『宝船通人之寝言』考 : 平賀源内と貨幣鋳造
著者名(日) 合瀬 純華
雑誌名 大妻国文
巻 27
ページ 87‑105
発行年 1996‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001453/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
﹃宝 船通 人之 寝言
﹄
考
ーー平賀源内と貨幣鋳造||
ム口ー
瀬
京市
華
平賀源内の獄死後まもない安永十年︑彼を主人公としたモデル小説が相次いで発表された︒酒落本﹃通人鬼打豆﹄︑
﹃鍔一翻草盲目﹄︑﹃宝船通人之寝言﹄である︒そしてこの三作は︑それぞれが平賀源内という人物を巧みに描き出し︑内
容から︑上・中・下巻の続き物として意図されたかのような印象を受ける︒そこで︑本稿では特に﹃宝船通人之寝言﹄を
もとに︑伝記上論述されることの少ない平賀源内と鋳銭のかかわりについて考察し︑上記三作の成立についても言及した
いと
思う
︒
ン本
のほ
かに
︑
﹃宝船通人之寝言﹄の諸本には︑﹃酒落本大成﹄第十一巻に翻刻・解題される︑名古屋市蓬左文庫蔵尾崎久弥コレクショ
東京国立博物館蔵本︑大阪大学蔵本︑︵旧安田文庫蔵本﹀がある︒以下は︑東京国立博物館蔵本︵目録番
﹃宝
船通
人之
寝言
﹄考
八 七
f ¥ 八
号︑
ト
2803︶の書誌である︒
予昔日
題 表
構 内
匡 丁
尾 挿
蔵書印
型
中本一冊
紙
後補替表紙
十八
・二
一×
十二
・五
糎 議
後補で︑﹁賓舵通人之楳言完﹂と書写︒十二・九×二・六糎
成
自序
︵四
丁︶
︑
目録
︵一
丁︑
ただし裏半丁は白紙で匡郭のみ︶
本文︵二十四丁︶︑全二十九丁
序
﹁安永辛丑の目出たい比/東都能楽山人題/⑮囲︵共に陽刻︶﹂
題
﹁宝
舵通
人之
謀一
マ一
己 付
自序から目録に﹁一﹂J
﹁五
﹂︑
本文
﹁一
﹂
l
﹁十
三﹂
︑﹁
十四
ノ五
﹂︑
﹁十
六﹂
l
﹁廿
五﹂
郭
十三・八×九・七糎四周単辺
主 主
四丁裏J五丁表︵見聞き一図︒三津川の渡し守漁鬼と空来山人︶
題
﹁宝
船
大尾
﹂
初丁表の﹁自序﹂の下に﹁式︵陰﹀亭︵陽︶﹂︑廿五丁一一中央下に﹁三︵陰︶馬︵陽︶﹂0
とも
に朱
印︒
蓬左文庫本︑大阪大学本と同版と思われるが︑特に二十四丁一一︑五行目と六行目の聞から八行目にかけての行問︑本文
でいえば︑﹁︵六行目︶此の如くすれば銭金くさって捨所に事を/︵七行目︶欠是通の極意にして万代無益の道なり/︵八 行目︶と出放題やってのければ﹂の各傍線部にあたる右側行聞が切り取られ︑補修されている︒また︑二十五丁裏尾題の
前の
部分
中央
が︑
楕円形に切り取られ︑
二十
四丁
同様
その
一裏
面か
ら和
紙を
貼り
︑
補修しているのが認められる︒おそら
く︑何か書き入れがあったものを削除したと考えられる︒最終了の﹁三馬﹂の蔵書印はその補修紙の上に押されている︒
本作﹃宝船通人之寝言﹄につレては︑すでに尾崎久弥氏が﹁栖落本系の時世調刺作に就て﹂︵﹃江戸小説研究﹄所収︶に
おいて︑原題﹃夢枕通人之寝言﹄として紹介されているが︑その自序には左のようにある︵以下﹃宝船通人之寝言﹄は
﹃宝船﹄と略して表記する︒また本文は﹃酒落本大成﹄第十一巻による︶︒
民間に安永十の春︑余か都内野り蹴の同の上に︑一人の畏蒸れり︑時は耗き陀の如く︑昨⁝官械たる械の如し︑
い っ た て ぴ ん ぼ う が み か け と り ひ ど き
手に一巻の書をひらいて︑余を揖して立り︑余心におもふに︑是かならず貧乏神の欠取ならん︑近よらば辛あつか
あb
や ぶ れ よ ぎ あ た ま て い
L
ゆ る す い か あ
λなんじぜうなしやろうbれいにや逢んと︑破ー会に頭を入レ︑亭主出まして留守といへば︑かの異土怒れる色にて︑直ロ子情無野郎︑吾は保口火
わ す れ い っ た ん ぢ ど く た な ふ り よ
︿ わ ん 失 う あ い そ う ろ う は て
外なり︑こaふろなくも忘しよな︑吾一日一地撮へ店がへせしに︑おもわづも不慮の緩急に逢い︑居候の身と成リ果
