紙 ・パル プ製造企業の成長 と協調 ( 下)
四 宮 俊 之
主要 目次
は じめに
〔1 〕 紙 ・パ ルプ製造企業の成長 と競争
(1)王子製紙の成長 と技術 ・市場の態様 ( 2) 富士製紙の台頭 と競争
(3)
樺太工業 の参入 と追随 ( 以上 を前号 に掲載)
〔2 〕 紙 ・パ ルプ製造企業 による協調行動 ( 以下 を本号 に掲載)
(1)日本製紙連合会 によるカルテル活動
(2)
共同洋紙 によるカルテル活動 結論
〔2〕 紙 ・パル プ製造企業 による協調行動 日 ) 日本製紙連合会 によるカルテル活動
1 .製紙所連合会の設立 と価格協定
日本 における洋紙製造 を中心 とした近代的な紙 ・パ ルプ工業 は、既述の よう に有恒社 を最初 として1 87 4 ( 明治 7 )年か ら 1 879 年 まで に民営企業 5 社 ( 5 工 場) と官営 2 工場が相次 いで創業 し発達の緒 についた。 これ ら初期の工場 は、
技術 的な不慣 れや洋紙需要 の少 な さな どで、当初 ほぼ一様 に操業の不調 と業績
の不振 を余儀 な くされた。 しか し、政府がた またま技術的に抄造の容易 な地券 状用紙 を1 876 年か ら国内の各社 ・工場へ大量 に分散発注 したため、末だ創業前 の神戸製紙所 ( 三菱製紙の前身)や洋紙製造 に着手す る前の大蔵省抄紙部工場 を 除 く各社 ・工場では、収益的に一息つ けた。但 し、 こうした官需 も 1 877 年末頃 か ら次第に減少 した。そこで、各社 は製品 ・市場戦略 を民需向けへ切 り換 え、
1 879 年頃か らの対外国為替相場の下落 による輸入紙の価格競争力の低下に も助 けられ、新 たに民需 を中心 として国内市場で 3 分の 2 以上の シェアをどうにか
1・
確保 してい くようになったのである
。この ような国内の民間企業 を主体 とした近代的な紙 ・パルプ工業の創始 と自 立化か ら間のなか った1 880 ( 明治 1 3)年1 2 月、 日本の近代鉱工業分野で最初の 同業者団体 と して製紙所連合会が前述の民営 5 社 によ り設立 された。加盟企業 が翌年 1 月には 6 社 とな り、大蔵省 の直営工場 を除 く全国の洋紙製造業者 を網 羅 した。製紙所連合会の設立 にリーダーシ ップを行使 したのは、神戸製紙所創 立者のアメ リカ人貿易商 ウ オルシ兄弟の一人、兄の トーマス ・ウオルシ、それ と製紙会社社長の渋沢栄一であった。 とりわけ、 トーマスは、1 880 年 に渋沢へ 外国製洋紙 に対す る輸入税引 き上げの必要 を提議 し、その際に政府への働 きか け と絡めて国内の洋紙製造業者 による団結 に話 しが及んだようである
。そのた め、 この二人 を中心 に同業者団体の結成が企図 されていった。 ウオルシは、 自 分の母国アメ リカに製紙業者のカルテル的同業者団体が1 878 年設立 されたこと を例 に出 し、 日本 に も同様 の団体が必要 と製紙所連合会の設立準備会で主張 し た。それに渋沢やアメ リカか ら帰国 して間のなかった製紙会社副支配人の大川 平三郎 などが賛同 し、各社 の代表者 により設立の合意がなされたのである
。り l
製紙所連合会の主 たる設立 目的は、その創立条規‑と実際の活動 内容か ら見
ると、加盟企業各社 による洋紙の販売価格協定の実施、 とりわけ輸入圧力の未
だ強 くなか った新聞用紙や印刷用紙 などの 「 下等品」 を対象 とした最低価格協
定 によ り国内企業間の価格競争 と市価の低落化 を抑 えることにあった。だが、
3 ・
この 日本で最初 の近代的なカルテル的共 同行為 と しての最低価格協定の実施 は、その直後か ら新たにベルギー製下等印刷用紙の低価格輸入が増加 し、 また 加盟企業 による違反行為 も少な くなかったため、協定価格の相次 ぐ引 き下げを 直に余儀 な くされ、所期の成果 をあげるまでに至 らなかった。 さらに、それ と 併せて実施 されたイギ リス製上等印刷用紙 など 「 上等品」の輸入防過 を目的に した最高価格協定 も、輸入紙の中心が下等印刷用紙へ移 ったの と、上等品の多 くが技術 的に末だ国産化 出来なか ったために殆 ど意味 をもたず、やがて 自然消 滅 した と見 られる
。その上 、ベルギー製下等印刷用紙 などの輸入価格 は、製紙 所連合会 による同等品の最低協定価格 を先行的に下回った。そ こで、下等印刷 用紙の最高協定価格 を輸入価格以下 にまで下げて、新 たな輸入防過策 とす る余 裕 もなか ったのである
。こうして 1 8 82 年頃になると加盟企業間に製紙所連合会の価格協定 をめ ぐる利 害の対立が生 まれた。前号で述べ たごとく、その頃に稲藁パルプ製造の企業化 などによる技術革新や経営の合理化で製紙 コス トの削減 を曲が りな りに も進め つつあった製紙会社 などは、製紙 コス トが概 して割高 な他の弱小加盟企業の存 続 を前提 にせ ざるを得ない最低価格協定の存在が輸入紙 との競争で次第に足か
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せ となった ようである
。ちなみに、製紙会社 は 、1 8 82 年 に国内の洋紙製造高 総計の約40%、神戸製紙所 との 2社合計で7 0%近 くを既 にお さえていた。他方、
それ以外 の弱小企業の側で も、市価の低落防止 に 目立 った効果がな く、製紙会 社 などの有力企業の意向で輸入紙対策 としての価格引 き下げを繰 り返す最低価 格協定のあ り方や意義 に疑問や不満 を持 ち始めていた ようである
。そこで、翌 1 8 83 年 1 月に加盟企業の全会一致で価格協定の廃止が決議 されたのである
。か くして、製紙所連合会は、 日本の近代鉱工業分野で最初 の人為的な市価の 統制 を目的 としたカルテル的活動 に取 り組 んだが失敗 した。その結果、同業者 団体 としての存在意義がやがて問われるようにな り 、1 8 83 年中に 2 社が脱会 し、
別の 1社 も前年既 に業績の不振か ら廃業 していたので、製紙会社 や神戸製紙所
な ど残 る 3 社 だけの単 なる親睦的かつ半 ばローカルな同業者 団体 に一旦性格 を 変 えてい くようにな った。
注 (1) 拙論 「製紙所連合会 の設立 と価格協定 一 日本 にお けるカルテル的活動 の晴夫
‑
」 (『文経論叢』第15巻第2・3合併号、弘前大学人文学部、1980年,43‑47頁)。以下の製紙所連合会 による初期のカルテル的活動 の詳細 について も、同論文 を参 照 されたい。
(2) 「製紙所連合会条規」 (日本製紙連合会 『明治二五年前後書類 一日明治二六年 至三一年営業景況』所収。紙の博物館所蔵。以下の 日本製紙連合会や紙 ・パルプ 製造企業の経営 史料 について も、ほ とん どが同館所蔵である。)
(3) ここでのカルテルの概念 は、市場独 占の有無 を判断基準 とした独 占の一形態で はな く、独立企業 による市場 の 自主的統制 をめざす共同行為 として広義 に一応解 釈 してい る。 (藻利重隆編 『経営学辞典』東洋経済新報社、1967年、140‑141頁。
伊従寛、他編 『独 占 ・公正取引』 ダイヤモ ン ド社、1965年、157‑159頁な どを参照)。 (4)各期 『製紙会社考課状』。 ところで、前号 の (上) で は、次 ぎの ような誤記 が
あった。6頁7行 目の 「抄紙社会」 を 「抄紙会社」、17頁23行 目の 「オース トラ リア人‑各1名」 を 「オース トラ リア人‑ な
ど
」29頁4行 目の 「1937年」 を「1932年」 と訂正す る。
2. 日本製紋所組合 、 日本製紙連合会 としての組織 と横能の模索
