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現 象 学 と内 包 の 論 理 学 - Phanomenologie und lnhaltslogik-

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(1)

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現 象 学 と内 包 の 論 理 学

‑ Phanomenologie und lnhaltslogik‑

忠 夫*

序 言

フ ッサールの 『 算術の哲学』

(1891

年)は, フレーデに よる算術の基礎づけに対す る挑戦の書であ る。そ の対立は論理学 の基礎づけの問題に由来 し, 「外延の論理学 と内包の論理学 とは,いずれが根源的か」 とい う問いに集約す ることがで きる。 「 外延 の論理学」はその直接 の基礎づけを概念の外延に求め る。それゆえ, そ こでの論理計算 もまた,外延の計算 とい う意味を持つ。 これに対 し, 「内包の論理学」は,概念の内包が, 論理学 の根源的かつ直接 の基礎でなければな らず, またあ りうることを主張す る。 この論理学に とっては, 外延 の計算は間接的迂回であ り, ア ・プ リオ リに必然で も不可避で もないがゆえに余計な迂回であ る。 フ ッ サールは既に . 『 推論計算 と内包の論理学』

(189

1 ) と題 された論文において,外延計算 と同 じ諸公式にの っ と りなが ら厳密に内包の論理学に依拠す る推論計算を確立す る可能性を探求 していた。

しか し, 『 論理学研究』第一巻 (1 900) は 『 算術の哲学』におけ る, フレ‑ゲ‑の原理的批判の徹回宣言 か ら出発 している。小論の課題 は, 「この 自己批判に よって,内包の論理学 の構想その ものが徹回 されたの か」否かの問いに答えることであ る。そ して答えは 「否」であ る。す なわち, フ ッサールがそ こか ら脱却 し た誤謬は,その 「心理主義」であ って 「内包の論理学」ではない。そのよ うに解 しては じめて, 『 形式論理 学 と超越論的論理学』

(1929)において, 『

算術の哲学』が,始動 しつつあ る 「現象学的構成的研究」 と評 価 され る理 由が理解できるのであ る。論理学 の根源的かつ直接的基礎を概念 の内包に求め る姿勢を堅持す る ことな しには,諸概念に根源的内容を与える構成作用 の研究 としての現象学その もの も成立 しえなか った こ とであろ う。

「内包の論理学」素描

ここでは, フ ッサ ールの 「内包の論理学」の構想が どのよ うな ものであ ったか,その概念を与える。依 る べ きテキス トは, 『 論理学小論集』(

Articlessurlalogique,paris,P・U・F.,1975, trad.Jacque English)

所収 の論文 『 推論計算 と内包の論理学』(

Lecalculdelaconsequenceetlalogiqueducontenu,1891)で

あ る。

彼 の課題は,内包計算の不可能性, クラスへの迂回の不可避性をア ・プ リオ リに論証 し うるとす る,外延 の論理学の信奉者の論駁であ る。 したが って,外延計算 と同 じ諸定式をそ っ くり借用 し, 「厳密に内包の論 理学に依拠す る純粋推論計算を構築 し うる」(

C

・ L

,p・64)

ことの証 明であ る。 まず, クラス とその関係は, 集合 とその関係の特殊事例にす ぎない。 したが って クラス計算 は集合計算

(Mergencalcul)のひ とつの特殊

な応用にす ぎない。 したが って,概念の内包を, 「理念的諸内包」す なわ ち, 「概念の対象の弁別的諸特性

(marquesdistinctives)の全体」 とみな し,そ こに,集合計算の も う一つ の応用分野を考えることがで きる。

そ して,理念的内包の無限性 と,現実に与 え られ る事実的内包の有限性 との対比か ら,内包の論理学 のア ・ プ リオ リな不可能性を結論す ることはで きない。なぜ な ら, クラス計算において も, クラスの要素のすべて が現実に与 え られ ている必要はな く, それ らの 「全体についての一義的に決定 された記号的表象

(symboli cheVorstellung)

で十分であ る」 (

C.

L

.,p.67)か らであ るO 『

算術 の哲学』は, 現実的無限性

(aktuale Unend】ichkeit)

が計算その ものを無益にす ると語 っている。 「数系列の最初の数について と同 じよ うに,あ

らゆ る数について本来的表象を持 っていたな ら,お よそ算術な どは存在 しなか ったろ う。けだ し,算術はま った く余計な ものであ ったろ うか ら

。」(HU・ⅩⅠ

,S・191)次に, 外延‑の迂回ばか りでな く, 「理念的諸

*弘前大学教育学部社会科学科教室

(2)

内包」への迂回す ら無駄であ る。 なぜ な ら,形式論理学 の定式 「SaP」は.推論技術の諸 L

]

的に応 じてさま ざまな解釈を うけ うるが,その うちの多 くは迂回に よる解釈だか らであ る。そ こで,第二の課題は,内包の 論理学 のために,迂回を経 ない直接的解釈を兄いだす ことであ る。

以下に 「SaP」の諸解釈を提示す る。ただ し, 〔 〕内は,筆者の補足であ り,その他若干の修正を加えた O

(C.

L

.,p69‑71)

1.

純粋内包的解釈

伍) 内包の量化な しの 〔 通常 の意味での内包に よる〕

(a)

「或 るものが

S

であ る (それが弁別特性

S

を持つ)な ら,それは

P

であ る (それは弁別特性

P

を持つ)

[ (x)(S(x)=P(x)]

( b ) 「或 るものが S であ り,か つP でない ことは,真でない」

S

であ る非

P

は存在 しない」

〔 〜( ヨX)(S(x)・‑ P(x)〕

( B) 内包の量 化を ともな う 〔 理念的内包に よる〕

S

の理念的内包は,

P

の理念的内包を包含す る」〔すべての刈こついて, も

しx

P

の理念的内包であ るな ら,それは同時に

S

の理念的内包であ る〕

[( x)(P( x)=S(x)]

「或 る

S

に属す る弁別特性 の全体は,或 る

P

に属す る弁別特性 の全体を含む

〔 すべての刈こついて, も

しx

P

の弁別特性全体の集合に属す るな らば,それは同時に

S

の弁別特性全体の集合に属す る〕

(x)(x

∈ ( XJ P(x) ) ⊃ x

∈(XIS(x))) 打.

