■弘前大学哲学会 (論文)
生命は個体的か ?
‑カン トか ら現代の生命論‑ー
稲 垣 恵 一
1
.は じめに人間を万物の中の どこ‑位置づ けるのか とい う問題は、古代哲学か ら引き継がれている 伝統的な問題である。例えば、プラ トンが 『テ ィマイオス
』
で知的存在 によって動か され る宇宙 について 「もっ ともあ りそ うな 言論」 として論 じたのは、その間題のひ とつである と言 えるだろ う。また、ア リス トテ レスが、『魂 について』で人間を最 高位に秩序づ けた り、あるいは、中世の トマス‑アクイナスが神を頂点 にして人間を万物の中に秩序づ けている のもそ うした問題 に含 まれ よ う。
こ うした問題‑ の関心 はカン トにも流れ込 んでい る。万物の秩序づ けにおいては 「‑ (統一)」、「真」、 「善」が問題 とされ るの に、た しか にカン トは 『純粋理性批判』ではス コラ学者の命題 を挙げて、「実在するものは‑ と真 と善である‑‑・この原理 を使用 して導か れた推論 (これは完全 に循環命題 を与えるにす ぎない)は、あ まりに貧困な結果 に陥って いるので、名誉 のためだけに現 代の形而上学で もその命題 を挙 げるのが常であるのだ」
(B114)と述べ、「‑」、 「真」、 「善」 を実在‑適用 され るカテ ゴ リー として認定 しない。
しか し、 これ ら‑ の関心 まで捨ててはいない。
カン トが一定の数のカテ ゴ リーだけを現象に適用可能な もの として認めたのは、カテゴ リーが超越的 に使用 されて認識 の客観性が損 なわれないよ うにするためであった。実践哲 学で もやは りカテ ゴ リーに従って欲求能 力の制約、範囲、限界が検討 され、経験の領域の 外 に実践哲学の領域が確保 された。『判断 力批判』は、ま さしく 『純粋理性批判』 と 『実 践理性批判』の架 け橋であって、「自然概念の領域か ら自由概念の領域‑ の移行を可能 に す る」判断 力の批判である。 こ うして、それぞれの批判は、認識能 力の批判 として、 「真」
(理論理性)、 「善」 (実践理性)、 「‑」 (両者 をつな ぐ判断 力) を しかるべ き領域‑ と位置 づ け、実在 もまたその領域 に秩序づ け られているのである。『判断 力批判』は、合 目的性 の原理だけを使用 して実在を体系的 に統一 しよ うとす る物活論、お よび、数学的力学的原 理だけに従 って実在を体系的 に統一 しよ うとす るス ピノザ主義 の両者を否定 し、合目的性 の原理の適用範囲を限界づ けている。 この こともまた、『判断 力批判」]には、批 判の原理 に従い認識能 力に対応 して実在 を秩序づ けよ うとい う意図がある とい うことを示 してい よ う。カテゴ リー と対象 (存在)が明確 に分離 され、 しか も、神や物 自体 と現象 も明確に分 離 されているとい うことか ら、そ うした戦略が導かれ るのは必然的である。
『判断力批判』 に依れば、 「人間は、諸 目的 を理解 し、合 目的 に形成 された事物の集合体
か ら理性 によって諸 目的の体系 を作 りうる唯一 の地上の存在者だか ら
」 (V,S.426,427)
、 人間は万物の頂点 に位置づ け られ る。 ここでの諸 目的は、道徳的な最 高目的 と結びつ け ら れてい く。 ま さしく道徳的な最 高 目的 を取 り扱 う 『実践理性批判』では、善 (純粋)意志 は欲求能力のひ とつであ り、道徳法則 によって 自律的 に決定 され るものである。 カン トに 依れ ば、欲求能 力 とは 「思 い浮かべた ものを実現す る原因 となる表象 による能力」 (V,S,9 .