製紙所連合会 は、新 たな親睦的団体へ の性格 の変容 に合 わせて、1 884 ( 明治 1 7)年 に年 4回の総会 開催数 を半減 させ るな ど組織 と活動 の縮小 を決定 した。
そのため、1 886 年 には神戸製紙所が 「 宴会」 中心 の総 会 を無益 であ る と申 し入 れ、翌年 に総会へ の欠席 を申 し出る ようにな った。そ こで、残 る 2 社 の加盟企 業 だけで は意味が な くな った らしく、総会 の開催が見送 られた。神戸製紙所 の 欠席理 由は、社主の ウ オル シ兄弟が 同業者 団体 のあ り方 をアメ リカに当時多 く 見 られた カルテル的団体 に求めていたため と推察 され る
。但 し、神戸製紙所 も、
製紙所連合会 の将来的な存在意義 まで否定 的 に考 えていた ようで はな く 、1 890 年 に当番幹事 として当時新設 されたばか りの富士製紙 や四 日市製紙 の加盟 を勧
1)
誘 ・実現 し、その後 2 年 7 カ月ぶ りに総会 を再 び開催 させ たのであ る
。こうして製紙所連合会 は、全国的な同業者団体 としての復活がはか られ、そ れ とともに親睦以外の活動 に も再 び取 り組 むようになった。1 890 年に先ず大蔵 大 臣へ大蔵省直営工場の製造 した洋紙の民 間向け販売の停止 を求める嘆願書 を、
次いで翌年 に帝国議会の貴衆両院へ洋紙輸入紙税の引 き上げを求める嘆願書 を 提 出 した。 また、1 892 年 には当番幹事の製紙会社が洋紙販売価格協定の復活 を
2)
総会 に提議 した
。もっとも、 この復活案 をめ ぐっては、総会で実施 を一旦仮 決議 したが、神戸製紙所 な どが最終的に反対へ回って本決議 までに至 らなか っ
3 ) た。神戸製紙所 の反対理 由は、表 向 き 「円滑執行 スル ノ見込 ミ無 シ」 であっ たが、それだけでな く生産調整 などを欠いた単 なる価格協定の効果 をアウ トサ イダー企業の存在 などを考慮 し疑問視 したため と思われる
。神戸製紙所 は、翌1 893 年 に再 び当番幹事 としてアウ トサ イダー企業 3 社の加 盟 を実現 し、その後 に紙価引 き上げ策の協議 を目的 とす る臨時総会の開催 を企
41
てた
。だが、 この頃になると国内市場 における洋紙の需給 関係が好転 しつつ あ り、加盟企業間における成長 ・競争戦略の違いなどか ら総会の開催 に合意が 得 られず、定期総会 も含めて総会の開催が見送 られていった。1 89 4 年には洋紙 商か らも販売価格引 き上げの要望が出されたが、その協議 を目的に当番幹事の 富士製紙が総会 を招集 して開催 させ た ものの、今度は神戸製紙所 な どが欠席 し、
出席定数の不足 により総会 として成立せず、販売価格 の自主的引 き上げを申 し
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合 わせ たに止 まった
。こうして製紙所連合会 は、再 び1 896 年 まで総会の開催 を見送 り、半 ば休眠化 してい くようになった。
しかるに、 日清戦争後 に国内の紙 ・パルプ製造業界 と新聞業界の間で洋紙輸
入税 をめ ぐる政治的対立が表面化 し、製紙所連合会 は新 たに対政府 ・対議会活
動の早急 な強化 を迫 られた。それ までの ような活動の限界 を同連合会が最初 に
痛感 させ られたのは、1 899 年 2 月の帝国議会 における新聞業界系議員 による新
聞用紙 な どの輸入税全廃化法案の予期 しない上程であった。 この法案 は、衆議
院の審議で与党側が最終的に反対 し、未成立の まま会期満了で廃案 になったが、
政府や議会向けの反対運動 に従事 した紙 ・パルプ製造業界関係者の間では、そ の上程 を事前 に全 く予測 ・予知で きなか った製紙所連合会の対政府、対議会機 能の弱 きに危倶が高 まった。その結果、同年 5 月に製紙所連合会が 日本製紙所 組合 に改称 され、それ とともに輪番幹事の増員 と任期の延長、重要問題 に関わ る 「 委員」制の新 たな導入、 また1 890 年以来強め られていた総会運営上の諸制 限の積和、予算制や信認金利の採用などの組織 と機能の強化が図 られたのであ
61
る
。しか し、 この ような 日本製紙所組合への改組 による組織や活動の強化策 も、
具体的な成果 になると乏 しか った。1 899 年 に先ず洋紙輸入税問題の担当委員 と して王子製紙 ( 製紙会社 を1 893 年 に改称 ・改組) など5 社 を選出 した後、1 900 年 に洋紙市況の統制 を目的 として新聞用紙 を対象にす る共同販売機関の設立案、
次 いで翌1 901 年 に洋紙の共同輸出機関の設立案が相次 いで提議 された。だが、
その ようなカルテ ル機能 の復活案 について は、依然 と して総会 による 「 多数 決」 を至上 とした組織運営の もとで、当時1 2 社 を数 えていた加盟企業間の意見 が一致せず に最終的な承認 を得 られなかった。か くて、 日本製紙所組合になっ て もカルテル機能の復活な どを具体化 してい くまでに至 らず、1 9 02 年以降にな
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ると再 び活動の沈滞化 を余儀 な くされていった
。しか るに、 日本製紙所組合は、その後19 06 年 に再び洋紙輸入税問題 に直面 し
た。政府が帝国議会へ上程 した関税定率法改正案 に一般印刷用紙の国定輸入税
率引 き上げを盛 り込 むと、新聞業者が逆 に新 聞用紙輸入税の大幅な引 き下げを
要求 し始めた。 日本製紙所組合 は、そこで政府案 を支持 して議員 に意見書 を送
付す るなどの対抗策 をとったが、議会 に対す る影響力の劣勢 によ り新聞用紙輸
入税の引 き下げを結局阻止で きなか った。そのため、対議会運動 に関与 した王
子製紙や富士製紙 などの有力企業間では、再び 日本製紙所組合の対政府 ・対議
会活動の弱 きが問題視 され、総会宛 に組織 と機能の一層の強化 を求める要望が
出 された。その結果、同年 に 日本製紙所組合 を日本製紙連合会‑ と再度改称す
るとともに、従来の各社輪番 による幹事制 と別 に有力企業 を中心 とした常務幹 事制が新設 されるな ど、有力加盟企業による リーダーシ ップ確保 と活動 の強化 が図 られた。 また、連合会 による機 関誌の刊行化や洋紙商の準会員 としての加
8】
盟承認 な ども併せて決定 されたのである
。だが、それで も依然 として新聞業界 に比べ対政府 ・対議会機能や活動 の劣勢 を免れなか った。 日本製紙連合会で は、前回の失敗 を教訓 に1 907 年か ら洋紙輸 入税 問題 を協議 し、常務幹事 3社 を含 む 6社 の調査担 当委員 を選 出 して即応体 制 を整 え、1 909 年 末に政府が関税改正法の草案 と して新聞用紙輸入税の倍増化 な どを内定す る と、それ を支持す る運動 にす ぐ取 り組 んだ。 しか し、政府が翌 1 91 0 年 に帝国議会へ上程 した関税定率法改定案 は、洋紙輸入税の一部引 き上げ を盛 り込 んでいた ものの、新 聞業界 の反発 と運動 によ り新 聞用紙輸入税 を据 え 置 くとしてお り、それ を議会 も大 きな修正な どを加 えず に可決 して1 91 1 年 に施
91
行 された
。こうして 日本製紙連合会 は、洋紙輸 入税問題で再 び新 聞業界の政治力 に押 し 切 られた。そのため、同連合会の組織 や機能の不備が加盟企業 の間で依然 とし て痛感 され、1 9 06 年以来常務幹事 を務 めていた王子製紙や富士製紙、九州製紙 を中心 として社 団法人化 による組織改革が新 たに検討 されてい った。か くて、
