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遠藤周作とテレビ・ドラマ : 脚本を手掛けた作品を 中心に

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

遠藤周作とテレビ・ドラマ : 脚本を手掛けた作品を 中心に

池田, 静香

福岡共同公文書館

https://doi.org/10.15017/1551324

出版情報:九大日文. 25, pp.102-112, 2015-03-31. 九州大学日本語文学会 バージョン:

権利関係:

(2)

はじめに

昭和年月から昭和年月にかけて講談社から刊行され

49 7

53 2

た遠藤周作文庫全集(全巻別巻にはシナリオ集冊があり、

50

1

2

テレビ・ドラマ用に書き下ろした脚本本が収録されている。

3

また、『遠藤周作シナリオ集』(講談社月)には、文庫

46 11

全集同様、テレビ・ドラマ「平和屋さん」

年)

「あ

NH K 33

る戦中派」年)「わが顔を」年)が収めら

NH K 38

TB S 40

れている。遠藤がテレビ放送と関わりが深かったことは、彼が

昭和年春にはトーク番組の司会を務め、ぐうたらシリーズ

43

(1)

がベストセラーとなり狐狸庵ブームが到来するのと期を同じく

した昭和年には、ネスカフェ・ゴールドブレンドのに出

48

MC

演したりなどしたことから

、広

く 知

られ

た こ と だ

ろう

。だ

(2)

遠藤が脚本を手掛けたテレビ・ドラマの意義について論じられ

ることは、これまでほとんどなかった。とはいえ、山根道公編

「年譜・著作目録」

』新月)から

15

12 7

列挙するだけでも、遠藤がテレビ・ドラマ脚本を手掛けたこと

に関して、芸術祭奨励賞を受賞した「平和屋さん」

NH K 33

年)と「わが顔を」年)の件、遠藤作品が原作と

TB S 40

(3)

2

遠藤 周作 と

テレ

― ― 脚本 を 手 掛 け た 作 品 を 中心 に ビ ・ド ラ マ

池 田 静 香

IKEDAShizuka なったテレビ・ドラマについては「大変だァ」年)

MB S 45

の件、彼がホスト役を務め、毎回ゲストを迎えた「こりゃア

1

カンワ」

年)

、そ し て

、 信 仰 者 と し てハ イヤ ット NT V 43

(4)

神父の宣教番組「心のともしび」に昭和年から協力し、テレ

39

ビラジオ双方に出演していたこと件が、明記されている。ま

1

た、現在、インターネット上で公開されているテレビドラマデ

ータベースには、遠藤が関わったテレビ・ドラマ情報件が、

(5)

40

登録されている。

平成年月日、国立国会図書館は、日本放送作家協会が

26 4 17

平成年から収集を始め、その後、平成年に設立された日本

17

24

アーカイブズ推進コンソーシアムに同年引き継がれた後寄贈さ

れた、年以前のテレビ・ラジオ番組の脚本台本約万

19 80

2

千冊の閲覧提供を始めた。報道発表資料には、「特に

7

19 8

年以前の作品は、脚本だけではなく番組の映像・音声自体も

ほとんど残っていない」とあるが、これは、年以前 0

(6)

19 80

は特に、技術面からも経済面からも、番組の録画保存が難しか

ったことを指す。「年代以前の脚本をせめてなんとか

19 80

遺産としてとどめよう」という思いから始められた脚本の収

(7)

集管理が、体系的に行われるようになったのは、平成年、日

15

本放送作家協会理事長であった市川森一が、衆議院総務委員会

で提言を行ったことに端を発す

。極

めて

近 年 の こ

とだ

。ま

(8)

仮に録画映像が残っていたとしても、ひとつの番組に付随する

権利が多岐に亘り、クリアランスにあたっては複雑で煩瑣な手

続きが要求されるため、番組を視聴することは容易ではない。

(3)

加えてテレビ・ドラマや映画舞台の脚本台本は、上映上演後に

破棄されることも多かった。そのため、紙媒体から辿ろうと

(9)

しても、テレビ・ドラマの内容を詳細に知ることは、小説に比

べ簡単ではない。そうしたなか、遠藤がテレビ・ドラマのため

に書き下ろした「平和屋さん」「ある戦中派」「わが顔を」は、

『遠藤周作シナリオ集』や『遠藤周作文庫薔薇の館・女王戯

曲・シナリオ集Ⅱ』(講談社文庫月)から、少なくとも物

52 3

語内容を確認することができる。

(10)