)であ り、また、『道徳形而 上学』で も、欲求能 力が様 々に区別 され、中で も意志は動物 的 な選 択意 志 と純粋 理性 に よって決定 され る選択意 志 とに分 け られてい る (1′'gl.ll
,S.212f f
)。 さらに、『実践理性批判』では こ うした欲求能 力は、 「生命」 として定義づ け られ てい るのである (Vgl.V,S.9.)。 ここか ら人間 と動物 の区別は、理性 を持つか、持たない か に依 る ことにな る。 ところが、フ イロネ ンコは、 「生命 その ものは、最 も高い段階つ ま り人間 にある とされ うる」1
と述べ、 「生命」 を人間 にのみ認め るのであるC さらに、 フイ ロネ ンコは、 「生命」 の本 質 は 「個体性」 にある とす る2。 フ イロネ ンコが言 うところの「生命」は、動物か ら区別 された人間 にのみ認め られ るものであるか ら、 自由な選択意志 つ ま り実践理性 と言い換 えて もいいだろ う。理性 に 「個体性」 を認め るのは、 フイロネン コが初めてではない。例 えば、トマ スエア クイナ スもまたその よ うに考 えていたのである3。
しか し、カ ン トの実践理性 は各 人に内在す るものである として も、誰の理性であれ道徳 法則 によって意志決定 され うるよ うな理性 なのだか ら、 自己の理性 と他 者の理性 を区別す るものは何 もない。 とすれ ば、フ イロネ ンコの言 うよ うに、その よ うな理性 を含む欲求能 力 として定義 され る 「生命」 にそ もそ も 「個体性」 を認 める ことはで きないのではないかC また、 もしもそ うだ とすれ ば 「個体性」は どこに求め られ るべ きか。 これ に答 えることが、
本稿 の 目的である。
2.
実在の秩序カン トは、単なる物体、 有機 体、動物、人間を どの よ うに区別 していたのか。 これ を、
『判断 力批 判』 を中心 に見てい きたい。 また、『判断 力批 判』だ けで は不 十分な点 につ い ては、その他の著作 も援用 してい きたい。
カン トは、『判断 力批判』 「目的論的判断 力の批 判」で存在す るものを合 目的性 の原理 に 従って区別秩序づ けてい く。 カン トに依れば、合 目的性 の概念 は 「自然 にか んす る判断 力 のために必要な概念であるが、客観 その ものの規定 にはかかわ らない概念
」 ( V,S.270)
であ り、合 目的性 の原理 は 「われわれの理性 に とっては統制的な もの として、あたか も客 観的原理 であ るかの よ うに必然的 に認め られ る」 (V,S,270)
ものである。 なぜ な ら、 こ の原理 が も しも客観 的原理 と見な され るな ら、即座 に 『純粋理性批 判』 「先験 的弁 証論」で論 じられた よ うな仮象が生ず るか らであ り、その仮象 はすで にそ こで取 り除かれたか ら である。従 って、合 目的性 の原理 を使用 して実在を区別す る とい うことは、判断 力を持つ 者たちの見方 にもとづ いて 自然を判定す る とい うことに直結す る。その意味で、合 目的的 判定は、 判断 力を持つ者の問で され る相互主観 的判断である。
最 初に区別 され るのは、合 目的性 の原理 に従 うもの と機構 の原理 に従 うものである。 こ
‑ 8 ‑
れは、 有機体 とたんなる物体つ ま り物理的物体を区別す るとい うことを意味 しよ うO有機 体 とたんなる物体の区別は、常識的 には生命体 と非生命体の区別 と考 えられそ うだが、フイ ロネンコも言 うとお り、カン トにおいては有機体が必ず しも 「生命」 と呼ばれ るとは限 ら ない i。その理 由は、『判断 力批判』第
6 4
節でカン トは、樹木の事例を挙 げて有機体 を説 明 し、有機体を生命を持つ ものの下位にあるもの として位置づ けているか らである。カン ト に依れば、樹木は三・自然法則 に従 って 自分 と同 じ類の木を生み出す (樫の木は樫の木 を生み出す
) 。
怠1本の木は木の諸部分 (根、茎、葉等々) を生み出すO笠木全体 と木の諸部分は相互依存的関係 にある。
( V
gl .V, S. 3 7 1 f f . )
しか し、カン トは こうした特徴 について 「[自然 目的 としての]物体の諸部分は全て、そ の形式 と結合 に従 って相互 に産出 し合い、そ して、全体を自分 自身の因果性 にもとづいて 産出す る」 (
Ⅴ
,S.3 7 3 .
