奈良教育大学学術リポジトリNEAR
郡山藩の年貢動向と松波勘十郎の改革
著者 塩谷 行庸
雑誌名 高円史学
巻 12
ページ 15‑34
発行年 1996‑10‑01
その他のタイトル Trends of Land‑tax in the Koriyama Clan (郡山 藩) and the Reform of Matsunami Kanjuuro (松波 勘十郎)
URL http://hdl.handle.net/10105/8727
郡山藩の年貢動向と松波勘十郎の改革
は じ め に
塩 谷 行 庸
幕藩制の経済構造の基本は︑石高制に基づく米納年貢制とその商品化市場にある︒近世を通して最大の商品である米に対
して︑それを如何に収奪するかは幕藩領主の最大の問題であった︒それが如何になされたのかを解明することは︑幕藩制の
経済構造の基礎を解明するということになる︒それゆえ︑近世貢祖については戦前以来︑徴税法や石代納を中心にかなりの ︵1︶ ︵2︶ 研究蓄積がなされてきた︒畿内についていえば︑まず森杉夫氏の幕領を対象とした一連の研究をあげることができよう︒し
︵
3 ︶
かし畿内諸私領における年貢動向や年貢制度をとりあげて研究したものは多くない︒大和国についても同様であり︑本稿の
考察対象である郡山藩の教組法や年貢動向については各市町村史を除けば︑幕領を考察した際に比較として提示された谷山
Tこ
正道氏の研究があるにすぎない︒
本稿では以上のような研究状況を念頭におきつつ元禄期を中心とした郡山渚の年貢収奪の推移︑年貢収奪のもとになる賦
課方法に留意しながら︑松波勘十郎らによって実施されていた当該期郡山藩の年貢政策についてもできうる限り明らかにし
一15一
た い
と 思
う ︒
郡山藩は大坂の陣の結果︑京・大坂の押さえの要として元和元︵一六一五︶年に水野勝成が大和国内六万石で入封したこ
とにはじまる︒この後度々藩主の交代と所領の移動が行われている︒右記の水野勝成は元和六︵一六一九︶年に備後国福山
に移り︑松平忠明が入封する︒松平忠明は大和・河内で十二万石を領有するが寛永二ハ︵一六三九︶年に播磨国姫路に移封
される︒同年︑本多政勝が大和・河内で十五万石を領有して入封する︒この本多氏は二代で陸奥国福島へ移される︒この本
多氏の時代に一時︑郡山藩では最大の十九万石になるのである︒また︑こ
〈蓑1〉郡山藩の藩主変遷
藩 主 在 任 期 間
水 野 氏 (一 代 ) 元 和 元 年 7 月 2 1 日〜 元 和 5 年 8 月 4 日 松 平 氏 (−一 代 ) 元 和 5 年 10 月 〜 寛 永 16 年 3 月 3 日 本 多 氏 (二 代 ) 寛 永 1 6年 4 月 1 8 日〜 延 宝 7 年 4 月 2 4 日 松 平 氏 (一 代 ) 延 宝 7 年 6 月 2 6 日〜 貞 享 2 年 6 月 2 2 日 本 多 下 野 守 忠 平 貞 享 2 年 9 月 1 5 日〜 元 禄 8 年 10 月 1 5 日 本 多 能 登 守 忠 常 元 禄 8 年 1 2 月 1 2 日〜 豊 永 6 年 4 月 17 日 本 多 信 濃 守 忠 直 宝 永 6 年 6 月 〜 享 保 2 年 5 月 8 円 本 多 唐 之 助 忠 村 享 保 2 年 6 月 2 7 日 〜 享 保 7 年 9 月 3 0 日 本 多 喜 十 郎 忠 烈 享 保 7 年 11 月 〜 享 保 8 年 1 1月 2 7 日 柳 沢 氏 (六 代 ) 享 保 9 年 3 月 1 1 日〜 明 治 2 年 6 月 17 日 註)本妻は註(5)(6)および『ふるさと大和郡山歴史事典』
(大和郡山市刊、1壬好7年)より作成
の本多氏は後に来る本多氏と区別するために特に前本多氏といわれている︒
そして︑延宝七︵ハ七九︶年に松平信之が八万石で入ってくるが老中就
任に伴い下総国古河へ移るのである︒ついで貞章二 ︵一六八五︶年︑本多
忠平が十二万石で入封し︑その所領の範囲は以前と同じく大和・河内国︑
そして郡山藩でははじめて近江国に所領をもつようになった︒この本多氏
は先にも述べた理由で後本多氏とよばれている︒この本多氏は享保八
︵一七二三︶年に無嗣断絶となり︑翌享保九︵一七二四︶年︑徳川綱吉の側
用人から大老にまでなった柳沢吉保の子︑柳沢吉里が十五万石で甲斐府中
︵ 5
︶
より入ってくる︒以後明治維新まで柳沢氏が藩主をつとめるのである︒︵表
1 参
照 ︶
本稿で対象とするのは後本多氏の時期︵貞享二年〜享保八年︶ であり︑
〜16−
その所領については大和国添下郡・式下郡・広瀬郡・十市郡・葛下郡・平群郡︑河内国讃良郡︑近江国神崎郡・蒲生郡・浅
︵ 6
︶
井郡で十二万石である︒本稿では︑郡山落後本多氏の年貢動向を見る対象として大和国中地域をとりあげる︒なかでも添下
