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ケ ン シ リ

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121

先ず最初に本稿の資料について一言しなければならない︒すなわち︑本稿は︑もっぱら金沢市在住井奈武兵衛氏所蔵

の金沢絵図を閲覧した機会に︑これをもととして作成したものであるから︑はじめに本図の価値と特色について述べ

ておかねばならない︒図は金沢町方絵図部分図︿朋鰄附許︶四○枚と︑これに附随する絵図名帳七冊とより成る︒別に金

沢町惣絵図一槙・金沢町奉行支配町筋之図一敬馴二︶一値・町続御郡地御引請之ヶ所家建等仮絵図︵敬軸四︶一七葉・村

井家居屋鋪全図一葉等を附加している︒これらはもと金沢町会所に備付のものを書写して町奉行に提出したものであ

るらしく︑絵図名帳初冊の首に︑文化八年十二月廿四日の横目肝煎の添書に︑︵寛政二︶町御支配惣絵図前こみ町会所二有之候所︑ヶ所井見当相違之義御座候二付︑十三ヶ年以前右相改候様被仰渡︑則出

来仕候︑然処当年御用之節︑右新惣絵図見当リ不申候故︑先年之惣絵図を以写指上候処︑頃日町会所古書物入櫃〃

右新絵図出申候二付︑見競候処︑見当等少々宛違居申候︑依而新惣絵図之分壱枚為相調差上可申候へ共︑当年出来

不得仕候間︑右出来迄先達而差上候分相添上之申候︑明春新絵図之分出来︑差上可申候︑ 城下町金沢の職業構成

一はしがき l文化八年金沢町方絵図名帳による考察I

水上一久

(2)

欠部は絵図の方は︑本町において︑南町︒.上堤町・下近江町・下安江町三番町・光善寺上地町・常福寺上地町・袋町・博労町・

桶町・観音町・堀片原町・安江町・横安江町・乗善寺上地町・上材木町と︑地子町において︑泉町・後泉町・六斗林町・本光寺

上地町・野田寺町・石坂町・干日町・五枚町・上伝馬町・下伝馬町・横伝馬町・後伝馬町・長門町・相撲町・才川川除町・出大工

町・御門前町の推定一○枚である︒また名帳においては︑坤図の南町以下・下堤町以下・御門前町︒+間町・上近江町・下近江町

以下・袋町以下・安江町以下・安江木町以下の二冊分と︑卯辰町以下・四丁木町以下の一冊分︑計三冊分とおもわれる︒

本絵図の特色と価値はなお見る所によって異ろうが︑少くとも最大の特色はこの各戸別職業の判明するところにあ 図は町割は勿論︑ とあり︑これは惣絵図についていえるもので︑文意の如くぱ寛政十一︵一七九九︶年の改訂図のごとくである︒しかし町方切絵図ならびに名帳は明らかに文化八︵一八二︶年十一月のもので︑所蔵者は村井家所出と伝えており︑或は年寄村井長世が当時行っていた産物方調査の一環として町奉行︵峨伽花鮎噸州一・耐越︶に命じて︑これらを徴したものとも考えられる︵絵図表装に屋漏堂とスキ込める用紙を使用しているのは村井氏所出の一証である︶︒

町方切絵図は才許旺煕毎に一葉とし︵駆戴勤峨伽苅の︶︑完全には五○枚から成っていたとおもわれるが︑いま四○枚

を残している︒また名帳ももと一○冊であったとおもわれるが︑現存七冊である︒

図は町割は勿論︑道路・水筋・水溜・木戸・番所・本町・地子・相対請地︵梛続雌で︶等のほか︑一軒一軒に屋号名前

一一

(3)

123

金沢の城下町は︑武士町は別として︑町地は本町・地子町・寺社門前地・相対請地に分けるのが便宜である︒これ

らはその課税の区分によって生じた区別であるが︑またおのずから夫どの町格でもあった︒本町居住の町人は元来武

士拝領地と同じ格式で地租に当るものなく︑家にかかる夫役・役銀︵打割銀︶を負担した︒

ツラ

ケンシリ

この役銀賦課の方法に小間と得間と面とあり︑小間はその家の間口三間とか四間とかの実数で︑金沢町本町では奥行Ⅱ後十三間

1十五間あるが︵文化八年町方絵図に︑石浦町尻地一四間︑荒町裏行十五間尻など記す︑一般に一六間ともいわる︶︑例えば町口

二Wク一間に一三間後の家であれば︑一三坪を小間一間とする︒役間はこの小間に免を立てたもので︑たとえば川南町と野町とでは免差

があり︑仮りに六免ならば小間一間︵六尺︶の六シ免で三尺六寸︑四シ免ならば二尺四寸を榴間とした︒小間が草高であれば役間

は免にあたる︒また面は間口の長短︑町位の高下によらず︑一般に打立てるものであった︒

さらに︑この賦課方法はその費途によって異る︒小間は該町肝煎の給与︑町内費に割当て︑番徒の給与のごときは単にその町内

の家数に割った︒すなわち面割である︒これに対し︑役間は町会所費の半額︑藩主への年頭御礼銀︑町奉行︵二人︶・町同心︵四人︶

への年頭・五節句・八朔の礼銭︵とくに五節句に町同心へ青さし五百文を献ずる慣例あり︶︑町年寄への年頭礼銀︑観音院神事能入

用︵この故にこの神事能は本町町人の特権で︑彼等のみ桟敷に上る泰得た︒寺中御能における宮腰本町町人の特権もまた同じ︶︑

橋梁道路修繕費に充てるもので︑本来的のものである︒春秋両度に課した︒その額は川南町で天保一○年の秋打銀で︑小間は一間

当り一匁八分五厘余︑役間は一間当り九匁余︑面は一軒について五匁二分六厘余であった︒

地子町は役銀なく地子を徴せられるが︑これは町会所に集め御算用場へ貢納した︒これも春秋両度に徴したが︑幕

末で一年一戸当り四五匁︵峨恢郊劔︶で︑町会所費半高︑地子町肝煎給与圭局︑地子町道橋修理費に充当するもので

あった︵剣吐陥期縦事︶︒

地子肝煎給与の一方の半額は︑三月・十一月御下行に表会所小払から支給された︒けだし︑人持等拝領地には知行高に応じ制限

があり︑知行高より余歩の所有地︑当然そこに居住する家来については︑地子銀上納の義務があった︒弛子肝煎はこれら武家関係

の地子についても︑その取立より諸方御土蔵への上納の事務を担ったからである︒ところでこの制限地外居住の家来︵陪臣︶は諸

家中ですこぶる多く︑結局彼等は地子町・相対請地に混住した︒また︑藩直接の足軽・三十人・御小人等の軽輩も︑夙にその組地

の地子地化等の事情で町地混住となった︒とくに割場足軽においてこれが甚しい︒これに武家奉公人たる小者層︵藩・諸家中共︶

(4)