1 91 3 ( 大正 3 )年の社 団法人化 に合わせ て、従来の幹事制 に代 わる常務理事 や 理事 を主体 とした 「 役員」制や、洋紙 商やパ ルプ製造専業企業 を除いて紙 ・パ ルプ製造企業のみで構成す る最高意思決定機 関 としての商議員 会の新設 、信認
10・
金利 に代 わる出資金制 の導 入な どが行 われた
。その結果、少数の有力加盟企 業 による合議 を中心 とした指導 ・運営体制が一段 と強め られ、 日本製紙連合会 が第一次世界大戟後 に本格 的なカルテル活動 を再 開 してい く組織 的 ・機能的基 礎が整 え られてい くようになったのである
。注 (1) 製紙所連合会の1884年以降の親睦的同業者団体 としての組織 と機能の強化 につ いては、 日本製紙所組 合、次 いで 日本製紙連合会へ の改組 を含 めて、拙論 「第一
次大戦期前 の 日本製紙連合会 一近代 日本製紙業 における同業者団体 の組織 と機能 の変遷
‑
」 (『経営 史学』 第16巻第3号 、経営 史学会、1981年、1‑24頁) を参照 されたい。
(2) 1892年4月 「製紙会社 議案書」 (『自明治13年至 明治31年 旧連 合会重要保存書 類』所収)。
(3) 1892年5月18日 「神戸製紙所書簡」 (同上書類所収)。
(4) 1893年1月10日 「二見昇書簡」 (同上書類所収)。
(5) 1894年2月、洋紙商有志 「趣意書」 (浅野家有恒社 『製品売捌約定書』所収)。
同年2月15目付、加盟各社 宛 「富士製紙書簡」 (前掲 「自明治13年至明治31年 旧 連合 会重要保存書類」所収。以下 、同 じ)。同年 日付不明、関西地 区加盟4社 宛
「富士製紙書簡」。同年2月27日、関東地区加盟5社宛 「富士製紙書簡」 な ど。
(6) 1899年5月 「日本製紙所組合規約」、「日本製紙所組 合事務章程」 (『日本製紙所 組合 、 日本製紙連合会 総会決議録』所収) など。
(7) 1900年春季、1900年秋季、1901年春季、1902年秋季、1903年春季 「定時総会議 事録」 (同上書類所収) など。
(8) 1906年春季 「定時総会議事録」 (同上書類所収) など。
(9) 1907年秋季、1908年春季、1908年秋季 「定 時総 会議事 録」 (同上書類所 収)。
1910年1月 『印刷用紙 ノ関税改正二付全国製紙業者陳情書』 日本製紙連合会、な ど。
(10) 1912年春季、1912年秋季 「定時総会議事録」 (同上書類所収)。 「社 団法人 日本 製紙連合会定款」 (『定款改正及出資金還付及定款原本』所収) な ど。
3 .第一次世界大戦期のカルテル活動
王子製紙 と富士製紙 は、既述の ように第一次世界大我前 までに当時の最多需
要品であ った新 聞用紙 と印刷用紙 に重点 をお く製品 ・市場戟略 による生産の拡
大 と合 わせて、パルプ材資源の 自社 による掌握化 などの垂直的統合戟略 を展開
した。全国の洋紙製造高 とほぼ見倣 しうる 日本製紙連合会加盟企業の製紙高総
計 に占め る両社 の比率 は
、 1913( 大正
2)年 に王子製紙が
32%、富士製紙が
29%にまで高 まった。 また、洋紙の国内 自給率 ( 輸出分 を除いた衡量) も、同
年に78% となっていた。だが、それで も王子製紙 など有力大企業の市場支配力
は、前述の ような新聞用紙輸入税の据 え置 きなどで海外か らの輸入圧力 を依然
無視で きず、その上 に、有力新聞社 など大 口需要者の取引交渉力 も高 まってい
たため末だ強 くなか った。パルプ材資源の掌握 も、良質安価 なパルプの輸入が 可能であったため、それだけでは他社 との競争 に末だ特段 のメ リットを生 まな か った。 また、卸売商 を通 じた洋紙流通機構 の 自社系列化 による掌握 も、取引 形態の複雑多岐性 な どか ら未だ十分でなか った。
ところが、1 91 4 年 7 月の第一次世界大戦勃発で生 じた国内外 における洋紙需 給 関係 の変化 は、国内の有力な紙 ・パルプ製造企業が市場支配力 を著 しく強め る好機 となった。開戦か ら僅か 6 ケ月ほどで新聞用紙需要が40%増 えるなど、
洋紙需要が急増 したのに対 して、国内生産の早急 な拡大 には限度があった。 日 本製紙連合会加盟企業の製紙高総計 は、1 91 4 年以降に対前年比で毎年1 0%台の 伸 びを見せ た ものの、需要 の急増 に追 いつか なかった。洋紙 の輸入 も、 ヨー ロ ッパ にお ける戦乱 の影響 を受 けて1 91 3 年 を1 00 とす る指 数で1 91 4 年 に68 、 1 91 5 年 に 34 へ と急減 した。その結果、洋紙の市場価格 は、 日本銀行大阪支店の 調査 によって も 1 91 4 年 3 月を基準 とす る指数で同年末に11 0、1 91 5 年末 に1 27 、 1 91 6 年末 に2 00、1 91 7 年末 に2 84 、大戦終了直後の1 91 8 年末 に 498へ と急騰 し
い
た
。但 し、 この ような洋紙市価の上昇 は、必ず しも市場 における需給 関係 の逼迫 化 だけによるのではな く、 日本製紙連合会や後述す る共同洋紙会社 のカルテル 活動 による市況の統制が絡んで もた らされた ものであった。すなわち、 日本製 紙連合会 は、大戦が勃発 した翌 8 月に臨時商議員会 を開催 し、新聞用紙 を除い た洋紙出荷価格 の随意的な引 き上げを早 々と協定 した。次いで、翌1 91 5 年 に も
1
やは り随意実施 を条件 に しなが ら価格 の引 き上げを順次協定 した
。こうした 協定 による出荷価格の人為 的引 き上げが、需給の逼迫や思惑取引の影響 などと 相 まって洋紙市価の急騰 につなが ったのである
。だが、 この ような紙況の人為的な統制や投機性の高 ま りに対 しては、需要者
側か らの批判や反発があ った。1 91 6 年 には、新聞業者 を中心 に印刷用紙 と製紙
用パルプの輸入税撤廃 と輸 出許可制の実施 を求めて、衆議院へ法案の上程 をめ
ざす動 きが表面化 した。そこで 日本製紙連合会 は、洋紙の製品別最高卸売価格 を協定 ・公表 して紙価の急騰 を抑制 した り、値上げの 自粛化で法案上程の動 き を鎮静 させ るように努めた。こうして法案の上程 を見送 らせた後で、再 び一般
3)
紙価 の価格協定 による一層 の引 き上げに取 り組 んだ
。その結果、前述 のよう な洋紙市価 の急騰が見 られたのである
。但 し、共同洋紙会社 による共同販売の対象であった新聞用紙の価格 は、前述 した輸入税撤廃運動 を こ窺 われた新聞業者の政治力 を依然警戒 しなければならな か った上 に、取引が通常 1年単位 の長期契約で期間の中途 における価格改定が 難 しく、 また有力新聞社 を中心 とした取引括抗力 もあって引 き上げがかな り抑 制 された
。 1912年の上限価格 を基準 とした指数で も
1918年 に
196で しかな く、
4I
一般洋紙価格 に比べ ると値上が りが半分以下に止 まった
。こうして一般洋紙 と新聞用紙の価格上昇率 に相当な差があった ものの、洋紙 全般の市場価格 は、 日本製紙連合会や共同洋紙 によるカルテル活動の効果が需 給の逼迫化 などと相侯 って第一次世界大戦期 に著 しく上昇 した。そこで、紙 ・ パルプ製造各社 は、既 にパルプ材資源 を自社で掌握 していた王子製紙や富士製 紙 を筆頭 として、一様 に高利益 を得ていったのである
。注 (1) 日本銀行調査局編 『紙及紙料二関スル調査』1920年、1‑3頁。
(2) 「日本製紙連合会庶務理事書簡」、1915年8月協定 メモ、梅津製紙宛 「日本製 紙連合会書簡」 (以上、 日本製紙連合会 『往復書 目大正元年』所収)。1915年10 月 「秋季総会議事録
」 (