げ に こ と わ ざ す っ か み ひ ろ 陪 と け め づ も ち い と う ぎ ん ゑ い
fb
あ ま わ れ さ き わ う ら い い っ け ん
しか︑実諺の︑棄る神に拾ふ仏で︑極楽で珍らしく用られ︑当今の栄花身に余れり︑吾向に地獄往来の一件を︑
ひ そ か は こ の う ち お さ ち き お く し ま っ し わ か と う も ん せ う し あ た
窃に匝衷に納め︑知己に贈りしが︑極楽の始末いまだ世におこなわれず︑子も吾党の門情なれば︑此一巻を子に与
い そ き け つ ふ つ う か せ い じ
︿ ち に げ か へ す そ な ん
ふベし︑急き剖闘に附して︑通家の盛事を枯ざらしめよと︑飛ふが如くに逃帰らんとす︑余異土の裾をとらへて難し
そ れ か い な い つ う み や う も の し ん つ う つ う じ ん か い す て ぢ ご く
て目︑夫海内先生の通名を知らざる者なし︑先生真通の身として︑いかんぞ通人界を捨て︑不通の地巌へぼんがへ
ょ が と も が ら ち ゃ ふ ね が か た り き か ぶ ぜ ん た ん ひ ろ
せられしゃ︑余曹ひそかに怪しむ︑伏して願わくは︑語て聞せ給へ︑異士撫然として歎して目︑子か通道広から
わ れ き く
︿ 出 せ ん に ん こ
Lん つ う せ ん し か し つ め く さ も
A
た ち ま つ う う し な こ し
ざること如此しゃ︑吾聞久米悟人は︑古今の通仙なり︑爾も賎の女の嘆き腔に︑忽ち通を失ふて︑どんと腰をぶん
ぬ か い わ ん わ な み ぎ つ う あ な か し 乙 か な ら つ こ と ば う ち す が た
抜れたり︑況や吾済偽通をや︑穴賢おがみんす︑必いってくんなんすなと︑辞の中に姿は見へざりき︑余これ
す る お し へ し よ し つ う じ ん ね ご と だ い つ う せ い ひ ろ し か
を棄るにしのびず︑教の如くして書障にあたへ︑よって通人の媒云と題して︑通世に広むといふこと爾り
安永辛丑の目出たい比
東 都
能楽山人題
一読して︑本作が︑前編を持つ続編に相当することがはっきりする︒つまり﹁吾向に地獄往来の一件を︑窃に匝衷に納
め︑知己に贈りし﹂が︑前編﹃鍔一翻草盲目﹄を指し︑続く﹁極楽の始末﹂が︑後編の本作である︒﹁能楽山人﹂の自序をみ
﹃宝
船通
人之
寝言
﹄考
八.
九
九
。
ると︑作者の家を訪れた主人公﹁保口火外﹂が︑﹁曜子情無野郎︑:・こLろなくも忘しよな﹂と言っていることから︑﹁能
楽﹂と﹁火外﹂は生前知り合いだったらしいとわかる︒次に﹁子も我が党の門橋なれば﹂とあるが︑﹁門橋﹂とは︑門と
かき
ね︑
または師の門︑学校という意味であり︑﹁余曹ひそかに怪しむ﹂とあるから︑この作者は源内門下の一人で︑同
門の仲間たちが︑師の源内の死を不審に思っていることが知られる︒つまりこの序文から︑作者は生前から平賀源内をよ
く知っており︑身近にいた人物であるとわかる︒﹃翻草盲目﹄の作者も﹁知己﹂であった︒
作者の家を訪れた﹁保口火外﹂の名は︑﹃宝船﹄で︑釈尊からもらった戒名の一部であり︑源内の浄瑠璃作者としての
名﹁福内鬼外﹂をもじったものである︒しかし﹃宝船﹄の主人公は︑もともと﹁空来山人﹂である︒前編﹃翻草盲目﹄の
角書は﹁空来先生﹂となっているが︑本当の主人公は﹁腹が蛮内﹂である︒﹃翻草盲目﹄の蛮内は︑地獄で騒動を起こし︑
極楽に逃げ込むために名前を変える︒
とh
は ら ほ ん な い と ふ め が 拍 ば ん な い う 晶 ひ と 与 な り
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かん
Lよ よ み
愛に腹が蛮内といふものあり︒母ある夜の夢に千里鏡を呑と見て︒蛮内を産リ此もの生長して︒和漢の書を読元と
と ふ う ま が わ お ら ん だ そ ふ い し ゃ の
hし
ま お な り
遠目鏡の生れ替り成や︒遠き紅夷の本草まてせぐり︒世間の医者を小児の様ニ罵り︒己れが才ニ任ての我意者成し