こうした本町は南町以下約四○町︑地子町は鍜治町以下約一二九町であるが︵粥峨脈樵噸肪剛凹臓蹴馴槻州地︶︑地子 つぎに寺社門前地は︑その寺社所有地に居住の町人から地子を寺社に納めたもので︑支配は別である︒しかし︑御

門前町・西御坊町は慶安二年四月から町支配となり︑宝円寺門前も延宝八年六月すでに肝煎在役していた︒これらは

た︒即ち︑同六月肝煎両人を命じ︑同十一年犀川門前︑浅野川門前と両才許としたが︑文久三年九月四肝煎才許と

し︑犀川上門前︵訓胎噸畑・︶・同下門前︵棚胎鰯細・︶・浅野川上門前︵訓諮纈七・︶・同下門前︵朝恰頚価・︶で︑戸数

で請地し︑貢租は郡方に出したが︑これが町方支配と郡方支配の係争点となったの承ならず︑地租改正時にまで問題 を加えると︑地子町︑相対請地居住の武士関係者は文化八年で三○○○戸を超え︑全町民の二九%の多きに上るのである︒この町地混住︵地子肝煎才許︶の武士の多いことが金沢城下町の大きな特色であるのみならず︑後期の相対請地その他の諸問題に関係する所が大きいのである︵後述︶︒

(5)

125

元緑三年には一三町︑文化元年では一八ケ町を数えている︵蝿排叱臓緋苅︶︒

町役人は町会所を中心に︑町年寄をはじめ︑横目肝煎・散算用聞・肝煎以下はなはだ種類が多い︵雄職︶︒町年寄は

慶安四年九月十人を定めたが驫雲先人・︶︑その後六人︑文化当時三人︑藩末四人であった︒肝煎は約四○人

︵訓帥畑冊煎︶で︑本町については概ね一町一肝煎︑地子町については一肝煎が数町を才許した︒この肝煎区域は更に

数組に分れ︑各組合頭が選任されたわけであるが︑本図でもっともよく判明するのはこの組合頭区域である︒よって

いま︑左に各町の肝煎・組合頭とその才許家数・職業を表示する︿方諦証飾徽稗祁︶︒

泉町等肝煎新保屋甚

左衛門︵皿︶

野町肝煎大衆免屋八

郎右衛門︵醜︶

石坂町等肝煎氷見屋

新右衛門︵弧︶

川南町・片町p木倉町 後泉町・本光寺上地町六斗林町泉野寺町野田寺町野町 泉町千日町石坂町野田寺町川南町 荒屋孫兵衛価・旅人宿・古金買︶︑小松屋次郎八節・十歩一才許・打綿・銭︶福照寺屋仁太郎︵別・蔵宿吟味人・孝心者二人扶持︶小松屋源右衛門︵的・古手肝煎︶唐津屋善兵衛︵・非人小屋撫育方︶油屋伊六︵泥︶︑尾添屋久右衛門︵坐・大工︶山崎屋長兵衛︵銘・呉服太物・小間物︶︑野代屋孫兵衛︵妬・質・古手・呉服太物︶︑扇子屋宗兵衛︵師・質・味噌醤油︶︑扇子屋権右衛門︵船・酒造・質︶牧瀬屋小左衛門︵沌・油小売・打綿・小間物︶︑加波貞右衛門︵師・扇子細工師︶宮腰屋与四兵衛︵別・草花・古金買︶︑米光屋加平︵兜・小間物等︶︑八幡屋与兵衛金・古手買︶︑小松屋専三郎露・狂言師︶︑豆腐屋甚右衛門

︵門・料理︶

三坂屋久右衛門︵弱・塗師︶

宮竹屋喜右衛門︵釦・酒造︶

(6)
(7)

127

川上新町等肝煎宗左

衛門︵狐︶

伝馬町等肝煎能登屋

清兵衛︵呪︶

法船寺町等肝煎綿屋

権右衛門︵師︶

石浦町肝煎藤屋市兵

衛︵閃︶下堤町・横堤町肝煎

能登屋加兵衛︵︶十間町肝煎孫助︵帥︶ 除町川上新町・才川川除町川上新町欠原町嫁坂町等五枚町・上伝馬町上伝馬町下伝馬町才川川除町後伝馬町横伝馬町・長門町.相撲町・出大工町法船寺町才川川除町・馬場片原町帯刀町・神谷町油車町・大豆田町公儀町・浄住寺前公儀町・神谷町藺田町高岡町石浦町

十 横 下 問 堤 堤 町 町 町

仁左衛門︵︑︶︑八兵衛︵朔︶︑次右衛門︵皿︶

次平︵師︶︑弥右衛門︵肥︶

太郎次︵糾︶

勘七︵蛆︶

泉屋権七︵妬・人別方・地謡役︶

山田屋八右衛門︵刀・蝋燭座棟取︶

次兵衛︵胡︶

塗師吉左衛門︵他・塗師職︶︑若松尾惣助︵船・銭屋才許下役・煎餅︶

坂本屋九郎兵衛︵恥・古手︶ 千代屋喜兵衛︵皿・香具︶

茶屋庄右衛門︵肌・質︶︑森下屋甚兵衛︵別・質︶

中村屋円右衛門︵皿・舶商︶

甚左衛門︵朔︶

白山屋九郎右衛門︵︑︶

北村屋安右衛門︵肥・酒造︶

津幡屋清兵衛︵仇・青物商︶

長兵衛︵︑︶

紙屋喜右衛門︵8.表具師・大皷役者︶

井波屋太郎兵衛︵弘・干菓子・銭︶︑能登屋半三郎︵瓢・御仕送り方︶

茶屋次郎兵衛︵釦︶

組屋徳右衛門︵弘︶

鶴来屋安兵衛︵妬︶︑紙屋半右衛門︵配︶

(8)
(9)