遠藤と映像メディア、なかでも映画との関係を考えるならば、

大学卒業を控えた遠藤が映画俳優を志し、三船敏郎を真似て助

監督から俳優に転身しようと松竹の助監督試験を受けたものの

夢破れたことや、小説家となることを決心したフランス留学

(11)

(昭年~昭年)、映画の技法を自作の小説作法に取り込もう

25

28

としていたことが想起される。このように、映画という映像

(12)

メディアと意識的に関わった遠藤が、戦後新しく出現してきた

テレビという映像メディアと、どのように関わってきたのか

(13)

を考えることを小稿の眼目とする。その第一歩として、駆け出

しであった頃の昭和年代の遠藤が、テレビ・ドラマとどのよ

30

うに関わってきたのかに焦点を当て、その後の作品とどのよう

な繋がりが見い出せるのかを検討する。

遠藤作品のテレビ・ドラマ化

遠藤作品がテレビ放送される場合、そこには二つの関わり方

がある。それは、小説を原作としてテレビ・ドラマ化される場 合と、遠藤がテレビ・ドラマの脚本を書き下ろす場合である。

遠藤作品におけるテレビ・ドラマについて、小嶋洋輔が、「遠

藤周作「中間小説」論

書き分けを行う作家」

研究」第号)において、先のテレビドラマデータベースをもと

36

に調査を進め、遠藤原作のテレビ・ドラマ本、遠藤脚本のテ

32

レビ・ドラマ本の基礎情報を示してくれている。

4

(14)

遠藤の本業が小説家であることを考えれば、脚本を手掛けた

テレビ・ドラマより、原作者としてテレビ・ドラマと関わった

数が多いことは当然のことのようにも思える。だが、小嶋の調

査とテレビドラマデータベースの最新情報、そして年譜記述等

から勘案すると、彼が脚本を手掛けていたのは、主に『沈黙』

(新潮月)の時期である。これは、テレビ放送の歴

41 3

(15)

史から言えば、日本社会にテレビ放送が誕生し、普及していく

過渡期だ。テレビ・ドラマのひとつの形を作ったと言われる橋

本忍脚本「私は貝になりたい」(現年)が発表される

BT S 33

昭和年以前、テレビ・ドラマは、単発ものから連続ものへと

33

移行するなかでテレビ的なるものを追求し、演劇や先行する映

像メディアである映画との対比を通してその存在意義を見出そ

うとしていた。そしてこの時期、テレビ・ドラマの作り手た

(16)

ちが目標としたのは、芸術賞で評価されることであった。こ

(17)

うした風潮のなかで、遠藤が脚本を手掛けたテレビ・ドラマは、

芸術祭奨励賞を受賞している。

(18)

芸術祭とは、昭和年秋、文部省(当が「広く一般に優

21

れた芸術の鑑賞の機会を提供するとともに、芸術の創造とその

(4)

発展を図り、もって我が国芸術文化の振興に資することを目的

として」創設した、芸術の祭典である。現在、ライブを主と

(19)

する公演に対しては「演劇、音楽、舞踊、大衆芸能」の部門、

4

放送メディアを媒介とする作品に関しては、「テレビ・ドラマ、

テレビ・ドキュメンタリー、ラジオ、レコード」の部門が設

4

けられているが、本格的な運用が昭和年に始まったテレビ放

28

送において、テレビ・ドラマが芸術祭に参加したのは、昭和

29

年の第回が最初であり、この時は主に放送技術を選考対象と

9

した放送部門での参加だった。しかし、それまで街頭で見る

(20)

ものだったテレビが各家庭に普及していくなか、昭和年、

(21)

34

芸術祭にテレビ・ドラマ部門が新設される。産声を上げたば

(22)

かりのテレビ・ドラマ界にとって、芸術祭は、唯一の賞であっ

た。そのため、制作者たちにとっては、芸術祭で受賞すること

が目標となっていたというのが、当時の風潮であったようだ。

(23)

