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『 疏 導 要 書 』 に み る 佐 賀 藩 の 治 水 と 利 水

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(1)

﹃疏導要書﹄にみる佐賀藩の治水と利水

『疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

自らの実態調査を基礎とした︑天保五年(一八三四﹀︑佐賀藩土南部長恒によって著された﹃疏導要書﹄は︑

期では類書の少ない河川水利誌の白眉である︒それは︑地方役人の行政マニュアルとして広く流布した一連の地方

書 ハ

1﹀における普請技術中心の記載とは︑明らかに一線を画するものである︒

この小稿で私が目的としたことは︑この稀有の水利誌を諸河川における単なる史実の列挙や追証として断片的に利

用するのではなく︑かかる八特殊な地誌﹀の全体とその基底に潜む構造を求めることにあるハ

2 ) O

従来︑本書が肥前地方史研究の史料として用いられる場合は︑そのほとんどが︑佐賀藩の近世初期の治水貢献者と

なかば伝説的に語られる成富兵庫の功績の紹介としてであった

2v

いわば郷土の英雄伝説の補強として︑後

代の文献である﹃疏導要書﹄があたかも同時代史料のように扱われる傾向があったのではないだろうか︒

55 

は︑長恒自身が本書の自序で

(2)

56 

我国水利ヲ極メ土地ヲ発キシハ成宮茂安功ニシテ其沢最大ナルハ世以テ知レル所ナレハ何レノ家ニカ其筆跡モプラント普グ是ヲ

求ル事数年ナリト錐モ証トスヘキ物縫‑二一一ニジテ悉ク其事跡ヲ知ルコトアタハス是カ為‑一徒‑一月日ヲ送一ブγモ本意ナキコトナ

レハ国ノ隅隅山川ノ形勢ヲ見巡リ村老野人ノ一去伝ル事ヲモ拾ヒ集メ其趣意ヲ勘考シ古へニ復シテ耕作ノ助トセンコトヲ専心‑一掛

遠近ト俳個終日一此書ニ及フ

と明言するように︑執筆の直接の動機が成富兵庫の事蹟の収集にあったのであるから︑故なきことではない︒

しかしながら︑詳細は次章で指摘するが︑佐賀藩内の河川を︑成富兵庫の事跡であるという伝承が残っていないも

のまで含めて︑小にいたるまでかなり網羅的にとりあげて記述していることからもわかるように︑長恒の目的は兵庫

礼讃だけにあったのではない︒今一度︑﹃疏導要書﹄が執筆された時代背景とともに︑長恒の八知識の体系V

再考してみることは︑意義あることと思われる︒

﹃疏導要書﹄の構成と時代背景

( )

南部長恒について

﹃疏導要書﹄の著者である南部長恒三七九一l

またの名を南部大七といい︑佐賀鍋島藩の上級藩士

であった︒古賀定枯の次男として生まれ︑幼くして南部家の養子となる︒佐賀藩の藩校である弘道館の出身であり︑

文化九年︿一八二六)に初めて仕官する︒天保三年(一八三二﹀に山方役人となって︑勧農・民政に力を注ぎ︑諌早

代官となっては︑領内の農地・水利の開発を行ない功績をあげた︒

有国皿山代官となって陶業の振興にも尽

くしたという

7v

この略歴からもわかるように︑長巨は農政の実務に長年携わってきた役人であり︑その方面の藩

内の情報収集にはかなり有利な立場にあったといえよう︒﹃疏導要書﹄は彼が山方役人であった時代に︑

O代藩

(3)

主鍋島直正に献策した報告書である︒その他に︑諌早代官時代には﹃郷鏡﹄という一種の農章一回を著したといわれるが

(5

﹀︑この書物には署名がなく︑長恒を筆者とするのを疑問視する説もある

(6 uo

ところで︑長恒が活躍した天保年聞は︑佐賀藩の中興といってよい諸改革が直正の手によって次々と断行された時

代である︒長崎の海防︑殖産輿業︑財政改革︑農地改革(加地子猶予︑

)

弘道館の充実をはじめとする文

教刷新政策などが行われて︑前代までの失政による財政破綻をかなりの程度まで回復し︑幕末維新の新勢力となる下

地を作った時期といえよう︒﹃疏導要書﹄もこのような天保期の藩政改革の基礎的資料として活用されたことは︑

本日"

A

『疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

( )

﹃疏導要書﹄の構成

﹃疏導要書﹄の原本は不明であるが︑現在写本として佐賀県立図書館に所蔵されているのは︑和騒の二冊本二種︑

佐賀弘道館記念会の原稿用紙に書かれた手稿︑ガリ版刷りの一冊本の四種である︒和綴の写本はいづれも鍋島文庫か

ら移管されたものである︒和綴本の二種は一方が他方の写本という関係になっており︑ともに明治二三年︿一八九

O )