) と言 う。つま り、全体は部分のために、部分は全体のためにとい うわけである。 しか し、 この ことは有機体を特徴づ けるのに不 十分である。なぜな ら、時 計の よ うな機械の部品は 「技術 の道具」 (Ebd,) と見な され るが、時計の よ うな道具 もま た全体は部分のために、部分は全体のためにあるか らである。そ こでカン トは、有機体 と 時計の違いを挙げて、合目的性 の原理 に従 うもの とそ うでないものの区別 をさらに明確 に す るO『判断 力批判」]第
6 5
節 に依れば、時計の特徴は次の点 にある。1)ある部分は別の部分 を動かす道具である、
2)時計は自分 と同 じ時計 を自己産出 しない、
3)
時計は、故障 して も自分 を修理できない。(
Vgl.V,S.3 7 4 . )
1
)
では、諸部分は運動全体の原因ではあるけれ ども、歯車A
は歯車B
を産出 しない。そ れ に対 して、有機体の場合、枝か ら索が生えて くるよ うにま さしく部分が部分を生み出す。2)
では、同一規格の別の時計 を生み出すためには、人間の手 を必要 とす る。それ に対 し て、有機体は生殖活動 を通 じて同一種 の別の個体 を生み出す。3
)では2)
と同 じく時計 の修繕 には職人の手を必要 とす るだろ う。それ に対 して、有機体は欠損部分を自ら生み出 そ うとす る。敢 えて言 えば、 自然治癒力を持つ とで も言 えよ う。もっとも重要なのは、フイロネンコも指摘す る とお り、有機体ではJi、富、③が別々の 契機 としてあるのではな く、それぞれが分かちがた く結びついている点であるCつ ま り、
有機体は 「統一」 を持つ。 ところが、時計 には、・昔の 契機 のみが認め られ、tT)、雷 は完全 に欠落 している。 さらに、時計の部分 と全体の相互依存的な関係 に統一つ ま り目的を与え
ているものは、時を知 らせ るため とい う目的 を時計 に付 与した人間の心の中にある。 とす れば、 もはや時計 自体には統一は含まれていない とい うことになる。 こうした ことか ら、
時計はいわば、 自らの外か ら合 目的性 を付 与されていて も、時計 自身が持つ 力は 「動かす 力」 (
Ⅴ
,S.374.)にす ぎないの に対 して、有機体 は 「形成力」 (Ebd.) を持つ とい うこと になる。 この点で両者は区別 されているのである。カン トは、 こ うした有機体のあ り方 を 「生命の類比物」 (
Ⅴ
,S.374.ff) と呼べば、有機 体の特性 をよ り適切 に表現 している と言 う。カン トにとって生命 とは、きわめて実践的な ものである。『実践理性批 判』 に依れ ば、生命 とは 「欲求能 力の法則 に従 って行 為す るあ る存在者の持つ能 力」 (V,S.9.)であ り、欲求能力 とは 「思い浮かべた ものを実現す る原 因 となる表象 による能力」(Ebd.)である。樹木の よ うな有機体はた しか に上であげた住:、富、33:によって 自ら物質を取 り入れ、たんなる物質か ら区別 された もの として 自らを有機 化す る。 しかも、 自己保存のために環境 に応 じて 自らを有機化するのであるD時計は、酷暑 に 対応 しきれず故障 して しま うことがあるよ うに、環境の変化に自ら応 じることはできない。
しか し、樹木 には熱帯で育つ樹木があるよ うに、 自らを暑 さに対応できるよ うに変化 させ ることで種の維持 を図ってきたのである。その限 りにおいて樹木はた しかに自らが生存す るための 目的‑ 向か う能力を持つ。 しか し、木は 自ら目的を識別や意識 した りして 自己を 有機化す るのではない。それ故、樹木は 「生命の類比物」 と言われ るのである。その場合 にもカン トは、樹木 に代表 され る有機体 を物活論で言われているよ うな物の一例であるの も否定 しているし、船 と船頭の関係で物体 と魂 を捉 えるとい うタイプの二元論 をも拒否 し ている。
それでは、 目的の表象を持つ とされ る動物は生命なのであろ うか、それ とも生命の類比 物なのだろ うか。カ ン トは、『道徳形而 上学』のなかで 「理性 を欠 くが生命 を持つ被造物 にかん して、動物 を暴 力的 にまた同時 に残虐に扱 うのは、 よりいっそ う心か ら、人間の 自 己自身による義務 に反 している
」 (
Ⅵ,S.443.) と言ってお り、動物が生命を持つ とい うこ とを認めている。『道徳形而上学』 に依れば、 「原因 としで 快が必然的 に先行 して欲求能力 を決定す るもの」が 「欲望」 と呼ばれ、それが習慣化 したものが 「傾向性」 と言われてい る。傾 向性つ ま り 「動物的衝動」 によってだけ決定可能 な選択意志は、動物的な選択意志 である(Ⅵ
,S.212ff)。動物的な選択意志は意欲のひ とつであるか ら、動物 に生命は認め ら れ るのである。最後 に、人間 と動物 の区別は何 に根拠づ け られ るのだろ うか。『道徳形而上学』の冒頭 では、 「人間の選択意志は衝動 によってた しか に触発 され るが、 しか し決定 されは しない のであって‑‑‑純粋な意志にもとづ く行為へ と決定 され ることが可能なのである
」 ( Ⅵ ,S.