『日本製紙連合会総会決議録 自明治44年至大正10年』所 収) など。以下の 日本製紙連合会による第一次世界大戟期以降のカルテル活動 に ついては、拙論 「第一次大戦以降の 日本製紙連合会 と製紙業経営の展開一三大製 紙企業の合 同による 「大」王子製紙の成立 まで‑ 」 (
『文経論叢』第18巻第1号 、 弘前大学 人文学部、1982年、1‑48頁)を参照 されたい。(3) 1916年7月17日、「日本製紙連合会書簡」、「大正五年九月二〇 日決議」 (以上、
前掲 『往復書 目大正元年』所収)。1917年6月19、20日 「商議員会決議」 (日本 製紙連合会 『自大正二年至同一二年 理事会 ・商議員会決議録』所収) など。
(4) 富士製紙 『販売関係 ノー ト』手書 き、22頁 目。 日本新聞連盟編 『日本新聞百年 史』1962年、572頁。
4. 第一次世界大戦後のカルテル活動 としての生産制限協定
第一次大戦期 に暴騰 した国内の洋紙市価 は、1 91 8 ( 大正 7 )年 1 1月の大戦終 結 とともに反落 を見せ、1 920 年 になると一挙 に急落 した。洋紙需要 は、戦後 も 一応の増勢 を示 したが、次第に伸 びが鈍化 した。だが、王子製紙や富士製紙な どの有力企業 は、戦後 も需要の安定 した伸 びを確信 していたため、増産優先の 経営戦略 を変 えなか った。そこで、1 920 年末 までに印刷用紙や模造紙 を中心 に かな り大量の滞貨 を抱 えるようになった。 日本製紙連合会 は、1 91 9 年 よ り市価 下落が著 しか った製品の出荷協定価格 を順次引 き下げていったが、1 920 年 7 月 に 1 カ月間だけの生産制限協定 を試験的に実施 した後、1 2 月か ら加盟1 2 社の生
J
産制限協定 による本格的な共同減産 を開始 した
。この 日本製紙連合会 による第一次生産制限協定 は、共同減産の対象 を印刷用 紙 ・模造紙類、新聞用紙類、包装用紙類の 3 グループに分 け、それぞれのグル ープごとに各社総計の標準生産能力 を査定 し、それを基準 に各社一律の減産率 を定めた ものであった。その内で特 に重視 された第一 グループの印刷用紙 と模 造紙の減産率 は20%であった。但 し、実質の減産率 になると、有力企業が生産 性の劣 る旧型の抄紙機 を主 に休転 させ なが ら新鋭機 をフル稼働 させ たようで、
目減 りが多かった。 しか し、それで も洋紙需要が1 921 年か ら再び増勢 を示 した ために、かな りの減産効果があった。そこで、1 922 年 3 月には印刷用紙 などの 減産率が引 き下げ られたほか、王子製紙 など少数の有力企業 に生産の集 中 して いた新聞用紙 を当該企業間の独 自な共同減産 に切 り換 えて、生産量の少 なかっ た包装用紙類 と共 に連合会の管掌す る共同減産の対象か ら除いた。次いで、同
2)
年末には所期の 目的を達成 した として印刷用紙 などの共同減産 も打 ち切 った
。日本製紙連合会 は、こうして第一次の生産制限協定 を廃止 した後、直ちに印
刷用紙 と模造紙の価格協定 を再開 し、あ らためて出荷価格の引 き上げに取 り組
んだ。 しか し、 この新 たな価格協定 は、洋紙需要の長期的な拡大 を見込 む富士
製紙 などによる生産拡大の続行で1 925 年か ら再 び生産過剰が表面化 したため、
1 926 年になると崩壊 した。そこで、同年 に再 び印刷用紙 と模造紙 を対象 とす る 日本製紙連合会の第二次生産制限協定が開始 された。 また、一旦打 ち切 ってい た と思 われる王子製紙 な どによる連合会 と別の独 自な新 聞用紙 の共 同減産 も
31
1 92 7 年 に再開された
。だが、 日本製紙連合会 による第二次生産制限協定の効果 は、当初か ら十分 と は言い難か った。国内の洋紙需要が依然1 0%台の伸 びで年 々増加 していたため、
王子製紙や富士製紙 などの有力加盟企業 は共同減産 を実施 しなが ら、他方で工 場 の増設や生産性 向上 による生産拡大 を執掬 に競 った。 また、共同減産 をめ ぐ る有力企業間の利害関係 も、それぞれの成長戦略や思惑の違 いなどか ら必ず し も一致せず、やがて減産緩和の賛否 をめ ぐり対立 してい くようになった。か く して、印刷用紙 と模造紙 を対象 とした第二次生産制限協定 は、市況の立て直 し を待たず に加盟企業間での意見の違いなどか ら減産率が順次引 き下げ られ、そ
4・
の後19 2 8 年末に廃止 されたのである
。しかるに、その廃止直後 に王子製紙が富士製紙の株式 を買収 し経営権の掌握 に成功 したため、それ までの両社 間における競合 ・対立関係が融解 した。そこ で、1 929 年 5 月に再 び印刷用紙 と模造紙 を対象 として 日本製紙連合会の第三次 生産制限協定が開始 されたのであるが、それで も市場 における生産過剰状態 を 依然解消で きなか った。そのため、何度か減産率の引 き上げが繰 り返 された。
また、1 93 0 年の政府 による金輸出解禁政策の強行で市況が一層悪化すると、同 年1 1月か ら減産後 における実際製紙高の 2カ月相当分 を超 える在庫の全部 を封 印 し、それ を以後 2 年間にわた り共同管理 して出荷 を止めるようになった。 ま た、生産制限を各社一律 35%の義務減産に強化 し 、1 92 6 年か ら中断 していた出
.一1
荷価格協定 も紙価 の引 き上げをめざして復活 した
。但 し、 この 「 前代未聞の法」 とされた在庫共同管理 を含 む 日本製紙連合会 に
よる多面的なカルテル活動の展開をもって して も、国内の洋紙市況は、需要 の
減少 による市場の供給過剰状態か ら抜 け出せず に低迷 を続 けた。そこで、1 931
年 には共 同減産 と在庫共 同管理 の対 象品 目を筆記用紙 や図画用紙 に も拡大 し、
共 同減産率 や在庫 の封 印率 を一層引 き上 げた。 ちなみ に、共 同減産率 は同年末 まで に最 高 で 5 5% とな り、 また 各社 の手 持 ち在 庫 も実 際 製 紙 高 一 カ月分 の 1 08% まで圧縮 し、残 りの在 庫 を全て封 印 ・共 同管理 してい くよ うになったの であ る
。しか し、それで も市況の統制 には限界が あ った。王子製紙の藤原 は、共 同減 産の実行が製紙 コス トの上昇 を もた ら し、在庫 の共 同管理 も弊害が多 くて市況 の立て直 しに限界 を持つ と 1 9 3 0 年 の社員向 け訓示 で述べ た。 また、王子製紙 が 主力製品 とした新 聞用紙 の収益力 も次第 に低下 してい った。その結果 、同社 の 営業成績 も 1 9 3 0 年下期以降低迷 を示 し 、1 9 31 年末 には工場 の一部休業 や社員職
6】
工の整理 を余儀 な くされ る まで にな ったので あ る
。注
( 1 )
日本製紙連合会 『自大正二年至 同一二年 理事会 ・商議員会決議録』 な ど。( 2)
同上書類 な ど。(3) 同上書類。 日本製紙連合会 『自大正十三年至 昭和 四年 商議員会 ・理事会決議 録』 な ど。
( 4)
同上書類。前掲 『販売 関係 ノー ト』 な ど。( 5 )
王 子 製紙 『藤 原社 長報 告 要 領』1 9 2 9
年6
月。 前掲 『自大正 十三年至 昭和 四年 商議員 会 ・理事会決議録』 な ど。( 6 )
成 田潔英編 『日本紙 業総 覧』 王子製紙、1 9 3 8
年版、7 5 9
頁 、付録1 9
頁。王子製 紙 『藤原社 長歳末訓示』1 9 3 0
年1 2
月、な ど。5. 日本製紙連合会 によ るカルテル効果の検討
先 に結論か ら述べ ると、 日本製紙連合会 に よるカルテル活動が国内の近代的 ド
な紙 ・パ ルプ工 業経営 にお ける市況対 策 と して切 り札的 な意義 を もつ ように
な ったの は 、1 9 3 0 ( 昭和 5 )年以降であ った。 日本製紙連合会 は、既 に見 た ご