の校註が余白に記されている︒手稿本はこれを写したものと思われるが︑和続本にない﹁後集﹂が存在する︒﹃疏導

以下の引用などは和綴

7

現存するのは管見の限り上下巻と後集の三冊である︒

本を基本とし︑後集に関しては手稿本に拠った︒

上巻の目次構成は次のとおりである︒序文は弘道館教授で当代きつての知識人であり︑鍋島直正の教育係でもあっ

︿

8﹀が書いており︑そのあとに自序が続く︒本文は千年川(筑後川の別称﹀から始まり︑佐賀藩領内の河

57 

川やため池などをほぼ東から西へ記述している︒

(4)

α lt:> 

有田

:

円 減 阿I

支端城下町・陣屋;

' ZM F

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︑ ︑

h︑ ︑

(5)

0 5 0   10Okm 

. . . . . . . . . . .  ̲ ‑ ' ‑ ‑ ̲ . 1

10km 

 

その他の主要郎市

ーーー一喝 V疏導要書,1:立立1された 河川

ーーー・・・その他のi'JJlI

ー ‑ 一 一 一 部 領 界

喧 司 自 ド 』.allらかに人工的な:可111l

『疏導嬰:ヰ』に立tijされ たもの

‑ ‑ ‑ 干 拓 提 防 でT疏導要書・

に立耳目されたもの

⑮『疏導要書』に立草iされた 河川、ため池等(下表参照) 但し(⑬ ⑩は長崎半島の小河川で 本図では省略

1 W疏導要書』に立項された河川・ため池

『疏導要書』に立項されていた河)11・ため池の地名一覧 ((  ))内は現在の呼称

1.千年川《筑後川)) 2.  JII副大託間 3.磁木川 4.郡木川西ノ入口川 5.朝日山川 6.安良川 7.村田川 8.立洗川 9.綾 部 JII  10.九町分川 11.市武江筋 12.勘 太 郎 江 13.直 代 江 14.西島川 15.回出川116.水馬場JII 17.神納川 18.城 原 19.蛇取JfI((中地江JlIJ) 20.焼原川 21.日ノ尺堤 22.薬師丸JfI((巨勢JlIJ) 23.黒川筋 24.市ノ江川筋 25.小寺川筋i

26.三溝川 27. JIIJII((嘉瀬JIIJ) 28.多布施JII 29.芦刈水道 30.祇園JfI 31.水上川 32.晴気川 33.加須川 34.本山 1 35.中川 36.多久川 37.永 嶋JII((塩見JIIJ) 38.高橋川 39.桃野川 40.六仙寺川 41.有田川 42.塩田川 43.永 池 堤(I) 44.福原寺堤 45.原田ノ堤 46.舟 野 ノ 堤 47.竜 王 堤 48.永池堤(JI) 49.大野土井石垣 50.七滞郷キ 51.鹿島川 52.JII(鹿島支藩) 53.山浦川 54.浜川 55.多良川 56.糸岐川 57.湯江川 58.小江川 59.深海川 60.大田尾川 61.西永田川 62.八良川 63.諌早川 64.戸石川 65.団結川 66.有喜川 67.矢 上)1168.加納川 69.江川 70.為 石 71.玖 摩JII((磨JIIJ) 72.美登利JII((JlIl) 73.白河《白川)) 74.高 瀬JII((菊 池JIIl)75.千年JII(久留米藩領)((筑後JIIl)76. 茂川 77.淀川 78.大和川 79.摂列υ内天井川村 80.築烏 81.高砂JII((加古川)) 82.市川 83.  有 年JII((JlIl) 84.

JII((1)) 85.吉井川

*西葉浦,西塩屋浦,宮田尾浦,嘉瀬浦,東塩屋浦・小宮田尾,音成浦,竜宿浦

**右衛門}II,武庫JIl,校JIl,津戸JII,宿}II,打出)11,芦屋川,住吉JIf,石屋川1,大石JII,生田川

以内﹁長け刊特訓埠

'Q

'W

M

品川︐吟ば﹃仰臥冊明記也﹄U

0> 

tn 

(6)