郡の山田村・賓音寺村︑十市郡の上品寺村を中心とする︒右の三ケ村は元和期より明治維新まで継続的に郡山藩領であった︒
ただ︑上品寺村は享保七二七二二︶年に本多喜十郎が急逝し︑弟時之助が聾封するさいに五万石に減知されており︑一時
︵ 7
︶
的に幕領となっている︒
一 年 貢 の 動 向
︵ 8
︶
まず︑衷2の十市郡上品寺村の年貢収奪を見ていただこう︒村高は四四〇・三石である︒年貢免状には本年貢高・総取米
高・口米高・夫米高の記載があり︑取米高の村高に対する免率も計算によって明らかになる︒本年貢高について︑貞享二
︵ハ八五︶年以降一定の年貢高をみせつつ元禄五︵ハ九二︶年まで上昇している︒元禄六︵一六九三︶年は不作だった
のか﹁早損引﹂が大きく極端に低い数値を示している︒しかし元禄七︵ハ九四︶年には前々年に比べて三五・二四四石︑
約一〇・六パーセントの上昇をみせ︑さらに上昇を続け︑元禄九︑一〇︵ハ九六︑一六九七︶年には本稿対象時期におい
て最大である三八三・〇六一石にまで上昇している︒こうした︑極端な上昇をみせる直前年の元禄五︵一六九二︶年と比べ
ると五〇・六三四石︑約一五・二パーセントの増加である︒この後二石余の減少をみせ一定化するがすぐにピーク時の数値
に戻るものの︑一定化しっつ徐々に減少している︒享保八︵一七二三︶年は︑はじめに記述した通り幕領になっているため
にそれまでの年貢高との推移とは全く違う数値を示している︒本年貢実収高は︑本年貢とほぼ同じ推移を見せている︒数値
一17−
(表2〉 郡山渚年貢収奪一一覧
卜 間 欄 , 「. 品 、 1ご 村 添 ド 楯 頗 普 寺 村
年 号 (年 次 ) 本 年 貞 高 僻 貞実鵬 高 免 総 取 米 高 本 年 貢 高 僻 破 鵬 高 免 総 取 米 高
貞 享 2 (16 8 5 ) 3 2 4 .9 4 1 3 12 .g 引 0 ,7 10 7 3 12 .9 4 1 6 83 .7 9 8 56 3 .2 98 仇 4 3 5 6 5 6 3.4 0 8 貞 享 3 (16 8 6 ) 3 3 1 .5 4 6 3 3 1 .54 6 0.7 5 3 0 3 3 1 .5 4 6 5 7 2.4 6 5 27 .4 9 0 .44 2 7 5 2 7 .6 貞 享 4 (16 87 ) 3 3 0 .2 2 5 3 3 0 .22 5 0 .7 5 3 3 0 .2 2 5 5 99 .4 9 58 軋 4 9 0 .45 5 8 5 8 9 ,6 元 禄 1 (1 6 88 ) 3 3 0.2 2 5 3 3 0 .2 2 5 0 ニラ㌃ 3 30 .2 2 5 6 04 .3 3 8 59 9 ,3 38 0 、4 6 3 5 5 9 凱 4 4 8 元 禄 2 (18 鍋 ) 3 3 臥 2 2 5 3 3 0 .2 2 5 0 .元  ̄ 3 3 0 .2 2 5 6 14 .0 3 3 6 1 4.1 4 3 0 .47 4 9 6 14 .14 3 元 禄 3 (16 90 ) 3 3 2 .4 2 7 3 3 2 .4 2 7 0 .7 5 5 0 3 3 2 .4 27 6 14 .0 3 3 6 14 .0 4 3 0 .4 7 4 9 6 14 ,14 3 元 禄 4 (1 6 9 1 ) 3 3 2.4 27 3 3 2 .4 2 7 軋 7 55 0 3 32 .4 27 6 23 .7 2 9 62 3 .7 29 仇 4 8 2 3 6 2 3 .8 3 9 元 禄 5 (1 6 92 ) 3 32 .4 2 7 3 3 2 .4 2 7 0 .7 55 0 3 32 ,4 27 6 23 .7 2 9 6 2 1.7 2 9 0 .48 0 8 6 2 1 .83 9 元 禄 6 (1 6 93 ) 1 2 1.6 4 9 1 2 1 .6 4 9 0 .2 76 2 138 .5 07 7 8 1.8 7 6 78 1.8 76 0 .6 0 4 6 8 4 3 .7 6 3 元 禄 7 (1 6 94 ) 36 7 ,6 5 1 3 67 .6 5 1 0 .8 35 0 3 9 1.8 9 7 4 0 .6 4 2 74 0 .64 2 0 ,5 7 2 7 8 0 1.2 7 3 元 禄 8 (1 69 5 ) 36 9 .8 5 2 3 6 9.8 5 2 前 ㌃ 3 94 .】57 7 6 9 ,】3 6 76 9 .1 36 0 .59 4 8 8 3 0,6 2 1 元 禄 9 (1 6 96 ) 38 3 .0 6 1 2 93 .0 6 1 0 .86 5 5 3 15 .0 62 7 7 3 .1 8 5 76 0 .18 5 0 .5 8 7 9 8 0 6.6 6 6 元 禄 10 (1 69 7 ) 38 3 .0 6 1 3 83 .鵬 1 0 滴 「 40 7 .7 62 7 7 3 .18 5 7 4 8 .18 5 0 .5 7 86 8 04 .6 0 6 元 禄 1 1(16 9 8 ) 3 8 仇 8 6 38 仇 8 6 0 .8 6 5 0 4 0 5 .4 95 7 6 7 .08 8 7 6 2 ,58 8 0.5 8 97 8 j 9.4 2 1 元 禄 1 2 (1 69 9 ) 3 8 0 .8 6 34 7 .8 6 0 .79 0 0
