• 検索結果がありません。

翻訳の〈倫理〉の一側面 : 固有名詞の訳をめぐっ て

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "翻訳の〈倫理〉の一側面 : 固有名詞の訳をめぐっ て"

Copied!
12
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

翻訳の〈倫理〉の一側面 : 固有名詞の訳をめぐっ

著者 今野 喜和人

雑誌名 翻訳の文化/文化の翻訳

巻 9

ページ 1‑11

発行年 2014‑03‑31

出版者 静岡大学人文社会科学部翻訳文化研究会

URL http://doi.org/10.14945/00008194

(2)

翻訳の (倫 理〉の一側面

― 固有名詞の訳 をめ ぐって一

喜 和 人

はじめに

現在、翻訳文化研究会では科研費基盤研究③ の採択を受け、「翻訳の 〈倫理〉

をめぐる総合的研究」を行っている (平成24〜 26年度、課題番号:24617006)。

平成26年度が最終年度にあた り、27年3月 までには報告書を纏めて成果 を公表 することになるが、そもそも課題 自体が広範な意味内容を含む上、代表・分担 者計

9名

、連携研究者

2名

からなる大所帯であるため、扱 うべ き領域・言語・

視点・ ジャンルの数は多 く、全体 を有機的に連関させ、当該課題の研究推進に 貢献できるか、不安 と期待 を抱えながら各 自研究を続けている段階である。

小論は翻訳における「固有名詞」の処理の問題に限定 し、それほど重要とは 思われない事例でも、広い意味で翻訳者の く 倫理〉性を問われる場面が生 じ得 ることを示 し、もって本研究全体の及ぶ範囲に思いを至らせることを目的とし たものである。

忠実性 とい う規範

お よそ どのような分野の翻訳 にせ よ、翻訳者 の倫理 としてまず は 「正確」な 訳 を行 うよ う求め られ るとい うことに異論 はあるまい。翻訳 は原 テキス トと訳 文 の間の、 ある種 の 「等価性

Jを

追求する営みであ り、翻訳者 はその等価性 を 確保 す るために「忠実性」 の規範 に従 うことが求め られ る。原 テキス トの意味 を把握 で きずに間違 った訳文 を作成 した り、不適切 な配慮 か ら内容 を省略 した り、意図的に歪 めて訳出 した りす ることが非難 され るのは当然 である。現在 イ ンターネ ッ トを検索すれ′よ 各国の職業翻訳者 のための倫理綱領 を読 む ことが で き、 そのいずれ において も、正確 さ、忠実性 の追求が挙 げられていることか らも、 それは実感 で きる。例 えば、 アメ リカ翻訳者協会 の綱領 には以下の よう な文 が冒頭 に掲 げ られてい る。

‑1‑

(3)

We thc mcmbcrs of dle Amerlcall Translatos AssoclatOn accept as our ettdcal and professional duty

l to∞

llvey meantt bemeen pcopL and cu■ ures饉

血 し

aCCuratcし and

impartla■ y,[… …]1

つまり、翻訳者 (通訳者を含む

)は

第一の「倫理的・職業的」義務 として「忠 実に、正確に、公平に

J意

味を伝えなければならないとされるのである。 しか し、一見 自明の理に思えるこの規範 も、この思実性が、「何に対する」忠実性な のかを考え始めると、特に文学翻訳の場合は、複雑な問題に逢着することがわ かる。

周知の通 り、翻訳批評や翻訳理論 は古代 か らしばしば二つの立場の対立 にお いて論 じられて きた。簡単 に言えば直訳対意訳、逐語訳対 自由訳の対立であ り、

論 者によってその どち らに肩入れす るかは異 なるものの、 その対立 に全 く触れ ない翻訳批評 を探 すのは難 しいほ どである。 アンソニー・ ピムがこの二項対立 を簡潔 に表 にしたものを引用 してお く2。

キク ロ:

シ ュ ライエルマ ッハー : ナイダ:

ニ ューマーク:

ンブィー: ハ ウス: ノー ド:

トゥー リー: プェヌ テ ィ:

直訳 の解 釈 者 の如 く 異 化作 用

形 式 的 意 味重 視 の

反・ 幻 想 的 顕 在化 記録 と して の 適切 さ 抵 抗 す る

演者 の如 く 同化作用 動的

コ ミュニケーシ ョン 重視 の

幻想的 潜在化 道具 としての 受容可能性 流暢 な

それぞれの項 目を深 く検討 する余裕 はないが、 この二項対立 との関連で言え

│よ「忠実性

Jの

規範 は左側 の立場 によ り関係 しそ うだ と普通 に考 え られる。す

l htt"^躙Watanet Org7aboutus/code̲of profcssional condllct phP(20142月 2日 関覧)

2アンソニー・ ピム(武田呵代 子訳)「翻訳理論の探求Jみすず書房、2010年55頁

(4)

なわち、原 テキス トの表現方法や構造 を 「忠実

Jに

訳文 に移 す ことを第一義 と す る 「直訳」型 の方向性 である。 それに対 して右側 の立場 は目標言語

(以

下、

Target Languagc:TLと略す

)と

しての読みやす さ (ヴェメティ

3の

「流暢さ」)

を最優先 に して、起点言語 (以下、Source Language:SLと 略す

)テ

キス トの 表現形式か ら外れ ることを辞 さぬ訳文 を作 るとい う点で、「忠実」の規範 に反 し

てい ると見 なされがちだろう(古典的な「不実 な美女

Jの

比喩)。

しか しなが ら、「忠実

J規

範 を当てはめて等価性 を追求す る対象が何であるか に注 目す る と、問題 はそれほ ど簡単でない。話 を単純 にす るために、慣用句 を 例 に挙 げよう。直喩形式の 「

Xの

ように〜

Jや

隠喩 を用いた慣用句 がテキス ト

の中にあった場合、 この 「

XJ(喩

)を

訳文 にその まま訳す ことが 「忠実」 な のか、 それ とも喩え られている事態 を的確 に表現す るために 「慣用性

Jを

生か す ことが 「忠実」なのかは難 しい問題である。SLと

TLで

同 じ喩詞 を用いて、ほ ぼ同 じ意味 を表せ る慣用句 があるとは限 らない (例えば run hke a rabbt"と

「脱兎の如 く〜J)。 村上春樹 が言及 してい る4有名 な例 で、cool as a cucumber"

を 日本語 に訳す とき、喩詞 の 「キュウ リ」 をその まま訳す ことのみが 「忠実」

だ と思 う人 はいないだろう。 ここは (慣用性 は劣 るが直喩形式 を尊重 して)「機 械 のように冷静

Jな

どと訳すか、 あるいは慣用性 を重視 して 「泰然 自若」 な ど

の ように訳す ことも、原 テキス トに対す る一つの 「忠実

Jな

態度 であると言え る。

村上春樹 の ようにあえて 「キュウ リのようにクール」 とい う訳語 を作 って し まえば、 む しろそ こに焦点 があたる異化作用 が生 じるだろ う。 その場合、

SL

(英語

)で

慣用的 な表現が

TL(日

本語

)で

斬新 (も し くは奇異

)な

表現 になっ て しまうことになる。逆 に村上春樹 自身が 自分 の作 品中に用 いている 「キュウ リの ようにクール5」 とい う表現 は、英訳 では その まま cool as a cucumber"

と訳す しか ないだろ うが6、 原文 の (日本語読者 に とっての

)異

化作用 が逆 に 訳文 で消 えて しまう。

3ツェメ ティは英語 を目標原語 とする翻訳 において、「流暢 さ」

(auency)力

'最優先 され 訳者の存 在 を透明化する傾向力著 しいことをある種のエスノセン トリズムとして批判 している。

Cl Lawrence

Venuttルιらτパ″

"/ヽ

770υためl.7・.●,ス″おわ″ グ ルαバ″あ名

OXOn,1995

4村上春樹、柴田元幸 『翻訳夜話

サ リンジャー戦記J文春新書、2003年 、56頁

5村上春樹 「海辺のカフカJ新潮文庫、2005年、下232頁

6 Halukl Murahni,Kυ

%οた″ι ttο ,多 translated from the Japanese by Phillp Cabrlet London,2005,

p360

‑3‑

(5)

さ らに「キュウ リの ようにクール

Jは

原語 の慣用句 にこめ られた頭 韻 (cool と

cuc―

berの間の

)を

生かそうとしてい るわけだが、その語呂合わせ に加 えて 慣用性 をも再現すべ きだ と言 う立場か ら、多少文 の構造 を破壊 して も「平気の 平左

Jと

訳す とい う選択肢 もテキス トの種類 によってはないではない。 これは 上記 の二項対立で言えば完全 に右側 に属 す ると思われる戦略 だが、 それ はそれ で一種 の 「忠実」 な翻訳態度 だ とも言 えるのである。