129

与三左衛門︵畑︶

塩屋町・東末寺町肝煎

敦賀屋七郎右衛門︵Ⅷ︶新町・鍵町肝煎伊六

︵︑︶今町・中町肝煎彦七

︵卵︶尾張町等肝煎山田屋

文助︵m︶

下材木町肝煎理平次

︵噸︶上材木町肝煎新七

︵皿︶石引町等肝煎富田屋

孫兵衛︵剛︶

宝円寺門前肝煎任田

屋庄七︵︑︶御小人町等肝煎藤右

衛門︵剛︶ 塩屋町東末寺町新町・鍵町新町尾張町橋場町下博労町下材木町 今町

宝 馬 と 土 小 石 石 石 円 坂 曳 取 立 引 引 引 寺 新 め 場 野 町 町 町 門 町 き 新 後 前 等 町 町 町

御小人町

柿木町

下天神町 上材木町

春田徳次︵朔・狂言方役者︶︑山上屋甚左衛門︵別・味噌醤油・質︶

下野屋宗兵衛︵妬・加越能宿︶

越後屋喜兵衛︵別・酒造︶

米屋与三左衛門︵坐・組合頭︶︑野村万蔵︵銘・御家中日用才許・記録方

・狂言方役者︶

木村屋与兵衛︵︶︑田鶴浜屋昌次郎︵鉛・油肝煎・笛役︶︑越中屋八郎兵

衛︵9.武具商︶

千田屋善兵衛︵胡・赤物道具︶︑米屋+次郎︵弱・砂糖・合薬︶

飛騨屋吉兵衛︵証・質︶

浅川清大夫︵賂︶

絹屋次郎右衛門︵的・米中買・茶︶︑塩屋長右衛門︵師・米中買・合薬︶︑

敦賀屋伊兵衛︵田・酒造・質︶

春田又平︵記・鍜冶︶︑石見屋伊兵衛︵団・薬種︶︑大竹屋庄右衛門︵肥・

扇子商︶福久屋理右衛門︵舵・薬種︶

米屋茂兵衛︵虹・批・綿・手間餅︶

越中屋孫平︵師・酒造︶︑越中屋伊助︵釘・銭・古手肝煎・御家中搗屋︶

近江屋与右衛門︵腿・干菓子︶︑通屋与左衛門︵泥・撫育方下役︶

瀬木屋甚左衛門︵塊・批・室︶︑福久屋豊右衛門︵妬・室肝煎︶

越中屋長右衛門︵肌・蔵宿︶

森田屋市右衛門︵釦・大工・太皷役︶

杉木屋清兵衛︵別・地謡役︶︑羽村屋清助︵魚烏︶

尾張屋吉助︵期・米中買︶

湊屋甚兵衛︵団・質︶

越中屋五郎兵衛︵弱・味噌醤油・塩・油・魚烏︶

(10)

卯辰町・森下町肝煎

長江屋太郎兵衛︵的︶四丁木町等肝煎孫六金屋町等肝煎長坂屋

太四郎︵︶

大衆免等肝煎飯野屋

円四郎︵畑︶ 日も︲ザ■Ⅱ

金屋町

高道町

高道町・三シ屋町山之上町

大衆免片原町

後金屋町水車町

浅野町等中嶋町等

大衆免亀淵町・大衆免竪町

大衆免竪町・大衆

免町犬衆免町 上天神町田町田町新町火除町吹屋町ゞ田町新町・浅野川川除町浅野川川除町主計町卯辰町・森下町

板屋吉兵衛︵趾・寶附︶

石浦屋久兵衛︵鮒・批︶

中条屋余所右衛門︵弱・呉服太物︶

仏具屋藤左衛門︵W・鋳物師・鉛瓦・仏具・古金︶︑室屋与三右衛門︵恥・

竹・山木・荒物・雑穀・楮皮・紙︶︑八郎兵衛︵稲︶

藤田屋喜右衛門︵帥・道具・米闇屋懸り︶同人︵︶

池田屋覚右衛門︵恥・批・炭薪・塩小売︶

鈴屋七郎右衛門︵畑・銭︶

大浦屋善之丞︵刊・左官職︶

小又屋長右衛門︵皿︶

浅野屋吉助︵m・質・批・雑穀︶

与三右衛門︵妬︶︑勘助︵別︶ 井筒屋逸吉︵閲・記録方役・御買手方加役・太皷役者︶越中屋甚右衛門︵例・魚烏︶能登屋重右衛門︵鮒︶︑中条屋亥八︵妬︶ 鈴見屋久兵衛︵畑・質・銭︶二俣屋五右衛門︵弱・質・古手・油︶能登屋小左衛門︵m・塩・油・炭︶御供田屋義平︵閲・小間物︶越中屋作次郎︵・唐津物・小皷役者︶塩屋次郎吉︵恥・かせぎ︶

(11)

131

上表では総計二︑○七○戸︵本町一一︑二二戸・地子町八︑九五八戸︶である︒本資料では袋町等廿町余分を欠いているか

ら︑実数は下廻っているけれども︑大体八割までは含んでいる︒また︑寺社門前地は含まないが︑これは大体九○二戸︵文久三・

町役人名帳︶程度である︒故に町家総数は三州志︵寛政年間︶の一四︑九○九戸︵五六︑三五五人︶位であろう︒武士戸口はあま

りよく判らないが︑宝暦五年︵政隣記︶一︑三六五戸︵七︑五五三人︶・寛政年間︵三州志︶一︑○八六を挙げているが︑これは直

接の藩士のみで︑後に述ぶるように武士でも足軽・小者・陪臣中には町家居住︵地子肝煎才許分︶が極めて多く︑それらは町家戸

口にダブるものが多いのであり︑陪臣数は右の千余戸には入っていない︒

八田健一翁は嘉永武鑑によってその登録諸士一︑五○五戸︑与力三○一︑計一︑八○六を挙げ︑これに歩組・陪臣・足軽・仲間・

小者を加えれば一万五千人を超えようとしていられる︵百万石紙芝居︶︒また社寺数は二九六三州志︶程度である︒彼是参酌し

て武士・社寺・町人総戸口は一万六七千戸︑人口六万前後であろうが︑旧藩時の資料は︑町家は家持︵役銀・地子銀負担者︶の

みであって︑同居・奉公人等を含まないから︑実際人口は遙かに多く見積る必要がある︒いま仮に三州志の寛政年間戸数を基にし

て比率を出せば︑武士○・○七︑町家○・九二︑寺社○・○一となり︑地域では大体武家地2−3︑町地13といわれるから︑○・○

七%の武士が2−3の広い地域を占め︑○・九二%の町人がその余の1−3の地域にあったことになる︒こうしたことは︑この藩にお

ける武士集中の権力構造のあり方を如実に示しているものといえよう︒

左に稿本金沢市史をもととして︑その他若干の史料を加えて︑所要の戸口表を掲げて参考に供しておこう︒ 惣構肝煎︵印︶ 大衆免新町春日町香林坊橋外図書橋外折連橋外小橋外備中橋外新町橋外 久左衛門︵別︶甚右衛門︵別︶︑久右衛門︵腿︶︑弥吉郎︵約︶平松屋久兵衛︵u・呉服太物︶金平屋市右衛門︵7・豆腐︶戌亥屋与兵衛︵8.請酒・道具︶越後屋作兵衛︵u・請酒︶鈴見屋九兵衛︵蛆・古手・打綿・大工︶米屋次平︵加・湯風呂︶

(12)

)()()()(■■■■■■■

()( 58 34 25 戸人 32 36 61 戸人

︐︐29

戸人867081夕−95 7

35

l0liI

凸H0jBⅡ011670■︲?■ⅡⅡⅡⅡⅡⅡ■68Ⅱ0︲qlⅡ08■Ⅱ01■0■1ⅡⅡ0100Ⅱ且■96■■■■■■■■■■■■■■■B■■■Ⅱ■■

寛 文 4 ( 三 州 志 )