芸術祭で評価される作品を作ることを至上命題とする初期テレ

ビ・ドラマ界にとって、その枠組みの典型と見なされたのが、

昭和年度第回芸術祭賞を受賞した橋本忍脚本の「私は貝に

33

13

なりたい」年)である。未だ、日常と隣り合わせに

TB S 33

あった戦争責任問題を、平均的な青年の姿を通して描いた作品

が評価されたことで、テレビ・ドラマ制作者たちは社会的関心

事を扱う作品へ情熱を向けたという。と同時に、芸術祭熱は、

日々の放送業務を抱える現場において、年に一度の芸術祭にか

ける労力への疑問視や、社会派ドラマに拘るあまり視聴者の興

味と乖離していく現状への疑問から長続きせず、昭和年を

(24)

35

境に、芸術祭参加作品自体が減少していくという指摘が、初期

のテレビ・ドラマをめぐる状況をまとめた松山秀明「ドラマ論

~お茶の間をめぐる葛藤~」

調

月号

25 12

ある。松山の指摘を否定するものではないが、昭和年度以降

35

の芸術祭参加作に、依然として社会派ドラマが数多く名を連ね

ているのも、事実である。

(25)

脚本を手掛けたテレビ・ドラマ

小説との関係性を中心に

テレビ・ドラマ界の芸術祭熱に沿うように、昭和年代から

30

昭和年にかけて遠藤が手掛けたテレビ・ドラマ脚本は、形を

40

換えこそすれ、「戦争」を題材にしたものとなっている。

「平和屋さん」

遠藤初のテレビ・ドラマ第回芸術祭奨励賞受賞作「平和屋

14

さん」年)は、第回新潮社文学賞、第回毎日出

NH K 33

5

12

版文化賞を受賞した出世作『海と毒薬』(文月、

33 4

初出「文学界」昭月号の系譜をひく作品だ。『海と

32 6 8 10

毒薬』が、町内のショーウィンドウに飾られた青い目の人形を

起点として時間を切り換えるように、「平和屋さん」は、のど

かな日曜の昼下がりにこだまするペットのあひるの鳴き声を

(26)

象徴的に使用することで、物語内の時空間が切り換わる。現在

と過去を非対称の合わせ鏡とすることで、戦争協力が正義であ

った戦時下の姿と戦後の日常を対比させ、忘れることの出来た

人々の無邪気さ、到底忘れることのできない息子を亡くした老

婆や元陸軍大臣の娘の哀しみ、更には戦後になって自我の芽生

(5)

える年齢を迎えた若者たちがためらいなく「戦争反対」を訴え

る姿を、批判的に描く。視点人物となる速見は、学徒兵として

フィリピンへ出征した経験を持ち、現在は紡績会社の課長代理

として採用人事を担当している。先に述べた多角的な戦後の様

相は、速見の会社へ、元陸軍大臣の娘西崎美地子が面接を受け

に来た際、同僚たちが「成績は(略)一番いいんだが(略)戦争

犯罪者の家族じゃ(略仕方ない(略これが戦争中なら」と

(27)

軽口をたたき不採用の結果を出したことを端緒とし、「戦争の

思い出をかみしめるたびに、段々、今の時代の事がわかんなく

んなってくる」と悩む速見が、「こういうキッカケから近頃の

(28)

自分のもやもやした気持を整理してみたい」と思い立ち、美

(29)

地子の就職や住まいの世話ができるよう尽力することを柱とし

て展開する。その結果、戦争策略者を父に持った美地子の立場

と、戦争で肉親を亡くした近所の人々という、双方の、どうに

もならない現実が対峙されることとなり、一概には誰をも非難

することの出来ない状況が、提示される。

速見の「もやもやした気持ち」は、時折こだまする戦病死し

た友の、「俺のように、女房にもお袋にも会えず、戦争で苦し

み死んだものは、(略平和も何の慰めにも(略償いにもなら

ん」という声から呼び起こされる。安易な戦争反対を詠う芝

(30)

居を観劇した速見が「戦争なんてわかりにくい」と吐露する

(31)

のは、この「もやもやした気持ち」を晴らすために始めた美地

子の家捜しや職探しが、かえって彼に「戦後」の難しさを突き

つけたからだ。元陸軍大臣の娘や、戦争によって子供を亡くし た老婆という位相の違う人物を描くことでなされる「戦争認識」

の相対化が、本作のテーマだが、これは発表後、生体解剖事件

に関わった「人々を裁断する意志は全くなかった」と述懐し

(32)

