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r の :O!,~を ど う 忠 っ ているか I ~r 附 1] と 産 む 性 調 査 教 科 ~~の 中 の 女 性 差 別. ~ 主 立! i,ri~(lj H 幽 ほか

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(1)

婦 人 問 題 総 合 情 報 誌 〈あごら

I4

号〉

女の記録/入選作発表

新女大学研究エリザベス-マウ戸

わたくしが見たアメリ力

水田珠枝

アリスはなぜ失販したか河野貴代美

隣りがこわい佐多稲子

婦人問題企画推進会識で悟られている二と

育休法は婦人労働者の特効薬か

(2)

〈あごら〉 は、 女 性 解 放一一一人 間 解 放 を め さ.す グjレー プ で す。 雑誌 〈 あ ご ら 〉 は 、 そ の 方 法 の た め の 情 報、一一一中 でも女 に 関 す る 情 報 を 集 め 、 お 届 け す る こ と を 目 的 に、1972年 誕 生 し ま し Tニ。 特 定 の、 管理 さ れ た情報 は あふれ て い ま す が、私 た ち が ほ し い情報、とくに 女 が 求 め ている情 報の 入 手 は 困難で す。 皆さ ま の 生 き た情報、あ ふ れ る 知恵を 、 ど し ど し お寄せ く だ さL、。分断 さ れ て い る 仲 間 た ち と 、 考 え、行 動する 、 ヒ ン ト を 送 り合い た い と 思 い ま す。 既 1号く女が働くこと〉 ¥200〒200 ・怠児 女 が,{

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くこと 十公谷みよfほか ・資 料 働 く 女 は 過 保 護 カ、 ・面接調査 共働きをお]i11:して 2号 く女性と能力> Y 200〒200 ・調 査 例 く 女 性 の 地 位 向 上をめぐって ・テ{ーチイ ン 久性とfiE力 ・研究 女性はなぜ符fII!.周波になれないか 3号 く主婦の解放> (,)200〒200 ・調査 同地の

1

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婦の解政口、識 ・テ {ーチイ ン l=.紛の角ギ放をめぐって ・解説 二分 .来71: .0サ〈すみf 4/5号く壁を破ろう> Y 300〒200 干リ 9号く働く女と主婦の接点〉¥430 〒200 ・怠比 例〈火からtMへ t鮒からlij!<女へ • :U.¥].ti

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llr の、:O!,~をどう忠っているか ・ティーチイン 人1I~r附1]と産む性 10号く女と法> Y 700 ・記 録 名,liliJ放送!;:

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忘年;r;]I ・資料 iよiltのι

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の立:性 ・ティーチイ ン l予.む性とiHlt 〒300 11号く女と教育〉 ¥750〒300 ・論文 主紛が学ぶということ ・調査 教科~~の中の女性差別 ・ティーチイン 〈女と教育〉を考える 12号く国際婦人年世界会議>Y750 〒300

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(3)

1

4号

国際婦人年記念懸賞募集<女の記録>入選作発表

< あ ご ら >

昨夏、第七十五国会で成立した育児休業法が、四月か らいよいよ実施段階にはいる。 実施という現実の問題に当面して、育休法が必ずしも 万能薬ではなかったことが明らかになってきた。働き続 けようとする女、とくに教師に対しては父兄からの反発 が予想されるし、長子を保育所に預けて育休をとる人に は、長子を引取るよう、すでに勧告が来ている。十二年 のたたかいを通して獲得した法律でさえ、大きな問題を はらんでいるというこの事実は、さまざまなことを私た ちに問いかける。基本的には﹁保護と平等﹂という課題 が存在するわけだが、新しい法律が女性全般に及ぼす影 響について十分な情報があり、その十分な情報に基づく 十分な討論が、広くひらかれた場で請願に先立って行な われただろうかということも考えずにはいられない。 日本の女性の今後十年の行動の基礎となる行動計画も 婦人問題企画推進本部と企画推進会議を中心に策定され ようとしている。すすんで情報を知ることは、私たちの 権利であるという以上に義務といわなければなるまい。

(4)

あごら

1

4

目次

:

:

女性の視点から書く女の歴史

女の記録入選作発表

記録

離れ島の老女たち・屯田兵村の妻::・

J ¥

私の新しい恋人たち

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-・

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当金 口日

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詰~

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ヴ イ ナ

(5)

明日を考える女のひろばくあごら〉

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資 料

-育児休業法は婦人労働者の特効薬か?・

-婦人問題企画推進会議を見つめよう

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-・:

第七十五国会参議院における婦人問題の討議上

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婦人問題企画推進会議議事録抄:・

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育児休業法全文および提出法案:・

グループ紹介

:

愛知女性史研究会・:

深沢歴史サークル

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新聞切抜帖︿資料

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あごらのあごら・・・読者のひろば

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-佐多稲子さんとの 1

時間

隣りが

」ー

-日の丸の思想 、 がこわいんですよね、 町 内 の │ │ 。 │ 人 ロ に は き に ご自身ではどの時期をいちばん大切にお 考 て教えられたとき 分の目が てやっぱり一 しあわせな時期でもあ それは年代でいうと二 五年です あとです もただ五里霧 ばならないという暮らしでしたから 私の境遇は非常に変わ ょ 。 通の生活をしていたのが してね けでしょう だから子どもながら意識の 落したんだ

(7)

活をもっと他に求めるものがあるわけで すね。あるんだけれども、実際にはもう 貧乏のどん底を経験して、五年生のとき から学校に行かれなくなって、働かなけ ればならなかった。そういう娘に対し、 世間の目は非常にぎびしいですからね。 それに対応していくためには、 H 世間の 求める娘像 u に応えようって気があった わけね。娘は身を固くしているものだと か:・。それで自分を大変しばって、白分 を律していくのが一つの対抗なんです ね。私の、世の中に対する対抗。:::そ ういうふうにしてずっと来て、ふつうの 仲人の縁談にのっちゃった。のったの は、生活に自分が疲れてきて、厭世的に なっていて、死んでしまおうかと思って いるような暗い時期ばかり通ってきて、 つまり希望というものがなかったんです よ ね 。 身を固くして働いていて:::その職場 は今の働いている職場では想像もできな いのよ。仕事のことでしか男の子と話が できない。会社の門を一歩出たら口きい ちゃいけないんですから。そうすると ね、女の子って、やっぱり男の子と口き きたいって気があるわけよね。何も恋愛 したいということじゃなくて:::。それ から、当時の自分の精神的なものも・:。 女の子と話が合わなくても男の子となら 話が合うんじゃないかみたいなものがあ るのよね。それが全部閉ざされているで しょ。そうするともうほんとうに厭世的 になるしかない。一方、からだはくたび れてるけどお勤めを休むと日給月給です か ら 一 日 分 減 る 、 月 末 に 困 る 、 ・ : ・ : そ う いうことのがんじがらめで、ちっとも先 の見通しなんかないわけね。しかも割合 に小説を読んだものだから、何だか世の 中みんな知ってるような生意気な気持に なって、夢みたいなことが思えないの ね。そんな状態のときに、たまたま仲人 から話があって、経済的に条件がよさそ うなの。そんならのつかってやろうかみ たいなね。:::そこが私の本来ごうまん なところでして(笑):::たちまちしっ ぺ返しを受ける。だから余計に絶望しち ゃって:::。その絶望というのは、自分 自身に対してなのです。人生に対してご うまんであった、ということで自分に絶 望して: それでどうやら生き返って、子どもを 産んで・:。子どもを産むと強くなります よね、女は。子どもを一人かかえてこれ から生きねばならない。もう世間の目に しばられるのはやめよう:::。もういい や、白分の考え方で生きるんだみたいな ね。子どもを産んだ直後の女は、実には つらつとじますからね。そういうエネル ギーがあるんですね。自殺未遂というこ とで新聞にのったり、いっぱい恥をかい てきた。その反作用で、いわば居なおっ たんでしょうか。精神的にも肉体的に も、大変エネルギーに満ちてたんです。 ー ー そ の エ ネ ル ギ ー の 充 満 の 中 ー に お 勤 め に な っ た 。 そ こ で 窪 ろ ぱ め ﹁ 撞 馬 ﹂ の 同 人 と の 交 友 が 始 い う こ と 、 と て も 貴 重 な こ と だ な 気 が し ま す が 。 それはほんとうにありがたかったと思 ってます。がむしゃらに運動に飛込ん で、今まで考えていたもの、見たり聞い たりしてたものが、ベールがはがれたよ うな気になりましたもの。エンゲルス の、寸家族・私有財産・国家の起源