純粋外延的解釈

(a)

包摂 の形式

S

の クラスは

P

の クラスに包摂 され る」

〔( XJ S(x))⊂i xl P(x))あ るいは S⊂P〕

( b ) 同一性 の形式

(a)S

の クラスは

S

であ る

P

の クラス と同一であ る」

〔i xr S( x))‑ ( XI S( x))∩〈 xI P( x)) あ るいは

S‑SnP]

(β)「S

であ る非

P

の クラスは空であ る」

〔( HI S( x))∩t xJ 〜 P( x)) ‑¢ あ るいは SnF‑¢〕

Ⅲ.混合的解釈

(a)

「すべ ての

S

P

であ る」つ ま り 「或 るものは

S

の全体に属す るか ぎ り,弁別特性

P

を持つ」

[(x)(xE

( Xl S( x))=P( x))]

「S

の全体の要素で弁別特性

P

を持たない ものは存在 しない」

〔 〜(ヨX)(

X

∈ 〈 xr S( x))・‑P( x)〕

( b ) 「或 るものが S であ るか ぎ り,それは P の クラスに属す る」

[( x)( S( x)

=xE(

X] P( x)i)]

以上が, フ ッサ ールに よって与 え られた全称肯定命題 「SaP」の解釈のすべてであ る。それ らは, その 命題形式の違 いに もかかわ らずすべ て等価であ るOそれゆえ. 相互 の 「等価変換」 (

transformation6qui valente)(C

・ L,p・

73)が可能 とな る。 ところで,命題形式を最小限に し,それ らを画一的モデルに基づいて

作製す ることが計算 の論理学 の理想であ り,計算は クラスへ の迂回に よってのみ可能であ ると考える者に と っては,あ らゆ る判断形式を クラスの判断‑ と等価変換す ることが,計算の論理学 の不可避 の課題 となる。

フッサ ールは, この よ うな事態が, 「根源的思考 の流れ

「自然な論理的思考か らの逸脱

(C.

L

.,p.74)

を もた らす と考え る。彼に とっての理想は, 「自然的思考 の もっともプ 1 )ミテイブかつ もっとも日常的な諸 形式に基づ く演揮計算を基礎づけ る

(C.

L,p.

75)

ことであ る。 上記 の解釈のなかで, も っともプ リミテ

ィブとみな され るのは,

(Ia) 「或 るものが

S

であ るか ぎ り,それは

P

であ る」,つ ま り

(3)

( x)(S( x)=P(x))

と記号化 しうる解釈であるO これは,否定命題に対する肯定命題,定言命題に対す る仮言命題,外延的ない し混合的解釈に対す る内包的解釈の根源性を意味す る。

そればか りか , 「内包の論理学」に対す る 「対象の論理学」の根源性が主張 され る。すなわち,(Ia)は,

「概念

S

の或 る対象は,そのか ぎ りで,概念

P

の対象で もある」

を意味す る。確立 さるべ き計算は, 「概念の対象の計算」であるOなぜ な ら, 「あ らゆる判断作用は, クラ スで も,概念の内包で もな く,ただひたす ら概念の対象のみに基づいているか らである

O(C.

L

,p.76)

こ の対象計算は, ( 一般的計算であるかぎ り)任意の概念の対象が相互に持ち うる関係のみに依存 し,諸対象 の特殊性にかかわ らない。 ここに,純粋に形式的かつ仮言的計算が可能 となる。

フッサールは, 任意の二つ の概念

S

P

の対象が相互に持ち うる五つの関係を提出 し, それ らの関係 と, 概念の外延のためのオイラーの五つの図 との正確な対応を主張す る。(

C

・ L

,p.77)

これは,対象計算,内包 計算, クラス計算を支配す るアル ゴリスムの同一性を意味す るO対象計算にふ くまれ るすべての論理学的問 題が,直接に,つ ま りクラス計算が要求 しているそれ とまった く同一の計算に よって解決 しう る な らば,

「外延の論理学は余計なものであ る。 」

しか し, この例証は省略す るoただ, (Ia)の表記, (x)(S( x)⊃P( x))について若干補足を加える。

この表記は, フ ッサ‑ルの対象の論理学が,現代論理学の述語論理学 と異なるものでないことを意味す る。

た しかに ( I

a)の解釈は 「内包の量化な しの」解釈であ ると明言 されている。 彼 自身の表記は

「 5‑(‑

P

」である。 量化記号は与え られていない。 しか し, まず, 量化 されていないのは 「内包」 であ って 「対 象」ではない。次に, 「概念

S

の或 る対象は, そのか ぎ りで, 概念

P

の対象で もあ る

」,

「或 るものが弁別 特性

S

を もつかぎ り, それは特性

P

を も持つ」 とい う解釈の限定 「そのか ぎ りで

」,

「‑・ ・ ・ かぎ り」は,そ の 「或 る」が, 「任意の或 る

」,

「すべての

x」

を含意 しているとす る解釈を許すo量化記号を明示す るか 否かは表現の問題である。述語論理学の表現は,対象についての内包的表現である。 これは対象についての 外延的表現であるクラス論理学の表現 と等価ではあるが,それ と同一ではない。すなわち自然な論理的思考 の直接的表現 として (クラス論理学への迂回なしに)楼能 しているのであ る。

フッサールの 「内包の論理学」の構想は,け して暖味かつ特異なものではな く,現代 「述語論理学」の解 釈 と一致する。 クラス論理学‑の迂回の不可避性,内包的解釈に基づ く純粋形式的推論計算の不可能性は, 述語論理学の存在に よって反証 されているO

次に,概念の位置を判断が占める場合,つ まり 「命題論理学」についても完全な類比が成立 し,そ こに同 一のアル ゴリスム技術が基礎づけ られ うる

(C.