出 い ど ゑ た び か ぐ は な き た
が︒此世を早仕舞と出かげ︒遠き冥途の旅立し地獄にては︒かねて見ル目喋鼻がかぎ出し︒今日蛮内といふもの来る
tr
べしとのこと︒ハ中略︶もふ地獄にはいられず︒是から直ニ山越に︒極楽への抜道を尋︒名も今までの︒腹が蛮内で
L
ぶん
はす
まず
︒空
来山
人と
︒自
分に
名の
り︒
ちと
極楽
でし
ゃれ
ませ
ふ︒
︵﹃
旭日
一翻
草盲
目﹄
︶
﹃宝船﹄の本文は︑﹃翻草盲目﹄最後の場面である﹁剣山﹂から始まる︒鬼に追われて極楽に逃げ込んだ空来山人だが︑
仁王に捕まり︑釈尊から地獄での罪状を詮議される︒しかし逆に︑釈尊は極楽不景気の愚痴をこぼし︑景気回復を空来に
頼むはめになる︒そこで空来の説く富国策とは︑一︑極楽に芝居・廓・賭場を開設する︒二︑物価を引き上げ︑六道銭を
八丈に値上げする︒三︑貨幣を新鋳し︑仏の黄金の肌は小判にして︑悪貨は地獄にまわす︒四︑その他何事も金次第に取
りはからえ︑というものだった︒この説に感激した釈尊と菩薩は﹁極楽閉山大通如来保口火外居士﹂という戒名を空来に
与え
る︒
釈迦が空来山人に愚痴をこぼす場面は︑風来山人の戯文﹃一躍菩提樹之排﹄を思い出させる︒﹃菩提樹之排﹄では︑善光
寺の如来が夜更けに風来山人の家を訪ねて来て︑偽の菩提樹の突を降らせた弁解と︑信仰のあるべき姿を説くのである︒
﹃宝船﹄は︑平賀源内自身と田沼時代の世相を色濃く反映している︒特に空来の極楽富国策の中に︑﹁十万億土の駅/\
には四割ましの荷賃をとらせ六道銭も四文銭を用いて八丈と定め﹂とか︑﹁極楽通宝の銭を満と鋳せ相場はいつでも両に
六七貫新銭は地獄へまわし耳白大仏銭の類は皆極楽の蔵に積させ﹂とあるが︑﹂れは前出の尾崎氏の論文で指摘されてい
る通り︑当時の物価高と貨幣の新鋳を風刺している︒しかもこの記述から︑実際に平賀源内が鋳銭事業とかかわりがある
と考えられるのである︒
岩田三郎兵衛という秩父久那村の材木元出商宛の平賀源内の手紙がある︵﹃平賀源内全集﹄上︑所収︒読点は私に付し
た ︒ ﹀
0
なほ
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\御
家内
様へ
宜御
心得
可被
下候
以 上
一筆致啓上候︑漸春暖一一相成愈御揃御清福奉賀候︑此方相替儀無御座候︑此問要助口口定而委細御関可被成候︑要助
遺候故書状も進不申候︑鉄山之儀誠ニ時節到来と奉存候①御歓可被下候︑幸水戸仙台鋳銭最中︑且江戸定座もひそ
﹃宝
船通
人之
寝言
﹄考
九
九
/\申候②所︑鉄一向無御座候也︑何之仙台鋳銭方より相談劃掛候︑大方相極引用問封
E
子少々請取有③鉄出させ候筈ニ而半三郎遣候︑鋳銭方極り不申候而も是非/\当年ハ吹掛り申候︑夫−一付赤岩より坂元迄馬道ニ相成候様作
H4
回剰
剤耐
ω近頃乍御苦労愈々仰出被成御見分可被下候︑里数井に難場等委細書に被成被遺可被下候︑且又三一山⑤
辺に請負作候者有之候ハ︑十丁廿丁ッ︑割丁場ニ被成投ニ渡し候様御積らせ可被下候︑御一人ニ而手ばり候ハ︑茂右
衛門殿御頼御同道可被下候︑知小鹿野より大淵⑥へ取候方宜候や︑又ハ薄より賀川⑦へ取候而宜候や︑得と御積り可
被下候︑薄小鹿野よりも時ニより川船通行可致奉存候@是も御見分可被下候︑先々赤岩より坂元迄之道作第一に御見
分可被下候⑥猶此元万事相極り次第追て可得御意候以上
1!l
源 内
一一
月十
六日
岩田三郎兵衛様
猶々下総−一而鋳物はしめ度と申者御座候︑是へも炭鉄仕送り鍋其外一手ニ此方へ買取候︑相談いたし掛申候︑誠に時
節到来と奉存候︑随分御出精可被下候以上
傍線部④J⑨に秩父地方の地名が多く出ているので説明する︒﹁赤岩より坂元迄馬道一一相成﹂とある
﹁赤
岩﹂
とは
︑
全寄
玉県と群馬県の境にある赤岩岳のことで︑峠の近くには日窒鉱山の赤岩坑がある︒﹁坂元﹂とは両神山の八丁峠を越えた
河原沢川沿い︑秩父郡小鹿野町坂本のことである︒源内は︑中津川の鉱山から鉱石を搬出するのに︑以下のような中津川
の峡谷沿いの道よりも︑山あいの道を使おうと考えた︒