た『海と毒薬』をはじめ、当時の遠藤の聖書読解を基とした「人

間は誰一人として他人を裁いたり軽蔑したりする権利はない」

という「聖書のなかの女性たち」

月号~昭

33 4

34

月号における信念に通じる。

5

(33)

だが、『海と毒薬』単行本化後のテレビ・ドラマ「平和屋さ

ん」は、視点人物である主人公が、「みなさんと同じ」一般的

(34)

なキャラクターとして設定されている点に、『海と毒薬』との

端的な違いがある。『海と毒薬』は、その題材を、米軍捕虜の

生体解剖実験という衝撃的な事件から採ったことにより、「自

分が同じ状況におかれたら、どの程度、抵抗できただろうか」

(35)

という作者の疑問の根源が読者へ伝わり難く、関係者からの抗

議文が遠藤宅に届くなどした

。 「

平和

屋 さ ん

」の

登 場 人 物 が

(36)

「みんなと同じ」で「平凡」な主人公、国防婦人会や警防団

(37)

(38)

といった、戦時体制下において多くの人々が属した末端組織に

おける戦争協力者として選ばれているのは、『海と毒薬』の時

のような誤解を避けるためでもあったろう。先に述べた「人間

は誰一人として他人を裁いたり軽蔑したりする権利はない」と

いう聖書理解が示された「聖書のなかの女性たち」は、『海と

毒薬』単行本化の前月から年ヶ月に亘って連載された。「平

1 2

和屋さん」が書かれたのは、その最中である。

「ある戦中派」

(6)

次に、「ある戦中派」年)だが、これは、後の戯

NH K 38

(39)

曲「薔薇の館」

月号や「女の一生二部

44 10

チ子の場合」

日~日。

56 7 3

57 2 7

の一において取り組まれた、戦争参加の道義的

責任を問うた内容である。だが、脚本家名が前面に出る戯曲や、

遠藤周

作 ただ一人の名の許に発表さ

れる 小 説 とは 違い、テレ

ビ・ドラマ「ある戦中派」は、キリスト教の「殺すなかれ」と

いう教えと戦争参加の矛盾を特化して問いを形成しはしない。

その代わり、学徒出陣せねばならなくなった矢口が、同じ下

(40)

宿に住む友人山崎に、「俺を大学にあげるために(略)苦労した

(略)お袋を悲しますために俺たちを戦争にかり出す(略)国家

とは一体何」なのか、と、「キリスト教」ではなく「母親」を

(41)

疑問の基準に措き、問題設定がなされる。そしてこの「国家」

を、「皮膚の色が同じ、顔形が同じ、そういう人間の集まりを

国というわけ」なら「顔形や皮膚の色が同じだという事は、(略

そんなに大事な事なんかなあ」、と、小説第一作「アデンま

(42)

で」

月号以降拘りをみせてきた「色の問題」

29 11

に措き、ストーリーを展開する。

同時期の短編「入営の日」

月号は、物

38 12

語られる順序に違いはあれど、戯曲「薔薇の館」や「女の一生

二部」のようにキリスト教の教えを前景化することなく、学徒

出陣を迫られた青年の戦争参加に対する疑問やその後の決断

が、「ある戦中派」とほぼ同じ表現、理由付けで作品化されて

いる。そのため、創作意図に大きな違いはなかったと推察され る。だが、これらを執筆した昭和年が、遠藤が文学的回心を

38

得る切っ掛けとなったといわれる、昭和年月から約二年七

35 4

ヶ月に及んだ結核再発に際する入院生活が終わり、徐々に『沈

黙』(新月)へと、意識が移っていく時期であるこ

41 3

とに留意した時、「ある戦中派」には、「入営の日」ではなされ

ていない、特徴的な表現がある。それは、矢口の戦争への疑問

を諫めながら聞いていた山崎が出征せねばならなくなった時、

早智子に入営せずに行方をくらます決意を打ち明ける場面だ。

卑怯者とは一体何だい(略心で正しいと思った事を、弱

さのためにやれない事だろう。今度の場合、僕は国という

ものが一体、何の権利があって母親から矢口を奪い、君、

君たちから僕を奪うのか納得がいかないんだ……。みんな

は入営する、陛下のため、日本のためという抽象的な理屈

でね。しかし本当はこわいから入営するんだ。(注、

(43)