さらに喩詞が翻訳学で しば しば問題 になる「レア リア(固有風物)」 であった り(日本語の「暖簾 に腕押 し」をどう他言語 に訳すか)、 起点言語文化のみで通 用す る固有名詞であった りすれば (「弘法 も筆 の誤 り」)、 その複雑 さは倍加 す る。慣用句ではない、オ リジナルな比喩であれば、訳 出が却 って易 しい ことも あるが、 また別 の意味で複雑 な困難 が生 じるだろ う7。 その点 はさてお き、 こ こで固有名詞の話題が出て きたので、慣用句の問題 を離れて固有名詞 自体 の扱 いについて少 し考 えて見 よう。

音訳か否か

固有名詞の翻訳 において も、まずは「忠実性」の規範 が最優先 であることは、

普通名詞の場合 と変わ らない。同 じ文字体系が適用で きる場合 であれば、 とり あえず発音 の違 いは無視 して、名前 に手 を加 えずにその まま移 す ことが大原則 である(英語 テキス トのChaplulは仏語 に訳 されて も

Chaphnで

あ り、

SL読

者 と

TL読

者がどのように発音するか―「チャップリン」と「シャプラン」―は間われ ない)。 漢字を用いる中国と日本の関係 においても(簡体字 と繁体字の相違その 他の問題はあるが)、 ほぼ同 じことが言える。

その次に、文字体系が多少 とも異なる場合は、SLに おける発音を

TLで

なる べ く近い音で再現 した「音訳」を採用する、 というのが翻訳者 に求められる原 則であろう。むろん音声学上の特性から正確に音を再現することは不可能でも (例えばフランス語の[]と[r]は日本語で区別できないので、地名のLensと

R

が同 じ「ランス」になってしまう等)、 これが「忠実」の規範に則っていること

7川端康成の「雪国Jの中の「蛭 の輪の ように滑 らかな唇」 とい う直喩 (『雪国J新潮文庫、1967 63頁)はサイデンステ ッカー訳では肖1除され、単 なる・

"moth LPs″ になった

(勁

ο″物 ″ひ translated bv E C Seldttilckctt Tutde,1957,p73)。 「蛭Jをその まま訳せ ば・sudcilke a tedl″

(「ヒルのように」吸いついて離れ ない)のようなマイナスイメージの慣用句が浮かんで くると思 われたか らであろうか。

(6)

を否定す る者 はあるまい。かつて 日本 と中国の関係 のような形式 を取っていた 日本 と韓国の場合 は、韓国 において漢字が使用 されな くなった ことや、歴史的 な問題か らお互いに音訳 を原則 とす るようになった8。

逆 に以上二つの原則 か ら外れ る場面 を考 えて見れば、翻訳上の問題が生 じる 地点が浮か び上 がって くると思われ る。 それをい くつか整理 してみよう。

1.同

一の対象 に対 して、SLと

TLで

異 なった呼称 がある場合

SLの人名や地名表記が

TLの

通常の呼び方 に代 えられ る例 が これに当たる(フ

ランス語のLouisが ドイ ッ語でLudwlgになった り、イタ リア語 のFirenzeが英語 や フランス語でFlorenceになった りす る例)。 キ リス ト教や仏教 な どの世界宗教 の影響や地理上 の近 さ、 その他様 々な交流 によって、SLと

TLが

多かれ少 なか れ共通の文化基盤 を持つ場合 な どによ く生 じる。

固有名詞 の本来 の意味 を生か したい場合

とも関連す るが、固有名詞 と言 って も単 なる符牒的な記号ではないので、

多かれ少 なかれ語源的 な意 味を持 ってお り、 それ を伝 える必要がある場合 には 音訳 が回避 され ることがある。固定化 した地名では「黒海J Black Seaな どがそ の典型 だが、かつて 日本 で外国語地名 を漠字化する習慣 があった ときは、音声 よ りも原語の語源的意味 を生かそうとす る場合 があった