L

.,p.87)

か否かが問題 となる。 以下に, フッサールによる 命題論理学の公理系を提示す る。ただ し,現代の命題論理学 との関連性を示すために, フッサールの記号表 現によらず, また若干,解釈 と修正を加えたO

(pp・88‑91)

〔 記号〕

P

⊃q

」は,

「もし命題少が真な ら,命題qは真であ る

「命題Pが命題官を条件づけ る」

と読む。

〔 定義〕

Ⅰ .(

=q)‑df

( P

⊃q)・ (q⊃b)

Ⅱ.P・q‑df

Pかつqの同時的真

Ⅲ.♪>q‑df

♪あるいはqの, ときには両者同時の真

Ⅳ.

T‑df

恒莫命題

Ⅴ.F‑df

恒偽命題

Ⅵ.A‑df

p の偽

〔 公理〕

.

⊃♪

[.(

P

⊃q)・(q

⊃r)

⊃(

P ⊃r)

Ⅲ.(r

P) ・( r

⊃q)

⊃( r

⊃♪・q)

(4)

Ⅳ.(

P ⊃r)・(

q

⊃r)

⊃(♪>q

⊃r)

V.

♪ ⊃T

Ⅵ.F⊃♪

Ⅶ. ♪

・′

♪ ⊃F

Ⅷ.T⊃♪>‑♪

この公理系 ( 計号,定義,公理)は,命題論理学成立の不可欠な条件をみた している。 しか も,累同律, 結合律,と くに交換律,分配律が,連言,選言, 含意,等値の定義に よって,つ ま り, 「諸記号の意味」に 訴えることに よって, 「直接的公理」 として与え られ る

(C.

L

ワp.83)

のであれば, 十分す ぎる条件であ る。

その意味で洗練 された ものとは言えないが,外延への迂回の不可避性を拒否す るフッサールの命題論理学が 特異な ものではな く,今 日の命題論理学 と同一の解釈,同一のアル ゴリスムに塞いていることは明 らかであ る。

『 算術の哲学

の評価

フ ッサールの 「内包の論理学」の構想の素描は,彼の対象計算および命題計算が,現代述語論理学お よび 命題論理学 と同一の解釈,同一のアル ゴリスムに基づ くことを理解 させた。何故,彼は 「内包」に よる解釈 に固執 したのか。第一に, 自然な論理的思考か らの疎隔を回避す るためであ り,第二に,論理学を直接かつ 根源的構成作用の うえに基礎づけるため で あ る。 フ ッサールの現象学の源流を,処女作である 『 算術の哲 学』の うちに求め うるのは,その故であ る。 しか し, この試みは,著者 自身の自己批判のゆえに,異論を呼 び うるoそれゆえ, 「 『 算術の哲学』を, フ ッサ‑ルの思索の うちに どの ように位置づけ るべ きか」が問題 である。

この作品は,所謂 「心理主義」の名のもとに, フッサールの思索の軌跡か ら抹殺 さるべ き誤謬の墓碑銘で あるかに思われ る。 『 論理学研究』第一巻の序言は,訣別の宣言である。それは,演揮科学た る論理学の哲 学的解明を心理学に期待 した 『 算術の哲学』の確信の決定的動揺の告白であ る。

(HU

ⅩⅧ

リ S・6

f)す なわも, 『 算術の哲学』でなされた フレーゲの反心理学主義に対す るフ ッサールの原理的批判は,著者 自ら によって是認を拒 まれ るのであ る。

(HU.X

Ⅷリ S.1

72)

それは,第二巻の続刊とい う当初の計画を断念 された廃絶の書である。それゆえ,かか る著作に,その思索の原点を求めることは無謀 と言 うべ きである。

だが,後年のフッサールの うちには,意外な評価が見 られ るO 『 形式論理学 と超越論的論理学』に よれば,

『 算術の哲学』は,第一に,数論や集合論が,いかなる実質規定 も顧慮せず, 「空虚な普遍に関係づけ られ ている

(HU・X

Ⅶ.

,S.81

) ことを明 らかに し, 「形式的なものとは何か」を問 うことの意味をは じめて 理解 させた作品であ る。第二にそれは, 「概念の起源」‑の探求によって,概念 ( 数)や判断が,構成す る 能動的 自発性 としての 「数える

「判断す る」の 「理念的相関老」であることをは じめて教えたのである。

(HU・

,S・87 f,cf.S.84f)

すなわち,それは, 「 処女作 としてきわめて未熟な ものではあっ たが」, 「自発的活動‑の還帰によって 」 「諸概念の本来的な,根源的に真正な意味を獲得 しようとす る最 初の試み」であ り,すでに して 「現象学的構成的研究」であった。 したが って,それは,範噂的 対 象 性 が

「作品

」(Leistung)

であることを,その作品を 「製作す る

」(leisten)

根源的な活動,すなわち 「『 構成す る』志 向的能動性」 を浮彫 りにす ることによって理解 させ よ うと努めた最初の研究であ った。 (HU.

XⅦ

・ ,

S・90f)

『 形式論理学 と超越論的論理学』は,著者 自身に よって公刊 された最後の論理学書であ る。それゆえ,辿 られた錯綜す る思索の軌跡にひと筋の赤い糸をつ らぬかせ るために,処女作に過大な評価が与え られたのか も知れない。 しか し,何故に,か くもはれが ましい評価が 「可能であ ったのか」 と問 うことは, 『 算術の哲 学』の意味を問いなおす ことであるばか りでな く,現象学の意味を問いなおす ことである。 ゲーテの言葉,

「ひ とはや っと脱却 した誤謬に対 してほ最 も敢格であ る

(HU・

,S.7)

が真であるなら, フッサー

ルの自己批判の厳 しさにすが って, この問いを免除 された と思 ってはな らない。就職論文 『 数の概念につい

て占

(1887)

を含む 『 算術の暫学 』 は,彼の哲学的思索の原点であるDそれは, 「何故に彼は数学者であ り

続けなか ったのか」, 「何故に形式論理学者でな く哲学者を志 ざしたのか」,すなわち, 「数学お よび形式

論理学 と,哲学お よび認識論の差異は何か」 とい う問いに,萌芽の姿で答えている。た しかに,フ ッサール

(5)

の思索の歩みに不連続を認め ることは可能であ る。む しろ

tDurchbruch"こそ,そのス タイルを決定す るも

のであ る。 『 論理学研究』第一巻は, まさに 「突破孔 とな った著作

(HU・XⅧ・,S・8)だ ったのであ る。

すなわち, . 『 論理学研究』の推敵がな されていた1

898

年 ごろに,経験的対象 と所与性様式のあいだの 「普遍 的相関関係のアプ リオ リ」の 「最初の

Durchburch

」があ ったのである。

(HU.