は池田)

ここで言う「こわい」とは、入営を拒否して死刑になる噂だ。

その後山崎は、短編「入営の日」や「女の一生二部」で、「俺

が入営するのは国のためじゃない。みんながこうして苦しんで

いるのに、俺だけがその苦しみを逃げるのはイヤだ」と述べ

(44)

るのと同じ理屈で、出征を決意する。また、「ある戦中派」の

(45)

早智子は、先の引用にある山崎の告白を受けて、自分が山崎の

入営を本格的に阻止しないのは、彼をかくまって警察から拷問

をうけるのが怖いからだと思うようになるが、この早智子の拷

問への恐怖と女性としての思いとの狭間にある苦悩は、名前の

(7)

響きを残し、同じく「女の一生二部」へと引き継がれる。

遠藤作品において、「心で正しいと思った事を」、肉体的「弱

さのためにやれない」人物の代表は、『沈黙』のキチジローだ。

昭和年秋に訪れた長崎での踏絵体験が、やがて『沈黙』執筆

39

の原動力となった理由を、遠藤は、「戦争中(略)人間が肉体的

な暴力によって自分の信念や思想をたやすく曲げていったケー

スを(略目のあたりにし」た経験があり、「踏絵に足をかけて

いった人びとの話は」、キリスト教が敵性宗教であった戦争時

代に育った自分にとって「切実な問題だった」ためだと述懐

(46)

し、「自分の問題をもっとも投影しやすいのは切支丹時代だと

気づ」いたと続けている。とすれば、「ある戦中派」は、『哀

(47)

歌』

(講談月)所収短編と同じく、『沈黙』のデッサ

40 10

ンとしての役割を担った作品の可能性はゼロではない。そうし

たなか、「ある戦中派」には、『沈黙』への前奏曲であり、切支

丹時代と戦時中の拷問を二重写しにして創られた短編「札の辻」

月号とは、些か異なった表現が用いられてい

38 11

る。それは、「心で正しいと思った事を、弱さのためにやれな

い」ことを、「ある戦中派」のように「卑怯者」と呼ぶか、「札

の辻」のネズミのように「臆病者」と呼ぶかの違いだ。キチジ

ローの原型の一人で、外国人修道士ネズミが登場する短編「札

の辻」は、「ある戦中派」と同年の執筆だが、ここでは「彼(注

ネズミがいかに気が弱く臆病であるか」を示す戦時下でのエ

(48)

ピソードが繰り返され、執拗に「臆病者」という形容をもって

ネズミが造型される。だが、「ある戦中派」では、「心で正し

(49)

いと思った事を、弱さのためにやれない」者を、「卑怯者」と

いう一言で断定する。

また転び者キチジローは、まず『哀歌』所収短編「雲仙」

界」月号で描かれるものの、この時はその内面は外側

40 1

からしか描かれず、『沈黙』ではその心情がはっきりと語られ

る。キチジローは、短編「雲仙」では、短編「札の辻」で「臆

病者」と同じ意味合いで使用されている「怯えた」「弱さ」と

いった言葉で形容されているが

、『

沈 黙

』 で は

、「

臆 病

」、

「 卑

(50)

怯者」、「弱虫」と、ニュアンスの違う言葉を絡み合わせて造型

されている。更には、『沈黙』では、ロドリゴを役人に売って

(51)

以降のキチジローに対して「卑怯」という表現は用いられず、

捕らわれて後棄教するまでのロドリゴに対して、「卑怯者」と

いう言葉が用いられている。とすれば、『沈黙』における棄教

(52)

や、遠藤の棄教に対する意識の変化意味を考える上で、「ある

戦中派」における先の引用箇所は、ひとつの指標となるだろう。

なお、「女の一生」で「卑怯」と表現されるのは、戦時中の

キリスト教会であり、遠藤の切支丹研究の集大成である「日

(53)

本の沼の中で」

月号~月号)で、転び者は「卑

54 1

6

怯な自分(注、裏切りの自分、弱い自分、二重生活者

の自分」と説明されている。

(54)

「わが顔を」

「わが顔を」

年)

