﹃賦 光 源 氏 物 語 詩 ﹄ を 読 む (三 )
葵・榊・花散里
本間洋一
九葵
后腹三宮催御禊后腹の三宮御禊を催し
諸卿追従敬尊神諸卿追従して尊神を敬ふ
時権是重争車日時権は是れ重し車を争ふ日
露思忽瑩折扇辰露思は忽かに瑩く扇を折る辰
為雨為雲纔入夢雨と為り雲と為りて纔かに夢に入り
旧衾旧枕被埋塵旧き衾旧き枕塵に埋めらる
何唯袖涙夾鍾礼何ぞ唯だ袖の涙は
夾鍾の礼のみならん
粛索霜花猶駐匂粛索として霜花は猶し匂ひを駐む
︿七律︒神・辰・塵・匂(上平声真韻)﹀ 巻名が詩中に詠込まれていないという点でこれ迄のパターン
と異なると言っても良いかも知れないが︑とりあえず聯毎に訳
出するとほぼ次のようになるだろう︒
弘徽殿大后の女三宮(桐壼帝女)様が斎院となり賀茂の河
原で御禊の儀式をなさるということで︑上達部達も供奉申
し上げ︑尊き御神に敬意を払われたのでございました︒
御禊当日の見物の場をめぐり左大臣家(葵の上様一行)と
六条御息所様一行の問で車争いとなりましたが︑時の権勢(左大臣家)の重さの前に御息所様にはお気の毒なことと
なってしまいました︒また︑(光源氏が紫の上と共に見物
に出かけましたところ︑雑踏の女車の中から誘いの扇が差
出されましたが︑その)端の折られた扇には露のようには
七五
﹃賦光源氏物語詩﹄を読む(三)
かない思いを込めた美しい和歌が認められておりました
(光源氏様はその筆跡から相手は源典侍様と思い出された
ことでした)︒
(葵の上様が亡くなられましたから)巫山の神女と楚王の
ような夫婦の契りはわずかに夢にみるばかりのものとなり︑
かつてあの共に臥しくるまった寝旦ハ(ふすまや枕)も塵の
積るに任せるままとなっていることでございます︒
左大臣様が(光源氏様のことを意識されて)袖をぬらす涙
を流されたのは︑ただあの二月の花の宴の折のみのことで
はございません︒(娘婿であった光源氏様の立去られた)
物さびしい部屋に残された﹁霜華白し﹂等の筆跡や枯れた
常夏(撫子︒夕霧を暗示)に︑左大臣様は心打たれつつも
こみあげる無念さにたえきれずお泣きになられたことでご
ざいました︒
首聯はほぼ次の本文をふまえたものである︒
そのころ︑斎院もおりゐたまひて︑后腹の女三の宮ゐたま
ひぬ︒帝・后いとことに思ひきこえたまへる宮なれば︑筋
異になりたまふをいと苦しう思したれど︑他宮たちのさる
べきおはせず︑儀式など︑常の神事なれど︑いかめしうの 七六
のしる︒祭のほど限りある公事に添ふこと多く︑見どころ
こよなし︒人からと見えたり︒御禊の日︑上達部など数定
まりて仕うまつりたまふわざなれど︑おぼえことに容貌あ
るかぎり︑下襲の色︑表袴の紋・馬・鞍までみなととのへ
たり︑とりわきたる宣旨にて︑大将の君(光源氏)も仕う
まつりたまふ︒(②20頁8行〜21頁2行)
弘徽殿大后の女三の宮が斎院に立たれ︑それに伴う諸儀も盛
大に行われることとなった︒その御禊の日には予め決められた
上達部らが供奉することになっていたが︑﹁とりわきたる宣旨
にて︑大将の君も仕うまつりたまふ﹂と右の文中に見えるよう
に︑帝の下命により光源氏も奉仕することとなった︒﹁御禊﹂
は賀茂の祭りの前に河原に出て斎院がみそぎをされる儀式であ
ることは言うまでもない︒﹁応劭風俗通日︑按二周礼一︑女巫
掌二歳時一以祓二除疾病一︒禊者潔也︒故於二水上一盥潔之也﹂
(﹃芸文類聚﹄巻四・三月三日)に類する行為で︑禊除・祓禊な
どとも言う︒﹁追従﹂はつき従うこと︒﹁欲レ訪二神仙迹一︑追
従吉野潯﹂(大伴王﹁従二駕吉野宮一﹂﹃懐風藻﹄)﹁臣昔是伏二
奏青瑣一之職︑臣今亦追二従緑蘿一之身﹂(菅原道真﹁九日後朝
侍二朱雀院一同賦三閑居楽二秋水一詩序﹂﹃菅家文草﹄巻六﹃本
朝文粋﹄巻八・跏)などとある︒﹁尊神﹂は祭られている尊い
神のことで︑﹁是神之恩也︑人之幸也︒春秋敬祭︑将レ伝二子
孫一︒伏請︑尊神必垂二欣享一﹂(兼明親王﹁祭二亀山神一文﹂﹃本朝文粋﹄巻=二・謝)と見える︒
頷聯の﹁時権﹂はここでは時の権勢(家)という程の意で︑
﹁露思﹂は露のようにはかない思いを言うだろう︒詩の前半に
﹁后腹﹂﹁三宮﹂等和製漢語的用法が入るのも致し方ないが︑露
のはかなさは﹁人生如二朝露一︑何久自苦如レ此﹂(﹃漢書﹄蘇
武伝)﹁人命如二薤上之露一︑易二晞滅一﹂(﹃古今注﹄音楽)な
どを挙げるまでもなく︑露の命︑露の身︑露の世の如き語でも