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読んだときの感動は忘れられません。私 は自分の境遇は運命だと思ってたわけで すね。しかしそうではなくて社会の構造 なんであって、その社会の構造は変えら れるもの、今後変わっていくものであ る。今後の歴史の担い手は働く階級であ ると。社会というものが初めて見えてき た。そうすると、運命でしょうがないと 思ってたことがそうでないんだというこ とになる。そこに行動に参加していく主 体的条件みたいなものがあったというこ と で す ね 。 ー ー し か も 、 そ の 見 ひ ら い た 目 の 廃 園 位 、 中 野 重 治 、 提 辰 雄 h 酋 沢 陰 之 と い 九 州 た 、 ピ カ ピ カ の 方 々 が い ら し た わ け で す ね 。 それはずいぶん大きかったと思いま す。寸盤馬 L の同人たちは、カフエーに 来るお客さんとしては貧乏なんです。そ ういう人たちの持っている雑誌寸騒馬し を見て、大変いい雑誌だと思った。それ は私が文学好きだったということがある んです。だから、その時分のこと、偶然 であり、必然だったと言ってるのよ。必 然 と 偶 然 の 結 び つ き 。 ー ー そ の 岩 馬 L の人たちに会ったのは偶然なんですけれ ども、結びつかなくてもいいわけよね。 離れてゆくことだってある。それにこっ ちが結びついていったのは、私の必然で もあったわけね。 ー ー も し も 、 街 角 の 小 さ な 、 そ の カ フ エ ー に お 勤 め に な ら な か っ た ら 、 先 生 の 今 日 は な か っ た か も し れ な い : : : 。 世 間 の 概 念 で 言 え ば 人 生 の 破 局 の よ う な も の が あ り 、 だ か ら ζ そ 新 生 が あ っ た と い う と こ ろ に 、 深 い 感 銘 を 受 け ま す 。 そ の 時 分 の カ フ エ ー と い う の は 、 ど う い う と こ ろ だ っ た の で し ょ う 。 ・ 今 m u ,

R

茶 広 J b 兼ねています。コーヒー を出すし、食べ物も出す、お摘出も出す・: というところ。そうそう、スナックみた いなものですよね。そこで働いて、内助 の功で、窪川さんに作家になってもらお うと思ってたわけですから。彼は勤めを やめて、書くことに専念して、私が生活 のこと:・ということになったわけです が、あのころはそういう人、ほかにもい たんじゃないでしょうか。

11

そ う い う 生 活 に 疑 問 は お 感 じ に な り ませんでしたか? いいえ、何も疑問は感じませんでした ね。ただ、そういう暮らしになったころ は、カフエーも、最初寸盤馬 ちに会ったカフエーよりもうちょっと高 級の、今でいうパーみたいな感じのカフ エーに移ってしまったから、エンゲルス なんか読んで、そういうのがいやになり ましてね。そんなところに働いているの が:::。それでやめて、アルバイトしな がら暮らすことになり、そういう中で ﹁キャラメル工場にてしを書くことにな っ た I l で 景 い 打 か 書 霊園くという気持ではないのですけれど も:::。その前に丸善に勤めていて、つ まらなくていたときに、詩を書くことは 覚えたんですね。詩というのは、一行の うちに非常に大切なことを含めることだ

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から、表現というもののむずかしさ、楽 しさみたいなものは、それで覚えたとこ ろがありましたね。生田春月さんの寸詩 と人生 L に活字にして頂いて、春月さん から、新進女流詩人として紹介するとい うお手紙を頂いたこともあるんですけれ ども、私、とてもびっくりしもやって、 おそろしくて、それはもう、ご辞退した ん で す ( 笑 ) 。 │ │ そ れ で 小 説 の ほ う に 転 進 な さ っ た : : : 。 いえいえ、小説書こうなんて思いませ んでした。小説書くなんて大変なもんで 私なんかに書けるもんじゃないと思って ましたから。子どものときなんかにも、 家庭にいわゆる総合雑誌もあったし、叔 父に文学青年がおりまして、割合に文学 というものを、高度に、私なりに把鐙し てまして、だからとても自分なんかに書 け F るもんじゃないと思ってたんです。 そこへ正ンゲルスなんかの新しい思想 ││文化というものも、働いている人聞 が岳分た抄の文化をつくっていくんだと いう理論を知って‘それに励まされて書 いたんです。それでなかったら、とても 書 く も ん じ ゃ な い : : : 。 │ │ 中 野 重 治 さ ん が 、 自 分 が 佐 多 稲 子 に 書 く こ と を す す め た ん だ 、 発 見 者 だ 、 と 言 っ て お ら れ ま す が 。 そうなんです。中野さんにすすめられ た わ け で す か ら 。 │ │ 寸 キ ャ ラ メ ル 工 場 に て L す ば ら し い 文 章 を ご ら ん に な っ て 、 中 野 さ ん は さ ぞ お 喜 び に な り ま し た で し ょ う ・ 別に:::。あのね、その時分のことを 申し上げると皆さんびっくりなさるだろ うと思うんですけどね、中野さんは私に 直接言ったわけじゃないの。寸盤馬しの 同人は、よく私の家に来て、ごはん食べ たりしていたんですけれども、直接話す ということはあまりないの。これは寸騒 馬しの人たちの気質でもあるんだけれど も、女の、一種の尊重でもあるんだけれ ども、はにかみもあって、何となく双方 が遠慮していて:::。最初、随筆書けと 言われて、随筆書いたら、この題材なら 小説に直してくれ:・と。それを私に直接 言ったわけじゃないの。ちょうど窪川さ んがるすで、ちょっと仕事させてくれっ て、二間あった部屋の一部屋で仕事し て、帰りに窪川さんにそのことを置手紙 をしていったんです。私に直接言わない で。そんなこと考えられますか、今の男 と女のことで。変わってるでしょう。直 接 言 わ な い の : : ・ 。 ー ー で も 、 な ん だ か い い お 話 で ほんとうに寸騒馬 L の人たちは、私を 尊重してくれたと思いますね。それは感 じますね。直接にはものを言わないよう なところがあるんだけれども。というの は、私が働いた経験があるし、いろいろ な人生経験があるということがね、小説 を書く寸誼馬 L の人たちにとっては、ち ょっと大きいのね。その重みで:・・: (笑)。生活ということに重きを置いて作 家になる人たちでしたからね。まあ寸一腹 馬 L 自身は、大変に芸術至上主義的なと ころもあったんですけれども、すでに中 野さんは帝大の新人会に関係してらした と思いますし、生活者というものを尊重 して見る気持が、中野さんの詩にもあ り、ー騒馬 L の人たち自身の中にもあり