213.) と言われている。動物 とは異な り人間は純粋な意志にもとづ く行為‑ と決定 され る ことが可能である、すなわち衝動 に抗 して道徳的 にも振舞い うる。それだけでな く、認識 能 力の面で も動物 と人間は区別 され うる。『論理学』の中でカン トは、 「[認識 の]第四の 段階 とは、意識を伴 ってあるものを識別す ること、つ ま り、認識す ることである。動物 も 対象を識別す るが、対象 を認識す るわ けではない」 (Ⅸ,S.65.)と述べている。識別す る
‑ 10‑
とは、一様性 と差異性 に従って ものを区別す る とい うことであ り、第三の認識の段階に相 当す る。第四の認識 のポイン トは、 「意識 を伴 って」 とい うところにある。動物は、 もの を区別できた として も区別を意識 しているわ けではない。それ に対 して、人間はその区別 を意識 している。 また、『教育学』 「序説」で 「人間は教育 されなければな らない唯一の動 物である
」 ( Ⅸ
,S.441.)、「動物は、自らの様々な能力の うち どれであろ うとも、それ を身 につ けるよ うにな りさえすれば、す ぐにその能力を規則 に従 って使用す る」(Ebd.)、 「動 物は養育 を必要 とせず ‑ [中略]‑・一種の保護を必要 とす るだけである」 (Ebd.) と言わ れているが、それは、動物は意識せず ともつ ま り本能的 に事物 を区別 して、その識別能 力 を使 って生存 している とい うことを意味す る。 フイロネンコも指摘す る とお り、動物は、「考 えることができないので、決 して 目的をそれ 自体把握す る動物 としては特徴づ けられ えない
」5
のである。従って、理論 において も実践 において も意識の有無が動物 と人間の違いを決定づ けてい る とい うことになる。
3.
個体 と生命機械、有機体、動物、人間は、以上の よ うに区別 され、実在の区別は これで一件落着 し ているように見える。 ところが、フ イロネンコは この区別の根幹 にある 「生命」の概念 に ついて、ふたたび 「生命 とは何か」 と問 うのである。 フイロネンコは 「生命の実在性は、
生命の定義の彼岸 にある
」6
と言 う。 フイロネンコは、『世界公民的見地 にお ける一般的 自 然史の理念』にある 「人間は本能 を離れ、 自分の理性 によって生み出 した もの以外のいか なる幸福や完全性 にもかかわ らない」 とい う文言 を強調す る。有機体や動物は、その活動 や本能 によって区別 された。それ に対 して、人間は、理性の活動 ゆえにそれ らか ら区別 さ れたのである。理性の活動 は、有機体や動物の活動や本能の よ うに実在す るものによって 特徴づ けられない。ま さしく、理性の活動 は無‑ と志向しているのである。例 えば、理性 にもとづ く道徳的行為は、未だないものを行為によって実現す るのであ り、理性はない も の、つ ま り、無を志向す るのである。カ ン トにとって道徳的行為はかつて得た ことのある 快をふたたび得 るためにな され るのではな く、それ 自体苦いか らな され るべ きなのであ り、その意味で も理性 は無 を志向す る。それ故 フイロネンコは、 「欲求能 力の法則 に従 って行 為す るある存在者の持つ能力」 とい う生命の定義 によっては生命の実在性は語 りつ くせな い、 と言 うのである。
フ イロネンコが生命の本質 と見なすのは、欲求能 力ではな く 「個体性
」
(Ebd.)である。なぜ個体性 が生命の本質 となるか と言えば、 「個体性」は、他を必要 としないでそれだけ で存立す るか らである。つま り、有機体や動物は、有機体 と動物 との関係 において、それ ぞれ区別 された。それ に対 して人間は 自分の理性 によって生み出 した ものによってのみ 自 らを特徴づ けるのであるか ら、 ここに理性以外の ものの入る余地はない。それゆえに 「個 体性」が理性 において、ひいては人間において存立 していると言 うわ けである。
フイロネンコは、生命の本質 を 「個体性」と見なす論拠 として、『判断 力批判』第64節の
植物 についての議論 を挙げる。 この議論 に依れ ば、樹木 の よ うな有機体 には接木で きる と い う特徴がある。例えば
、1