Ⅵ.

,S.169)

さらに

,

『 論 理学研究』発表 の数年後には, 『イデー ソ l」 ]

(1913)で哲学的体系化が試み られた 「現象学的還元の最初

Durchbruch

」があ った。

(HU.Ⅵ.,S.170)

「相関のアプ リオ リ」の発見は, それ以後の フ ッサ ール の全生涯 を支配す る徹底的転回を要求 した。 「現象学的還元」の発見は,昏迷 した思索 の闇にひ らめ く天啓 の光 りであった。 『イデー

ソⅠ

』は草案 もな く, 「いわば快惚の うちに」一挙に書 きあげ られたのであ る。

(HU

ⅩⅧリ S

・ⅩⅣ)

しか しこれ らの

Durchbruchが,決定的意味を持 ち,心理主義の批判 と論理主義 の

称揚が終 りでなか ったのは,論理的形象の客観性の承認だけでな く,構成す る主観性 との相関関係において それを捉 え ることが課題であ ったか らにはかな らない。それは, 『 算術の哲学』において,すでに開始 され ていたのである。

ッサールの定義論

フレーゲの反心理学主義に対す る原理的批判が, もはや是認 されえない ことは, 「あ らためて言 うまで も ない」 とされた。 しか し, まさにその点を再考すべ きなのであ る。 もはや是認 されない もの と,依然,思索 の底流をなす ものとを区別すべ きであ る。 自己批判 されたのは,心理学に よる論理学 の基礎づけであ るO堅 持 され るのは, 「内包の論理学」 と,志 向的能動性の構成に よる根源的起源 の探求であ る。

『 算術の哲学E I ] のフ レーゲ批判

(HU.

HI

・S・118‑125)は,数 な らびに概念一般の 「定義」の問題に集

中す る。 「心理学は,算術の基礎づけに何事か寄与 しうるな どと思い誤 まることは しない」 と語 るフレーゲ の理想は,そのすべての定理を推論に よって浜梓 しうる 「一連の形式的定義の うえに算術を基礎づけ る」 こ とであ る。 フ ッサ ールは これを承認 しえない。なぜ な ら,すべての概念が定義 しうるわけではな く, 「定義 しうるのは論理学的に合成 された ものだけである」か らであ る。定義 しえない概念に対 しては,具体的諸現 象を呈示 し,当該概念がそ こか ら抽象 され る過程 を明 らかにす ることしかで きない。そ して これが有益かつ 必要であ るのは,概念を表示す る名辞が,それだけでは理解 に十分でないを fあいだけであ る。数概念は, ま さにその よ うな ものであ る。それゆえ, 「数概念の論理学的定義を与 えるかわ りに, 『これ らの概念にひと が到達す る仕方を記述す る

」 ことが, それ 自体批難にあたいす るわけではない。

(HLT・Ⅶ

,Sl119)個

数概念は,多 と‑ とい う定義 しえない基本概念 と密接に関連 している。 したが って,個数概念に基づ く算術 を,定義に よって基礎づけ よ うとす るフレーゲの理想は,キ マイ ラの よ うであ る.それが,過度の精微 と, 実 りなき成果に終 るのは当然なのであ る。

フ レーゲは, 「個数」 (Anz

ahl)概念 を 「等数性(Gleichzahligkeit)の定義に よって定義す る。 これは,

既知の 「等 しさ」の概念か ら 「等 しい もの」を定義す る,一般的論理学的方法, 「等価理論」 (

Aquivalenz theorie)の特殊事例 と見なされ る。 『

算術の基礎

] (1884)に よれば,相等性の特殊事例である等数性は,

「一方の概念にふ くまれ る対象 と, 他方の概念にふ くまれ る対象を相互に 『 一意対応 させ る』 (

eindeutig‑

zuordnen)可能性があ るとき,概念Fは概念Gと 『

等数であ る』 と言 う」 と定義 され る。 この等数性 の定義 か ら個数の定義が与 え られ る。すなわち, 「概念 F に帰属す る個数は, 『 概念 F と数が等 しい』 とい う概念 の外延であ る

。」(Frege・Ⅲ

,sl79

f ) フ ッサ ールに よれば,かか る方法は,論理学の内容をよ り豊かに す ることはで きない.なぜ な ら,それが定義 し うるのは, 「諸概念の内包ではな く,それ らの外延であ る」

(HU・Ⅶ・

,S・122)か らであ る。 さきの定義が無価値であ るのは,それが 「概念の内包 と起源」について

の,いかな る経験 も与えないか らであ る。概念の内包 と起源 の問題 こそ,あ らゆ る難問の源泉であ る。概念 が, 「哲学者 と数学者の十字架」 となるのは このゆえであ る。

(HU.

Ⅶ.

,S.124)

『 算術の哲学』におけ るフレーゲ批判は,次の二点に総括 しうる。 まず第一に,定義不可能 な 概 念 が あ る。それについては,具体的諸現象を呈示 し,抽象過程を明 らかにす ること,すなわち,その概念 の起源, 発生,歴史,経験 内容,経験様式を記述す ることしかで きない。 ところが,第二に,等価性に よる概念の定 義は,外延を確定す るのみで, 「‑‑‑とは何か」 とい う問いに答えず,概念の内包,その概念に よって理解

され ている内容を与 えない。

(6)

これ らの批判は,結局, 「定義 されえない概念」の存在に依拠 している。それゆえ,おそ ら くは 『 算術 の 哲学』 第二巻 の一部を構成す るはずであ った論文 『 記 号の論理学 ( 記号論)』

(Zur LogikderZeichen

(

Semiotik),1890)に よって, フ ッサ‑ルの定義論を検討す ることに しよ う。 まず, 「定義」 とは何かが

定義 され る。すなわち, 「定義 とは,外的な記号 の意味 (

Bedeutung)を同 じ種類 の等価な記号に よって表

現す る命題であ る。」 したが って, 「記号の うちで表現 し うるいかな る意味 も持たない」記号は, 「定義 し えない」記号であ る。 これを理解す るために, 「等価」, 「外的記号」. 「直接的記号」等 の意味を明 らか に しよ う。

(HU.

