四代の内閣を立派に指導した﹂と書きました。つまり、加藤は﹁政治的野心﹂がまったくなかったけれども、強力に﹁政策﹂を推進した、と評価されたのです。 日本海軍にとっての最大の悲劇は、加藤の没後、彼に比肩するような指導者が現れなかったということです。後継の海軍大臣はいずれも、加藤のようなリーダーシップと国際的ヴィジョンをもちあわせていませんでした。 後ほど、﹁海軍知識人﹂といわれた高木惣吉少将は、こう評しています。﹁海軍も加藤友三郎時代を過ぎると、指導権が腕ある人間を離れて、機構、形式の上に移り、いわゆる﹃制度化した権威﹄がのさばるようになり、"ドングリの背比べ"という状況を呈するようになった﹂。このように官僚化したために、大局的な見通しも政治的な卓見も衰えてしまいました。 もう一つ言えることは、友三郎があまりにも偉大な指導者であり、重要な決定は全部自分一人でやってのけたので、かえって有能な部下が育ちにくかった、ということです。たしかに、山梨や堀のような有能で見識ある人材がいましたが、彼らは友三郎ほどのカリスマの持ち主ではありませんでした。 歴史の後知恵ではありますが、日本海軍の﹁真珠湾への道﹂は、一九二〇年代、三〇年代に加藤友三郎の遺産が徐々に崩壊していく過程として捉えることができます。 友三郎の没後、加藤寛治を中心とする強硬派は、ワシントン海軍条約を目の敵にするようになりました。彼らは、友三郎がワシントンでおかしたとみる﹁誤り﹂を二度と繰り返すまいと固く決意していました。一九二〇年代も終わりに近づくと、彼らの友三郎批判は、ますます露骨になります。たとえば、一九二九
す相記していまる。﹁加藤海はこ、真に海軍を思って直うにす硬い追らか省軍海を漢骨の紙直剛山本英輔中将は、手言 -三一たっあで官長令司隊艦合連に年 一七四八
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二九一( ) 出し、かわりに自分の意のままになる温和で妥協的な者のみを配置して、専横の軍政を行い、その結果、海軍を去勢してしまった﹂。 しかし、加藤友三郎の遺産を守り続けようとした後継者がいたことも重要です。一九三〇年にロンドン海軍会議が、今度は補助艦の制限のために開かれます。軍令部長になっていた加藤寛治は、妥協的な解決に強硬に反対します。それに対して、海軍次官の山梨と軍務局長の堀は、国際的な視野の持ち主で、何とかして条約を成立させようと尽力します。かつてワシントン会議で加藤友三郎から薫陶を受けた二人は、友三郎流のリアリズムから軍縮に身を捧げ、かろうじてロンドン条約は締結されます。しかし、これが軍縮派にとって﹁白鳥の歌﹂になりました。 一九三三
。たけうとしよこでしょうと 軍らば、海たがふたびたな役いてっま留に競現がら彼し建艦争とかをプットにのるす決対スカ、リに突入しやがてアメ 最にたる犠牲者。なりましたもそのがよなか後背を事人う操堀のこ。たしらっれでと梨山。たし治て寛藤加がのたいま -三年る継後の郎三友藤加め、占を職要の省=軍海者四軍入さ放追ら軍海、れさ編縮に役備予と々次は派か
加藤友三郎の最初の銅像
しかし、この期に及んでも、ワシントン会議での加藤友三郎の偉業を憶えていた人々がいました。彼らは一九三四年三月、加藤をたたえるために、広島の比治山に等身二倍大の銅像を建立することを計画しました。その発起人は主として広島在住の財界・実業界の﹁有志﹂でした。加藤がワシントン会議で日本を財政破綻から救ったことを彼らは憶えていたのです。募金活動は広島から大坂、京都、東京にまで広がっていきました。しかし、海軍の外郭団体である水交会
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が加えられていないのは、それに主導権を奪われないようにという思惑があり、そして水交会は加藤友三郎の精神と相いれなかったからでしょう。 しかし、銅像の募金キャンペーンのタイミングは最悪でした。一九三四年、海軍によるワシントン条約の攻撃はクライマックスに達していました。この年の九月には、ついに政府はワシントン条約を年末までに一方的に破棄することを決定しました。いまや、ワシントン会議や加藤全権の功績について肯定的に語ることは、タブーになっていました。 当時、海軍指導者の会合で加藤寛治は、﹁ワシントン条約は、わが国の海軍の禍根となり、その士気の上に形容すべからざる悪影響を与えてきた﹂と海軍大臣に力説していました。加藤の同志、末次信正・連合艦隊司令長官は、もし仮に建艦競争になっても日本は何ら恐れることなし、と怒号していました。このような海軍の強硬姿勢を前にして、加藤の銅像計画を進めるのは、大変な勇気を要したことにちがいありません。