戸人513632︐夕79

戸人203438夕夕−9

戸人716061︐︐89

寛文7(漸得雑記)

貞享2呂罰 8,448戸

才許分 8,326戸

貞 享 3 ( 同 ) 30余│戸

元線年間(町奉行支

配家数調査書) 169,927戸24 59 路師 戸人 2,186戸 7,081戸

宝永7(国事雑抄)

10,754戸 (11,252)

宝 暦 5 ( 政 隣 記 ) 13443戸

戸人259573︐9週弱

寛 政 中 ( 三 州 志 ) 2,540戸 .(】Hh 296戸

9,927

年不詳(漸得雑記) 12,113戸 2,186戸

8,9開戸

文化8(町方絵図) 11,070戸 2,112戸

8,293戸

文久中(町役人名帳) 11342戸 3,049戸

明治2(町役人帳) 15718戸

明治3(職郷

戸人2529227︐7615

(寺院等含む)

戸人434673

J3ZF

〕77人 24

123 明治4(金沢名数)

戸人9950027︐2429

明治22 (但現住人口)

以上肝煎才許戸数は最大一○○五戸︵鍜冶

町外︶︑最小五一戸︵上近江町︶で︑平均本町で

は一三二戸︑地子町では五八七・四戸であ

る︒また組合頭は︑一町内数組合頭あるいは

数町一組合頭等区々であるが︑その才許家数

は最大ニハ六軒︵剛韓︶︑最少九軒︵今町︶で︑

大概五六○軒を所轄している︒

この組合頭はいうまでもなく︑家柄資産を

以て町内に名の通ったものが選任されるが︑

右表の職業についてみても︑およそその地区

での代表的職種がわかる︒堀川地区で笠方棟

取が三人とも組合頭を兼ねているごとぎであ

る︒また質商の多いことも一特色であろう︒

この際︑注意すべきことは︑組合頭が必ずし

も自己の組内ないし居町に住むとは限らない

ことである︒才川川除町の組合頭が新竪町に

居住するが如きである︒また法船寺町下組の

組合頭が同町上組に居るごときである︒この

点︑他町から才許せしむる方が情実防止上有

(13)

一組合頭区域をさらに大体十軒単位で数番に分けているところがある︒例えば堀川川除町の組割は右表の如くで︑も

ともと十人組十ヶの連合Ⅱ一組合頭であったことを示している︒この点をさらによく示すものは下材木町肝煎理平次

の才許組で︑表示すればつぎのとおりである︒

これは元来十人組五ヶの連合︑即ち五○戸をもって一組合頭を置いたことを示し︑その十人組の戸数の漸増によっ

てかく不規則となったものであろう︿鯏鰄等︶︒而してその十人組は道路を挾んで向い合った五戸二列より成ったもの

が原型で︑道路の両側の五人組合せて十人組で︑その数箇の連合︵珊恥孤噸︶が一組合頭区割であったと推定せられ割戸る︒こうした最初の組割の時期その他については︵館訓鞭附式鮴

榊檸郵皿垂隷諦如阿誕帷仙却諦心怨報挫心諏譜剰醗帷桁︶︑なお考究を要するが︑文化八年における組割の乱れ次︲11︲lliII合をかく琴装︑各町に弄る発鬘︵賎繩芭を知る上に

理屋門屋賀

参考となるのみならず︑城下町自治組織の変貌を示す一指標と煎絹衛塩門敦衛肝頭右頭衛頭兵町合郎合右合伊なしえよう︒木組次組長組屋各町にはこのほか番徒・番人があるが︑番徒︵碑州に弔朏脈も

珊附組組組

旙縦で︶は町内走り使いであり︑番人は町内番所に詰めて夜警等

イ︲ロ

利であろうが︑むしろ居町に有力者が得られない場合という事情が優直先しているようであり︑この他町から才許する者の多いという点は舗割︵伽峪湖肌棚舵吋〃柵剛咲の︶︑次に述べること上相俟って本来の組割の剛捌素乱を意味していようとおもう︒除四川権元来︑加賀藩では金沢等町地の組合は十人組であったとせられる鯏眠が︑実際の運営はその連合組合にあった︒けだし︑堀川地区の如く︑○

1 番 組 13戸

2 番 組 3 番 組 4 番 組 5 番 組 6 番 組 7 番 組 8 番 組 9 番 組 10番組 11番組

3525924401111111121

146

(14)

町々木戸とともに︑防備上・自治上重要であったものに惣構橋番人がある︒試みに内惣構内部の町々について︑そ

の三○余ヶの木戸と内惣構橋番詰柵戸を閉せば︑如何なる犯人も袋の鼠となる仕掛であった︒けだし︑この惣構堀は

西欧や中国の封建都市の城壁に当るもので︑その城門に相当するのが惣構橋であった︒その橋番人をとくに引離して

別旺則才許としたことは故あることであって︑これが町人の自治に委ねられた時期︵鵬故城碑潤剛醐輔柵鮴噸剛剛朧鯆破

州助に死見︶は︑町人自治上の発展期と見てよいであろう︒

なお︑金沢城下は消防施設についても特徴があり︑水溜・火除地について触れたいが︑すべて省略する︒

内惣構橋は西町橋︒十間町橋・近江町橋・袋町橋・新町橋・主計橋・枯木橋・稲荷橋・蔵人橋・九人橋で︑外惣構橋は畳屋橋・

宮内橋・御厩橋・香林坊橋・右衛門橋・甲斐守様前土橋・図書橋・升形橋・熊坂橋・東末寺橋・塩屋町土橋・小橋・下材木町橋・

備中橋α剣崎辻橋・八坂惣構番人・小立野惣構番人で︑これに更に外廓の御徒橋・御荷川橋・生洲惣構番人・折違橋の三一ケ所を

押えた︒橋詰に橋番人各二戸宛︵但し枯木橋・熊坂橋・八坂惣構・小立野惣構・御荷川橋・生洲惣構・折違橋は各一戸︑小橋は四

戸︶寡置いて︑この総計五七戸は地区別に五組とし︑各組合頭を持った︒職業は商工様々であって︑奉公人口入・小宿︵御厩橋詰

泉屋小兵衛の越前梶浦海女小宿・下材木町橋爪塩屋弥三郎の井波・城端中使小宿︶︑桑山保童円薬屋︵西町橋詰大野屋伊右衛門︶

などは職業的にも橋爪という特色を示している︒ に任じた︒この番所は地子町では町内の要所︵郭見︶に置いたが︑本町では番所は多く木戸傍にあった︒即ち︑とくに藩主の江戸在府中は夜中番人︵鮴棚恢郡淳繕審伽賦舳棚静門︶扉を打って夜中往来の者の取締に当り︑また町内を巡暹した︒この木戸は原則として本町では地子町・武士町との地境毎におくものであったが︑幹線道路に当る町々では地子町にもこれを見る︒香林坊橋・枯木橋︵鮎榔鮒升︶ぎわの木一戸はとくに惣門と呼び︑制札場・嘱託札︵鷆柵刎馴肢湖箭帆蜘珊惇柵噸肋品帷知現職畭帥熊裡椛苅跡γ︶・寺社開帳札などを掲示した︒また泉・大樋両口の松門もその最先端の柵門といてあったという︒藩の司ってもよいであろう︒