(Hollywood(=「

ヒイ ラギの森」)力SHol17 WoOdと 間違 え られて 「聖林

Jと

表記 された例 な どが良 く 話題 に上 る)。

1960年代 にお ける日本古典文学の英訳 な どで は、 それ ほ ど意味 のない田中、

本 田、井上 といった名字 までCcntedeld、 Roo eldまたはBookfeld、 TOp o■

the wellなどと訳 され ることさえあった とい う9。 これ らは起点言語話者 でも通 常意識 しない語源的 な意味であって、「忠実性

Jの

規範 のいささか度 を超 した適 用例 だ と言 えようが、 テキス トの種類 によっては、全 くのナンセ ンス と切 り捨 てることはで きない。

音 自体 に焦点が当て られ る場合

固有名詞の音声 を用 いた 「しゃれ」 な どの言葉遊 びや、 日本の和歌のように

名乗 りの問題 などで しば しば議論 になる姓 。名の語順 を どう処理す るか も翻訳論的・ 比較文化的 に興味深い主題 にな り得 るが、 ここでは扱わない。

イルメラ

 

日地谷 ‐キルシュネ ライ ト(山中玲子訳)「グローパル化 された世界 における『翻訳文 化』――現代 日本 における翻訳 をめ ぐる諸問題」、法政大学国際 日本学研究所 『翻訳の不可能性』

法政大 学国際 日本学研究セ ンター、2007年186頁

‑5‑

(7)

掛詞に利用される場合などは翻訳者 も相当な工夫が強いられる。例えば、定家 の 「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼 くや藻塩の身もこがれつ ゝ」の「まつほ の浦」について、単に

shore of Matsu‐ hoЮ

などとせず、Pine sail CreekH(「 松帆 湾?」

)な

どと訳すのは待 ち人が乗る船の到来をイメージさせ、語源的意味を生 かそうとするためであるが、さらに「松」と「待つ」の掛詞を説明するために、

次のような二重訳を試みた例すら見 られる(「マツオ海岸」と「待機の海岸 (人 待ち浜?)」 を並べて記 している)。

Pour celle qui ne宙 ent pas Comrne l'algue marine qui brale Dans le calme du soir

1[乳 :苗me

Moi aussi,je consume r2

さらに、固有名詞にまつわる様々な喚起力が問題になる場合 もある。例えば 登場人物の名前について、単なる字面以外に、その名前を取 り囲む情意的な雰 囲気は、ある種のテキス トでは重要なファクターとな り、 これを単に音訳 した だけでは伝わらない部分があった り、逆に別のイメージが加わってしまった り することがある。地名の場合、例えば日本の和歌で 「歌枕」 となった名所旧跡

などは、過去の歌にまつわる記憶

(聞

テキス ト性

)が

膨大に含 まれていて、翻 訳で移 し替えることは事実上不可能である。 これを「コノテーシヨン」問題 と

して項 目を改めて論 じよう。

コノテーション

コノテーションを翻訳でどう

TLに

移 し替えれば良いのか、あるいはそもそも 移 し替えるべきなのか、 という問題は昔からしばしば議論 されてきた。ある単

tt

A

Hun*ed

Velses

frorn Old Japan, being a translation of

t\e

Hyhu-nin-issh,, by Wi.Uiam

N

Port€r Tuttle, Tokyo, 1979, No. 97.

tt

Thc Pnguin book of Jopcu.se lene, Varlslated wnh an inEoduction by Geotrrey Bownas and Anthony Thwaite, Penguin Bools, 19M, p.106.

t'A

hologie d.e la Littalatale Japonais., pat Michel Revon, Paris, 1910, citd par Jacqulin€ Pigeot,

.

Problame de traduction : la po6sie japonahe classiqre

", in Reoue de L;ttrratu/e Cor par,e, avnl- juin 1986, p.191.

(8)

語 に籠 め られた情意や主観 は言語 の壁 を越 えればもちろん、同 じ言語文化内で も世代 によって、 ミリューによって、 さらには個人 によって異 なるものである 以上、 もはや 「共示 の観念 は、翻訳理論 に、人間の間の、主観の間の、コ ミュ ニケーシ ョンの可能性 な り限界 な りの問題 を提起する・ 」 とまで言 われる所以 である。その点 を踏 まえた上で言えば、すべての普通名詞にデノテーション