0 .82 4 1
37 1.5 05 7 8 7 .0 34 7 1 0 .03 4 0 .5 4 9 1 7 6 5.2 8 8 元 禄 1 3 (17 両 ラ 3 8 0 .8 6 36 2 .8 6 38 6 .9 55 7 6 7 .03 4 56 0 .03 4 0 .4 3 3 1 6 10 .7 8 8 元 禄 14 (1 70 D 3 8 0 .8 6 24 仇 8 6 仇 54 7 1) 26 1、2 95 7 6 7 .03 4 6 8 7 .03 4 0 .5 3 13 7 4 1.5 9 8 元 禄 1 5 (17 0 2 ) 3 8 0 .8 6 37 0 .8 6 0 .84 2 2 39 5 .1 95 7 6 7 .0 34 7 5 9 .53 4 0 .5 8 74 8 18 .0 7 3 元 禄 1 6 (17 0 3 ) 3 8 0 .8 6 38 0 .8 8 0 ,8 6 5 0 4 0 5 .4 95 7 6 8 .63 7 7 6 2 .4 3 7 0 ,5 8 96 8 19 .3 3 3 宝 永 1 (17 0 4 ) 3 8 0 .8 6 38 0 .8 6 0 .8 6 5 0 4 0 5 、4 9 5 7 6 8 .8 3 7 7 6 8 .6 3 7 0 .5 94 4 8 25 .7 1 9 宝 永 2 (17 0 5 ) 3 8 3 .0 6 1 38 3 .0 6 1 五 嘉 4 0 7 ,7 62 7 7 4 .28 9 7 6 4 .28 9 0 .5 9 10 8 2 1.2 4 1 宝 永 3 (17 0 6 ) 3 8 3 ,06 1 38 3 .0 6 1 面元 テ 4 0 7 ,7 62 7 7 4 .90 2 7 6 9 .90 2 0 .5 9 54 8 27 .0 4 9 宝 永 4 (17 0 7 ) 3 8 3 .0 6 1 36 3 .0 6 1 仇 8 2 4 5 3 8 7 ,16 2 7 7 4 .9 0 2 7 6 臥 4 0 2 仇 5 9 5( I 8 26 .5 34 宝 永 5 (17 0 8 ) 3 8 3 .0 6 1 3 37 .0 6 1 0 ,7 6 5 5 36 0 .38 2 7 7 4 .90 2 6 0 4 .90 2 0 .4 67 8 6 57 .0 9 9 宝 永 6 (17 0 9 ) 3 8 0 .8 6 38 0 .86 0 .8 6 5 0 4 0 5 .4 9 5 7 6 9 .2 4 6 6 4 9 .2 4 6 0 .5 02 1 7 02 .77 4 宝 永 7 (17 1 0 ) 3 8 0 .8 6 3 8 0 .86 0.8 6 5 0 4 0 5 ,4 9 5 7 6 9 .2 4 6 7 6 】.2 4 6 仇 5 88 7 8 1 .は 4
正 徳 1 (17 日 ) 7 6 9 .2 4 6 7 5 2 .2 4 6 0 .5 8 17 8 08 .86 4
正 徳 2 (17 1 2 ) 7 6 9 .2 4 6 6 8 5.2 4 6 0 .5 29 9 7 3 9 .85 4
正 徳 3 (1 7 1 3 ) 37 8 .6 5 8 3 7 8 .6 5 8 0 .8 6 4 0 3 .2 27 7 63 .5 9 7 46 .5 9 仇 5 77 3 8 0 3 .03 8 正 徳 4 (1 7 】4 ) 3 7 8,6 5 8 2 5 9 .85 8 0 .5 8 97 2 8 0 .6 5 7 7 33 .6 2 5 2 2.6 2 0 .4 04 1 4 7 3 .68 8
正 徳 5 (1 7 1 5 ) 7 33 .6 2 6 88 .6 2 0 .5 32 5 7 4 7 .66 8
享 保 1 (1 7 1 8 ) 37 8 .6 5 8 3 3 6 .6 5 8 0 .7 64 6 3 5 9.9 67 7 33 .6 2 7 26 .6 2 0 .5 6 19 7 8 6 .8 0 8 享 保 2 (】7 17 ) 34 7 .8 3 7 3 4 7 .8 3 7 一 打 テす ̄ 3 7 1.4 8 1 6 90 .9 面 前 i 0 .5 34 3 7 5 0 .0 16 享 保 3 (1 7 18 ) 37 8 .6 5 8 1 4 0 .6 5 8 0 .3 19 4 1 5 8.0 87 7 34 .0 5 1 7 34 ,0 5 1 0 .56 7 6 7 9 4 .4 6 2