本の桜 の木 に桃の木の枝が接木 されてい る場合、桜の木は、同 じ類 として成長 し、 自らを生み出 している とは言 えない。なぜ な ら、桜の枝 の一部か ら桃 の木 も生長 してい るか らである。別の見方をすれ ば、接木が可能 である とい うことは、同 一種 の枝や葉 もまた接木 された もの と見なす ことが可能 となる とい うことを意味す る。例 えば、桜の木Aの枝 を、桜 の木 Bに接木 した とす る。 Bには、 もともと生 えていなかった Aの枝が くっついているわ けで、B自体が他の個体Aとの複 合体 とい うことになるO また、Aの枝 は、どの部分 も挿 し木を してやれば、分身が育つわ けである。この分身はAなのか、そ れ ともA'なのか ?‑‑‑その よ うに考 えてい くと、1本の木の個体性 を決定す ることはで き ない。それ故、フ イロネンコは、植物 に見 られ る有機体につ いては 「カン トの 立場か らは 有機体 と個体は交換概念ではない
」7
し、 「木 は木の真なる共和国」8
を形成す るだ けである と言 うのである。それ に対 して、動物の場合、例えば、 一匹の猿 の肝機能が停止 したので、犬の肝臓 を移植す る といった ことは不可能である。 また、同一種 の別の猿の肝臓を生体移 植 した として も拒絶反応が生 じ、枝 を接木す るよ うには うま くいかないのである。また、
肝臓 のクロー ンも相 当に医療技術 を駆使 しない限 り、挿 し木の よ うには うま くいかない
9
。 それ故、動物 は個体性 を持つ。 ま さしく、単な る有機体 と動物の相違は、同一種の もとで 個体性 を維持 しているか どうか とい う点 に求め られ るだ ろ う。 しか も、動物 は欲求能 力つ ま り生命 を持つのであるか ら、 ここで生命 と個体性が結 びつ くのである。さらに、フ イロネ ンコは生命の本質である 「個体性」を、「情感的判断 力の批判」第
4 0
節 で論 じられている 「共通感覚」論、お よび、第55‑57節で論 じられている趣味の二律背反 論 の 中に見 よ うとす る。 共通感覚 は、 「自分の反省 において、他の 人たちがそれぞれ に持 つ表象 の仕方を思想 において (ア ・プ リオ リに)顧慮す る判定能 力、いわ ば、 人間理性全 体 と自分の判断 を照 らし合わせ るための判定能 力」 (V,S.293ff.)であ り、 この能 力の格 率は 「判断 力の格率」 (V,S.295.)と言われている。 カン トに依れば、趣味は共通感覚で あ り、 「(
概念 を介 さず に) 与え られた表象 と結 びついた感情 の伝達可能性 をア ・プ リオ リ に判定す る能 力」(V,S.
296.)である。つ ま り、個々人で異なってい る快 の感覚を、複数 の他 者 と共有で きる、すなわち共感で きる とい うことが趣味の本質なのである。共通感覚 によって 自己 と他者の区別が可能 になるわ けである。フイロネンコの解釈 には
3
つ の問題がある。第一に、フ イロネンコは 「理性」が個体的 であって 自ら個体性 を理解 している とした上で、 さらにこの個体性 は 「判断 力」 によって 判定 され る と考える。つ ま り、 生命に理性 が内在 しその理性 が個体的であるか らこそ、生 命 もまた個体 化 され る とい うわ けである。 ここに生命 の本質が個体性である とい うことが 成立す るのだが、 これ に従 う限 り、理性 によって個体性 を受 け取 る人間 こそがゆいいっ個 体的な存在 とい うことにな ろ う。つ ま り、 人間だけが生命 を持つ とい うことにな るのであ る。 となれば、理性 を持 たない動物が生命を持つ と言 うことはできな くなって しま う。そ のせ いで、動物 も植物 と同 じく 「生命の類比物」 に判定 され ざるをえな くな り、カ ン トの テ クス トに矛盾す る。 また、先の 『道徳形而上学』の動物虐待の禁止 についての引用( Vg
l.112‑
l
l
,S.443.)の解釈 もまた困難 になって しま うO個体性 が理性か ら供給 され るのだ とすれ ば、それは生命の本質ではな く、む しろ理性 の本質である。 ここか らも、個体性 は生 命の 本質 とはな らないのである。第二 に、判断 力はた しか に複数の個体 を承認す る。 しか し、それは他者 を承認す る と同 時 に自己をも承認 され る とい うことを意味す るのである。 この ことは、理性が孤独である とい うことを意味 しないのである。 共通感覚論 で言われている判断 力の第 二の格率は、第 三の格率つ ま り自己一致 して考 えることの前段階の格率である。 も しも第 二の格率が 「孤 独な理性」 とい う意味での 「個体性」 を理解 させ る とした ら、それ は、『判断 力批判