と く 1 8 8 0 年 よ り 1 8 83 年 まで最初 の価格協定 を実施 して失敗 した後 、1 91 4 年か ら
印刷 用紙 や模造紙 を中心 と した一般洋紙 の本格 的 な価格協定 を数度 にわた り実
施 し 、1 92 0 年か らは生産制限協定による共同減産 も開始 した。 しか し、有力加 盟企業の間では、 こうしたカルテル活動 をめ ぐり 1 929 年の前半頃 まで しば しば 意見の対立があった。言い換 えれば、加盟企業間の国内洋紙市場 における企業 者的機会の認識状況などに小 さか らざる差異があったため、カルテル活動の効 果や意義 をめ ぐる利害の対立が見 られたのである
。日本製紙連合会 によるカルテル活動 を市場動向 との関連で再度振 り返 ると、
先ず第一次世界大戦期 には、価格 カルテルの実行 に最 も有利 な経済的機会 とし て需要の急増 に増産の間に合わない事態が見 られた。そこで、当時の洋紙市価 の急騰 は、市場 における需要の急増 を主因 とし、それに 日本製紙連合会の価格 カルテルの作用が加 わって引 き起 こされたのである
。この ように第一次世界大戦期のカルテル活動が市況の過熱化 に便乗 した もの であったのに対 して、戟後のそれは悪化 した市況の立て直 しをめ ざした点で行 為の次元 を異 に していた。戦後の市場では、国内の紙 ・パルプ製造各社が生産 拡大 を依然 として続 けた結果、慢性的な生産過剰傾向が引 き起 こされた。 日本 製紙連合会 は、そ こで市況の悪化 に応 じて協定出荷価格の漸次引 き下げを余儀 な くされ、印刷用紙 などの一般洋紙 を対象 とした生産制限協定 による共同減産 をやがてカルテル活動の新 たな機軸 としてい くようになった。但 し、それで も 洋紙の需要がほぼ毎年拡大の傾向 を見せたため、加盟各社 は、共同減産 を実施
しなが らも常 に自社 の市場 シェアを保つべ く生産の拡大 を競 った。か くして、
生産制限協定による共同減産 は、その効果 を削がれ ざるを得 なかったのである
。この ように、 日本製紙連合会が第一次世界大戟後 に実施 した生産制限協定の
効果 は、1 928 年末 まで未だ不徹底な ものであ った。それで も、有力加盟企業 な
どは、国内における洋紙需要の伸 びが生産の拡大 を下回 りなが らも1 922 年以降
依然 として増勢 を見せたほか、生産の拡大 による製紙 コス トの引 き下げや、需
要全体の40%以上 を占めた新聞用紙の需給関係が後述の ような共同洋紙会社の
共販活動 などで概 して安定 していたため、総資本総利益率で年1 0%か、それを
上 回る安定 した収益 を一応維持で きたのである
。しか し、 この ような紙 ・パルプ製造業の経営的要件 は、1 929 年頃か ら大 きく 変化 してい くようになった。 と くに1 930 年 における金輸 出の解禁後、国内の洋 紙需要が大 き く落 ち込んだ。 また、生産の拡大や合理化 による製紙 コス トの引 き下げは、減産の強化 とともに頭打 ち となった。 また、新 聞用紙の市況 も、外 国か らの対 日輸 出の増加 や国内企業間の価格競争の激化で一段 と低迷 してい く ようになった。
そ こで、 日本製紙連合会 によるカルテル活動 の強化が各企業 に とって不況対 策の切 り札 となった。一般洋紙 についての共同減産の強化 や在庫共同管理の実 施 に新 聞用紙の共 同減産が相 まって、市場 における洋紙の流通量 を大 きく減 ら したことは想像 に難 くない。1 9 31 年末の 『 経済雑誌 ダイヤモ ン ド』 では、印刷
I ) )
用紙 な どの一般 洋紙 につ いて 「 完全 に統制がつ き」 と評 された。翌1 932 年 の 金輸 出再禁止で需要が稗 回復 を示す と、共同管理在庫 の一部 開封 も行 われ るま で になったのである
。但 し、 この 日本製紙連合会 による一連のカルテル活動 は、紙 ・パルプ製造業 界 における企業間の競争関係 を根底か ら緩 める もので はなか った。それ は、非 有力企業 の競争力 を温存 させ てい くことで、却 って有力企業 に長期的な競争圧 力 と協調の コス トを意識 させ るようになった。 また、王子製紙の営業成績 も、
総資本総利益率が1 930 年以降に年率で1 0%を大 きく下回 り始め るな ど一段 と悪 化 を見せ た。同社 の藤原銀次郎社長 は、そ こで カルテル活動 を上回る強力な市 場統制手段 として国内の最有力企業 3 社 による大合同 を新 たに企図 してい くよ うになったので あ る
。か くて、 日本製紙連合会 に よるカルテル活動 は、後 の
「 大」王子製紙の成立 に先立つ 「 地 な らし」 の役割 を事実上 はた した と言 える
であろ う
。但 し、その場合 に新 聞用紙分野で共同洋紙 のカルテル活動が果た し
た意義 や役割 な ども軽視で きない。それ らについては次節で検討 してい く
。注 ( 1)
国内の近代的 な紙 ・パ ルプ製造業界で は、 日本製紙連合会のほかに、ボール紙 分野で1 91 8
年 に 日本板紙連合会が設立 されて、独 自なカルテル活動 に取 り組 んで いた。富士製紙 な どは、ボール紙 も製造 していたために,両方の有力加盟企業 と なっていた。( 2 )
「金 再禁止 と各事業界 の前途」 (
『経済雑誌 ダイヤモ ン ド』1 9 3 3
年5
月1 5
日号、ダイヤモ ン ド社
、6 9
頁)。( 2 )共同洋紙によるカルテル活動
1 .共同洋紙の設立 と新聞用紙の共販活動
日本 における最初 の新 聞用紙製造 は、抄紙会社 ( 製紙会社、王子製紙 の前 身)が1 875 年の創業 とともに開始 した と見 られる
。前述 した製紙所連合会の設 立が 「 新聞用紙即普通印刷用紙」の価格協定 を目的に していたことか ら、1 880 年頃には業界の主要製品 となっていたように思われる
。抄紙会社 は、早 くか ら 新聞用紙 を民需向けの主力製品 として生産拡大 を進めなが ら、最初 に新聞業者 への直売、次いで洋紙商‑の委託販売、その後 は洋紙商への特約販売 により新
い
聞業者向け販路の開拓 と販売の拡大 に取 り組 んだ
。新聞用紙 として、当初 に は平判紙のみであったが、1 890 年か らは巻取紙の生産 を開始 した。1 899 年には 新聞用紙製造 を専 門 とす る中部工場 も竣工 させた。
ところで、国内の新聞業者 は、1 894 年か らの 日清戦争期 に新聞発行部数の急 増 で生 じた新 聞用紙 の不足分 を ドイツやアメ リカよ りの輸入で補 ったため、
1 899 年 になると新聞用紙輸入税の引 き下げ運動 に取 り組み始めた。そこで、国 内の紙 ・パルプ製造業者 は、既述のごとく製紙所連合会 による反対運動で対抗 した。 また、製紙所連合会 を日本製紙所組合へ と改称 し 、1 900 年 には当時低迷 していた市況の人為的な立て直 しを目的 として新聞用紙共同販売機関の設立 も
2I
検討 した
。だが、この新聞用紙共販案 は、当時既 に特約洋紙商 と連携 し新聞業者への売
り込みに鏑 を削 っていた王子製紙や富士製紙 など一部有力企業の利害 を専 ら反
映 していたため、その他 の紙類 を製造す る中小加盟各社の反発で結局実現 まで に至 らなかった。そ こで、東京の有力洋紙商であった岡田来吉が新聞用紙製造 企業間の売 り込み競争 による新聞業者側の買い手優位 を見かねて、新聞用紙共 販機関の設立 を新 たに仲介 した。彼 は、それ以前か ら板紙共販機 関の設立 と経 営 に関与 して、不首尾 なが らも乱売競争の収拾化 による市況の立て直 しを試み
3ノ
ていた