Ⅶ・

,S・340‑344)

( 1 ) 「同一 の記号」‑ 同一 の対象を同一 の しかたで指示す る二つの記号は同一であ る。

( 1 ) ′ 「等価な記号」‑ 同一の対象を異 な るしかたで指示す る二つの記号は等価であ る。

(2)

「外的な記号」一 一指示 され るものの特殊な概念,内容,諸属性 と何のかかわ りも持たない記号。

(2)

「概念的記号」‑ 指示 され るものの徴表を媒介にす る記号。

(3)

「直接的記号」I‑ 媒介な しに事象 と結びつ く記号。その記号が意味す る

(bedeuten)

もの と,指示 す る

(bezeichnen)

ものが一致 している。

(3)

「間接的記号」‑ 他 の記号を媒介にす る記号。意味す る もの と指示す るものが,必然的に分離 され うる。

まず, 「直接的記号」が定義 され うる記号か ら排除 され る。なぜ な ら,か りにそれが意味を持つ として も, 他 の記号の媒介がないために,その意味を他の記号に よって表現す ることはで きない。

次に, 「概念的記号」 も定義 されえない。それは,他 の記号の媒介に よって対象を指示す る間接的記号で あ り,それゆえ,他の記号に よって表現 され る意味を持 っている。 しか し,概念的記号 と,媒介 となる概念 的徴表 とは分離 しえない。媒介 とな る概念的徴表を表現す る他の記号 とは, まさに当の概念的記号にはかな

らない。ゆえに二つの記号は同一であ る。

したが って,定義 し うる記号は,残 された 「間接的かつ外的記号」のみであ る。それは,間接的な記号で あ るか ら,他 の記号に よって表現 され うる意味を持つ。 さらに,外的な記号であ るか ら,指示 され る ものの 内容,媒介 とな る意味に何のかかわ りも持たない。それゆえ,同 じ意味を,他 の記号,すなわち,やは りそ の意味 と何のかかわ りも持 たない外的な記号に よって表現 し うる。 これが,真に形式的な論理学の意味での 定義であ る。すなわち,すべての記号等価が定義なのではない。定義は,記号等価の特殊事例にす ぎない。

「定義」についての フッサールの定義を理解す るためには, これで十分であ る。 この理解に したがえば, た とえば,

P・q‑df〜(‑2>‑q)

」は定義であ るが, 「Pかつ

q

とは

,P

でないか

q

でないか とい うことは ない, とい うことであ る」は定義でない ことになろ う。なぜな ら, 「Pかつq である」を表象す る こ と と,

P

でないか

q

でないか, とい うことはない」を表象す ることは違 った ことだか らであ る。 これに対 し,外的

な記号であ る 「

・」 「>」 「

」の意味は,定義に よって初めて知 らされ るのであ って,その記号か ら直接

表象す ることはで きない。その意味は,定義に よって初めて与 え られ る。 しか し,定義はまった く意味を持

たない空虚な記号 ( 本来の記号 とは言い難 い構文論の記号)の置換規則の叙述ではない。定義が問題 となる

のは,意味論 の水準であ る。 しか し,定義は,意味の異 な る概念的記号 の単な る等価関係 ( 外延の同一性)

の叙述ではない。定義 され る記号の意味は,定義以前には直接表象 されず,その意味を表現す る他の等価な

外的記号 ( その意味 も直接表象 されない)に よって,いわば初めて誕生 し,始動す るのでなけれ ば な ら な

い。 (それゆえ, さきにかかげた公理系 の 〔 定義〕,た とえば

p・q‑dfP

かつ

q

の同時的真」 も,厳密にい

えば,〔 定義〕ではな く,〔 記号〕であ ることになろ う。) フレーゲは フ ッサールを批判 して, 「あ らゆ る批

難をのがれ よ うとすれば, おそ らくあ らたに語根を創造 し, そ こか ら語を形成 しなければな らなか った こ

とだろ う

」(Frege.

,

S

・319)

と語 っているが, これは不条理な ことではな く, まさにそ うしなければな

らないのであ る。既知の 自然言語 の うちに位置を占め る概念的記号,一般名辞 も, もし,その記号がいかな

る特定 の内容 もあ らか じめ表象 させないかの ごと く,その意味が知 られ ていないかの ごと く,そればか りか,

それが何 も意味 しないかの ごと く振舞 うな らば,定義の対象にな りうるだろ う。定義は異な る記号の意味の

同一性の擬制であ る。 しか し, この 「かのごと く」が まった くの悪意であ るな ら,遊戯にす ぎない。意味は

永遠に誕生 して来ない。言語であ るか ぎ り,それ らは, 自然言語の うちに意味の源 泉を兄 い出すであろ う。

(7)

フ レーゲの定義論

『 算術の哲学』に対す るフレーデの 『 書評』

(1894)は, 「心理学の論理学‑の侵入(Frege.V.,S.

332)

の告発であ る。 すなわち, 「表象」概念の酸味性, 主観的な もの と客観的な ものの混同,の批判であ る。た とえば,一意対応に よる等数性 の定義に対す るフ ッサールの拒否の根拠は,表象の違 いであるO数の 等 しい多の表象 と,多の要素相互の一意対応 の表象 とは, 「ひとつの同 じことが らではない

。」 (HU.

