教育の<すき間>について:アウグスティヌスの「照明 説」と宗教的自覚を視座にして
著者 安川 哲夫, 長谷 顕信
雑誌名 金沢大学教育学部紀要.教育科学編
巻 55
ページ 1‑13
発行年 2006‑02‑28
URL http://hdl.handle.net/2297/6267
教育の く すき間)について
‑ア ウグステ イヌスの 「 照明説」 と宗教的 自覚 を視座 に して‑
安川 哲夫,長谷 顕信*
Abo utt hedi s j unc t i o nbe t we e nTe a c he ra ndLe ar ne r
‑ Fr omt hevi e wpo i nto fAugus ut inei l l umi na t i on‑ t he o r yandr e l i g i ou s s e l f ‑ a wa r e ne s s ‑
TetsuoYasukawa
,
KenshinHaseは じめに
今 日一般に語 られている教師像には,く知識伝 達者 としての教師) と (学習支援者 としての教 節)の二通 りがある。前者か らは,「教師は "敬 えるプロ"であれ」,「確かな指導力,実践力を もたなければな らない」とい う主張が展開 され, そ して後者からは,「教師は控えめであれ」,「教 師は学習者の主体的学習の支援者でなければな らない」とい う論調が繰 り返 される。「学力の向 上か,ゆとりの教育か」 とい う議論に典型的に 見 られるように,現代のわが国の教育は,教師 論に引きつけて考えた場合,上記二つの極の間 で揺れ動いている。
いずれの論 も,教師 と被教育者 とい う二項関 係のなかで学習の成立が語 られている。しか し,
この種の議論や実践には,教育の営為に基本的 に横たわっている (すき間)が 自覚 されていな い。つま り,教師が被教育者に何かを言語や動 作 とい う記号を手段 として教える時に必然的に 生 じる,伝達の不決定性 を忘却 している点に大 きな問題がある。 これは,人間が被教育者 (学 習者)に何かを教えようとする場合,人間の教 師は教えることはできない,真の教師は内なる 光である神だけだ, と主張 したアウグステイヌ スによってすでに提起 されていた問題であった。
本論文は,このア ウグステイヌスの問題提起を
受けて,神 ・人間の教師 ・学習者 との三項的学 習論の可能性 を探 り,かつまた,彼が (すき間) を埋めるために提出 した 「照明説」を,宗教的 自覚に基づいて一般化 しようとするものである。
第1章 教育におけるすき間の隠蔽
教師分析は (外部か ら)の視点 と (内部から) の視点に大きく分類す ることができよう。前者 は,教育事象を外から見て,その社会的な意味 や役割か●ら教師を把握す る立場である。ここで 言 う 「教育事象」は,一般に教師や被教育者 (生 徒,児童など),及び学習環境によって構成 され る出来事全体を意味す る。 これに対 し,教育事 象が成立す る内部者の視点から教師を捉える後 者では,大きな関心事は,教師 と呼ばれる者が 教育事象の内部で どのよ うな役割 を果た してい るかにおかれ る。
二つの視点は,むろん,独立 して存在 してい るわけではない。教育 とい う営みは社会的脈絡 に影響 され るし,教師の社会的布置 も教育事象 の内部で教師が果たす役割によって大きく変化 す るか らである。
教師 とは,根本的な意味で,(知識所有者)で あ り (知識伝達者)である。教師は自己の所有 する知識を言葉や記号 (身体的な身振 りなど) で学習者に伝 える。 この知識伝達の営みが く教
平成 17年 9月 30日受理
* 岐阜県大野郡 白川村立平瀬小学校教諭
えること)1である。教師は学習者に知識を確 実に教えたいと願い,(教えること)を実践する。
他方,学習者や親たちは,自分 自身やわが子が 成長する姿に気づき,教育により強い期待を寄 せるようになる。教師もそのよ うな期待にでき る限 り応えるために教えようと努力するので, ここに教育‑の期待 と く教えること)の成立が 相乗的に作用 し,教育‑の過剰な評価 と期待が 生 じる。
このような相乗効果 と教育‑の過剰な期待の なかで,人間は教育 (教育環境を含めて) しだ いで野蛮人にも聖人にも変わ りうる, とい う教 育万能主義が正当性をもつことになる。そ して,
(教えること)の無限の可能性が強調 されれば されるほど,教師は教える努力を要求 され,授 業における教師の関心の大部分は,どのように すれば効率的に学習者に知識を授けられるか, とい うことに向けられていく。かくして教師は
"教えるプロ''となるべ く "指導力"の向上に 日々努力 しなければならないことになる。
今 日,このような (知識伝達者 としての教師) 像はどれほど有効に機能 しているのだろ うか。
教師 と呼ばれている者は,一般には,何が真実 であるかを知ってお り,その真実なるものを学 習者に教える者 とみなされている。 しか しなが ら,情報化社会やその背後に進行する商品化社 会のなかでの知識の更新速度の速 さを考えるな らば,教師が常に正 しい知識を所有 していると は言い難い。 (知識伝達者 としての教師)像は, 少々時代遅れの,不適切なものになっていると 言えなくもないだろ う。(知識伝達者 としての教 節)の限界は,教師が伝達すべき知織を所有 し ていることを前提 とすることか ら生 じている。
では,学習者の主体的 ・自発的な学習を援助 することが強く求められている教師の場合はど うであろうか。学習者の知織の獲得は,教師の 知識の所有を前提 としなくとも可能である。た とえば,問題解決学習では,教師は学習者の疑 問に答えられなくとも,学習者の興味 ・関心や 適性 といった条件を把握 して,「辞典で調べれば