』
「序 文」にある理性 と判断 力の認識の区分1 0
を不分明 にす る ことになる。 また、『純粋理性批判』「先験的弁証論」付録 で、カ ン トは、同種性、多種性、類 同性 の
3
つ の原則の使用を理性 の仮説的使用 としてあげ、経験 を多様 に見る方向 と多様な経験 をひ とつの原理 の もとに統 一す る方向の両方か ら経験的世界 について論 じている。 これが可能 とされ るのは、ま さし く理性が可能的経験の外 にあるか らである。従って、理性が、ある経験的な ものが 「孤独」か 「コ ミュニケー シ ョン的」か とい う文を も理解可能 に してい る。 ところが、 「コ ミュニ ケー シ ョン的」が対置 されない よ うな コンテ クス トでは、そ もそ も 「孤独」 とい う語 は意 味 を持たない。‑ ツフェは、理性 自身は、 「モ ノロ‑グ的」つ ま り 「孤独」か、あるいは、
「コ ミュニ ケー シ ョン的」か とい う選択肢 のあるパ ラダイムか ら排除 されてい る としてい る11が、それ は正 しい。従 って、フ イロネンコの よ うに、理性 の個体性 (‑ ツフ ェであれ ば 「孤独」)をそのまま生命 にシフ トさせ る ことはで きない し、 また、それ はカ ン トの方 法 にも反す る。なぜ な ら、 カン トは 『判断 力批判』を 「情感的判断 力の批 判」 と 「目的論 的判断 力の批判」の二部に分 け、前者 を特殊な能 力 としての判断 力の批判、後者 を反省的 判断 力一般 としての批判 としてお り、情感的判断 力は反省的判断 力の うちの特殊な働きを 持つ判断 力にす ぎないか らである。 従 って、情感的判断 力 によって判定 され る特殊な (つ ま り、 人間 にのみ認 め られ る)個体性 を、本来、 目的論的判断 力で判定 され る (動物 にも 一般的 に認 め られ る)個体性 と重ねあわせ にす る ことはで きないのである。 フ イロネ ンコ は、理性の個体性 (孤独) と情感的判断 力で判定 され る個体性 を同一視 した上で、 さらに、
情感的判断 力 と目的論的判断 力の対象領域 をも混 同 して しまってお り、二重の誤 りを犯 し ている。
第三 に 「生命」の本質が 「個体性」 にある とフイロネンコが言 うよ うな ことを、カン ト は どこで も言ってはいないのであるOそ もそ もカン トに依れ ば、「生命」は欲求能力 によっ て定義 されている。欲求能 力 には純粋意志 と動物的な意志があ り、 この両者 を持つ のが人 間であ り、後者のみ を持つ のが動物である。純粋意 志は、 自己立法 して意志 を決定す る。
ただ しこの理性は各人 に内在 して も、各人の理性 の性格 は同一である。 とすれば、純粋意 志その もの に 「個体性」 を求めることはで きない。 それでは、動物的な意志 に個体性 を求 め られ るか と言 えば、それ も無理であろ う。なぜな ら、動物的な意志は衝動 によって決定 され るものであるか ら、 どの動物 において もその意 志だ けを とってみれば、同一の法則 に 従 って働 くか らで ある。それ は生殖 につ いて言 えるだ ろ う。 カ ン トは種 の繁栄 につ いて
「こ うした一対 (両性)は、ひ とつの物体 における有機的全体でない として も、何 よりも まずひ とつの有機化す る全体を作 る
」
(V,S.425.) と述べてお り、動物の個体は性 とい う 特徴を備えた個体であって、それ らは同一の法則 に従 って生殖活動 を行 う。動物的個体は、種を保存 しよ うとす る動物的意志一般の手先 にす ぎない。従って、理性 にも個体性はない し、動物的意志そのものにも個体性 はない とい うことにな り、フ イロネンコが言 うよ うな
「個体性」、 「他者性」は、直接 には 「生命」 と結びつかないのである。 とすれ ば、生命の 外か ら、理性や動物的意志を個体化 して判定す るものを、つま り、判断 力を持ち出す よ り ほか方法はあるまい。
4.