. ,

S・99)

フレーデに よれば, まさに この点に, 「心理学的論理学者 と数学者の分裂

(Frege.Ⅴ.,S.319)

があ る。心理学者に とってほ,語の意味が問題である。 しか し, これは表象 と区別 されない。論理学者に と って問題なのは,語が指示す る事象その ものだけであ る。それゆえ, もし,概念でな く外延が定義 され るこ とが批難 さるべ きな ら,それは,そ もそ も, 「数学 のあ らゆ る定義にあては まる」 と言わ ざるをえない。数 学者の関知 しない,意味や表象の差異に執着す る心理学的論理学者には,定義お よび 「等 しさ」一般に対す る理解が まった く欠如 しているのであ る。それゆえ,彼 らに とって, この関係は深い謎につつ まれてい る。

彼 らは,

「A

B

と同 じであ る」 と言えない。なぜ な ら,そのためには

,A

B

の区別が必要であ るが,そ の とき,それは まさに異なる表象だ とい うことになるだろ うか らであ る。

しか し, 「表象」については,そ もそ も,差異 も同一 も語 ることはできないのであ る。なぜな ら,二つの 表象の差異や同一は,同一 の意識のなかでの比較を前提す るか らであ る。だが,各人は各人の表象を持つの みで,他人の表象を持つ ことはで きないOゆえに, 自己の表象 と他人の表象の一致ない し差異は知 りえない。

(Frege.V.,S.317)

フ ッサ ールの語 る 「表象」は,表象内容,概念の内包,表現の意味であ る。表現をその意味か ら問題 とす れば,二つの表現は,( 1 ) 同 じ意味を持つか,(

2)

異な る意味を持つか,いずれかで しかあ りえない。(

1)

のばあ い,定義に よって等 しさを措定す ることは無用であ り, 「歴然た る循環」である

。(2)

のばあい,その定義は 偽であ る。定義は,意味を分解す ることさえで きない。分解 された意味は, もはや本来の意味ではないか ら であ る。定義においては二つに一つである。( 1

)

「歴然た る循環」‑ 定義す る表現において思考 され るすべ ての ことが,説明さるべ き語においてすでに明白に思考 されている。あ るいは,(

2)

「偽な る定義」一一 定義 す る表現の方が,説明 さるべ き語 よ りも,詳細かつ分節 された意味を もっている。偽で も自明で もない定義 は不可能であるかに思われ る。それゆえ,定義が この よ うな批難をのがれ うるのは,説明 さるべ き語が まっ た く意味を持たないか,定義に よって初めて意味が与え られ るのだか ら,現在はそのよ うな意味はない もの と考え るべ きことが明言 されているばあいのみであ る。

(Frege.Ⅴ.,S.319)

しか し,既述の よ うに, これは不条理ではない。概念的表現の定義不可能性 の主張が,必然的に, 自明な 定義か偽なる定義かの択一を要求 し,その結果,あ らゆ る定義の可能性を閉 ざして しま う訳ではない。 これ が フ ッサ ールの定義論であった。 フ ッサ ールが真に形式論理学的定義 (自明で も偽で もない唯一の定義) と して承認す るのは,定義に よって初めて意味が誕生す るよ うな定義 (フレーデが不条理 と考える定義)であ る。そ して以下に見 るように, フレーゲ自身に よる定義 されえない概念の承認を確認で きるか ぎ り,彼の批 判 も,表象の主観性 と概念の客観性の関係の問題を越えて,決定的意味を持つ ことはで きない。

フ ッサ ールは,その 自己批判 の宣言にあた って, フレーゲの 『 算術の基礎』 と, 『 算術の基本法則』第‑

(1893)序言の参照を請 うている。 『

算術の基礎』の原則は,つ ぎの三点であ る。( 1 ) 論理学的な ものと心 理学的な もの,客観的な もの と主観的な ものの分離。(

2)

語 の意味す る

(txdeuten)

す るものを,個 々別 々に でな く,命題の連関のなかで問 うべ きこと。( 3 ) 概念 と対象の区別。

(Frege.Ⅱ.,S.XⅦ

) それゆえ,た と えば,定義を与え よ うとしなが らそれを与え られないとき, 「当該の対象や概念に どの よ うに してた どりつ いたのか,す くな くともそのあ りさまを記述 しよ うとす る」(

Frege・ⅡリS.XX)

ことや, 「概念の歴史」

と言いなが らその実,概念や語の意味についてのわれわれの 「認識の歴史」を記述す るよ うな こと

(Frege.

.

,S.XⅨ)

は, 論理学や算術の基礎づけに何 らの貢献 もな しえない心理学的考察法にす ぎず, 排除 され なければな らない。

『 算術の基本法則』第‑巻に よれば, 「算術 とは,高度に展開 された論理学にす ぎない

。」(Frege.

Ⅳ. ,

S.1Ⅶ)

論理学の一分科である算術は,経験か らも直観か らも

,

何 らの証 明根拠 をひきだす必要はない。算

術の対象であ る数は,感覚的に知覚 されえない存在, したが って非現実的な存在であ る。に もかかわ らず,

(8)

主観的な ものではな く,客観的な ものであ る。 さらに,真であ ることは,真 とみな され ることとは別の こと であ るO

(Frege・Ⅳ

SIXV)

それは.時 と所 を もたず,判断す る人に依存 しないO しか るに,心理学的 論理学者に とってはそ うでない。

(Frege・ⅣリS・Ⅹ

Ⅷ)数学者の定義す るのは,対象,概念,関係であ る。

ところが,心理学的論理学著は,表象の生成の変遷に心を うばわれている。彼 らに とっては,表象の本質を 再現 しない数学者 の定義は,ばかげた ものに しか思えない。

(Frege.Ⅳ.S.XXV)

そ もそ も,論理学が心 理学を必要 とす ること自体,すでに誤謬の徴候であ る。 まさに心理学 こそが,論理学の原則を必要 としてい

るのだか らであ る。

(Frege.・S・ⅩⅨ)

フ レーゲに よる心理主義批判,論理学 の客観性の主張は,それ以後 の フッサ ールを決定的に方 向づけ るも のであ った。 『 論理学研究』が,第一巻 『 純粋論理学序説』 としてデ ビューしたのはそのゆえであ る。 しか し, これを全面降伏 とみなすな らば,第二巻 『 現象学 と認識論 のための諸研究』

(190

1 )の出現は, 「論理 主義 の心理主義‑の回帰」 とい う不可解事にな らざるをえない。 フ ッサ ールの論理主義は,概念の起源の探 求の放棄, したが ってまた,定義 しえない概念 の存在の放棄を合意す るものではなか ったのであ る0

この点を明 らかにす るために, フレーゲの定義論を徹底的に検討す る必要があろ う。 『 概念表記』 (1

879

,

Frege.