60 

下巻も同じ形式で︑有田川から為石川までほぼ北から南へ順に記載している︒その後には︑肥後国の四大河川(菊

池川・緑川・白川・球磨川﹀とその開発に関わった加藤清正の事蹟をとりあげ︑さらに久留米審の範囲の筑後川とそ

の主要水路である床島水道︑ならびにその開発に功績のあった草野又六のことを述べる︒下巻の特徴はこれらの河川

調査報告に加えて︑潮土井とよばれる海面干拓の潮除け堤防の普請技術と測量技術などについて詳述する︒

後集は京都の加茂川や︑淀川︑大和川︑さらには摂津・播磨・備前の瀬戸内海にそそぐ主要河川の記載に加え︑

くつかの地方書等を参照しながら︑常に佐賀藩の河川と対照しつつ筆者独自の治水一般論を展開している︒

図ーに長恒がとりあげた河川・ため池などの一覧とその位置を示しておいたので参照していただきたい︒以下の記

述の算用数字は︑図1の番号と対応する︒図中に番号の記載がない破線の河川は︑﹃疏導要書﹄には立項されなかっ

たが︑当時から存在したと思われる主要なものを記入しておいた(割図内は省略)︒また海岸線は干拓による変化が

激しいため︑幕末期のものを示してあるハ旦︒

この図から読み取れることは︑次の四点であろう︒

(一﹀佐賀藩のほとんどすべての主要河川・ため池を網羅していること︒しかし︑同じ肥前国でも唐津藩や天領の河川

は含まれない︒唐津湾に注ぐ松浦川は唐津領の川と認識されており記載がないのに︑その上流の桃野木川(却﹀は佐賀

藩に属しているため︑記載がみられるなどはその証左であろう︒佐賀藩の行政区画は︑戦国時代以前の土着的領主の

近世への継承を反映して︑鍋島本藩のほかに小城・蓮池・鹿島の三支藩と多久・諌早・須古・久保田などの十一家の

大配分と称する大知行主の合邦の形態をとっているが︑対象河川はこの区分にはかかわりなく全域に分布をみる︒

合一)数は少ないが︑佐賀藩内の河川で立項されていないもので比較的重要と思われるものは︑八回江︑福所江︑新

(7)

川︑佐賀江︑牛津川︑六角川などである︒いずれも佐賀平野を流れて有明海に注ぎ︑語尾に江という名称が付くのが

a A

Vそれは佐賀平野では江湖とよばれる感潮河川で(新川は除く)︑

その水源は明瞭ではなく︑平野を縦横に走る

クリーク(現地では掘とよばれる)につながっていることが大きな特色である︒また牛津川︑六角川はそれぞれの上

流部は独立に立項されておりながら︿沼・白・お・お・幻・認可川幅も広い下流がむしろ立項されていないこと

は︑奇異に感じられるが︑この部分はやはり江湖としての機能を持ちあわせていることを考慮すれば︑合理的な解釈

がつく︒すなわち︑﹃疏導要書﹄には︑江(江湖)は独自の項目としてはほとんど取り上げられていないのである︒

例外的に﹁江﹂のつく項目としては市武江筋(ロ)︑直代江︿臼﹀などがある︒また﹁川﹂という名称でも佐賀江に

『疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

落ちる蛇取川(国)︑焼原川(却)︑薬師丸川(辺﹀などは感潮河川であり︑江湖的性格を有している︒

会一)川の場合は別称・幅・水深︑ため池の場合は規模がどの場合にも書かれているが︑そのあとの記述はとりあげ

る河川・ため池によって内容にバリエーションがあり︑長短の差も著しい︒それは長恒の調査密度の差であるととも

に︑重要度の認識の違いを反映しているといえよう︒ちなみに最も長い記述は千年川︿1

(

)

施川(認可多久川(部)︑永嶋川(幻)︑高橋川(部﹀なども挿図を含み︑成富時代の状況と現在(天保年間﹀の比較がみ

かなり本格的な記述がある︒

からみがた(四﹀有明海の干拓は揚方を藩が独自に天明三年(一七八三)に設けるなど力を傾注した事業と思われるが︑﹃疏導

要書﹄ではわずかに大託間

(2

)と大野土居石垣(必)をとりあげているにすぎない︒なお︑下巻の後半では﹁石普請﹂

として︑技術・工法を紹介しているが︑この部分は多く地方書にみられるものと大同小異である︒

61 

(8)

62 

筑後川・嘉瀬川の治水と利水

この章では︑﹃疏導要書﹄の原文を引用しながら︑藩内の二大河川といえるr 筑後川と嘉瀬川について︑長恒の認識

ずる治水利水観の特色や問題点を検討する︒

/白、

'' 