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ま し て ね 。 │ │ 生 活 者 と し て の 女 の 人 を た い せ つ 位 す る っ て い う の 、 ほ ん と に す て き な こ と で す ね 。 そ う い う す て き な 方 々 の 中 で も 印 象 的 だ っ た の は 、 ど な た で し ょ う 。 みんなそうですけれども、中野さん、 堀さん:::ねえ。堀さんは、その後の活 動の中でプロレタリア的にはならなかっ たんですけれども、友情そのものは非常 に続いていて、私なんかにも、ずいぶん 援助して下さった。あの時分から体が弱 いから、あんまり大きな戸も出さないよ うな人でしたね。やさしい・:、大きな声 を出さない、その中に自分のものはちゃ んと持っているような、つよさを持って い る よ う な 、 ね 。 あの人たち、お互いを実に尊重しあっ てましたよ。西沢隆二さんは、堀さんと は反対にそれは大きな戸を出す人でした け れ ど 。 ー 1 1 先 生 は 男 友 だ ち と 共 に 、 女 友 だ ち に も 大 変 恵 ま れ て い ら っ し ゃ い ま す ね 。 宮 本 百 合 子 、 湯 浅 芳 子 、 室 井 栄 な ど : : : 。 それはプロレタリア文学運動の中での ことですね。いっしょに仕事をしました からね。生活全部ひっくるめて。あの当 時の、非合法の共産党が合法化しなきゃ ならんという、つまり合法的には認めま いとする体制の中で、何とか合法性を確 保していかなけりゃならぬという、そう いう方針のときでしたからね。それが文 化活動なんかに表われていくのだけれど も、そういう文化活動そのものが、非常 にイデオロギー的に激しくなっていくと きでしたからね。そういう活動を百合子 さんとはいっしーにしたわけですから ね。その活動を共にしたということで、 大変緊密なものがありましたね。 │ │ 私 ど も の 時 代 に 比 べ て 、 ほ ん と う に 大 変 な 時 代 を 生 き て ら し た ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。 いつの時代も、大変は大変。条件とし て言えば大変は大変でしたが、若かった からがむしゃらに:::。自分の個人生活 なんか苦慮しないで、ひっさげて、子ど もをおぶいながらですものね。亭主は監 獄にいる。老人と幼い子、赤 p h 坊とかか えていて、生活の経済は全部自分でまか なわなければならない。だけど仕事する ひまはない。それで非合法活動ばかりし てるんですからね。ずいぶん図々しいよ う な : ーーひたむきで、いちずで、百合子の ﹁ み 後家のがんばりつて、いつもあったん でしょ。意識があろうとなかろうと。生 活していく後家さんは、みんながんばっ てたわけですよね。がんばっていなけれ ば馬鹿にされるし、スキをねらわれる し、経済の問題でもがんばらなければな らなかったわけでしょ、必要以上に。自 分の本性殺すくらいに。 ー と す い い 百合子さんもね、とても女っぽく、み ずみずしい人でしたよ。百合子さんの小 説の中に、何かの時にお化粧して口紅つ け て 、 ばがありますけれども、そんな人でね、 きれいな人でした。いわゆる育ちのよい

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階層の美人型でしたけれどもね 。 色が白 くて 、 ぽ っ ちゃりして 、 非常に女 っ ぽく て : 。 美人でしたけれども 、 あの人は 論 が 立 ち ま す か ら ね 。 男とも論争する し 、 評論も書くし 。 それなんです 。 円分 のことを後家のがんばりと言ったのは 、 作家としてのがんばりなんです 。 世間の 後家のがんばりとはちがうんです 。 -│ 女 が 一 生 懸 命 生 き よ う と す る と 、 寸 が ん ば る L と か 、 夫をしのぐような仕 事 を す る と ﹁ 男 を 食 い つ ぶ す し と か 、 そ う い う い や な 目 、 い や な こ と ば を 一 つ 一 つ な くしていくのも私たちの仕事でしょうね 。 男が仕事をして女をみんな食いつぶし てきたくせに言わないのだから 、 そうい うのはきらい 。 ほんとうに腹が立つ 。 昔から 女 が働くことに対し男は女房を 働かしているという、そういう世間の 自 を気にしたわけですから 。 e e e -世間の目 っ て大変なことですね 。 夫婦 仲 にまで浸 透してきてね 。 今は家事なども協力的にしてら っ し ゃ る男の人もあ っ て 、 それはもうだいぶ昔 とはちが っ てきましたよね 。 でもその感 じ方はちがうわけね 。 女の場合はしな りゃならんのを人に代わ っ てしてもらっ てる気がするでしょう 。 そう思わなくて もいいんだと思いながらも 。 世の中の男,かしてないのに、なぜしなけ り ゃ な ら ん み た い な も の が る 。 理念ではわか っ てても 。 でもねえ 、 感情 っ てものは実に率直で 正直なものですからね 。 世の てなければね 、円 然で率直な気持がどこ かで傷ついたりして 。 むりに理屈づけて 何か 抑 えてやっていく限り 、 さつが爆発する 。 私に 寸 くれない う 作品があ っ て 、 夫婦の問題を書いてい るんですが 、 いわば私はこのことでは 北 していてね 。 しかし 敗北 と認めながら も口惜しんではいない 、 と 、 ではなく 、 そうおもうものはあるのです . 力 │ │ ほ ん と う に 、 世の中が変わらなけれ ば 、 ま こ と の 愛 も 、 ま こ と の 性 も く い と 思 い ま す 。 最近は夫婦で仕事も家 事も協力する例がふえ、中には妻の仕事 を夫が助ける例さえあるようです

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い う 新 し い 男 女 の か か わ り 方 が 、 世 の 中 を 変 え る 一 つ の カ に な る の か と い う 気 も し ま す 。 むかしでも高群逸枝さんのようなケー スも稀にはありましたね。 共同の仕事を共同に協力できるのであ ればいいけどもね。自分の仕事のために 夫が協力するという、内助の功の逆も、 今までの裏返しにすぎないでしょう。そ れは不自然だと思うわ。男も思いきり、 したい仕事をしたほうがいいんだから。 男も女も精神の高揚があり、はつらつと して、お互いが吸収しあい、お互いがそ の中でまた新たなものを生み出す、それ が理想でしょうね。けれどもね、そうい うはつらつとした精神生活をしていれ ば、それですべてが保障されるというこ とでもなくて、愛情の問題というのはむ ずかしいけれど、お互いが誠実に、とい うしかないんでしょうね。いつの時代に も言えることかもしれないけれど、こと に今日の体制の中ではね。 -│ 八 月 十 五 日 に は 、 ど ん な こ と を お 思 い に な り ま し た か 。 敗戦の日にはね:::。私はその前に戦 争協力という問題がありますが:::。キ ュリー夫人の伝記を読んでると、ポーラ ンドの、白分のことばもしゃべれないよ うな時期があったでしょう。ああいうふ うに把虚して、大変なことになったと。 日本は、アメリカが支配者になる形態で したからね。やらなくちゃ大変だと・: ・。解放だと思わなかった。共産党の、 つかまっていた人なんかは、自分が解放 されたものだから、その実感で来たんだ と思うんだけれども、われわれは外にい たせいかそう思わなかった。占領下にな って大変だと。中学生の息子にも、これ から大変だぞ、と言いました。でも電気 はつけられるという解放感はあったわね え ( 笑 ) 。 ー ー 去 の 解 放 に つ い て は 。 私たちはプロレタリア運動の理論で、 女性の解放は労働者の解放と結びつかな ければだめだということでやってきまし たから。それも、その前から、女は働い て、自分の自主性をつけなければ、とい うことは、ずーっと今までの生活の中で 考えていた理論でしたからね。今まで女 に権利は何もなかったんだけれども、こ れからは権利を持つことになるし、その 場合には、女が自主的にそれを生かさね ば因る、だから女白身が育たなければ、 という気持があったのです。それが婦人 民主クラブの創立に私が参加したときの 気持だったのです。 │ ま そうだったんですよね。戦争中はだま っていなければならなかった。しかしだ まっていたけれども、そういうものもっ てた人がたくさんいたんだ、それが一堂 に会したような感じでしたね。 ー と それを言うと話が長くなるけれども、 政党が自分の気に入った婦人団体にした くて自分の方針ばかり押しつけてくるよ うなところがありましてね。しかしこれ は共産党の下請けの団体じゃないんだ、 女の自主的な団体なんだ、一応尊重して