国策に反対することを意味したからです。ついに一九三四年一二月、政府はワシントン条約を破棄しましたが、それに反対した新聞は一紙もありませんでした。 ワシントン会議で加藤が築き上げてきた海軍軍縮システムを日本が一方的に破棄した、まさにその瞬間に加藤の銅像が建立されたのは、まさに﹁歴史の皮肉﹂というほかありません。 こうした状況下では、加藤の銅像の﹁趣意書﹂は、きわめて慎重に言葉を選んで書く必要がありました。しかし、よくこれだけのことが書けたと驚きます。加藤の初期のキャリア―日本海海戦の大勝利、司令長官、海軍次官の経歴―について書くのは容易でしたが、問題は、当時タブーであったワシントン会議をどう取り上げるか、そして現下の日本が直面している危機をどう見るか、ということでした。 趣意書ではワシントン会議に一切触れることなく、単に加藤が﹁外にありては帝国全権として列強代表と立派に渡り合い、帝国海軍をして世界に重きをなすに至らしめた﹂とだけ述べています。そして、この偉業は、一に加藤全権の﹁偉 一七五〇
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二九三( ) 大なる人格と力量﹂によるとしています。間接的な言い方ではありますが、ワシントン条約を肯定的にとらえ、さらに軍縮条約が日本海軍の威力と海の安全を一段と確固たるものにしたとすら述べているのです。これは加藤寛治らの、六割比率は﹁欧米による押しつけ﹂﹁対日圧迫﹂という海軍の主流意見に対する最大限可能な抵抗であったとも受け止めることができます。 趣意書の他の部分では、きわめて曖昧な文言の中に、加藤の遺徳に対する賞賛をもりこもうという意図がうかがわれます。要約すると次のようになります―﹁加藤の没後すでに一二年、日本は満州事変と国際連盟からの脱退の結果、国際的に孤立してしまった。この未曾有の危機にあって、わが国防の安全のための政策を確立することが、ますます緊急度を加えている。危険きわまる事態を乗り切り、"国運の進展"をはかるために、ますます加藤の教えに忠実でなければならない﹂。銅像の台座の碑文には﹁第二の偉人、第二の加藤出でよ。祖国を永代にわたり護らんことを﹂との文字が刻みこまれています。 この意図して曖昧な趣意書に、具体的にはどのようなメッセージが秘められていたのでしょうか?﹁現今の困難﹂とは、ワシントン条約の破棄の後、日本が直面することになるアメリカとの海軍軍拡競争と、さらなる国際的孤立を指しています。銅像の趣意書の行間から読み取れるのは、もし加藤友三郎が事態をコントロールしていたならば、現実的に軍拡競争を避け国際協調のオプションを選んでいたに違いない。加藤のように偉大な指導者のみが、悲劇への道を食い止めることができる、ということでした。 しかし、このような悲願を踏みにじるかのように、政府は一九三五年の末、第二次ロンドン海軍会議から脱退し、ここに無制限の海軍建艦競争のスタートが切って落とされることになります。あるアメリカの歴史家は、この問題を取り上げた本の題名をいみじくも “Race to Pearl Harbor”﹁真珠湾への[建艦]競争﹂としました。
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﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎( )同志社法学 六三巻三号二九四
さて、一九三五年一一月の晴れた日、大勢の人々からの募金で建てられた銅像の除幕式が執り行われました。その模様を﹃中国新聞﹄は次のように伝えています。﹁郷土の英傑の遺徳を慕い、会場に押し寄せた群衆は、緊張と厳粛のうちに﹂元帥の偉風を目の当たりにした、と。しかし、銅像をワシントン条約や海軍軍縮と結びつけて、その意味を的確に理解できる一般人が、はたしてどれほどいたか、疑問が残ります。 結局﹁第二の加藤友三郎﹂は現れませんでした。一九三六年から真珠湾攻撃に至るまで、海軍は部内では派閥的な対立に明け暮れ、対外的には軍事予算の配分をめぐって陸軍と激しく衝突し、合理的な海軍政策は望むべくもありませんでした。一言で言うと、リアリズムが完全に欠如していたということです。日本が必要としたのは、かつて加藤友三郎が喝破したように﹁国防は軍人の占有物にあらず﹂、そして﹁外交手段によるアメリカとの戦争回避こそ国防の真義なり﹂と言う信念、そしてそれを実行に移すだけの強力な指導者でした。
戦争中と戦後