むすびカン トにとって 「個体性」は
、2
つの レヴェルで考 えられなければな らない。ひ とつは、情感的判断 力の批判 にある共通感覚の格率で示 されている自他を区別するよ うな 「個体性」、
も うひ とつ は 目的論的判断 力の批判 にある、一般的 自然史の レヴェルでの 「生物的個体」
である。前者は、文化的、社会的、情感的な 「個体性」、「他者性」であ り、後者は生物的 な 「個体性」である。 これ らは判断 力によって 「個体性」 として判定 され る。従 って、他 を廃 し自己を維持す るものであれば、 「個体性」 を持つわ けである。 この よ うな もの とし て対象 を分類す るのは、判断 力の働 きである。従 って、個体性 は理性か ら供給 され るもの ではない。有機体の中にも接木や挿 し木の不可能な種があるとい うことも考慮すれ ば、個 体性 は生命の本質で もない とい う主張 をさらに正 当化す るだろ う。個体性 は、判断 力によっ て付与 され るのである。 また、判断 力には帰納能力があ り、個体 を高次の類種‑ と纏め上 げてい くこともできる。生殖の場面では、生命は個体 を種の維持‑ と解消 してい くとい う ことを考 えれば、必ず しも生命を個体的な ものであると考えることはできない。そればか りか、何世代 もの個体 を貫いているのが生命で もある。従 って、判断 力によって も、生命 は個体性 としてのみ判定 されるわ けではな く、類種 の観点か らも判定 され うるのである。
ところで、動物は生物的個体で しかな く、その個体は種の維持や生殖 に解消 されてい く。
それ に対 して、人間だけが種の維持や生殖 に解消 されてい くことのない面も持つ個体的な 存在者である。その ことは、『判断 力批判』で雄弁 に語 られている。それは 「情感的判断 力の批判」で も 「目的論的判断 力の批判」で も語 られている 「開化 (Kultur)」において 表 されているC とりわ け、「目的論的判断 力の批判」では、 「有能 さ」や 「熟練」が究極 目 的 とされ、 「開化」は、 「究極 目的であるために人間 自身が しなければな らないことに対 し て人間を準備す るために自然が果た しうること」(V,S.431.)であ り、熟練の産物 として 生ず るとされている。開化の中で も美術や諸学の よ うに、「普遍的 に伝達 され うる快 によっ て、また社会 の彫琢 と洗練 によって、人間を教養あるものにす る」 もの もあ り、 「われわ れの うちに隠 されているさらに高次の諸 目的 に対す る有能性 を感知 させ る」 (
Ⅴ
,S.434)と言われている。 ここで重要なのは、「有能性」が 「美術」と関連づ けられてお り、しか も、
これ に 「普遍的な伝達 可能性」が付与 されている点である。 この ことは、 「情感的判断 力 の批判」で言われた共通感覚論で論 じられた ものである。また、美は 「遺徳性のシンボル
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であって 、 これ を顧慮 して (各 人 に とって 自然的で あ り、 どのひ とも他の人々 に対 して義 務 として要求す る関係 において) のみ、他 の人々それぞれ に賛 同の要求 を伴 って満足 を与 える」 (
Ⅴ
,S.353)と言われ てい る。従 って、熟練 の開化のひ とつ として 美術が あ げ られ てい る とい うことは、美 は、道徳的存在者で もある人間 を感知 させ なが ら、 また、道徳的 存在者で もあ る他 者を各 人 に承認 させ る とい うことを表 してい る ことになる。 こ こでの他 者が、 自然 の中で生 き抜 く生物 的な個体 であ りなが らも、 文化的、社会的 、情 感的な個体 であ るのは論 を侯つ まい。つ ま り、人間は、生命 とい うタームで特徴づ け られ るのであ る。カン トに とって生命は、感 覚的 な欲求のみ な らず、道徳的な欲求 を も包括す る ものであ る。
生命 は、 一方で は、生物的個体 、類種 を維持 し、他方 では文化的個体や社会 、道徳 の形成 に寄 与す る。従 って、生命の本質 は個体性 ではあ るまい。生命 には個体性 の契機 も特殊性 の契機 も普遍性 の契機 も混在 してい る とい うのが正 しい。
プラ トンの場合 、魂 は個体的であった。 また、魂 は、死 と同時 に身体か ら去 る もので も あったか ら、身体 を生 き生 き させ る源 で もあった。 ところが、カ ン トの場 合 には、『純粋 理性批判』 に見 られ る よ うに魂 は認識 の対象 か ら除外 された。 そのお陰で、生命 は 一般的