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もらわなければ因る、その戦いだったん ですよ。それはもう何度もあったんで す。そこで、それをどうしても押しつけ ようとする人との分裂があったんです ね。分裂ということばは正確ではないけ れ ど ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。 -1 原 水 禁 に し て も 、 母 親 大 会 に し て も 、 強 大 な 政 党 の 介 入 が 小 さ な 市 民 運 動 を 変 え て い く と こ ろ が あ る の は 残 念 で す ね 。 そういうものを汲上げていくような指 導をすればいいのに、上から押しつけよ う、この方針でやれみたいなことばかり やってきた。あれはどういうんですか ね。私たちは共産党がなるべく強くなっ てほしいと思ってきたわけですからね。 庶民の感覚を受けとめて、その時その 時に起こったものをつかんでね、自主性 で行動を起こすといちふうに指導してほ しいですね。今度のロァキ l ドの問題な んか考えますと、あの敗戦から三十年の 聞に、戦犯だった人聞が権力の座に居座 っていたということでしょう。革新勢力 はそれを自分の責任としても考えねばな ら な い と 一 一 一 日 え ま す ね 、 今 後 の た め に 。 そ れは、この事件をちゃんとたたかわねば ということでしょうけど。 私は、自分が戦争協力という過去のま ちがいがありますから、だからいろいろ 反省した上で考えるんですけれど、今、 ほんとうに市民の中に浸透していくこと をしてくれないと、市民と結びついてな いと、こわいですよ。よく私は、戦争中 のことで、弾圧で大変だったでしょうと 言われるのよ。実際、しょっちゅう警察 は来るし。しかしそれに対応して戦って いる時には、弾圧そのものが苦しいとか こわいという成雀同とちがうの。こわいと かつらいという問題じゃないんです。情 勢を客観的にいえば大変つらい、恐怖政 治の時だったといえるんだけど、こっち は受け身でだけいるんじゃなくて、こっ ちも押してるから、たたかってるから ね、こわいといったものじゃないんで す。私、こわいと思ったのは、戦争がだ んだん激しくなったときね、近所は皆、 夫が戦争にとられていったりするでし ょ、そうするとみんなつらいですよね。 つらいですけれども戦争に夫なり息子が 引出されているというのは、あの戦争 を、気持の中では否定してるのだけれ ど、日本は駄目だという理論は通らな い、やはりこの戦争は勝たなきゃならぬ みたいなものがあるわけね。そしてもう 強力に、国家的に押しつけてくるわけで しょ。隣り組というものがある。そうす ると、日の丸の思想も町内の中にあるわ けですね。そういうものがこわいのよ。 その中で 1 あれは赤だしといわれること はどういうことか:::。隣りはこわいで す よ 。 今後のために、体制に対するたたかい は、働く階級の中にほんとうに浸透して ゆくように、ということでしょうね。私 なんか言うのはおこがましいけれど、そ んなたたかいを求めたいと思います。

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わたくしの見たアメリカ

わたくしがアメリカをおとずれたのは、昨年七月十日から約一か月間であった。短期間だった の で と て も ア メ リ カ に つ い て 語 る 資 格 な ど な い よ う に 思 っ た の だ が 、 ﹁ あ ご ら が あ っ た の で 、 例 会 で 報 告 を し た 。 こ れ は 、 そ の 時 の 報 告 に 若 干 の 手 を く わ え た

これまでにアメリカにいく機会がありながら、出かける決心がつかなかった原因を考えてみますと、ひ とつには、わたくしのアメリカにたいする先入観にあるように思います。昭和のはじめにうまれて軍国主 義時代に育ったわたくしにとって、アメリカは一面では自由で豊かなうらやましい国でありましたが、も う一面では、戦時・戦後を通じて、巨大な物質文明を背景に、弱小国に国家利益をおしつける威圧的な固 でもありました。強い好意をもっと同時に強い嫌悪ももっというのが、アメリカという国にたいしていだ いた感情だったようです。そして、ほかの固にはあまり感じないこうしたもやもやとした気分が、わたく しがアメリカ旅行にそれほど積極的になれなかった原因ではないかと思うのです。 もうひとつ、学問的感心からみて、アメリカがそれほど魅力的だとは思えなかったことがあります。政 治的思想史を学んできたわたくしにとって、二百年というアメリカの歴史は、ヨーロッパの歴史ほどの奥 行きを感じさせないのです。またアメリカの学者の研究室田をみますと、膨大な資料を駆使してはいるもの

(15)

の、理論的な整理、検討という点ではヨーロッパの研究室固にはおよばないように思えるのです。部厚い洋 書を苦学して読んでも、最後まで歯ごたえのない綿菓子をたべているような思いを幾度もしました。アメ リカにいってどれだけ学ぶことができるのか、というのがこれらの本を読むたびに感じた感想でした。 このようなわたくしが渡米を思いたったの出、﹁国際啓蒙思想学会 L が エ l ル大学で聞かれることにな ったからです。四年前、同じ学会がフランスのナンシ l で聞かれた時に参加しましたので、もう一度いっ てみょうかという気持になりました。それに娘が中学の二年になり、今年ならば出かけても学業にそれほ ど影響しないだろうと考えたからです。(男にくらべて女の生活が子供の存在におおきく制約されること は、子供がうまれてこのかたわたくしが痛感しつづけてきたことです。大きなおなかをかかえて、子供が うまれたら楽になるだろうと思い、保育所にはいれば手が抜けるだろうと思い、小学校へはいれば、中学 校へはいれば:::、と思いながら、その度に期待はずれの目にあわされてきました。日本の社会は、母親 を子供にしばりつけてしまって、はなそうとはしません。これまでの外国旅行も、わたくしのばあいはい つも子供づれでした。行動の制約、余分な荷物、余分な経費はやはり負担です。それでも、学校を休ませ てまで子供づれで母親が外国にいくなんていい度胸だ、という声が周囲からきかれました。) 旅行はつぎのようなスケジョ l ルでおこなわれました。夫と娘とわだくしの三人で羽田を出発し、ニュ ーヨークに二、二一日滞在したのちエ l ル大学に行き、学会に出席しました。約一週間の学会の日程を終わ っ て ハ l ヴ ァ l ド大学に行き、﹃赤毛のアン﹄の舞台となったプリンス・エドワード島がみたいという娘 の希望をいれ、夫と娘とをカナダに送りだし、わたくしひとりハ l ヴ ァ l ド大学の女子学生寮に泊って、 図書館がよいを十日ばかり続けました。アメリカ大陸を横断し、ロスアンゼルスで夫と娘と落ちあい、サ ンフランシスコからまたふたりを日本に送り、わたくしはカリフォルニア大学(パIクリ l ) に八日ばか り滞在し、灼熱の日本に帰ってきました。低とんど大学で生活し図書館で勉強していましたので、アメリ カのわずかな部分しか見なかったわけですが、それでも、アメリカにたいするわたくしの先入観はかなり ゆさぶられたように思います。

