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院政期の祇園御霊会・摂関祇園詣から見た院と摂関

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

院政期の祇園御霊会・摂関祇園詣から見た院と摂関

著者 緒方 美香

雑誌名 高円史学

巻 24

ページ 44‑59

発行年 2008‑11‑30

その他のタイトル Inn (院) and Sekkan (摂関) in terms of Gion‑goryoue (祇園御霊会) and

Settukan‑Gion‑Moude (摂関祇園詣)

URL http://hdl.handle.net/10105/8857

(2)

院政期の祇園御霊会・摂関祇園話から見た院と摂関

は じ め に

緒     方     美     香

祇園御霊会は︑一〇世紀後半︑京中の疫病流行にあたり︑疫神を鎮めるために京の住民によって始められた祭礼であると

されている︒この祇園御霊会への天皇や摂関︑院の関与の変化について︑馬長・馬上の調進を手かかりに︑摂関政治から院

︵ 1

政へという政治史の展開の中に位置づけて論じられたのが五味文彦氏である︒氏が論じられたところを︑本稿での考察に

必要な内容に限ってまとめてみる︒

摂関期において︑摂関家は﹁祇園御霊会に対して一貫して冷淡﹂ であったが︑﹁御霊会の翌日の六月一五日に祇園社に参

詣するのを例として﹂おり︑﹁一〇世紀末には︑京都の都市民によって担われた六月十四日の祇園御霊会と︑摂関家を中心

とした六月一五日の祇園参詣・奉幣とが緊張をはらみつつも共存していた﹂︒一方︑二世紀初頭には蔵人所による馬長調

進が行われるようになり︑以後︑恒例化する︒﹁このことは後の院権力形成の前提となる王権の性格と関連するだろう︒す

なわち摂関家によって忌避された御霊会に王権が積極的に関わっていく所に︑この時期の王権の浸透の方向がはっきり見出

(3)

されるのであるが︑それは同時に都市民を中心とした王権への期待のあらわれでもあったろう﹂︒そして︑白河院政期には︑

祇園御霊会への馬長調進を院が主導する体制が確立され︑摂関による祇回参詣が行われていた翌一五日にも天治元︵二二四︶

年以後﹁公家御奉幣﹂ による祇園臨時祭が始められる︒﹁かくして院は祇園御霊会と臨時祭をあわせた祇園祭の事実上の主

催者となって君臨した﹂が︑﹁これは天皇=蔵人所を中心とした馬長調進の段階から︑王権の伸張に伴う院権力の形成によっ

て︑院権力を中心とした祇園祭の主催の段階へと展開したものと評価でき﹂るとされる︒五味氏が別に荘園整理について考

察された中で︑﹁荘園整理の時代︵長久〜康和︶ は︑荘園整理政策を軸に︑摂関家と王権とが競合した時代であり︑王権を

︵ 2 ノ

基礎に院権力が形成され︑ついには摂関勢力を押さえようとした時代であった﹂と述べておられることと合わせて考えると︑

氏は祇園御霊会をめぐる院と摂関との関係についても︑院権力による摂関家抑圧の現れととらえておられるように患われる︒

本稿では︑摂関政治から院政へという政治史の展開の中で祇園御霊会への摂関・院の関わりを考察するという五味氏の視

覚に学びなから︑摂関家と祇園御霊会について︑また︑祇園御霊会翌日の摂関家による祇園社参詣について︑院政期を中心

に考察し︑そこからうかがうことのできる院と摂関との関係について論じてみたい︒

一祇園御霊会における馬長調進と摂関家

院政期になると︑院が御霊会に積極的に関与するようになるが︑それを示すのが五味氏が論じられた︑院の主導︵指示︶

による馬長調進である︒局長とは︑馬に乗った童と馬の口取︑それに続く十数人を一組とするもので︑神幸行列に供奉する︒

その調進を︑院が殿上人に命じるのであるが︑その対象は院殿上人だけにとどまらず︑内殿上人や女院殿上人にまで及んだ︒

(4)