享 保 4 (1 7 19 ) 73 4 .0 5 1 7 34 .0 5 1 0 .5 ( 汀 6 7 9 4 .4 6 2
享 保 5 (1 72 0 ) 3 7 8 .6 58 2 92 .6 5 8 0 .66 4 6 3 14 ,6 47 73 4 .0 5 1 73 4 .05 1 0 ,5 6 7 fi 7 9 4 ,4 6 2 享 保 6 (1 72 1) 37 8 .6 58 2 97 .6 5 8 0 .67 6 0 3 19 .7 97 73 4 .0 5 1 7 26 .0 5 1 0 .5 6 1 5 7 8 6 .2 2 2 享 保 7 (17 2 2 ) 37 8 .6 58 3 14 ,6 5 8 0 .7 14 6 33 7 .3 07 7 3 4 .0 5 1 6 6 9 .05 1 0 .5 17 4 7 27 .5 1 2 享 保 8 (1 72 3 ) 2 4 3 .6 28 24 3 .6 2 8 0 .55 3 3 25 6 .83 7 7 3 4 .05 】 7 0 3 .05 1 0 .5 4 37 7 6 2.5 3 2
註)1.十市郡上品寺村の村高は440.3石、添下郡爵音寺村の村高は1293.03石である(各村の年貢免状に よった)。本年東高と本年貢実収高の相違は、年貢免状上、取米記載後に作遠検見引などの臨時 の引があるのでそれをここで等人したためてある。総取米高は本年覇実収高に日米・夫米などの 付加年貢を加えたものである。単位はイi.,
2.高免は本年頁実収高を付高で割ったものである。小数点第5位以下を切り捨てた。
3・作表にあたって、十軒郡上品寺村についてはl二拍家文台、添下郡療音寺村については奈良市尼ヶ 辻町東方ノk利糾合有文おの年貢免状を使用した。
−18−
︵9︶
の相違については︑﹁早損引﹂﹁作連検見引﹂といったその年のみの臨時の﹁引﹂が認められている年があるためである︒高
免については︑当初より七五パーセント前後を維持している︒元禄七︵一六九四︶年に八五パーセント前後に上昇し︑臨時の
﹁引﹂の影響で上下しながら推移するものの︑正徳三︵一七一三︶年を最後に八〇パーセント台を維持できなくなり減少し
て い る ︒ 総 取 米 高 に つ い て は ︑ 元 禄 五 ︵ 一 六 九 二 ︶ 年 ま で は 本 年 頁 高 ︑ 本 年 ユ 貝 実 収 高 と 同 じ 数 値 を 示 し て い る ︒ 元 禄 六 ︵ ハ 九 三 ︶
年は本年貢高が低いためも低く表れているが︑本年貢実収高より若干増えており︑こうした状況が享保八︵一七二三︶年ま
で続いている︒これは︑元禄六︵一六九三︶年以降︑村高に三パーセントの夫米︵上品寺村は一三・二〇九石︶︑取米高に
︵ 1
0 ︶
三パーセントの口米高が要求されているためである︒享保八︵一七二三︶年については夫米のみの賦課になっている︒
︑ ︑
次に同じ表2の添下郡語音寺村の例をみていただきたい︒村高は二一九三・〇三石であり︑この村高には小物成高大分と
して〇・二七五石が加算されている︒本年貢高は後本多氏入封の翌年貞享三︵ハ八六︶年以降上昇傾向である︒元禄六
︵ハ九三︶年には前年に比べて一五八・一四七石︑約二五・三パーセントの上昇をみせている︒この年が賓音寺村の場合
のピークである︒元禄七︵一六九四︶年には四一石余の減少をみせている︒以降は一定化をみせつつ上下している︒本年亘
実収高については上品寺村の場合と同じく﹁早損引﹂﹁作達検見引﹂等の﹁引﹂がなされているため本年貢と相違がみられ
る︒また﹁引﹂が加わるためl定化はほとんどみられないものの大きな推移は本年貢とほぼ同じである︒高免については︑
元禄五︵一六九二︶年迄は五〇パーセントに達しないもののこれを目指すかのように上昇している︒元禄六︵ハ九三︶年
の六〇・五パーセントをピークに減少するが五〇パーセント台を維持している︒総取米高は賓音寺村の場合︑村高に三パー
セントの夫米︵粛音寺村の場合三三・九三七石︶︑取米高に三パーセントのロ米︑及び〇・一一石の小物成を算入している︒
この推移もやはり︑元禄五︵ハ九二︶年へむけて上昇している︒元禄六︵ハ九三︶年には前年と比べて二二一・九二四
ー19−
〈衣3〉 出田村年員収軒一一覧 総取米高
366.66 350.314 352.314 355.03 358.267 358.267 247.746 362.746 429.847 424.614 432.124
427.】06 386.936
395.176 405.476 4】8.806 415.776 415.347 409.167 391.657 407.622