筑後川の内水型氾濫

筑後川は下流部で筑後と肥前の国境を流れ︑左岸側は柳河藩・久留米藩となっているため︑利害が相対立すること

が多い︒また同じ肥前国ではあっても︑鳥栖・田代周辺は対馬藩領であり︑筑後川に流入する轟木川(3)という小河

川で画されているにすぎない︒

従来から佐賀東部の三根・養父の二郡の筑後川沿岸は水損の地であり︑今でも避難用の舟や地盛した家屋が多いと

ころである︒その水害の性格は︑

:

:

(

)

という︑本川と支川の水位・水量の差からくる湛水被害の様子が述べられている︒とりわけ︑わが国で最も干満差が

大きい有明海沿岸の特異性によって︑河口から河水がかなり上流まで逆流するため(筑後川の場合︑河口から二五キ

ロメートルの久留米付近まで感潮河川の性格をもっ)︑洪水時の速やかな水の疎通は満潮時にはことのほか困難であ

る︒これが内水型湛水氾濫であることを長恒は明確に認識していたのである︒

さらに続けて︑近年のこの地域の状況を次のように述べている︒

(9)

近年ノ如グユテハ床水︹筆者注:地窪に集まる水のこと︺ト御境川ノ水ト一度ニ出水イタス様‑一相成殊ノ外農家ノ労ト成第一如右ニテハ御取筒ヲモ相減シ行々ノ御図書フレハ其源ノ廻水ヲ尋見度目頃心ニ掛ケシニ少ク便リアルコトアリテ或日此川筋ヲ尋見

:

(

)

つまり水害の激化という変化であり︑その原因を長恒は尋ね歩いて︑この上流の水滞地に設けたシツヌキ︑

余水を筑後川へ落す悪水吐によってその周辺の排水が良くなった代わりに︑下流の地が今度は本川の水量増加によっ

て排水が悪化したためとする

( 9 0

そのような洪水を防止する方法として︑彼が提案するのは︑

『疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

依テ此洪水ノ難ヲ防ントナラハ先ツ上ハ下野村ノ土井筋ヨリ千粟豆津ノ上下安永村等ノ土井筋‑一笠ヲ置腹付ヲシテ至極丈夫二営

()上ハ松嶋ノセパミ下ハ豆津ノ渡場百間ノ所ニテ水ヲ持セ川下ハ久留米領へ相ヒ談シ彼道海嶋ノ荒篭ヲ取除テ悪水ヲ速ニ引落ス

(

)

ω堤高の増加や補強︑ω上流部の川幅を狭くして水勢をつけてからス一気に下流へ流下させる︑同久留米藩が設け

た荒篭の除去の三点がその要綱である︒

これらの諸対策の根底に存在するのは﹁筑前領ハ大慶ナレトモ右ノ川下三領ノ所ノ水害誠ニサグルこという被害者意識

であり︑佐賀藩という小さな枠内で保全対策しか念頭になかった︑為政者サイドに立つ者としての長恒の限界が示さ

れているともいえよう︒

63 

そもそも寛永年間(一六二四t四一一一)に成富兵庫が構築したとされる筑後川本流の右岸二一キロメートルにわたる

(10)

64 

千栗土居そのものが︑右岸にひろがる佐賀藩領の田地を越流水害から守るためのものであって︑他領のことを考慮し

たものではない

2Y

尾張藩が慶長一四年三六

O九﹀に延長四八キロメートルの御囲堤とよばれる連続堤を木曾川

左岸に設けて︑自領の保全を図るに及んで︑対岸の美濃側との治水上の対立が激化する状況と非常に類似してい

ただ扇状地河川である木曾川の場合と異なって︑筑後川の場合は地盤のいちばん低いところを流下し︑下方浸食が る ︒

堆積を上まわっている状態なので

2v

破堤しでも広範囲に溢流することはなく︑本川沿いの狭い範囲にすぎないと

ころが︑大きく異なる︒事実︑小出博が指摘するように︑久留米付近の中流部での激甚な破堤・乱流による水害に比

下流部での破堤は例外的である官﹀Oしかしその稀な破堤でも次第に堤防が洗掘されて機能しなくなってきた

という天保期の状況があり︑そこから上にみたような︑堤防補強策が出されていると考えられる︒

あとひとつ注意しなければならないのは︑上流部での疎通が良くなることで︑下流の水量が増えた近年の変化を長

恒は認識したうえで対策を述べていることである︒図ーで明らかなように右岸には多くの小河川が本川に流入する︒

そのいずれもが﹃疏導要書﹄に記載されていることからも推定できるように︑この小河川への関心は高い︒支流と本

流との水位差からくる支流への逆流現象による滋水被害ゃ︑支流の破堤こそが問題にされねばならない︒

( )