一九四一年一二月八日、真珠湾攻撃の知らせを受けた海軍の元指導者たちは、ワシントン会議での六割比率の﹁押しつけ﹂に﹁仕返し﹂した、と快哉を叫びました。彼らはこの戦争の遠因を、二〇年前のワシントン会議に求めたのです。 軍縮反対の頭だった加藤寛治の評判が天高く登ったのとは逆に、友三郎の評判は、落ちていきます。彼の名声は日本海海戦だけにとどまり、ワシントン会議での実績は完全に無視されることになりました。一九四三年には比治山の銅像は供出の憂き目にあい、その台座だけ雨月にさらされ、銅像のことを憶えている人は少なくなりました。 一九四五年、日本が無条件降参したのち、とりわけ東京裁判の結果、日本の軍人は(加藤友三郎も含めて)十羽一絡 一七五二
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二九五( ) げに﹁軍国主義者﹂として非難されるようになりました。こうしたなかで、いつ加藤が名誉を挽回しはじめたのか、海軍史の著作をひもとくことで、たどってみましょう。 さきに触れた海軍に詳しい伊藤正徳記者は、ワシントン会議で加藤に会ったことがあるのですが、彼は一九五六年に﹃大海軍を想う﹄を著わし、﹁加藤友三郎なしでは思い切った海軍軍縮は不可能だったろう﹂と書きました。ついで一九五九年ジャーナリストの新井達夫が、簡潔な加藤友三郎伝を上梓しました。加藤の政治的・外交的手腕を高く評価するこの本のなかで、新井は初めて﹁加藤伝言﹂に言及しました。一九六二年には、海軍史の大家、池田清教授が優れた海軍史の概説を著わし、﹁加藤伝言﹂から引用しながら、ワシントン会議における﹁加藤の決定は賢明な戦略的後退﹂であったと述べました。そして一九六三年、権威のある﹃太平洋戦争への道﹄(全七巻)の第一巻では、﹁加藤伝言﹂を詳しく取り上げましたが、それは加藤を神格化したものといえるでしょう。こうして、軍縮の指導者としての加藤の歴史的評価は高まっていきます。
銅像再建とその意義
一方、広島における加藤の評価は、どうだったのでしょうか? 一九四五年八月六日、原爆を投下された広島は、皮肉なことに、加藤の生誕の地であり、軍縮と平和のために尽力した彼の生地でした。広島は戦後日本の平和主義のシンボルになりましたが、半面、広島の住民のなかには反核運動が過度に政治化し、また内部分裂をしたことを遺憾に思う人もいました。いまや﹁国際的平和文化都市﹂になった広島は、より積極的な、より開けた平和の象徴を求め、それを加藤友三郎のなかに見出したのです。
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﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎( )同志社法学 六三巻三号二九六
このような熱い思いが、二〇〇八年八月、第二の加藤の銅像の建立を支えたのでした。加藤は単に﹁軍縮の父﹂にとどまるのではなく、﹁平和の使徒﹂のシンボルとなりました。それに先立つ二〇〇五年、田辺良平氏は簡潔ながらバランスのとれた加藤友三郎伝を出版しました。同じ年の二月、私はNHKの番組﹁そのとき歴史は動いた﹂に出演して、ワシントン会議における加藤友三郎のリーダーシップおよび今日われわれが何を学ぶべきかについて語りました。 しかし、加藤友三郎顕彰会の方々の御尽力にもかかわらず、また新しい銅像の建立にもかかわらず、友三郎の歴史的偉業をもっと広く世に知らせる必要があります。ごく最近に至るまで、海上自衛隊の士官たちですら加藤のことを知らないほうが多かったと、聞いております。 それに比べて、最近の秋山真之ブームは過熱状態です。﹁加藤友三郎一代記パネル展﹂のポスターには﹁加藤にとって﹃坂の上の雲﹄は一つの通過点だった﹂と記してあります。私なら、﹁単に一つの通過点にすぎなかった﹂と書いていたでしょう。秋山は名参謀ではあったでしょうが、日本海海戦の勝利をもたらしたのは東郷司令長官とその参謀長、加藤友三郎です。 加藤友三郎が﹁対米不戦﹂を唱え国際協調のために尽力したのに比べて、秋山真之はどうでしょう? 秋山曰く﹁世界を統一するのは大日本帝国なり﹂。加藤とは対極的です。 加藤の評判は日本国内におけるより、むしろ英米において高かったとすらいえるでしょう。今日お話しした内容は、実は二〇〇九年、アメリカのアナポリスにある海軍士官学校で開催の﹁海軍史シンポジウム﹂で発表した論文にもとづいています。そのときアメリカ人の友人が私に語ってくれた言葉が印象的でした。彼曰く﹁加藤友三郎の思想と行動は大変勇気のいることだった。将来アメリカ海軍を背負って立つ海軍士官学校の生徒たちにとって、加藤の話は有益だったろう﹂。国境を越えて、また時代を越えて加藤の偉大さが伝わったようです。 一七五四
﹁平和の使徒﹂としての加藤友三郎同志社法学 六三巻三号二九七( ) 一九三四
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