403.004 401,047 381.186 238.274
331.568 318.904
3的.374
374.524 343.924
年 号(年次)
貞享2(1685)
貞亨3(1686)
貞享4(1687)
元禄1日688)
元禄2r1689)
元禄3(1690)
元禄4(1691)
元禄5日692)
元禄6日鍋3)
元禄7(1694)
元禄8(1695)
元禄9(1696)
元禄用日697)
元禄11日698)
元禄12(1699)
元禄13(1700)
元禄14(1701)
元禄15(1782)
元禄16(1703)
宝永1(1704)
宝永2(1705)
宝永3(1706)
宝永4(1707)
宝永7(1710)
正徳1日711)
正篠2(1712)
正徳3(1713)
正徳4(1714)
正徳5(171
5)享保1(1716)
享保2(1717)
享保3(1718)
童画石膏1両 享保5し1720)
享保6(1721)
享保7(1722)
8(1723)
註)1.『御免代三拾ノL年ノ 御取米等』より作成。
この史料は谷山正道 氏より御教示いただ
いたい
2.村高は元禄郷帳では 545.879石である。,
石︑約二六・三パーセントとそれまでの上昇と比べものにならない増加を示している︒この後享保八︵一七二三︶年まで
八〇〇石前後で推移している︒
︵ 1
2 ︶
最後に︑表3の添下郡山田村の場合を見ていただこう︒村高は五四五・八七九石である︒山田村は正徳三︵一七一三︶年
段階で小物成・夫米・口米が課されている︒表3では残念ながら総取米高しかわからないので︑これで考察する︒総取米高
は︑元禄五︵一六九二︶年まで毎年増え続けているが︑元禄六︵一六九三︶年には前年よ旦ハ七二〇一石︑約一八・五パー
セントの増加をみせている︒この年をピークとして︑この後正徳二︵一七一二︶年まで四〇〇石前後を維持している︒正徳
三︵一七一二︶年以降四〇〇石を割り込んだまま戻らなくなる︒
以上︑郡山藩後本多氏の三つの村を対象にその年貢動向をみてきた︒共通点としては元禄期が年貢のピークであり︑その
画期は村によって差はあるもののはぽ元禄五〜八︵ハ九二〜ハ九五︶年にある︒なかでも元禄六︵ハ九三︶年はニケ
村でピークを迎えている︒次章ではこうした推移の要因となる政策についてみていくことにする︒
−20−
二 松波勘十郎の年貢政策
前章によって郡山藩では元禄期に年貢の大きな変動があったことが確認できた︒次にあげる史料は享保一〇︵一七二五︶
年における一揆の史料とされているものである︒この一揆は︑﹁御城之口﹂へ五〜六千人も詰め掛ける﹁是迄終二不聞及騒
︵ 1
3 ︶
動﹂であったといわれている︒
︵ 1
4 ︶
へ 史
料 一
︶
乍恐御訴訟中上候御専
一︑葛下郡北今市村之義︑本多内記様御代二亡所仕百姓落夫中二付︑地改被為仰付︑田畑打詰平シ屋敷共二斗代壱反二付
弐石壱斗余二相当申付︑右之訳地改役人β被中上候二付︑郷中にて壱損下免二被為成下候仕候得共︑年々御勘定立不
申故︑毎年御用捨米請漸ミ勘定仕候︑松平日向守様御代右之訳御訴訟申二付︑披為聞届被下御免五ツ弐分二被為仰残
一21−
其後本多下野守様御代も同免二御座候処こ︑松浪勘十郎と申役人被召抱︑御領分共二高免二罷成︑惣百性及難儀申候︑
廿年以前本多能登守様御代御勘定立不中二付︑銀子拾貫目余御拝借被為中山と申所へ屋敷替被仰付︑只今之居村二御
座 候
︑ ︵
以 下
略 ︶
右の︵史料Dによると本多下野守︵忠平︑後本多氏初代︶の時期に松波勘十郎なる人物が召し抱えられたことがわかる︒
また︑次の︵史料二︶は︑寛延元︵一七四八︶年の願書の藩側の質問に対する陳述である︒
︵ 1
5 ︶
︵ 史
料 二
︶
本書面御不審之段御尋被為成候返答口演
第初段
一︑土厘之儀凡五十六七年こもおよひ可中上奉存候
本多下野守様御代松並勘十郎殿御執頭之時節二相究り申事二候へハ︑全心寛カセ成義二而ハ無御座候
其後能登守様御代二郷中大庄屋役料米井村役人共納方諸事御用二付︑御当地へ罷出候節︑町宿賄米右両品郷申掛御赦
免被為成︑御上占被下置候︑其代りこ土免五厘方御取増被仰付︑於干今増免御請申罷在侯︑︵以下略︶
この︵史料二︶ でもまた︑本多下野守の時に松波勘十即が藩の政治を執っていたことがわかる︒そのうえ︑寛延元
︵一七四八︶年から五十六七年前となるとちょうど元禄五・六年にあたる︒以上二つの史料と前章の各表から︑元禄期に郡
山藩では松波勘十郎をもって農政の改革を行っていたことは間違いない︒
この松波勘十郎なる人物は︑林基氏が一連の研究によって︑美濃加納の元庄屋で全国各地をまたにかけて改革を行った
﹁勘者﹂とよばれる改革請負人の一人であることが確認されている︒かれは備後三次藩︑陸奥棚倉藩︑水戸藩などで改革に