しかし︑院政期になっても︑摂関家が局長を調進したという記録はほとんど見られない︒わずかに兄いだすことができたの

が︑天永元︵一一一〇︶年の祇園御霊会に際しての次のものである︒

2 ︶

今 日

中 将

雑 色

百 人

許 ︑

乗 二

馬 長

一 予

見 之

︑ 渡

二 北

門 一

︑ 入

内 ︑

不 l

一 見

物 一

︑ 向

二 雑

色 等

高 陽

院 中

許 一

記主藤原忠実は︑この当時摂政であった︒﹁中将﹂ は忠実の息子藤原忠通である︒これによれば︑摂関家が祇園御霊会に

︵ 4

馬長を寄せていることが知られる︒この日の低回御霊会には︑蔵人頭である藤原為隆も馬長を寄せている︒蔵人所から馬長

が寄せられるということは︑天皇からの仰せである可能性があるが︑鳥羽天皇は当時わずか七歳であるから︑天皇が自らの

意思で馬長を調進させるということはまず考えられず︑これは白河院の意恩によるものであったと考えられる︒五味氏によ

︵ 5

れば︑すでに永長元︵一〇九六︶年には院召次男四百人ばかりが御霊会に供奉しており︑嘉承元︵一一〇六︶年には院によ

︵ 6

る馬長調進が確認できるという︒この事例はその四年後であるが︑これ以前に摂関家に対して馬長調進が命じられたことが

全くなかったのか否かは︑史料上確認することができない︒

︵ 7

岡田荘司氏は︑この天永元年の事例から︑﹁摂関家一族とても例外とはいえず︑院の指揮下にあって祭礼に参加した﹂と

述べられているが︑摂関期には﹁祇園御霊会に対して一貫して冷淡﹂ であったとされる摂関家が︑少なくともこの時期には

馬長調進に応じるようになったことは︑摂関家の祇園御霊会への関与が大きく変わってきていることを意味している︒では︑

なぜ︑そのような変化が起こったのであろうか︒その背景には︑摂関家の政治的地位の変化があると思われる︒

天永元年の三年前の嘉承二 ︵一一〇七︶年七月︑堀河天皇が二十九歳で急死した︒このため白河院は有力な皇位継承候補

である弟の輔仁親王を抑えて五歳の孫宗仁親王を即位させたが︑その摂政補任については︑新帝の外舅藤原公実がこれを望

︵ 8

んでいるとの風聞があり︑補任宣命には白河院の命によることが明記された︒橋本義彦氏は︑これを白河院の政治的権威の

(5)

ご1こ

伸張の一階梯とされたが︑逆にいえば︑それは摂政忠実の政治的権威の低下ということになる︒元木泰雄氏は︑白河院と忠

実との関係は︑さらにさかのぼって忠実の父師通の死去にともない︑白河院が︑堀河天皇の外戚ではなかった忠実を内覧に

︵ 1

0 ︶

任命した承徳三 ︵一〇九九︶年時点で︑忠実は院に﹁従属﹂するようになったとされる︒白河院の意向によって内覧・摂政

になることができた忠実が︑白河院の意向に従うようになったと理解することはうなずけよう︒

天永元年の祇園御霊会における摂関家の馬長調進についても︑こうした背景を踏まえて理解すべきではないだろうか︒馬

長を調進したのは︑忠実の息子で当時十四歳であった忠通であるが︑これは忠実の関与のもとに行われている︑というより

も︑実際に席長調進を仕切ったのは摂関家の当主であった忠実と考えてよいだろう︒さらに︑史料的には︑摂関家が祇園御

霊会に馬長を調進した例は︑忠実以前には見られないことからすれば︑これが摂関家による馬長調進の初見の可能性もある︒

もしそうだとすれば︑この時期にそうしたことが行われるようになったのは︑摂関家が白河院の意向に従うようになったこ

との一つの表れと考えられよう︒

ただし︑摂関家が白河院の意向に従うようになったことを︑白河院による摂関家抑圧の結果とととらえてよいのであろう

か︒先に触れた忠実の内覧補任について︑元木氏は﹁白河院が忠実を内覧に止めたことを︑単純に院の抑圧等とみなすのは

誤っている︒︵中略︶忠実は白河院の特別な計らいによって内覧の地位を与えられたのであり︑それゆえに彼に従属するこ

とになったと考えられる﹂と述べておられる︒忠実が︑白河院の命に応じて祇園御霊会の馬長調進に応じているのは︑院に

よる摂関家抑圧に屈したためと考えるよりも︑むしろ院と良好な関係を築く︑あるいは︑良好な関係にあることを示すため

であったと考えられるのではないだろうか︒

(6)