町々木戸とともに︑

■ ■ ■ ■ ■

■■■■

■■ロ■■■

(15)

135

城下町は本来領主中心の武士屋敷を本体とし︑これに領主的見地から社寺・商工業者を招致して形成された︒金沢

城下の場合︑すでに中世末に本願寺の尾山御坊があり︑中世本願寺々院町の通例として︑ある程度寺内町の発展があ

り︑前田氏以前佐久間盛政時代それを継承した尾山八町︵繩剛卵餓澗Ⅲ彌棚加塒侭馴伽恥︶も当然そうした濠内町屋の形

を保っていたとおもわれる︵恨則督順舗吐尭細熟騰剛峨紗柵鵬叶正叱︶︒天正二年の前田氏入部以後︑文職・慶長の草創

期を経て︑慶長四年内惣構堀の構築があり︑当時前記八町を継承した本町と︑半役地地子町袋町・今町・博労町・河

原町・大工町・石浦町・竪町の差が出来ていたというから︑第一義的城下町の形成も見ていたろう︒すなわち︑本町

は安江町を除き︑すべて郭内にあり︑後の家柄町人にも濠内廓の町屋に邸地を賜っていたものが多かった︒半役地も

河原町・竪町を除き廓内であり︑寺町・工人町︿峨江棚和噸哨釧目剛報︶もその外端部に位置していた︒こうした形は狭

義の︑または第一次的金沢城下町とも呼び得よう︒

古い頃の特権町人で︑狭義の城下︑即ち濠内廓に拝領地をもつたことの判明するものに︑越前屋孫兵衛・同喜右衛門・平野屋半

助・中屋彦方衛門・三ケ屋九兵衛・金屋忠左衛門等がある︒また慶長古図で城内に邸地の見えるのは︑長・村井・横山・奥村・山

崎・三輪・岡嶋・神谷・戸田・小塚・葛巻・上坂・近藤等である︒

ついで慶長十五年の外惣構堀の穿掘︑同十六︑十九年の高岡士還住があり︑これらとの関連の下に元和二年の寺町

郊外移転を見る︒ついで寛永八年・同十二年の火災後の同十三年の町割替は一割期で︑南町・堤町等旧本町の廓外移

転があり︑これを機に本町・地子町の整備も行われたのでないかとおもわれる︒すなわち旧七ヶ所中袋町・今町・博

労町・石浦町・河原町︵剛哺剛鳫岫︶・竪町と殆んどが本町化し︑代って伝馬町・新竪町・石引町・御小人町・四丁木

町・金屋町・鍛冶町・安江木町を地子七ヶ所︵雌役︶に加えたが︑なお一般地子町の増立は極めて少かつたといわれる

時期であろう︒この寛永・正保の膨脹期は︑万治二年小松士還住あり︑組地・御用地の拡大あって寛文五・六年に至

ってその頂点に達したC城下八方に拡大すること三○万歩とか︑府下国初に比して十倍すとかいわれるのはこの頃の

(16)

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町勢であろう︒事実︑改作所旧記に見るごとく︑万治三l寛文三の城下請込面積は御用地一七七︑八四五歩余︑相対

請地一○一︑六九一歩余︑合せて約二八万歩に及んでいるのである︒

ここに強制的邸地・用地の設定から寛文元年の相対請地化への転換は︑改作法の遂行にともなう一つの郡市調節策

とも見られるが︑同時に折からの町人発展期に対処する黙視でもあったろう︒さらに寛文五年の町建移籍と翌年の相

対請地禁止令は︑放任的都市拡張への一応の終止符︑規制的城下町発展期へ

一鮴鍾

詞織惑洲鰯蕊鰯灘蕊瀧蝋

l︲潔患民壼を轌的に眺め玉よう.すなわち︑便宜本町・學町・雲壷の

﹄JJ町町地

等・民・子礁医頭細振区別を立ててみたが︑その工・商・武・医等・細民別戸数は上のとおりであ本地相 る︒くくく

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137

すなわち︑全体としては︑武家・商業・細民・工業・医等の順となるが︑この商業戸数は工業戸数の約一壱とな

る︒とくにこの比は本町において顕著で︑地子町・請地にあってはむしろ武家居住が商工業者数を上廻っているのを

見る︒この町地居住の武家については後で述べること上するが︑拝領地をもつ武士町居住の諸士でなく︑地子肝煎才

許下にある陪臣及び足軽・小者をさすのである︵課渉剛︶︒この地子町・請地居住武家の意外に多いことは︑次の都市

細民の圧倒的多数とともに︑金沢城下における後期の特異な様相といわねばならない︒

さて︑以下工業・商業・細民・町地居住武家の順を逐って細説してみよう︒

前にかかげた全住民構成表のうち︑工人の内訳はつぎのごとくであって︑数の上からは大工・紺屋・桶屋・鍜冶︒

3131

55 113 36

針 職 釘 職 櫛 笄 職 琴三味線職 仕 立 物 職 袴 屋 職 袋 物 職 葛 籠 職 竹 籠 細 工 竹 細 工 傘 細 工 足 駄 職 き せ る 職 菓子細工職 棺 屋 職 洗 張 鍬 柄 職 練 雛 細 工 土 焼 物 職 絵 馬 屋 職

さらさ染・絞染 判 木 師 印 判 師 紙たばこ入職

とうらん職 唐けんどう細工 かんせん細工 刷 毛 細 工 時 計 細 工 龍 吐 水 細 工 水 襄 師 仏 檀 師 秤 座 細 工 人 荷 棒 細 工 搗 臼 く り

91249235311193377502411221111111111

412431

大 工 木 挽 鍜 冶 左 官 紺 屋 桶 屋 石 伐 畳 刺 指 物 師 塗 師 建 具 師 表 具 師 桧 物 屋 屋 根 方 職 木 地 職 乗 物 職 油 臼 元 甲 胄 師 具 足 師 鑓 細 工 靱 師 鐙 師 礫 職 柄 巻 師 鞘 師 砺 師 踏 皮 蒔 絵 師 白 銀 細 工 銅 細 工 等 鋳 物 師 錺 屋 職 仏 師 厨 子 職 筆 職