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学会

エール大学でおこなわれた﹁国際啓蒙思想学会 L は、文字通り各国から参加者があつまり、内容も豊富 でした。アメリカ各地はもちろん、カナダ、イギリス、ポーランド、とくに啓蒙思想の本場フランスから 大勢参加し、数百人はいたように思います。女性の参加もおおく、ほぼ半数をしめていました。日本の学 会では会員のほとんどが男性で、わたくしたち女性はどぶねずみ色の背広の群集の中で圧迫感を感じるの ですが、ここではそうした異和感がなく、あかるさに満ちあふれでいました。 でも人種をみてみますと、白人がほとんどで、アジア人は日本人が六、七人、韓国人はフランス文学をや っているという女性がひとり、東南アジア、インド、アフリカ系の人たちはゼロでした。日本では、明治以 来ヨーロッパ思想を吸収することが重要な課題でしたし、現在でも、十八世紀につくられた近代精神は研 究者の注目をあつめています。日本のような近代化のおくれた国では、啓蒙思想に学ぶことがおおいのです が、アジア・アフリカ諸国からの参加がないのは、これらの国ではヨーロッパ的近代精神は当面の課題では ないということなのでしょうか。それとも白人中心の学会を敬遠したのでしょうか。いずれにしろこの地 域からの参加がなかったのは特徴的でした。それにアメリカ国内にはたくさんの黒人が生活していますし、 大学にも進学しているのですが、こういう人たちの出席もありませんでした。アメリカの黒人は啓蒙思態 に関心が薄いのか、ほかに事情があるのか、今度行った時には学会のだれかに聞いてみたいと思います。 学会の報告は、いくつかの建物にわかれ、午前・午後通して並行しておこなわれましたので、あちこち に出ょうと思うとかなりのハ l ド・スケジュールでした。啓蒙思想をひと口にいっても、十八世紀のさま ざまな問題がさまざまな角度からとりあげられるという感じで、政治・経済・文学・芸術はもちろん、医 学・化学の分野からの報告、女性の自我の問題、(報告者が欠席したので聞けないのが残念でしたが)、女 性著述家がみた政権の問題などがテ l マとなっていました。女性の報告者も発言者も堂々としていて、男 性にくらべてすこしも見おとりはしませんでした。日本でもようやく学際的な研究が注目されるようにな

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りましたが、これまでの学問的な壁はまだまだ厚く、壁のあいだにおちこんだ研究は冷遇されています。 婦人問題などはそれのもっともいい例でしょう。婦人問題を研究しようとしても、今の日本ではそれをさ さえるだけの体制はほとんどの研究機関にありません。 学会がはじまってしばらくして、女子寮に寸女性は集合せよしというピラがはってありました。何事が おきるのかと興味半分に遠くからながめていますと、こんなに女性の参加者がおおいのに女性の役員がい ないのはけしからんというはなしでした。ラディカルな方法をとれという意見も出ましたが、結局は手続 をふんでみようということに落着いたようでした。あとでフランスの学会の時に知り合いになったカナダ の女性に結果をきいてみますと、成功して女性も役員に選出されたとのことでした。寸おめでとう、よか ったですね L とわたくしがいうと、かの女は、寸おめでたくなんかありませんよ。参加者の半分は女性な んだから役員の半分も女性でなければねしという返事でした。男性が独占してきたさまざまな組織に、女 性も同じ資格ではいり、それが当然なのだという意識は、国籍はちがっても女性に共通のものになってき たようです。この点では、日本はとてつもない後進国だと思いました。 エール大学の学会は、大学だけでなく町をあげてのお祭りでした。正規のスケジュールのほかに、十八 世紀の音楽、十八世紀の演劇が学生などの手でおこなわれました。合衆国建国二百年をひかえて、十八世 紀が注目されたということもありましたが、目や耳で知る啓蒙思想はめったに味わえないものでした。

白井夫婦のことなど

この学会には、ゴドウィン著﹃メアリ・ウルストンクラフトの思い出﹄の訳者、白井厚・嘉子ご夫妻 が、小学一年のお嬢さんと一緒に参加されました。ヴァ l ジニア大学に滞在中で車できたというおはなし でした。白井桑子さんの今のお仕事は、ウルストンクラフトの主著﹃女性の権利の擁護﹄の翻訳で、ほぼ でき上ったのだが、ウルストンクラフトが出典をしめさず引用した箇所に註をつけるのがのこっていると のことでした。ウルストンクラフトの厄介な英語をたて文字にするだけでもため息が出そうなのに、誰の

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書いた何という作品かもはっきりせず、引用が正確かどうかもわからない文章の、典拠をつきとめようと エ l ル大学では図書館で夜おそくまでしらべていらっしゃるかの女の執念には、敬服しました。 わが娘の方はもう一人前なのだ(運賃も)といいきかせて、学生寮の個室にほうりこみ、食事だけ一緒 にしてあとは自由にさせておきましたが、白井さんのお嬢さんのばあいは(女の子ふたりで遊ぶこともあ りましたが)年齢も小さいので、かの女が学会の報告をききにいく時も図書館にしらベにいく時も、つれ ていらっしゃいました。子持ちの女が勉強しようとすると、何とたくさんの障害があることかと、わたくし たちは話し合いました。女性研究者の数が少なく、成果がそれほど上がらないのもふしぎではありません。 日本の学会では﹁子供連れ禁止しという規定はないのでしょうが、そういう例を見たことはありませ ん。もちろん託児施設を準備したという話を聞いたこともありません。エール大学のこの学会では、子供 が一緒で特に困ったということはありませんでした。では、欧米の大学が一般に子供にたいして開放的か というと、そうはいえないので、以前、オランダのある大学を訪問した時、教授は遠慮なくどうぞといっ て大学中を案内してくれましたが、守衛の中には非難するような目つきをしていた人がありました。 ウルストンクラフトの復刻版が出ているという白井さんのおはなしで、本屋をのぞいてみますと、ウー マンズ・スタデ l ズというコーナーには、婦人問題の古典がいくつかならんでいました。ペリカン・クラ シ ッ ク ス で 当

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吋印・があり(一七九八年にゴドウィンが出版したウルストンクラフト の﹃遺稿集﹄は、写真版が一九七二年に出た)、初期の﹃小説メアリ﹄、﹃女子教育論﹄も﹁イギリスにお ける女権論争、一七八八年

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年 L ( 八九巻)という叢書のひとつとして(現物は見ませんでした が)復刻されるとのことでした。この叢書には、まえにわたくしが苦労してフィルムをとった、ウルスト ンクラフトの同時代人、メアリ・へイズの民国可