二 摂関祇園詣

前章でみた祇園御霊会への馬長調進に応じるようになる以前の摂関家は︑例えば長治元︵一一〇四︶年に藤原忠実が﹁今

︼漸 爪

日御輿向也︑析御輿渡給程︑其以前精進︑事了後服レ魚︑放殿御時如レ此﹂と記しているように︑基本的には祇園御霊会そ

のものには積極的に関与しなかったが︑祇園御霊会の期間中︑精進をしていた︒そして︑その翌十五日には祇園杜へ参詣・

奉 幣

し て

い る

六月十五日の祇園社への奉幣は︑天延三 ︵九七四︶年に﹁公家始レ自二今年一被し献二兎遊走馬等祇園社∴ 依二去年痘瘡時

︑ に ︑

御願一也﹂とあり︑もとは円融天皇が前年秋以来の痘瘡の御祈のために奉幣して走馬などを立てたのを初めとするものであ

るが︑天皇による奉幣はこの後恒例化することなく︑次に行われるのは百年以上経った天治元︵一一二四︶年である︒この

ことについては後にあらためて触れる︒

一方︑貴族による奉幣などの事例は︑摂関家だけではなかった︒例えば︑藤原実資は天元五︵九八二︶年︑寛和元︵九八五︶

1 3

年︑永延元 ︵九八七︶年に祇園社に御幣を奉っている︒また︑時代は下るが︑承暦四 ︵一〇八〇︶年には権大納言源俊房が

︑ ︑

自らの雑色らを祇園社に参らせ︑十列を献上している︒しかし︑史料を見る限りにおいては摂関家によるものが目立つ︒そ

こで︑摂関家による六月十五日の祇園社への参詣・奉幣を︑以下では﹁摂関祇園詣﹂とし︑具体的に見ていく︒

岡田氏によると︑道長の神社参詣でもっとも多いのは二十回前後を数える賀茂詣であるが︑その次に多いのか祇園詣であ

︵ 1

5 ︶

るという︒摂関祇園詣の初見は寛弘元︵一〇〇四︶年六月十五日の道長によるもので︑十列・神馬・御幣を奉っている︒ま

︵ 1

6 ︶

た︑長和二 ︵一〇一三︶年にも六月十五日に﹁午時参二祇園一︑神馬十列如レ常﹂とある︒長和二年といえば︑道長が十四日

(7)