175

銘翅焔別n羽90269212211643265611274

111111

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に見える町人は二三人であるが︑その内訳は︑珊師六

寄三・銀座三・上使宿一・能役者二で︑かって剛師・

鞘師の特権的優遇を獲ていたことが知られる︒また︑

蒔絵師・白銀細工・釜師・針職・鐙師・染工の如きは今

日の工芸につながるものとして︑その数の多いことと

ともに注意さるべきである︒︵鵬禰粕柵獅脈朏一喝刈燗捌鯛

これらはいわゆる高級工人であるが︑その城下町固

註⁝︶

有の形態たる工人の集団住居︑いわゆる職人町の推移

について少しく考えてみたい︒金沢においても︑藩初

特定工人に対し職人町を設けたことはかわりなく︑大

工町・鍛冶町・大鋸居町・桶町・象眼町o石伐町など

遣称を残すが︑このうち︑藩政後期に至ってもなお職

人町の機構を止めたのは大工町と鍜冶町であるから︑

いまこの二について眺めてみよう︒

大工は拝領地大工と町大工とに分けられるが︑いわ 畳刺・木挽・塗師・仕立物職・傘細工職・左官・石屋等の順となる︒

右のうち︑甲冑師以下具足師・鑓細工・靱師・鐙師・蝶職・柄巻師・鞘師・硫師などは武家本来の工人であって︑その

殆んどが本町に居住することは上級職人なる点で興味がある︒一兀職十四年八月町役御免屋敷拝領の者等覚︵馴譲舗棚︶

に見える町人は一三人であるが︑その内訳は︑珊師六・鞘師二・釜師一・桧物屋直段師三・茜染一・豆腐業一・町年

()()()()()(木挽)

I

■■●llIlljlllIIトーllllllll︲

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大 工 町 出大工町 観 音 町 横伝馬町 浅野川川 除町 八 幡 町 下材木町 竪 町 水 溜 御徒町ノ 枝 町 百 姓 町 大 藪 小 路 橋 場 町 元如来寺 古餌指町 下 鍜 冶 町 折 違 町 大 鋸 居 町 十 三 間 町

71211 11

38 19 16 2

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1IIIII1111jl日日︲も19.1060凸亘■18610■01■0●015Ⅱ1011ⅡⅡIJIIllO■1V凸IIIII1900fGIIUl0・031111111

11

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111 111153

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ゆる職人町を形成したのは前者である︒これらはとくに大工肝煎︵一天︶・木挽肝煎︵一人︶を置いて才許せしめたがへ

その数二五に上る︒その居住地別は右のごとくである︒

右表のほかに一般地子町等のなかで才許を大工肝煎から受ける拝領地大工が散見する︒例えぽ木倉町に平蔵才許の拝領地大工が

二人見え︑土取場に御扶持方棟梁山本喜右衛門が︑また下鍜冶町に大工与三助︵五○歩︑請地一毛歩一尺︶が在る等である︒故に

藩用大工の総数は前記二五に尽きるものではない︒や笈降るが天保五年で御大工頭三人・御大工︵六○俵三○俵扶持︶二四人︒

同見習︵五人扶持︶五・御大工並一・穴生四人・御壁塗五人︵天保五年々頭御礼次第帳︶見え︑少くとも扶持ある大工は廿七八人

あった︒外に作事場に登録の大工l帳面大工が相当数あったわけである.明和九年八月の﹁町役人扶持銀帳﹂には︑拝領地大工

出大工組に二四軒︑金沢組に五三軒︑越中組に一軒︑計七八軒を挙げ︑さらに出大工組肝煎羽田屋平助才許の帳面大工一三九人︑

金沢組肝煎武右衛門才許の同一四八人︑越中組肝煎山本屋助左衛門才許同二一五人︑同越中組肝煎庄助才許二三人︑木挽肝煎野

村屋善助才許大鋸木挽九八人︑屋根薑肝煎西川屋甚助才許一五四人︑板批肝煎若嶋屋筧兵衛才許八○人および左官三人をあげてい

さらに文久年間とおもえる﹁町役人名帳﹂では︑大工肝煎︑木挽肝煎才許の大工を次の如き三グループに分け︑また組合頭一を

置いている︒すなわち︑第一は観音大工町二八・折違町一・鍜冶町一・下博労町一・元如来寺町一・材木町七丁目一・並木町一・

古餌指町一︑菫一は出大工町一七・枝町一・大工町六・水溜御徒町一・百姓町一・材木町六丁目一︑第三は大工町二九・出大工町

一○で︑木挽肝煎の方は大工町一八・大鋸屑町五・観音大工町三である︒

これらの内︑町として大工集団の形を示したのは大工町・出大工町・観音町であるが︑就中大工町には御扶持方大

工七を匹頭に計五○人を数える︒これらは最初天正十一年に御帳面大工︵雛辨幅柵祁蝋︶一言人余に棟取百歩︑仕手大

工五○歩︵諭伽伍削︶︑大鋸木引四○歩︵荊加梱剛︶宛を拝領せしめたというが︑その当初の大工町は今町・中町・修理

谷附近に在ったものといい︵職釧臓鵬姑聡叶鮖荊朋頗繕謹︶︑寛永八年大火後拝領替したものが後の大工町であった︒し

かし︑文化町方図に見るごとく︑当時この大工町も一般地子裁許の者の混居を見ており︑大工五○に対し地子裁許の

者六○であった︒その両者入組の状は図でよく分るが︑これはすでに元緑・享保の頃からで︑或は子孫断絶し︑或は

零落して拝領地を返上して退転するなどの事情によった︒ ろ︵町会所覚書二︶︒

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A塩屋茂右ヱ門B越中屋甚右ヱ門C石動屋甚兵衛

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鰔噸舳を︶︒ その名残であるという︵鵬肌譲蕊考飛躍蕊.﹁黙穀簿簔篭哨瀧酸薙朏勵謹繋糠埖則蕊塙籍 油車︵細朏緋右︶︑浅野川水車町︑犀川下の油車のそれで︑犀川下流の油屋庄兵衛は寛永︑竪町油車の多田与助は正保に始るというが︑浅野川・竪町のはそれ以前の松任水車の移入であるらしいから︑中世末に系譜し︑城下町形成期に城下自給の必要からの技術移入とみられる︒ただし菜種油は寛永頃からで︑元和頃には木実油で︑各地栽植の油木は