いいのでは」,「取材 して見るのもいいのではな いか」などと,解決のための方法や方向性を示 唆することで学習の成立‑ と導いてい くことが できる。そ して,学習の成果があがる場合,学 習者はその援助範囲のなかで活動 し,教えられ ていることを意識 しない。学習者は学ぶことに 仕向けられ,自ら進んで主体的に学んでいるよ うな感覚をもつ。今 日の教育界で教師が (学習 支援者) として位置づけられるのも,このよう な理由によるところが大きい。
学習者が自ら問題 を発見 し,問題解決のため に 自発的に学習す ることを保証 しよ うとす る (学習支援者 としての教師)は,(知識伝達者 と しての教師)像がもっていた限界を一定程度克 服 しているので,今 日,理想的な教師像 として 大いにもてはや されている。真理の所有者であ るがゆえに教師であるのではなく,真理‑の道 を歩むことを支援するゆえに教師である,と。
だが本当にそ うであろ うか。ある学習者が 「太 陽光発電はクリーンなエネルギーか」とい う課 題を立てた問題解決学習を例に,少 し考えてみ
よう。
この事例では,(学習支援者 としての教師)の 立場から授業を立案すると,学習者の予備知識 に "適合 した''学習の方向づけや調べ方を示す ことが,教師の重要な仕事 となる。 この仕事を 教師が うまく行 うためには,学習者が土台 とな る何 らかの諸知識 を所有 していなければならな いが,この知織の獲得は問題解決学習では十分 に保証 されているわけではない。それは学習者 個人に委ね られている。 したが.って,問題解決 学習を完全化 しようとすると,あらゆる知識に ついて,その獲得のためのプログラムを教師は 作成せねばならない。教師の側にも一定程度の 知識の所有 と伝達が要求 されるのである。
上記の見解は,太陽光発電 とい う特殊な問題 から導かれてきたのではない。物の名前,自分 や人の名前,文字などを例にして考えてみよう。
これ らの知識は問題解決学習で学ばれる種類の ものではない。知識をすでに所有 している人間
が,事実について何 も知 らない人間 (子 ども) に言葉や身振 りや手振 りなどを使って,「これは
○○
だ」,「あれは△△だ」と教えることによっ て知識が伝達 される。だか ら,私たちの経験に 即 して判断すれば, (学習支援者 としての教師) は く知識伝達者 としての教師)の営みに支えら れていると言える。このように見て くると,(知識伝達者 としての 教師)の限界は く学習支援者 としての教師)に よって乗 り越えられたとはいえない。両者の教 師像には共通する思考の枠組みがある。それは, 教師 と被教育者 とい う二項関係のなかで,(教え ること)や (学ぶ こと)を説明 している点であ る。前者にあって教師による "指導"が強 く求 められ るのは,教育者 と被教育者 との間にある 伝達の不連続性を克服するためである。そこで は,教育方法を改善 し完全化す ることで知識伝 達者 としての教師が抱えている問題は解決 され る, とい う前提に立っているため,知織 を提示 しただけでは伝わ らない とい う (すき間)それ 自体は直接的な問題 とは されていない。
他方,(学習支援者 としての教師)においては, 知識は伝達 されるのではなく,学習者が 自ら知 識を生み出すもの と見な されているので,(す き 間)は表面化 してこない。だが,先に指摘 した ように,(学習支援者 としての教師)も基本的に は (伝達者 としての教師)であ り,かつそれに 大きく依存 しているので,(す き間)は単に隠 さ れているにすぎない。
要するに,現代の教育の理論や実践では,敬 育者 と被教育者 との間に横たわっている (す き 間)はそれ 自体では認識 されず,忘却 された り, 隠蔽 された りしているのである。そこで以下, この (すき間)について深い洞察を した初期の キ リス ト教神学者アウグステ イヌス (354‑430) を例に,考えてみることに したい。
第2葺 くすき間)か ら見た照明説
ア ウグステイヌスは く教えること) をどのよ
うに理解 していたのであろ うか。『教師論』では
̀̀教 え る''は ̀̀docere"と表現 され てい る。
"docere"はラテ ン語で 「何かを伝 える,知 ら せ る,教える」とい う意味である。"docere''が 成 り立つには何かの媒体が必要である。具体的 には,言葉や身振 りや手振 りな どがこれに当た るが,彼はこれ らを 「記号」として了解する2。
(教えること) とは,記号によって何かを思惟 のなかに伝 えること3,あるいは,記号を用い て被教育者 に刺激 を与えることである。だか ら, 授業中に教師が話 さなくても,(教えること)は 成立する。教師の無言はある種の注意や心の落 ち着きの喚起の記号となって,被教育者を刺激 す ることになるか らである。記号を用いずには, 教師は教えることができない。 したがって,記 号の効果的な使用が教えることの成立の重要な 鍵 とな り,教師の 目も自ず とそこ‑ と注がれ る。
記号には伝達す る力があるとい う,議論の出 発点に置いたこの見解 を, しか しながらア ウグ ステ イヌスは,次には一転 して否定 してい く。
「サラバ ッラ」"saraballae''とい う言葉を用いて, 彼はこ う説 明す る。"saraballae"が何であるか 知っていなければ,「サラバ ッラとい う言葉は, それが表示す る事物 を何 も私には示 さない」4