。そ こで、彼の仲介 を得 て、当時新 聞用紙 を製造 していた王子製紙 と 富士製紙、四 日市製紙 ( 1 890 年創業)の 3 社が 日本製紙所組合 と別の独 自な新 聞用紙の共販機関 として、1 90 1 年 に資本金1 5 万円で共同洋紙合資会社 を設立 し
3)
たのである
。共同洋紙 は、岡田を業務執行無限責任社員 として出資 3 社の製造 した新聞用 紙の全量 を一旦買い取 り、それ を協定建値で全国の特約販売店 に売 り渡 し、新 聞業者へ若干の口銭 を加 えて販売 させ ることで、新聞業者側の買い手優位切 り
4)
崩 してい こうとした
。しか し、 この共同洋紙 による新聞用紙の共販 カルテル としての活動 は、海外か らの輸入圧力のほか、東京や大阪の有力新聞社が 1年 契約の大量買い付 けで取引括抗力 を高めつつあ り、 また出資 3 社 も裏で受注競 争 を依然続 けたため、具体的な市場統制効果 を生 むまでにはな らなか った。そ の上、新聞業者 は、1 906 年 に新聞用紙輸入税 の引 き下げを実現 し、共同洋紙 に よる共販活動 を牽制 して くるようになった。
注 (1) 日本紙パ ル プ商事編 『百三十年 史』 同社 fU、1975年、80頁。 島田林太郎 『思 い 出の まま』 島田商会、1960年、8‑15頁 、な ど。
(2) 成 田潔英 『王子製紙社 史』 第2巻、王子製紙、1957年、121‑123頁。
( 3 )
以下 の共 同洋紙 に よる共販 カルテル としての活動 の詳細 につ いては、拙論 「戦 前期 日本 にお け る新 聞用紙 共販 カル テル の展 開 一共 同洋紙 会社 の活動 につ いて‑
」 (『経 営論集』 第31巻 第4号 、明治大学経 営学部、1984年、67‑81頁) を参照 されたい。(4) 前掲 『王子製紙社 史』 第2巻、121‑138頁。
2. 国内新聞業者 による新聞用紙輸入税の引き下げ運動
既述のごとく、抄紙会社 を初め として国内の紙 ・パルプ製造企業は1 870 年代 か ら新聞用紙の製造に取 り組 んだが、未だ品質などに難点が多か った。それに 比べ ると、当時 イギ リスな どか ら輸入 された新聞用紙 は、寸法の違いを除 くと 一般印刷用紙 との製品区分などが未だ必ず しも明確でなか った ものの、品質な どで優 れていた。 また、周知の ように徳川幕府が欧米各国 と結んだ1 85 0 年代の 修好通商条約 に付属 した貿易章程や、1 8 66 年の改税約書 と付属税 目で定め られ た輸 出地の市価 を基準 とす る従価 5% 相当の低率 な輸入税 を賦課 されただけの
い
ため、価格競争力 も強か った
。そ こで、国内新 聞業者の多 くが輸入紙 を新 聞 用紙 として早 くか ら使 っていたが、有力新聞で も当初の 1 日当た り発行部数が 未だ 1 万部以下 に過 ぎなかったので、新聞用紙 としての全体的な使用量 は、そ れほ ど多 くなか ったように思 われる
。国内の新聞業 は、1 870 年代 における政論新聞の勃興 に続 き、1 880 年代 になる と大阪朝 日などの通俗的記事 を中心 とした新聞が発行部数 を 2‑ 3万部へ と伸 ば し、それ以後新 たに中庸的な記事 を中心 とす る本格的な商業紙の時代 を迎 え
21
てい くのである
。この ような新 聞業の発達 に言 わば雁行 させ なが ら、国内の 主要 な紙 ・パ ルプ製造企業 も、新 聞用紙 を戦略 的な主力製品のひ とつ として いったのであるが、他方で外国製新聞用紙‑の低率の輸入税 にやがて不満 を抱 くようになった。既述のごとく 、1 880 年 に神戸製紙所のウオルシャ製紙会社 の 渋沢 などが国内における紙 ・パルプ製造業の保護 を目的 として輸入税問題 を論 議 し、それ を契機 に設立 された製紙所連合会 は、1 882 年 に政府の外務卿や大蔵 卿‑、次 いで帝国議会が開設 された直後の1 891 年初めには貴族院や衆議院に、
それぞれ下等印刷用紙などの輸入税引 き上げを求めて請願書 を提 出 した。
なお、政府で も1 87 0 年代 に関税改定の試案 として洋紙輸入税の引 き上げを既
に検討 してお り、 この ような紙 ・パルプ製造業界か らの請願 に特段 の異論がな
か った と思われる
。しか し、洋紙輸入税 を含 む片務的な協定税率の改定には、
欧米諸国 との修好通商条約で喪失 させ られていた 日本の関税 自主権 回復が先ず 不可欠であ った。 ちなみに、 日本が関税 自主権 の原則的な回復 に一応の 目途 を つ けたの は、1 89 4 年 にイギ リスやアメリカと調印 した改定通商航海条約 によっ てであ り、その発効 に合わせて1 899 年か ら施行すべ く 1 897 年 に関税定率法が公 布 された。 この関税定率法では、各種の輸入税引 き上げ と輸 出税 の廃止 を定め てお り、印刷用紙 な どの輸入税 も従価15%まで引 き上 げるとしていた。
但 し、政府 は、改定通商航海条約 の調印 に際 し、それ と別にイギ リスや ドイ ツなどの 4カ国 と重要輸入 品 を対象 に依然片務的な期 間1 2 カ年 の新 たな協定税 率の締結 を追加条約 として余儀 な くされていた。そのため、1 899 年 における印 刷用紙 な どの輸入税引 き上 げは、新 たな協定税率の適用 によ り実質で従価1 0%
程度 に抑 え られた。 日本の完全 な関税 自主権 の回復 は、 この追加条約が失効す る1 91 1 ( 明治44)年 まで得 たねばな らなか ったのであ る。
ところで、1 880 年代 まで は新 聞用紙 として平判紙が使用 されていたが、1 89 0 年の帝国議会 開設 とともに東京朝 日新 聞な どが輪転印刷 を開始 し、新 たに巻取 紙の需要が生 まれた。そ こで、製紙会社 な どが新 聞用巻取紙 の生産に取 り組 ん だ ものの、需要の伸 びに生産が間に合 わず、不足分 を海外か らの輸入 に仰がね ばな らなか った。国内の新 聞業者 は、そ こで有力新 聞 を中心 に国産 と輸入の新 聞用紙 を臨機応変的に併用 しただけでな く、それ を日清戦争後 になると国内の 新聞用紙製造各社へ値引 きを求め る手段 として使 うようになった。輸入紙へ の 過度 の依存 は、海外市況 の動 きに大 き く左 右 されやす いな ど、新 聞用紙 の長 期 ・安定的な確保 に難があ った ものの、一定の限度内では経済的なメ リットが 少 な くなか ったのであ る
。そのため、新聞業者 は、前述の ような1 899 年か らの 新聞用紙 を含 む印刷用紙 な どの輸入税引 き上 げに対 して も、その上げ幅が新 た
な協定税率の適用で一応抑 え られていた ものの不満 を強めていた。
この ような新聞業者側 の不満 を背景 に突如 として具体化 したのが、関税定率
法の施行直後 における帝国議会での新聞業界系議員 による印刷用紙輸入税の全
廃 を求めた関税定率法一部改定案の上程であ った。 この法案 は、議会の会期満 了によ り結局末成立の ままで廃案 となったが、その上程 と審議 に新聞業界か ら の強い支持が見 られた。そのため、国内の紙 ・パルプ製造業界では、新聞業界 に比べて弱体 な対政府 ・対議会活動 についての危倶が高 ま り、既述 のように製 紙所連合会の 日本製紙所組合への改称 ・改組 などがなされた。 また、新聞社 と の取引 における劣勢 を挽 回 し、低迷 していた市況 を立て直すために、新聞用紙 共販機 関 として共 同洋紙会社が設立 されたのである
。だが、この ような紙 ・パ ルプ製造業界 による対応 も、その後の新聞業者 によ る新たな新聞用紙輸入税の引 き下げ運動 に比べて著 しく非力であった。新聞用 紙 を含 む洋紙の輸入動向は、1 899 年以降需給 の緩急 を反映 し一進一退の状態 を 見せ たが、 日露戦争 による新聞発行の活況か ら 1 905 年 に再 び急増 を示 した。ア メ リカか らの輸入が当初多か ったが、1 906 年 に入るとヨーロ ッパか らの輸入が 増 えた。