は、人間の心の奥にある「無意

TB S 40

識」を問題にした作品である

。 「

わが

顔 を

」 以

前の

作 品 で

「無

(55)

意識」を扱った短編「松葉杖の男」

月号に、

33 10

(8)

戦争中、中国の小さな部落で、捕虜の手足を縛って身動きをと

れなくし、母親の前で殺した体験が無意識に潜んでいることが

原因で、両足が硬直してしまった男の話があるが、「わが顔を」

(56)

にも「戦争中(略上官の命令で捕虜をしゃがませたまま背後

から射殺して」、突然、「跛」になった患者の話がある。「わ

(57)

が顔を」発表の一年ほど前には、「海の沈黙」

38

日~昭日号、後に闇の呼ぶ声』と改、昭月に

12 2

39 5 4

41 12

光文行)で、ある人物の理解し難い行為に直面した時、

周囲がその人物の「無意識」を探ろうとすることをストーリー

展開の軸とした心理サスペンスを執筆している。それと同じく

「わが顔を」も、結核を患い、三年に亘る病床生活を送る妻フ

ミ子が、遺書もなく自殺した本当の理由を、夫謙三が知りたい

と願うことを軸に、展開されていく。だが、短編「松葉杖の男」

やサスペンス「海の沈黙」といった昭和年代の「無意識」を

30

扱った作品と違うのは、このテレビ・ドラマでは、謎の自殺を

した妻の本当の気持ちだけでなく、作品の視点人物自身の「無

意識」までも、知りたいと考える点である。

妻の看病に専念してきた謙三は、夜、眠れないという彼女に

睡眠薬を渡す。いつもなら服用する分だけを置いて出るのに、

瓶ごと忘れてきてしまったある日、妻は薬を過剰摂取して自殺

する。友人は、自殺したのは「病苦を悲歎されて」だとか、「発

作的に」と言ってくれるが、謙三は「本当は心の底でどう思

(58)

って死んだんだろう」と、その理由を探りたいと願い、妻の

(59)

親友京子のもとを訪れる。彼女から、恨んでいたわけではない にせよ、母体のためとはいえ、ようやく出来たお腹の子を、相

談もなく堕ろしてしまったことが、病床のこれからの生き甲斐

になったかもしれないものを失ったと泣いたことを聞く。生

(60)

前から、妻のそうした気持ちに薄々気づいていた謙三は、自分

が何故、睡眠薬の瓶を忘れてきてしまったのかが気がかりで、

友人の心療科医斎藤のもとを訪れ、自分の行為の「真実」を知

りたいと打ち明ける。その結果、「生きているのが肉体的にも

精神的にも(略)辛い」妻と、「妻の苦しんでいる姿を見るの

(61)

が耐えられない」自分、双方の「苦しみからの解放」という

(62)

無意識下の感情が明らかとなる。それを受け、そもそもこの診

察に乗り気でなかった友人の心療科医が「そこまで突きつめれ

ば、出口がないじゃないか。俺たちのこの心の(略奥は」と

(63)

再び口にするところで、物語は閉じられる。

前述した「海の沈黙」の流れを汲み、サスペンス小説におけ

る謎解きのモチーフとして「無意識」概念を取り入れた作品に

は、『真昼の悪魔』(新潮月、初出は「新潮」昭

55 12

55 2

日号日号

、 『 悪

霊 の

午 後

(講談月、

21

7 31

58 4 台」

日~昭

日)

、『

妖 女 の ご と 56 10 9

57 5 8

く』(講談社月、は「現代

62 12

60 2

号~月号までの隔月)、『わが恋う人は』(講月、 おも

62 1

62 2

初出は「京都新」他日~昭日)などがある。

60 11 1

61 7 8

年譜に、『スキャンダル』(新潮月)のテーマとなった

61 3

「深層心理と悪の問題に関心が向かう」とあるのは昭和年の

56

項だ。とすれば、これらのサスペンス小説を書いていた頃と

(64)

(9)

考えてよい。だが、遠藤作品のなかで、「わが顔を」と同じく、

視点人物自身の無意識を探る物語が描かれる作品はこれらのな

かに含まれず、『スキャンダル』を俟たねばならない。むろん

「わが顔を」執筆段階では、まだユング心理学と出会っていな

いため、「無意識」が有するという「創造性」に思い至るはず

もなく、謙三自身の「無意識」がわかったところで、「出口が

ないじゃないか」と、むなしさだけが残される。

(65)