ト)や 『 算術の基礎』

(1884)のフレーゲは, 「定義」その ものについて, さほど慎重な配慮を して

いなか った よ うに思われ る。 これに対 し, 『 概念 と対象』

(1892)は, 「定義 され えない もの」に敏感であ

る。 「論理学的に単純 な ものは,そ もそ も定義 しえない。」なぜな ら,それは分解 しえないか らであ る。す べての物質を分解す ることを化学者に要求 しえない よ うに,論理学的な ものがすべて分解 し うるわけではな いのであ る。その とき,残 され た道は,その語に よって思念 されていることを理解 して もらうために,読者 や聴衆に, 「め くばせす る」以外にない。

(Frege.り S・6

7 ) 『 算術の基本法則』第一巻

(1893)に よれ

ば,本来その ものとしては定義 しえない論理学的に単純な もの‑ と帰 ってゆ くことが,算術の基礎づけをめ ざす者の努めであ るべ きであ るがゆえに, 「すべての ものを正式に定義す ることは,かな らず Lもいつ も可 能なわけではない

O」(Frege・S.4

)そ して,第二巻

(1903)に よれば,第一巻におけ る基本記 号につ

いての確認は,定義 とみなす ことがで きない。論理学的に単純 な ものについては, 「暗示 し うる」にす ぎな いのであ る.

(Frege・Ⅳ・S・148)

さらに, 『 関数 とは何か』

(1904)に よれば,その よ うな定義で きない

ものに対 しては, 「思 っていることを比境的な表現に よって暗示す る

(Frege・Ⅲ

,S・90)

ことしかで き ない。すが るべ き唯一の頼 りは,読者の理解, 「意を酌む」 ことである。最後に, 『 思想』

(1918)に よれ

ば,た とえば, 「真」 とい う語の内容は,比類 を絶 し,定義 しえない。

(Frege・Ⅵ

,S・32)

この よ うな流 れのなかに, 『 算術の哲学』の発表 された1

891

年 とい う年が,位置づけ られ る。

「定義 しえない もの」についての フレ‑ゲの主張は何を意味す る だ ろ うか. 『 思想』をふ くむ,論文集

『 論理学研究』

(1966)の編者, G

・バ ツ ィッヒは,序文においてつ ぎの よ うな批判を与 えている。すなわ ち,論理学的な基礎概念は どれ も,あ らか じめ与 え られた永遠 の 「自然定数

(Naturkonstant)

ではない。

何が根本概念であ るかは,選択 され る言語体系に よってそのつ ど異 な る。それゆえ,すべてが定義 され るこ とはあ りえないとして も,それは,いかな る定義体系において も原理的に定義 しえない特定の概念が存在チ ることを意味 しない。そのつ どの体系は,定義 しえない ものをそのつ ど前提せ ざるをえないが,それを別の 定義体系において導出す ることは不可能でないはずであ る。いかな る体系において も定義 しえない特定の根 本概念が存在す るか否かは, まだ決着のつかない問いであ る。

(Frege・Ⅵ

,S・2

1 )それゆえ,定義 されえ ない概念の存在 を説 くことは, フレーデが 自己の論理学の体系を,他の体系に卓越 し,お よそ唯一可能な体 系とみな していることを意味す る。 「自己の体系の うちで定義 され えない もの,それを彼は原理的に定義 し えない もの とみな しているのであ る

。」(Frege・Ⅵ

,S・22)

批判 され るよ うに,あ る言語体系では定義 されえず,それゆえ根 本概念 と見な され る概念が,他の言語体

系では定義 され うる派生概念であ ることは可能であ る。 したが って,いかな る言語体系の うちで語 られ てい

るのか, とい う問いが決定的な意味を持つ ことになろ う。 しか しなが ら,他の言語 体系 との択一を許 さない

体系,われわれがか ってに選ぶ ことので きない体系,それゆえ,唯一かつ比類な き言語体系は考え られない

のだろ うか。す くな くともわれわれの 自然言語は,多数の可能な人工言語の諸体系の うちの一体系なのでは

ない。『概念表記』に よれば,純粋思考の形式言語 と自然言語 との関係は,顕微鏡 と眼の関係 との類比に よっ

(9)

て説明 し うる。眼は, 多 くの不完全性 に もかかわ らず,その可動性 のゆえに,顕微鏡に くらべは るかに卓越 してい る。頗徴鏡は戟然た る区 別とい う科学の 目的に完全 に適合す るが, 「まさにそのゆえに他のすべての 目的に使 えない

.(Frege

・I・

,S

・刃) それゆえ, フレーデに とって.形式言語は,生活の言語の欠陥を補 うものではあ って も,それか ら隔絶 した ものではあ りえなか った。論理学が,言語や文法にあ ま り密着 しす ぎてきた ことを批判す る

(Frege.

,S.XⅢ)

フ レーゲ もまた,文法, と くに ドイ ツ語のそれ をモデル とし て, 自己の基本概念を形成 していたのであ る。 したが って, もしフ レーゲが 自己の言語体系を唯一可能 な体 系 と見 な していた とい うことが真であ った として も,可能な形式言語体系のあいだでのその卓越性は,それ が生活言語に基づいてい るか ぎ りで しかなか った ろ う。定義 しえない ものは, 自然言語 の うちで定義 しえな い板木概念であ ったか らこそ,彼 の体系 のなかで も定義 しえなか ったのではなかろ うか。そ して もし, この 自然言語 を個 々の国語に限定す ることを差 し控 え るな らば,その ことは,普遍言語 の基盤であ る生活世界の 経験‑の還帰 を意味す ることになろ う。 「目くぼせ」や 「 暗示

「比喰」がすが ることので きる唯一 の基盤 は,語 りつつ最後に理解 しあ う人間の世界 としての言語共 同体, 「すべ ての人に とっ て の 世 界, 『 だれ も が』 世界地平 として持つ世界

(HU.V

I .