と。 ラテン語末習得者で考えれば,このことは 一層明白になるだろ う。知 らない記号だけを与 えられても,それは単なる音にすぎず,何 も理 解す ることはできないか らである。記号 と事物 との間には,記号か らでは越境できない (断裂) が存在する。そ してそこか ら教師 と被教育者 と の間には知識の伝達にあたっての不連続性,す なわち,(す き間)が生 じてくる。
この (断裂)は何に由来するのだろ うか。先 ほどの"saraballae''とい う言葉を知 らない人は, その言葉を自分勝手なイメージか らある事物に 結びつけるかもしれない。そ うすると,記号 と 記号が指 し示す事物 との関係性が問題 となる。
(記号 と実在の関係性) をめぐる問題は,わが 国のア ウグステ イヌス研究者たちによってもす でに注 目されてきた。た とえば岡部は,その関
係性の様態を定めているのは,「すでに」とい う
"既在性'',"先在性''であるとい う5。茂泉は また,言葉の理解の根底に(記号 と実在の関係), 認識に即 した表現では 「経験」があることを指 摘 し,その経験の重要性 を 「経験の優位」とし て強調する6。 「すでに」あるところのものが把 捉 されていない場合,また経験が欠如 している 場合,記号 と実在の間には,く関係)が未成立で あるため,(すき間)が生 じる。
記号 と事物の関係をわれわれは普段いかに把 握 しているのだろ うか。アウグステイヌスが言 うには,「その事物(res)が何であるかを学んだの は,記号によって(signiflCatu)示 されたか らでは なく,その事物を見たか らであった。 したがっ て,与えられた記号によって事物そのものを学 ぶのではな く,む しろ,すでに認識 した事物に よって記号を学ぶのだ。」7"saraballae"の例で 明白であるように,記号によってはその事物 ・ 実在(res)の認識に至ることはできない。そこで アウグステイヌスは逆に,事物の認識か ら記号 が学ばれ るとい う事実に注 目す る。 ここか ら, 記号による教育や教師による教育が否定 され, 事物 を認識することで記号 も有意味にな り学習 が成立する,とい う学習観が唱えられていくこ
とになる。
事物の認識を可能にして くれ るのは一体何者 だろ うか。教師だろうか。そ うではない。教師 も記号を使って教える者である限 り,記号 と事 物の間に関係性がない空間では,(すき間)を克 服す ることはできない。だか ら,アウグステ イ ヌスにとっては,われわれが教える者 と呼び防 わ している (人間教師)は真の (教師)ではな い8。彼は (人間教師)を教師 と見なす ことは 間違いであると断定する。 日常的な (教える),
(教えられる) とい う経験について,彼は 「語 る人 〔教師〕が刺激を与えると,彼 ら 〔学徒〕
は間髪いれずただちに内か ら学ぶか ら,刺激を 与えてくれた人 〔教師〕か ら, 〔言葉によって〕
外か ら学んだのだ と思いこむのだ。」9と答える。
私たちが 日常抱いている (人間教師)によって
(教えられた) とい う経験は,教師及び被教育 者の錯覚にす ぎないのである。
では,人間は どのよ うに して学ぶのだろ うか。
アウグステ イヌスは言 う。(内なる教師)である (神)が私たちに教えるのであ り,神 こそが真 の (教師)である, と10。 『教師論』の別の箇 所で彼はまた (神)を (内なる教師) と読み解 き,(内なる教師)が私たちには (内なる光)と して享受 されている,と言 う11。内面に住み給 う (内なる教師)によって教えられることで, つま り,(内なる光)に照明され ることで人間の 真理の認識は可能になる, と言 うのである。 こ のような 「照明説」によれば,(教えること)と (学ぶ こと)はいずれ も (人間教師)ではなく (内なる教師)によって可能である。外か ら教 授を行 う(人間教師)の役割は,被教授者に「(揺 助)と (勧め)を与える」12ことに限定 され る。
ここに, (内なる教師)・(人間教師)・被教育者 とい う "三項関係"を枠組み とす る 「照明説」 による学習論が示 され る。
以上見てきたよ うに,アウグステイヌスは,
「照明説」を,学習は記号によって実在が示 さ れることで成立す るとい う考え‑ われわれの 言葉で言えば,知識伝達 としての教育理論‑
を検討 し,そこに (すき間)があることを発見 することか ら獲得 してきた。 しか し,彼の 「照 明説」には一般化の可能性 と同時に限界がある こともまた事実である。そこで次に,彼の 「照 明鋭」や (すき間)解釈の問題点を探 っていき たい と思 う。
第3章 照明説の問題点
アウグステ イヌスは認識対象を,感覚によっ て把握 され る 「可感的なもの」(Sensibilia)と精 神 に よ っ て 把 握 され る 「可 知 的 な もの」
(intelligibia)の二つに分類 し,その各々におけ る学習の過程を分析 している。 「可感的なもの」 が どのように認識 されるかは,「見たことのない 場合」と 「見たことのある場合」に分けて分析
される。「見たことのない場合」は,月を例にあ げて説明され,言葉が指 し示す ところのものと, それに関わる学習者 自身の感覚によって学ぶの である, と論ぜ られる。そ して 「見た ことのあ る場合」については,アウグステイヌスは,心 理学的用語を用いなが ら,その認識の過程をこ う説明する。以前見たことのある対象では,精 神の 「記憶の小部屋」に保存 されている心象一 丁過去に知覚 した物を表示す るもの‑ が呼び 起 こされ,それ らの心象を人間は心の中で 「証 拠書類」 として参照 し,事物を 「再認する」の である, と13。一方,「可知的なもの」につい ては次のように述べ られている。「われわれが精 神によって認識する対象,すなわち,知性 と理 性 とによってみるところのものについて論ず る とすれば,確かにかの真理の内なる光の中でわ れわれが直観するものについて語るであろう。