こうした折 りに、洋紙輸入税のあ り方が再 び政治問題化 したのである
。政府 は、1 91 1 年 に予定 された欧米各国 との協定税率の適用満期 に先立 って、新聞用 紙 を含 む印刷用紙の国定税率 を引 き上げようとし、この1 906 年 に関税定率法 と 付属輸入税表の改定法案 を議会 に上程 した。新聞業界 は、それに反発 して逆 に 新 聞用紙の輸入税引 き下げを求める意見書 を議員に配付 して対抗 した。そこで、
国内の紙 ・パルプ業界 は、 日本製紙所組合 を中心 として政府案支持の運動 に取 り組んだ。 しか し、議会や議員 に対す る影響力では、新聞業界の方がはるかに 強大であった。その結果、新聞用紙の輸入税 は、政府側の不賛成 に も係 わ らず、
新聞業界の意向 を反映 して、 さらに協定税率 よ りも引 き下げ られたのである
。国内の紙 ・パルプ製造業界 は、 こうして関税定率法の改定が新聞業界の意向
に沿 って決着 した直後に、 日本製紙所組合 を日本製紙連合会へ再 び改称 ・改組
し、大蔵省か らの関税問題 に関する諮問な どに対応 しなが ら輸入税引 き上げへ
の新 たな機会 を探 ってい くようになった。だが、それ も具体的な成果 になると
乏 しか った。新聞業界 は、1 909 年の秋 になると政府が新たな関税改定案 として 国内産業保護の観点か ら再 び新聞用紙輸入税の引 き上げを内定 した とし、首相 や農商務相‑新聞業界系の衆議院議員などを介 して反対 を申 し入れた り、一段 と強力 な対政府 ・対議会工作 を展開 した。その結果、政府が1 91 0 年 1月に帝国 議会へ上程 した関税定率法の再改定案 は、洋紙輸入税の一部引 き上げを盛 り込 んでいた ものの、新 聞用紙の輸入税 を現状通 りに据 え置 くとしてお り、議会 も 特段 の異論 な しに可決 し、翌年か ら施行 された。
か くして、国内の紙 ・パルプ製造業界 は、新聞用紙の輸入税問題 に関 して言 論機関である新聞業界の政治力 に対抗 し得 る方策 を兄い出せず、その後 は直接 的な対立 を避 けてい くようになった。但 し、 この ような一連の関税定率法や付 属輸入税表の改定が、必ず しも業界の産業的存否 を根底か ら律す るものにな ら なか ったの も事実である
。新聞用紙 などの一部 について輸入税額の引 き下げや 据 え置 きがなされた ものの、その他の紙類 になると、政府原案 を下回 りなが ら も旧来の国定率 に比べて多少 とも引 き上げ られた ものが多かった。 また、新聞 用紙 については、既述の ように王子製紙や富士製紙が1 91 0 年 までに北海道工場 を新設 ・稼働 させて、輸入新聞用紙 に対す る製造面か らの競争力の強化 を図っ ていたのである
。注
( 1)
以下の新聞用紙輸入税問題 をめ ぐる国内紙パルプ業界 と新 聞業界の対立関係の 経緯 については、拙論 「近代 日本の製紙業 と新聞業の洋紙輸入税 をめ ぐる対立関 係 一新 聞用紙輸入税問題 を中心 に‑
」 (『弘前大学経済研究』第11号、弘前大学経 済学会、1 9 8 8
年、1 4‑ 3 4
頁) を参照 されたい。( 2 )
日本新 聞連盟編 『日本新 聞百年 史』 同刊、1 9 6 2
年、5 6 9
頁。前掲 『王子製紙社 史』 第2
巻、1 49‑ 1 51
頁。3. 第一次世界大戦期における新聞用紙の共販活動
191 0 ( 明治43)年頃における国内の新聞用紙需要が巻取紙 に限ると1カ月に
600万ポ ン ド位 と言われたのに対 して、同年末に操業 を開始 した王子製紙苫小
牧工場 は、月産能力が350‑400 万ポ ン ド ( 1 91 2 年か ら 550 万ポ ン ド) に及んだ。
また、1 908 年末か ら操業 していた富士製紙の江別工場 は同1 80 万 ポ ン ドであっ た。 これ ら両社の北海道工場製新聞用紙が国内市場‑ 出回わった一方、 ドイツ やオース トリア、 ノルウェーなどか らの低価格での新聞用紙の対 日売 り込みが
ヨーロ ッパにおける木材パルプの値上が りで困難 となったため、1 91 1 年 には新
1・
聞用紙の輸入が一旦途絶 えた
。ところで、王子製紙 と富士製紙、それ と四 日市製紙の 3 社 による新聞用紙の 共販機関 としての共同洋紙会社では、王子製紙 と富士製紙の北海道工場新設 に よる新聞用紙の大幅な増産化‑の対応 として、1 908 年以降新聞用紙生産標準能 力 を前 もって 3 社 ごとに査定 し、それ までの ような無制限の全量買い取 りを止 めて、査定分だけを計画的に買い取 ることに したようである
。また、巻取紙だ けを共販の対象 として管掌 し、平判紙の販売 を製造各社 に一任 し、その取引の 決済だけに関与 してい くようになった。だが、このような共同洋紙 による共販 方式の手直 しも、国内における新聞用紙の大幅な増産で強 まった製造企業間の 競争関係 を緩和 出来なか ったようである
。新聞用紙製造各社 は、共同洋紙 によ る共販 に参加 しなが らも、大 口需要先であった有力 な大新聞業者への納入にな ると非公式 な直接商談 を常態 とし、秘密割戻金の支払 いな どの便法 も使 って 自 社品の売 り込みに鏑 を削 った。そのため、共同洋紙 による共販 は 1 91 0 年頃か ら
2〕
形骸化が著 しくなったのである
。但 し、 この ような共販の形骸化 は、王子製紙や富士製紙 にとって も不本意で あった らしく、やがて両社 を中心 に共販の立て直 しをめ ざ して協議がなされた。
その結果 、1 91 2 年 に当時新 たに新聞用紙製造 を開始 した大川平三郎系の九州製 紙 と中央製紙 を共販 に参加 させ、他方で、製造各社か らの製品買い取 りを中止
し、受託販売 による共販へ と切 り換 えた。 また、王子製紙や富士製紙の間では、
新聞社 との直接商談 による非公式 な受注競争の 自粛化 も申 し合わされた ようで
ある
。か くして、共同洋紙 による共販の立て直 しが図 られた後の1 91 4 年 に第一
次世界大戟が勃発 し、国内における新聞用紙需要の未曾有 な拡大が引 き起 こさ れたのである
。共同洋紙 は、大戟の勃発 とともに、それ まで抱 えていた新聞用紙の過大な受 託品在庫 を一掃 しただけでな く、製造各社 による増産が需要の増加 に追い付か なか ったため、販売 をやがて規制 してい くようになった。他方、欧米各国か ら の新聞用紙輸入 も世界的な需給関係 の逼迫化 によ り見込み薄 となった。そこで、
新 聞用紙の取引において も、需要者側 に対す る製造業者の優勢が表面的なが ら
31
目立 ち始 めた
。その結果 、1 91 5 年以降に新聞用紙の国内一般市場価格が急騰 した。
しか し、それで も共同洋紙 による共販価格 は、有力新聞社 を中心 とした新聞 業界の取引括抗力や圧倒的な政治力への配慮か ら 1 91 6 年末 まで据 え置かれ、そ の後の上げ幅 も市場価格 の実勢 よ りかな り低 く抑 えられた。なぜ なら、新聞業 界が、戟時期 に印刷用紙や製紙用パルプの輸入無税化や輸出禁止の法的措置 を 求めて新 たな政治運動 を画策 し、その運動 中止 と引換 えで共同洋紙側 に価格引 き上げの申 し入れを撤 回させ た りしていた。 したが って、新聞用紙の共販 は、
カルテルの 目的が共販価格 を市場の実勢以上へ人為的に引 き上げることであっ た とすれば、第一次世界大戟期 に もカルテル として依然 さほ ど見るべ き効果が なかった と言 える
。注
( 1 )
前掲 「近代 日本の製紙業 と新聞業の洋紙輸入税 をめ ぐる対立 関係」2 8‑ 2 9