の祇園御霊会の際に︑御輿のあとに続いた散楽の空車を制止させた年である︒祇園御霊会に対しては度を越えた狂態を許さ

なかった道長であるが︑翌日の祇園詣では神馬・十列を寄せているのである︒長和五 ︵一〇一六︶年には︑五君の懐妊によ

︵ 1

7 ︶

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

︵ 1

︒ ︒

り祇園謡が行われなかったが﹁出二束河一解除︑是例参二感神院一有レ障依レ不レ参﹂とあることから︑恒例の祇園請をできな

かったために祓を行っていたことがわかる︒翌寛仁元︵一〇一七︶年にも︑同じように祇園話ができなかったために東河に

︵ 1

9 ︶

て祓を行っている︒さらにその翌年︑寛仁二年には︑道長とその息子である摂政頼通が祇園社に詣でている︒このときの祇

︵ 加 ︶

鯖詣には︑﹁金銀幣・例幣・神馬井十列﹂が奉られたという︒また︑諷諭もあり︑祇園感神院によって饗僕も設けられた︒

その後しばらく摂関祇園詣がどのようになったのか︑史料の不足により明らかにすることはできない︒

再びその記録が現れるのは寛治五 ︵一〇九一︶年である︒﹃後二条師通記﹄によると︑六月四日に関白師実が息子である

師通に使を通わし︑十五日の祇園話について相談している︒

自二殿下一御使盛長朝臣来云︑祇園御諸事被レ仰云︑御堂御時二度所二令レ参御一也︑最初旅者宇治殿不二参給一者︑長斎精

進問欺︑後之旅為二摂政殿一御共参御云々︑予被レ参欺如何︑先例乗尻十列︑但可レ召l一衛々人等一欺︑又如二先例一可レ候

欺︑院乗尻可レ然衛々件院為二乗尻一︑但近衛人可レ候欺︑殿上人如何︑毎事脆以謹承了︑予如二只今一所レ参也︑先年御

頗也︑早可レ候者︑舞人事御定也︑如二先例一且随二御願一可レ被レ行レ之︑世間恋々何有レ憧哉︑宜以二玄旨一啓洩給︑

この年の摂関祇園詣は道長の頃の祇園請を先例としており︑師実にとって摂関祇園話は﹁先年卸願﹂ であるという︒ここ

から︑師実・師通父子は道長・頼通父子の摂関祇園話を先例として再興しようとしていたことが分かる︒

当 日

の 様

子 は

︑ ﹁

西 対

御 装

束 如

二 賀

茂 串

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不 二

出 衣

一 ﹂

﹁ 令

レ 渡

二 南

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一 ︑

又 如

一 一

矧 薗

矧 一

﹂ ﹁

鳥 居

北 辺

設 二

平 張

∴ 北

為 レ

上 ︑

︵ a ︶

如二賀茂詣一﹂とあるように︑賀茂謡に準じた盛大なものであった︒三条から祇園社まで騎馬と舞人の行列が渡り︑祇園社

(8)

に到着してからは祓か行われ︑神鳥を三度廻らし︑一歌催さしめたあと︑東遊︑求子が舞われ︑諷諦か行われた︒師実・師

J 喝 爪

通父子によるこのような摂関祇園請は︑永長元︵一〇九六︶年にも行われている︒また︑師通は死の直前の康和元︵一〇九九︶

・lハ︑

年六月十五日には祇園社へ神馬を奉っている︒

師通の死後は︑康和四︵一一〇二︶年に師通の息子である右大臣忠実が祇園社に神馬を寄せているが︑﹁依レ例被し立一祇

︵ 別 ︶

園神馬一﹂とあることから︑それが恒例化していたと考えられる︒忠実は嘉承二 ︵一一〇七︶年に祇園詣を行っているが︑

蒜空 このときは院召仕らが百列走馬を調え祇園社に参っており︑摂関祇園請に白河院の関与がみられる︒しかも︑このときは院

からの十列が二人不足したことに対し︑忠実自身が自らの随身をその不足分に充てており︑院と忠実との協力関係さえうか

がうことができる︒

この摂関祇園謡が決定的に変化するのが︑さきに触れた天治元︵一一二四︶年である︒﹃永呂記﹄ の六月十五日条には︑

今日公家御奉幣︑侍従中納言於l一一伎座∴付レ之云々︑去年御宿願内云々︑使右少将公隆︑近衛官人十人奉仕︑舞人陪従四

人装束蔵司︑宣命云︑有レ所二恩金一︑限一二水代一︑日二今日一種代幣吊走馬東遊神楽等調備給者︑天延三年︑貞観年中有一

此例二云々︑可レ有二臨時祭 之由世以云︑然而今日儀如レ此了︑

とある︒ここでの ﹁公家御奉幣﹂は︑かつて天延三年に行われた祇園臨時祭の再興とされている︒この前年に︑崇徳天皇が

わずか五歳で即位しており︑岡田氏はこの祇園臨時祭再興が ﹁﹁去年御宿願﹂ であった崇徳天皇即位の報賽にあったことは

確実であ﹂り︑﹁本来あるべき天皇﹁御願﹂ の臨時祭の再興は︑崇徳天皇が僅か六歳であっただけに︑白河上皇の意向が強

く働いていたものと推測され ︵中略︶白河上皇は鳥羽天皇を譲位させ︑庶民からも支持されてきた祇園御霊会の神事再興と

祇園臨時祭の再生により︑次代を崇徳天皇に託す意図があった﹂と述べられている︒ここに至り︑摂関家よる祇園話の目は

(9)