そ していわゆる 『内なる人』はこの光によって 照明 されるとともに,この光によって喜びを得 るであろ う。」 と14。
上述の議論でア ウグステ イヌスは, (内なる 光)によって照明 されるものを精神によって認 識 され る対象,すなわち,「可知的なもの」だけ に限定 している。「照明説」は 「可感的」・「可知 的」事柄を認識する際の原理 として成立 しない。
つま り,それは,教育一般の認識過程を説明す るものでない。したがって,「照明説」における (内なる光)を,記号 と実在の (すき間)を架 橋す るもの としては理解す ることはできない。
そこで,「照明説」が真理一般 について適用で きるか どうかを検討するためには,「可感的なも の」の認識についてアウグステ イヌスが どのよ うに了解 していたかを明 らかにする必要が生 じ てくる。先行研究ではこの間題はどう捉えられ ていたのだろうか。『教師論』の翻訳者でもある 石井は,同作品と同 じ頃に書かれた 『音楽論』
を引きなが ら,感覚の作用は 「真偽の判定の前 提条件」にすぎないのであって,知覚は 「内的 な働 き」・「心の作用」に属す る,と主張す る15。
なるほどア ウグステイヌスは,『教師論』の別の
箇所で,身体の感覚がそれ 自体で知識 になるの ではなく,「われわれが知 るものは理性 によって 捉え保持す る」とか,あるいは,感覚が感覚 と して区別 され るのは,「感覚」や 「内的感覚」で はな く,「理性的な注視や思惟によって」である, と述べている16。
わが国を代表す るアウグステ イヌス研究者で ある山田の 「照明説」解釈では,『教師論』で区 別 されていた 「可感的対象」と 「可知的対象」
は,トマス ・アクイナスの 「自然的認識」と 「超 自然的認識」とい う区分 として把握 されている。
山田は,この枠組みか ら,アウグステ イヌスが 問題にする 「真理」は 「自然的真理」 と 「超 自 然的真理」 との間を揺れ動いていると指摘 し, さらに,ア ウグステイヌスが 「自然的真理」と
「超 自然的真理」 を区別 していないこと,また 感覚的なことに関する認識に (内なる光)が述 べ られていることを確認 して,そこか ら 「照明 説」を真理一般に広げ,真理は,「自然的対象」
及び 「超 自然的対象」においても,知性が光を 受けることで認識 され ると,解釈す る17。
上に見てきた解釈に したがえば,「可感的なも の」の判断 も 「可知的なもの」に含まれている ゆえに,すなわち,感覚的対象に対する認識は 心の判断作用および知性的な対象に属するゆえ に,「可知的なもの」だけに 「照明説」が適用 さ れ るのではない。 「照明説」は 「可知的なもの」
に,そ してそれ を媒介に して 「可感的なもの」
にも当てはま り, したがって,真理一般に対 し て 「照明鋭 」が成立す ると言える。
しか し,記号的分析か ら得 られた くすき間) か らこのよ うに 「照明説」 を了解することだけ で十分だろ うか。詳細に検討す るならば,ア ウ グステイヌスが他の側面か らも くすき間)を解 釈 していることが明 らか となってくる。(人間教 節)が教える者だ とい うのは錯覚だ と述べた箇 所がそれだ。人々がこうした錯覚をするのは, アウグステ イヌスによれば,「話す時点」と 「認 識す る時点」との間に 「いかなる間隙も入 らな い」ので, 「あたかもこの勧告 を与えたものに
よって外か ら学んだように考える」か らである
18。ア ウグステイヌスはここでは,(教えるこ と)を 「原因と結果」の枠組か ら, (学ぶこと) が教師の言葉の力によって成立するとい う錯覚 を説明 している。換言すれば,(教えること)は 原因 と結果 とい う時間系列のなかで分析 され, また (すき間)も認知過程から説明された結果, (内なる光)は "認識を可能にする力" と理解 されているのである。
(すき間)は,先にも指摘 したように,言葉 と実在の関係の成立が先行 していないとき,記 号からは実在を示 し得ないとい う 「記号論上」 の規約に由来 していた。だがアウグステイヌス は,具体的な認識過程の分析では,(すき間)を 心理的 ・認知的説明形式の中で考えている。記 号論的な (すき間)は今や認知的視点から理解 され,くすき間)を埋めるものとして (内なる光) が存在する。
記号論的な思考の枠組みを認知的過程に投影 して (内なる光)を導き出す この構想は,はた して正当な手続きだろうか。記号の限界から"直 接''(内なる光)を導き出す根拠は成 り立つのだ ろ うか。
(す き間)は,く内なる光)ではなく,(理性) や く本能) といった個人の諸能力によっても埋
めることができる。例えば,認知的過程におい て,記号と実在の関係が,理性によって直観 さ れて身につけられているとか,実在認識が記号
を媒介に しない直観でなされている, と想定す ることも可能である。 とい うのも認識過程は、
教師 と学習者の間に様々な媒介物を想定するこ とが可能であり,(すき間)は様々な図式によっ て説明され うるからである。そ して様々な図式 を納得 させるために,体験的証拠や科学的証拠 が人々に提出される。ある人々は (すき間)を 心理的な "もの''で埋める説明に納得 している が,他の人々は別の図式による説明に納得 して いる。説明図式は可変的なものである。したがっ て,「照明説」も他の説明図式 と同等であるので, 記号の限界から "直接に''(内なる光)のみを導
き出す根拠はないだろ う。