,Sl370)

であ る。 フ ッサ ‑ルは, 『 算術の哲学』にお いて,身 近かな もの,それ 自身にお いて よ く知 られ てい るものを,疎遠 な もの,な じみのない ものに よっ て 晦 ま す

「定義 」を批難 してい る。 (

HU..S.99)

直接的な 「等 しさ」の概念を,迂遠 な, 「一意対応」に よっ て定義す るのがそれ であ る。答えがあ ま りに身近かにあ るとき,それはあ ま りにあ りふれた ものに思われ る。

それ ゆえ,その答えが回避 され,迂遠 な人工的構築が試み られ る。か くて,算術の基本概念 を最終的かつ定 義 された徴表か ら構築す ることが理想 とな り,概念の 自然 な解 釈が変 え られ,捨 て去 られ るに至 る。そ して,

「つ いには,実践に とって も,科学に とって も等 し く無 用 な, まった くな じみのない概念形成 を もた らす」

(HU.

油.

,S.118)

ことになろ う。 もし, フ レーゲの思索の流れ の うちに, この よ うな批判を の が れ ゆ く歩みを跡づ けえた とす るな らば, フ レーゲにおいて も, 「形式論理学 の始源的条件を顧わにす る

「現象 学

(Eley.,S.82)

を兄 いだす ことが,許 され るのであ る。

結 論

この論考の意図は, フ ッサ ールの現象学の意味 を理解す るために,変貌す る思索の軌跡,それ をつ らぬ く 主旋律を探 りあて ることであ った。連続性を追求す るかか る意図のゆえに,その切断, もろ もろの

Durch‑

bruch

」の独 自の意義が不鮮 明 とな り, 単 な る変奏 曲以上の もの としてえがかれ なか った憾みが, 当然の こ となが ら残 る。 また,その意図に もかかわ らず, 「定義」の問題 をめ ぐる限 られた地平に しか,主旋律を鳴 りひびかせ ることがで きなか った。 ともあれ, 「現象学 と内包の論理学」 とい う標題が示唆す るよ うに,主 題 は 「内包の論理学」であ る。 これ を明 らかにす るために, まず, フ ッサールの内包の論理学 の構想が素描

され た。 これ に よって,その構想が特異な暖味な もので も,実現不可能な もので もなか った ことが示 され た。

さらに,すでにそ こに, 自然的な論理的思考,直接的経験‑ の回帰の主題が,外延への迂回の拒否 として, ひび き始 めていた ことを見た。 『 算術 の哲学』におけ る, 「心理学に よる論理学 の基礎 づけ」は, 「内包の 論理学」の構想 な しでは不可解 であ る。論理学 を外延 の計算に必然的に限定す るか ぎ り,概念の起源,それ に内容 を与 え る志 向的態動性 の追求は,関知せ ざることだか らであ る。それ は,閉 じられ た体系 としての論 理学の存在様式への無知,論理学者失格を意味す る。 しか し, この よ うな論難 の うちに, フ ッサ ールは哲学 者失格を見 るだ ろ う。 ところで, 『 算術 の哲学』の うちに,高鳴 る主題 を聞 く者に とって,著者 の 自己批判, その心理主義批判の宣言は,越 え難 い蹟 きであ り, この蹟 きに十分,蹟 くことが必要であ る。 しか し,小論 はその制限 された意図のゆえに,理念的対象 とその構成につ いて,詳論す ることはで きなか った。 (『 意味 の理念性 』)

ここでは,既に 『 算術の哲学』の フ ッサ ‑ルが,素朴 に心理主義者であ ったわけではな く,それゆえ,心 理主義批判 もまた,心理学 との永別を もた らしたわけではない ことだけを述べ る。 『 算術 の哲学』に よれば, 数 え る作用 の 「時間的継起」は,数概念形成 の 「心理学的予備条件」ではあ って も,決 して数概念の内容そ の ものを形成す るわけではない。 なぜ な ら,数その ものは

,

「時間的存在」ではないか らであ る

。(HU.

Ⅶ. ,

S.25‑34)

したが って,現象の 「心理学的記述」 と現象の 「意味 の陳述」, 「意味 の基底」( 現象) と 「意

味その もの」 との峻別が要請 され ることにな る。 (HU・W. ,S・309)た し

に, 『 算術

暫学』は,それ

(10)

にもかかわ らず, この 「認識作用の主観性 と認識内容の客観性 との相互関係

」 (HU,XV

n.

,S.7

)につい て語 る,決定的な表現 と方法を兄いだすに至 っていない。 フ ッサールの思索の変貌は, この言葉 と方法を求 め続けた苦闘の軌跡にはかな らない。心理主義についての 自己批判 も,心理学 と現象学の関係を,絶えず問 いかえされ るべ き生涯の課題た らしめたにす ぎないのである。

(HU.

Ⅸ) その意味で,形式化に よる意味 の空洞化,科学の危機‑の警鐘,科学の意味基底たる生活世界‑の還帰の主張

(HU.

S.45‑54)

も, 既に 『 算術の哲学』の うちで始動 していた運動の顕現だ ったのであるC

他方,定義をめ ぐるフレーゲの批判 も,フ ッサールに内包の論理学の構想を放棄 させ るほど徹底 した もの ではあ りえなか った。 このことをわれわれは,批判者 白身に よる 「定義 されえない概念」の承認を確認 し, この概念の意味諒解に不可避であるとされ る比倫や暗示のすが るべき唯一の基盤が,生活言語の世界にはか な らないことを見 ることに よって,示そ うとしたのである。 フ ッサールの自己批判,論理主義の宣言は,内 包の論理学の堅持 と両立 していたのである。それゆえ, 『 論理学研究』第二巻以後の現象学 も,心理主義‑

の回帰を意味す るわけではな く,む しろ,内包の論理学‑の志向を徹底 させたにすぎないのであるC 現象学の深化は,内包の論理学の徹底に よってのみ,可能 とな ったのである。

はたして,内包の論理学の徹底は,現象学の深化に よってのみ可能 となるのだろ うか。

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参照

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