嘉瀬川・多布施川の近年の変化とその要因

水不足と砂の堆積

佐賀平野の中央︑城下町佐賀とその周囲の田地を潤すのが嘉瀬川と多布施川である︒﹃疏導要書﹄では嘉瀬川は上

流の名称をとって川上川となっている︒

(11)

前項の筑後川が佐賀藩内では最低部を流れているため︑濯概用としてはほとんど機能を果たさない︒そのため筑後

川に関してはもっぱら治水上の記述に終始していたのに対し︑この二本の川は﹁二十万石人命ヲ繋グ事凡十六万人也誠ニ

御国第一ノ宝川﹂(上巻・川上川)なのであり︑その記述はほとんどが利水上の事項で占められている︒

まず︑長恒がこれらの川の近年の変化で最も心を砕いたのは︑絶対的な用水の不足である︒

何頃ヨリカ河水殊ニ減シ水勢衰ケルニヤ砂石多P

テ常水ナシ嘉瀬川ハ春末ヨリ川中綾ナラテ水ハ流レス年数六七十年ノ間ニ水嵩如此減シ川々砂多グナリテ其最寄リノ田地ニゴミヲ入ルコト叶ハス大切ノ団地モ悪回トナリ末ハ御取箇ヲモ減センコト歎シキトナラスヤ(上巻・多布施川)

『疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

右の史料によると︑水深が三尺(一メートル﹀であった両河川が︑この六︑O年で三分の一に減少したというの

である︒またその直接の要因が大量の砂の流入による河床上昇であることを暗示している︒そのためにゴミ︑すなわ

ち河水のなかに合まれる栄養分を含んだ泥を田に投入できなくなり︑地力が低下し︑収量が減少したと嘆いているの

この指摘にはクリーク地帯での土肥といわれるものの重要性を考慮する必要がある立)︒史料どおりに解釈する

と︑﹁最寄りの田地﹂であるから︑天井川である多布施川からの土肥投入である︒しかし能率の点からこれはさほど

頻繁には行われなかったと推測される︒むしろ︑これにつながる幹線クリークを通しての︑クリーク水回全体に撒布

する慣行を表現していると考えるのが妥当であろうと思われる︒

石井樋の機能復旧のための諸対策

65 

いま指摘した河床上昇←水量減少の図式を最も象徴的に具現しているのが︑嘉瀬川と多布施川の分流地点である︒

(12)

66 

2 W疏導要書』石井樋の図(佐賀県立図

書館蔵) 最も特色のある石井樋が存在する︒ そこには︑成富兵庫の事蹟のうちでも

2は﹃疏導要書﹄に添付されたそ

の見取図の写真である︒

そこで長恒がとらえた近年の現象を

次に列挙して︑行論を進めよう︿

5 0

荒龍を石井樋の上流に設けたた

め︑そこに当たった土砂がその下

流にあった淵に溜まり︑淵は消滅

れてしまい︑機能していない︒ 象の鼻とよばれる水制工の直下にあった亀石(下流へ砂が落ちないようにする砂止めの石)が砂によって覆わ

これらはいずれも石井樋付近への砂の滞留によって生じたものである︒ 分水施設としての石井樋と天狗の鼻の間にあった砂除けのための底荒篭がない︒

是等ノ手段皆古人ノ心塊ヲ労セシ所ニシテ後人ノ企及フ所ニ非サルヲ何レモ其利害ヲ悟ラスシテ取除シケリ如此後害ヲ残スコ

()

と感じた長恒は︑その復旧方法を提案する︒原文は煩墳になるので省略して︑以下にその内容を箇条書きする︒

(13)

)

石垣をへの字形にして二寸勾配をつけ︑水量空調節する︒

土俵でもって砂取り用の野越を二カ所設置する︒

象の鼻の東にあった野越の規模を旧来のように復元して︑前方の洗掘を防止する︒

底荒篭を再興する︒

天狗の鼻と石井樋との聞の野越をへの字に曲げ勾配をつけるとともに︑関口部を下に設けて余水を排水する︒

『疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

かなり細かな施策の列挙になってしまったが︑要は︑上流からの大量の土砂を石井樋に溜めないで勢いをつけて速

やかに河口まで流下させることである︒石井樋の位置が扇端付近の傾斜変換点にあるため︑もともとその付近の堆積

作用は顕著である︒

そのことは︑広範囲な自然堤防(現在は畑地・樹園に利用﹀の分布からも推察できる︒そこに無理やりに人工的構

築物を設けて多布施川への分水を行っているのであるから︑図2にみるような大きな巻出し(土砂が河床部に堆積し

て︑中洲状の高まりを作ったもの﹀ができるのは当然といえよう︒それを右にあげたような様々な工作物によって︑

勢いをつけていっきに下流に河水と一緒に流してしまう高度な技術体系が石井樋であった︒

67 

:

ν

(

)

(14)

68 

と言わしめる自信となったのであろう︒

山ノ仕立様

図ーには示していないが︑﹃疏導要書﹄には多布施川のあとに﹁山ノ仕立様﹂という例外的な項目がある︒あくま

で水利に関わるという意味で長恒が取り上げたものであろうが︑これを若干検討してみたい︒

禿()

険ク遠所ニアリテ材木薪用ニモ不成シテ朽捨ル所多シ百姓ノ草切リ場ハ村ノ近所勝手ヨキ場所ヲ見立テ残ル所ハ木立ニスヘシ小城佐嘉神崎御境目ノ山々筑前唐津共一筋隔レハ他領ノ所ハ何レモ森々タル木山ハカリ也同シ山続ニテ然モ日当リノ土地モ宜ケレ禿

(

)

佐賀藩領と筑前や唐津領の境には標高九

00

1

00

0メートル前後の地塁状の背振山地が続いているが︑その前

山にあたる部分に関する史料が右の文である︒佐賀藩内には禿山が多く︑毎年春に定期的に火入れをしている状況が

報告されており︑留山にして火入れを禁止し︑植生の回復を図ることを提言している︒当時︑このあたりでも焼畑的

利用が行われていたとみるのが自然な解釈であろう︒

この植林の効用を長恒は﹁樹山の五徳﹂としてあげている︒すなわち︑①落葉などの肥料としての利用︑@水源函

養林として︑@洪水の軽減︑④山抜け(土石流)の防止︑⑤用材や薪炭としての利用の五つである︒

とりわけここでは︑@が用水としての河川の水量の増加に寄与することを明言していることに注目したい︒

この節のまとめとして︑嘉瀬川・多布施川の要の位置にある石井樋における︑南部長恒︑が描いた土砂堆積に対する

(15)

『疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

一 一 一 一 一 三

69 

l

諸要因の関連を検討しておきたい︒

それを模式的に示したものが図3である︒山地から

平野にでて扇状地河川としての特徴をもっ嘉瀬川(上

『疏導要書』が主張する石井樋をめぐる諸変化

流は川上川として図示している﹀の︑石井樋付近でみ

られる土砂堆積は︑次の様な諸要因によって発生する

地質条件としては︑集水域の背振山地がほとんど中

マサ化が進んで土砂生産が多い

ことが特記されよう︒それに加えて︑前項でみたよう

に︑火入れによる禿山化という人為的要因によって︑

土砂の流出が促進される︒さらには兵庫の時代から変

化した分水井堰の構造によっても︑堆積が助長される

3

その結果が水量の減少(水位の低下﹀と河床上昇︑

疎通障害なのである︒多布施川はもと嘉瀬川の旧河道

のひとつであり︑現在の嘉瀬川の不自然な曲がり方か

らみで︑本流かそれに準じる有力派川であったことは

(16)

70 

佐賀城下町の建設に際して︑不要な水は嘉瀬川へ︑必要な水だけが多布施川へという論理が貫かれたといってよい

だろう︒すなわち︑必要な水とは飲料水と農業用水であり︑不要な水とは洪水時の大量の土砂を含む過剰な流水であ

る︒石井樋で嘉瀬川から分水して多布施川に入る水は七対三であり︑受益面積も全体では六四四二町と川上より下流

の嘉瀬川水系の五六WAにあたる最も広範囲のものである

a v

しかし農業用としては水量が不足するため︑幹線クリ

ークを経由させてそれぞれの圃場の周囲のクリーク(堀﹀に貯水するという佐賀平野独自の濯甑システムを採用せざ

るを得なかった︒﹃疏導要書﹄が指摘する石井樋より下流でのゴミの減少は︑クリーク地帯での非常に重要な肥料源

が減ることを意味し︑ここでの米の生産にとっての大きなマイナス要因であることが︑内包されているのであった︒

かかる佐賀藩の膝元を流れる重要な多布施川であるが︑天井川的性格をもち︑ひとたび洪水になれば︑被害は城下

全域にわたる恐れがある︒石井樋を︑全国にも類をみない堅固で複雑な構造をもった一文字堰の典型として喜多村俊

その背景には佐賀城下の水防という観点がこの分水堰に付加されていたためと私は考えた

ぃ︒そのことを長恒は直接には語ってない︒しかし堰の土砂堆積の除去という即物的解決法に固執しないで︑為政者

側の立場にたって︑嘉瀬川水系を広域システムとしてとらえる思考法からは︑このことは意識せざるを得なかったの

小河川の治水と利水

佐賀藩領には筑後川・嘉瀬川水系のほかに︑独立した小河川やため池が存在する︒長恒がとりあげたのは次の四範

(17)