以上見てきたように,(すき間)に関す る記号 論上の説明 と 「照明説」は "直接に"結びつ く とは言い難い。それなのになぜ∴アウグステイ ヌスは,(教えること)の可能性を人間の諸能力 ではなく (光)に帰せ しめるのか。その答えは 彼の (光)の体験に隠 されている。
アウグステイヌスの自伝的作品である『告 白』
を分析すると,光の体験には,彼が32歳のとき に起きた二つのものがある。ひ とつは、アウグ ステ イヌスが懐疑論に苦 しんでいる時に新プラ トン派の書物に触れた結果生 じた体験である。
これによってアウグステイヌスは自己の内奥に たちかえることを通 して 「不変の光」を見,そ して懐疑論から脱出 して自分 自身の 「不義」や
「醜い私」に気づいてい く。 この 「不変の光」 について彼はこう言 う。「真理を知るものはこの 光を知 り,この光を知る者は永遠を知る。それ を知るものは愛です」 と19。
ここでは 「真理」を知るものが照 らされる 「不 変の光」は,真理の認識の可能条件 として体験 されてお り, したがって認識論的な く光)であ ると解釈できる。
もう一つの (光)の体験は回心のときのもの で,これはアウグステイヌスが絶望の中でふ と 耳に した 『とれ,よめ。 とれ,よめ』 とい う子
どもたちの言葉がきっかけとなって生 じ,彼の 言葉を使えば,「安心の光 とでもいったものが心 の中に注ぎ込まれ,すべての疑いの闇が消え失 せる」とい う結果をもたらした20。これによっ て,アウグステイヌスは苦悩が癒 され ることに なるが,ここで注 目すべきは, 自己の弱 さや愚 かさの自覚の極限において,「安心の光」すなわ ち ̀̀神の愛''が彼の内面に射 し込んでいる点で ある。前者の 「不変の光」が認識論的な (光) であったのに対 して,ここで言われている 「安 心の光」は,自己の内面に存在する闇をはらし, 自己の真実を知 らしめ宗教的真理‑ 目を開かせ るものであった。
(光)はアウグステイヌスにとっては二つの
意味をもっていた。認識論的な (光) と宗教的 自覚を生 じせ しめる く光)である。彼は二つの く光)の経験を経ることで,"真理一般''を認識 す る上で (光)が決定的な要因になることを"魂 の事実''として把握 している。 このことは人間 の諸能力の限界を彼がはっき りと認識 したこと を意味する。彼はもはや理性や主観的能力に学 ぶ ことの要因の帰す ことはできない。 (すき間) を埋めるものは,彼にとっては,神の (光)で
しかない。
しか し,この仮説はどの程度妥当性 を有 して いるだろ うか。彼の体験に果た して一般性があ るだろうか。これが,われわれが次に立ち向か わなければならない大きな問題である。一般に 予想 される二つの批判を提示 して,この間題 に 迫っていきたい と思 う。
最初の批判は,"私たちの 日常的な認知活動に おいては く光)は意識 されていない''とい うも のである。アウグステイヌスな らばこれには即 座にこう答えるだろ う。外的な刺激 と (内なる 教師)による学びの間にほとん ど時間的な差が ないか ら,教えられたとい う錯覚をしているだ けだ, と。 しか し,これは批判に対す る十分な 解答にはなっていない。 とい うのも,内なる教 師による学びの内実については,『教師論』のな かでは詳 しく記述 されていないか らである。別 の視点か ら日常の認知活動における (光)の在 処を探索 しなければならないが,現代の ドイツ の精神科医
W.V.
ブランケンプル クの考察は その手がか りを与えてくれているように思われ る。プランケンブル クは,『自明性の喪失』とい う 作品の中で,統合失調症の患者アンネについて 詳細な記録 を残 している。患者アンネは,一方 で、 自分に欠けているのは動作や人間関係にお ける 「ルール 」だ と自己分析 し21,そ して他方 では,このような 「ルール」は大人になること で自然 と身につ くものである22,と言 う。私た ちの生活史を見れば,動作や人間関係 における 所作などの基本的事柄は,言葉であれ これ考え
て身 につ けたのではない。幼児 に "考えな さ い !" とい う親はいないだろうし,そのような 指示 をした ところで幼児に学ばせ ることは不可 能であろ う。要す るに,理性によって (すき間)
を埋めることはできないのである。 ところがア ンネは 「まず もって頭で考え」た。そのために 彼女はルールを身に付けることができず,生き ることに疎外感 を抱いている。彼女の苦 しみに は,理性の背後で暗黙の内に機能 しているもの が暗示 されている。
「ルール」を身につけることで私たちの行動 は根底で意味づけられ,生のある様式を持つこ とになる。アンネは,「生きること」を 「受け入 れ」,「や り方を信頼す ること」で (生の様式) を身につけた, と言 う23。 "お辞儀''を例に考 えてみよう。それが有意義であると納得 させ ら れてか ら,私たちはお辞儀ができるようになっ たのではない。同様に、何かを 「受け入れ る」
のに理由や説明が常に必要であるとは限らない。
特に理性的に考える手段である言葉が獲得 され ていない段階では,「受 け入れる」ことがきわめ て重要な事柄である。
アンネの事例が教えて くれるのは,自分 自身 の意志や他者 による論理的説得ではなく,(生の 様式)を受 け入れ ることによって,私たちの認 識活動の土台が形成 されている, とい う事実で ある。「受け入れ る」ことの背後には他者‑の"信 棉"があ り,その 「受け入れる」 とい う行為の 結果,"知識''が獲得 される。それゆえ,「受け 入れ る」 とい うことを く信知す る) と名付ける ことができ,(信知)は,アンネの事例で示 され たよ うに,特別なことではなく, 日常的な生活 の根底 を支えるものである。