﹃新編武蔵風土記稿﹄巻之二百六十五︑秩父郡之二十︑O中津川村の項から引用する︒
馬 県 群
﹃宝
船通
人之
寝言
﹄考
東西南北四角八方に︑千山高獄盤回して︑その名あるは高岩・白岩・赤岩な
ど称して︑高く聾へたる厳山あり︑東西に中津川の激流羊腸の如く曲折し︑
︵中略︶両岸は危厳相対して時立し︑或いは幽遼にして進退こ与に谷まるが
如き所あり︑又は藷蔚として仰て日をみざる所あり︑夏秋の聞は水重増りて
橋なければ︑浅瀬をば裳を察て渉るといへど︑其深きに至ては水涯により︑
巨石を踏み︑又は盤岩を伝はりて︑蟹の如くに歩み︑或は折阪を蛇行し︑又
は木を横へたる桟道あり︑或は木を折て梯子となし︑
所あり︑峻阪危径に至ては︑旬旬して藤羅を把て登り︑遼巡して俊枝に鎚り つなぐに藤を以てする
て下るありさま︑他の山国は知らず︑秩父郡第一の難所なり
中津川の鉱山は︑そこがめったに人馬の踏み込まない深山幽谷であったた
め︑開発が遅れた︒たとえ鉱石を得ても︑物資を運ぶのに中津峡谷沿いを往
来することは危険すぎる︒源内は︑むしろ中津川を避けて︑坂元から三山︑
河原沢川沿いに十丁から二十丁おきに受け持ち区域を定め︑
小鹿野から大
奥 秩 父 略 図
淵︑または小鹿野から薄まで川を︑薄から費川方面に山道を通って︑荒川の
本流へつないだらどうだろうか︑まずは赤岩から坂元まで馬道が通ることが
ハ2︶第一なので︑難所︑距離などをよく調査してほしい︑というのであろうか︒
大久根茂氏の﹃秩父の峠﹄によると︑現在の日窒鉱山の索道は︑鉱山J
八丁
峠t
納宮
ハ小
鹿野
町︶
J
須川
︵両
神村
﹀
l秩父鉄道三峰口というルl
トが
あ 九
九四
り︑納宮に索道が通じる以前は坂本の人たちが鉱山に荷物を運ぶ仕事を請け負っていたという︒
源内が秩父滞在中に寄宿した幸島家に伝わる︑﹃秩父郡中津川村幸島家鉱山記録﹄による平賀源内と秩父鉱山のかかわ
りは
次の
通り
であ
る︒
明和二相酉三月廿日江戸神田白かベ町町宅平賀源内火濯布御尋ニ付此所江被参︑井中島丹治・同利右衛門同道也︑
かんすい石杯見立帰府︑又四月廿二日丹治・利右衛門登山︑諸所見分︑金・銀・銅・鉄山・ろくしゃう・明ばん・た
んぱん・磁石等見付︑井金山掘方可初由対談之事︑頗平賀源内云︑先大切ハ大造作︑まづ中切水抜より力を得て其後
大切り掘続之積決定︑中切り水抜三五のかせ附ル︑明和三成年七月廿五日︑平賀源内案内ニ而正木源八様と申御役人
登山
︑諸
所御
見分
札等
吋閉
山司
対側
制調
割判
倒帰
府︑
尤八
月迄
一迫
留也
︑平
賀︑
福内
鬼外
ト云
て神
霊矢
口の
渡浄
瑠璃
の本
︑
幸島宅逗留︑金山・鉄山掘割中作也︑同八月藤井右門・中島丹治鼠先生・高見周吉・宝庇太夫其外皆々登山︑根岸吉
兵衛様九月御出役︑十二月御帰府ニ而冬の内休山︑尤野中丈助様始金掘大勢当所越年︑明和四亥年三月今井忠七様・
萩原文右衛門様御附役ニ御登山︑尤六月御帰府︑跡役横井庄次郎様御登山︑六月より七月廿五日迄御附役︑同七月十
四日より加藤助市様十月迄御附役︑同十月より永田甚左衛門様十二月迄御附役︑当所御越年御小人衆吉田利兵衛様御
内見ニ御登︑同十一日大滝通御帰府︑右明和五子年迄掘候事︑丑・寅・卯三ヶ年は休山︑其間平賀源内長崎へ行︑明
和九辰九月九日江戸より松平周防守様小人衆も御内見ニ御登あり︑又鉄山之事ニ付御代官様より御差紙到来︑其時喜
兵衛・与頭半右衛門召連辰十一月廿六日出府︑同十二月八日帰村致す︑到剥斗制剖岡ヨ剛到倒川割刑剛朝利引剖川町
劃調刷掛州国割削剰﹂コ則刑川副側帯矧欄刷綱川村副側劃割引可制剤州制剤引桐州司併骨州﹄回劉制刷柑伺門剖刑制叫
のベ鉄弐貫目務︑夫より吹所江取掛︑安永三年迄掘稼致し︑同年より九年之間休山︑是ハ目論見人平賀源内大しくじ
り有
之故
也︑
この﹃鉱山記録﹄によると︑明和六年から九年まで三年間金山は休山しているo
だが
︑
だからこそ手紙では﹁是非/\
当年は吹き掛かり申し候﹂と言ったのかもしれない︒金は出ないが鉄はある︒水戸︑仙台は銭を鋳るのに鉄が必要だ︑鉄
山開発の好機だと言うのである︒中津川鉱山に鉄があることは︑明和二年の四月から調査済みだが︑実際に鉄山開発に着