(明

示的意味・ 外示

)に

加 えてコノテーシ ョン (暗示的意味・共示

)が

あるように、

固有名詞 にも特定 の存在 を指 し示す以外 に様 々なコノテーシ ョンが含 まれてい る。

人名では、上述 の 「田中、本 田、井上」 とい う名前にさえ、「一般性」 とい う コノテーシ ョンが含 まれていることは、例えば 「武者小路」 とか「金田一」 の ような名前が喚起す るイメージ と比較すれば了解で きるであろう。 さらに下の 名前 となれ│ま 性別 はもちろん、命名 に流行 り廃 り,嗜好があることか ら、年 代や社会 階層、 ある種 の性 格 までが表示 される記号 となる。作者が様々な配臆 を行 って物語 の登場人物 に付 けた名を他言語 に移す とき、 どのような戦略を採 るべ きかは難 しい 問題 をは らんでいる。

日本 における外国文学の翻訳 を考 えて見 ると、現在では中国語文学を除けば 片仮名表記 による音訳 が常識 になっているが、明治期 の翻訳では日本名への置 き換 えも珍 し くはなか った。既 に他所 で少 し言及 した ことがあるが・ 、有名 な 例 として ア レキサ ン ドル・ デュマ・ フィスのια Dαπ´α″ α ″″

̲に

ついて、

長田秋濤訳の『椿姫1匈 (明治36年

)が

ある。 ここで主人公の「椿姫」Marguente Cautierは後藤露子、Annand Duvalは有馬壽太郎 と表記 され、 その他周辺 の人 物 もすべて 日本名 を名乗 ってい る。 ただ し舞台 はあ くまでも19世紀 中葉 のパ リ であ り、地名、風俗、服装調度等の文化全般 はフランスのものであって、決 し て 「翻案」ではない。 もっとも、当時の状況、特に『高朝報』の主筆であった 黒岩涙香 らの翻訳 において こうした人物名の 日本化は珍 しいことではな く゛

(例

'f『巌窟王』)、 耳慣 れ ない西洋人 の名前が引 き起 こす抵抗感 をな くし、一般 読者 の記憶 を容易 にす るための工夫 であった。 ちなみに秋濤 より早 くZι Dク

Bジョルジュ・ ムーナン 帳 晃他の 嘲 訳 の理論J朝日出版社、

И今野喜和人 「長 日秋濤訳 『椿姫]にお ける恋愛表現 をめ ぐってJ

号別冊、2011年3月

11‑20頁

お『明治文学全集

明治翻訳文学集]筑摩書房、1972年、所収。

° そうしたスタイルは明治20年頃か ら始 まってい るとい う。参照、

がた 明治期 に於 ける言説の再構成』平凡社、2008年192頁

19804R178頁

『翻訳 の文化/文化 の翻訳J第6

劉 ‖意― 唯 史 の期 本小説のす

‑ 7 ‑

(9)

α″

0%″

sを

訳 した加藤紫芳はルビ付 き漢字で原名を音訳 している・

(馬

耳牙 鐘、危薦J蔓など)。

ここで長田の意図を推察するなら、アルマン・ デュヴアルを有馬壽太郎にし たのは、音の模倣のみならず、実在の有馬伯爵家18との連想もあって、プルジヨ フの御曹司 らしさを醸 し出すためであろう。一方でマルグリット・ ゴーチエが 後藤露子 となっていることには秋濤のさらなる戦略がある。「椿」は日本語にお いて、花の落ち方から俗間で「死」 との関係がしばしば言及されるが、 フラン ス語において

carnelliaが

そうした連想を一般的に持っているとは思われない。ま たデュマ・ フィスがそこに特別の意図を込めた形跡 もないЮ

。だが、秋濤 は日 本で古 くから「はかなさ」を象徴する「露」を名前の中に入れて、主人公の短 命 と結びつけていると考えられるのである。その上で近代的な響 きのある「子」

を付加 したことも、19世紀パ リに生 きる若 きヒロイィの性格造形 と無関係では ないだろう

(ち

なみにマルグリットの年齢は20代前半。四十がらみの友人プリュ ダンス・ デュヴェルノフには古めかしい「春田てる」の名が与えられている)。

外国の人名の日本化、 というこうした習慣 は、今では旧時代の悪弊 と捉えら れるかもしれないが、原名がフランス語読者 に与える効果

(た

とえそれがニュー トラルなものであつても

)を

翻訳においても移そうとしたという点で (「同等効 果」もしくは「動的等価」)、 これも一種の「忠実」な翻訳姿勢だと言えなくは ないのである。現代においても、 日本のテレビアニメが外国で放映される際、