牛右衛門橋臼一兀は正保年中多田与助が岩谷牛右衛門上ヶ地亘一十歩の火除水溜堀の代りに川筋を通し常水に支障な

からしめて水車水碓を架したものであるが︵譜鵬蛸朋州刎肌剛擁鮒捌職鰯耐ず撹棚時畑︶︑倉月用水川下十三ヶ村︵禅碩八︶の

農民等も用水普請・人夫費分担の協定をなしたというから︵轆釧附鵬聴縦貯蓬所︶︑その資本は相当のものであったろう︒

一方︑文化図で見ると︑犀川油車川下流︵馴岬剛岬f︶に︑﹁此橋臼一兀共懸申︑﹂と記する板橋一家あって船入所に通じ

ている︵職釈精郷蹴靴勵言↓輝蹄恥砿川獺めげ伽軸蝿勵伽胖醐時揃派州大︶︒犀川川縁から油原料搬入用の臼一元専用の小橋であ

って︑油・原料︵岫埠社︶が石川郡近郷から舟引で運搬せられたことを示している︒宮腰関係史料では油草は加賀藩移入

品中の重要品目の一であったから︑移入原料が川引で金沢臼一及搬肌︶へ輸送せられたことも考えられよう︒

一F︑上や口宮口e◇・文化図でば創始の多田源兵貿誘剛議で︶︑油屋庄兵衛露認諺暁紺︶すでになく︑また水車町のは廃絶してい

訓.︑哩恥・玲・︒.﹄・・﹄や︒︐雫●心.・る︒しかし︑これら九軒も間もなく文政二年藩が金沢での油製造を廃し︑松任等郡地臼元に統一したため廃業の止む

なきに至り︑紺屋等に転じたものもあったが︑水車はなお残ったようである︒

前掲職人表のうち?なお関説すべきものは多いが︑ただ︑練雛細工と土焼物職について少しく註記しておこう︒練雛細工は野町

口・泉方面に当時五軒見えるが︑これは天神像・福徳種等として製せられた土俗的のもので︑その型と製法は明治や大正にもなお

保存する家があったよしである︒また大樋口土焼物は一○軒見えているが︑いわゆる大樋焼や瓦焼で︑当時日常品や骨壺などを焼

いていたよしである少︵以上近弥二郎氏談︶

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つぎに商人についてみなければならないが︑これについては︑一まず町役人・問屋・各種肝煎など特権町人といわ

れるものと︑一般商人とに分けて考えてゑたい︒文化八年当時広義の町役人として挙げられるものは約八○種の多き

に上るが︑いまその人名と町名の判明するものを一覧せしむればつぎのとおりとなる︵孜岫梛岬雛棚聰柵郎畑嶋齪袖岫

役人帳﹂︵天明五︶・﹁町役人帳﹂︵明治二︶・﹁町担当肝煎一覧﹂・﹁町奉行歴代帳﹂・﹁町年寄歴名井勤方帳﹂︑および﹁町会所覚書﹂二に収むる﹁明和九年町役人扶持銀帳﹂・﹁寛政六年町会所役人給料留帳﹂を参酌した︒括弧の分は便宜寛政六年町会所役人給料留帳によ

刎輔加舳焔︶o

中買肝煎四人

︽垂凹幽ユ厩︾雲.︒〃ひ.・・同手伝

画掴同下役地子肝煎一五人 銀座二人銀座下役散算用聞七人町年寄末座役一人御銀裁許四人横目肝煎五人 町年寄三人本町肝煎二○人

御扶持銀二○枚宛 三人扶持

一 リ ー 御 一 銀 貫 貫 塩 貫 二 目 一 口 四 ○ 宛 五 銭 九 枚 外 ○ 五 宛 二 目 匁 銀 以 宛 五 下 、 枚 差 外

ア 二

三貫目宛一貫九○目宛︑外一一銀

五枚 宮竹屋純蔵︵片町・薬種︶・香林坊兵助︵片町・質︶・本吉屋宗右衛門︵十間町︶マ可金屋彦四郎︵今町︶・片岡孫兵衛︵上堤町︶和泉屋庄右衛門︵五枚町︶・金具屋源六︵上伝馬町︶森下屋八左衛門︵尾張町・干菓子︶・紙屋庄三郎︵中町︶後金屋久兵衛︵川南町︶茶屋三右衛門︵石浦町・酒造︶坂下屋久右衛門︵川南町︶・吉田屋庄三郎︵河原町・質︶・今市屋左助・越前屋︵楠部屋︶金五郎︵堤町︶・越前屋次郎右衛門︵前出︶俵屋九兵衛︵法船寺町・味噌醤油・銭︶森下屋与右衛門︵上今町︶・森下屋喜助︵石浦町︶高岡屋喜兵衛︵上材木町︶︵前出︶

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銭屋裁許人三人同下役二人

油肝煎一人蝋燭肝煎一人絹肝煎一人鍜冶肝煎一人室肝煎一人豆腐肝煎一人紺屋肝煎一人 酒肝煎二人伝馬肝煎一人桧物屋肝煎一人 大鋸肝煎一人木挽肝煎一人屋根葺肝煎一人板批肝煎一人米肝煎三人 大工肝煎四人魚肝煎三人 二三表匁︑外二作料二○○目︑外二作料七百目宛︑外二銀二枚︵蔵宿裏印取次に付︶七百目宛︑外二銀二枚また六○貫目宛目銭ノ七百目宛一貫百目御細工代ノ内五歩宛︑外二百目小者給銀桧物より六五○目五百目六百目三百目三九三匁︑外一五○目五七五匁︲

四七五匁 八百目宛・三百目座料目銭ノ内六○貫目迄宛六百目下役座料ハ三人配当二○七匁五分︑外二出作料 若松屋惣助︵横伝馬町・煎餅︶︒︵若松屋半兵衛︶田鶴浜屋昌次郎︵今町︶︵野々市屋作次郎︶︵磯部屋五郎兵衛︶︵春田徳兵衛︶福久屋豊右衛門︵と皮めき町︶伊藤弥兵衛︵三社町︶

︵塩屋伝右衛門︶ 津幡屋勘七︵下伝馬町・道具・木綿方主附︶︵木綿屋嘉吉︶︵桧物屋与兵衛︶ 永助︵大工町︶・四郎兵衛︵出大工町︶・久右衛門︵八幡町︶・助左衛門︵下材木町︶︵木倉屋甚蔵︶野村屋善助︵太左衛門︶︵九左衛門︶大杉屋甚助︵竪町︶・佐賀野屋八郎兵衛︵下鍜冶町︶越後屋伝右衛門︵浅野川川除町︶

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紙肝煎一人麦屋肝煎一人袴屋肝煎一人傘屋肝煎一人薬種肝煎一人墨肝煎一人桶屋肝煎一入笠肝煎一入 呉服肝煎二人質肝煎二人質屋棟取八人古手肝煎一○人 異肝煎一人簔笠肝煎一人 八百屋肝煎二人船肝煎一人

三 二 三 四 四 百 歩 リ 扶 ノ 月 古 一 五 ○ 三 三 目 で 五 持 内 二 着 五 ○ ○ ○ ○ 配 人 銀 一 ○ 屋 匁 目 目 目 目 当 ニ ト 貫 文 。