携わっていたことが知られている︒しかしながら現在のところ︑郡山藩での松波の活躍は︑林氏の研究による近江国におけ
︵ 1
6 ︶
る領地以外はほとんどわからないのである︒そこで︑松波によって打ち出されたと考えられる各政策を検討したいと恩う︒
一22−
︵1︶﹁請地﹂の撤廃︑口米・夫米の設定
まず第一の政策として指摘できるのは年貢の増徴である︒添下郡賓音寺村の例を示そう︒
︵17︶
︵ 史
料 三
︶
申歳免定事
︵18︶︵ 史
料 四
︶
子歳免定事
一高千弐百九拾三石三斗
内七石七斗五升五台
残千弐百八拾五石弐斗七升五台
内分
八百弐拾弐石五斗八台
取米四百弐拾七石七斗四台
百四拾七石三斗五合
取米六拾九石八斗四升式台
三百拾五石四斗五升七台
取米百弐拾六石壱斗八升三台
弐斗七升五台
取米壱斗壱升
取米〆六百弐拾三石八斗三升九台
内 弐石 年寄治左衛門救引 添下郡賓音寺村 寅ノ年古池床引 田畑毛付屋敷共
免五ツ壱分
請地
四ツ七分五厘
請地 四ツ取
小物成高大分
免定四ツ取
右之通村中百姓出作入ホ道立合無甲乙被免割来極月十五
日巳前急度可致皆済者也
岡本甚助㊥ 一高千弐百九拾三石三斗
内分
千弐百九拾二石七斗五升五台
内
百六拾壱石三斗五升三台
添下郡賓音寺村
富子地揃荒地引
壱石八斗
九升
八斗九升五台
五斗二升
八升 庄屋居屋敷引
郷蔵屋敷引
出屋敷村庄屋居屋敷郷蔵屋敷引
三条村庄屋居屋敷引
同村郷蔵屋敷引
一23−
小以百六拾四石壱升八台
残高千百弐拾八石七斗三升七台
此取米七百七拾三石壱斗八升五台
弐斗七升五台
此取米壱斗壱升
取米〆七百七拾三石弐斗九升五台
内 弐拾三石 毛付
六ツ八分五厘
小物成高大分
免定四ツ取
作遵分検見引
元禄五壬申年十月
坪内久兵衛⑳
松本善左衛門⑲
松本伊左衛門⑳
大井田十郎兵衛⑳
村沢藤左衛門⑳
脅音寺村
庄屋
百姓中 残七百五拾石弐斗九升五台
外
米弐拾弐石五斗九台
米三拾三石八斗六升弐合
米合八百六石六斗六升六合
右之通村中百姓出作人造立合無甲乙被免割来霜月中急度
可皆済者也
元禄九丙子十月 坪内久兵衛⑳
岡本甚助⑳
庄屋
百姓中
−24−
右の︵史料三︶︵史料四︶より︑元禄九︵ハ九六︶年に﹁請地﹂と称される年貢率の低い土地が見られなくなるのであ
る︒元禄五︵一六九二︶年の裔音寺村の場合︑本年貢地は毛付高に対して五ツ弐分︵五二パーセント︶であるが︑﹁請地﹂
では四ツ七分五度︵四七・五パーセント︶︑四ツ︵四〇パーセント︶と最大で約一二パーセント軽減されている︒こうして
負担に差が認められていた年貢率が一本化されることによって年貢高が上昇するのである︒︵史料三︶では︑一六四石余の
諸引が認められているものの﹁請地﹂に匹敵する免除ではないため︑年責の上昇につながる一つの要因となっている︒しか
︵19︶
し︑こうした年貢率の低い土地の撤廃は︑現実にそぐわなかったのか︑享保二年に﹁出屋敷分﹂︑柳沢氏の時代になると
︵ 2
0 ︶
﹁取下ケ﹂といった名称で年貢率も﹁請地﹂に相当する年貢率で復活している︒
また︑前章の表では元禄五〜六︵一六九二〜一六九三︶年にかけて急激な総取米高の上昇が見られた︒これは︑口米・天
来といった付加年貢がこの時から要求されているからである︒口米は取米高に対して三パーセント︑夫米は村高に対して三
パーセントの負担である︒ロ米は不作などの関係で不定であるが︑夫米は毎年一定の収奪が見込める︒しかし︑作柄が一定
になると共に収奪の大きな位置を占めうる︒以上見てきたことを総合すると︑藩当局には何としても年貢の増徴を行うとい
う意気込みが感じられる︒
︵ 2 ︶ ﹁ 土 免 ﹂ 仕 法 の 改 革
次に述べるのは︑︵1︶で述べた収奪を行うために藩当局が実施したであろう仕法である︒以下は︑享保期の史料をもっ
て復元するため︑元禄期のものはこれによって推定する︒
︵史料五︶は十市郡上品寺村で付近の大庄屋をつとめていた上田家に残っていた﹃諸紳録﹄という大庄屋の控書にかかれ
ている一節である︒
︵
2 1
︶
︵ 史
料 五
︶
一︑郡山御領分御免定 本田中務様御時分占
以来本多信濃守様這
25
春免二被仰付候処︑雷酉︵享保元年日華者注︶四月十五日今年者秋免御毛見被遊御免定被仰付︑最早春免者御止可被
成由︑四月十五日御代官所こて被仰渡候︑本多信濃守様御代也
︵ 中
略 ︶
二生免高廿五年以前元禄六発酉年占卸やふり被成候二付︑前〜之通被仰付被下候か︑又ハ何分こなり共古来茜例家〜規
模改績不仕様二被仰付被下候様こと井郷蔵屋敷高ノ事願書酉五月十五日清次郎御代官所へ持参上置候︑︵後略︶
︵史料五︶の傍線部によると︑本多中務大輔政長から本多信濃守忠直の時代まで︵藩主在任期間は寛文年上享保二年︶
の問︑春免であった︒しかし享保元︵一七一六︶年からは秋に検兄の上で年貢を決定する方式に変化したとある︒その上で
生免高︵いかなるものかは現在の所不明︑﹁土免高﹂の誤りかと思われる︶が元禄六︵一六九三︶年に変更されたとある︒