手したのは安永二年からとある︒
域福勇氏は﹃平賀源内の研究﹄の中で︑前掲の岩田コ一郎兵衛宛書簡を安永コ一年のものであると推定されている︒おそら
く﹁鉄山之儀﹂と﹁川船通行﹂とあることから推測されたと思う︒しかし﹁水戸仙台鋳銭最中︑
且江
戸定
座も
ひそ
/\
申
候﹂という一節もあるので︑﹂れを手掛りに︑以下同書簡の年代考証を試みたい︒
江戸の定座について︑﹃貨幣秘録﹄通用銭之事に︑次のように記されている︒
明和二年乙酉七月︑後藤庄三郎に命︑せられ︑亀井戸村にて六千四百坪の地所を賜ひ︑鋳銭定座を立られ︑九月十五
日よ
り吹
方を
始む
︑
一箇年吹高京高貫文ヅ︑と定らる︑安永三年丙午九月に至りて︑鋳銭座を廃せらる︑凡十年︑此
間鉄銭吹高武百武拾六寓寛千五百八拾九貫文余︑重サ各七分六厘余︑按に此間追々に吹高を増されし事あり︑明和四
年了亥より安永二年葵巳迄︑凡七年の問︑長崎にて銅銭を鋳る︑重サ六分︑此吹高覧拾三寓千貫文といふ︑明和四年丁
亥より安永三年甲午九月迄︑京都鋳銭座にて鉄銭を鋳る︑重サ七分七厘余︑此吹高百四拾京高覧千七百拾貫文余︑明和
到相周到剛則判利岡倒利矧州制飼同日﹁伺劃川副剣判断引刻同問問回劃配利引ぺ剖聞矧刷副司副刈割問鞍永劃
辰十月に至り︑凡五年にして其事止む︑
水戸
︑
仙台両藩に鋳銭が許されたのは明和五年の四月から安︑氷元年十月までの三年間である︒﹃天明集成総論録﹄明和
五年四月の条に﹁水戸股御領分︑打続田畑不熟︑其上度々之火災損毛等ニ一印︑農民扶助之御手当︑行届兼候ニ付︑御領分
﹃宝
船通
人之
寝言
﹄考
九五
九六 之産砂鉄を以︑農民扶助として︑鋳銭御申付被成度﹂とある︒しかし皮肉にも︑明和八年には水戸領の農民が鋳銭座を焼
き討ちにするという事件が起きているo
城福氏の指摘通り︑安永三年頃︑水戸藩において鋳銭が行われていたということ は︑﹃吹塵録﹄十二に︑﹁御内密申上候書付/後藤庄二郎/鉄銭凡六拾九寓五百貫文/是者明和六丑年︑水戸殿御領ニ於テ︑
一箇
年鉄
銭拾
高貫
文ヅ
︑︑
七箇年之間吹立之積︑御鋲之者引請候雨︑三箇年余吹立︑猶又安永三年より同六酉年七月迄︑
三箇年余吹立有之候﹂とあることによって確かである︒これ以前の水戸藩での鋳銭発行は︑﹃水戸紀年﹄
一に
︑寛
永十
二 年から十七年まで寛永通宝が︑﹃三貨図案﹄巻五︑銭之部によると︑鉄銭の久字銭が明和四年から八年まで︑
久二銭が安
永初年に鋳られている︒
だが︑仙台落の場合︑安永三年には貨幣の鋳造は行われていない︒﹃仙台貨幣志﹄による︑寛永から天明間の鋳銭発行 年月︑銭の種類︑鋳銭場︑参考資料は次のようになる︒
寛永十三年J
寛永十五年︑銅銭︑栗原郡三迫︑﹃獅山公記録﹄
一手
保十
三年
一月
l字保十七年十二月︑銅銭/裏仙字/異字/無背丈︑牡鹿郡石巻︑﹃新撰寛永銭譜﹄
一万
文二
年l
延享二年︑銅銭/仙字文/無背丈︑石巻︑﹃吹塵録﹄
明和七年J
明和九年十月︑鉄銭/裏千字︑石巻︑﹃牧民金鑑﹄
安永四年三月J
安永六年︑鉄銭/他領出禁止︑
石巻
︑﹃
宮城
の研
究﹄
天明四年七月l
天明八年︑鉄銭︵撫角銭︶/仙台通宝/領内限通用︑石巻︑﹃吹腫録﹄
このうち﹃伊達家記録﹄﹃東藩史稿﹄には︑明和五年六月から七年間一年毎に十寓貫砂鉄銭を鋳造したとある︒だが︑終 了時期について︑同じ﹃伊達家記録﹄に﹁安永一万年十月幕府令あり鋳銭を廃す﹂とあり︑﹃貨幣秘録﹄の記述と一致する︒
ここで少し当時の貨幣制度について︑説明しておきたい︒江戸時代の三貨体制では金・銀・銭の独立した通貨が使われ
た︒
この
うち
主に
戸江
︑
東日
本は
金︑
上方
では
銀を
遣い
︑ 銭は全国共通で用いられたのだが︑
さらに岡沼意次の時代に
は︑しばしば新しい貨幣を造っている︒例えば︑普通︑銀貨は秤量貨幣と言って︑含まれる銀の量を量って貨幣価値を決
が貨幣価値になる︒ める︒しかし︑明和二年に発行した明和五匁銀は︑銀をいちいち量らず︑表に書き入れた五匁という重さの単位そのまま
こういうものを表価貨幣という︒たとえば金一両は銀六十匁にする︑と幕府が公定相場を決めた場