、 七 シ 七 宛 古 他 歩 テ 百 取 道 ハ 五 渡 目 立 具 凡 厘 シ 三 、 屋 ソ 、 、 人 惣 一 六 五 残 へ 高 ケ

但︑文化一○年九月新

三○○目︑外銀五枚

一五○目︑外三○○目 四百目︑外銀二枚四三○目領国大船持へ割符︑外二小船持ヨリ械一挺二四分宛︑銀高三百七八○目増減あ

︵泉屋吉郎兵衛︶

能晋屋清兵衛︵下材木町︶

︵谷内屋庄五郎︶ 御供田屋忠兵衛︵河原町・仕立物職︶︵傘屋三郎右衛門︶ 直江屋権四郎︵本堀川町・質・茶小売︶菅波屋幸助︵石浦町・御使者宿︶・鍋屋半右衛門︵今町・旅人宿︶・金堂久左衛門︵後伝馬町︶・坂本屋九郎兵衛︵後伝馬町︶・越中屋伊助︵石引町・銭・御家中搗屋︶・小松屋源右衛門︵六斗林・扶持銀六○○目︶︵兼帯近江屋六蔵︶ 野村薗作︵河原町︶・新保屋甚右衛門︵河原町︶︵紙屋善石衛門︶・宮腰屋久右衛門︵片町・足袋商・但船才許役加人︶

(29)
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紺屋棟取六人祠堂銭裁許三人口銭方棟取三人 上使宿四人 遠所日用裁許一人町夫才許一人 蝋燭座棟取四人蝋燭懸役一○人日用頭一二人 同見習十歩一裁許二人 たはこ問屋四人

銀十枚宛︑外百目小者 町夫賃銀の内一分下さ普請料一貫五百目乃至一貫目下さる 貞享四年より始る︑殺害人等御取揚家払代銀の内十歩一下さる御用日用賃銭の内三分宛口銭下さる︑棟取四人は三人扶持︑他は二人扶持 葉たはこ商人より一日五分︑刻たはこ−斤二付三厘取立口銭︑内四貫三百目運上︑残配当蝋燭売出利潤自分二配

菅波屋幸助︵石浦町・但御使者宿・古手肝煎兼︶︒︵金屋九郎兵衛・角屋

猪右衛門・八田屋平右衛門︶

太郎田屋八兵衛︵河原町︶・太郎田屋与右衛門︵木新保︶

菱屋彦次︵尾張町・唐津物︶

森下屋喜助︵石浦町・中買肝煎手伝兼︶ 高野孫右衛門︵上今町︶・青木平右衛門︵荒町︶・柚木屋次平︵亀淵町︶・羽村善左衛門︵下天神町︶・藤沢屋伝右衛門︵三社町・但大聖寺様方丼屋敷方日用頭︶・八田屋次左衛門︵今町・但以下御家中日用才許︶・野村万蔵︵新町・記録方︶・飯田屋伊右衛門︵石引町後町・煎茶︶・松任屋弥十郎︵川上新町・打綿︶・淵上屋久五郎︵折違町・米中買︶桜屋理兵衛︵才川懸作町︶︵越中屋宇左衛門︶ 扇子屋吉兵衛︵上伝馬町︶・山田屋八左衛門︵下伝馬町︶・辻屋弥右衛門︵竪町︶・長江屋平助︵荒町・茶・但蝋燭懸棟取︶中嶋屋又右衛門︵鍜冶町︶・福久屋与三右衛門︵鍜冶町︶・中嶋屋仁右衛門︵象眼町︶・本折屋九兵衛︵宝円寺門前︶・中条屋佐八郎︵上伝馬町︶・北尾屋八兵衛︵上伝馬町︶・山田屋理兵衛︵上伝馬町︶・山崎屋次郎右衛門︵法船寺町︶・油屋弥左衛門︵十三間町︶・本折屋三郎右衛門︵石坂町︶中嶋屋長次郎︵鍜冶町︶小松屋次郎八︵泉町・打綿・銭︶ 小杉次三郎︵石浦町︶・吉日仁右衛門︵石浦町︶︒︵竹中甚助・香林坊兵助︶

(31)
(32)
(33)

153

右のうち︑まずいわゆる門閥町人について少しく見てみよう︒元来︑藩初の特権町人として知られるものは︑越前︵山岸︶︵額︶屋孫兵衛︵堤蜘︶・同喜右衛門︵袋町︶・平野屋半助︵袋町︶・金屋彦四郎︵袋町︶・中屋彦右衛門︵南町︶・紙屋庄三

郎︵中町︶・喜多村彦石燗鵬Ⅱ一堤町︶・浅野屋次郎兵衛︵袋町︶・新保屋次郎右衛門︵袋町︶・武蔵庄兵衛︵下堤町︶・

三ケ屋九兵衛︵堤町︶・菓子屋吉蔵︵博労廼・竹屋仁兵衛︵博労町︶・香林坊兵助︵片町︶・堂後屋三郎右衛門︵片町︶

大文字屋三郎右衛門︵西御坊町︶・中山主計︵宮腰︶等で︑大概外附の郷士・処士の系譜をもつが︑銀座・薬種・酒・

菓子・上使宿・御菜所・町役人等の御用をもって狭義の城下に居ついたものが多かった︒こうした特権町人はいわば

町人貴族として︑その後町年寄・銀座・横目肝煎・散算用聞等を代るがわる世雲して︑動かし難い固定的地位を保持

した︒いま文政二年正月の家柄本列を見ると︑額彦四郎︵袋町︶・片岡孫兵衛︵上堤町︶・浅野次郎兵衛︵袋町︶・山岸

半助︵南町︶・増田九郎兵衛︵石浦町︶・中田庄三郎︵中町︶・中屋彦右衛門︵南町︶・香林坊兵助︵片町︶︒多々良宗

右衛門︵十間町︶・森下八左衛門︵尾張町︶・亀田純蔵︵片町︶・武蔵規一郎︵下堤町︶・亀田与助︵森下町︶・樫田吉蔵

︵博労町︶・喜多村彦右衛門︵下堤町︶・木倉屋長右衛門︵片町︶・長瀬成太郎︵袋町︶・中山主計︵宮壜となってい

て︑これを前掲藩初門閥町人と較れば︑その多くが重複しており︑家柄町人の固定化︑根強さを物語っている︒

しかし︑寛文以後の領域経済の進展につれて天和・一兀緑期から藩初の銀座的特権町人に代って新しい問屋層の拾頭

が著しくなる︒而してこれらは︑地域的にも新たに本町以外地子町階層の間からも輩出していることが注目せられ 座の外︑この蝋燭座と米中買座のみであったが︑中買座の如きは︑はじめ濫立せるも後にはもつとも株仲間的色彩の濃いものとなった︒右棟取・肝煎をも︵業種はいずれも株立・ないし鑑札で統制左受け運上・冥加を納めるが︑年額役銀を納めるものの外︑品物口銭で闇屋独占の下に支配されるものもあったわけである︒因みに天保九年三月︑肝煎統制存外された業種を挙げるど︑桧物・油・蝋燭・鍜冶・室︵以上二は元治元︒二月︶・豆腐・八百屋物・蓑笠・呉服・質・紙・麦・袴︑傘・薬種〜桶・味噌醤油・寶付︑および茶吟味人︵茶は文化五年から株立︶・綿直段間・大豆闇屋吟味人・薬種吟味人・木綿判押役である︵町役人名帳︶︒

︵片岡︶

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