つまり松波による改革が行われる以前に︑前提として春免がとられていたことがわかる︒しかし︑年貢免状の発行は前に
みたように秋である︒こうした改革は松波勘十即によるものであろう︒
︵史料六︶は︵史料五︶と同じく上田家に残っている廻状写にみえる享保四年八月八日付の触書である︒
︵ 2
2 ︶
へ 史
料 六
︶
ー26−
村方普立毛︑土免之通二而御講有之候村ハ︑申年土免二両相願申候との書付可被遺候︑又ハ御検見相願之村ハ︑御検
︵ 虫 姐 ︶
見奉願候□□書付可被遺候
︵ 頭 姐 ︶
︵ 虫 姐 ︶
稲方申年土免二而相願可申候︑木綿之御見分□願口と有之候村ハ︑其通書付可被遺候
一︑稲方木綿申年土免二而相願申候組畠方斗り御見分奉願候と有之村ハ︑其適書付可被遺候
右村々とくと相極候て︑垂而滞り無之様二能〜吟味候て︑近日書付可被遺候以上
︵史料六︶によると︑①享保四︵一七一九︶年の段階では申年おそらくは享保元︵一七一六︶年の年貢高ないし年貢率が
﹁土免﹂という名称で継続的に維持されている︒②秋八月の段階で﹁土免﹂を選択するか︑﹁検見﹂を選択するかは農民側の
意思で選択できる︒また︑﹁稲方﹂︑﹁稲方木綿﹂︑﹁白田方﹂といった田畑毎の選択も可能である︒という二点が特徴として上
げ ら
れ る
︒
︵ 2
3 ︶
ここで︑水本氏が明らかにされた土免との関係が問題となろう︒氏は︑土免について︑①土免制における免は土壌善悪を
基本に決定する︒具体的には︑過去の実績を参考として土免を算出し︑本高ないしは毛付高に対する年貢率とする︒②百姓
の動向︑過去の出来具合︑過去の年貢率などを加味しっつ︑毎年もしくは一定の期間を定めて免を動かす︒⑨免提示は︑立
毛出来以前︑なかんずく春に行われる場合が多い︒④この免は︑基本的には土壌善悪について︑具体的には土地台帳等に基
づいて︑割り付けられる︒⑤土免制は︑農民側の選択意思を許容している︒⑥王免制は︑検見による免決定コースを内包し
ている︒とされている︒郡山藩での﹁土免﹂をみると︑毛付高に対して免率を設定し︑享保元年から継続した年貢率ないし
年貢高であり︑農民が検兄と土免の選択権をもっていることから①②⑨⑥の要件を一部または全面的に満たしている︒④に
ついては現状ではわからない︒⑧の春免については︑水本氏は土免の枠外であるとされている︒以上のことから︑郡山藩の
﹁土免﹂は語義的にはほぼ水本氏のいわれる土免と共通性をもつものと認められるものの︑これ以上は不明である︒
最後に︑前に提示した︵史料二︶をみていただこう︒冒頭部分に﹁土厘之儀凡五十六七年こもおよひ可中上奉存候﹂とあ
る︒この史料は寛延元︵一七四八︶年のものとしたが︑そこから逆算すると土厘は︑松波勘十郎によって元禄五〜六
︵ハ九二〜一六九三︶年に設定されたとわかる︒そして︑本多能登守︵忠常=筆者注︶ のときに﹁大庄屋役料米﹂と﹁町
宿賄米﹂が免除されるにあたって﹁土免﹂が﹁五厘方御取増﹂になったとあり︑またこの史料においては﹁土免﹂と土厘が
ー27−
ほぼ同義で使用されていることがわかる︒松波勘十郎による﹁土免﹂仕法の改革︵新たな年貢率としての﹁土免﹂=土厘の
設定︶は後年に至るまで郡山藩の徴租法に強い影響を与えていた点に注目しておきたい︒
︵3︶庄屋特権の限定
︵ 2
4 ︶
まず︑次の史料をみていただこう︒これは︑十市部上品寺村に残っている元禄期の願書である︒
︵
2 5
︶
へ 史
料 七
︶
乍恐奉願候 上品寺村 清次郎
私先祖七代以前御地頭様従越智家信公︑天正十六年戊子年其節所持仕来罷在候高之分諸役御赦免二被為仰付被下御書
頂戴仕︑元禄五壬申年迄百五年之閉講役相掛り不申候︑真上数代居屋敷御除地二而御座候︑然所元禄六突酉年御赦免
高相止︑庄屋給米二仕候様こと被為仰付奉畏︑それより新二役高二罷成申候︑右御書之面詰役御赦免被為仰付被下儀︑
庄屋給米之料と有之様こも相見え不申候︑則御書之写差上申候︑従先祖数代御赦免高二而御座候虞︑給米と御座候儀︑ ︵ 拇 印 目 付 役 ︶ 先祖の謹例相絶申候段悲歎之至奉存候得共︑御意を違背仕候儀恐多奉存奉畏候︑其節小山弥兵衛様迄中上候者︑御仕
置改二付菌例虞替被為仰付候旨︑御書付二而も被下置候様二奉願候へハ︑垂而指も可有之と被仰候二付︑奉得其意罷
過申候︑然者又一両年□右酉年御仕置改り申儀以願前ミ之通被為仰付侯品も御座候様二承知仕候二付︑私儀も乍恐奉
願候︑郷蔵屋敷高之御物成前ミ者惣村分占相納申候虞︑是又右酉年占私壱人二相納申候様と被為仰付候︑是ハ私居屋
敷御除地二而御座候︑依之私壱人二被為仰付候様二相聞申候︑此上少〜儀二御座候へ共少〜而も御年貢上納仕りへハ
御除地と申詮も相立不申候様二奉存候︑先祖累代之規模断絶仕候段歎ケ敷奉存候︑乍恐何分こも家名はかり成共相残
ー28−
申様二被為仰付被下候ハ1︑有難可奉存候以上