また、『スキャンダル』の中心的な「謎(無意識」は、「醜悪

や無に堕ちて死ぬ」悦びだ。そしてこのことを、「無意識」の

(66)

代表である成瀬夫人が、人間の本能として認識するようになっ

たのは、夫から聞かされた戦時下における中国大陸での婦女子

虐殺である。「わが顔を」の「謎」は、妻の自殺とそれを幇助

(67)

したのかもしれないと思う夫の「死」にまつわる深層心理であ

る。このことを「醜悪」とは考えないが、謙三が妻のお腹の子

を堕ろすかどうかの判断にまつわる参照点として、戦闘状況に

おいては、敵兵を殺さねば自ら、もしくは部下を死なせてしま

うことが挙げられていることなどを考えれば、視点人物の「心

(68)

の奥底」に潜む「死」にまつわる「無意識」を探究した「わが

顔を」は、約年後の『スキャンダル』に繋がる、重要な作品

20

であろう。

おわりに

小稿は、遠藤が脚本を手掛けた昭和年代のテレビ・ドラマ

30

作品を採り上げ、その特徴を確認してきた。その結果、「平和 屋さん」年)は、『海と毒薬』(文藝春秋新社

NH K 33

33 4

月、号)の補足的作品、「ある戦中

32 6 8 10

派」年)は『沈黙』(新潮月)のデッサン、

NH K 38

41 3

「わが顔を」年)は『スキャンダル』(新

TB S 40

61

月)へ至る試み、といった位置づけになるのではないか。

また、テレビ・ドラマ脚本が執筆されたのは、日本人であり 3

ながらカトリックを柱とした問題意識を持つ遠藤が、「妥協も

ヘッタクレもあるか。好き勝手なことを書いてやれ」と、思

(69)

えるようになる『沈黙』執筆以前の、苦しい試行錯誤を重ねた

時期である。そこには、日本人には縁遠い問題をテーマとした

自分の文学を、どうしたらよりわかってもらえるのかという悩

みがあった。戦後、産声を上げた日本のテレビ・ドラマは、昭

和年から昭和年頃までの間に、そのあり方を単発ドラマか

28

40

ら連続ドラマへと緩やかに移行しながら、その過程を通して「お

茶の間という時間と空間を「発見」してい」ったという。こ

(70)

の、お茶の間の娯楽となるべく、いい意味での「大衆性」に重

きをおいてテレビ・ドラマがその進むべき道を見出していくの

が、昭和年代のことでもあったことに、ひとつのヒントがあ

30

るように思う。遠藤がそれを意識していたか否かは定かでない

にせよ、『沈黙』以前に手掛けたテレビ・ドラマ脚本は、平凡

な日常を描くことの延長線上に神の問題を問う、遠藤文学のス

タイルを築き上げるための、重要なレッスンであったのではな

いか。

(10)

【注記

山根』新

1

15

12

月)頁参照。

7 355

山根道公編・著作録」に同じ、頁参照。

2

1

362

「わが顔を」年)につ、遠藤ディレクター

3

BT S 40

とりについ書かれ生」

代」昭日号ある

41 11 3

「今したタレン番付刊現代」昭日号)

4

VT

43 11 21

アカン」におインタビュー技術を讃え、「貴重

なタレント遠藤氏」の小見出

テレデータベースhttp://www.tvdrama-db.com/

(平

月確

5

27 2

国立国報道発表資料日付

6

26 3 25

山田太一「ご挨拶なぜの会をつくっ般社団日本

http://www.nkac.jp/脚本アーカコンソーシ 7

HP

石橋「映像の現存低いな放送文化を残していくために」

ーカイブ立宣言』ポッ月) 8

26 11 98

像の現存率がいなか放送文化をめに」注

9

8

に同じ、

99

現在、国立で閲覧でき遠藤脚本レビ・ラマは「平和

「わが顔を」「もう一人の獅子虎~あるキリシタン大名の 10

涯~」(年)る。(平月)