記号 と実在の (すき間)を架橋するもの とし てア ウグステ イヌスによって考えられた (光) は,この (信知)であると了解 される。 (信知) や (光)は思考に先立って作動 し,思考を成立
させている。(光)が暗黙裡に働 くことで,私た ちは行為や認識の自明性のなかで生活できる。
(光)を意識できないのは,それが "存在 しな
い''からではなく,それが "忘却 されている'' か らである。私たちは く光)の中に包まれて生 きているのに,それに気づいていない。
第二の批判は,(内なる光)はアウグステイヌ ス自身の個人的な宗教体験で, したがって 日常 的な教育事象には 「照明説」は適用できない, とい うものである。 この批判に対 しては,こう 答えることができるのではないだろ うか。 (光) の体験が全ての人に生 じうるものであることが 示 されるならば,「照明説」は一般化できるだろ
う, と。
20世紀最大の仏教哲学者の一人である鈴木 大拙の考えは,この点では貴重な示唆を与えて くれる。彼は,通俗的な宗教意識 と区別するた めに,宗教意識を (霊性)と定義 し,宗教は 「そ れ (霊性)に対する意識の喚起せ ざられる限 り, なんだかわからぬもの」であ り,また 「霊性に 目覚めることによって初めて宗教がわかる」 と 述べている24。大拙によれば,霊性によって宗 教が分か り,霊性に目覚めていることが,宗教 の体得にとっての分岐点である。
(霊性)‑の目覚め,言い換えれば,宗教的 自覚は,私たち一人ひ とりが経験するものでは ないだろうか。例えば,今まで気づかなかった ことが,自分 自身の身に払みて 「ああ,そ うだっ たな」と表現せざるを得ない時がある。個人的 経験 も,事実としてすべての人に示 されたなら, 普遍性をもつ と言えるだろ う。 この場合,経験 はすべての人に開かれてお り,個人的なものと
して排除することはできない。だが,宗教的 自 覚の普遍性,すなわち (霊性)の存在や く光) の存在は,自己において内証 されなければなら ない。それゆえ,宗教的 自覚が未だ生まれてい ない者には,宗教や宗教的 自覚‑の懐疑が生ま れる。懐疑との格闘を通 じて,自らの うちに (塞 悼)や く光)によって示 されているものの存在 を確かめなければならない。(霊性)や (光)の 経験は一般化できるのか とい う最初に立てた問 いに対 して,われわれは自らの歩みのなかで答 えを見つけださなければならない。
以上の分析から,こう結論づけることができ る。(光)を (信知)とい うはた らきとして理解 し,また (光)の体験を宗教的 自覚の表現 とし て了解することで,アウグステイヌスの 「照明 説」は一般化できる, と。
第4章 仏教における宗教的自覚の可能性
宗教的 自覚が,教育の (すき間)やアウグス テイヌスの 「照明説」を理解する要石である。
この宗教的 自覚は仏教にも同様に示 されている。
仏教は人間存在を二つの側面か ら理解 してい る。ひ とつは 「苦」を背負った者 としての理解 である。苦が人間存在の根底にあることは,次 のような言葉の中によく示 されている。たとえ ば,「生あるものには死がある。手足を切断 され, 殺教,捕縛 されるおそれ もある。生あるものは 苦 しみに会 う」25,「世界は どこも堅実ではな い。 どの方角 もすべて動揺 している。わたくL は自己のよるべき住所を求めたのであるが,す でに死や苦 しみな どにとりつかれていないとこ ろはなかった」26。こうした存在了解にたっ と,
"どうすればこの苦なる自己か ら,この苦なる 世界から脱することができるのか''とい う実存 的 ともいえる宗教的な問いが生ずる。 これが仏 教の根本的な問いである。
もう一つは,事物に対する人間の在 り様から の了解である。 この世界では人間は事物を 「我 所」(わがもの)と捉え,それに 「執着」してい る。物質的な対象,例えば食べ物に対 しては, それを手に入れ食べたい とい う欲求を持つだろ う。また抽象的な対象,例えば愛に対 しても, あたかも物であるように,それを得よ うと努め る。人間は 「執着的」存在である。
仏教においてはこうした 「わがもの」 とい う 観念は放棄 しなければならない。原始経典には,
「世間における何 ものをも,わがものであると 見な して固執 してはならない」 と説かれている
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なぜ捨て去 らなければならいのか。その時々
の対象にわがもの として執着 しているがゆえに, 人間の憂い,つま り 「苦」が生 じているからで ある28この執着性は後代 に仏教学的に定式化 される十二支縁起における 「行」‑ と類型化 さ れ る。では,どのようにすればこの 「執着的」
存在か ら解放 され るのか。その根本原因は人間 が常住 (永遠に存在す るもの)でないものを常 住であると見な していることにある。 ここに大 きな誤 りがある。 これは仏教では知恵 とい う明 か りがない状態 とい う意味で 「無明」とい う。
だか ら人間は 「執着的」存在であ り,同時に 「無 明的」存在である。 ここにおいて人間の二つの 了解,つま り,「苦的」存在 と 「執着的」(‑「無 明的」)存在の関係は,前者は 「因」としての後 者の 「果」であることが明 らかになった。同時 に,事物が常住でない,即ち 「無常」であると い う世界認識が,人間の執着性 を打ち破 り,「苦 的」存在 としての人間を解放す るのである。
仏陀 とは 「目覚めたもの」とい う義である。