自然史の対象 とされ 、現 代では生物学 の対象 で ある。
カン トの言 う 「生命」 は、生物学 を受 け入れてい るわれわれ の 目か らすれ ば、 きわ めて 特異な概念であ るのは疑いない。 そ う思 うのは、 と りもなお さず 、従来 、魂 にかかわ る問 題 として扱われ た文 化や情感、遺徳が魂 とともに奪われて しまってい る とい うことを意味 す るだ ろ う。 カ ン トは、 生命の 中‑理性 の欲求能 力 を押 し込 む ことで魂 につ いて問題 にで きる圏内に とどま りえた。 ところが、生命か ら理性 が取 り除かれ ているわれわれは、 カ ン トが問題 にで きた圏 内か らも除外 され ているのであ る。その よ うな状況下で生命や環境、
ジェンダー ・セ クシュア リテ ィが新 た に (いや 、近代‑ の復古か もしれない !)生命 とい う視点で問題 とされ るのは、おそ らく生命 には も とも と生物学 に解消 され ることのない面 が内在 してい るか らであろ う。 文化や情感、遺徳 の排除 された生命 しか知 らず、生命 (坐 活)の質 (QOL) を奪われた現代 に、カ ン トの 「生命」 は、文化や情感、道徳 を含む よ う な生命 を取 り戻す方 向を示唆 して くれ ている。 また、カ ン トの 「生命」 は、 その 中に従来 、 精神論 として扱 われ ていた領域 が残 され てい ることで、 ミシェル ・フー コーが言 うよ うな
「生権 力」 の問題 とい うきわめて現代的な問題 にも通 じうるので ある。 ま さしく、カ ン ト の 「生 命」 は、現代の生命論‑ といたる通過点であ る。
カ ン トか らの引用 は、基本 的 にアカデ ミー版カ ン ト全集 (Kan
f' sg
esammelteSchn'ften,
herausgegebenYonderKbniglichPreuJ3ischenAkademiederWissenschaftenBd.I1XXⅨ
,Berlin1902ff.)の巻数 とページづけに依るCただし 『純粋理性批判』については慣例に従 い、第‑版をAの記号で表 し、第二版をBとし、アラビア数字でペ‑ジ数を示 している。1 Vg
l
.A.Philonenko,KantunddieOrdnun gendesReellen,inKant‑Studl'en 61,1970,S.319.
2 Ebd.
3
岩田靖夫、坂 口ふみ、植原啓一、野家啓一 『 西洋思想のあゆみ‑ ‑ロゴスの諸相‑ 』
、p.169‑170.
4 Philonenko,a.a.
0
"S.308. 5 Philonellko,a.a.0.
,S.318. 6 Philonenko,a.a.0.
,S.319.7
Philonenko,a.a.0.
,S.316. 8 Philonenko,a.a.0.
,S.317.9 現代では臓器移植は実現 されているし、クローンも羊等の動物では実現 されているが、それは、
技術的 に可能 となっているのであって拒絶反応そのものが動物の身体か らな くなった とい うこ とを意味 しない。従って、医療技術の発達が この議論の有効性 を滅ずるものではない。
10V,S.198.
心の全能力 認識能力 ア .プ リオ リな原理 適用 され るもの
認識能 力 悟 性 合法則性 自 然
快 .不快の感情 判 断 力 合目的性 技 術
ll
Vg l
.OtfriedH6ffe,仁inerepublikanischeVemunftzurKritikdesSolipsismusIVorwurfs,
inKantlndeTDl'skussl'ondeI‑Modeme,Hg.
GerhardSch6nrichundYasushiKato,1996,
S.403‑405.※
本稿 は、 名 古屋大 学哲 学会 第
21回大 会
(2005年4 月 、於 ・名 古屋 大学) にて 「 カ ン ト にお け る個体 と生命 」 とい うテ ‑マ で 口頭 発表 した原稿 を加筆 訂 正 した ものです O そ れ 以降、 このテ ーマ の研 究 に時 間が かか りす ぎた の と考 えが変 わ った た め、本稿 を学 術雑誌 ‑ 寄稿 す るの を蹄曙 して お りま した。 本稿 の掲載 を心 よ く受 け入れ て下 さった 弘前 大学哲学会 事務 局 の諸先 生方 に篤 く御礼 申 し上 げます 。
( 名 古屋大学事 務 補佐 員)
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