これによるとまず第一に︑今までは惣村分より納めていた郷蔵屋敷と除地になっていた庄屋屋敷分の年貢が元禄六︵一六
九三︶年より新たに庄屋負担分となったことがわかる︒また︑それまで認められていた諸役赦免高すなわち無役高について
も同年に消滅させられていることがわかるのである︒土豪等中間搾取層の得分を否定し︑一職支配の完遂を政策基調とした
太閤検地以後においても屋敷地の除地や無役高といった庄屋特権が継続していたこと︑それが元禄期に至って年貢増徴政策
の一環として撤廃されていることに注目しておきたい︒
もっとも︑郡山藩領内でのこうした庄屋特権の限定は︑この︵史料六︶が残っていた上品寺村の場合︑年貢免状では確認
することができない︒それに対して添下郡賓音寺村の例では正徳四︵一七一四︶年以降の年貢免状において確認できるので
あ る
︒
一29−
︵4︶郷目付役の採用
まず︑︵史料八︶をみていただこう︒この人史料八︶は︑︵史料六︶の続きである︒
︵鵠 し
︵ 史
料 八
︶
御検見御役人中駕籠人足
二駕籠三人 佃久右衛門殿 外二壱大荷物持
一︑駕龍三人 小山弥兵衛殿 外二壱大荷物持
一︑駕籠三人 松原又五郎殿 外二壱大荷物持
一︑駕籠四人 御代官中一挟箱二荷無足中
一︑同心衆荷物持人足弐人
︵ 後
略 ︶
この史料によると検見役人に﹁佃久右衛門﹂﹁松原又五郎﹂﹁小山弥兵衛﹂の名があがっていることがわかる︒当時の分限
︵
2 7
︶ 帳をみると︑個久右衛門は﹁郡代﹂︑松原又五郎は給人並の﹁郡奉行﹂として名前があがっている︒小山弥兵衛は︑当時八
百組の大庄屋であった︒また佃久右衛門は年貢免状にも名前があがっている︒では︑何故大庄屋が検鬼の役人として各村を
巡ったのだろうか︒︵史料七︶によれば︑小山弥兵衛なる人物に﹁郷御目付役﹂との肩書が見られる︒この﹁郷御目付役﹂
︵ 2
8 ︶
なる役職は分限帳にはない︒では︑どのような役職なのだろうか︒松波勘十郎の備後三次藩での事例に﹁郷代官﹂の設置が
あげられている︒この郷代官について畑中誠治氏は︑﹁元禄一二年︑藩は財政の窮乏打開を策し︑領内の農産地および紙・
鉄稼行地に限り︑︵中略︶大庄崖から登用し︑所務役︵藩下僚︶に任命し︑かれらをしてそのまま生産および農民の統制方
︵ 調︶
に任じ︑収奪強化をはかった︒﹂とされている︒この所務役が郷代官なのである︒また︑堀江文人氏は﹁︵前略︶その階層は
村役人層の中でも上層の︑大庄屋級=旧勢力層である︒︵中略︶この郷代官制はさきの百姓生産に対する統制令と対応して︑
より強力にかつ全幅的に百姓生産を統制・収奪せんとする藩支配権力組織の強化であり︑とくに百姓による商品生産の収奪
︵ 3
0 ︶
に重点を置いて設置されたとも見られる︒﹂とされている︒郡山藩においても小山は大庄屋であり︑地域の農業生産の諸状
況に精通していることは十分に考えられる︒以上から考えて︑この郡山藩における郷目付役についても松波による年貢増徴
政策の一環として設置された新たな役職であった可能性が高いと考えられるのである︒
ー30−
おわり に
最後に︑本稿の論点をまとめ直し︑今後の課題と展望を述べてまとめとしたい︒
まず対象とした三つの村の年貢の動向であるが︑元禄六︵ハ九三︶年前後をピークとしてそれまでは上昇し︑以降は下
降傾向を示している︒元禄六年と前年を比べると一〇〜二五パーセントといった大増徴がみとめられる︒ここに郡山藩の農
政についての画期がみとめられる︒
郡山藩では元禄期に松波勘十郎なる勘者を召し抱え︑年貢増徴のための諸改革を実施した︒その改革内容は不明確な部分
も多いが︑今回ある程度明らかにすることができた︒まず従来からの低年貢地を認めず︑村ごとの本年貢率はより高い水準
で一元化された︒あわせて各種の付加年貢も新設された︒また︑それまで認められていた庄屋特権を限定した︒徴税法につ
いては﹁土免﹂仕法の改革が行われたとみられる︒さらに﹁郷目付﹂なる新設役人が大庄屋から選任されることで︑藩側の
支配機構を強化している︒そして︑この時期にとられた政策がこの後も基本政策として継承されている︒特に︑年貢率につ
いては元禄後半から享保期に減少という動きを見せて補正され︑この年貢率が近世中期以降﹁定厘﹂といわれる引くことに
力点のあると思われる新たな教組法につながって行く︒この﹁定厘﹂についても今のところ不明な点が多いが︑別の械会に
考察してみたいと考える︒
本稿は︑事実の紹介にとどまってしまった︒また︑寛文・延宝期とのつながりや︑柳沢時代なかでも武田阿波による改革
との関連も切り離すことのできない事項である︒それについて言及することができなかった︒元禄期についていえば︑松波
勘十郎はよく知られているように郡山藩のはかにも水戸藩︑三次藩︑陸奥棚倉藩などの諸藩においてもはぼ同時期に改革を
一31−
︵31︶