﹁祇園臨時祭﹂ つまり天皇による祭祀︵ここでは白河院の意図が強く働いている︶ の日へと変化し︑恒例化する︒例えば大

︵ 器 ︶

治二 ︵一一二七︶年︑大治五︵一一三〇︶年に左兵衛督藤原実能が宣命使として祇園社に遣わされている︒忠通の時代は︑

史料不足のために臨時祭が行われたかどうかを確認することはできないが︑その後も︑仁安二 ︵一一六七︶年や翌三年︑さ

︵ 訂 ︶

らにその翌嘉応元年に右衛門督藤原実国が宣命を奏しており︑﹁祇園臨時祭﹂が行われている︒一方︑摂関祇園詣の記録は

見られなくなるのである︒

以上のことから︑摂関家は祇園御霊会とは別に︑翌六月十五日には祇園社へ奉幣・参詣していたが︑これに十列を出すな

どして白河院が関与してくるようになり︑天治元年に﹁祇園臨時祭﹂ つまり天皇御願の祭祀が行われるようになって以後は︑

摂関祇園詣は行われなくなった︒では︑この変化は何を意味するのだろうか︒五味氏は︑﹁明らかに摂関家を凌駕する院権

力の存在を示したもの﹂としておられるが︑次章で考えてみたい︒

三 摂関祇園詣と摂関賀茂詣

摂関祇園話の変化の意味を考えるために︑摂関家が賀茂祭の前日に行っている摂関賀茂話について︑その儀の成立と変遷

︵ 誠 ︶

を跡づけ︑その意味を考察された末松剛氏の研究︑とくに院政期の賀茂話についての成果に学びたい︒摂関賀茂謡とは賀茂

祭前日︵四月中中日︶ に摂政もしくは関白が賀茂上下両社に参詣し︑金奉幣や神宝など奉納し︑走馬などを行うものである︒

摂関祇園話は祇園御霊会の翌日に摂関家が祇園社に参詣する点︑賀茂請とは祭日前日と翌日の違いはあるが︑以下に見てい

くように重要な共通点があり︑祇園詣について考えるについて︑賀茂話についての理解を参照したい︒

(10)

①師実・師適期

まず︑両者の共通点から見ていくと︑前章で挙げたように︑寛治五年や永長元年に師実・師通父子が道長・頼通父子の賀

茂請を先例として祇園詣を行っているが︑賀茂詣そのものについても同じように嘉保元︵一〇九四︶年に道長・頼通父子を

ー . q H ︑

先例として行っている︒末松氏は︑それを︑﹁道長・頼通例に忠実な父子参詣の継続によって﹁摂関家儀﹂ であることを強

調することで摂関賀茂話を維持しようとした﹂と述べられている︒

また︑賀茂詣には白河院の御随身が舞人として参加し︑祇園詣には︑寛治五年参詣についての師実から師通への相談の中

に﹁院乗尻﹂が見られるなど︑院政期には院の関与が見られるようになる︒

ところで︑承保三 ︵一〇七六︶年には︑白河天皇の ﹁別御願﹂により︑摂関賀茂詣が行われていた四月中申日に天皇の行

︵ 討 ︶

幸が始められ︑以後︑白河朝の問式日とされる︒その結果︑摂関参詣は日次を変更して行われるようになる ︵白河譲位後は

行幸式日は放棄され︑摂関賀茂謡が復活する︶︒これをどう理解するかについては︑院と摂関の関係を対立的にとらえるか

協調的にとらえるかによって分かれる可能性がある︒末松氏は︑﹁白河天皇の行幸はそもそも政治的︑政策的見地からの式

日化ではなく︑白河天皇個人の御願に発する行幸にすぎないのではなかろうか﹂︑﹁賀茂祭前日行幸そのものに対する白河の

意志が強いのであり﹂︑摂関家に対する﹁政治的圧力といった類の政治的意思ではない﹂とされる︒摂関家側の対応につい

ても︑岡田氏の﹁関白師実は摂関時代全盛期の権勢はなく︑譲歩して式日を移すことに同意せざるを得なかったし︑敢えて

抵抗することでもなかった﹂との理解を引かれ︑﹁師実は白河朝の行幸式日化に対して抵抗する手だてはなく式日を譲った﹂

へJl︶

とされる︒また︑当初は院と摂関の関係を対立的にとらえておられた大村拓生氏も︑後には協調関係としておられる︒こう

した理解と︑先に触れた摂関賀茂話と祇園謡に︑院が舞人・乗尻を寄せていることなどを合わせれば︑両者の関係を協調的

(11)