よく知られていよう︒猶︑﹁瑩﹂には﹁露簟清瑩迎レ夜滑﹂(白
居易﹁池上夜境﹂﹃和漢朗詠集﹄巻上・納涼㎜)が喚起される︒
露のかがやきと掛けたのだろう︒この聯の第三句の方は前聯を
受けて︑御禊の日に物見に出かけた葵の上の一行が六条御息所
の車に乱暴をはたらく所謂﹁車争い﹂の場面を念頭に詠むもの
である︒
日たけゆきて︑儀式もわざとならぬさまにて出でたまへり︒
隙もなう立ちわたりたるに︑よそほしうひきつづきて立ち
わづらふ︒よき女房車多くて︑雑々の人なき隙を思い定め
﹃賦光源氏物語詩﹄を読む(三) てみなさし退けさする中に︑網代のすこし馴れたるが︑下
簾のさまなどよしばめるに︑いたうひき入りて︑ほのかな
る袖口︑裳の裾︑汗衫など︑物の色いときよらにて︑こと
さらにやつれたるけはひしるく見ゆる車二つあり︒﹁これ
はさらにさやうにさし退けなどすべき御車にもあらず﹂と︑
口強く手触れさせず︒いつ方にも︑若き者ども酔ひすぎた
ち騒ぎたるほどのことはえしたためあへず︒おとなおとな
しき御前の人々は︑﹁かくな﹂など言へど︑えとどめあへ
ず︒斎宮の御母御息所︑もの思し乱るる慰めにもやと︑忍
び出でたまへるなりけり︒つれなしつくれど︑おのつから
見知りぬ︒﹁さばかりにては︑さな言わせそ︒大将殿をぞ
豪家には思ひきこゆらむ﹂など言ふを︑その御方の人もま
じれれば︑いとほしと見ながら︑用意せむもわづらはしけ
れば︑副車の奥に押しやられてものも見えず︒心やまし
きをばさるものにて︑かかるやつれをそれと知られぬるが︑
いみじうねたきこと限りなし︒榻などもみな押し折られて︑
すずうなる車の筒にうちかけたれば︑またなう人わろく︑
悔しう何に来つらんと思ふにかひなし︒
(②22頁4行〜23頁11行)
七七
﹃賦光源氏物語詩﹄を読む(三)
聊か長い引用になってしまったが︑ここには光源氏の正妻であ
り︑左大臣の女である葵の上方の供人が︑その権勢を嵩に六条
御息所の車にかなり手ひどい凌辱を加え︑彼女が強い屈辱感に
陥っている様子が記されている︒また︑第四句は︑光源氏が紫
の上と御禊見物に出かけた次の場面を意識してのものである︒
今日も所なく立ちにけり︒馬場殿のほどに立てわづらひて︑
﹁上達部の車ども多くて︑もの騒がしげなるわたりかな﹂
とやすらひたまふに︑よろしき女車のいたう乗りこぼれた
るより︑扇をさし出でて人を招き寄せて︑﹁ここにやは立
たせたまはぬ︒所避りきこえむ﹂と問こえたり︒いかなる
すき者ならむと思されて︑所もげによきわたりなれば︑ひ
き寄せさせたまひて︑﹁いかで得たまへる所ぞとねたさに
なん﹂とのたまへば︑よしある扇の端を折りて︑(源典侍)
﹁はかなしや人のかざせるあふひゆゑ神のゆるしの今日を
待ちける︑注連の内には﹂とありける手を思し出つれば︑
かの典侍なりけり︒(②28頁13行〜29頁11行)
老いても猶盛んな好色ぶりを発揮し︑光源氏に迫ろうとする源
典侍の登場は滑稽ではあるが︑葵の上の死へと向かう重苦しい
展開の息抜きのようなシーンになっているように思われる︒ 七人
頸聯の二句はいずれも物語本文に見える中国詩の表現や故事
(いずれも古注で指摘されている)を用いて綴られている︒先
ず第五句のふまえる背景について記せば次のようになろうか︒
前述の車争いで手ひどい仕打ちを受けた六条御息所が︑懐妊中
の葵の上に取り憑き︑光源氏自身もそれと対面︒その後葵の上
は何とか夕霧を生みおとすものの︑急な胸の差込みに襲われて
急逝し︑鳥辺野に葬られる(八月)︒悔恨と懐旧にくれながら
籠もり過ごす光源氏だが︑時雨が物の哀れを誘うある晩秋(妻
亡き後四十九日以前)の夕暮れ時のこと︑﹁君は︑西のつまの
高欄におしかかりて霜枯れの前栽見たまふほどなりけり︒風荒
らかに吹き時雨さとしたるほど︑涙もあらさふ心地して︑(源
氏)﹁雨となり雲とやなりにけん今は知らず﹂とうち独りこち
て頬杖つきたまへる﹂(②54頁15行〜55頁4行)と見える場面
と関わる︒そこで口遊まれたのは劉禹錫﹁有レ所レ嗟二首﹂(其
一)の﹁庚令楼中初見時︑武昌春柳似二腰支一︑相逢相失尽
如レ夢︑為レ雨為レ雲今不レ知﹂で︑﹃河海抄﹄(巻五・葵)では
﹁劉禹錫婦にをくれて作詩也﹂というから︑劉氏が妻を失った
心情に光源氏自らの心を重ねていることになる︒晋の庚亮が武
昌に在った時登ったという名高い南楼(﹃晋書﹄庚亮伝﹃世説