現地の人名に変更されることがしばしばある。その頻度は例えばフランスで高 く、イタリアでは低い、など国によって違いがあ り、 これはこれで異文化受容 の姿勢を考える上で興味深い トピックであるが、ここでは立ち入 らない。ただ、

ここでも受容者

(ア

ニメの場合は若年・幼年層

)の

受け止め方を考慮 している 点で、長田秋濤の姿勢 となんら変わるものではない。現代 日本でも翻訳児童文 学において名前の発音に手をカロえることはしばしばある。

ひとつ珍 しい例 として、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜』の英訳がある。同作に

″ 市歴山成馬男(アレキサ ンダー・ デュマ

)著

、加藤紫芳訳 「椿の花把J春陽堂、1889年 腸 有馬頼万

(1864‑1927年

)、 その子頼寧

(1884‑1957年

)など。

nマルグ リットのモデル には実在のMa■ le Duメ翡 もとい う高級娼婦 がお り、当時東洋伝来の椿 は上 品で贅沢 な花 として大流行 していた。

(10)

は数種類の英訳があるが、Sig五st&Strou蘇 ぽ

0で

は、ジョバンニがKenJi、 カム パネルラはMinOruと 日本化されている。日本人読者を想定 しているわけでもな いのに、 どうしてこのようなことが起 こるのであろうか。それは言 うまでもな く、ジョバンニ、カムパネルラという名前が日本語読者に与えるエキゾチスム というコノテーションを重視 し、 日本語原作の児童文学翻.Ftを読む英語読者に 対 して逆方向のエキゾチスムを喚起 し得 る名前 として、KenJiとMinoruを 選ん だのであろう。

めんどりは何 と呼ばれるべきか

このように、一見 「忠実」の規範に反 しているように思える固有名詞の「変 更

Jも

、それはそれで広義の等価性 を追求 しようとする翻訳者の姿勢から生 じ ていることがわかる。 しか し、ある政治的な文脈の中では、 この戦略に対 して 倫理的な問題提起がなされる場面もある。 ここで日本 と韓国の微妙な関係から 生 じたエ ピソー ドを一つ紹介 しよう。

それは2000年に韓国で出版されたファン・ ソンミの童話『庭を出ためんどり』

の日本語訳を巡って生 じた トラブルである。養鶏場で飼われているめんどりの イプサク (イプは葉、サクは芽の意味があるという

)が

、養鶏場を逃れ、 自由 を獲得 して雛を産み育て、最後 に誇 りを持って死んでい くまでを描いた本作は、

本国でベス トセラーとなった。 日本では平凡社から、在 日朝鮮人二世で既に韓 国児童文学翻訳の実績があるピョン・キジャの訳で出版 されることになった。

しかし訳稿を読んだ同社の担当編集者から、「日本の読者にイプサクではイメー ジが得にくい」 として、原語の意味を反映 した「若葉」の名に書 き換えること が提案されたのである。それに対 して、訳者 ピョンは、「名前

=固

有名詞は個々 の存在証明。言語独特の響 きも含めて代えるべきではない。それが相手を尊重 し、異文化 を受容する姿勢だ」 として提案 を拒否。その後何度 も話 し合いが持 たれ、妥協案 も提示 されたが平行線に終わ り、ついには翻訳者の解任騒動にま で至った。 ピョンは「現代の創氏改名だ」 として反発 し、関西の朝鮮児童文学 者や翻訳家の集 まりである「オ リニ翻訳会」から「主人公の名の日本語化」 と

「翻訳者の交代」に反対する申し入れ書が平凡社に届けられた。ちなみに、原作

T

Kenji Miyazawa,

MiW

Woy

rcilftalj.

traislared and adapted ircm rhe Japanese by Joseph Sigrist aIId D.M. Stmud, Berkeley, c1996.