なものとして考えてよいだろう︒

②忠実期

忠実期における賀茂話には︑白河院との友好関係がみられるという︒師実期の賀茂詣では院による舞人参加がみられたよ

︵ 戌 −

うであるが︑忠実期はそれに留まらず︑一緒に参詣する威徳︵のちの忠通︶ の騎馬か白河院から下賜された例もある︒また︑

摂政となって初めての賀茂詣では︑用度調達のほとんどに白河院が関与しており︑忠実自身もこれに対して﹁今度賀茂話︑

︵ ぷ ︶

只依一l院御恩﹂としている︒

同じように︑摂関祇園詣においても白河院が関与していることは︑前章で述べたとおりである︒

③忠通期

忠通期は︑摂関賀茂詣は長期間行われておらず︑忠通が賀茂話を実施したのは関白就任から十二年後であったという︒末

松氏によれば︑これは︑摂関賀茂話が摂関家の継承者であることを示威する行事であったため︑忠通が白河院の勘当をうけ

て蟄居した父忠実との関係に配慮してのことであったとされる︒白河院没後に忠実か政界に復帰して後に行われた長承三

︵一一一二二︶年の賀茂話には︑忠実期と同様に院︵鳥羽院︶ の関与がみられたという︒

一方︑摂関祇園請はというと︑忠通が摂政・関白であった時期に祇園語をしたという記録は見出すことができず︑前章で

述べたように天治元年には ﹁祇園臨時祭﹂︑つまり天皇による祭祀が行われるようになる︒忠通期に摂関祇園話の記録を兄

いだすことができないことについては︑一つには摂関賀茂話が長く行われなかったことと共通の理由によると考えることが

(12)

できるだろう︒一方で︑賀茂社の場合︑賀茂行幸が行われた白河朝には目次を移して賀茂話が続けられたのに対して︑祇園

社の場合︑そうした対応は確認できないことからすると︑祇園臨時祭の開始によって摂関祇園詣は行われなくなったと考え

られるのである︒

④頼長期

頼長は︑父忠実の寵愛を得て久安六 ︵一一五〇︶年に氏長者︑仁平元︵一一五一︶年に内覧となった︒これ以後六年間は

関白︵忠通︶と内覧︵頼長︶とが併置された特異な時期である︒その間︑摂関賀茂謡を実施したのは内覧である頼長の方で

あった︒末松氏は︑これは︑頼長が春日杜参詣や朱器大盤を用いた大饗を行うなど︑自らが摂関家の継承者であることを示

威する行事を行っていることと同じ意味においてとらえられるとされる︒頼長は久安五 ︵一一四九︶年に従一位左大臣に昇

進するが︑その権力は兄である関白忠通の存在によって制約されており︑父忠実の働きかけにより︑久安六年に藤原氏氏長

者となる︒が︑摂箆の地位そのものを忠通から頼長に改補することはできなかったために︑忠実は頼長を内覧とすることに

よって事実上の執政の座を頼長に保証しようと画策し︑翌久安七年︑頼長は内覧の宣旨を蒙った︒そのため︑﹁頼長の氏長

︵ 洪 ︶

者職はいまだ藤原氏氏人によってすっきりと受け入れられるにいたっていなかった﹂と考えられ︑だからこそ頼長は摂関家

の後継者であることの示威に力を入れて取り組んだと考えられる︒

︵ 蕊 ︶

仁平二 ︵一一五二︶年には︑﹁賀茂詣事雑レ被二執奏一︑併不レ許︑因レ之披二停止一欺﹂とある︒頼長が鳥羽院の許可を得よ

うとしたのが︑忠通との対抗上の理由による特別なことであったのか︑それとも︑この時期︑摂関賀茂詣は院の承認のもと

に行われるものになっていたのかは︑この事例からだけでは分からないが︑いずれにしても院の許可が得られずに停止して

(13)