合︑五匁銀は十二枚あれば一両の価値と同じに用いる︒安永元年の南錬二朱銀は︑銀で造りながら金の単位をつけ︑同様
に﹁以南錬八片換小判一両﹂と表に書くことで︑定まった価値をもっ貨幣を造った︒これは︑金と銀の役割を足して︑関
東と関西の通貨を一元化じようとしたものである︒
﹃宝船﹄の本文に﹁辻駕をやとひ極楽の抜道まで四文銭一本で﹂とあるのは︑明和五年の真鎌四文銭を指す︒明和の初
期には銭が不足し︑価値が高くなりすぎていたので︑四︑五年頃から各地で銭の鋳造を進めた︒真鍬四文銭は一枚で四枚
分の価値があるわけだから︑銭不足には速効性がある︒しかし必要以上に銭相場は下がり続け︑
つい
に安
永期
には
︑
極
楽通宝の銭を満とふかせ相場はいつでも両に六七貫﹂と﹃宝船﹄でいうように︑銭の価値が下がりすぎるようになったの
であ
る︒
﹃続談海﹄という資料は︑幕府の正式な記録ではないが︑幕府を中心にした出来事︑
に書いたものである︒この明和五年の条に および江戸の評判︑事象を年代順
本草薬草改平賀源内武州秩父郡にて鉄山を見立て︑新銭を願い鋳出し候に付き︑世上銭相場下がり︑秋頃は両に四貫
余りにて︑暮れに及び候ては四貫五百文になり候
とある︒つまり︑平賀源内が秩父に鉄山を見つけ︑新しく鉄銭を鋳造したので︑銭の相場が一両四貫から四貫五百になっ
た︑と一一一一う︒このことから三田村鳶魚氏は﹁風来山人の凶宅﹂の中で︑明和二年の亀戸鉄銭の鋳造が平賀源内の発案によ
﹃宝
船通
人之
寝言
﹄考
九七
九八 るものだと言われ坊やだが︑域福勇氏は︑﹃続談海﹄の記事は全く信用に値しないとしている︒しかし次に記す︑田沼意
次の貨幣改鋳政策︵O︶と︑平賀源内事項︵ム︶年譜 γ見ると︑源内が鉱山開発に乗り出した頃と︑田沼意次の貨幣改鋳
明和元 政策の時期とが一致しているように思われる︒
月
ム秩父中津川村両神山にて石綿発見︒
明 和 同 明 和
明和四同
明和五 同
明和六 同
明和七
明和
八
安永元同
安永 同
九 月 七 月
五月
七 月
十一月四
月
六月
十 月 秋
九 頃
月 ー ト 月 春頃
月
ム秩父中津川村に再び石綿を求める︒O明和五匁銀の発行︒江戸亀戸で鉄銭を鋳造︒
ム秩父中津川にて金山事業着手︒O
鉱山
開発
奨励
︒
O伏見鋳銭座で鉄銭鋳造を始める︒
O五匁銀の事︑相場によらず金一両に十二枚の通用となる︒O水戸・仙台両藩に三カ年の鋳銭を許す︒O亀戸にて鋳造の真鎗四文銭の通用始まる︒
ム中津川金山閉山︒
ム阿蘭陀翻訳御用で長崎遊学︒
ム多田銀・銅山の水抜き工事︒金峰山試掘︒
ム長崎遊学から大坂を経て江戸に戻る︒
︒南錬二朱銀を発行する︒
︒銭相場下落につき水戸・仙台の鋳銭を中止︒
ム中津川鉄山事業に着手︒
同
安永三 同
安永四 同
安永五安永八
同
六月
九月
春 頃 九 月
十一月
月
十二月 ム秋田藩に招かれ封内の鉱山調査︒O鋳銭定座・伏見鋳銭座の吹き高を減らし︑銭相場の引き上げをはかる︒ム中津川鉄山事業失敗︒休山︒O銭相場下落につき江戸・伏見の鉄銭鋳造を停止し︑真鈴銭の鋳造額を半減する︒ム荒川通船工事成功︒秩父木炭の江戸積み出しをはかる︒ム菅原櫛・金唐草販売︒
エレ
キテ
ル完
成︒
ム﹃金の生木﹄成る︒
ム獄
死︒
つまり︑前出の岩田三郎兵衛宛書簡は︑明和五年とすると月があわず︑安永二年では水戸︑仙台両藩の鋳銭は中止してい
るので︑源内の記述とあわず︑安永三年では仙台藩の鋳銭状況とやはり符合しない︒とくに安永期では︑既に銭相場が下
落しているので︑鉄銭鋳造を持ち出すのは︑商人相手に逆効果である︒源内本人は明和七年十月十五日から長崎に行き︑
そのため鉄山開発は安永二年まで延期している︒以上のことから︑やはり明和六年か七年の書簡ということになるのでは
ない
だろ
うか
︒
また︑安永八年二月︑死の直前に成立した風来山人の戯文﹃金の生木﹄に︑大伴家持の歌を引用した次の部分がある︒
み初て花咲実のりければ︒
さ き そ め せ う む て ん び ゃ う み ち の く お だ
此木に花の咲初しは︒人皇四十五代聖武天皇天平元年︒陸奥の小田といへる山に︑