‑9‑

(11)

者のファン・ ソンミはむしろ出版社側に同情的であり、「主人公の名前も大事だ が、作品が語ろうとするメッセージがもっと大事」だと述べたというa。

以上が2002年 5月30日付けの『朝 日新聞』の報道内容であるが、同作は結局、

翌2003年に当初の予定通 リピョン・ キジャ訳で出版されることになる。結果 と して、イプサクの名は残 り、めんどりが自らの名前を定めるシーンに、次のよ うな一節を読むことができる。「イプサクは、アカシアの葉が うらやましくて、

自分で自分の名をイプサク 〔イプは葉、サクは芽、の意味〕にした。

2J児

童文

学ではあまり望ましくないとされる訳注 (〔

 

〕括弧による

)を

使用することで 妥協力城 立 したのである。

ここで、編集者 の判断や、 それ に対する訳者の反応の当否 について、論 じる のは控 えたい。 ただ、上 にも述べたように、物語の登場人物名が翻訳作品で別 の名 に変 え られ ることは翻訳史上珍 しい ことでは く、 それ な りの理 由は存在 し ていて、現代 の 日本で も特 に児童文学 においては起 こり得 る ことだけは再度指 摘 してお こう。編集者 の頭 の中には、固有名詞の本来 の意味 を伝 え ようとい う 意図以外 に、「イプサク」の 「〜サク

Jが

日本では男性名 に捉 え られやすい (与 作、田吾作 な ど

)と

い う心配 もあったに違 いない。訳者 ピョンの 「言語独特の 響 きまで含 めて変 えるべ きでない」 とい う主張は、忠実性 の一規範 か らして正 当な主張ではあるが、音声 が与 える印象 (音声象徴

)の

恣意性、個 々の固有名 詞 にまつわ るコノテーシ ョンを考慮すれば、編集者 にも一応 の理 はある。 しか しなが ら、 これが例 えば英語が原文の児童文学であった ら、編集者があえて完 全 な日本名 (「若葉

J)に

変 えようとしたか どうか疑わ しい とい うの も事実であ る。いずれ にせ よ、】」の国 と国 との間であれば起 こらなかったような トラブル が、 日韓 の歴史 の中に置かれて、極 めて政治的な対立 の材料 となって しまった のは不幸 な ことであった。

むすび

『庭 を出ためん どり』 の作者 ファン・ ソンミの著作歴 を調べ よ うとしてイン ターネ ッ トを検索 した ところ、同氏 は2012年 に『七色の虹 の独 島物語

Jと

い う

a「

主人公名変更、是 か非か

 

韓国童話翻訳め ぐり論争」『朝 日新聞』2002年5月30日付 け。

'2フ ァン・ ソンミ(ピョン・ キジャ訳)『庭 を出ためん とりJ平凡社、2003年11頁

(12)

童話を出版 していることを知った23。「独島 (日本名:竹島

)に

関する事実を基 に再構成 した童話。子 どもたちが独島についてきちんと知ってお くべき情報を、

七つの観点から描いた。主人公の「ファンイ」力

'、 夏休みに独島を訪れ、島が 韓国の領土だ

│い

う理由をしっか り学ぶ というス トー リーだ」 と『朝鮮 日報』

のサイ トは紹介 しているという。 ここでもまた、我々は固有名詞を翻訳する際 の政治性関与に奇し くもぶつかることになる。「独島 (も しくは ドク ト

)Jと

書 くのか「竹島」と書 くのか、「独島 (日本名 :竹島

)Jと

書 くのか、はたまた「竹 島 (韓国名:独

(ド

ク ト

))と

書 くのか、によって、訳者の政治的スタンスに 光が当てられてしまう (さすがに、同書を『七色の虹の竹島物語』 として日本 語訳出版する者はいないだろうが)。 しかし、いずれの選択肢 も「忠実性」の規 範に反 しているわけではない。指されている対象は日本海 (東海

?)に

浮かぶ 小島に変わ りはないのである。

これは極端な例かもしれないが、訳者の行 う様々な選択が、好むと好 まざる とに関わ らず、美学的な問題以外に、様々な倫理的課題に直面することが分か れば、本論執筆の目的はとりあえず達 したことになる。

http:″

apaC Ob10gjノ

185865897(20

42月

17日閲覧)。 ここでプログ筆者 は「朝鮮 日報J2月

12日付 けのネ ット記事 を引用 しているが、出所 の記事l」確認で きなかった。

http:ん vchosunonnnc c。ste/data7html dlr 2012/10/21″ 012102100041 ht‐1

‑11‑

参照

関連したドキュメント

長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか

長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

共通点が多い 2 。そのようなことを考えあわせ ると、リードの因果論は結局、・ヒュームの因果

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

藤野/赤沢訳・前掲注(5)93頁。ヘーゲルは、次

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

1 7) 『パスカル伝承』Jean Mesnard, La Tradition pascalienne, dans Pascal, Œuvres complètes, Paris, Desclée de Brouwer,