頁。( 2)
以下の共同洋紙 に よる共販活動 につ いては、前掲 「戟前期 日本 における新聞用 紙共販 カルテルの展開」70‑72頁 を参照 されたい。
(3) 前掲 「近代 日本の製紙業 と新聞業 の洋紙輸入税 をめ ぐる対立 関係」30‑31頁。
4. 第一次世界大戦後の 1 9 2 0 年代前半における新聞用紙の共販活動
国内の洋紙市況 は、1 91 8 ( 大正 7 )年1 1月に第一次世界大戟が終結 した後、
1 920 年の戟後恐慌 を契機 に需要の伸 びが落ち込んで悪化に転 じた。新聞用紙の
市価 も 1 92 0 年以降に下落 した。前節で論 じた ように、 日本製紙連合会 は、そこ で1 920 年末か ら1 922 年 まで新聞用紙類 について も各社合計生産標準能力の1 5%
に相当す る共同減産 を実施 し、滞貨の削減 などに効果 を上げた。だが、その一 方で1 921 年頃になると戟時期 に途絶 していた ヨーロ ッパか らの新聞用紙輸入が 再開され、国内の新聞用紙製造各社か らの有力新聞社への割戻金支払いなどに よる共同洋紙建値か らの値引 きが一段 と目立ち始めた。前述のごとく大戦期 に 市場の実勢 よ りも共販価格 を低 く抑 えて きた共同洋紙 は、その建値 を 1 92 0 年 に 一旦引 き上げて市価 との値 開 きを解消 したが、輸入紙 との競合や有力新聞社 を 中心 とした需要者側の取引括抗力の高 まりなどで、1 922 年 よ り 1 9 2 4 年 まで建値
い
を再 び順次引 き下げねばな らなかった
。したがって、その共販 カルテル とし ての効果 は、市況の統制 に関 して言 えば依然あま り目立 った ところがなかった と考 える
。但 し、新聞用紙の市況 は、新聞購読料の引 き下げなどで新聞の発行部数が戦 後 も 1 925 年上期 まで依然かな りの増勢 を見せ たため、一般洋紙の市況 に比べ る と悪化の度合いが緩やかであった。そこで富士製紙や王子製紙 な どは、前述 し た共同減産の実施後、1 9 22 年末頃か ら再 び新聞用紙の生産拡大 を図ったのであ る
。ところで、共同洋紙 は、1 92 3 年の関東大震災で大量の受託巻取紙在庫 などを 焼失 し、巨額の損失 を被 った。そのため1 925 年 に合資会社形態 を一旦解散 し、
2)
有限責任 の株式会社 として再発足 した
。また、その際に共販参加各社 の新聞 用紙生産標準能力 に準拠 させて1 9 08 年か ら実施 していた共販受託量の制限を撤 廃 し、再 び無制限の引 き受 けに戻 した。ちなみに、共販参加各社 は、新 聞用紙 需要の長期的増勢 を見込んで1 92 4 年頃か ら一層の増産化 に取 り組み始めていた。
しか し、新聞用紙需要の伸 びが1 925 年か ら大 きく落ち込み始めたため、新発足
した共同洋紙では、直ちに過大 な滞貨 を再 び抱 え込んだようで、翌1 926 年 にな
ると共販量の 3 カ月分相当 までの在庫保有 を限度 として共販受託量の制限を再
び実施せ ざるを得 な くなった
。なお、 この ような共販受託量の新 たな制限は、王子製紙 と富士製紙、それに 九州製紙や中央製紙 を合併 した樺太工業の 3 社 だけ となっていた共販参加企業 間に生産制限協定の必要 に関 して論議 を生 んだ。 これ ら3 社 は、1 927 年 2 月に 共同洋紙 による共販 と別の独 自な非公表の 自主協定 として新聞用紙共同減産の 再開を決定 し、共同洋紙 における受託量の制限 も一旦撤廃 させ た。 こうして実 施 された 3 社 による自主的な共同減産は、共同洋紙への各社 ごとの販売委託持 ち込み量 と別途輸 出分の合計 に対 して減産率 を取 り決めてお り、その際に各社 ごとの工場拡張状況や当面の需要見通 しも勘案 ・考慮 したようである
。ちなみ
・l
に、その減産率 は 3 社平均で1 4. 7%に及んだ
。しか し、 この共同減産 も、各 社合計の新聞用紙製造高が共同洋紙の共販実績高 を依然上回っていたため、生 産過剰の解消 に十分な効果がなか った と思われる。新聞用紙市況の悪化が依然
5)
続 き、共同洋紙の共販価格 はさらに引 き下げ られていった
。ところで、 こうして 自主的な共同減産 に取 り組みなが らも、富士製紙や王子
製紙 は、新聞用紙需要の長期的増勢 を見込んで工場 の拡張 を強行 した。そのた
め、共同洋紙 は同 じく 1 927 年の 7 月に共販参加各社が共同減産の対象 としてい
た合計基準量 を一律 に引 き上げ、それ を以後1 0 年 ない し 20 年間の共同洋紙向け
販売委託 「 権利量」 にす ることを一旦内定 した。但 し、新聞用紙の生産過剰が
依然解消 されなか ったためであろうが、その数 カ月後 には新 たに共同洋紙の毎
月 における共販実績や在庫の増減 に対応す る 2 段階の適用比率 を設定 した按分
比率の 「 権利量」 を各社への販売受託割当量 とし、それ と共販の対象外であっ
た各社 ごとの輸 出 と手持 ち在庫の合計量 までに新聞用紙生産量 を自主的に抑 え
させ るように した。各社の按分比率 は、共同洋紙 における共販量の合計が 1カ
月4000 万ポ ン ド未満で在庫が 2 カ月分 を超 える場合、王子製紙48%、富士製紙
36. 5%、樺太工業 15. 5% であった。 この ような共販実績 に応 じた受託量の製造
各社別割当による実質的な減産の強化 は、翌1 928 年 に新聞用紙需要の伸 びがや
や持 ち直 して くるの と相 まって、生産過剰 の解消 にか な りの効果 を もった と考
6)
える
。新 聞用紙市価 の急 落 は
1927年 に一旦下 げ止 ま りの観 を見せ たのである
。こう して、共同洋紙 に よる共販 に参加す る 3 社 は、既存 の工場設備 にお ける 自主 的な生産調整 を実施 しなが らも、工場 の新増設 に よる生産能力 の拡 大 を依 然 と して規制の対 象 に しなか った。 その理 由 として は、 3 社 にほぼ共通 した新 聞用紙需要 の長期 的 な拡大へ の確信 に加 えて、共同洋紙 の共販 に対す る最初 の 国内アウ トサ イダー と しての北越製紙 に よる
1927年 頃か らの新 聞用紙生産へ の 進 出や
、 1925年以 降弱 ま りなが らも依然続 いた輸入紙 との競合関係へ の配慮 な どが考 え られ る
。また、当時業績の低迷 に苦慮 していた樺太工業 は、新 聞用紙 市況の小康化 を見 て
1928年 か ら新 聞用紙生産能力 の拡大 に よる業績 の立 て直 し
をめ ざ し、共 同洋紙へ 自社 の販売権利比率 の引 き上 げ まで求め るようにな った。
そ こで、樺太工業 に対す る按分比率 の累進 的 な引 き上 げが
1929年 まで
2回行 わ
71
れたのであ る
。注 (1) 以下の共 同洋紙 に よる共販 カルテル としての活動 につ いて も、前掲 「戦前期 日 本 における新 聞用紙共販 カルテルの展開」73‑81頁 を参照 されたい。
(2) 「共同洋紙 の組織 変更決定」 (『紙 業雑誌』 第19巻 第4号、1924年6月、27‑28 頁)な ど。
(3) 「新 聞用紙 も供給 過剰」 (『経済雑誌 ダイヤモ ン ド』1926年9月1日号、17‑18 頁)。前掲 『販売関係 ノ
ー ト
』2、5‑7、11、13、29‑30、32、78貫 目、など。(4) 「減産後の洋紙界」 (『東洋経済新報』1926年10月30日号、東洋経済新報社、28 頁)。前掲 『販売関係 ノ
ー ト
』12‑13頁 目。(5)
同上ノー ト
、22、28‑29、40、43‑44、78頁。
(6)
同上 ノー ト
、16、28、30‑31、36‑37、43‑44、45‑46、49‑50、
77‑78頁 目
。(7)