浄土真宗においては,如来のもつ智慧の光に照 らされて,人間は自らが煩悩存在であることに 目覚めさせ られる。 この (目覚める) とい う現 象に,′J、田垣は現代のキ リス ト教神学の立場か ら注 目している。彼は,「近代合理主義における ような人間の自己中心主義は,宇宙の全体性か ら見れば一つの仮構であ り,虚構であることは, キリス ト教はもとより,およそ宗教 とい うもの の本質的 自覚である」29と言 う。ここでは,す べてのものを仮構 として見なす こと,つま り相 対化することが,宗教的 自覚 と把握 されている。
宗教は自覚についてのこのよ うな把握は仏教 の立場か らも同意 されるだろ う。なぜな ら,親 潜の 「念仏」からもはっき りと見て取れ るよ う に30,世界 と自己が もつ悪,愚かさを見つける こと,社会や 自分に対 して批判的な視点に立ち, この世の虚構性 を看破 してい くことが、その教 えの基本原理であったか らである。宗教的 自覚 とは,要するに,世界や 自己を批判 し相対化 し, 真実なる姿に目覚めてい くことである。
宗教的 自覚についてのこのよ うな了解は, し
か しながら,二つの問題 を抱えている。第‑は, 宗教的 自覚をまたず とも,人間の相対性につい ての認識は学問において 自覚 されるのではない か とい う問題である。確かに,宗教的 自覚は自 己存在そのものについて深 く反省 を加 えて,そ の うえで自己の認識によって作 り出されている 世界を観察 させて くれ る。その意味では,構造 は哲学的な反省 と同 じである。一方で宗教的 自 覚では,認識 と実践が分かち難 く結びつき,自 己の認識活動では見えてこなかった事柄が,̀̀他 なるもの''によって知 らされ信 じさせ られる。
つま り,宗教的 自覚は単なる理論的な知見の変 化ではなく, 自己による認識の限界を認識 させ る経験,すなわち真実に 目覚めるとい う事実に 根 ざしている。
しか し,宗教は歴史のなかで暴力や排除を生 み出 し,時 として極めて危険なものに変質す る。
教団や宗派そ して個人な どが,集団や 自己の利 益を確保す るために,守 るべき ドグマ (教義) を押 しつけた りす る。そのような ドグマは宗教 の本質に根 ざす ものなのだろ うか。 この問いに 対す る解答は,二つ 目の問題に答えていく中で 示唆 されてい くだろ う。
第二の問題は,宗教の相対性の自覚は宗教の 絶対性の否定,すなわち,宗教の 自己否定であっ て,相対性の自覚など宗教にはあ り得ない し不 可能である, とい うものである。 このような主 張においては, ドグマが絶対的なものであ り, ドグマを信 じ守 ることで救いが確実になること が前提 とされている。 これはキ リス ト教では, カ トリシズム (普遍主義)や原理主義などにお いて,また既存の新興宗教において顕著に見 ら れ る傾向である。
だが,仏教では, ドグマ さえも最終的には捨 て去 られる。「筏の替 え」のなかで,釈尊は,坐 存の迷いとい う激流を筏 とい う法でわた したち は渡 り,渡 り終えたな らば,筏が必要ないよう に法 も放下 され る,と言 う31。この場合,法は 教義 と同様 に見な してよいだろ う。すなわち, 法は生存の迷いにいる私たち人間を目覚めさせ
る手段 (方便)であ り,ここでは法や ドグマ‑
の執着は否定 されている。
法や ドグマ‑の執着は,私たちが言葉の手段 性を見損なっているところから生まれている。
筏の例では,筏の役割が見失われている。言葉 の手段 性‑ここに指 し示す物 としての言葉の手 段性 ‑を見失い,言葉だけに執着する見方,あ るいは手段 と目的が転倒 している教条主義に対 する批判は、古代の 『大智度論』のなかでも語 られているが32,親薯 もまた,言葉の手段性の 上に立って,「弥陀仏」 と,「自然」と呼ばれる
「無上仏」,「無上埋葬」の関係 を次のように示 している。「無上仏 ともうすはかたちもなくま し ます。かたちのま しまさぬゆえに,自然 とはも うすな り。かたちまします としめす ときには, 無上埋葬 とはもうさず。かたちもま しまさぬよ うをしらせんとて,は じめて弥陀仏 とぞききな らいて候 う。みだ仏は,自然のようをしらせ ん りょう (料)な り。」33と。なぜ,「自然」を何 かで 「示す」とき,「無上埋葬」と言えなくなる のか。 「弥陀仏」が自然の様態を示す (料),す なわち (手段)であると書き添えられているこ とか ら,「かたちま します としめす」と言葉で示 すことで,そこに言葉の手段性の忘却により言 莱‑の執着が生 じるからであろ う。形 と示 され る場合は,「弥陀仏」であろうし,言葉で示 され る場合は「南無阿弥陀仏」とい う名号であろう。
いずれ も 「自然」を私たちに示すための (手段) である。
以上見てきたように,仏教における法‑の執 着の否定を遡るならば,そこには言葉の (手段 悼)‑の厳格な態度がある。 しか しながら、浄 土真宗においても 「念仏往生」とい う教義は存 在する。親潜はどのように念仏を了解 していた のだろうか。「念仏 もうす」ことが浄土に生まれ る因なのか,地獄におちる因なのかは知 らない, と親薯は言 う34。理由も知 らないのになぜ 「念 仏 もうす」のだろ うか, と問われるかもしれな いが,この問いには,理由を聞いて納得できれ ば行動するとい う近代的な思考が暗黙裡に前提
とされている。 この場合,納得するのは本人で あ り,基本 となる論理はすでに自分が所有 して いるものであった り,鋭明されて納得 したもの であった りするが,いづれに しても自分の確信 性が基準 となっている。私たちの思考は確固た るものから出発 して,ある認識を確実なものと して説明 し,思考の安心を得 ようとす る。