た め し と て が う せ う ほ う
御代の例述︒年号に盛宝の文字を加へ給ふ︒
おほとものやかもちきゃう
大伴家持卿︒
目出度
こ が ね
すベらきの御代栄んとあづまなるみちのく山に金花さく
﹃宝
船通
人之
寝言
﹄考
九九
一
OOゑ い よ き ん く わ
と︑詠じられたる和歌に寄り︑山に金華の名ありとかや︒
万葉集にある詞書には﹁陸奥田より金を出せる詔書を賀く歌一首
短歌
を井
せた
り﹂
とあ
り︑
天平二十一年二月︑陸奥
国に黄金が出て︑大仏建立を計画されていた聖武天皇が大変お喜びになり︑詔書を下されたことにちなんだ歌である︒
﹁陸奥の小田﹂は︑現在の宮城県遠田郡涌谷黄金迫にある小山であり︑﹁山に金華の名ありとかや﹂は︑宮城県牡鹿半島
の東南沖︑金華山を指す︒
前掲の源内の手紙により︑仙台鋳銭方から金子を受け取ったことがわかる︒秩父鉱山の開発にあたって︑仙台藩の経済
的援助が行われたらしいということは︑安永四年十一月廿四日付︑平賀権太夫宛書簡に
尚々仙台へも参呉候様御頼御座侯得共中々当時参兼侯是も段々御金等被下候故其力ニ而秩父致成就候其外とて御咽も
御座侯得共難尽筆紙侯
とあることから推察できる︒源内自身も仙台落に招かれ︑鋳鉄を指導していたことが︑年不明四月十九日付︑平賀権太夫
宛の書簡に書かれている︒
仙台様御願筋も去冬致成就鋳鉄等も相済申候兼而急度御礼御座候筈之御約束ニ御座候故相楽罷在侯
鋳銭は基本的に領内産出の原料を用いることを条件に許可されるため︑自国の鉱石を精錬する必要があったと思われる︒
同じ﹃金の生木﹄に︑
み む す ピ い す う こ っ ぶ
νち
ゃう しき
実を結ぶに大数あり︒花びら二十片にて小粒の実を一粒結び︒十五片にて一粒結ぶ︒是れ定式の数也しが︑近頃
め く ら せ ん に ん お こ な う づ へ き い そ く
にいたりては︒盲仙人の法を行ひ︑此花わっか三片にて︑一粒の実を取さえあるに︑春の卯杖の催促に︑実かなら
め め く ら だ
Lき
せ め ど み と も し び き へ つ よ さ か ん お う
ずは芽をかくぞと︑盲叩に噴はたり︒一月に二度︑実のらぜけるが︑燈消んとして光り強く︒物壮なる時は老と
い っ た い う へ て べ ら ぼ う か ら し ま す へ
いへるごとく︒一体植手の痴徒が︒実を取事に目がくらみて︒ついに元木を枯して仕廻ふ︒これ末を知て本を忘るL
た わ け
の白
痴な
り︒
これは明和安永期を境にして︑銭相場︑か下がりすぎたことへの痛烈な風刺である︒さらに︑自分が手がけた鉄銭という
金のなる木は︑幕府勘定方のむやみな貨幣改鋳によって枯れてしまった︑と言っているようにも思われる︒平賀源内が︑
明和二年の亀戸鉄銭から関係したのか︑それとも仙台藩の鋳銭のみか︑残念だが今の段階ではっきりしたことは言えな
ぃ︒しかし少なくとも源内の目指した鉱山開発は︑貨幣鋳造と全く無関係ではなかったように思う︒また︑先に紹介した
東博本の﹃宝船﹄で︑行聞を切り取った部分︑すなわち﹁此の如くすれば銭金くさって捨所に事を欠く︑是通の極意にし
て万代無益の道なりと出放題やってのければ﹂の右側には︑銭相場下落に対する批判が書き込まれていたのではないだろ
うか
︒
四
﹃宝船﹄は白序にあった通り︑安永十年正月刊行とみられる︒むしろ問題にしたいのは︑作中主人公に戒名をつけてや
るという︑その終わりかたである︒モデルの平賀源内が獄死したのは︑安永八年十二月十八日とされる︒資料によっては
安永九年二月という説もある︒なぜ異常な死に出会ってまもなく︑知り合いであったらしい人物が︑このような作品を発
﹃宝
船通
人之
寝言
﹄考
。
。
表したのか︒当然そこには源内に対する追悼の意味あいが含まれていたと思われる︒先に酒落本﹃通人鬼打豆﹄︑﹃翻草盲
目﹄と︑﹃宝船﹄が一つの続き物のような作品であると述べた︒最後に︑以上三作の成立について考えてみたい︒
﹃通人鬼打豆﹄は﹃酒落本大成﹄︵第十巻︶に中村幸彦氏蔵本の翻刻・解題がある︒n
−ご
−
J︑中jふ/可l︑国書総目録に東京国立博