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え云号、、 CD札豆諸宝、司bSHSREHw・HU叶印・が出たという連絡をいただきました。)ウルストンクラフトの死後、 現代ほどかの女が語られる時代はなく、ウルストンクラフト復活といった感じです。 そのほか、ひとつひとつあげるのをさしひかえますが、十九世紀の小説家プロンテ姉妹、ヴァIジニ ア・ウルフの研究室日がおおいのが自につきましたし、八百ページもあるジョルジュ・サンドの伝記もなら んでいました。エンゲルスやベ l ベルの翻訳もありましたけれども、日本ほど比重はおおきくはないよう でした。そのかわり、中国への関心は、婦人問題についてだけでもかなり高いように思いました。爆発的 な人気を集めた﹃女のからだ﹄の本とならんで、﹃女の権利﹄(女性の一生にわたる法律上の諸問題)の本 がかなりの場所を占めていました。 四

図書館

アメリカにいった目的のひとつが、図書館をみてくることでしたので、図書館ですごした時聞が一番長 かったように思います。エール、ハ l ヴ ァ l ド、カリフォルニアという三つの大学の図書館をみた感想 は、予想以上に開放的で、豊富で、それに整理がゆきとどいていたということでした。イギリス、ブラ スの古いところをしらべようというのですから、お門違いというところですが、それでも短期滞在者にと っては、イギリス、フランスよりもアメリカの方が利用しやすいように思いました。 数年前にロンドンのブリティッシュ・ミュ l ジアムを利用した時には、図書閲覧カ l ドを出してから本 が手もとにとどくまで二時間ぐらいはかかりましたので、朝申し込みをしてから一度外に出てコーヒーを 飲んでくるとちょうどよい、といった調子でした。(今年イギリスから帰国した友人のはなしでは、甲し

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込んでから本が出るまで半日かかるようになったので前の晩にカ l ドを出して翌日利用するという方法を とったとのことでした。また、イギリスでもフランスでも、利用者の資格を制限する方向にむいているよ うです

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ところがアメリカでは、十五分で書庫から本が出てきます。能率を尊重する固とはいえ、よほ ど整理が徹底しているのでしょう。図書館にはどこもコピ l の機械が備えてありますので、自分でコピー することができますし、割高にはなりますが図書館に依頼することもできます。カリフォルニア大学で は、名刺を出して頼むと、書庫出入り自由、一か月までの館外持ち出し自由の証明書をくれました。日本 の大学やよその国ではちょっと考えられないことでした。日本と決定的にちがうのは、図書館は本を退蔵 しておくところではなく利用するところだ、という考え方のように思いました。 わたしがハ i ヴ ァ l ド大学のワイドナ l 図書館で、イギリス空想的社会主義者ロパ ﹃ ニ ー l ・モラル・ワールドの結婚制度﹄を借り出した時、係の女の職員が、婦人問題をやるなら﹃ファ ースト・セックス﹄をぜひ読みなさいといいました。それはもう日本語に翻訳されていて読んだと答える と、ボ l ポ ワ l ルの﹃第二の性﹄とまちがえているのではないかというのだす。そこでたしかにデ スのものだと説明すると、日本の翻訳の早さにおどろいていたようですが、あれには嘘と本当がまじって いるから気をつけなさいという忠告もしてくれました。 どの図書館でも女の人はたくさん働いていましたし、仕事の知識にも精通しているようでした。エール 大学の学会の時にアメリカの女性から聞いたはなしですが、婦人運動が高まった結果、アメリカでは大学 のスタッフのうち女性の最低の割合をきめ、その日標を達成できなかった大学には補助金を打切るといっ た措置がとられることになったそうです。若い時に大学にいけなかった女性が、結婚して子供から手がは なれるようになって再入学するという話は、たびたび聞かされました。-日本の実状とくらべて、物が豊か だというだけでは説明できないちがいを感じさせられました。 ハ l ヴ ァ 1 ドでわたくしが宿泊をしていたクロ γ カイト・セシタ!という学生寮のむかいに、アメリカ 女性史最大のコレクションをほこるシュレジンジャー図書館がありました。このコレクションは、

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三年、アメリカ合衆国婦人有権者同盟の会長だったモ l ド・ウッド・パ l クさんの寄贈した書籍、手稿、 写真などを中心に、だんだんおおきくなったもので、コレクションの維持、拡大に貢献したア l リザベス・シュレジンジャーを記念し、一九六五年にはその名前をとった図書館になったそうです。蔵書 は、一八

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年以後の女性のさまざまな活動分野を網羅し、ス l ザン・アンソニ l 、 ピ l チ ャ 家、.フラックウェル家のコレクションもこれにふくまれています。(なお、シュレジンジャー図書館から、 寸女性史資料の文献 L というパンフレットをもらってきました。'ここでは内容の詳細を述べるのはさけま すが、アメリカ婦人問題のコレクションの所在など、お知りになりたい方はお間合わせ下さい)。 かなり暑いワイドナ l 図書館にくらべて、清潔で冷房のきいたシュレジンジャー図書館は居ごこちがい いので、一日の半分ぐらいをここですごしました。子供連れの女の人たち、男の人たちも勉強していまし た。日本では、社会人はもちろん学生でも、本格的に婦人問題を研究しようと思うとどこに調ベにいった らいいのかわからないという状態です。卒論に女性史を書きたいという相談をこれまでいくつかうけたこ とがありますが、そのたびに、資料も指導体制もととのっていないことを痛感させられました。アメリカ の研究には資料の羅列のようなものがおおいとはじめにいいましたけれども、研究のすべては資料の整理 か ら は じ ま る と い う 原 則 は か わ ら な い の で す 。 ー 世界の婦人運動のなかで、アメリカの婦人運動はかなりの比重をもっているのですが、日本ではアメリ カ女性史の研究は数すくなく、わたくし自身も通り一ぺんの知識しかもっていません。この図書館を使い こなすには知識不足、能力不足といったところです。聞いたことのない人名がつぎつぎとあらわれて、圧 倒されてしまいました。あるアメリカの女性にそんなはなしをしたら、寸今度は奨学金をもらって長期に ここにいらっしゃい L といいました。寸日暮れて道遠ししといった思いでした。

十出発のまえにアメリカ旅行の注意事項を何人もからきかされました。 一 ュ l ヨ l クでは地下鉄ピのって

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はいけませんよ、一流ホテルでも油断はできませんよ、ハンドバックはきちんともって、さっさと歩きな さいよ、といった調子でした。これは誇張だろうと半分ききながしてはいたものの、旅行をしているあい だずっと、気になりました。イギリスやフランスでは、ホテルの部屋から出る時、本や化粧品など出した ままにしておいたのですが、アメリカではその都度全部トランクにいれて鍵をかけました。パスポート、 現金、チェック、飛行機の切符をいつも持って歩くというのも大変でした。 さいわい、わたくしは裕福そうにみえなかったらしく、無事に旅行を終わることができました。でもエ ール大学では、学会の問中警戒体制にはいり、学生が要所々々につめているのをみました。白井さんのお はなしでは、夜おそくまで女の人が図書館で勉強する時は、たいていボ l す。ボーイフレンドの効用とはこういうものかと感心しました。柔道とか空手とかいったものは、どうせ やっても上達の見込みはないと思って、わたしは敬遠していたのですが、これからは女が生きていくため には必要な技術になるかもしれません。 アメリカは犯罪の国であるとか、ウーマン・リプが叫ばれるようになり女が権利を主張するようになっ たら犯罪がふえてきた、などという言葉がきかれます。女性の解放と犯罪の増加とが果たしてどんな関係 があるのかは、おおきな問題ですが、いまはつっこんでおはなしをする余裕がありません カの犯罪一-般についていえば、犯罪がおおいから退廃した国だとか、この国はだんだん堕落していくだろ うといった見方は、一一面的にすぎ F るように思いました。アメリカの国土の広さ、人種の多様性、階層分化 は、日本人の尺度ではなかなかはかりきれません。一方で極端な犯罪があるかと思うと、他方でストイッ クな生活があり、想像を絶するような富の蓄積があるかと思うと、日本の乞食もあえてあそこまではおち ぶれないと思えるような生活もあります。日本では、イギリスでは、という調子で、アメリカでは、と一 般化して語ることはできないわけで、わたくしがアメリカに対する先入観を修正しなければならないと感 じたのも、この点です。 凶悪な犯罪はたしかに社会の疾病ではありますが、 そういう犯罪があるからアメリカはくずれた社会だ