鴎である︒第一が︑六角川・牛津川・塩田川・鹿島川などの感潮河川とそれらに流入する支流群︑ならびにこの流域

のため池である︒筑後川に直接流下しないで︑佐賀江に落ちる城原川以西の佐賀平野中央部の河川︑すなわち蛇取川

(四﹀︑焼原川(却)︑薬師丸川(辺)などもこれに相当する︒二番めが︑太良岳・経ケ岳を水源として有明海に注ぐ小河

川群(日l臼)で︑火山山麓地形を反映した放射状のパターンをとる︒一二番めの範鴎は︑日本海側に流入する有田・

松浦川の上流(ぬ14﹀であり︑第四番めが飛地的領土(深堀領)である長崎半島の小河川群(回l

いずれも分量的には前零にあげた二つの水系の河川に比べれば簡略な記載であり︑川の諸元以外には全一く記載のな

いものも多い︒ここでは︑そのなかで︑注目される記述に限って考察する︒

『疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

( 一

多久川と横土居

前章でも指摘したことであるが︑川と江は長恒によってかなり厳密に区別されており︑独立項目としては江が少な

いことはとりわけ注目してよい︒多久川も下流は牛津川(﹃疏導要書﹄では砥川江と呼称)という一江湖になるのであ

るが︑その部分に関するのは︑

末ハ中川本山川ト落合ヒ波左間ニ出テ古賀津ヨリ砥川江戸一引落ス道法四塁ホト此水ノ江筋四一流レ捨ルヲ波左間村ニ大井手ヲ揚テ

横辺国両郷ノ作水トス(上巻・多久川)

にすぎない︒この史料の後段は成富兵庫の計画によるという波左間水道のことを述べている︒つまり︑為政者の立場

にたった利水という観点からは︑江はたんに上流の余水の捨て場所にすぎないものである︒もっとも河道にそった小

規模な干拓地の沿岸農民にとっては︑アオが重要な水源ではあるが︑これは公共性の薄い個別利用的な水であり︑為

71 

政者側はそれには積極的には関与しなかったようである︒

(18)

72 

さて︑この中流の﹁川﹂としての多久川は︑多久盆地から狭陸部を通って牛津で佐賀平野に出る︒その狭陸部での

水害の性質について︑次のように長恒は位置づけている︒

此水本山川中川多久川三筋ノ落合ヒユテ前ノ如ク急水ノ場所ナルユヨリ松瀬村ノ内ニ水受ノ土井ヲ築キ納所村ヨリ下ニハ水害

此ナキ様ニシケル故其害ハ無之ト錐トモ此土井上ノ所小成多久ノ村ハ年々水滞シテ大‑一難渋スルコト也自然洪水ノ節右ノ水受土

井筋切渡出来ヌレハ砥川両所ハ云‑一不及祖子分村其外数ケ村ノ水害トナルコトナレハ比土井筋能々念ヲ入普請スヘキナリ(中略)

平生ノ流水ハ以前ト違ヒ漸々ニ減水シテ(中略)後年ノ為‑一作水ニ宜キ場所ヲ見立大ナル堤ヲ築立ナニ弁利ヘシト思ハル勿論村

ニヨリ早舷ノ備‑一堤ヲ築タル所モアリト雌モ一村限リ用水‑一テ郷中ノ助トナラサルナレハ書載ノ如ク場所ヲ見立皐魅ノ備ヲ成タ

キコト也(上巻・多久川︑傍点筆者)

右記の史料にでてくる﹁水受ノ土井﹂は河川の方向とほぼ直角に築かれた横土居と呼ばれる種類の特殊な構築物で

ある︒上流からの押し寄せ水をこれによって受け止めようとするもので︑日本各地の常習水害地にみられる固い(土

子)囲堤と同じ発想にたつ

a ) O

道常は水下の村が構築するものである︒4

は ︑ 嘉永七年(一八五四﹀の松瀬村・

納所村絵図および年代不詳﹁波左間杵島水道絵図﹂(いずれも多久歴史民俗博物館蔵)などを参考にして︑この付近の

状況を示したものである︒これらの絵図をみれば︑横土井のある付近の氾濫はかなり常習的なものであったようで︑

土地利用からも上流と異なり︑非条里地帯であり︑徴高地が氾濫原にそって散在的にあり︑畑地となっている︒

この図からもわかるように︑多久領は同じ佐賀藩であっも大配分格であり︑鍋島氏からは必ずしも十分な待遇を受

けていなかったようである︒上流の小城藩も力関係からは佐賀本藩に及ばない︒これに対して︑下流の村々は佐留志

郷などに含まれ︑いずれも佐賀本藩の所領である︒

そのことが右にみるように︑きわめて下流の村に加担した表現としてみられるのであり︑長恒が藩領全域に目配り

(19)