物館蔵﹁鬼打豆﹂と記載されているものは︑山東京伝の﹃唯心鬼打豆﹄︿ト3107
︶で
あり
︑
別本である︒都立中央図
書館加賀文庫には﹃通人鬼打豆﹄︵函
12
11
0︶
と︑
﹃翻
草盲
目﹄
︵8376︶ があるが︑いずれも刊記︑奥付がない︒
﹃通
人鬼
打豆
﹄の
﹁発
端﹂
は︑
主人公竹部源曹の出生について︑
本文
は︑
源内の殺傷事件をほのめかし︑﹁八二﹂と閣魔
王に謀られて地獄に落ちるまでを︑有名な浄瑠璃を題材にしてまとめている︒解題にあるように
﹃通
人鬼
打豆
﹄
の成
立
は︑本文の終わり近くに﹁ことしの土用に降りつづきしおたすけ雨﹂とあるのが︑﹃武江年表﹄の﹁安︑氷九年庚子O
六月
︑
大雨降り続き︑二十六日より江戸近在︑利根川荒川戸田川洪水︒村々人家を流し︑永代橋新大橋落つる︒助け船を以て此
の難を救はせらるよという記述にあたる︒つまり︑安永九年六月以降の成立と考えられる︒﹃通人鬼打一旦﹄の最後は﹁是
より第ごはんめカチ/\/\/\﹂と︑歌舞伎の析の音を思わせて終わる︒そして︑続く﹃翻草盲目﹄は前述の通り︑地
獄に落ちた﹁腹が蛮内﹂を︑閤魔王が﹁弁舌に一言Lまかされぬやうにと﹂待ちかまえるところから始まるのである︒
﹃翻草盲目﹄は︑安永十年の﹃宝船﹄の前編にあたるから︑刊行も前年の安永九年と考えられていた︒しかし︑冒頭に
﹁李氏の母或る夜の夢に︑大白星懐−一入と見て︒李白を産ミ金銀星が出ると︒大星由良之助が当たる事︒世上万人の知る
所也︒﹂とあるのが︑﹃武江年表﹄の安永九年の条の記述﹁七月時分︑金銀星といふがあらはると評判す︒其の星を見る
に︑金星といふは心宿︑銀星といふは太白星にて︑異なるにあらず︒﹂と照応する︒刊年についても︑既に井上隆明氏が
の中で︑都立中央図書館特別買上文庫本﹃菊寿草﹄︵特
612
/1︶
出版目録に書名が見える旨の報告をされている︒版元は本屋清吉こと狂歌師普栗釣方である︒つまり︑﹃翻草盲目﹄は安 ﹃江戸戯作の研究|黄表紙を主として|﹄
の刊
記の
永九年七月以降の成立︑十年︵一七八一︶正月刊行と思われる︒安永十年は四月二日改元して︑天明元年になる︒井上氏
は先の﹃通人鬼打豆﹄も﹁鬼打豆からして︑節分に当てたと思われる︒文中に安永九年の子年出水が出るので︑天明一万年
正月十一日頃の節分向き︑
成立し︑安永十年正月には刊行したと考えられる︒それは︑ つまり天明元年新春の板行だろうo
﹂と
され
てい
る︒
つまりこのコ一作はいずれも安永九年中に
ほぼ平賀源内の一周忌にあたる︒
﹃宝船﹄は︑前述二作を加えた完結編を意図した作品である︒文末の﹁大尾﹂は入木の可能性が高いと思われるが︑こ
れは︑空来山人に﹁極楽開山大通如来保口火外居士﹂という戒名を与えるのがこの作品全体の目的であったからであろ
う︒平賀源内の戒名は﹁智見霊雄居士﹂という︒武士でありながら罪人のまま死んだため︑戒名に院号がつかない︒
﹃宝船﹄の序文で︑立派な戒名を得た﹁保口火外﹂は︑友人皆に自分が成仏したことを伝えてくれるように言うのであ
る︒その日が﹁安永辛丑の目出たい比﹂である︒源内は﹁刑余の身として﹂
一度
は地
獄に
落ち
た︒
しか
し︑
せめて虚構の
中だけでも明るくしゃれて︑極楽往生させてやりたい︒そんな門人達の願いをこめた作︑そう考えられないだろうか︒
五
有名
人の
死後
︑
モデル小説が出ることは珍しくない︒例えば︑西鶴を主人公にした﹃西鶴冥土物語﹄や﹃西鶴伝授車﹄
という作品がある︒しかし︑本稿で取り上げた﹃宝船通人之寝言﹄のような︑平賀源内をモデルにした酒落本系作品の一
部は︑明らかに生前から本人をよく知っていて︑同時代を生きた者の手によるものである︒これは︑実記と称しながら寛
政の改革におもねった﹃平賀鳩渓実記﹄とは決定的に違う︒事実︑源内の周囲には平秩東作や大田南畝という文壇の大立
者が集っていたし︑源内の遺稿集﹃飛花落葉﹄の序肢を寄せたメンバーを見ても︑役者はそろいすぎるほどそろってい
る︒今後は︑具体的な作者の特定を含めて︑この種の作品を丁寧に読んでいく必要があると思われる︒
﹃宝
船通
人之
寝言
﹄考