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といいきれないのは、犯罪現象をもふくめて、アメリカには若さと生命力とがみちあふれでいるからで す。寸国際婦人年あいちの会 L で、年輩の女の人が、ジーパンをはいてあぐらをかき、背中をだしている 若い女がいるのでおどろいた、という感想をのべていましたけれども、アメリカでは、これ以上短くはで きないぼろぼろのジーンズのショ l ツをはき、背中どころかおへそを出して潤歩する若い女に、何人も出 合いました。はちきれるような若さは、美しいものでした。時には粗野ともみえるこの若さと生命力は、 アメリカ社会をささえる力だと思いました。それにくらべるとわたくしたち日本人は、学校でも家庭で も、生命力をすいとられキパをぬかれる生活を、あまりにもしいられてきたのではないでしょうか。海外 に出て日本の女性が勝手がちがうのは、一言葉の障害もありますが、外国の女性の自信にみちた態度とわた くしたちの生活態度との差もあります。 婦人運動についてもみたいというのは、わたくしの希望ではありましたけれども、夏休みで電話をかけ ても連絡がとれなかったり、こちらが短時日で移動したりして、それほどの収穫はありませんでした。ニ ューヨークでは、ゲイ・リベレ l ションのグループがリプのグループと一緒になって、同性愛の人たちの 差別撤廃を、ケネディ大統領の葬儀のおこなわれたパトリック・チャーチに抗議をしていました。教会の 圧力によって、同性愛の人たちは、不当解雇も住居の立ちのきも裁判所にうったえる権利をうばわれてい る、というのがかれらの主張でした。リブの運動は曲り角にきていると伝えられ、今後はこうした運動が どう発展するのか気になるところです。けれどもたしかなことは、リプのこれまでの主張は社会の広い層 に定着し、一応の成果をあげていることです。 旅行者の印象は、その時のお天気具合や、偶然に出会った人たちとの接触といったちょっとしたことで 左右されがちですので、この報告も、どこまでアメリカの真実をったえられているのか気がかりです。し かしとにかく、わたくしは、出発前よりアメリカに魅力を感じるようになりましたし、ぜひもう一度いっ て み た い と い う 思 い に か ら れ て い ま す 。 ( 市 部 学 園 短 大 教 授 )

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女の記録入選作

女性の視点から書く女の歴史

に な 北方の開拓と、国防を担った屯田兵(とんでんへ い)制度によって開発された北海道も、先年、百年の 歴史を数えた。すでに、ほとんどの市町村に、市町村 史が刊行されている。しかし、どのベlジも、その大 半が、支配する性としての男性の手によっで書かれた だけに、男性の立場に固執し、当然のことながら女の 姿が全く見られない。 開拓を成功させる条件、それは女がついてゆくこと であり、同時に百姓がまじってゆくことだといわれて いる。北海道も、また、その例外ではなかったのであ る。しかし、それなのに、どのベ l ジにも女の姿が見 当たらないということは、女には書き残すべき歴史の 足跡もなかったのだろうか。 ちなみに、去年亡くなった、北海道地方史研究の一 方の旗がしらでもあった奥山亮先生の著になる寸新考 北海道史年表 L には、永享四壬子、西歴一四三二年か ら書きおこし、それから、嘉吉・享徳・康正・長禄と つづいて、文久・一万治・慶応・明治に至っている。そ して明治の代になって、明治五年にはじめて﹁七月一 日薄野遊廓開業 L ﹁御用女郎部屋しと記され、ここに 至ってはじめて女が登場する。その問、実に四百四十 年の問、女の姿が全くかき消されたかのように女の気 配さえ無いのである。 戦後、女性史の研究が盛んになり、幾冊かのすぐれ た成果が出版された。これらの本から私たちは、多く の啓発を受けて来たが、いつも物足りなさを感じ続け てきた。それは、その、すぐれたと一般に評価されて いる寸女性史 L のほとんどが、公刊された中央の資料 に基づいて書かれていることであった。 現在、社会のなかで、矛盾や差別や偏見にぶつかる

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ごとに、思わず振り返って見る女の生活、そのなかに ある母や祖母たちの素朴な生の軌跡にこそ、ほんもの の寸女の歴史 L の原点があると、私はながい間思いつ づけてきた。だれもが知りたいと思い、知ろうとして いる母や祖母たちの足跡である寸女の歴史しが、一部 の専門家の学問であってはならないと思い、それなら ば、女が女の視点で﹁女の歴史 L を書いてはどうだろ うか、と考えて、書きはじめたのが寸北海道女性史研 究 L で あ る 。 四年前の昭和四十七年の三月、旭川に住む五人の女 性が、春一番の吹き荒れるなかを、息せき切って集ま った。個人の能力を超えた新しい連滑によって、ひと り、ひとりの、孤立し、散在しているエネルギーを結 集すれば、貴重なデ l ターをより豊富に集めることも できるし、何よらも大衆女性の声なき声の広がりと、 重さをも理解してゆくことができるのだと、ひとつの 会を発足させた。 ﹁北海道女性史研究会しと、いかにも、ものものしい 名称をかかげての出発ではあるが、会員はたったの五 人で、歴史を専攻したわけでもないし、地方史の研究 の経験も全くない、,ずぷの素人ばかりである。 この研究会の発足と前後して、こうした女性史の範 ちゅうに入るべき二冊の本が、たまたま出版された。 日本では数少ない女流史家として著名な寸もろさわょ うこしの寸信濃のおんな L と、いま一冊は、これまた 底辺女性史序章というサブタイトルのついた山崎朋子 の寸サンダカン八番娼館﹂である。私たちにとって は、この二冊の出版は、まったくの偶然にすぎないの だが、大方からは、少なくとも何らかの形で影響を受 けての発足であろうとよく言われた。 北海道の女の歴史の序章を彩ったのが、そのハダの ぬくもりで男たちを温めた女たちの足跡であったとい うことは、一世紀をこえた今日の北海道の女性の地位 や立場に全くかかわりがないとは決していえないので あ る 。 会員のひとりひとりは、文学活動にも、婦人運動に も、そしてそのどちらとも、それぞれ深いかかわりを 持っていたとはいえ、こと寸女性史 L の寸史 を格調高く、学術的にたかめてゆくには、心細いばか りの集団であった。めくらへびにおじずのたぐいよろ しく、手さぐりの荒修行がはじまった。とにかく、既 成の文献や資料をつなぎ合わせたのでは、せっかく意 を新たにしての取組みの意義もなくなると、まず、老 女たちのきき書きによる証言のパターンを踏むことに