73  11疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

亡]多久領

i

二3j、城支藩

可近世に在在じた ため池 田・".横土居

〉九品羽佐間水道

4羽佐閑水道付近の村と所領

(20)

74 

『疏導要書』に説明がある江と直江工事

1

直江工中による影響

高橋川 (江筋) 大曲鐘子の鉱 潮持少なくなり,高橋宿まで

今泉袋 ×  舟運が不可能になった。

古賀袋 × 

嘉瀬川 (江筋) 徳仏の曲 O(享保年間) 舟運の衰退。嘉瀬津の河港機

麦新ケ江曲 O(寛政3年) 能の喪失。排水良好になった。

八回江 八回江 長泉寺曲 0(450年前) 水勢衰え,年々潟付(浅瀬)が

でき,滞水するようになった (失敗の事例)。そののち江筋 の泥没えが始まり,排水よく なって水害を免れるようにな った。

佐賀江 今宿江 大曲

小曲 (代替とし

今津江 相応津曲 ×て新川を開

削) 蒲田江

六角川 住之江 (3か所あり) 水害時に速やかな排水が可能

になった。

塩田川 塩臼川 琵琶の甲 0(56年前) 排水が良くなって,水滞地が

減少した。潮持は悪くなった。

宣江工事

「鐘子の鉱」

2lp│

をしていると指摘したことと矛盾するが︑

)のあるものは江筋と書かれているだけで,固有名調のないもの

より徴視的にみれば︑この事例のように本

藩優位の立場が貫かれているといえよう︒

(一一﹀江湖と直江工事

﹁江﹂という名称は若干の例外を除いて立

項されていないことは既に述べたが︑種々

の﹁江﹂とつく固有名詞は﹃疏導要書﹄の

上・下巻に散出する︒ここではこれらをま

表ーは﹁江﹂のうち何らかの説明のあるも

のを一覧したものである︒現在︑佐賀江古)

と呼ばれている江湖は︑上流を今宿江︑中

流を今津江︑下流を蒲田江と﹃疏導要書﹄

江ハ曲レルヲ貴ヒ川ハ直ナルヲ貴フ云コト郷

普請第一ノ心得ナリ(上巻・高橋川)

(21)

の言葉に集約されてるように︑曲流蛇行を旨とする︒しかもその曲流はかなり人為的なものである︒とりわけ鑑予の

鉱(青銅や真鎌で作った湯わかし器を吊すためのS字型の金具の意﹀と呼ばれるものは︑直線距離の二︑二一倍以上も

あるような蛇行で︑現在でも一部にその名残りをとどめているし︑佐賀平野各地にある﹁袋﹂︑﹁曲り﹂という地名は

このような地形をさす︒もともと︑ほとんど標高差がなく︑湾筋に起源をもっ江湖は︑きわめて蛇行しやすいのであ

さらにこれが成富兵庫らによって近世初期に強化されたというのが一般的見解である︒その理由は︑

水勢強グ殊吏洪水ノ節此ニ曲リノ鍵子ノ鉱ニテ引落ス水ヲ支ユル故水吐ノ弁利悪グ水滞ハ勿論嘉瀬久保保田ノ土井筋毎年切渡出()

『疏導要書』にみる佐賀藩の治水と利水

という︑洪水対策であった︒

佐賀平野のクリーク地帯は︑満潮時︑筑後川やその他の中小河川の水位が高まり︑洞水の流下が防げられる︒本書

中にみられる﹁潮を持つ﹂という表現は︑まさに水伎が上昇した江湖の状態を示して妙なるものといえよう︒

ところがこの鐘子の鉱が一OO年ほど前から次々とショートカットされてきた経緯を長恒は記している︒前述の嘉

瀬川の江筋では次のように書かれている︒

右ノ曲リ徳仏ノ南ヨリ久富ノ東マテヲ堀切直江一一成テ南海ニ引落シケルヨリ水吐ノ弁利ハヨグ成タル由(上巻・高橋川・傍点

筆者)この史料にみるように︑排水を良好にするのがショートカットの最大の眼目であった︒しかし一方で︑

75 

水ハ潮ト違ヒ高キヨリ低キニ付モノナレハ其勢ヒ強グ引落ス心アル故曲レル所アレハ其曲リ方ノ水当リ至テ強グ土井筋対へ兼ル

(

)

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