NH K 53

27 2

「夢よもう一度

どんなツマらぬ脚

11

42 4

月号頁参照。

24

日付日記、記』作品月、

12 26 1 1

55 9

文学全集』新潮社頁参照。

15

12 7 63 64

なお、遠藤の自慢

テレビ第一号」(冊文藝春

13

32

月号ぼくの家には今、萬を出してもない超特大二十四

12

インチのテレビがある。が米はじ)第

一号級のもの頁)などとそぶく。真偽は措くとして新し

91

いメあったテ

小嶋洋「遠藤中間小」論

書き分う作」(千葉大

学人文研究」号・年)頁参確定さた遠藤脚 14

36

19 38 40

レビ・ドラマは、「平派」、永

日記』初出帰朝者の」(央公論」月号

42 10

のパロディ「新帰朝」(年)頁)

MB S 43

50 51

現在テデータベーには、遠藤脚ビ・マ「もう

一人の不竜るキリシタン大の生涯~」(に同じ)が加 15

10

られ月)

27 2

本テレビド映人

16

61 9 47 49

文化芸術課編年史本文編

17

30

51 12 185

「平和屋さん」は、年度第回芸術祭奨励を受

18

34

14

34 11

分~で放

20 20 30 21 45 NH K

41

年度術祭奨励賞を分~

21

41 11 27 21 30 22 30

で放送。昭和年度回芸ラマ・じょ

BT S

44

24

毎日出演者と(文

'69

化庁『芸術祭年史資料編)』頁、

30

51 3 309

『同(下)頁参照)

51 3 264 270

文化庁「祭にて」http://www.bunka.go.jp/geijutsu_bunka/01geijutsusai/

19

(11)

文化庁文芸術『芸術祭年史本文編に同じ、 20

30

17

26 27

鳥山拡によれば「昭和テレビ普及台数十万台た」とあ

21

31

(『テレビマ史に同頁)怒賀三夫

16

57

像機の普受信者が一気に上昇す年(年)ごろ()同

56

31

喫茶店、さらに特定個人家庭の共同視

聴へ」とテレビ

人と映像』日本放出版

頁)

53 9 22

文化庁文課『芸術年史)』注に同じ、

22

30

18

309

文化庁文化部芸術祭年史に同じ

23

30

17

185

文化庁文化部芸芸術年史本文編』注に同じ、

24

30

17

185 186

文化化部芸課『芸年史編(同(』注に同

25

30

18

じ、参照。昭和年度第回芸

41

21

は、社会悪災害、原爆症扱ったも多か文化庁

文化部術課『術祭年史に同じ、頁)

30

17

191

「平」(年)、『薔薇の館戯曲

26

NH K 33

リオ文庫頁参照。

52 3 188 191 230

「平さん」注に同じ、

27

26

194 195

「平和屋さん」注に同じ、

28

26

225

「平和屋」注に同じ、

29

26

201

「平和屋」注に同じ、死したのこうした呻き声

30

26

203

長編小説「青い小さな葡萄」(月号~月号

31 1

6

迫害地の声として描か

「平和屋さん」注に同

31

26

191

「出」(売新聞夕日~日)藤周

32

43 2 5 13

全集』新潮

12

12 4 414

「聖なかの女」(婦人画報月~月号)、

33

33 4

34 5

用は『遠藤周作文庫聖書かの女性

50 11 89

頁にた。

和屋さん」注に同じ、

34

26

187

遠藤周作×井啓「あななら、どうしま」(あけ」初出

確認は、藤周子パ 35

18 10

頁に拠った。

「出世作の頃」注に同じ、 330

36

32

414

和屋さん」注に同じ、

37

26

121

「平和屋さん」に同

38

26

221

「ある戦」は、分~で放

39

38 12 8 22 30 23 30 NH K

された。

学系以の学生対する徴兵予制度が撤廃されは昭

40

18 9

ことで、遠藤はその年月に、慶應義塾大学文学部予科に学し

4

ている

「あ」(年)薔薇の館

41

NH K 38

戯曲・ナリに同じ、頁に拠った。

26

243

「ある戦中」注に同じ、

42

41

243

「ある戦」注に同じ、

43

41

256

引用は「入ール」昭月号は『ぼく

44

48 12

の洋頁にた。

50 5 26

「女の一生二

サチ子場合日~

45

56 7 3

57

日)

サチ子』朝日

2 7

57 3

参照

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