しか し,このよ うな確信性は仏教においては 不確かなものである。それはあくまでも 「縁起 的」に今ある存在するにはすぎない。西洋近代 は人間の存在や理性による自己決定力に高い価 値をおいているが,仏教では,たとえば親背に あっては,人間は罪悪深重,煩悩成就の凡夫人 であ り,阿弥陀仏 (法蔵菩薩)の本願によらな ければ救われがたい存在である。そこには阿弥 陀仏‑の絶対的な信順 と人間‑の絶望がある。
しか しなが ら,ここで注意 しなければならない のは,阿弥陀仏 とい う超越なる救い主がいて, それに信順することで救われるのではないとい うことである。つま り法蔵菩薩の願が全ての者 を救い取ろ うとす るものであ り, しか もその願 がすでに成就 している。それゆえ,念仏すれば 救われるので,阿弥陀仏は有 り難いのではない。
そ うではなく 「設我得仏」か ら始ま り 「不取 正覚」で定式化 されている法蔵菩薩の四十八願 に出遭 うことが根本である。法蔵菩薩の成仏 と 彼 自身以外の者の成仏が同時であるところに, 願の深い意味がある。すなわち, 自己と他者の 成仏 ・悟 りが同時である。そこに慈悲が現出 し てお り,我々は慈悲に照 らされ る。ある一人だ けが成仏す るのではない,全ての人が同時に成 仏する。それが仏の世界であ り,その世界を浄 土 として表現 している。つま り,法蔵菩薩の願 に込められた仏の慈悲に念仏を通 して出遭 うこ とで,人間は自分だけの救いを求め, 自分だけ の幸せを求める狭い自己から解放 される。先に 述べた 「念仏」とは,近代人の自己確信なるも のの不確かさや 「執着的」人間を露わにするこ とを通 して,人間を自利利他円満の世界に目覚 めさせ ようとするものである。 このような意味
での宗教的 自覚は,今 日一定程度普遍性を持ち うるのではないだろ うか。
第5章 宗教的自覚に基づいた く援助者 としての教師)
最後に,これまでの議論を総括 しなが ら,こ れから求められる教育や教師像を描いてみたい
と思 う。
第‑に,教育における (す き間)の存在から, (言語主義教育) と (実物教示教育)の限界を 指摘 していきたい。すでに述べたように,記号 と実在の関係が成立 している場合には記号は指 示性をもつが,それ 自体では被教育者に事柄を 示 さない。このような記号の (非指示性)によっ て生ずる くすき間)が,教師か ら被教育者‑知 識が直接伝わることを阻んでいる。記号の く非 指示性)は,記号が学習者に理解をもた らす も のではないとい う記号による教育の限界を示す ものであった。 これは,言語を中心に して教え る (言語主義)‑の,また突き詰めれば,教師 の力を過大視すること‑の批判 として十分に成
り立っだろ う。
では,記号が指 し示 している実物を被教育者 に見せた り触れ させた り,あるいは体験 させれ ば,それでよいのだろうか。 この種の (実物教 示教育)では,経験や体験の質によって多種多 様な理解が生まれ,学習者に一定の理解をもた らす とは限らない。なぜな ら, (実物教示教育) において,実物のどこを見るか,あるいは体験 の何に注 目するかを,学習者は教示者の身振 り や手振 り,言語によって指示 されているからで ある。ゆえに,実演する場合でも記号の (非指 示性)が当てはま り,その (非指示性)が多様 な解釈を生み出す。すなわち, (実物教示教育) も (言語主義教育) と同様に批判 され る。
それでは,教育はどのように把握 され るべき なのだろ うか。(すき間)は今 日の教育言説のな かでは主たる話題にはならないが,教えるとい う行為に入 り込み,被教育者が事柄を理解でき
ない場合,(すき間)は実感 されている。特に, 日々実践現場にいる教師たちは (すき間)に向 かい合い,(すき間)を架橋 しようと様々な方法 を試みている。だが,(人間教師)である限 り(す き間)は常に存在 し,教師は勧誘者 として (敬 えること)の一端 を担っているにすぎない。仮 に (教えること)が成立 したとしても,私たち はそれを,「このような手だてをすれば,子 ども はこうなるのだ」 といった具合に理解すること はできない。
(すき間)か ら見れば,教師の言葉で何かが 伝わ り,学習者が変化することは,"神秘''であ るが,教師 と学習者は両者を架橋するものを媒 介に して繋がっている。その時両者の関係は ̀自 明性"を,そ うでない時には "不透明性''を帯 びる。そのような自明性 と不透明性 との間の往 復が教育の営みであると言えるだろ う。つま り,
(人間教師)にとって (教えること)は,(すき 間)を越境 したかのよ うにみせ ることでなく, またそれをそのまま放置することでもなく,敬 師 自らが (援助者) として (す き間)に身を挺 し往復運動を繰 り返す ことである。 (人間教師) が (援助者)であることで,人間教師を無力者 や全能者 と見なす ことは否定され,無力者が教 育の否定者‑,全能者が教育の暴君‑ と変質す ることも回避 される。ゆえに (援助者)である とい う自覚 こそ,(教えること)に対 して平衡感 覚をもった向かい方であろ う。
ここで言 う (援助者)を,今 日一般に言われ ている "支援者''と混同 してはならない。(援助 者)の認識には,(光)の体験や (霊性)の発現 である宗教的 自覚が存在するが,支援者にはそ れは存在 しないか らである。(援助者 としての教 節)は (す き間)を教師 自身や被教育者などに 還元 した りは しない。彼は常に,ア ウグステイ ヌスにおいては く内なる光),また大拙において は く霊性) と表現 されているもの‑ と,自らの 身を開き関わっていこうとするのである。宗教 的 自覚に基づいたこうした教師 こそ,今求めら れ る教師像ではないだろ うか。