いることは︑院と摂関家の関係を暗示していよう︒

︵ 濁 ︶

祇園詣については︑忠通期同様︑実施したことが確認できる史料はなく︑仁平二年に神馬奉幣を行ったことが知られるだ

け で

あ る

⑤頼長以降 ︒

頼長以降の摂関賀茂詣について︑末松氏は﹁摂関家の継承者であることを示威する行事として実施されたために︑当該期

の摂関家をめぐる不安定な政治状況を色濃く反映することとな﹂り︑﹁政局が後白河院政︑平氏政権︑さらに鎌倉時代へと

転換してしまうと︑自ずから衰退の道をあゆむことになった﹂と述べられている︒

摂関祇園詣についても︑仁平二年の頼長による神馬奉幣を最後に摂関家の祇園御霊会への関与そのものが見られなくなる

の で

あ る

以上に見てきたところから︑摂関祇園詣と摂関賀茂詣は共通点が多く︑また両者に対する院の関与もほぼ同時期から見ら

れることが確認できた︒末松氏は︑賀茂謡について﹁本来︑大臣が一族の繁栄を祈願して一族および親梶者とともに参詣す

る行事であった﹂のが︑﹁頼忠期に賀茂祭前日に式日化して以後︑当該期の政治状況を反映しっつ︑次第に摂関家の行事と

なり︑頼通政権の確立を企図する道長の政略の結果︑賀茂詣が成立した﹂としている︒また︑白河院政期以降の院の関与に

ついては﹁院御随身などは摂関一族の行事への便宜であり︑いわば院からの代替による同道参詣への関与=友好関係の証な

のである﹂と述べられている︒同じことは︑その形式や内容において共通点が多い摂関祇園話にも当てはまるのではないだ

(14)

ろうか︒すなわち︑末松氏がいわれるように︑摂関賀茂詣における院の関与が摂関抑制策ではなく友好関係の証であるとす

れば︑摂関祇園詣における院の関与も同じように考えられるのである︒

お   わ   日 ソ   に

本稿では︑院政期の祇園御霊会と摂関祇園謡への院・摂関それぞれの関わりに注目し︑当該期の院と摂関の関係について

考察してきた︒摂関祇園詣については専論もないことから︑その変化を史料によって確認できる範囲で明らかにし︑同じ摂

関による賀茂請についての兼松氏の研究によりながら︑その変化の意味を考えてみた︒

摂関家は︑院政期以前には祇園御霊会に直接関与することはほとんどなかったが︑白河院が殿上人らに命じて馬長を寄せ

るなど祇園御霊会に関与していくようになると︑当時すでに院の意向に従うようになっていた藤原忠実は︑院の求めに応じ

て馬長を調進するようになった︒また︑摂関家は院政期以前から祇園御霊会の翌日六月十五日に独白に祇園社へ詣でていた

が︑院政期になるとその摂関祇園謡に院の関与が見られるようになる︒院の摂関祇園話への関与は︑摂関賀茂詣を参考に考

えると︑院による摂関家への抑制政策ととらえるよりも︑院と摂関家との間の協調・友好関係を示すものと考えられる︒そ

の後︑天治元年に ﹁祇園臨時祭﹂が行われるようになって以降は︑摂関祇園請は行われなくなった︒

祇園御霊会と摂関祇園話を通して知られる院と摂関との関係については︑五味氏とは異なる理解になったが︑五味氏が述

べられた﹁かくして院は祇園御霊会と臨時祭をあわせた祇園祭の事実上の主催者となって君臨した﹂との院権力の評価につ

いては異論はない︒それは院による政治的・宗教的統合の進展を意味するが︑本稿での考察からすれば︑摂関家もその中で︑

(15)

それを支える役割を果たしたのであり︑むしろ積極的にそうすることで︑院政のもとでの摂関家の地位を維持しようとした

と考えられるのである︒

﹇ 註

︵1︶﹁馬長と馬上﹂︵同氏﹃院政期社会の研究﹄︵山川出版社︑一九八四年︶︶︒以下︑とくに断らないかぎり︑五味氏の説はこれによる︒ ﹈

︵ 2

︶ ﹁

前 期

院 政

と 荘

園 整

理 の

時 代

﹂ ︵

註 ︵

1 ︶

著 書

︶ ︒

︵ 3 ︶ ﹃ 殿 暦 ﹄ 天 永 元 年 六 月 十 四 日 条 ︒

︵ 4 ︶ ﹃ 永 呂 記 ﹄ 天 永 元 年 六 月 十 四 日 条 ︒

︵ 5 ︶ ﹃ 中 右 記 ﹄ 永 島 元 年 六 月 十 四 日 条 ︒

︵ 6 ︶ ﹃ 中 右 記 ﹄ 永 長 元 年 六 月 十 四 日 条 ︒

︵7︶﹁平安京中の祭礼・卸旅所祭祀﹂︵同氏﹃平安時代の国家と祭祀﹄︵続群書類従完成会︑一九九四年︶︶︒以下︑岡田氏の説はこれによ

る︒

︵ 8

︶ ﹃

朝 野

群 載

﹄ ︒

︵ 9 ︶ ﹁ 貴 族 政 権 の 政 治 構 造 ﹂ ︵ 同 氏 ﹃ 平 安 貴 族 ﹄ ︵ 平 凡 社 ︶ ︶ ︒

︵10︶﹁治天の君の成立﹂︵同氏﹃院政期政治史研究﹄︵思文閣出版︑一九九六年︶︶︒以下︑元木氏の説はこれによる︒

(16)