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した。会員は、農村・漁村・炭鉱・教育・しよう婦 と、それぞれ身近かな問題をテ l マに選んだが、私 は、ためらわず農漁村をテ l マにした。私にとっては このテ l マは、十年来ひそかに温めていたものだっ た 。 ベーリング海峡から押し流された寒流が、オホーツ ク海で渦巻き狂うため、宗谷でも、もっとも気温のひ くい、全く不毛に近い原野に入植した開拓部落を訪れ たことがある。昭和三十七年、婦人運動の中で、冷害 見舞の救援物資をとどけるためだった。 それをきっかけに、一年に何度かそこを訪れる機会 を持つことになったが、そこで垣間見たものは、まこ とに不条理きわまりない農政のなかで、苦悩する農民 たちの姿であった。そのほとんどが東北出身の、まだ 二十代の若い夫婦ばかりの集団であったが、新潟県の 寒地農業研究所を卒えた、前途有為な若ものたちの集 団 も あ っ た 。 東北地方の、二、三男対策として計画されそして移 住してきた彼ら彼女らを迎えたのは 1 全く牧草すら満 足に育たない、不毛の土地の払下げである。 志を立てて、一たん郷里を出て来たからにはおいそ れと引揚げてゆくことも出来ない。当然のことのよう にはじまったのが、男たちの出稼ぎである。、 失意のうちの出稼ぎである。お定まりのように、出 稼ぎ、蒸発、そして権病と、不慣れな都会での不如意 の生活は、この北海道の最北端に腰を据えた若ものの 集団をいや応なしに揺さぶりつづけた。 こうした男たちの生活の荒み振りは、即、女たちへ の照り返しとなって、そのしぶきをいやというほどに 浴びせられた。 まだ二十代の若さだというのに、その東北出身者特 有の色白の肌に、班点のようなしみが真くろに出来、 髪はほとんど例外のないほどに白くなっていた。その うえに中腰になって搾乳をするために、これまた例外 のないほどに腰が曲がっている。それにもまして私を 驚かせたのは、彼女たちの手の指が、皆寸くしの字に 曲がっているのである。時おり訪れて、彼女らの親身 の相談相手になっているたった一人の保健婦さんの話 では、こうした現象は、過労ももちろんあるけれど も、栄養の偏りからくるので、放置しておけない問題 だと、彼女自身思案にくれているありさまである。一 年中の副食物が、サンマの塩づけがせいぜい一箱か二 箱で、しようゆ一升あれば、盆も正月もたっぷり過ご せるとは、一世紀経て歴史をさかしまにしてもまだあ

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まりあるほどの苛酷さである。 生活改善や保健衛生の指導に一か月に一度は巡回す る保健婦や栄養士は、改善するにも手段はなく、避妊 を指導するにも、その避妊の相手のいないところで は、笑い話にもならないのである。戦後入植のずさん な例は、この北海道でも枚挙にいとまない程の数多く に達しているときくが、この地の入植も全くずさんの 一言に尽きるのである。 道庁では、夏休み中の大学生のアルバイトを使っ て、北海道の原野を測量させ、そこに何の研究も、手 だてもせずに、入植というよりは全くのほうりこむか たちで入れたのが実状である。離農資金をもらって土 地を離れることのできる人は、そのなかでも恵まれた 人たちで、牛を飼うこともできず、これはといって畑 の作物も穫れないという土地でも、ほかに行き場がな ければ行きょうがないのである。 婦人運動のなかでの、それも一年に何度か限られた 回数の救援物資の送りとどけなど、彼女たちの、生涯 を賭けての営農の、いくらのたしにもなるわけがない のである。何とかして、この有りえない実状を、何ら かの形で訴えたい、告発したいと、私はおもいつづけ ていたのである。 かりにも民主主義が、草の根までしみ込んだとおも われている現代にして、農民はかくの如きである。ま して百年も前の農民や、漁民の生活はどのような型で 移住し、そしてどのような女の生活があったのか、当 時の数少ない生存者の証言を得ょうとおもいたった私 は、さっそく行動にうつした。 この老女たちの証言を得ることによって、北海道史 にも、市町村史も、その影すら写っていない開拓当時 の女の生きざまを掘りおこし、書き残そうとおもった の で あ る 。 四月になり、おそい北ぐにの春を待ちかねて、私 は 、 小 型 の テ l プレコードと、カメラをショルダーバッ グに入れて農村に出かけた。各地の開拓記念館や、屯 田記念館をたずねて、生存者の住所や名前をたずね、 紹介をしてもらって、待ったなしで出かけて行った。 開拓当時の生存者ともなれば、そのほとんどが明治 生まれで九十才から八十才代である。文字通りとしよ りに明日がないのである。訪れたなかでは、口々に、 十年は遅かった、あの人も、この人も先年亡くなった ばかりだとくやしがられた。 せめて、はじめた以上は、数少ない老女を落ちこぼ しなしに採訪したいと私はおもった。実にこの四年間

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は寸女性史 L に追いかけられ、ー女性史しを追いかけ た四年間であった。 北海道での代表的な移民である 1 屯田兵、つまり官 製の移民は、数多い北海道の移民のなかでも、恵まれ た存在としてのちのちまで喧伝されている。 しかし、メスを入れて見ておどろいた。男たちのそ のほとんど、まず七割方は北方の守りのための兵隊と しての訓練が強制され、開拓は三割弱が普通であった の で あ っ た 。 五年間という短かい期限に、五町歩という広大な土 地を拓くためには、こうした苛酷ともおもえる処置が なければ、とても初期の目標どおりのめざましい開拓 はなされなかったとおもわれるが、ほんとうの開拓 の、そのほとんどの重責を果したのが、女たちであっ た 。 兵村という名前の示す通り、いわば、家族ぐるみ、 兵営に起居しているとおもえば間違いなく、そうした きびしい軍隊生活のなかで、女たちは、聞こんの仕事 の他に、茶わんや、鍋、釜に至るまで、菊の御紋章の ついた、陛下から下賜された食器や、器具の管理もま かされていたのである。一週間に一度ずつ、抜き打ち 的 に 1 庭検番 L と称する連隊長の巡視がある。その 時、万一にも、農具に泥がついていたり、鉄びんや釜 にすすがついていたりするとさあ大変である。教練に 行った戸主が大ぜいの兵隊の前に呼び出されて、叱責 され、そして、罰として重い仕置きが何倍にもなって 課される仕組みになっている。 腰まで泥につかつての開こんよりも、この仕事を終 わっての農具の後始末の方が、よほど神経をすり減ら したという老女たち。狭い兵匡のなかで、しうと、し うとめ夫婦と子供たちが折り重なるようになって夜は 眠るので、知らないうちに嬰児を押しつぶしている。 こうしたことは、当時の開拓地では全くの日常茶飯 事で、ある老女などは、二年つづけて、一人は生れて 十八日目に、二人目は二十日目に、朝おきてみると、 真くろいかたまりがころっところがっていて、しうと めからは寸もとの姿にして返せしと怒られるし、その つらさで子供を失った悲しみはなかったが、屯田墓地 に参る都度、人ごろしの責苦に後世苦しんだと述懐す る 。 百年の歴史しか持たない内陸よりも、四百年も前に 聞けたという歴史のある離れ島をと、北海道のそれこ そ文字通りの最北端の利民・礼文の両島の漁村にも、 私は一度は十日問、二度目は一週間と滞在して、二十

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