︵ 1 1 ︶ ﹃ 殿 暦 ﹄ 長 治 元 年 六 月 七 日 条 ︒

︵ 1 2 ︶ ﹃ 百 練 抄 ﹄ 天 延 三 年 六 月 十 五 日 条 ︒

︵13︶﹃小右記﹄天元五年︑寛和元年︑永延元年いずれも六月十五日条︒

︵ u ︶ ﹃ 水 左 記 ﹄ 承 暦 四 年 六 月 十 五 日 条 ︒

︵15︶﹃御堂関白記﹄寛弘元年六月十五日条︒

︵16︶﹃御堂関白記﹄長和二年六月十五日条︒

︵ 1 7 ︶ ﹃ 小 右 記 ﹄ 長 和 五 年 六 月 十 五 日 条 ︒

︵ 1

8 ︶

  ﹃

御 堂

関 自

記 ﹄

長 和

五 年

六 月

L I

五 日

条 ︒

︵19︶﹃御堂関白記﹄寛仁元年六月十五日条︒

︵ 2 0 ︶ ﹃ 小 右 記 ﹄ ・ ﹃ 御 堂 関 白 記 ﹄ 寛 仁 二 年 六 月 十 五 日 条 ︒

︵21︶﹃後二条師通記﹄寛治五年六月十五日条︒

︵ 2

2 ︶

  ﹃

後 二

条 師

通 記

﹄ 永

長 元

年 六

月 十

五 日

条 ︒

︵23︶﹃後二条師通記﹄康和元年六月十五日条︒

︵ 2

4 ︶

  ﹃

中 右

記 ﹄

康 和

四 年

六 月

十 五

日 条

︵ 2 5 ︶ ﹃ 中 右 記 ﹄ 嘉 承 二 年 六 月 十 五 日 条 ︒

︵26︶﹃中右記﹄大治二年︑大治五年いずれも六月十五日条︒

︵27︶﹃兵範記﹄仁安二年︑三年いずれも六月十五日条︒

(17)

︵ 2

8 ︶

﹁ 摂

関 賀

茂 謡

の 成

立 と

展 開

﹂  

︵ ﹃

九 州

史 学

﹄ 一

一 八

・ 一

一 九

合 併

号 ︑

一 九

九 七

年 ︶

︵ 乃 ︶ ﹃ 江 記 ﹄ 嘉 保 元 年 四 月 五 日 ・ 十 四 日 条 ︒

︵ 邪 ︶ ﹃ 扶 桑 略 記 ﹄ 承 保 三 年 四 月 二 十 三 日 条 ︒

︵ 3 1 ︶ ﹁ 行 幸 ・ 御 幸 の 展 開 ﹂ ︵ 同 氏 ﹃ 中 世 京 都 首 都 論 ﹄ ︵ 吾 川 弘 文 館 ︑ 二 〇 〇 六 年 ︶ ︶ ︒

︵ 3

2 ︶

  ﹃

殿 暦

﹄ 嘉

承 二

年 四

月 十

六 日

条 ︒

︵ 3

︶ ﹃

殿 暦

﹄ 天

仁 二

年 八

月 十

七 日

条 ︒

︵ 誕 ︶ 河 音 能 平 ﹁ ヤ ス ラ イ ハ ナ の 成 立 ﹂ ︵ ﹃ 中 世 封 建 社 会 の 首 都 と 農 村 ﹄ ︵ 東 京 大 学 出 版 会 ︑ 一 九 八 四 年 ︶ ︶ ︒

︵ お

︶  

﹃ 兵

範 記

﹄ 仁

安 二

年 四

月 十

四 日

条 ︒

︵ 認

︶ ﹃

兵 範

記 ﹄

仁 安

二 年

六 月

十 五

日 条

参照

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